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ISISのハサカ戦略 2014年7月

2015-10-30 19:31:02 | シリア内戦

        

イラクのニナワ県の西にシリアのハサカ県がある。ハサカ県の南端にISISの基地があり、それがニナワ県のISISを支えている。

 

 

 

この重要な基地の北にハサカ市があるが、ISISはハサカ市に足場がない。ハサカ市は政府とクルドが支配している。ハサカ県北部はクルドの勢力が強い。シャッダダの基地のISISとニナワ県のISISにとって心細い状況であるが、状況は簡単に変えられない。

 

地図からわかるように、イラクのニナワ県のISISの支配地はシャッダダと結びついており、イラクのアンバール県のISISの支配地はデリゾールと結びついている。

 

 7月半ば、政府軍はハサカ南端のISISの拠点シャッダダに攻撃を開始した。この攻撃を挫折(ざせつ)させるため、ISISは政府軍の本拠地である第121砲兵連隊基地を襲撃した。121砲兵連隊基地は高台にあり、シャッダダを砲撃していたからである。

 

  

ISISはほぼ同時にラッカ県の第17師団を攻撃したが、それは陽動作戦であり、主目的は第121砲兵連隊の基地を攻撃することだった。

 

ISISにとってニナワ県とハサカ県の結びつきが重要であるこを、「戦争を理解する」というウェッブサイトが書いている。アンバール県とデリゾール県の結びつきもISISにとって同じように重要である

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イラク北部とシリア北部を統合するISIS  

ISIS Works to Merge its Northern Front across Iraq and Syria

 

ISISは最近、イラクのニナワ県とシリアのハサカ県で活発に作戦をしている。イラクとシリアにまたがる支配地を統合するためである。領域内に残存する町村を一つ一つ攻略した。ニナワ県のシンジャル市がその代表的な例である。シンジャル市にはペシュメルガの守備隊がいたが、83日、ISISはこの町を占領することに成功した。(シンジャルの位置は2つ目の地図参照)

ISISのイラク北部での攻勢は、隣国シリア東部での攻勢と密接に関連している。国境がなければ、ニナワ県とハサカ県は隣県である。7月半ばISISはハサカ県の121砲兵連隊の基地を攻略した。

    

同時期ラッカ県の第17師団と第93旅団の基地を攻略した。ISISはラッカ県の最後の政府軍基地、タブカ空軍基地の攻撃を準備しているようである。

610日にモスルを占領して以後、ISISはデリゾール県南部とアンバール県に拠点を確保した。これらの拠点を保持し続けたいISISにとって、ハサカ県に勢力をのばすことが主要な課題になった。ニナワ県とハサカ県にまたがる支配地を確立すれば、デリゾール県とアンバール県の支配地は安定する。重要な補給路がハサカ県を通っており、これを支配下に置けば、ニナワ県の支配地の維持が確実になる。ニナワ県のISISは、イラク・クルドと常に対じしている。後にイラク・クルドは米国に支援されることになる。

以上のこととは別に、シリアの油田の大部分が、ハサカ県にある。これらの油田を手に入れれれば、シリアの他の地域で作戦するための貴重な資金源となる。

ハサカ作戦はISISにとって大きな意味を持っていた。

 

   <クルドの支配下にあるハサカ県>

ハサカ県はクルド人が住民の多数を占め、アラブ人反政府軍にとってよい環境ではなく、反政府軍の有力なグループはここに進出していない。

2013年の秋、クルド人は独立の意向を表明したが、地方レベルではアサド政府軍に協力している。PYDの軍隊(YPG)がハサカ県のほとんどの農村を支配している。ISISに対する恐怖から、キリスト教徒とアラブ人がYPGを支持している。

アサイシと呼ばれるクルドの警察組織が市の中心部の治安を維持している。アサイシは、アサドの民兵である国民防衛軍と調整しながら警察任務を果たしている。ここの国民防衛軍には、2つのアラブ部族とキリスト教徒が参加している。

 

610日にモスルが陥落した時、アサド政府軍はカミシュリ空港と、要塞化された3つの基地を維持していた。カミシュリ市とハサカ市はクルドと分割支配になっており、市の中心部に政府軍が居座っている。分割支配ではあったが、市民の生活レベルを維持するため、YPGと政府軍は調整した。

2大都市と北部には手が出ないが、ISISはハサカの南端をすでに獲得している。農村地帯の中心にある町タルハミスは、2013年以来ISISの拠点となっている。

 

 

  

2014年の1月始め、YPGはタルハミスからISISを追い出そうとしたが失敗した。

 

ハサカ県最南部のシャッダダにはISISの司令部があり、シリア東部で最も重要な基地となっている。シャッダダは国境越えの連絡の中継点であり、イラクのニナワ県へは、ここから出発する。

 

 

 

   <ISIS、ハサカ県北部で作戦>

20146月と7月初旬、ISISは政府軍がいるハサカ市とカミシュリ市を避け、北部の農村部を攻撃した。セレカニエやカミシュリの周辺の農村で、YPGに挑戦した。

少人数のISIS兵が主要な道路沿いにある村々に侵入し、そこを拠点として、YPGと小競り合いをした。このような方法で、ハサカ市のYPGと政府軍への供給路を脅かした。ISISはカミシュリからハサカ市への供給を止めることを目的としている。

ISISはカミシュリ空港の周囲にグラド・ロケットを撃ち込んだ。グラド・ロケットは連射できる多連装ロケット砲である。6月末、ハサカ・カミシュリ間を走るバスの乗客数人を誘拐した。

7月の間、ISISはカミシュリ南方の3つの村でYPGを攻撃した。

ISISはハサカ県のいくつかのアラブ部族から支持を得た。例えば、YPGの同盟者であるシャーマル部族と対立しているシャーラビア部族はISISを支持した。

 

    <交通の要衝タルタメル>

ハサカに対する2番目の供給路を切断するため、セレカニエとハサカを結ぶ道路沿いでYPGに挑戦した。なかでもタルタメルの町のYPGが最大の標的になった。2本の幹線道路がタルタメルで交差しており、交通の要衝である。(タルタメルの位置は上記2つの地図参照)

73日、タルタメル・ハサカ間の道路を走っている車の中で簡易爆弾が破裂し、PYDの議員とタルタメルの住民評議会の銀が死亡した。

813日、荷物を運ぶ運転手に変装したISIS自爆者が、タルタメルからセレカニエに向かう道路沿いのYPGの宿舎に突っ込んだ。YPG兵士8人が死亡した。

これらの攻撃は、支配しようとする地域に対するISISの執念を示している。YPGは一般の反政府軍よりまとまっており、手ごわい相手である。そのYPGの支配地に、ためらうことなく食い込もうとする気迫がある。

またISISは、大胆にも、デリゾール県とハサカ県にまたがる地域を防備する、121砲兵連隊基地を攻撃した。両県のかなりの部分が重砲の射程距離内にある。

ISISのハサカ県作戦は、イラクのシンジャル攻撃に先立って行われた。

 

===============[引用終了]

地図は3つ目が原文にあり、その他はすべて筆者が挿入しました。原文の地図には、121砲兵連隊とシャッダダの位置が示してあり、貴重なものでした。

 

