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アエクイ族ローマの郊外を略奪

2021-08-31 11:31:42 | 世界史

 

==《リヴィウスのローマ史第巻》=

Titus Livius   History of Rome

    Benjamin Oliver Foster

 

【1章】

 

ローマ軍がアンティウムを占領した年の翌年、ティトゥス・アエミリウスとクィンクティウス・ファビウスが執政官になった。ファビウス家の男子のほとんどがクリメラ川の戦いで戦死しており、クィンクティウスは唯一の生存者だった。アエミリウスは以前執政官だった時に、平民への土地の分配を提唱した。彼が二度目の執政官になると、土地法の制定を望む人々の期待が高まった。これまで何度も失敗してきたが、今度は何より執政官の一人が土地法の支持者なので、必ず成功するだろう、と護民官たちは自信を持ってこの問題を取り上げた。もちろん執政官の考えは変わっていなかった。貴族の多くが土地を占有していた。彼らはアエミリウスに不平を述べた。「国家の最高官が護民官のやり方を採用している。彼は他人の所有物を与えることで人気を得ている」。

今や貴族は護民官ではなく執政官アエミリウスを憎むようになった。深刻な争いに発展するところだったが、ファビウスが両方にとって受け入れ可能な提案をしたので、争いの火を鎮めることができた。前年ローマはT.....・クィンクティウスの優れた戦争指導によりヴォルスキ族から広大な土地を手に入れ、アンティウムに植民地を建設することが可能になった。アンティウムは港湾都市であり、ローマから遠くなかったので、植民地に適していた。平民は国家の新しい土地に入植を許され、すでに土地を所有している者に損害を与えることもない。これによって対立は解消され、国家は調和を取り戻すだろう。この提案は採用され、ファビウスは土地の分配をT.....・クィンクティウス、A.....・ヴェルギニウス、P.....・フリウスの三人に委任した。土地を受け取りたい者は名前を言うように、と命令された。いつものように土地が広すぎて、多くの者は欲しがらず、申し込んだ者が少なかった。植民者の数が足りなかったので、ヴォルスキ人を植民者に加えた。ほとんどの人は他国の土地ではなく、ローマの土地を欲しがった。

執政官ファビウスがアエクイ族に対し軍を進めると、アエクイ族は和平を求めた。しかしアエクイ族は誓いを破り、ラテン人の土地に侵入した。

 

【2章】

翌年の執政官はQ.....・セルヴィリウスとSp.....・ポストゥミウスだった。セルヴィリウスはアエクイ軍に向って軍を進め、ラテン人の土地に陣を敷き、周囲に塹壕を掘った。しかしローマの陣地内で疫病が発生し、ローマ軍は戦闘できる状態ではなかった。

戦争は長引き、3年目となり、クィンクティウス・ファビウスとT.....・クィンクティウスが執政官になった。戦争の最初の年クィンクティウス・ファビウスがアエクイ軍に勝利した時、和平と引き換えに、アエクイ族はローマ軍の行動の自由を認めるという特別命令を出していた。ファビウスは自分の名声によりアエクイ族を平和に向かわせることができると確信していた。彼は使節をアエクイの国家会議に送り、次のように伝えた。

「前回私は諸君と平和を達成してローマに帰ったが、今回戦争をするために戻ってきた。前回諸君に平和の約束をした私の右手は現在武器を持っている。誓いを破り再び戦争を起こした背信行為を、神々は見ており、時間をおかず復讐するだろう」。

