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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

十字軍 アンティオキア戦②

2018-12-25 22:07:37 | 世界史

   

1097年10月21日十字軍はアンティオキアの包囲を開始した。しかし包囲は不完全であり、南側の2つの城門が封鎖されておらず、アンティオキア城内の守備軍は補給を調達することができた。またアンティオキアの城主ヤギ=シヤーンは十字軍の到着前に十分な食料を備蓄していた。包囲している十字軍のほうが食糧不足に陥った。12月末、十字軍が食糧調達(=略奪)のため南下していると、アンティオキア守備軍を援助するため、ダマスカスから北上していたドゥカークの軍と鉢合わせになッた。十字軍は兵士を失い、獲得した家畜は逃げてしまった。1月になり十字軍の食糧不足は深刻になった。死んだトルコ兵の肉を食べる者さえいた。アンティオキア守備軍への援軍はダマスカスカスのドゥカーク軍に続き、さらに多くの援軍が来ると予想された。

1月は十字軍にとって絶望的な時期だったが、2月になり、十字軍への補給物資を積んだ船が聖シメオン港に到着した。十字軍の食糧不足が改善した。十字軍にとって命綱となった補給船を送ったのは誰か、知られていない。恐らく東ローマ皇帝だろう。

道案内と助言の役目を兼ねて東ローマ皇帝から十字軍に派遣されていたタティキオスはアンティオキアから少し離れた地点での包囲を再び勧めたが、十字軍はあいかわらず彼の助言を受け入れなかった。その後間もなくタティキオスはコンスタンチノープルに帰ってしまった。彼は皇帝アレクシオス・コムネノスに任務放棄の理由を述べた。

「私を殺す計画がある、とボエモンが私に知らせた。東ローマは秘かにトルコ人を支援している、と十字軍の騎士たちは考えている。ボエモンの周囲の者たちは東ローマの裏切りに怒っている。『ひきょうな東ローマ皇帝との約束を守る必要はない。アンティオキアを陥落させたら、自分たちの所有にする』」。

トルコ人から聖地を奪回することは、東ローマ帝国とローマ教皇の共同事業であり、十字軍が奪回した土地は、東ローマ皇帝に返還する取り決めがなされていた。

アンティオキア攻略に成功しても、この町を東ローマには渡さない、という考えは、実はボエモンが決めたことだった。アンティオキアの守備軍を救援するため、各地のトルコ軍が近づいてきており、困難な戦いに勝利して得たものを他人に渡すのは理不尽だ、とボエモンは考えた。ボエモンは東ローマとの縁を切るつもりで、タティキオスを追い払ったのである。ゴドフロアとレーモンはボエモンに反対したが、下層の騎士と兵士はボエモンの考えに賛成し、彼のために尽力するつもりだった。

 

アンティオキアの城主ヤギ=シヤーンとアレッポの支配者リドワーンは敵対関係にあった。リドワーンはアンティオキアを奪取しようとしていたからである。しかしヤギ=シヤーンと友好な関係にあったダマスカスのドゥカークが12月援軍に来たものの、敗れてしまったので、ヤギ=シヤーンはなりふりかまわずリドワーンに救援を願い出た。リドワーンは了承し、アンティオキアに向かった。ディヤルバクルとハマの軍もリドワーン軍に合流し、総勢12000人の軍になった。2月初め、リドワーン軍はアンティオキアの東35kmにあるハーリムに到着した。

29日リドワーンの軍は「鉄の橋」に向かって進んでいた。

十字軍はリドワーン軍との戦闘に備え、命令系統を一本にし、南イタリアのノルマン人ボエモンを最高指揮官に選出した。十字軍の宿営地には兵士以外の人員もいた。食糧を運んだり、馬の世話をする人たちである。宿営地が戦場になれば、彼らも犠牲になる。十字軍にとって最も有利な戦場は鉄の橋で敵を迎え撃つことだった。大軍といえども、橋を渡る人数は限られており、トルコ兵が橋を渡っている最中に攻撃すればよい。しかし最高指揮官ボエモンはそれでも十字軍の兵数が少なすぎると考えた。この時十字軍には騎士が乗るための馬が700頭しか残っておらず、騎馬兵が少なかった。歩兵はアンティオキア城内からの出撃に備え、宿営地に残しておかなければならなかった。十字軍の騎馬兵の数が少ないため、ボエモンは鉄の橋で迎え撃つなら、十字軍に大きな犠牲が出るだろうと判断し、先手を打って奇襲することにした。ボエモンと騎士たちは敵に気づかれないよう夜の間に宿営地を出た。たった700人の騎兵で12000人のトルコ軍を相手にするのであるから、かなり無謀な作戦だった。

