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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

シリアを取り巻く国際環境  2000年代

2016-11-26 17:09:50 | シリア内戦

前大統領ハフェズ・アサドの時代には、シリア国民はデモをしようなどと考えなかった。武力による鎮圧を恐れていたからである。デモの現場で射殺されなくても、逮捕後の拷問は考えるだけでも恐ろしかった。

天井からつるされたり、背骨を折られたりした。背骨を折るために工夫された特殊な椅子があり、これはジャーマン・チェアと呼ばれた。秘密警察が東欧やソ連に行き、拷問の方法について研修を受けた。シリアは旧ソ連圏と同様に警察国家であり、国民にとっての監獄だった。ソ連崩壊後、このような国が体制を維持するのは困難になっている。

2000年にハフェズ・アサドが死亡し、バシャールが後を継いだが、バシャールは改革と民主化の必要性を感じていた。しかし2000年代はシリアを取り巻く国際情勢が緊迫しており、外交も重要な課題だった。3月30日の彼の演説はそれについて語っている。

シリアに対する外国の陰謀は特別なものではなく、イスラエルとの戦争とレバノン内戦後平和が成立したわけでなく、一触即発の状況にある。国境は平和的ではない。シリアに対する様々な陰謀がうごめいている。レバノン問題は隣国の問題であると同時に、シリア自身の問題でもある。レバノンとシリアは別々の国家として独立したが、オスマン帝国時代両国の間に国境はなかった。

3月30日の演説で、1900年代の対外情勢を彼がどう受け止めていたか、語られている。

次回大統領の演説を訳すが、すが、その前に、基礎知識を書いて置きたい。

アサド大統領は2005年のシリアの危機として、レバノンの元首相の暗殺について語っている。知らない人も多いと思うが、シリア内戦の前哨戦ともいうべき事件であり、レバノン問題はシリアが米国と対立する原因になっている。レバノン内戦の構図が消えない限り、シリア内戦は終わらない。反政府軍はアサド体制と戦っているつもりでも、国際戦争の代理人にならざるを得ない。「イスラエルの陰謀」は、間違いなくある。ゴラン高原とレバノンに関して、シリアとイスラエルは敵だからである。

レバノン内戦について書くと長くなるので、とりあえず、ハリリ暗殺について、ROCKWAY PRESS(日本のサイト) から抜粋する。

===《ハリリ元首相暗殺の真犯人(黒幕)は誰か?》====

2005年2月、レバノンの元首相ラフィク・ハリリがベイルートで暗殺された。元首相は反シリア的であり、隣国シリアのが殺害に関与したと疑われ、レバノンで大規模な反シリアデモが発生した。親シリア派内閣が総辞職し、シリア軍はレバノンから撤退した。レバノン内戦勃発以後30年近く、シリア軍はレバノンに駐留していた。シリア軍の撤退はレバノン内戦の結果を変更するものだった。1年半ほど経った2006年7月、イスラエル軍のレバノン攻撃が始まり、第2次レバノン戦争が勃発した。

このことから、ハリリ暗殺の真犯人だという見方もなされた。「シリア軍が撤退することで、イスラエルのレバノン侵攻が容易になり、ハリリ元首相暗殺で利益を得た者は、イスラエルである。ハリリ暗殺はシリアを悪者にするために仕組まれた事件である」。

しかしハリリ暗殺直後は、シリアとレバノンの治安当局が共謀して暗殺に関与したする見方が支配的だった。レバノンを実効支配していたシリアの関与なしに、このようなだいそれたことはできない、とされた。「暗殺はシリア治安当局高官の承認がなくては決定できない」。

国連安保理決議に基づき、2009年3月国際特別法廷がオランダ・ハーグに設置された。捜査と起訴はレバノン人以外の国際捜査団がおこない、審理はレバノン法に基づきレバノン人と外国人の裁判官の合議で行われることになった。

裁判の結果、証拠が不十分であり、実行犯は無罪となった。

===========(ROCKWAY PRESS終了)

      

シリアのゴラン高原を下ると、パレスチナである。パレスチナはシリアの隣接地域であり、古代以来、往来が盛んだった。

第二次大戦後、パレスチナの海岸部にイスラエルが建国されたが、シリアはこれを認めなかった。

1966年の6日戦争でシリアはイスラエルに敗れ、ゴラン高原を失った。ゴラン高原を奪い返すまで、イスラエルとシリアの間に平和はない。

         

 =======《6日戦争(=第三次中東戦争)》========

                                 ウイキペディアから抜粋

1966年2月、シリアでクーデターが発生し、PLO支持のアターシー政権が樹立すると、にゴラン高原からイスラエル領内へ砲撃を加え始めた。

イスラエルは住民保護を理由として、7月に空軍を派遣してシリア軍と交戦した。シリア空軍機を撃墜して砲撃陣地を破壊、さらに示威行為として、首都ダマスカス上空を飛び回った。

当時、アラブ側はソビエト連邦から兵器を購入しており、KGBの要員が常駐していた。彼らは中東で戦争を起こそうと画策していた。

イスラエルとシリアが即時に開戦する意思も態勢もなかったにもかかわらず、KGBは両国が開戦するとの情報をエジプト政府に知らせた。

またシリア政府に対しては、イスラエルがシリアへ侵攻準備を開始したと報告した。このためエジプトとシリアは開戦に備え、国境沿いに軍を配備した。

当時イスラエルのすべての周辺国は、イスラエルの敵国であった。国家消滅の危機感を抱いていたイスラエルは先制攻撃を決意し、開戦の準備を行った。

1967年6月5日、イスラエル空軍機が超低空飛行でエジプト・シリア・ヨルダン・イラク領空を侵犯、各国の空軍基地を奇襲攻撃して計410機にも上る航空機を破壊した。制空権を奪ったイスラエルは、地上軍を侵攻させ、短期間のうちにヨルダン領ヨルダン川西岸地区、エジプト領ガザ地区とシナイ半島、シリア領ゴラン高原を占領した。

=========(ウイキペディア終了)

ゴラン高原の奪回と、パレスチナをイスラエルから奪い返すことが、シリアの大義となった。アサド大統領はパレスチナ人の抵抗運動に大きな関心を寄せていた。2000年代国民は大統領を支持しており、パレスチナ人のことを心配する余裕があった。

=======《インティファダ》=========

                           知恵蔵2015の解説から抜粋

 1987年末、イスラエル占領地でパレスチナ人が一斉に抗議行動を開始した。イスラエルの警備隊に投石するだけであり、武装蜂起ではなかったが、イスラエルはこの鎮圧に失敗した。力だけではパレスチナ人の民族主義を抑えることはできない、とイスラエルは悟った。1993年のオスロ合意を受け、抗議行動は一応の終息を見た。

しかしオスロ合意以後の中東和平プロセスの成果が乏しく、2000年末パレスチナ人の不満が再び爆発した。2回目のインティファーダは武装蜂起となり、パレスチナ人

は小火器、迫撃砲、さらには手製のロケット弾などを使用した。よって使用された。またイスラエル国内で自爆攻撃をおこなった。

これに対しイスラエルは、戦車、ジェット戦闘爆撃機、ミサイル搭載ヘリコプターなどの圧倒的な火力でパレスチナ側を攻撃した。さらにパレスチナ人の指導層を「テロリスト」として、次々と暗殺した。

2005年1月、アッバスがパレスチナ人の指導者となって以来、事態は一時、鎮静化した。

しかし2006年にイスラエルを認めないハマス政権が成立し、インティファーダが再燃ている。

============(知恵蔵2015終了)


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