使者が伝えた言葉は宣戦布告に等しかったが、ファビウスは「アエクイ族が自ら反省し、敵によって懲らしめられるのを避けるだろう」と期待していた。もしアエクイ族が反省するなら、ファビウスの寛大の措置を期待できた。彼らはマリウスの寛大さを知っていた。しかし彼らがあくまで背信行為に走るなら、地上の敵ではなく、怒れる神々と戦うことになるだろう。しかしヴォルスキ族は使節が伝えた言葉に耳を貸さず、ローマの使節は身の危険を感じ、慌てて逃げ帰った。ヴォルスキ軍がローマに進軍し、アルギドゥス山(ローマの南東20km、アルバ湖の東側の丘)に至った。これを知ったローマの人々は戦争を恐れず、アエクイ族に対し怒った。もう一人の執政官が急いで軍隊を率いて出発した。既にファビウスの軍が出陣しており、ローマの2つの部隊が隊列を組んでアエクイ軍に向かって進んた。しかしもはや夕暮れが迫っており、敵の前哨兵がローマ兵に向かって叫んだ。「夕日の中の戦闘は絵になるかもしれないが、実際の戦闘には不向きだ。戦陣を組んだ頃には、夜だ。戦闘には明るさが必要だ。明るくなってから闘おう。慌てなくてもよい、明日存分に闘おう」。

調子のいいことを言ってから、アエクイ軍は自分たちの陣地に引き上げていった。戦いは明日になったので、アエクイ兵はその夜ゆっくり休もうと思った。陣地に戻ると、彼らは食事をして疲れを癒してから、眠った。夜が明けると、ローマ軍の戦列のほうが少し早く整った。やっとアエクイ軍の戦列が前進し始めた。どちらの兵士も激しく戦った。ローマ兵は怒っており、荒々しかった。アエクイ兵は自分たちの思慮のなさが戦争を招いたと自覚しており、休戦もないとわかっていたので、死に物狂いで戦った。アエクイ軍はローマ軍に押され、踏み留まれず、敗北した。彼らはアエクイの土地まで逃げていったが、アエクイの兵士は士気を失っておらず、少しも和平を望んでいなかった。彼らは将軍を批判し、「一回の正面戦に全てを賭けたのは誤りだった」と述べた。「ローマ軍は正面戦に強く、我々が得意なのは徹底的な略奪と襲撃だ。多くの小隊に分かれて、あらゆる方向に向かって行動したほうが、一つの大きな集団として闘うより、我々は成功するのだ」。

 

【3章】

アエクイの兵士たちの意見が採用され、彼らは守備兵だけを陣地に残し、出撃した。アエクイ兵はローマ領で大規模な略奪をし、ローマの城壁まで至った。郊外のローマ市民は予想していなかった敵の襲来に驚いた。ローマ軍に敗れ、陣地を包囲された敵がこのように大胆な襲撃と略奪を敢行したからである。恐怖にとらわれた農民がローマの市門に押し寄せ、素朴な調子であれこれ誇張した。

「連中の目的はただの略奪ではない。少数の兵士ではなく、敵の軍隊全部が近くまで来ていて、ローマを攻撃しようとしている」。最初の報告者の近くにいた者

がこれを聞いて、別の人に伝え、話が誇張され、しまいには嘘になった。人々が走り回って大騒ぎになり、「武器を取れ!」と叫ぶと、まるでローマが占領されたかのように、人々は恐慌状態になった。運よく執政官クィンクティウスがアルギドゥス山から帰って来たので、市民は安心した。執政官は市民の不安をなだめ、敗北した敵を恐れるとは何事か、とたしなめた。そして彼は城門を守備する兵士を配置してから、元老院を招集した。元老院の権威により、市民の日常生活が停止された。それから執政官は国境の防衛に出かけた。もう一人の執政官セルヴィリウスは市内に残り、知事の任に当たった。執政官クィンクティウスが国境に到着すると、敵の姿はなかった。というのは、もう一人の執政官セルヴィリウスが敵の討伐に成功したからである。敵がどの道を通って来るかを確かめてから、セルヴィリウスはそれぞれのグループを攻撃した。アエクイ兵は略奪品を抱え動きが鈍かった。彼らの略奪遠征は失敗に終わった。逃げることができた者はほとんどいなかった。ローマは略奪品を取り戻した。

クィンクティウスがローマに帰ってきて、日常生活が再開された。戒厳令は4日間で終わった。未亡人と孤児の人数が数えられ、それぞれ、100人と4714人と発表された。その後アエクイ族は話題にならなかった。彼らはそれぞれの町に帰り、自分の屋敷で射撃やたき火を見て暮らした。