オロンテス川とアンティオキア湖の間の丘陵地で、戦闘が始まった。

  

ボエモンは700人の騎兵を6つの小隊に分けた。一個小隊はボエモン自身の部隊であり、ボエモンは最初これを温存し、最も重要な場面で投入するつもりだった。一方リドワーンは2個部隊を前衛とし、本隊より先に進ませた。ボエモンが戦闘に選んだ場所は敵・味方双方にとって危険な場所だった。川と湖に挟まれた狭い場所だったからである。リドワーン軍の一部がボエモン軍を突き破り背後に回ったなら、ボエモン軍に逃げ場はなかった。リドワーンの前衛部隊が本隊より先に進んでいることを、偵察兵がボエモンに報告したので、十字軍の5小隊が先制攻撃をした。不意打ちを受けたトルコ軍はあわてて後退した。後退した前衛部隊はあとから進んできた本隊と衝突し、トルコ軍は混乱した。トルコ軍本隊は事態を収拾し、十字軍とトルコ軍の戦闘が始まった。十字軍は押されぎみになり、トルコ軍に圧倒されそうになった。その時ボエモンの予備小隊がトルコ軍に襲い掛かり、トルコ軍を撃退した。

ボエモンの小隊の奮闘について、年代記(Gesta Francorum)には次のように書かれている。

「ボエモンは味方の騎士たちが掲げる十字の旗に加護され、血に飢えたライオンのようにトルコ軍に襲いかかった。彼は猛烈にトルコ軍の中に切り込んで行ったので、彼の旗の先はトルコ兵の頭の上を動き回った。ボエモンの旗が真っ先にトルコ軍に突っ込んでゆくのを見ると、他の騎士たちは退却をやめ、我先にとトルコ兵を攻撃した。十字軍の攻撃にたじたじとなったトルコ軍は退却した。十字軍は逃げていくトルコ軍をハーリムまで追撃し、数千名のトルコ兵を殺害し、馬と補給物資を手に入れた。ハーリムの守備隊は城を焼き、リドワーンと共に東へ逃げて行った」。

十字軍が鉄の橋付近で戦っている間、アンティオキアの城主ヤギ=シヤーンは十字軍の宿営地に攻撃をしかけたが、トゥールーズのレーモンによって撃退された。レーモンに同行していた従軍牧師(Raymond of Aguilers)が次のように書いている。

「戦闘に勝利し、戦利品を得た十字軍はトルコ兵の首を持ち帰り、トルコ軍敗北の記念として棒の先につるした」。

十字軍の死傷者は比較的少なかった。クイーン・メアリー大学(ロンドン)のトーマス・アブリッジはこの戦闘を次のように評価している。

「十字軍の運命はボエモンの冒険的な行動にかかっていた。ボエモンは絶妙のタイミングで、騎兵の能力を最大限に発揮してアレッポから来たトルコを軍を壊滅させた。非常に大胆な行動により、ボエモンは闘いの流れを変えた」。

 

3月4日、エドガー・アシリング率いるイギリス船団が聖シモン港に到着した。イギリス船団はコンスタンチノープルから補給品を運んできた。エドガーはイングランド王位を主張しており、コンスタンチノープルに亡命していた。エドガーが船団を所有してるはずがなく、船団の所有者については謎であるが、おそらく、東ローマ皇帝だろう。

