Unseasonable Shore

映画の感想を中心に、普通の生活をおくる30代ゲイの日々感じるできごと。

Lion25年目のただいま(ネタバレ注意)

2017-04-14 13:03:30 | 映画
今回は映画「Lion25年目のただいま」について。



アカデミー賞でもノミネートされていましたが、予告編を観てとても観たくなりました。事実に基づいた話ということで、この男の子に何かあったのかをとても知りたくなったのです。


ここで内容を・・・




インドのスラム街。5歳のサルーは、兄と遊んでいる最中に停車していた電車内に潜り込んで眠ってしまい、そのまま遠くの見知らぬ地へと運ばれて迷子になる。やがて彼は、オーストラリアへ養子に出され、その後25年が経過する。ポッカリと人生に穴があいているような感覚を抱いてきた彼は、それを埋めるためにも本当の自分の家を捜そうと決意。わずかな記憶を手掛かりに、Google Earth を駆使して捜索すると……。




と書いてあります。



前半はサルーが兄の仕事についていきたくなり、ちゃんと仕事できるって言っていたのに、夜中の仕事だから寝てしまって。兄は仕方なく駅のベンチに寝かせて、「戻ってくるまでそこにいなさい」と言うのですが、誰もいないホームで目覚めたサルーは不安になり、ホームに入ってきた回送電車に乗ってしまい、そこから1600キロ離れた街へと行ってしまうのです。

ここから、サルーの人生は一変してしまいます。



インドでは、子供の失踪や行方不明が年間8万人とも言われているって後で出てくるくらい数が多く、子供だけで親がいない状態がさほど不思議ではないということ、そして、1600キロ離れた街の周辺でしか、サルーの両親を探す新聞広告がでなかったこと、サルーがうろ覚えだった故郷の町の名前が間違っていたこと、サルーのお母さんは文盲だったこと、本当にすごい偶然が重なってサルーは自分の町に帰ることができなかったんです。

スラムドックミリオネアの時にも、ストリートチルドレン達を使って商売している悪い大人が出てきましたが、当然この作品でも出てきます。でも、それをなんとかうまく切り抜けるサルーの生きるための本能みたいなものを感じました。

あとサルーは本当に運が良く、オーストラリアの養父母のもとにいくことができました。多分こんなに恵まれた環境に行く子供たちはすごく少ないのであろうと思います。

後半は青年となったサルーが自分が迷子になった場所から自分の故郷を探すストーリーとなります。

観終って、親の子を思う気持ちということは血のつながりがあること、無いことは関係が無いのだと改めて知らされた思いでした。映画のラストに本人たちの映像で。生みの親と育ての親とサルーとがインドで出会うというシーンが入るのですが、本当にそこには二人のお母さんが抱き合いサルーのことを本当に愛しているのだと感じることができました。

あと、子役のサニーパワール君がすごくかわいいんですよ。そして、うまい。
養母を演じたニコールキッドマンも自分のオーラを消して、ひかえ目に脇を固めております。

興味がある方はぜひ、ごらんになってみてください。


ここからはネタバレ(ストーリーに触れている)です。ご覧になっていない方は読まないでくださいね。















自分の迷子になった場所を探すサルーはそのことを養父母に隠していました。それは母親を悲しませることになるからと。でも、しだいに自分の殻に閉じこもるようになり、大学も辞め、支えてくれていた恋人とも別れ、孤独になっていきます。



サルーの兄弟として、引き取られたマントッシュはパニックになると、自らの頭を壁などにぶつける自閉症傾向をもっていて、サルーはマントッシュのことも親身に接してくれる養母にひどいことをするという理由から、あまり好きにはなれないという状態でした。

そこへ、養母の体調が悪くなったと連絡が入り、駆け付けるサルー。そこで養母がどうしてインドから子供を引き取ることにしたのかを聞くことに。それはサルーが想像していたのとは全く違っていたのでした。この養父母は自分たちの子供を作ることができないから、養子をもらったわけではなく、自分たちの子供を作るより、一人でも多く恵まれない子供たちを救いたいとの思いからだったのです。それは養母が自分の父親から虐待を受けていたとき、幻のように肌の黒い男の子が現れたことから、将来は養子をもらおうと思っていたのです。そして、夫もそのことに賛成してくれたから、サルー達を養子にもらったのだと。だから、マントッシュにもやさしくしてあげてほしいと。