一方執政官は敵の地域に広範囲に繰り返し遠征し、破壊して回り、略奪品をローマに持ち帰り、人々に称賛された。

 

 

【4章】

次の執政官はポストゥミウス・アルブスとフリウス・フススだった。何人かの著者はフリウスをフシウスとしている。私がこれを述べるのは、フリウスとフシウスを別人と誤解しないためである。それはともかく、どちらかの執政官がアエクイとの戦争を継続したことは確かである。アエクイはエケトラ(場所不明)のヴォルスキ人に使者を送り、応援を求めた。両者はどちらもローマの敵であり、競ってローマに勝利しようとしていた。ヴォルスキは援軍を約束し、熱心に戦争の準備を始めた。ヘルニキ族がエケトラの戦争準備に気づき、エケトラの町がアエクイに反乱したとローマに伝えた。アンティウムのローマ人植民者が不穏な動きをした。またアンティウムの亡命者がアエクイ側で参戦した。ローマがアンティウムを占領した時、多くの住民がアエクイ族のもとに亡命した。彼らはこの戦争で最も勇敢に戦った。

アエクイ軍が城壁で守られた町々に逃げ込むと、アンティウムの亡命人部隊はアンティウムに帰った。彼らはローマ人植民者が本国に不満を持っているのに気づいた。そして彼らはローマの植民者を離反させるのに成功した。アンティウムの反乱が起きる直前、反乱が起きようとしているという情報が元老院に届いた。元老院の命令により、執政官はアンティウムの植民者の指導的な人物をローマに呼び出し、現地の状況を説明させることにした。彼らは召還に応じた。執政官に導かれ、彼らが元老院に入ると、元老たちが質問した。植民者の代表の返事に元老たちは納得せず、疑いを深めた。植民者代表が帰った時、来た時より彼らに対する疑いが強まった。戦争が必須となり、執政官フリウスが戦争を指揮することになった。ローマ軍はアエクイと戦うために出発した。アエクイ兵はヘルニキ族の土地を荒らしていた。アエクイ兵は広く散らばって略奪していたので、彼らの総人数は分からなかった。フリウスはとりあえず出会いがしらのグループを攻撃することにした。この戦闘で、ローマ軍は敗北し、自分の陣地に逃げ込んだ。しかし彼らの陣地も安全ではなかった。その晩から翌日にかけて、ローマの陣地は総攻撃を受け、彼らは使者をローマに派遣することもできなかった。ローマ軍が敗北し、執政官と兵士が追い詰められているという情報を、ヘルニキ族がローマに伝えた。元老院は衝撃を受け、最も緊急な場合にのみ使用される特別な形式で命令を出した。命令は「執政官ポストゥミウスは市民の安全を守る施策をするように」というものだった。ポストゥミウスはローマに留まり、武器を持つことができる者全員を徴兵するべきだと考えた。一方クィンクティウスは執政官の代理として同盟国の部隊を率いて、執政官フリウスの部隊の救援に向かった。同盟国の部隊はラテン人とヘルニキ族の兵士で構成されていた。また、アンティウムの植民者は促成部隊を派遣することになった。促成部隊とは急いで集められた、補助軍のことである。

 