補給品の中には攻城用の装置を組み立てるための資材なども含まれていたが、聖シモン港からアンティオキアに向かう途中、城内から出てきたトルコ兵に襲撃され、攻城装置の部品(=木材)の一部が奪われてしまった。同時に十字軍の兵士100人が死亡した。トルコ兵の襲撃により、補給品を護送していたボエモンとレーモンが死んだという噂が流れ、ゴドフロアは援軍を送ろうとしたが、城内から別の部隊が出撃してきたので、まずそれに対応しなければならなかった。ゴドフロア軍がトルコ軍と戦っていると、ボエモンとレーモンが応援に駆けつけてきた。こうして3軍が一つとなり、強化された十字軍は、城壁の手前までトルコ軍を追い詰めた。十字軍の攻撃が成功し、1200-1500人のトルコ兵が死亡した。

十字軍は攻城装置を組み立て、これまで封鎖していなかった「橋の門」の前に砦(とりで)を築いた。城内のトルコ兵がこの門から出撃し、聖シモン港とアンティオキア間の補給線を攻撃できないようにするためである。シモン港の北のアレクサンドレッタ港も十字軍への補給船の到着地となっており、こちらからの補給路も安全にする必要があった。トゥールーズ伯レーモンが「橋の門」の封鎖にあたった。(アレクサンドレッタ港の位置は上の地図参照)

「橋の門」と同様それまで封鎖されていなかった「聖ゲオルゲ門」は城内に食糧を運び込むのに利用されており、十字軍は門の西にある修道院の廃墟を改築した。ボエモンの甥のタンクレードは400銀マルクの出費をして、修道院を要塞化した。年代記は修道院をタンクレードの要塞と呼んでいる。

こうしてアンティオキアの封鎖を厳重にしたことにより、封鎖は効果を持つようになった。

         〈4月〉

4月になると、エジプトのファーティマ朝の使節が十字軍に送られてきた。ファーティマ朝はパレスチナの支配をめぐりシリアのトルコ人と争っており、敵の敵は味方だという考えにより、十字軍と友好的な関係を求めてきた。十字軍からは隠者ピエールが交渉にあたることになった。しかし交渉は失敗に終わった。ファーティマ朝は十字軍を東ローマ皇帝の傭兵軍と考えており、「シリアを東ローマに与える代わりに、パレスティナには侵入しないでくれ」と要求した。この提案は東ローマ帝国にとって妥当なものだったかもしれない。しかし、エルサレムを所有することが最大の目的だった十字軍にとって、「パレスチナに浸入するな」という条件を受け入れることはできなかった。

交渉は失敗に終わったが、十字軍はファーティマ朝の使節を丁重にあつかい、高価な贈り物をした。それらはトルコ人から奪ったものだった。

            〈5月〉

5月になると、モスルの支配者ケルボガの軍が十字軍の討伐に出発した。ダマスカスのドゥカークの軍やアレッポのリドワーンの軍にくらべ、ケルボガの軍は強大だった。そのうえ、ペルシャ軍やディヤルバクルのアルトゥク朝の軍も参加していた。(ディヤルバクルの位置は地図参照)。ケルボガはエデッサを攻略してから、アンティオキアに向かうつもりだった。

エデッサはアンティオキアと違い、田舎町であり、周辺には農地と荒野が広がっていた。十字軍がアンティオキアの包囲を開始する前のことになるが、十字軍諸侯のひとりであるボードゥアンがエデッサの支配者となった経緯について簡単に書いておく。

ブーローニュのボードゥアンと南イタリアのタンクレードは、アナトリアを横断中に本隊と別れ、キリキアに行った。キリキアの住民の多くがアルメニア人であり、彼らはキリスト教徒だったので、援助が得られると考えたからである。その後タンクレードはアンティオキアに向かったが、ボードゥアンはエデッサに行った。エデッサの住民もアルメニア人だった。ボードゥアンはキリスト教徒であるアルメニア人とは友好関係を築くことができると考えていたようである。

エデッサに着くと、ボードゥアンは統治者ソロスから「セルジューク朝の武将たちから街を守ってほしい」と頼まれた。ボードゥアンは了承し、その代償として、自分を後継者と認めてほしいとソロスに要求した。ソロスはボードゥアンの要求を受け入れた。その後間もなく、エデッサ市民が反乱し、ソロスが死亡したので、ボードゥアンがエデッサの新しい支配者となった。こうして最初の十字軍国家エデッサ伯国が成立した。エデッサ市民の反乱の背後にボードワンがいたとも言われている。