サルーは自分が暮らしていて、母と兄がいる町を見つけてそこに行ってもよいかとを養母に尋ねます。養母は「もちろん、行ってきなさい。そして、立派になった姿をお母さんにみせてきなさい」と告げます。

自分の暮らしていた町についたサルー。暮らしていた家はヤギの小屋になっていました。やはり遠くに越してしまったのかとあきらめかけたときに、英語を話す男性に「自分は昔ここに住んでいたサルーで、母と兄、妹を探している」と語ります。すると、こっちについておいて、と手招きする男性。ついていくと、仕事から帰ってくる女性たちの中に母と妹がいました。母親は一目見て自分の息子だとわかり、涙を流して抱き合います。
母はいつかサルーが帰ってくるかもしれないと、故郷から離れることはなかったのです。

ですが、兄は残念ながら、サルーが回送電車に連れていかれた日に、電車に轢かれて亡くなっていました。

自分の暮らしていた町の名前も間違っていたのですが、実はサルーという名前も間違っていて、実は「シェル―」でそれが「ライオン」を意味するから、このタイトルだったと最後にわかります。

原作者のサルーさんがこの映画を観て、自分が体験したことがそのまま映像になっていて、多少の脚色はあるもののその再現性は素晴らしいと言っていた記事を読んで、この映画がすごいことがよくわかりました。

日本に生まれた僕たちには想像もできないくらい過酷な環境で暮らしている子供たちがいることを、リアルに感じることができ、親の愛情は不滅であると改めて感じる、良い映画でした。





ムーンライト(ネタバレ注意)

2017-04-09 14:51:05 | 映画
今回は映画「ムーンライト」について。





アカデミー賞の作品賞に輝いた作品だということと、ゲイの男性をとりあげていることなどからとても興味がありました。


ここで内容を・・・




マイアミの貧困地域で、麻薬を常習している母親ポーラ(ナオミ・ハリス)と暮らす少年シャロン(アレックス・R・ヒバート)。学校ではチビと呼ばれていじめられ、母親からは育児放棄されている彼は、何かと面倒を見てくれる麻薬ディーラーのホアン(マハーシャラ・アリ)とその妻、唯一の友人のケビンだけが心の支えだった。そんな中、シャロンは同性のケビンを好きになる。そのことを誰にも言わなかったが……。



と書いてあります。



観終って、「人にやさしく接しようと思う」映画だと感じました。ケヴィンとシャロンの関係フアンとシャロンの関係、それぞれがとても素敵で暖かい気持ちになります。

映画は3部構成になっていて、1部は幼少期、2部は少年期、3部は青年となったシャロンなんですが、このそれぞれのシャロンが別人なのにもかかわらず、同じ一人の人間に見えるところがすごくて、しかもこの3人は撮影中に一度もあったことが無かったようなのです。監督が予定調和になるのを避けるためと言っていました。内面を掘り下げていくことで共通する感情を3人から引き出した監督の手腕がすごいです。

シャロンの母親を演じたナオミ・ハリスもすごくうまいと感じました。ドラッグにおぼれながら、母親としての葛藤を感じ、シャロンに冷たくあたり、そうかと思えば急にやさしくなったりと、シャロンにとってみても戸惑うようなことをしているこの母親の姿が非常にリアルでした。

あと、ウォンカーワイ監督のゲイ映画「ブエノスアイレス」にオマージュを捧げているところもあり、かなり影響されたと監督が言っているようです。

人種、貧困、ドラッグ、LGBTQ、いじめ、様々な問題をうまい音楽の使い方と、切ないストーリーにのせて描いている素晴らしい作品です。

この手の映画が好きじゃないかたも多いかもしれません。つまらないと感じる方もいると思います。でも、もし、興味があればご覧になってみてください。



ここからはネタバレ(ストーリーにふれています)です。ご覧になっていない方は読まないでくださいね。僕もこの映画はほとんど予備知識なく観ました。絶対そのほうがよいです。