【5章】

この数日間、数多くの戦闘と小競り合いがあった。兵士の数が多かったアエクイ軍は多くの地点からローマ軍を攻撃したため、ローマ軍はそれにいちいち対応しなければならず、消耗した。アエクイ兵の一部はローマ軍の陣地を攻撃する一方で、別の部隊はローマの領土を略奪した。それだけでなく、機会があれば、ローマを攻撃した。ヴァレリウスがローマの防衛を指揮しており、執政官ポストゥミウスは国境付近に向かい、略奪している敵を撃退した。ローマはあらゆる注意を払い、できる限りのことをした。市内には防衛部隊が配置され、市には警備兵が門を守り、城壁には老兵が置かれた。このような危急の状況において、数日間日常生活の停止が宣言された。ローマ軍の陣地では、包囲開始から数日間ローマ軍はじっとしていたが、執政官フリウスはデクマン門(陣地の正門の名前)から出撃を命じた。敵は驚いて逃げた。執政官フリウスは追いかけることもできたが、陣地の他の箇所が攻撃される危険があったので、追いかけなかった。しかし執政官の弟で、参謀将校のフリウスは夢中になって遠くまで敵を追いかけた。部下の兵士たちは引き返したので、敵兵が彼を追いかけていることに気づかなかった。自分が取り囲まれていることに気づき、彼はなんとか引き返そうとあれこれ試みたが、成功せず、打ち倒された。弟が敵の中で孤立したことを知り、執政官は救援に向かったが、激しい戦闘になり、負傷した。周囲のローマ兵たちが何とか執政官を救出した。敵は参謀将校を撃ち取り、執政官を負傷させたので、意気が上がった。彼らはローマ兵を攻めたて、ローマ兵は陣地に逃げ帰った。ローマ軍は再び包囲され、彼らは戦闘力と士気の双方において、アエクイ軍に及ばなかった。もはやローマ軍は敵の攻撃を抑止できず、最悪の結末を待つだけとなった。この時クィンクティウスが外国人部隊(ラテン人とヘルニキ族)を率いて到着した。アエクイ軍はローマ軍の参謀将校の首を誇らしげに掲げ、ローマの陣地を攻略しようと夢中になっていた。ローマの援軍は背後からアエクイ軍を攻撃した。攻撃開始と同時に、クィンクティウスは陣地のローマ軍に合図を送ったので、陣地のローマ軍が出撃し、アエクイの大部隊は包囲された。戦死または負傷したアエクイ兵は少なく、多くが散り散りになって逃げた。しかし彼らはローマ領内に留まり、各地で略奪を働いた。執政官ポストゥミウスは各地に分隊を派遣し、アエクイ兵を個々に攻撃した。アエクイ兵はバラバラの逃亡兵になった。ちょうどその時外国人救援部隊と負傷した執政官が率いるローマ軍が戻ってきて、逃げ回るアエクイ兵と出会った。執政官の部隊は敵兵に最後の一撃を加え、負傷した執政官と戦死した参謀、そして兵士たちの仇を討った。数日間の戦闘において、両軍とも多くの犠牲が出た。昔のことなので、戦闘に参加した兵士と戦死した兵士の正確な数はわからない。しかしアンティウムのヴァレリウスは敢えて正確な数字を記しており、ヘルニキ領で死んだローマ兵は5800としている。またローマ領を略奪し、ポストゥミウスによって殺されたアンティウム兵を2400としている。そして最後にローマの郊外を略奪していて、クィンクティウスのローマ軍と鉢合わせをして殺された兵士の数は非常に多く、4230だとしている。

ローマ軍が首都に帰還すると、市民の日常生活が停止された。空全体が真っ赤になり、他の不吉な予兆も現われた。また恐怖にとらわれた人々は、様々な予兆を見たと言ったが、そう思えただけかもしれない。国家の布告が出され、凶事が起きないように願って、神々の怒りをなだめる儀式を三日間おこなうことになった。市内のすべての神殿は男女の市民でいっぱいになり、彼らは神々の保護を願った。元老院はラテン人とヘルニキ族の大隊にローマへの貢献を感謝する伝言を送り、「戦争が終わったので、自国に帰ってもよい」と述べた。戦争が終わって到着したアンティウムの1000人の兵士は何の役にも立たず、軽蔑されて送り返された。

 

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第2巻について(日本語訳者の解説)

2021-08-31 01:29:07 | 世界史

 