ケルボガはエデッサを攻撃したが、エデッサを守るボードゥアンは持ちこたえた。ケルボガがエデッサ攻略をあきらめた時、モスルを出発してから3週間たっていた。この間アンティオキアの十字軍はケルボガ軍に対する備えををすることができた。

ケルボガ軍に対する備えとは、ケルボガが到着する前にアンティオキアを攻略してしまうことだった。平地で戦うなら、十字軍はケルボガの軍隊に勝てないことを知っていた。十字軍が生き延びる唯一の方法はアンティオキア城を自分たちのものにすることだった。数週間前ボエモンは城内の人物と秘密に連絡を取ることに成功していた。その人物は「2姉妹の塔」を守備していたアルメニア人だった。トルコ軍を裏切ることにしたアルメニア人兵士の動機は、ボエモンにもわからない。トルコ軍に恨みがあったのか、裏切りに対する報酬がほしかったのだろう。とにかくフィルーズ( Firouz)という名前のアルメニア人は、報奨金と騎士身分をくれるなら、ボエモン軍の兵士を城内に入れると約束した。ボエモンは他の諸侯たちに「自分をアンティオキア公にすると約束するなら、城を攻略する秘策を教えよう」と持ちかけた。するとレーモンはボエモンの図々しさに怒り、「アンティオキア城は東ローマ皇帝に引き渡すべきだ」と言った。しかしゴドフロア、タクレード、ロベールはボエモンの要求を受け入れることにした。十字軍は切羽詰まった状況にあり、彼らはここで消滅かもしれなかったからである。

           〈6月〉

6月2日、ブロア伯エティエンヌと他の諸侯が十字軍から離脱した。同日ボエモンと城内の守備兵フィルーズは計画の実行にとりかかった。フィルーズの策略に従い、ボエモン軍はケルボガを迎え撃つと見せかけるため、南へ向かって進軍した。夜になるとボエモン軍は全速力で引き返し、2姉妹の塔にはしごをかけ、上り始めた。塔の見張りをしていたのはフィルーズだったので、ボエモンと十字軍の小隊は何ごともなく、城内に入ることができた。ボエモンは城内に入ると、正門の脇にある小門を開けた。門の近くの岩陰に隠れていた十字軍の大部隊が小門からなだれ込んだ。城内のトルコ軍はようやく十字軍の侵入に気付いたが、すでに後の祭りだった。十字軍の兵数はトルコ軍の兵数をはるかに凌(しの)いでいた。十字軍は城内にいたイスラム教徒だけでなく、数千人のキリスト教徒市民を殺害した。十字軍はイスラム教徒とキリスト教徒を振り分けようとしなかった。アルメニア人キリスト教徒であるフィルーズの母も殺されてしまった。ギリシャ正教徒はヤギ=シヤーンによって城から追い出されていたので、城内に残っていたキリスト教徒はアルメニア教会の信徒とシリア教会の信徒であった。アンティオキアの城主ヤギ=シヤーンは十字軍が近づいてくるのを知ると、ギリシャ正教徒の裏切りを恐れて、彼らを城から追い出してしまった。ギリシャ正教徒は、東ローマとの結びつきが強いからである。ヤギ・シヤーンは十字軍を東ローマの傭兵と考えていた。シリアのキリスト教徒の大部分はシリア教会の信徒であるが、アンティオキアにはギリシャ正教会の信徒も住んでいた。十字軍が城に残っていたキリスト教徒を殺害したのは失策であるが、余裕がなかったのだろう。シリアのキリスト教徒はイスラム教徒から差別され、宗教税を払わなければならない。イスラム教徒の君主はキリスト教徒を迫害することはないので、最悪ではないが、最善でもない。十字軍はキリスト教徒の友軍になる可能性があった。

住民が殺されるなか、ヤギ=シヤーンは城から逃げ出した。しかし彼はアルメニア人キリスト教徒とシリア人キリスト教徒によって逮捕された。彼の首は切り落とされ、ボエモンに差し出された。