   <最初にハサカ県南部に進出したのは、自由シリア軍>

ハサカ県南部のシャッダダがISISの重要な根拠地であることについて書いたが、それは、2013年の秋以後の話であり、2013年春には自由シリア軍がハサカ県南部に進出していた。地図によれば、9月になっても、ISISはハサカ県南部に進出していない。2013年9月の段階では、ISISとヌスラは区別されておらず、アルカイダ系として、ひとまとめにされている。アルカイダ系は、ハサカ県ではラアス・アルアイン(=セレカニエ)の農村部にだけ進出している。

 

     

2013年4月19日、玉本栄子がハサカを取材した。「現在ハサカ県南部地域は自由シリア軍によって軍事支配がすすめられている」と書いている。

ハサカ県北部のクルド人とキリスト教徒は政府軍よりも自由シリア軍を恐れている。

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 <シリア現地報告>4   キリスト教徒の理容室で (抜粋) 

 

キリスト教徒の若者たちにアサド政権についてたずねてみると、一瞬にして顔が曇った。「アサドよりも自由シリア軍(反政府武装組織)の方がもっと怖い」と彼らは言う。

シリアのキリスト教徒の多くは、世俗主義のアサド政権を支持してきた。そのため自由シリア軍に敵とみなされ、キリスト教徒の民家が爆破されるなどの攻撃もはじまっている。現在ハサカ県南部地域は自由シリア軍によって軍事支配がすすめられており、多くのキリスト教徒たちが暮らす県北部地域にも攻め入る可能性がある。

   

    

キリスト教徒が経営する理髪店。シリア人口の1割を占めるキリスト教徒は今、宗教・宗派対立におびえながら暮らす。(シリア北東部ハサカ県デレク市、2013年3月下旬撮影:玉本英子)

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ヌスラとYPGの死闘 セレカニエ 2013年1月

2015-10-27 22:34:36 | シリア内戦

   

201211月、自由シリア軍がセレカニエの政府軍に勝利した。政府軍は町から消えたが、クルド軍は町に残っている。町の住民の多数がクルド人である。セレカニエの支配をめぐり、自由シリア軍とクルド軍の戦闘が開始された。1119日に始まった3カ月間の戦闘は、激烈だった。自由シリア軍はヌスラ戦線と地元のアラブ民族主義部隊に率いられている。クルド軍(YPG)はこの戦いに勝利した。

2013年219日、クルドとアラブの両者が妥協し、停戦が成立した。セレカニエの統治は地元の政治家に委ねられた。住民の多数はクルド人であり、戦闘はYPGが勝利したという事実があり、クルドに有利な形での停戦だった。

しかしハサカ県全体での、クルドとアラブの権力闘争は終わっていない。したがってセレカニエをめぐる抗争も完全に決着したわけではない。

 

反政府軍のなかで最強のヌスラ戦線を相手に、YPGが戦った。3か月の死闘を、ウィキペディアがまとめている。

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        The Battle of Ras al-Ayn

 

   <セレカニエの政府軍、敗北>  

2012118日、自由シリア軍がセレカニエの政府軍を攻撃し、町を占領した。

自由シリア軍の攻撃に、クルド人も参加したと報告されているが、確かではない。地元のクルド人は、反論している、「YPGはアサド政府の支配に服しており、攻撃には参加していない」。

自由シリア軍側は約20人戦死し、政府軍も20名死亡した。約8000人の住民がトルコへ避難した。

1110日、政府軍はセレカニエを空爆した。住民16人が死亡した。

 

1114日、自由シリア軍はセレカニエの近くの政府軍の拠点を攻略した。政府軍兵士18名が死亡した。

1115日、自由シリア軍はセレカニエに残った最後の政府軍の兵士を捕虜とした。抵抗した者は殺害した。自由シリア軍はセレカニエを完全に掌握した。

3日間、シリア空軍の爆撃はなかった。政府軍はセレカニエの支配をあきらめたようだった。

 

   <自由シリア軍、YPGを攻撃>

1119日、自由シリア軍はセレカニエにあるYPGの検問所を攻撃した。しかしYPGが反撃し、由シリア軍兵士6人が死亡した。

自由シリア軍は、PYDのセレカニエ支部議長アブド・カリルを暗殺した。スナイパーによる射殺だった。

 

1120日の戦闘で、34人が戦死した。そのうちの29人は、ヌスラ戦線とガルバ・シャム大隊の戦闘員だった。残り5人のうち、4人がクルドの兵士で、一人はクルドの役人だった。戦死した4人のクルド兵士は、捕虜になってから、処刑されたようである。

以上は英国人権団体の報告であり、クルド側の戦死者が非常に少ない。自由シリア軍の支持者は異なった報告をしている。クルド側の戦死者は25人で、ヌスラ戦線・ガルバ大隊側の戦死者は20人である。クルドの役人が一人死亡した。捕虜となったクルド兵は35人、捕虜となったヌスラ・ガルバは11人である。

この日の戦闘後、双方がセレカニエの兵を増強した。1122日までに、クルド軍は400人に達した。自由シリア軍側は、ヌスラ戦線100人、ガルバ・シャム大隊100人である。自由シリア軍の兵数はYPGの半分にすぎないが、政府軍から捕獲した戦車3台がある。

戦死者の数からわかるように、19日・20日の戦闘は犠牲が大きかった。自由シリア軍側は3人の指揮官を失った。両者ともに痛手を負い、戦闘後、互いに相手を非難した。

クルド人活動家は述べた、「イスラム原理主義の部隊がいたため、クルド住民は自由シリア軍から離反した」。

クルドの政党「クルド国民会議」も自由シリア軍を批判し、「そもそも自由シリア軍が町にいることに意味がなく、正当性がない」と言った。

自由シリア軍の司令官リアド・アサド将軍は、戦闘の責任をガルバ・シャム大隊に帰した。「戦闘を引き起こしたのは、クルドとアラブの良好な関係を破壊しようとする連中だ。ガルバ・シャムは自由シリア軍と無関係だ」。

 

20日の戦闘に対する批判の応酬があったににもかかわらず、1122日も衝突があり、ヌスラは8名の死者を出し、クルド側は兵士1名が死んだ。

1123日、PYDが発表した、「敵を25名殺害し、20名を負傷させ、3台の車両を破壊した」。

 

同日1123日、2日間の停戦が発表された。

クルド軍とヌスラ戦線・ガルバ大隊との間で、正式な停戦のための交渉が始まった。

1124日、停戦が成立した。しかし停戦は2週間後、破られる。126日、戦闘が再開される。

クルドと反政府軍が休戦中だった123日、シリア空軍がマハッタ地区の警察署と郵便局を爆撃した。10人死亡し、数十人が負傷した。トルコから救急車がきて、21人の負傷者を病院に運んだ。シリア空軍の爆撃に対し、トルコは数機のFー16戦闘機をディヤルバクルからスクランブル発進させた。

 

