今回は映画「複製された男」について。
この作品、公開当時は観ることができなかったのですが、最近になって観る機会がありました。そしたら、すごく不思議な映画で繰り返し観てしまう魅力というか、魔力というかがある作品です。
監督はドゥニ・ヴィルヌーヴ、主演はジェイクギレンホール。ノーベル文学賞作家でポルトガル出身のジョゼ・サラマーゴ(映画ブラインドネスの作者)の小説を実写化した映画です。
ここで内容を・・・
何も刺激のない日々に空虚なものを感じている、大学で歴史を教えているアダム・ベル(ジェイク・ギレンホール)。ある日、何げなく映画のDVDを観ていた彼は、劇中に出てくる俳優が自分自身とうり二つであることに驚く。彼がアンソニー・クレア(ジェイク・ギレンホール)という名だと知ったアダムは、さまざまな手を尽くして彼との面会を果たす。顔の作りのみならず、ひげの生やし方や胸にある傷痕までもが同じであることに戦慄(せんりつ)する。
と書いてあります。
観終ってから、「えっ?ちょっと待って、もう一回初めから観ないと、わかんない」って思い、再びオープニングを観てしまい、その後また映画を続けて観てしまいました。
不思議な蜘蛛の存在、アダムとアンソニー、二人の関係、それぞれにいる彼女と妻。カナダの灰色っぽい映像とあいまって、観ているこちらの神経もなんだか変になりそうな、不思議な映画でした。
ゲイ的にはジェイクギレンホールがかっこよいので、それだけでも良いのですが(笑)。
きちんとした結末を望んでいる方は、ごらんにならない方が良いかもしれません。きっと「時間を損した」と感じるかもしれません。それくらい始まりも、終わりも、不思議なんです。
単なる夢オチ(すべてが夢だった)みたいな映画ではなく、観ているこちらの神経がザワツク作品です。
ここからは、ストーリーについてのお話しですから、ごらんになっていない方は読まないでくださいね。
オープニングでアダム(と思っていたけど、実はアンソニー)が地下のセックスクラブに行って、ヌードショーを観るシーンがあって、そこで、巨大な蜘蛛をハイヒールでつぶす(正確にはつぶす寸前でカットがかわります)シーンがあり、後半でも蜘蛛が重要な意味を持ってきます。そしてアダムにお母さんから電話が入ります。「あなたのことが心配なの」と。お母さんとの会話も後半で出てくるので、ここも大切です。そして、妊娠中の女性(これもあとから、アンソニーの妻だとわかります)の映像も一瞬映ります。ここを気にせず、すぅーっと観てしまうと後の話がますますわかりづらくなってきます。
まず、この二人は本当に二人なのかというところなんです。邦題が「複製された男」ですから、僕はクローンや双子のことを思って観ておりました。
でも、映画を観終って、再びオープニングに戻って観たときに、「これって、解離性同一性障害(二重人格)の話なのか」って考えるにいたりました。でも、これも明確に映画の中で描かれている訳ではないのですが。
アダムは学校の先生で地味、アンソニーは俳優で社交的と対照的な二人。なのに、まったく同じ人物。アダムとアンソニーが同時に出てくるのは、必ず二人きりな時だけ。お母さんと会うのはアダム、でもアンソニーもお母さんのところに行ってくると妻に言うシーンもあります。そして、アンソニーはブルーベリーを食べることは体に良いと言い、お母さんに会いに行ったアダムはお母さんからブルーベリーを勧められる。
アダムがアンソニーになりすまし、アンソニーの家に行き彼の妻と一緒にいるときに妻から「学校はどう?」って聞かれるシーンがあります。彼女はアンソニーが浮気していると思い、アダムが本当の男なのかを確かめに学校に行くんです。だから、アンソニーと入れ替わっている彼をアダムだとわかったのかなって感じました。
一方、アンソニーはアダムになって、アダムの彼女とホテルでSEXしようとするのですが、彼女はアダムではないアンソニーに気がつ拒絶します。アンソニーはハイヒールを履いて、セクシーな彼女とSEXしたくなり、アダムと入れ替わりを持ちかけていたのです。
そして、アダムになっていたアンソニーと車で言い争っているシーンの後に交通事故の場面になり、割れた窓ガラスのひびが蜘蛛の巣のようにうつります。
アンソニーになっていたアダムはそのまま妊娠している妻とともに暮すようになり、ラストはその妻が巨大な蜘蛛になっているというシーンで終わります。ラジオでは交通事故の話が流れます。
僕が考えた結論はアダムがアンソニーという人格を作り出して、自分の願望をかなえたいと思ったということです。アンソニーの妻が妊娠した(蜘蛛は妊娠した女性を意味していると解釈)ことで、SEXの願望をセックスクラブに求めていた。アンソニーは派手で女好きな人格だから、浮気もするし、女遊びも好きだから、妻はすごく心配していたのだと。
アダムは自分の恋人ができて、その彼女がセクシーで会うとSEXをする関係となり、アダムとアンソニーの人格が少しずつ近くなっていったのかなって感じました。その彼女のことは当然別人格のアンソニーの好みでもあるから。
で、交通事故はアンソニーとアダムの彼女が死んでしまったということではなく、彼女の単独事故か、全く関係のない事故かわからないけど、アダムがいるということは、アンソニーが実際に事故にあった訳ではないと考えました。
でも、ラストの妻が大きな蜘蛛になっていることを観ると、こっちが現実じゃないのか、とも考えられます。
と言う風に、観終ってもずっと考えてしまうのがこの映画なんです。
この映画をごらんになった方と一緒にこの映画のことを話したくなりました。