十字軍はアンティオキアの攻略に成功したが、東側のシルピアス山頂付近にある小さな城塞にはヤギ=シヤーンの息子の部隊が残っていた。前回書いたように、アンティオキアは城塞都市であるうえに、東端には小さい城塞があり、守備軍はこれに拠って最後の抵抗を続けることができた。

十字軍に同行していたローマ教皇の使節の助言により、アンティオキア総主教はこれまで通リその地位にとどまった。ローマ教皇の使節は東ローマとの良好な関係を維持したいと考えており、ボエモンの野心を警戒していた。ボエモンは「攻略した土地を東ローマ領とする」という東ローマ皇帝との約束を破るつもりでいた。

モスルからひアンティオキアに向かっているケルボガの大軍に対し、十字軍は圧倒的に有利な城塞を手に入れたものの、食糧が不足していた。

6月5日ケルボガ軍が到着し、2日後アンティオキアを攻撃したが、失敗した。9日ケルボガは攻撃をあきらめ、包囲作戦に切り変えた。

ケルボガの到着直前、多数の十字軍がアンティオキアを逃亡し,タルススに向かい、すでに離脱していたブロア伯エティエンヌと他の諸侯の軍に合流した。(タルススの位置は上の地図参照)。難攻不落の要塞を手に入れたとしても、食糧がなくなれば、飢え死にするだけであったので、十字軍から逃亡者が出たのはやむを得なかった。後続の離脱者がタルススに来る前、エティエンヌはアンティオキアに戻り、様子をうかがった。アンティオキアがケルボガの軍に包囲さているのを見て、十字軍は絶望的だ、エティエンヌは考えた。後続の離脱者たちも同じ考えだった。エティエンヌと他の十字軍はタルススを出発し、コンスタンチノープルに向かった。途中でかれらは東ローマ皇帝とであった。皇帝は十字軍への援軍として、アンティオキアに行こうとしていた。皇帝は十字軍によるアンティオキアを攻略を知らず、現在トルコ軍に包囲されていることも知らなかった。エティエンヌはこのことを皇帝アレクシオスに報告したうえで、「アンティオキアの十字軍は全滅するでしょう」と語った。アレクシオスの偵察兵がアンティオキアに他地域からトルコ軍が多数集まっていると報告したので、アレクシオスはアンティオキアの十字軍を救おうとするのは危険が大きすぎると考えてコンスタンチノープルに引き返した。

前回と今回は英文ウィキペディアの「アンティオキア包囲戦(Siege of Antioch)」の訳であるが、一部youtubueの動画の内容を付け加えた。

*The First Crusade - Episode 12: The Siege of Antioch, 1097

       Real Crusades History       

      <https://www.youtube.com/watch?v=IIMAMTg4tio

*First Crusade: Siege of Antioch 1098 AD

       BazBattles

      <https://www.youtube.com/watch?v=BV5Z_CHbkAw

 * 鉄の橋の戦いについては、英文ウイキペディアの「 Battle of the Lake of Antioch 」を訳した。

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アンティオキア包囲戦

2018-12-11 15:28:20 | 世界史

 

1097年の夏の終わり、十字軍はシリアに入り、アンティオキアに向かった。

アンティオキアの住民はアルメニア人、ギリシャ人、シリア人であり、彼らはキリスト教徒であった。城主はセルジューク・トルコの軍司令官ヤギ=シヤーンだった。彼はキリスト教徒に対し寛容だった。

1085年セルジュークトルコはアンティオキアを占領した。その3年後(、スルタン(マリク・シャー)は配下の武将ヤギ=シヤーンにアンティオキアの統治をまかせた。

イスラム教徒がシリアを占領するまで、アンティオキアはシリアで最も重要な都市だった。イスラム時代になると、アンティオキアは東ローマ帝国とイスラム帝国の最前線となり、この都市の争奪戦が繰り返され、荒廃した。

ヤギ=シヤーンがアンティオキアの支配者になるまでの、この都市の歴史について要約する。

 