1212日から14日まで、自由シリア軍は、セレカニエ市内に向けてロケット砲を発射した。またセレカニエの周辺の町で戦闘を開始したが、失敗に終わった。

1215日、再び停戦交渉がおこなわれ、翌日停戦について合意した。17日地元のクルド人兵士とアラブ人兵士の間で停戦が実現した。

停戦の条件は、双方が市内から兵を引き上げ、市を取り巻く検問所を共有し、市の行政を地元の非戦闘員にゆだねる事だった。地元民とは、クルド・アラブ・チェチェン・キリスト教徒である。

戦闘は停止したものの、双方の戦闘員は市内にとどまった。停戦の実効性が危ぶまれた。

2013年の11日~5日、YPGの第一回総会がデリクで開かれた。

 

  

 

総会では、YPGの命令系統を明確にすることが決定された。当然セレカニエの状況も議題になった。PYDの党員たちは強調した、「シリア国民が団結して戦うべきである。アラブ人反政府軍との信頼関係を築くことが重要である。この点で、彼らがPYDの旗の隣に自由シリア軍の旗を掲げたことは、良い兆候である。以前はYPGの支配地で自由シリア軍の旗を掲げるものなら、YPGは旗をあげた者を誘拐したり、脅迫したりしたのである」。

この会議はセレカニエの停戦を後押しするものだった。しかし戦闘は続いた。

 

117日の夜明け、約300人の反政府軍が、トルコからセレカニエに入り、迎え撃つクルドとの間で激しい戦闘が開始された。トルコから3台の戦車が侵入したが、クルド兵はその1台を奪い取った。3人のYPG兵が死亡し、7人の反政府軍が死亡した。

反政府軍の指揮官がYPGを非難した、「YPGは停戦を破り、発砲し、我々の仲間15人を殺した」。

18日・19日の戦闘で33人が死亡した。反政府軍の聖戦士の死者が28人で、クルドの死者は5人である。

 

21日の戦闘で、クルドの司令官1人が死亡し、反政府軍20人が死亡した。4人の住民が死亡した。

22日から24日までに、クルドの司令官2人が死亡した。

25日、反政府軍2人、クルド軍1人が死亡した。

避難した住民が反政府軍を非難した、「彼らは、市内にいるクルド住民に配慮しない」。

同じく25日、自由シリア軍がアザディ党の党員4人を誘拐し、PYDに捕らえられている自分たちの仲間との交換を要求した。アザディ党はPYDに批判的なクルドの政党である。

 

128日、反政府軍は市庁舎と警察署を攻撃し、クルドと戦闘になった。

翌日クルド軍は反政府軍が拠点としていた市内の建物を攻略した。この日、反政府軍は4人負傷し、4人死亡した。戦闘が激化しており、反政府軍の数が減っていた。援軍が必要だった。その晩、かなりの数の反政府軍がトルコの国境を超え、セレカニエに入った。援軍を得たが、反政府軍は形勢を変えることはできなかった。

 

130日までに、YPGはほとんどの反政府軍をセレカニエから追い出した。アッシリア人のキリスト教会も奪いかえした。

この日、自由シリア軍はシリアクルド民主党の党員のひとりを誘拐し、拷問したうえ殺害した。シリアクルド民主党はPYD(民主統一党)と対立する政党ブロックに属している。遺族が遺体をダルバシヤの町の検死官の事務所に運ぼうとすると、YPGの検問所は通過を拒否した。

   

131日、YPGはフランスの救急車を奪った。フランス語の文書があった。トルコは救急車でアラブ人に武器・装備を送っている、とYPGはトルコを非難した。

 

    <停戦への努力>

11月の停戦は破られたが、平和への努力が再びはじまった。

123日、反政府軍はクルドとの仲介人として8人の委員を選定した。委員の一人は「クルド国民評議会」の党員である。クルド国民評議会(KNC)はPYDに反対する野党が集まった政党ブロックであり、反政府軍のアラブ人に歩調を合わせようという傾向がある。

2月初旬、ともかくいったん戦闘を中止し、2度目の正式な停戦を実現すべく、話し合いが始まった。

 

クルド最高評議会の代表とアラブ反政府軍の代表が会見し、停戦の条件について話し合った。この停戦条件は、セレカニエだけでなく、クルド全域に適用される。しかしクルド人の活動家は、3か月も戦闘を続けた両者が、クルド全域で停戦するとは、とても思えないと語った。自由シリア軍系の、「ハサカ県アラブ革命軍事評議会」は、クルドとの停戦を拒否した。「クルドは反政府軍の一員とは言えない。クルドの支配を受け入れることはできない」。

 

反政府軍の一員であり、キリスト教徒のマイケル・キロが停戦交渉の進行役を務めた。交渉の過程で、意見の違いが明らかになり、気まずい雰囲気になった。交渉は、たびたび決裂しかかった。

ハサカ県アラブ革命軍事評議会は、次のことを要求した。

①町と国境検問所はすべて、シリア国民連合の管理下に置かれるべきだ。

②自由シリア軍系の戦闘員だけが町を支配すべきである。

PYDは、合法的な政府であるシリア国民連合に従わければならない。

④ハサカ県でクルドの旗を掲げてはならない。

クルドの諸政党は4つの条件をあっさりと拒否した。クルドは双方の戦闘員が町から去ることを提案した。そして両方の政治的代表で構成される合同評議会に、町の統治をゆだねることを提案した。

 

219日、YPGとアラブ反政府軍との停戦合意が、セレカニエで公表された。一週間戦闘はなかった。合意の内容は以下のとおりである。

①外部の戦闘員はセレカニエから退去する。

②自由シリア軍とYPGが合同して検問所を設定する。これによって、セレカニエへの出入りが自由になる。

③民主的な地元の評議会を創設し、これが町と国境検問所を管理する。

④近い将来、アラブとクルドが協力して、警察を組織する。

⑤自由シリア軍とYPGが協力して政府軍と戦う。

自由シリア軍は地域のいくつものアラブ反政府軍を代表して合意文書に署名した。ヌスラ戦線とグラバ・シャムはそれぞれ別個に署名した。

仲介人役のキリスト教徒マイケル・キロは、両軍の戦闘員は町から退去したと報告した。

 

   く対立の根は深い>

しかし数人の活動家は、停戦の実現を疑っている。イスラム主義の戦闘集団、とりわけグラバ・シャムは、けしてクルドの権利を認めないだろう。

クルド人活動家の一人が言った、「いずれの側も、すぐにでも停戦を破棄しかねない。自由シリア軍の軍事評議会はこの地域では影響力がない。それだけでなく、軍事評議会はこれまで矛盾した発言をしてきた。この停戦合意は無意味だ」。

 

停戦合意が調印されてから3日後、自由シリア軍の最高指令官サリム・イドリス将軍が、停戦合意を否定した。理由は、PYDPKK及びイラク・イランのクルドと結びつきが強いからである。

これは、4国にまたがるクルドの連携を恐れるトルコの発想である。専門家によれば、イドリス将軍はトルコの立場を代弁している。トルコは、クルドと戦うアラブ人を積極的に支援した。救急車で武器・弾薬をかれらに届け、負傷者をトルコの病院に運んだ。

反政府軍の指導者は、トルコの支援されていることを認めている。

 