この作品、公開当時は観ることができなかったのですが、最近になって観る機会がありました。そしたら、すごく不思議な映画で繰り返し観てしまう魅力というか、魔力というかがある作品です。
監督はドゥニ・ヴィルヌーヴ、主演はジェイクギレンホール。ノーベル文学賞作家でポルトガル出身のジョゼ・サラマーゴ(映画ブラインドネスの作者)の小説を実写化した映画です。
ここで内容を・・・
何も刺激のない日々に空虚なものを感じている、大学で歴史を教えているアダム・ベル(ジェイク・ギレンホール)。ある日、何げなく映画のDVDを観ていた彼は、劇中に出てくる俳優が自分自身とうり二つであることに驚く。彼がアンソニー・クレア(ジェイク・ギレンホール)という名だと知ったアダムは、さまざまな手を尽くして彼との面会を果たす。顔の作りのみならず、ひげの生やし方や胸にある傷痕までもが同じであることに戦慄(せんりつ)する。
と書いてあります。
観終ってから、「えっ?ちょっと待って、もう一回初めから観ないと、わかんない」って思い、再びオープニングを観てしまい、その後また映画を続けて観てしまいました。
不思議な蜘蛛の存在、アダムとアンソニー、二人の関係、それぞれにいる彼女と妻。カナダの灰色っぽい映像とあいまって、観ているこちらの神経もなんだか変になりそうな、不思議な映画でした。
ゲイ的にはジェイクギレンホールがかっこよいので、それだけでも良いのですが(笑)。
きちんとした結末を望んでいる方は、ごらんにならない方が良いかもしれません。きっと「時間を損した」と感じるかもしれません。それくらい始まりも、終わりも、不思議なんです。
単なる夢オチ(すべてが夢だった)みたいな映画ではなく、観ているこちらの神経がザワツク作品です。
ここからは、ストーリーについてのお話しですから、ごらんになっていない方は読まないでくださいね。
オープニングでアダム(と思っていたけど、実はアンソニー)が地下のセックスクラブに行って、ヌードショーを観るシーンがあって、そこで、巨大な蜘蛛をハイヒールでつぶす(正確にはつぶす寸前でカットがかわります)シーンがあり、後半でも蜘蛛が重要な意味を持ってきます。そしてアダムにお母さんから電話が入ります。「あなたのことが心配なの」と。お母さんとの会話も後半で出てくるので、ここも大切です。そして、妊娠中の女性(これもあとから、アンソニーの妻だとわかります)の映像も一瞬映ります。ここを気にせず、すぅーっと観てしまうと後の話がますますわかりづらくなってきます。
まず、この二人は本当に二人なのかというところなんです。邦題が「複製された男」ですから、僕はクローンや双子のことを思って観ておりました。
でも、映画を観終って、再びオープニングに戻って観たときに、「これって、解離性同一性障害(二重人格)の話なのか」って考えるにいたりました。でも、これも明確に映画の中で描かれている訳ではないのですが。
アダムは学校の先生で地味、アンソニーは俳優で社交的と対照的な二人。なのに、まったく同じ人物。アダムとアンソニーが同時に出てくるのは、必ず二人きりな時だけ。お母さんと会うのはアダム、でもアンソニーもお母さんのところに行ってくると妻に言うシーンもあります。そして、アンソニーはブルーベリーを食べることは体に良いと言い、お母さんに会いに行ったアダムはお母さんからブルーベリーを勧められる。
アダムがアンソニーになりすまし、アンソニーの家に行き彼の妻と一緒にいるときに妻から「学校はどう?」って聞かれるシーンがあります。彼女はアンソニーが浮気していると思い、アダムが本当の男なのかを確かめに学校に行くんです。だから、アンソニーと入れ替わっている彼をアダムだとわかったのかなって感じました。
一方、アンソニーはアダムになって、アダムの彼女とホテルでSEXしようとするのですが、彼女はアダムではないアンソニーに気がつ拒絶します。アンソニーはハイヒールを履いて、セクシーな彼女とSEXしたくなり、アダムと入れ替わりを持ちかけていたのです。
そして、アダムになっていたアンソニーと車で言い争っているシーンの後に交通事故の場面になり、割れた窓ガラスのひびが蜘蛛の巣のようにうつります。
アンソニーになっていたアダムはそのまま妊娠している妻とともに暮すようになり、ラストはその妻が巨大な蜘蛛になっているというシーンで終わります。ラジオでは交通事故の話が流れます。
僕が考えた結論はアダムがアンソニーという人格を作り出して、自分の願望をかなえたいと思ったということです。アンソニーの妻が妊娠した(蜘蛛は妊娠した女性を意味していると解釈)ことで、SEXの願望をセックスクラブに求めていた。アンソニーは派手で女好きな人格だから、浮気もするし、女遊びも好きだから、妻はすごく心配していたのだと。
アダムは自分の恋人ができて、その彼女がセクシーで会うとSEXをする関係となり、アダムとアンソニーの人格が少しずつ近くなっていったのかなって感じました。その彼女のことは当然別人格のアンソニーの好みでもあるから。
で、交通事故はアンソニーとアダムの彼女が死んでしまったということではなく、彼女の単独事故か、全く関係のない事故かわからないけど、アダムがいるということは、アンソニーが実際に事故にあった訳ではないと考えました。
でも、ラストの妻が大きな蜘蛛になっていることを観ると、こっちが現実じゃないのか、とも考えられます。
と言う風に、観終ってもずっと考えてしまうのがこの映画なんです。
この映画をごらんになった方と一緒にこの映画のことを話したくなりました。