2部の少年期のところで、ケヴィンとシャロンは海辺でキスをしてシャロンはケヴィンの手で初めて男性を知ることになります。1部で様々なことを教えてくれたフアンが亡くなってしまっていて(理由はわかりません)、不安を常に抱える状態になったシャロンにとって希望の光になったのです。でも、そのケヴィンにシャロンをいつもいじめていた学生が「シャロンを殴れ」と命令します。命令に従わないとケヴィンもいじめられてしまうから、ケヴィンはシャロンを殴ってしまうのです。そして、このいじめっ子達にも激しく暴行をくわえられます。この事件のあと、シャロンはこのいじめっ子を椅子でなぐり、殺人未遂で刑務所にいくことになるんです。
これは、自分の復讐というよりは、大好きなケヴィンをつらいめに合わせたことに対しての復讐なんだと感じました。

3部の成人してからのシャロンはたくましく見た目もフアンにそっくりになっていて、その仕事もフアンと同じドラッグのディーラーとなり、高級外車に乗り、拳銃を手にしています。母親は施設に入り、見舞いにいった時に「自分は良い母親ではなかった。シャロンには自分のようになってほしくない」と訴えます。涙を流すシャロンの姿にこっちもグッときました。

そして、あの事件以来会っていなかったケヴィンから連絡が入ります。今、自分は離婚して子供が一人、地元で食堂をやっているから、一度食べに来いと。なぜ急に会いたくなったかと聞けば、ある客がジュークボックスでかけた曲からシャロンのことを思い出したと言います。

車で地元に向かうシャロン。食堂で再開したシャロンとケヴィン。そしてその曲を聴きます。内容は昔の恋人を思う曲でした。

ケヴィンの家に行き、ケヴィンがシャロンに問います。「自分は結婚して、離婚して子供がいるが、お前はどうか?」と。
シャロンは「ケヴィン以外の人に触らせたことは無い」と答えるのです。

ここで、シャロンがゲイなのかと言えば、同性であるケヴィンのことを好きになるからそうだと言えばそうですが、ゲイというよりケヴィンが好きだったということで、男性だから好きになったわけではないというのが僕の感想です。ゲイなら他の男性にも目が向くと思うのですが、あれから誰とも関係を持っていないということは、ケヴィン以外は考えられなかったっていうことだと思うのです。大人になったシャロンは筋骨隆々で、ゲイ好みと言えばそうなのですが(笑)。

その言葉を聞いてケヴィンはあの海でのようにやさしくシャロンを肩に抱き、ラストシーンとなります。

僕がゲイだからかもしれませんが、すごく良いラストシーンでした。アカデミー賞の作品賞にふさわしい作品だと僕は思いました。








コクソン(ネタバレ注意)

2017-04-03 15:53:52 | 映画
今回は映画「コクソン」について。



韓国の映画ですが、このナ・ホンジン監督の「チェイサー」が面白かったのと、日本人俳優の國村隼が出演しているということで興味がありました。

ここで内容を・・・



警察官ジョング(クァク・ドウォン)が妻と娘と暮らす平和な村に正体不明のよそ者(國村隼)が住み着いて以来、住人たちは彼のうわさをささやいていた。やがて、村で突然村人が自分の家族を手にかける事件が発生する。犯人には、濁った目と湿疹でただれた肌という共通点があり……。



と書いてあります。



観終ってみると、なんともいろいろとその意味が変わって見えてくる不思議な映画だったと感じました。

ジョングの娘にも同様の症状が現れてくるあたりからストーリーはどんどん加速していくのですが、このよそ者である日本人が何者であるかというところがストーリーの面白さ。韓国語が話せないのに買い物する姿があって、何かコミカルな感じを出したり、村人の証言で裸で死んだ鹿の肉をくらっていてその目が赤かったという恐ろしい姿まで登場したり。

また、連続殺人の詳細を知っているという謎の女性が現れ、その女性はあのよそ者が全て悪いとジョングにアドバイスしてきたり。その女性がよそ者を監視しているのも気になります。

このよそ者は本当に悪なのか、その悪から救ってくれる存在なのか、ラストまでなかなかはっきりしないけど、飽きさせずにストーリーを引っ張る手腕は監督ならではなのかもしれません。

チェイサーや、黒く濁る村、母なる証明などの韓国映画を観ていると、どこか、横溝正史シリーズを思い起こさせ、現代の話なのに、私たちにとったは、どこか昔のような感覚になるのも面白さです。スマホをもっているのにたらいで洗濯をしているとか。そして、貧富の差が激しいことも。