一晩中戦ったあげく、717日、クルド軍はイスラム戦士をセレカニエから追い出した。またトルコへの越境地点を確保した。

9人のイスラム戦士が死亡し、2人のクルド兵が死亡した。

   <PYDの戦略>

PYDの指導者サレフ・ムスリムによれば、セレカニエをアラブ人が支配することは、2つの結果を生む。

①アレッポ県ノクルド地域がハサカとの連絡を失い孤立する。このことにより、自由シリア軍は、クルドの力をつぶすことが容易になる。

②自由シリア軍はトルコからの補給線を獲得する。これは重要な意味を持つ。生命線を獲得することによって、アラブ反政府軍はシリア東部の広い地域を支配することが可能になる。ハサカ市も彼らのものになるだろう。

   <反政府軍の戦略>

反政府軍の指導者は、彼の部隊はハサカ県をクルドの好きなようにはさせないだろうと言った。彼ナワフ・ラゲブはハサカのアラブ部族の出身であり、長年クルドと争ってきた。ハサカ県には農産物と石油があり、シリアで最も豊かな県である。

 

<自由シリア軍によるセレカニエ攻撃の余波>

201211月上旬、自由シリア軍がセレカニエの政府軍を攻撃した、と冒頭に書いた。この攻撃は、別の場所で副産物を生んだ。

セレカニエが自由シリア軍の支配するところになったのを見て、YPGは他の町も自由シリア軍に奪われることを恐れた。YPGは自由シリア軍に先んじて3つの町を攻撃した。

1110日、YPGはダルバシヤとテルタメルに残存していた治安部隊と行政施設を攻撃した。

1113日、YPGはデリクの政府軍を追い出した。

 

    

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クルドとアサドの戦い  2012・2013年

2015-10-11 12:03:37 | シリア内戦

         西クルド東端の町 デリク

       

2012年半ば、内戦が本格化すると、アサド政府はクルド地域の多くを放棄した。空白を埋めるようにクルドの人民防衛隊(YPG)がクルド地域に入り、支配を確立した。クルドとアサドの間に取引があったとトルコは考えている。「クルドはアサドと戦わず、アサドと手を組んだ」。

アサド政権は、できるだけクルド人を自分の陣営にとどめておきたい。敵の数を減らしたいたいからである。しかしクルドの独立志向は認めたくない。独立はクルド人の悲願であり、両者には根本的な対立がある。クルド軍とアサド軍は友軍ではなく、両者の関係は緊張しており、実際に戦闘も起きた。両軍から戦死者が出ている。

アサド政府はクルドまで相手にする余裕がなく、やむなく一時的に撤退しているだけである。

 クルドも戦闘を避けたい。人口に相応して兵士も少ないので、大戦闘をして大出血すれば、兵士を補充できない。シリアのクルド人の闘いは、そこで終わる。トルコのクルド人がシリアに来て戦うことも考えられるが、そうするとYPGの戦いからPKKの戦いに変質してしまう。

そういうわけで、シリアのクルド人は、できるだけ戦わず、情勢を利用し、巧妙に立ち回りながら、クルドの自治を獲得しようとした。 PYDは「シリア国民評議会」とその新組織「シリア国民連合」に加盟せず,反政府運動への参加には消極的だった。

「シリア国民評議会」はシリアの反政府運動を代表する組織である。2012年8月、イスタンブールで結成された。反政府運動を支援するカタール・サウジ・トルコの影響下にある。しかしシリア国民評議会は亡命シリア人を中心とした旧世代の反体制派であり、国内の反体制派との結びつきが弱かった。また内部の路線対立が激しく、まともに機能しなかった。

2012年10月31日、ヒラリー・クリントン米国務長官は「国民評議会は反体制派のリーダーとしての資格がない」と発言した。

11月11日、ドーハにおけるシリア反体制派の会合で、国民評議会を含めた各派は、新たな統一組織を樹立することに合意した。これが「シリア国民連合」である。新組織樹立はアメリカによる押し付けであると言って、国民評議会は最初反対した。しかし援助が増加するという見返りが大きいので、結局合意した。

 

クルドは「シリア国民連合」に参加せず、国内の他の反政府運動から距離を置いた。これは、アサド政府との関係が友好的になったわけではなく、単独で自己の目的を追求したのである。アサド軍との敵対関係が表面化するここともあった。YPGがアサド政府軍に最後通牒を出し、政府軍を追い出したこともある。それにとどまらず、2012年の夏以降、両者の間で、しばしば戦闘が起きた。

 

        <カミシュリで衝突>

2012年7月22日、YPGがカミシュリに侵入し、政府軍と衝突した。YPG兵士1名が死亡し、2名が負傷した。この後アサド政府は妥協し、YPGがカミシュリの一部を支配することを黙認した。政府軍と警察は今まで通り兵舎にいる。街の中心部は政府の支配地となっている。こうしてカミシュリは2つに分割された。              

      <クルド人住民21名が死亡>

  

 アフリンはアレッポに非常に近い。アレッポの反政府軍は大勢力であり、アレッポはシリア内戦最大の激戦地である。したがって、アフリンのクルド人は、望まなくても、戦闘に巻き込まれる危険がある。アフリンはアレッポをトルコとと結びつける交通線に近接しており、アレッポにとって重要である。

クルド人はアフリン地区で多数派であるが、アフリン地区にだけ住んでいるわけでなく、アレッポにも住んでいる。アレッポのクルド人がアサド政府軍とアラブの戦闘に巻き込まれた。  

2012年9月6日、アレッポ郊外のシェイク・マクスードのクルド居住区で、アサド政府軍がモスクとその周辺に砲撃した。クルド人住民21名が死亡した。

      

自由シリア軍と政府軍が激突した「アレッポの戦い」の間、シェイク・マクスードのクルド人は中立の立場をとり、これまで戦闘とは無縁だった。にもかかわらず、政府軍がクルド住民を砲撃した。理由は、反政府軍に参加したアラブ人をクルド住民がかくまったことらしい。

21名のクルド人が殺されたので、YPGは報復を誓った。数日後、YPGはアフリンで政府軍兵士3名を殺し、コバニとデリクで多数の政府軍を捕虜とした。YPGはこの際、デリクから政府軍を追い出した。デリクはカミシュリの東にある町である。

    

YPGが勝利したデリクでは、クルド語の教育が始まり、住民がクルド語の読み書きを学び始めた。アサド政府はクルドとの決定的な対立をためらっており、追認した。

           クルド語を学ぶデリク住民       

       

アサド政府はデリクを失ったので、続いてカミシュリ市を完全に失うことを恐れた。クルドはすでにカミシュリ市の一部を占領している。アサド政府は周辺のアラブ人に武器を与え、クルドとの決戦に備えた。

ほとんどの場合、カタールとサウジがアラブ人に武器を与え、アサド政府と戦わせている。カミシュリ市ではアサドがアラブ人に武器を与え、クルドと戦わせるとは!