第7代国王タルクイヌス・スペルブスはローマを発展させるのに貢献したが、彼は残酷で暴力的だった。彼の息子の忌まわしい犯罪が契機となって革命が起こり、国王と彼の家族は国外に追放され、王制は廃止された。革命の指導者は市民たちだったが、共和制となったことで、恩恵を受けたのは元老たちで、彼らは権力を強化した。王政時代にも彼らは国王と並ぶ権限を有しており、法律の審議・制定に関与していた。また国王が死んだ場合、新国王を選定したのは、元老院である。ただし選定結果は市民の同意を必要としたので、国王選定には市民の考えが反映された。例えば初代国王ロムルスの死後、元老院は10人の国王資格者を選出し、彼らが順番に国王に就任した。国王の任期は5日である。世界に例がない、この珍妙な王政は1年続いたが、平民が「5日任期の国王など国王とは言わない」ともっとな主張をして反対し、この制度は廃止された。こうして国王は終身となり、ヌマが第2代国王に選出された。

王政初期、ローマの人口は非常に少なく、元老院の貴族たちと平民は共通の共同体に生きているという感覚を有していた。ローマは急速に発展し、王政末期にローマは都市になっていた。人口増加と共に、共同体の一体感が薄れていった。貴族と平民との間に乖離が生まれ始めた。

また国王の権力が増し、相対的に元老院の権力が低下した。国王は終身制という強みがあり、彼に権力が集中するのは避けられない。例えば第5代国王タルクイヌス・スプリクスは元老院の定数を増やし、その増えた枠に自分を支持する人間を任命し、元老院を御しやすくした。また国家の運命を左右する戦争を指揮するのは国王であり、国王の権力が元老院に優越していった。

共和革命により、国王がいなくなると、元老院が国家の最高権力者になった。国王に代わる実務の最高責任者及び軍隊の指揮官として2名の執政官が置かれたが、執政官の任期は1年であり、元老院によって選定された。執政官は最高の役職として共和制ローマを象徴するが、任期が1年という大きな制約があり、平時においてはほころびが出ないが、危機に際し指導者に特別な能力と経験が必要とされる場合、1年任期の執政官という制度は欠陥を露呈した。イタリア半島には強大な国家が存在しなかったので、ローマは何とかやっていけたが、ポエニ戦争以後執政官制度の欠陥が明らかになった。紀元前3世紀末カルタゴの将軍ハンニバルはアルプスを越えてイタリアに侵入した。これに対しローマ軍は敗北を重ねた。カルタゴ軍は外来者であり、イタリア内に同盟者となる部族が増えない限り、自活できず、戦闘で勝っても、先細りする運命だった。ローマ支配下の部族の多くが、ハンニバル側に寝返るかが、戦争の勝敗を決めた。イタリア各地の部族はローマの強さを知っており、外来者の勝利を見ても、外来者がイタリアに根付くのは容易でないことを知っていた。ローマは地の利に助けられ、危機を免れた。

執政官という制度の欠陥に、元老院は早くから気づいており、新たに独裁官を任命した。

軍事指揮官としての経験のない者も執政官に任命されるので、戦闘力の高い敵にまけてしまうことが明らかになった。それで元老院は過去の過去の執政官の中で軍事作戦に秀でた者に戦争を始動させた。独裁官は戦時だけの臨時職であり、任期は6か月だった。執政官制度を補うものとして、独裁官はある程度機能したが、ローマがイタリアを超えて拡大すると、独裁官は弥縫策に過ぎないと判明した。独裁官の任期を長くすることが求められ、次第に独裁官は独裁者となり、元老院の統制を打ち破っていった。共和制末期に軍事的能力を評価されていたマリウスは7回執政官に就任した。彼に続くスッラ、ポンペイウス、クラッススは皇帝制度を準備した人々である。

マリウスはローマ軍を強化するため、軍制改革をおこなった。その一つとして、平民平を増強し、彼らの待遇を改善した。これは彼以前に誰もしなかったことである。これまで、見捨てられていた階級はようやく日の目を見た。平民は勢いづいており、紀元前91年の護民官ドゥルーススは国家の土地の分割、元老院の定数を増やし、イタリア全土の自由人(奴隷を除く住民)にローマ市民権を与えることを提案した。しかし彼は暗殺された。

