モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No24:プリングルが採取したサルビア と テキーラ その6

2010-11-11 08:49:30 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No24 
プリングルの名前を冠したサルビア・プリングレイを採取したテキーラ地方はテキーラの発祥の地だった。その歴史も楽しめる。

17.Salvia pringlei B.L. Rob. & Greenm. (1894). サルビア・プリングレイ

(出典)Robin’s Salvias


(出典)plantsystematics

プリングルが1893年10月2日にメキシコ、ハリスコ州グアダラハラの近くに位置するテキーラの発祥地で有名なテキーラの峡谷の崖下でこのサルビアを発見・採取した。
彼のスポンサーでもあるハーバード大学のグレー植物標本館の館長に1892年に就任したロビンソン(Robinson, Benjamin Lincoln 1864-1935)が、プリングルの名前を取りサルビア・プリングレイと命名した。

ロビンソンの前任者ワトソン(Sereno Watson 1826-1892)までは、プリングルは、ハーバード大学から年俸などの契約があったが、ワトソンの死でこれが反古にされ、ロビンソンからは栄誉だけもらうことになった。プリングルの経済的に厳しい時期の始まりだった。

もう一人の命名者グリーンマン(Greenman, Jesse More 1867-1951)は、ハーバード大学を卒業し、ベルリン大学で博士号を取得した植物学者で、ミズリー植物園の学芸員、のちにワシントン大学植物学の教授となった。

このシリーズNo20 で掲載した12.Salvia iodantha Fernald(1900). サルビア・イオダンタと類似ではないかという説もあるが、確かに似ている。

テキーラの街の歴史
ところで、プリングルはこのサルビアを「テキーラ」で採取している。

テキーラの街は、1530年、クリストバル・デ・オニャーテ(Cristobal de Onate)がこの地を征服し、修道士フアン・ガレーロ(Juan Galero)率いるフランシスコ会修道士が、チキウイティージョ(Chiquihuitillo)から連れてきたインディオ達と一緒に今日のテキーラに定住し、1538年にはテキーラは村に発展した。

というのがテキーラの街のスタートだが、ついお酒のテキーラが気になり脱線して書くことにした。

テキーラ誕生の経緯
ジン・ウオッカ・テキーラは、無色透明な蒸留酒でホワイトリカーとも呼ばれる。焼酎もこの仲間に入るが、単独で飲むと、安くて、酔いが速いのでヘビードリンカーと若者に支持されるお酒となっている。
アダルト向けにはカクテルのベースとして使われ、映画・小説の脇役として欠かせない。テキーラをベースにしたマルガリータなどはその代表だろう。グラスの縁をライムで湿らしたところに塩を塗り、テキーラ+オレンジ風味のホワイト・キュラソー+ライムジュースをシェイクしたカクテルだが、量を飲まない方が良い。
ちなみに、同じ組み合わせでウオッカベースのものを“カミカゼ”というので、ホワイトリカーベースのカクテルは、特攻精神で飲みすぎると地雷原を千鳥足でさまよい自爆しかねない。

テキーラの誕生は、1500年代末のスペインの税金問題だった。
1521年にアステカ帝国を亡ぼしたコルテスは、スペインから持って来たブランデーが底をつき食習慣での差し迫った問題に直面した。そこで、1521年以降1525年頃の間に、スペインからブドウの苗木を輸入し、メキシコでのワインの生産に乗り出した。
1500年代末にはスペインからワインを輸入しないでも良いくらいに自給自足が出来るようになったという。

ワインの輸出関税が入らなくなって困ったのはスペインの国王フィリップ二世で、1595年に新しいブドウ園をメキシコ及びチリなど他のスペインの植民地に植えることを禁止した。

ヨーロッパの人々にとって、水は雑菌に汚れていたので水を飲む習慣がなく、アルコール度の低いワイン・ビールは食習慣として定着していたので植民地としては困った事態になった。

そこで目をつけたのは、スペイン人が侵略する前からあった地酒のmezcal(メスカル)”だった。
メスカルは、ハリスコ州グアダラハラから北西65㎞のところにあるテキーラ周辺が原産の植物、“blue agave”を原料として発酵させて作るドブロク(プルケPulque)を一回蒸留させたものだ。
原料となるブルー・アガベの学名は、アガベ・テキーラナ(Agave tequilana)で、和名ではリュウゼツラン属(竜舌蘭)なので、サボテンからテキーラを作ってはいない。

(写真) アガベ・テキーラナ(Agave tequilana)

(出典)cactus-succulents

スペイン人は、アルコール度数が低く不純物が多い発酵酒を蒸留させて不純物を取り除いて飲むことを実行していたようで、この蒸留の技術はスペイン人が自ら持って来たと思っていたら、フィリピン人が持ってきたようだ。
不思議なことに、1500年代中頃には大型の軍艦・商船として使われていたガレオン船でチャイニーズ・インディアンと呼ばれたフィリピン人がアカプルコ等メキシコ沿岸に来航し商取引を行っていたという。

確認してみたら別に不思議なことではなく、メキシコを征服したコルテスは、次の目的である太平洋を西回りで横断しインドネシア東部にある香料諸島(モルッカ諸島)に到達させるためにアルバロ・デ・サアベドラ探検隊を1527年に派遣した。
サアベドラは、香料諸島のティドーレ島に到着し、その後メキシコに戻る試みを二回したが風に乗ることが出来ず失敗して途中で亡くなった。

コルテスがメキシコを征服していた同じ頃、世界一周の航海をしたマゼランが1521年にフィリピンに到着したが、実際の植民地化は、1565年にセブ島に植民地の基地を作ったときから始まる。この帰りにフィリピンからメキシコへの航路を発見し、フィリピン、メキシコのアカプルコ間でのガレオン貿易が始った。

このガレオン貿易の船に醸造酒を蒸留する機器があった。というのが新しい説のようだ。

(写真)ステンドグラスに描かれたスペインのガレオン船

(出典)dmstainedglass

この頃、メキシコ、ハリスコに到着したスペインの貴族Don Pedro Sanches de Tagle, Marquisが、メスカルワイン(mezcal wines)を生産し始め、1600年頃に蒸留器を導入してテキーラの大量生産工場を初めて作り、今日のテキーラの基礎を作った。
1608年には出荷に対しての課税がされた記録があるのでテキーラの消費が拡大した証拠でもあろう。
プリングルがメキシコ探検をしていた時期でもある1885年にはアメリカにも輸出されるようになり、メキシコの主要輸出品まで成長する。
世界的な普及は1968年メキシコオリンピックの時のようだ。そういえば、この頃38-40度ある高アルコールのテキーラをがぶ飲みして酔っていたことを思い出した。

プリングルの功績を忘れるほどお酒の歴史は面白い。ということにいまさらながら気づいた。脱線を愉しむことにしよう。


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2 コメント

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びっくり! (きよみどす)
2010-11-13 20:04:36
サルビアの美しさも素敵でしたが、脱線したテキーラの話には、またまたびっくり!
聞き及んでいた話とはずいぶん違うものですね。
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きよみさん (キャスパー)
2010-11-13 21:08:35
そうですね。テキーラは、サボテンから作っていたとばかり思っていました。
ガレオン船貿易も知ってはいましたが、フィリピン人がメキシコまで行っていたとは驚きでした。
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