20日後の9月30日、カミシュリ市で自動車爆弾が爆発し、政府軍兵士8名が死亡した。YPGが政府の政治警察のカミシュリ支部を攻撃したのだった。

(本文)  YPG-Syrian government conflict

  

      <2012年末、北部の勢力図>

2014年の地図と比べると、2012年の地図には違いがある。2012年末、シリアにISISはいない。ISISがシリアに姿を現すのは、2013年の春である。自由シリア軍・ヌスラ戦線・イスラム系諸軍が、反政府軍としてひとまとめにされている。

この時点で、アサド政府はデリゾール県を失っただけで、ラッカ市もハサカ市も維持している。

地図には示されていないが、カミシュリも、市の中心部をアサド政府が押さえている。

シリア北部では、アレッポ市内とその周辺の反政府軍が、シリア政府にとって悩みの種だった。

 

    <自由シリア軍ととYPGの衝突 2013年>

セレカニエは政府軍が支配していたが、2012年11月、自由シリア軍がシリア政府軍を攻撃し、町を占拠した。しかし、町の新しい支配者になった自由シリア軍はアラブ人である。住民の多数を占めるクルドが反発し、大規模なデモをおこなった。そのデモ隊に、自由シリア軍が発砲した。クルド人が弾圧されたので、YPGが出動した。自由シリア軍とYPGの戦闘が開始された。戦闘は3か月続き、数百人が死亡した。1月半ば、自由シリア軍が敗退し、YPGは自由シリア軍をセレカニエから追い出した。(セレカニエはカミシュリの西:地図参照)

2月末、停戦合意が交わされた。 

    <YPG、石油地帯を奪う>

セレカニエでYPGが勝利した時期、ハサカ東部の石油地帯で、YPGはアサド軍を追いつめていた。

           

1月9日、ギルケ・レゲ(Girkê Legê‎‎)の近くにあるクルドの村で、YPGがアサド政府軍200名を包囲した。14日に戦闘が始まり、19日まで続いた。

政府軍兵士1名が死亡し、8名が負傷した。7名が捕虜となり、27名が脱走した。。戦闘は、1月21日、YPGの勝利で終わった。ダマスカスからの支援が来ず、政府軍は撤退した。

ギルケ・レゲの近くのこの村には油田がある。YPGはハサカ県の石油地帯からアサド政府軍を追い払うことに成功した。

      <分断されたカミシュリ市>

2012年7月以来、カミシュリ市内にはYPGの検問所があり、クルドの旗が立っている。

         カミシュリ市内のYPG

       

2013年3月末カミシュリ市に入った玉本英子は、「カミシュリ市は2つに分断されており、街の4割をシリア政府軍が、6割をクルド軍が支配している」と報告している。

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 <玉本英子のシリア報告>10

シリア政府軍とクルド組織が対峙~カミシュリ市   2013年4月30日

シリア北東部ハサカ県最大の街カミシュリ市。アレッポなど各地でおこなわれている空爆もなく、街は一見、平穏に見えた。しかし市は2つに分断されている。街の4割をシリア政府軍が、6割を人民防衛隊(YPG)が支配下におく。

境界線では双方が対峙し、緊張状態が続く。政府関係の建物が並ぶ通りには自動小銃を持った政府軍兵士たちの姿が見られた。

YPGの地区では、組織と強いつながりがあるクルディスタン労働者党(PKK)のアブドゥラ・オジャラン党首の顔写真の大きな看板が掲げられていた。(一部省略)

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カミシュリでの戦闘は終わらない。2012年9月30日、YPGの自動車爆弾で政府軍兵士8名が死亡しことを書いた。半年後、緊張は再び流血に変わった。今回は政府軍がいきなりYPGを攻撃をした。

モニター紙が伝える。

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4月4日、予期しない事件が起きた。巡回中の政府軍兵士が、YPGの検問所を襲った。この検問所はカミシュリ空港の近くの環状交差路にあった。YPG兵士3名が死亡した。

しばらくしてYPGが報復に出た。カミシュリ市の入り口にある政府軍の検問所2か所を、YPGが攻撃した。政府軍兵士3名を殺害、7名を捕虜にした。死亡したのは7名だとも言われる。3名の他に、病院に運ばれてから4名死んだというのである。

YPGは検問所攻撃は、平和な関係を破る行為である。YPGは「政府軍とは戦わない」という中立政策を捨てることを検討している。しかし政府軍と全面戦争になれば、空爆され、アレッポのようになってしまう。YPGは難しい決断を迫られている。

(全文) Conflict Intensifies in Kurdish Area of Syria

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結局カミシュリの事件は全面戦争に発展しなかった。

しかしカミシュリでは時おり戦闘が再燃し、規模は小さいが、カミシュリは、激しい戦闘が続く他地域のようになってしまうのではないかと思わせる。

こんがらかった紐のように、ほどく術がないと言われるシリア内戦に、新たな紛争の種が生まれたようだ。

この緊迫した事件が起きた時、玉本英子がカミシュリに滞在しており、現地の子供たちを取材し、街がアサド政府とPYD(クルド政党)によって分断されている様子を伝えている。クルド支配の地区では教師がいなくなった。政府の脅迫により、教師が去ってしまったという。 

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玉本英子のシリア報告>24 カミシュリで一部の小学校が再開

2013年5月28日 (4月上旬取材) 

ハサカ県カミシュリ市では、内戦の影響で多くの小学校は今も休校を余儀なくされている。そんななか独自に授業を再開した学校がある。政府の支配が及ばなくなったあと、地区で政治力を拡大させたクルド政党、民主統一党(PYD)の判断だ。

         

シリア北東部、カミシュリ市は小学校の多くが休校したままだが、独自に授業を再開した学校もある。5年生の教室では、児童たちは避難民の大学生が教える授業に熱心に耳を傾けていた。(シリア・ハサカ県カミシュリ4月上旬撮影:玉本英子)

市内西部ダハ・ガルビン地区にあるシェリフ・ラディ小学校ではおよそ200人の児童が学校へ戻ってきていた。これまでいた教師は、他の都市へ避難したり、政府に脅迫されるなどで復帰することはできなかった。代わりに避難民として近隣県から逃れてきた大学生たち13人が教壇に立っている。

シリア国民の1割はクルド人だ。しかしアサド政権下では、クルド語での教育が禁止されてきた。クルド人の子どもたちは家でクルド語の読み書きの勉強をするしかなかったが、シェリフ・ラディ小学校では、クルド語の授業も取り入れられることとなった。

5年生の教室で児童たちと話をした。シェイダン・アナスくん(11)は「電気がないから好きなテレビ番組も見られない。水もないからシャワーも浴びれない。友達の何人かは町を去った。どうしてこんなことになってしまったの?」

サヤ・アリさん(11)は「ほかの町では、空爆で多くの子どもたちが死んだ。私たち何も悪いことしていないのになぜ」

とうつむいた。

子どもたちの問いに、私は答えることができなかった。

カミシュリ市は今のところ大規模な空爆はないが、政府軍と人民防衛隊(YPG)の衝突もおきており、今後、戦闘につながる可能性もある。普通の日常が戻るには、まだ時間がかかりそうだ。それまで、子どもたちは耐えなければならない。(一部省略)

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    <ハサカ市より人口が多いカミシュリ市>

       

カミシュリ市は人口20万の大都市である。30万とも言われる。大都市共通の現象として、シリアの様々な少数民族が流入し、生活している。内戦が始まると、難民となった少数民族にとって、平和なカミシュリ市は安全な避難場所になった。内戦の開始以来、7000の家族がカミシュリ市に避難した。主にデリゾール・ラッカ・アレッポからである。数は少ないが、カミシュリ市周辺の農村から逃げてきた家族もいる。