ゾンビ映画にもオマージュを捧げ、韓国の悪魔祓いを使ってエクソシストのような雰囲気もあり、面白い映画でした。

興味がある方はごらんになってみてください。

ここからはネタバレです。ご覧になっていない方は絶対に読まないでくださいね。


















自分の娘に同様の症状が出て、ジョングは悪魔祓いを頼み、よそ者にも喧嘩を売りにいきます。

この悪魔祓いのシーンがすごくおもしろいのです。悪魔祓いをしているシーンと、よそ者が何か儀式を行いながら、くるしみもだえるシーンがカットバックされて、あたかも、悪魔祓いが効果をなしているかのようにみえます。でも、少女は苦しみながら「悪魔祓いをやめて」とジョングに頼みます。いたたまれなくなったジョングは途中でやめさせてしまうのです。




数日経って、娘の症状はやわらぎ、食欲も旺盛となって安心します。そして、よそ者を自分の手で殺そうと思い、家に向かいます。そして、よそ者は倒れ、決着がついたかのように思われました。


悪魔祓いはよそ者がいなくなったことから街を出ようとするのですが、そこへ無数の蛾が現れ、よそ者が復活したことを知るのです。
悪魔祓いとよそ者はグルだったのです。なんとなくその伏線が見えるシーンがあって、両者とも「ふんどし」をつけているということがわかります。韓国ではふんどしがかなり珍しいものなんですね。初めて知りました。


よそ者とも対決で身心ともに披露して家にもどったジョングですが、そこに娘の姿はありません。あわてて探しに行くジョングそこで悪魔祓いから「あの女性こそこの事件を引き起こした悪魔だ」と言われます。

そして、再び謎の女性と出会ったジョング。その女性の周りには家族を殺していった犯人たちの持ち物あり娘の髪留めもありました。ジョングはこの女性こそがやはりすべてを操っていたのではと疑いだします。

ジョングはこの謎の女性から、「娘を救いたければ、家に戻るな」と言われます。自分がそこに罠をしかけたから。そして、今もどれば、お前も殺されるとも言われます。謎の女性のことを信じられないジョングは家に戻ってしまい、予言とおり娘に殺されてしまいます。

謎の女性は天使として現れ、人間の猜疑心や弱い心がもたらしたこの事件をなんとかくいとめようとしていたんです。ですが、人は自分が信じたいものだけ信じてしまうので、結局殺されてしまうことになっていったということ。


あの謎の症状はキノコから作られたサプリメントが原因だったとニュースで流れます。


復活したよそ者は洞窟の中で儀式を執り行っていました。そこへ、ジョングとともに通訳として同行した神父が現れます。それはジョングの同僚も自分の家族を殺していたことから、よそ者がまだいることを確信し、再び、彼のもとへ行くことにしたからなのです。

神父はよそ者に尋ねます「お前は何者か?悪魔なのか?」

よそ者は「お前はもうすでに、答えをもっているじゃないか」と答えます。

神父は「もうこれ以上村人に何もしなければ、こちらも何もしないで村にもどる」と言うのですが、よそ者は「村にもどる?私がお前を村にもどすと思っているのか?」と答え、その姿はキリスト教で信じられている悪魔の姿になっていたのです。これがラストシーン。

こう書くと、日本人を悪魔にした反日映画のように見えますが、神父が彼を悪魔と思ったから悪魔になり、彼をきちんと信じれば良かったのかもしれないし、あの症状もキノコの幻覚作用とアレルギーがもたらしたとニュースでは報告しているから、よそ者が本当に関与していたのかどうかもわかりません。天使といっていた女性にしても、結局は誰も救ってはいないし、人間を試しているようにも見えて、天使ってそんなことする?って思います。

なんていうことが、ぐるぐる頭の中を巡ってしまう映画なのです。

人は自分が見たいものだけをみて、信じたいものだけを信じてしまう。でもそれでは、「対立を生むだけ」とこの映画は言っているように思いました。







ラ・ラ・ランド(ネタバレ注意)

