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ローマ軍、敵前逃亡

2021-07-28 08:33:56 | 世界史

==《リヴィウスのローマ史第2巻》=

Titus Livius   History of Rome

    Benjamin Oliver Foster

 

 

【58章】

国内が混乱している間に、ヴォルスキ族およびアエクイ族とローマとの間に戦争が起きた。彼らはローマの農地を荒らした。ローマの平民の離反を期待し、彼らは平民に助けを求めるつもりだった。ローマの内紛が沈静化すると、ヴォルスキとアエクイの陣地は遠くへ移動した。アッピウス・クラウディウスの部隊がヴォルスキ討伐に向かった。アエクイに対しては、クィンクティウスの部隊が派遣された。アッピウスは国内で平民と戦う時と同様に、戦場においても苛烈な性格を発揮した。外国の軍隊と戦う場合、護民官による抑制がなかったので、アッピウスは思う存分行動できた。彼の平民に対する憎しみは父親伝来であるが、憎しみの強さは父を超えていた。彼は平民との闘争で敗れ、護民官の選挙についての法律が成立したからである。平民を屈服させることを期待されて執政官に選ばれたのに、彼は敗れたのである。アッピウスほど期待されていなかった過去の執政官たちは護民官提案の法律が民会で制定されるのを妨害してきたのに、彼は妨害に失敗した。傲慢なアッピウスは怒っていたので、容赦無い厳格さで兵士たちを服従させようとした。ところが、暴力的手段を用いても、兵士たちはアッピウスの命令に従わなかった。兵士はあくまで抵抗するつもりであり、だらだらといい加減に、不注意に、時に反抗的に行動した。彼らは指揮官を恐れず、不名誉という感情もなかったので、彼らを抑制することはできなかった。アッピウスが隊列にもっと速く前進するよう命じても、兵士たちはわざとゆっくり歩き、また別の行動を要求すると、以前彼らが自発的に行動した時発揮した機敏さは失われていた。アッピウスの前では、彼らは下を向き、アッピウスがいなくなると無言で彼を呪った。アッピウスは勇気があり、これまで平民に憎まれてもひるまなかったが、今や動揺を隠せなかった。彼はあらゆる厳しい手段を用いたあげく、兵士の統率を放棄し、「部隊は百人隊長を筆頭に、完全に腐敗している」と言ってから、あざけりながら付け加えた。「百人隊長は護民官と同様で、全員ヴォレロだ」。

 

【59章】

ローマの執政官が兵士の統率に失敗する様子を、ヴェイイ兵はしっかり見ていた。かつてローマ兵がファビウスの命令を無視した時と同じように、再び彼らが戦場を離脱するのを期待して、ヴォルスキ兵は勢いよくローマ軍に向かって行った。ローマ兵のアッピウスに対する憎悪は予想以上であり、彼らは戦闘を拒否するにとどまらず、敗北を受け入れようとした。戦闘が始まろうとした時、ローマ兵は逃げ出し、彼らの陣地に向かった。彼らはファビウス配下の兵以上に名誉を捨てた。ヴォルスキ兵がローマ軍の陣地に至り、ローマ兵を殺害し始めると、陣地内のローマ兵は戦わざるを得なくなった。陣地になだれ込もうとするヴォルスキ兵を追い払わなければならなかった。ローマ兵の目的は自分たちの陣地を守ることだけで、それが達成されるなら、彼らはローマ軍の敗北を喜んだ。一方アッピウスの決意は揺るがず、兵士たちをもっと厳格に処罰する方法を考え、兵士会に命令しようとていたが、参謀将校たちと大隊長たちが彼を取り囲み、警告した。

「無制限に権力を行使してはなりません。兵士が自分の意思であなたに従おうとしないなら、勝利は望めない。兵士全体が兵士会への出席を拒否しているのです。ほとんどの兵が陣地をヴォルスキ領から引き払うことを望んでいます。ついさきほど強力なヴォルスキ軍がローマの陣地を攻撃しました。恐ろしいことに、ローマの部隊が深刻な反乱が起こしているようで、明らかな証拠があります」。