     <2013年末のカミシュリ>

       

2013年末の勢力図では、クルドはセレカニエを確保し、ハサカ市内に食い込んでいる。

しかしISISが登場しており、アラブ人の町タルハミスにISISが入り込んでいる。 

ハサカ県の2大都市であるハサカ市とカミシュリ市は、アサドとクルドが分割統治している。

カミシュリ市は2014年1月、ジャジーラ自治州の首都と決定されたにもかかわらず、当分の間アムーダが首都としての役割を代行することになった。ロジャバ3州の自治政府樹立を宣言したものの、西クルド最大の都市カミシュリ市を首都にできない。

       アムーダ   看板の顔写真はPKKのオジャラン党首

     

理由は3つある。

①カミシュリはクルド人が多数を占めるが、他にアラブ人、アッシリア人、アルメニア人、トルコ系住民が市内で隣同士に暮らしている。クルド民族主義を前面に出すことは危険である。

②アサド政権は中央政権としての立場を守りたい。したがって、各県の中心都市は絶対に手離さない。カミシュリ市は県都のハサカ市よりも人口が多い。2013年末の勢力図で、カミシュリとハサカの2都市がクルドとアサドの分割支配になっているのは、このためである。

③PYDは慎重である。クルド民族主義を掲げて猛進することはない。西クルドの総人口は200万にすぎず、大きな敵と戦えば自滅する。小さな敵でも、いくつもの敵を同時に相手にすることは危険である。

女性を兵士にしているのは、すでに男子が不足しているからである。

トルコのPKKを頼んで冒険することも可能だが、それをしない。カミシュリ市内に残存するアサド軍を駆逐しようとしない理由について、PYDの指導者が言った。「政府軍を攻撃すれば、空爆で仕返しされるだけだ。何にもならない」。

      ハサカ県北部とイラクの国境   検問所を守るYPG兵士

    

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シリア内戦を契機に、クルドが自治政府樹立

2015-10-04 09:24:35 | シリア内戦

      <内戦を契機にクルドは自治を実現>

2011年、チュニジアで始まったアラブの春がシリアに波及した。

2011年に始まった反政府デモは2012年には内乱となった。スンニ派の鎮圧に精いっぱいで、シリア政府はクルド民族主義を抑圧する力を失った。2013年11月、シリアのクルド(西クルド)は暫定統治を開始し、事実上の自治政府が誕生した。こうして「ロジャバ革命」が実現した。

           クルド3州

   

自治政府樹立へと至るまでのクルド地域の状況と、PYDの周到な戦略について、wikipedia「Rojava Revolution」が書いている。この文の内容を、一部補足しながら、まとめた。

   <2011年、ハサカ県のクルド>

2011年1月26日、ハサカ市で、市民の一人が焼身自殺した。

政治活動家はこの日を「怒りの日」と呼んで集会を開いたが、政府の弾圧を恐れて人は集まらなかった。

しかし数日後、警察官が小売店主をなぐったことが原因で、抗議行動が起きた。

以後小さな抗議行動が続いた。

2011年3月7日、獄内の政治犯13人がハンガーストを行った。3日後、これに連帯する抗議行動として、数十人の市民がハンガーストを開始した。これ以後アサド政権に対する反対運動が大きな広がりを持った。

「クルドの殉教者の日」を記念し、アサド政権に抗議するため、3月12日、カミシュリ市とハサカ市で多くの住民が集まった。3月と4月、抗議行動は拡大した。

アサド政権がクルドをなだめるため、数千人のクルド人に市民権を与えると約束したのは、この時である。

夏になると、抗議行動はますます激化し、政権による弾圧は過酷になった。

 

    <シリア全土で反政府運動>

2011年の夏、ハサカに限らず、シリア全土でアサド政権に対する抗議が先鋭化した。政府に批判的な人々は、アサド政権の打倒と、新政府の樹立を求めるようになった。

8月、反政府勢力が結束し、「シリア国民評議会」が成立した。民主的で、国内の多様な要素を代表する新政府の樹立を目標とした。

しかし「シリア国民評議会」は当初から、内部での対立と分裂に悩まされた。

 

     < 反政府勢力から距離を置くクルド>

後に、ボイス・オブ・アメリカは、西クルドは最初から他の反政府組織と距離を置いていた、と報告した。西クルドとはシリアのクルドである。(2013年の記事)

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2011年5月31日、「シリア国民評議会」の結成の準備として、トルコのアンタリアでシリア反対派サミットが開かれた。クルドはこのサミットをボイコットした。西クルドの12の政党が結成した「クルド政党国民運動」は、ボイコットの理由を次のように述べた。

「トルコで開かれるこの種の会議は西クルドにとって有害である。トルコはクルドの願望を危険なものと考えている。トルコはトルコ内のクルド人も、シリアのクルド人も、全てのクルド人を敵であると考えている」。

また西クルドの左翼政党の代表は次のように述べた。

「我々シリアのクルド人はトルコを信用していない。トルコの政策を警戒している。だから我々はシリア反対派サミットをボイコットした」。 

8月、シリア反対派はイスタンブールで二度目のサミットを開き、「シリア国民評議会」が結成された。この会議には、西クルドの2政党が参加した。クルド統一党とクルド自由党である。他の10政党は再びボイコットした。

ボイコットの理由について、ある指導者は、「トルコは全世界のクルド人を敵視している」と語った。

「自国内の2千5百万人のクルド人の基本的な権利を認めないトルコが、シリア国民とシリアのクルド人の権利を認めるだろうか?」

 一方、サミットに参加したクルド自由党の代表は「クルドの立場を主張するために、反政府サミットに参加した」と語った。「会議の期間、トルコからいかななる圧力もなかった」。

(「Rojava Revolution」はVOAの本文へのリンクを示していない)

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2011年の秋、市民の抗議行動は、武装蜂起へとエスカレートした。「自由シリア軍」が各地で結成され、シリアの中央部と南部で武装闘争が開始された。

9月20日、ハサカ県のラアス・アルアイン(セレカニエ)でクルド人政治家マフムード・ワリが暗殺された。

          ラアス・アルアイン(セレカニエ)

       

10月7日、著名なクルド民族主義者のマシャール・タンモが、暗殺された。覆面をした男たちがタンモの自宅に押し入り、銃撃した。シリア政府の指図によるものと考えられている。

同時期、シリア政府はシリア各地でデモを弾圧し、市民20名が死亡した。

 

        <PYD、アサド政府と平和を保つ>

シリア全土の反政府運動に呼応し、クルド地域でも政府を批判する声が高まっていたにもかかわらず、クルド民主統一党は独自な政治的判断をした。過激な反政府運動を中止し、他地域の反政府闘争から距離を置くことを主張した。 

民主統一党《PYD》は西クルドの12の政党のうち最も有力な政党であり、2003年、トルコの非合法クルド政党《PKK》の支部として設立された。

方針転換について、民主統一党(PYD)のサレフ・ムスリム議長は説明した。

「反政府闘争に参加しないのは、実際問題として、政府とは平和が実現しているからだ。政府軍は兵力が足りず、不穏なアラブ諸県全てに展開することはできない。ましてクルド地域に軍を送る余裕はない。政府軍としては、アラブを相手にするだけでも手に余り、ロジャバで第二戦線を開くなど、論外である」。