    〈シリアの中心都市アンティオキア〉

ヘレニズム時代、アンティオキアはセレウコス朝シリア王国の首都だった。ローマ時代にはシリア属州の州都として栄えた。アンティオキアはシルクロードの出発点でもあった。アウグストゥスの後継者であるティベリウス帝の時代に、ローマの属州ユダヤにおいてイエス・キリストが活動した。イエスはユダヤ属州総督ピラトによって処刑された。初期キリスト教の時代、パウロはアンティオキア拠点として異邦人に布教した。アンティオキアはギリシア文化が根付いており、この地のキリスト教はギリシア文化の影響を受けた。

キリスト教がローマ帝国に公認されるようになると、アンティオキアは五大総主教座の一つとなった。他の主要な総主教座はローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、エルサレムにあった。アンティオキアはシリア地域の政治・経済・宗教・文化の中心地として栄えた。

6世紀、東ローマ皇帝ユスチニアス1世がアンティオキアの城壁を強化した。

 

 

 

7世紀イスラム帝国が成立し、シリア全域がその支配下に入った。シリア北端のアンティオキアも陥落した。ユスチニアス1世の城壁によって守られていたにもかかわらず、アンティオキアが陥落したのは、城内に裏切る者がいたからである。

 

 

 

アンティオキア陥落から300年経過し、969年東ローマ帝国はアンティオキアの奪回に成功した。

 

 

 イスラム世界に対する最前線に位置するアンティオキアを再び失うことがないよう、東ローマ帝国は要塞を強化した。東側のシルピウス山の頂上に城塞が築かれた。山のふもとから城塞まで城壁が続いており、敵が東側から侵入することは不可能となった。東側には見張りを巡回させるだけで十分であり、守備隊は北側の守備に専念することができた。また最悪の場合この山城に拠って抗戦を続けることができた。

 

  

 

 アンティオキアの防備が完璧だったにもかかわらず、1085年東ローマはセルジューク朝によってアンティオキアを奪われた。今回もアンティオキア城内に裏切る者がいたからである。

 

    〈十字軍、アンティオキアを包囲〉

 

1087年からヤギ=シヤーンがアンティオキアの支配者となっていたことは最初に述べた。ヤギ=シヤーンは十字軍が近づいていることを知ると、城内の住民が裏切るのではないかと恐れた。市民の大部分がキリスト教徒だったからである。そこで彼は策略を用いて,市民を場外に出した。「敵が近づいているので防御のために濠(ほり)を掘ってくれ」と市民に言った。穴掘りの仕事が終わると市民は城内に帰ろうとしたが、門は閉ざされていた。「十字軍との戦闘が終わるまで、待ってくれ」と衛兵は城主ヤギ=シヤーンの言葉を伝えた。

ヤギ=シヤーンは周辺の地方政権に援軍を求めた。最も近いアレッポの支配者リドワーンには断られたが、ダマスカスのカドゥカークとモスルのケルボガは支援を約束した。バグダードのスルタンはヤギ=シヤーンへの応援をケルボガに一任しており、ケルボガの軍は強力な援軍だった。

ヤギ=シヤーンは援軍を依頼する一方、十字軍の攻撃に備え城内に補給物資を集めた。

 

一方の十字軍はアンティオキアの近くまで来ていた十が、彼らは弱っていた。夏の暑さの中、ニカイアからアンティオキアまでアナトリアを縦断するのは困難な行軍だった。食糧が不足し、兵士や馬が飢えて死ぬこともあった。十字軍の指揮官たちは援軍が到着する春まで攻撃を延期することにした。十字軍とともに行軍してきた東ローマの助言者タティキオスは968年に東ローマがアンティオキアを奪還した時と同じような作戦を提案した。それは19㎞離れた山中に本陣を置き、アンティオキアを包囲することだった。トゥールーズ伯レーモンはこれに反対し、直ちに攻撃することを主張したが、他の指揮官たちの意見を受け入れた。

 

10971020日、十字軍はアンティオキアから19㎞手前、オロンテス川の橋に到着した。橋は防備され、守備隊がいた。フランドル伯ロベール2世とピュイ(Puy-en-Velay )の司教アデマールが守備隊を攻撃し、これを追い払った。

