横浜に住む同級生と合流して赤レンガ倉庫に行きぶらぶらして、ゆっくりランチやお茶をして過ごしました。
私は途中抜けしてせっかく来た横浜の中華街へささっとお買い物にも行きました。
質のよさそうな生薬のお店があったので、少しずつ買って帰りました。
これでチャングムごっこができます
茶器のお店にも行ったけど、ちょっと残念な感じであぁ~..台湾行きたいって頭をよぎってしまいました。
そんなこんなで気の許せる同級生との旅は無事楽しく決行でき、来年もと希望を持って、またそれぞれの日常に戻りました。
スポーツ大会のあとは一人で東京に一泊しました。
日本橋のホテルの傍で「べったら市」をしていて、日本のB級グルメや台湾ビーフン、中国風おやきや水餃子、インド料理のチキン、韓国料理のトッポギ、チャプチェなどアジアンちっくな屋台がたくさん出て賑わっていました。
私の選んだ夕飯、チャプチェです。
翌日は、新幹線を名古屋で途中下車し雨の中、カッパを着て熱田神宮へ行きました。
熱田神宮は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)が祀られている格式の高いお宮なのです。
樹木の爽やかな香りと鳥の声が心地よく、なんとも気持ちよい場所です。
大雨なのに、七五三参りや古武道大会の催しものがあり、外周にはたくさんの人出でした。
境内・境外には本宮のほか、一別宮、十二摂社、三十一末社が祀られています。
この「清雪門」は開かずの門となっています。天智天皇7年、新羅の僧が神剣を盗み出す時に通った門で、以来不吉の門とされ、神剣が戻った際に閉ざしたと伝えられています。内側が気になり、表から覗いたり裏から覗いたりしました
「こころの小径」からは熱田神宮で最も神聖な場所となり、写真も携帯電話も禁止です。
心静かにご参拝くださいと書いてありました。
少し進んで清水社があり、楊貴妃伝説があります。
そして今年は創祀1900年の慶節で、本宮の一番奥にある今まで柵で閉ざされていた一之御前神社へ行けるようになっていました。
雨のおかげで、この時は一人静かにお参りすることができました。
頭の中は空っぽで何の雑念も浮かばず、ただ歩いているという不思議な感覚でした。
宝物館には、6千余点もの奉納品が収蔵され、毎月展示が入れ替えられています。この日の展示では徳川家康の書状が印象に残りました。
なかなか名古屋に行く機会はないので、今回行ってよかったよい旅になりました。
実は古事記をほとんど知らなかったけど興味が湧いてきました。おそっ!
長崎ツアー[二日目]
OPの柳川下りとうなぎのせいろ蒸しをパスして「出島」を散策しました。
鎖国時代に西洋に開かれた唯一の窓口となり、貿易・文化が伝えられた場所です。
周辺のお店のあちこちに飾られた「さげもん」が、とっても華やかでした。
願ってもみなかったチャンス到来
友人は九州国立博物館のボストン美術館展へ。私は大宰府政庁跡へタクシーで急ぎました。
ここが奈良・平安時代を通じて九州を治め、我が国の西の守りとなり、外国との交渉の窓口として重要な役割を果たしたところです。
大伴旅人・大伴坂上郎女・山上憶良・大伴家持などの多くの宮廷歌人が都から赴任した場所です。たくさんの万葉歌がうたわれました。
大伴旅人はこの地で妻を亡くしました。任務を終え都へ帰る途中の鞆の浦で詠んだ歌は、胸を打ちます。
「我妹子が見し鞆之浦の天木香樹(むろの木)は常世にあれど見し人ぞなき」
懐かしい佐保の家に帰っても、寂しさはひときわだったようです
「我妹子が植えし梅の木見るごとに心むせつつ涙し流る」
しばしタイムトリップをし,我に返った私はツアーを抜け出した事を思い出し、近くの駅まで走りタクシーを拾って大急ぎで集合場所へ向かいました。
実は出発前日に急性胃炎になり、点滴を打ってツアーに参加していました
美味しいものは食べれなかったけど、私にとっては最高のサプライズつきの旅行になりました。
博多の駅から歩いて行ける距離にたくさんの史跡がありました。
ホテルを出てすぐのところにあった住吉神社は、1800年の歴史を持ちご縁結びの神様としても有名だそうです。
「渡唐口」は唐へ渡る船の発着場所でした。ここから遣唐使や商人が唐へ渡ったとされています。
石碑には平清盛がつくった「袖ノ湊」という文字が。
中洲と天神辺りは当時は海だったようです。
「水鏡天満宮」は大宰府に左遷された菅原道真が憔悴した自分の姿を川面に映したことが由来となっています。
櫛田神社は奈良時代の創建といわれる博多の総鎮守。博多祇園山笠の奉納神社です。
他にも歩いていると歴史的な建造物に目がとまり、立ち寄るところがたくさんありました。
なんだか海外旅行をしたような二日間でした。
近畿に行くのとかわらないほどの距離なのにどういうわけか西に向かうと、遠くへ行く気がします。
いつか奈良時代の万葉人が赴任した大宰府辺りに行ってみたいと思いました。