         PYDの指導者サレフ・ムスリム

       

政府軍将兵の逃亡はまだ少なかった2011年秋の段階で、政府軍の兵数はすでに不足していた。

政府軍からの離脱者が増えた2012年の冬、政府軍の下級将校が「同時に数か所で問題が起きると、対応できない」と困難さを語っていた。

PYDのサレフ・ムスリム議長は続けた。

「我々は、バース党アサド政権が崩壊する場合に備え、現在の行政にとって代わる、クルドの行政機構を構築することに専念したい。行政機関としての委員会とその中の各部門を準備しなければならない。その間、我々の軍隊は、戦闘に巻き込まれてはならない」。

YPG(人民防衛隊)は、2004年、PYDの軍事部門として結成された。イラクのクルド地域で組織されたが、政治部門のPYDと同様、トルコのPKKの影響下にある。

    

2014年末、イスラエルのジャーナリストがハサカ県に入り、YPGを取材した。YPGのキャンプにPKKの女性将校の姿があり、インタビューに答えている。

          <PKK、トルコ政府にくぎを刺す>

2011年11月、トルコの非合法政党PKKの幹部が言明した。「トルコがロジャバ(西クルド)に干渉するなら、PKKはロジャバを守るために戦うだろう。PKKの軍司令官もトルコに警告した。「トルコ軍がロジャバに侵入するなら、トルコに住む全てのクルド人が蜂起するだろう」。

 PYDがアサドと平和を保ち、行政機構の構築に専念している間、他の地域では、反政府運動が本格的な内戦へと転化した。アサド政府は平穏なクルド地域の部隊を戦闘地域に回す必要に迫られた。

        <YPGが出動>

2012年6月、アサドの部隊が去った後の空白を埋めるため、PYDはクルド地域にYPGを配置することを決定した。クルド各地からアサド軍が去った後、クルド軍が平穏に進出した。アサドとPYDの間に了解があったのかもしれない。

軍隊を有する唯一の政党PYDがクルド地域を統治することが自然な流れとなった。しかし政治的な観点から、PYDはクルドの政党「国民評議会」に、共同統治を働きかけた。

2012年6月11日、イラクのクルド自治政府のマスード・バルザーニ大統領の仲介により、PYDと 「クルド国民評議会」との間に、7項目の合意が成立した。しかし、これは実行されず、空約束に終わった。

7月12日、2つの政党は再び合意に達し、クルド最高委員会が成立した。最高委員会は西クルド3州の統治機関となった。PYDの一党独裁ではなく、クルド国民評議会との連立政権になった。

7月19日、YPGはコバニに入った。

 

コバニに続き7月20日、YPGはハサカ県のアムーダに入った。wikipediaの「Amuda」がこれについて書いている。

       <YPG、アムーダを制圧> 

アムーダでは、YPGに先んじて、自由シリア軍が町に入った。

アムーダはロジャバ(西クルド)の首都カミシュリの隣町である。

        

2012年7月、アサド政府はクルド地域の統治を放棄した。アムーダから政府軍が撤退すると、自由シリア軍が町に入ってきた。しかし7月21日、YPGが町の支配を確立した。

YPGのアムーダ支配は平穏ではなかった。自由シリア軍を追い払ったものの、町には、自由シリア軍の支持者がいた。

2013年6月、YPGと自由シリア軍の支持者が衝突した。PYDに敵対的な住民が、YPGが抗議集会に発砲した、と訴えた。町には自由シリア軍系の青年委員会が組織されており、クルド住民と対立していた。

批判されたPYDの党員は「、自分たちはならず者傭兵に襲撃された」と主張した。

こうした不安定要素はあったが、多数派のクルド住民の支持があり、PYDとYPGはアムーダの支配を維持した。

その後、ハサカ県南部へISISが進出し、難民となった人々が、アムーダに流れ込んだ。アムーダは安全な場所だった。

             自由な女性の広場   アムーダ

       

 

      <クルド自治政府樹立>

2013年年11月、PYDは「暫定統治計画」を宣言した。「臨時政府には、クルド国民評議会をはじめとする諸政党が参加する」。

「クルド自治政府の樹立は、シリアの一体性を破壊するのだ」という批判に対し、PYDは「暫定統治は自衛のためであり,独立に向けた動きではない」と弁明した。

2014年の1月初め、ジャジーラ州で選挙が行われ、ジャジーラ州の第一回会議がアムーダで開かれた。会議は憲法を承認し、ジャジーラ州の首都をカミシュリと定めた。アムーダが暫定的に首都の役割を代行することになった。2004年の統計では、アムーダはハカ県で4番目に人口が多い町である。

ジャジーラ州会議の議長にはクルド人のエクレム・ヒソがなり、アラブ人とアッシリア人が副議長になった。

    

2014年1月21日、ロジャバ3州の自治政府樹立が宣言された。 「3州はそれぞれの政府を持つ」とした。しかし実際に誕生したのはジャジーラ州政府のみである。他の2州の政府は形式的なものにすぎない。

コバニとアフリンは周囲が敵で、孤立しており、戦時状態に近い。コバニの西に位置するジェラブルスには、ISISの基地があり、アフリンは激戦地アレッポから至近距離にある。現在、両州は統治機構を立ち上げる段階になく、YPGの武力によって3地区を結合することが先決である。PYD3州の一体化を最終目的としているようである。現在の段階では、とにかくジャジーラ州で国家機構を現実化させることが大きな前進である。

現在切り離された3つの部分となっている3州を一体化するには、中間地帯を征服しなければならない。YPGにとっては大仕事となる。それでYPGは、2013年11月1日、アラブ人部隊を編制した。

征服予定の地域には、クルド以外の住民も住んでいる。クルド以外の住民の中で最多数であるアラブ人の反発を少なくするため、アラブ人の地区はアラブの部隊に任せる。征服をできるだけ平和的なもにするためである。アラブ人部隊の名は、「アフラール・アルワタン旅団」である。

クルドは、コバニの隣のジェラブルスを占拠しているISISを攻撃するつもりであった。機が熟すのを待ちながら、一歩一歩準備を進めていた。しかし2014年9月16日、ISISの方が先にコバニに襲いかかった。

 

2014年7月、アラブ人とクルド人の2人が、ジャジーラ州の新長官に選ばれた。アラブ人長官は地元の部族長であり、女性のクルド人長官は元YPG女性部隊の隊長ハディヤ・ユースフである。

       

2014年11月、元フランス外相ベルナール・クシュネと、「国境なき医師団」の創設者がアムーダを訪れ、長官たちと会った。

        <アムーダの歴史>

19世紀、英国の旅行者が、アムーダ村の住民はクルド人だとしている。20世紀には、アッシリア人が多数移住し、アムーダはキリスト教徒の町と言われるまでになった。アッシリア人はキリスト教徒であり、クルド人はイスラム教徒である。