ついにアッピウスは彼らの忠告を受け入れ、兵士会の中止に同意した。しかしアッピウスは考えていた。「命令に従わなかった連中の処罰が遅らされただけだ」。

翌日の出撃だ、と命令が出せれ、夜明けに進軍を告げるラッパが響き渡った。ローマ軍は陣地を引き払い、隊列を組んで出発した。この時、おそらくヴォルスキ兵はラッパの音に注意を喚起され、ローマ軍を後ろから攻撃した。ローマ軍の後列は混乱し、つづいて前列も混乱し、全軍がパニック状態になった。命令も伝わらず、ローマ軍は戦列も組めなかった。ローマ兵は逃げることだけを考えた。彼らは折り重なった死体と武器を飛び越えて必死に逃げたので、ヴォルスキ兵は追いつかず、追跡をあきらめた。執政官は何とか態勢を立て直し、兵士を再結集させようとしたが、無駄だった。しかし間もなく兵士たちが徐々に集ってきた。そこで執政官アッピウスは安全な場所に陣地を設営することにした。彼は兵士会を招集し、軍令に違反した兵士を詰問した。また彼は軍旗を捨てた兵士一人一人に、「軍旗はどこにある」と問いただし、武器を捨てた兵士たちにも同様の質問をした。軍旗と武器を捨てた兵士たちに加え、脱走した百人隊長と二倍の給料をもらっている兵士たちに、アッピウスは棒打ちの刑または斬首を言い渡した。それ以外の兵士については十人に一人がくじ引きで選ばれ、処罰された。

 

【50章】

アエクイ軍と戦ったローマの部隊はこれと正反対だった。執政官と兵士は互いに思いやり、戦友として信頼しあった。執政官クィンクティウスは生来温和な性格であるが、同僚執政官の行き過ぎた厳格さを見るにつけ、ますます優しい性格になった。将軍と兵士が信頼しあうローマ軍に対し、アエクイ軍は敢えて戦おうとせず、ローマ兵がアエクイの土地をあちこち略奪しても、傍観していた。これまでにないほど多くのローマ人が略奪に参加した。執政官は兵士をほめて、略奪した物は全て兵士に与えた。執政官のねぎらいの言葉は物質的な報酬より兵士たちを喜ばせた。ローマ兵は将軍と良好な関係のもとに祖国に帰った。クィンクティウスを介して兵士と貴族の関係も改善した。兵士たちは言った。

「元老院は我々に父のような将軍を与えたが、別の部隊には専制的な将軍を与えた」。

この年ローマは敗北と勝利を経験し、民間と軍隊の両方で反乱があった。また部族会議が開催されたことでも、記念すべき年となった。部族会議の開催は実質的に平民を有利にしたわけではないが、長い闘争の末に平民が勝利した点で重要だった。というのは、会議から貴族たちが退去したため、会議は威信を失い、平民は影響力は増大し、貴族は力を失った。

 

 

【61章】

翌年の執政官はL....・ヴァレリウスと T....・アエミリウスだった。この年も波乱に満ちていた。まず土地法について身分間の対立があり、次にアッピウス・クラウディウスが起訴された。アッピウスは自分が執政官であるかのようにふるまい、土地法に断固として反対し、国有地を勝手に占拠している人々を擁護した。そのため、護民官のドゥエッリウスとシッキウスがアッピウスを告発した。

人々の前で裁かれた人物の中で、アッピウスほど平民から嫌われた者はいなかった。彼の父も平民から憎まれていたので、クラウディウス家に対する憎しみは増大した。特に息子のアッピウス・クラウディウスは元老院の勇者であり、元老院の威厳を取り戻し、護民官と平民の横暴を無力にする堅固な防壁だった。一昨年アッピウスが兵士を容赦なく処罰したため、今や平民の怒りは爆発しそうだった。危険を感じた元老たちはアッピウスの周りに結集した。元老の中でアッピウスだけが護民官と平民を見下しており、彼は自分が裁判にかけられることを軽く見ていた。平民から脅迫されたり、元老たちから懇願されても、彼は態度を変えず、人々にすり寄って懇願などしなかった。以上はやや言い過ぎかもしれないが、彼は人々の前で自分を弁護する際、いつもの辛辣な口調を変えず、和らげることもなかった。アッピウスはいつもの表情と威嚇するような目で、誇り高い口調で話したので、平民は被告であるアッピウスを彼が執政官だった時に劣らず恐れた。彼は自分を弁護しただけだったが、攻撃的な話し方と毅然たる態度は護民官と平民を狼狽(ろうばい)させ、彼らは裁判を休会にし、判決を引き延ばした。間もなく裁判が再開された時アッピウスは重い病気により死んでいた。護民官は亡きアッピウスについて演説することを妨害しようとしたが、平民は彼のような偉大な人物の葬式において、国家的な栄誉が与えられるべきだと主張した。アッピウスが生きていたなら、平民は熱心に判決を聞いただろう。それにおとらず熱心に、平民は亡きアッピウスを称賛する弔辞に熱心に耳を傾けた。そして墓場に向かう彼の遺骸に大勢の人がついて行った。