2017-04-02 17:47:59 | 映画
今回は映画「ラ・ラ・ランド」について。






アカデミー賞でも監督賞を始め、たくさん賞をもらっているミュージカル映画。公開される前から、かなり話題になっていて気になっておりました。観に行ったのは公開最初の週でしたが、やはり人気の作品でかなり人がいました。監督はセッションのデイミアン・チャゼルということでここも観に行きたいツボでした。それにゲイはミュージカル好きですからね。


ここで内容を・・・



何度もオーディションに落ちてすっかりへこんでいた女優志望の卵ミア(エマ・ストーン)は、ピアノの音色に導かれるようにジャズバーに入る。そこでピアニストのセバスチャン(ライアン・ゴズリング)と出会うが、そのいきさつは最悪なものだった。ある日、ミアはプールサイドで不機嫌そうに1980年代のポップスを演奏をするセバスチャンと再会し……。



と書いてあります。




観終って、監督の往年におけるハリウッドミュージカルに対しての愛と、セッションの時にも感じたジャズに対しての愛がたくさん詰まった映画だったなぁと感じました。冒頭の高速道路でのミュージカルシーンからはじまり、ミアの女友達との歌、セバスチャンのピアノ、天文台でのロマンチックなミュージカルシーン・・どこをとっても、すばらしい「王道」の映画でした。なので、アカデミー賞で作品賞ではなかったというのも、納得でした。

こんなに王道な映画に全世界が魅了されたということは、それだけ現実の世界が複雑で厳しいものだからなのかもしれません。せめて映画の中ではそんな現実を忘れて、夢のような世界に酔いたいということなのかなと感じました。

ライアンゴズリングはピアノの猛特訓を3か月行ったとか。


これは劇場の大きなスクリーンで観てもらいたいです。そして、ラストのミュージカルシーンを楽しんでほしいです。




ここからは、ストーリーについてのネタバレになりますので、ごらんになっていない方は読まないでくださいね。

















セバスチャンはジャズへのこだわりを捨てて、ジャズをミックスしたようなバンドから誘われ、キーボードを参加することに。ジャズへの信念がなくなったわけではないけど、ミアとの将来を考えて安定した収入を得ようと参加することになります。そして、そのバンドは大当たりして、一躍スターになっていくのです。ですが、そのステージを観たミアに「そんな音楽を本当にやりたいの?」と言われてしまうセバスチャン。

一方、オーディションに落ち続けたミアはセバスチャンの勧めもあって、小さな劇場で一人芝居を企画していきます。公演はとても成功とはいえない状態。セバスチャンも仕事で観に来ることができず、ミアはロスを離れて、実家にもどってしまいます。

そんな時、セバスチャンのもとに、ミアの公演を観たエージェントからぜひうちの映画のオーディションをうけてほしいと連絡が入ります。

ミアのもとに駆けつけるセバスチャン。かたくなに断るミアに「そんなに簡単にあきらめて良いのか」と以前自分に言われた言葉をミアに返します。

セバスチャンとともにロスにもどったミアはオーディションを受け、自分のパリとの思い出を歌で表現するのです。

そして、結果は見事合格。ミアは映画の撮影のためパリにいくことに。

セバスチャンとミアは二人の未来のために、別れることになります。


それから5年後、ミアは大女優になっていました。
そして、別な男性と結婚し娘もいて幸せな生活を送っていたのです。ある日、ミアは旦那と二人で夕食にいくことにしたのですが、道路が混んでいて、予定している店をあきらめることに。街中を歩いていると、階下から聞こえるジャズの音楽。旦那がその店に入っていくとその店のロゴは「セブズ」それはミアがセバスチャンが自分の店をもった時には、この名前が良いと言っていたもの。

中に入ると、バンドが演奏しています。席につくミアと旦那。舞台にセバスチャンがあがると、ミアが来ていることに気がつくのです。
ここから、最後のミュージカルシーンが始まります。

もし、一番最初の出会いで二人ともうまくいって、ミアの公演もうまくいって、セバスチャンもジャズで成功して自分の店をもっていて、女優として大成功して、二人は結婚して、息子もできていて・・・

でも、現実にもどる二人。

ミアはセバスチャンの店を出ていくのです。


切ないエンディングですよね。でも、やっぱり王道(笑)。ラストのミュージカルシーンがこの映画のハイライトだと感じました。

この監督の次の作品がどうなるのか気になります。