1937年、ダマスカスのアラブ民族主義がアラブ人とクルド人をそそのかし、アッシリア人を虐殺した。アッシリア人はカミシュリ市とハサカ市に逃れた。宗主国のフランスは非アラブの権利を尊重する政策を進めた。独立を熱望するアラブ民族主義に対抗する勢力を育てる意味もあった。

これに反し、ダマスカスのアラブ民族主義者は非アラブの分離傾向を恐れ、危険な民族を弾圧した。

こうしたことがあったが、現在もアムーダにはアッシリア人が住んでいる。トルコからクルド人の移住があり、アムーダはクルド人が多数の町となっている。

 

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2004年のハサカとアフリン

2015-10-02 23:34:52 | シリア内戦

         

シリアのクルド人は西クルドと呼ばれる。イラクのクルド人は南クルドである。トルコのクルド人から見て、両地域はともに南にあるが、イラクのクルド地域は、より南にある。シリアのクルド地域から見て、イラクのクルド地域は南東にある。

2014年の秋と冬、シリアのコバニのクルド人住民の多くが難民となった。「彼らは、「北や南に行った」と言われる。北はトルコのクルド地域であり、南はイラクのクルド地域である。

内戦以前、シリアのクルド人の人口は2百万人であり、シリア全人口の約10%にすぎない。居住地も、シリアの北端のわずかな地域であり、3つの地域に分断されている。

               ロジャバ3州

       

しかしハサカ県には油田があり、シリアの数少ない資源地帯となっている。

石油と天然ガスの産出はハサカ県に集中しており、他にデリゾール県でも産出する。

ISISはハサカ県の南部を支配しており、ハサカ県の石油・ガスの半分を得ている。デリゾール県の石油・ガスもISISの支配下にある。

     

 

   

    

     <2004年、ハサカ県のクルド>

2004年、アサド政権に対する暴動がクルド地域で続発し、ハサカ県は緊迫した状況となった。

カミシュリでのサッカーの試合で、喧嘩が起き、それがクルドの暴動に発展した。

地元のクルドのチームと隣のデリゾール県のアラブのチームの対抗試合が白熱し、アラブ側のファンがサダム・フセインの肖像画を掲げた。

サダムはイランとの戦争の末期、1988年に、イラクのハラブジャでクルド人数万人を毒ガスで殺した。クルドが裏切り、敵イランを利する行為を行ったとサダムは疑ったのである。クルド人が虐殺された3月16日は、クルド人にとって追悼の日となっている。

クルド人が悲しみの日としている虐殺について、アラブ人があてこすったのは、度を過ぎた野次だった。

隣県デリゾールのアラブ人に対するクルドの怒りに端を発し、クルド対アラブの暴力的な抗争が始まった。クルド人の怒りは統治の責任者である政府にも向けられ、クルド人は反政府デモを行った。彼らはクルドの国旗を掲げ、政治的・文化的権利を要求した。

        

 

シリア政府は、反政府的な動きは国家の分裂につながると考えており、過敏に反応する。クルドのデモを厳しく弾圧した。

クルド対アラブの暴力事件とデモの鎮圧で30人が死亡した。死者は100人だとする説もある。

以後数年間、デモ隊と治安部隊の衝突が起きた。

クルド人の反政府感情はこの時生まれたのではなく、長い歴史がある。政府はクルド人の存在を公式に認めていない。

1962年多くのクルド人が市民権をはく奪され、外国人として登録された。1920年のオスマン帝国の住民登録に、彼らの先祖が登録されていないからである。

クルドの言語と文化は抑圧された。

2011年、政府はすべてのクルド人に市民権を与え、クルドの不満をなだめようと試みた。しかし外国人とされている5万人のうち、市民権を得たのはわずか6千人だけだった。

またクルドに対する諸規制は廃止されなかった。クルド語を教えることは禁じられたままである。

(参考)Rojava Revolution wikipedia

 

     <アフリン自治州>

アフリンは2014年に成立したクルド自治州を構成する3州のひとつである。(最初の地図参照)

アフリンはアレッポに近く、アレッポ県に所属する地区であった。2014年に成立したロジャバ州のひとつで、西端に孤立している。

      

アレッポとその周辺には反政府軍の大勢力が存在している。トルコのキリスには、彼らを支える支援基地がある。キリスとアレッポを結ぶ地帯は反政府軍にとって生命線である。その生命線を脅かす位置に、アフリンが位置している。

反政府軍の心臓部に、クルド自治州が割り込む形になっている。 

     

        <2004年のアフリン>

2004年にシリア北部の各都市で反政府暴動広がった。一連の暴動で、治安機関や行政施設も次々と焼き討ちされた。シリア政府は「テロ集団の破壊活動」とした。アフリンのクルド人の反政府運動について、アジアプレスが現地取材した。

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アレッポの近郊に位置するアフリンは、中東でも名高いオリーブの産地だ。濃緑色のオリーブ畑が一面に広がる丘のふもとには、クルド人とアラブ人の村々が隣り合わせに並ぶ。

      

秘密警察ムハバラットに見つからないよう、日が落ちてから移動して、取材をすすめた。暗い路地を抜け、さびた鉄門を開け、あるクルド人家族のもとを訪れた。

この町では昨年(2004年)3月、ふたりの若者が治安部隊によって殺害された。

フセイン政権の毒ガス攻撃でクルド人が虐殺された3月16日は、クルド人は追悼の日として心に刻んでいる。シリアのクルド人も「ハラプジャの日」として各地で集まりをもってきた。地元治安当局は、「非合法集会」として集まりを禁止したが、路上に集まった若者たちはシリア政府を批判するスローガンを叫びだした。

「フセインは去った!つぎはアサドだ!」

            

裁縫店で働くジェラール君(当時17歳)は、友人たちと行進に参加した。彼は、胸に治安部隊の自動小銃の銃弾を受け、運び込まれた病院で死亡した。

事件の調査はおこなわれず、家族は当局を恐れ、声をあげることができないという。

 (出典) つぎはアサドだ」シリア・クルド人の苦悩(3)

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      <アフリンの歴史>

アフリン地区はアレッポ県に所属し、2004年の人口は、17万である。地区の中心となる町アフリンには3万6千人が住んでいる。アフリンという名前は、ここを流れるアフリン川に由来する。

      

町の南5kmのところに、新ヒッタイト王国の遺跡がある。ローマ時代、属州シリアの一部だった。637年アラブ領になった。

アフリンは十字軍時代、アンチオキア公国の支配下に入ったが、モンゴルの襲来により、1260年以後、再びイスラムの支配に戻った。

オスマン帝国時代、アフリンはキリス県の一部だった。

アフリン渓谷は、クルド地方から離れれているが、18世紀には、クルド人が住んでいた。人口の少ない村だった。19世紀に市場ができ、町になった。

 

     <キリスから切り離されたアフリン>

1923年、トルコとシリアを隔てる国境線が引かれ、アフリンはキリスから切り離された。、アフリンはフランス統治下のシリアに組み込まれた。

1929年、アフリンには500人しか住んでいなかったが、フランス統治時代に、バスの停留所を中心に町は発展した。1967年、アフリンの人口は7000人になった。

1939年、トルコがハタイ県を併合した。アフリンの西側はトルコ領になってしまった。(地図参照)

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