 

【62章】

同じ年、執政官ヴァレリウスが率いるローマ軍はアエクイ族に向かって進軍した。しかしアエクイ族は戦闘を避けたので、ローマ軍は彼らの陣地を攻撃し始めた。その時激しい嵐となり、雷が落ちたので、ローマ軍は戦闘を続けられなかった。撤退しようとした時、嵐がやみ、空が明るくなったので、ローマ兵は驚いた。アエクイの陣地は神々に守られているように思われ、執政官は再び攻撃を始めるのは不吉だと考えた。彼は好戦的な性格だったので、何もせず帰る気になれず、アエクイの土地を略奪することにした。

もう一人の執政官アエミリウスはサビーニ人との戦争を指揮した。サビーニ人は城壁の背後に隠れて、出てこなかったので、ローマ兵は彼らの農地を略奪した。散在する農家が燃やされただけでなく、人口の多い村々が焼かれると、サビーニ人は奮い立った。彼らは略奪者に立ち向かった。戦闘は決着がつかず、サビーニ人は安全な場所に陣地を移した。執政官アエミリウスは敵が敗北したとみなし、ローマに帰った。

 

【63章】

新しい執政官はヌミキウス・プリスクスとA....・ヴェルギニウスだった。前述の戦争の間,国内では紛争が続いていた。平民はこれ以上土地法の制定を待てず過激な手段を用いる準備をしていた。この時農場が燃えて煙が広がり、郊外に住む人々が逃げてきて、ヴォルスキ兵が近づいていることが分かった。革命の機運が盛り上がり、爆発寸前だったが、革命は中断された。すぐさま元老院が招集され、執政官は兵役義務のある市民を招集し、出陣した。招集されなかった平民は安心した。ヴォルスキ兵はローマ市民に恐怖を与えただけで、急いで去って行った。執政官ヌミキウスとローマ軍はヴォルスキの都市アンティウム(Antium、ティレニア海沿岸の都市)まで進んだ。

 

 

一方執政官ヴェルギニウスが率いるローマ軍はアエクイ族の町に向かったが、待ち伏せ攻撃を受け、危うく敗北するところだった。しかしローマ兵が勇敢に戦い、執政官ヴェルギニウスの不注意による危機を脱出し、ローマ軍が勝利した。

一方ヴォルスキ兵に対するヌミキウスの作戦は巧妙だった。すでに書いたように、ヴォルスキ兵はアンティウムまで逃げて行った。アンティウムは当時最も裕福な都市だった。ヌミキウスはこの都市を攻撃せず、アンティアテス(部族名)からカエノを奪った。カエノはありふれた町だった。

ローマ軍がヴォルスキとアエクイを相手にしていた時、サビーニがローマの郊外を略奪し、ローマの市門まで迫った。

二人の執政官がそれぞれ軍を率いてサビーニ人の土地に向かった。ローマ軍の攻撃が激しかったので、サビーニ人は大きな損害をこうむった。少し前彼らがローマに与えた損害より、彼らの損害ははるかに大きかった。

 

 