マリウスが6回目の執政官を終了し、引退していた時、護民官ルフスが36部族以外のイタリア人にローマ市民を与える法律の草案を作成していた、マリウスはこの提案に賛成していた。結局ルフスは選挙法の改正の法案を抱き合わせて提出した。すると中央広場の民衆が怒り、暴動となった。執政官スッラは身の危険を感じてマリウス家に避難した。妥協が成立し、スッラは選挙法の制定認めるのと引き換えに、ポントス王ミトリダテスとの戦争に向かった。スッラが東方に出発すると、護民官ルフスは予定の法案を成立させると同時に、現在は私人にすぎないマリウスをポントス王との戦争の司令官に任命した。この時スッラとローマ軍は東イタリアにいた。そこからアドリア海を渡ってギリシャに行く予定だった。ポントスの王ミトリダテスはギリシャに介入していた。マリウスは2人の特使をスッラに送り、二つの軍団の指揮権を引き渡すようするよう要求した。スッラは拒否したが、一人を除き、すべての兵士がマリウスの指揮を望んでいた。スッラはマリウスの特使を殺害し、兵士たちに忠誠を求め、マリウス派と戦うよう命令した。マリウスは再びスッラに使節を送ったが、やはり殺されてしまった。スッラは遠征を中断し、ゆっくりローマに向かった。これはマリウスが初めて経験した危機であった。ローマ軍が首都に向かって進軍したことはなかった。法律と慣習により、ローマ軍が首都に入ることは禁じられていた。スッラが禁令を破り、ローマに侵攻することは明白だったので、マリウスは剣闘士を率いてローマを守ろうとした。当然だが、剣闘士の部隊は正規軍に勝てなかった。敗れたマリウスはローマを脱出し、なんども殺されかけながら、北アフリカに渡った。そこにはマリウスの古参兵がいたので安全だった。

スッラとスッラを支持する元老たちは12人のマリウス支持者を追放し、マリウス、彼の息子、元護民官のルフス、マリウス派の数名に死刑を宣告した。ルフスを含む数名が処刑された。多くの市民がこの処刑に反対した、とプルタークは書いてる。一方でスッラは京和主義者として寛容さを示し、紀元前87年の執政官には、スッラ派とマリウス派から選ばれた。スッラ派のオクタビウスと、マリウス派のキンナだった。また執政官に次ぐ政府の高官も両派から選ばれた。スッラはポントス王との戦いの司令官であると、再確認された。彼は軍団を率いて東方に向かった。

スッラがギリシャで戦っていた時、イタリア人に選挙権を与えるべきか否かをめぐり、オクタビウスを指導者とする保守派とキンナを指導者とする平民派の愛で戦闘が起きた。オクタビウス派の武装グループに狙われ、キンナは逃げた。しかしはイタリアの多くの部族がキンナを支持し、彼のもとに10個軍団が集まった。この中に、精強なサムニウム人の軍団もあった。マリウスと彼の息子は北アフリカで兵を集め、エトルリアに渡った。彼らは司令官キンナの部隊となり、オクタヴィウスを倒すために戦うことになった。マリウスは護民官たちに死刑を取り消す法律を制定するよう頼んだ。キンナの圧倒的に優勢な軍隊の圧力に屈し、元老院はローマの市門開いた。キンナの軍隊は市内に入り、スッラ派の主要な人々を殺害した。執政官オクタヴィウスも殺害された。彼らの首は中央広場にさらされた。6人の執政官経験者を含み16人の首が並んだ。これらの犠牲者の数人は見世物裁判の後自殺した。マリウスとキンナはスッラを国家の敵と宣言し、地方総督の資格での軍隊指揮権をはく奪した。スッラは前年の執政官であり、現在は地方総督

であるが、地方総督には軍隊指揮権があった。

執政官経験者6名を含む元老院の有力貴族10名の首がさらされたことは元老院と貴族階級を震撼させたに違いない。2度とこのような人物を出現させてはならない、というのが有力貴族の一致した信念だった。