南イタリアのタラント候ボエモンの軍が先頭になり、十字軍はオロンテス川の南岸に沿ってアンティオキアに向かった。1021日はアンティオキアの北側に到着した。その後部隊ごとに3つの城門を封鎖した。

 

 

南イタリアのボエモンは市の北東側の「聖パウロ門」に宿営し、その西隣に、北フランスの3諸侯が布陣した。(①ヴェルマンドア伯ヒュー1世 ②ノルマンディー伯ロベール ③ブロア伯シュテファン2世)

 

南フランスのトゥールーズ伯レーモンとピュイ伯アデマールは北の「犬門」の前に布陣した。下ロートリンゲン公ゴドフロワは西の「公爵門」の前に陣を張った。

 

 

南西の「橋の門」と南側の「聖ゲオルゲスの門」は封鎖されなかった。「橋の門」の前をオロンテス川が流れており、橋を渡って攻撃するのは危険である。また橋の手前で封鎖するにしても、城壁の上から放たれる矢が届かないところまで後退しなければならい。遠巻きに封鎖するなら多くの人数が必要である。もし少人数で遠巻き封鎖するなら、城内からトルコ軍が出てきて奇襲される危険がある。このような理由で、十字軍は「橋の門」の封鎖をあきらめた。聖ゲオルゲスの門の前は小川が流れており、門の周囲は崖だった。十字軍は同じ理由でここの封鎖もあきらめた。

ボエモン軍の騎士が次のように書き遺している。

「我々は3つの門を完全に封鎖した。しかし残り2つの門を封鎖することはできなかった。そこは高い山のふもとで、急斜面だったからである」。

十字軍の封鎖には穴が2つあいており、城内の守備軍に補給が続けられた。

当時の記録には「十字軍がすぐに攻撃したら失敗しただろう」と書かれている。例えば、トゥルーズ伯レーモンの従軍牧師は次のように書いている。

「アンティオキアはよく防備されており、機械を用いたとしても攻略はできない。最強の軍隊でも不可能だ。それだけでなく、城内には精鋭の騎士2000人と通常の騎兵5000人、それと1万人の歩兵がいた」。

実際には城内の守備兵の人数は非常に少なかったのであり、十字軍の想定は事実とかけ離れていた。

 

11月になっても十字軍が攻撃してこないので、ヤギ=シヤーンは安心した。それまで彼は十字軍の攻撃が始まることを恐れていたが、安心すると積極的になり、十字軍の不意を衝いて攻撃してみることにした。彼は騎馬隊を出撃させ、十字軍を攻撃した。

トルコ軍は犬の門から出撃し、オロンテス川に架かる橋に向かった。最初トゥールーズ伯レーモンとピュイ伯アデマールの軍は門の前に布陣したが、その後オロンテス川の対岸に後退していた。トルコ軍が橋に向かっているのを見て、橋の反対側に布陣していた十字軍はあわてて橋を壊そうとした。ハンマーとつるはしで橋を壊そうとしたが、橋は堅固にできており、びくともしなかった。そんなことをしていると、トルコ軍の矢が飛んできた。橋が破壊でないと知った十字軍は、今度は移動式の防護柵を橋のたもとへ持って来た。しかし橋を渡り終えたトルコ軍は移動式の柵を撤去してしまった。十字軍への威嚇攻撃が成功し、トルコ軍は城内に帰った。

十字軍がトルコ軍と戦おうとせず、橋を壊そうとしたのは、トゥールーズ伯レーモンとピュイ伯アデマールの部隊のほとんどが略奪に出かけており、留守番の部隊しか残っていなかったからかもしれない。十字軍にとって食料不足が深刻であり、食糧を得ることが第一の課題となっていた。それにしても留守番兵のうろたえぶりは普通でない。

 

117日、13隻のジェノア船がシメオン港に到着した。ジェノア船は十字軍への援軍を運んできた。シメオン港はアンティオキアの西14kmに位置しており比較的近い。にもかかわらず、ジェノア兵はアンティオキアに向かう途中でトルコ軍の襲撃を受け、犠牲者が出た。