【64章】

年末に短期間の平和があったが、いつものように貴族と平民の間の紛争が起きた。怒った平民は執政官の選挙を拒否した。Q....・セルヴィリウスとT....・クィンクティウスが貴族と貴族に従属する人々によって選出された。そして去年と同じことが繰り返された。最初国内が混乱し、戦争が起きて対立が沈静した。サビーニ人がクルストゥメリウム(サビーニ地域南端の町)の平野を急いで横切り、アニオ川沿岸地域を焼き討ちし、略奪した。彼らはローマに迫ったが、コリナ門(ローマ北端の門、コリナは丘という意味)と城壁の近くで、ローマ兵によって撃退された。しかしサビーニ人は住民と牛に大きな損害を与えることに成功した。執政官セルヴィリウスは彼らに復讐するため、軍を率いて現地に向ったたが、サビーニ兵の大部分が姿を消していた。それでローマ軍はサビーニの土地で大規模な略奪をしたので、広大な土地が荒廃した。ローマ軍は自国の農民が受けた被害の何倍もの略奪品を持ち帰った。ヴォルスキの将軍と兵士は激しくローマを糾弾し、ヴォルスキ人の間に戦争の機運が盛り上がった。平地でローマ軍とヴォルスキ軍が章取るし、激戦となり、両軍から大量の死傷者が出た。このことは兵士の人数が少なかったローマ軍に大きな打撃となり、退却していたかもしれない。しかしこの時執政官が兵士たち向かって叫んだ。「敵の半分が逃亡した」。大事な時に執政官が語った嘘により、ローマ兵は勇気を取り戻した。彼らはヴォルスキ軍を攻撃し、勝利した。勝に勇んでさらに攻撃を続けるなら、再び本格的な戦闘になってしまうので、執政官は後退せよと合図した。その後数日間、両軍の暗黙の了解が成立したかのように、戦闘がなかった。この短い期間に、すべてのヴォルスキとアエクイの都市から大勢の援軍が送られ、ヴォルスキの陣地に集合した。ローマ軍がこれを知るなら、夜の間に退却するに違いない、と彼らは期待した。そして深夜彼らはローマ軍の陣地を攻撃するために出発した。敵の接近を知り、ローマの兵士は驚いた。クィンキティウスは兵士の混乱を鎮めてから、落ち着いて寝場所にいるように、と命令した。それから彼はヘルニキ族の部隊を敵の近くまで前進させ、警戒に当たらせた。そして彼は騎馬のトランペット兵とラッパ兵に進軍の合図をさせた。これを聞いた敵軍は夜明けまで警戒態勢を続けた。ローマの陣地は夜明けまで静かで、兵士たちは熟睡した。一方ヴォルスキ軍はヘルニキの歩兵部隊を見て、ローマの部隊と思いこみ、しかも実際より大人数に受け止めた。馬のいななき、熟練した乗り手が馬を駆る音が絶ええず聞こえ、興奮したトランペットの音、これらの騒音が攻撃が間近であると思わせ、敵の兵士は緊張したままだった

 

【65章】

夜が明けると、ローマ兵はぐっすり眠ったので、元気で行動を開始し、最初の攻撃でヴォルスキの戦列を崩した。ヴォルスキ兵は夜の間立ったままで、眠っていなかったので疲れていた。ただしヴォルスキ軍は崩壊したわけではなく、後退しただけで、後方の丘の背後に安全を求め、前列の部隊だけが臨戦態勢をとった。彼らを追ってローマ軍が丘のふもとに着いた時、執政官が停止を命じた。兵士たちはしぶしぶ命令に従った。彼らは敗走する敵を追跡したかったので、不平を言って、騒いだ。騎兵たちはさらに逸っており、大勢で執政官を取り囲み、「我々は歩兵より先に行きます」と大声で宣言した。執政官は兵士の勇気を信頼していたが、地形が不利なので、まだ迷っていた。しかし兵士たちは「攻撃だ」と叫んで、前進した。上り坂を進むので、彼らは槍を地面に突きながら走った。登ってくるローマ兵に対し、ヴォルスキ兵は最初槍を投げ、次に足元にあった石を投げた。槍と石は多くのローマ兵に命中し、ローマ軍は総崩れとなり、丘を降りて逃げた。このようにしてローマ軍の左翼はほぼ壊滅した。逃げる兵たちを執政官が叱責し、彼らの性急さと臆病さを非難すした。敵を恐れていた兵たちが恥ずかしく思った。彼らは引き返し、頑強に抵抗し、頂上近くに踏み留まった。彼らは勇気を取り戻し、さらに前進した。元気な声で叫びながら、ローマ軍全体が前進した。彼らは再び苦労しながら坂を上っていった。頂上に達した時、敵は背中を向けて逃げた。ローマ兵は必死に追いかけた。ヴォルスキ兵は陣地に逃げ込み、ローマ兵はすぐに追いついた。彼らはヴォルスキの陣地を占領した。陣地から逃げるのに成功したヴォルスキ兵はアンティウムに向かった。ローマ軍はアンティウムに向かった。数日の包囲後、アンティウムは降伏した。ローマ兵が奮闘したからではなく、ヴォルスキ兵は戦闘で敗れ、陣地を失い、戦意がなかった。

 

 

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