ジェノア船が到着したころ、アンティオキア北東部の聖パウロの門を封鎖していたボエモンは、城内のトルコ軍からの奇襲に対抗するため、近くの丘に砦を築いた。

ジェノア軍に続き、タンクレドの軍が到着したので、十字軍は増強された。タンクレドはボエモンの甥であり、ボエモン軍の西に布陣した。

 

12月になると十字軍の食糧が不足し、ゴドフロアが病気になった。1228日、ボエモンとフランドルのロベールは2万の兵士を連れ出し、食料の調達(=略奪)のためにオロンテス川上流地方に向かった。

 

アンティオキア城主のヤギ=シヤーンは十字軍の3グループがまとまりを欠いていることに気づいていたので、ボエモン軍が食糧調達に出かけたのを知ると、翌日の夜再びトルコ兵を出撃させた。トルコ兵は聖ゲオルゲス門か出て、オロンテス川を渡り、再びレーモン軍を襲撃した。不意を突かれたレーモン軍は混乱したが、態勢を立て直し、トルコ軍を城門まで追撃した。前回と違い、今回の戦闘では、双方から死者が出た。

 

この頃ダマスカスの支配者であるドゥカークがアンティオキア守備軍の救援に向かっていた。食料調達に向かっていたボエモン軍・ロベール軍とダマスカスから北上してきドゥカークはアンティオキアの東方で偶然に鉢合わせをした。

 

 

両軍は知らずに接近していたが、ドゥカークが先にこのことを知った。住民が情報を提供したのである。1231日ドゥカークの軍は十字軍のほうに向かって進み、両軍はアル・バラ村で衝突した。

地図にあるように、ボエモンとロベールの軍はアンティオキアからかなり離れた地点に来ていた。

ボエモン軍の前を進んでいたロベール軍がいきなり攻撃を受けた。ボエモン軍もすぐに戦闘に参加し、キリスト教軍はダマスカスから来たトルコ軍を追い払った。しかしキリスト教軍の損害が大きく、略奪を再開する余力がなかったので、アンティオキアに引き返した。戦闘の前、キリスト教軍は略奪した多数の家畜を連れていたが、戦闘中に多くの家畜が逃げてしまった。アンティオキアに持ち帰得ることができた食糧は不十分だった。

アル・バラ村で戦闘があった1230日地震があり、その後の数週間寒く雨の降る日が続き、十字軍にとって災難だった。信心深い十字軍は「雨と寒さは神様に見放された証拠だ」と考えて落ち込んだ。ピュイのアデマールは土地の住民から略奪したことへの天罰だと考え、罪が許されるようにと、3日間の断食を命令した。いずれにせよ十字軍の食料不足は深刻になっており、間もなく7人のうち一人が餓死するようになった。

雨と寒さはトルコ軍にも影響を与えた。アル・バラ村での戦闘の後、ドゥカーク軍はハマまで退却したが、そこで待機し再び十字軍を攻撃するつもりでいた。しかしひどい悪天候が続いたので、ドゥカーク軍はダマスカスに帰っていった。

 ボエモン軍とロベール軍の略奪遠征が半ば失敗に終わったので、十字軍の食糧不足問題は解決しなかった。地元のキリスト教徒が食べ物を持ってきたが、法外な代金を要求した。飢えのため馬も死に、700頭だけになった。十字軍の食糧難がどの程度だったか、正確には分からないが、エデッサのアルメニア人(Matthew of Edessa )は次のように書いている。

5人に1人が飢えで死んだ。死者の多くは貧しい者だった」。

 

このような状態で、十字軍の士気が落ちた。10981月には逃亡する騎士や兵士が出始めた。聖地奪回の必要性を訴える演説で民衆に感銘を与え、民衆十字軍成立の立役者となった隠者ピエールも離脱した。スペインにおいてイスラム教徒と戦ったことで有名なフランス人貴族「大工のウイリアム」も同様である。ボエモンは逃亡者を逮捕するため部隊を送った。ピエールとウイリアムは逮捕されたが、許された。ウイリアムは厳重に注意され、2度と逃亡しないと誓約させられた。ウイリアムは大工と名乗っているが、貴族であり、戦力として期待されていたので、厳しく注意された。

 十字軍の状況は日を追うごとに悪化した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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