このような時期にカエサルが登場した。キンナとマリウスによって16人が粛清された時、カエサルは15歳だった。彼は軍事と政治の両方に才能があり、別の時代に生まれたなら、ローマの救世主となっていたかもしれない。マリウスはカエサルの叔母と結婚していたため、カエサルの考えがどうであれ、平民派とみられ、出世に悪影響を及ぼし、苦労して出世すると、危険な野心家と見られた。彼はマリウスと違って平民ではなく、貴族の末端の身分だったが、貧しく、その点でも出世するのに苦労した。平民派の彼がガリアで度重なる戦功をあげ軍団兵と平民の支持を集めると、元老院の閥族派は戦々恐々となった。軍事指導者として名声のあったポンペイウスは本来警戒すべき人物ではあったが、閥族派にとって平民派のカエサルよりましであり、彼に頼ってカエサルを無力化しようとした。ガリア戦役の最後の年、カエサルは執政官ではなく、ガリア総督としてローマ軍を指揮していた。紀元前50年、彼のガリア総督の任期が終わると、元老院は彼の任期を更新せず、カエサルに軍隊を解散し、ローマに戻るよう命令した。一方でポンぺイウスは執政官に任命され、ローマ軍の指揮権を有していた。またちょうどこの時、平民派の護民官が暗殺された。軍隊と別れ、単身で首都に帰れ、という命令は何を意味するだろう。最善の場合で、カエサルは世辞と軍事の役職を引退させられるだろうし、次善で国外追放、最悪の場合暗殺されるだろう。難度が絶体絶命の窮地に陥りながら、ガリアの制圧にこぎつけたのは、引退するためだろうか。いや違う、彼は今やポンペイウスに勝るとも劣らない軍事指導者になっていた。引退も暗殺も受け入れることはできなかった。彼は軍隊を率いてルビコン川を渡り、ポンペイウスと戦うことにした。マリウスの例があったので、元老院の指導者たちはカエサルを警戒しており、カエサルの軍事的成功は、ほどほどまでしか許されていなかった。それに我慢できないなら、カエサルは元老院と全面戦争するしかなかった。これが多くのローマ兵が戦死することになった、カエサルとポンペイウスの内戦の原因である。この戦争の結果ローマの精強な軍団の多くが疲弊し、消滅しかかり、新兵により新たに再建されなければならなかった。

カエサルは限度を知らない野心家であり、共和制ローマを破壊する人物、というのがつうせつであるが、この評価は元老院の閥族派によるものであり、古代の歴史家が彼らの立場に立って、カエサルについて書いた。しかし元老院が傲慢で胆力がなかったため、英雄と共存できなかっただけではないか。最高権力者としての地位を手放そうとしなかった元老院は、それだけの資質と器があったのか、と問われている。そもそも「共和制ローマ」とは何か、共和制になって、元老院はどのようにローマを統治したのか、調べなければならない。リヴィウスの「ローマ建国史」はローマ建国から共和制時代まで書いており、元老院と平民の対立について詳しく書いている。この時期は神話的な時代といわれるが、さまざま事件が書かれており、共和制末期の劇的な時代を理解する助けになる。

 

 

第二巻の主な内容は追放された国王の陰謀と平民の反乱という2つのテーマを中心に語られている。追放された国王は他の都市に働きかけ、ローマを攻撃するように誘った。しかも元国王とその家族は一度負けても別の都市に働きかけた。これが何度も繰り返されたので、ローマはそのたびに戦わなければならなかった。革命は簡単に終わらない、ということをローマは経験した。

第2巻のもう一つのテーマは「平民の反乱」である。国家の最高権力者となった貴族階級を代表しており、平民の利益や困窮に無関心になった。これはローマの人口が増え、国民としての一体感が失われたことに原因があった。貴族の一部は自分たちの権力に挑戦する者は敵だと考えた。平民は自分たちの要望を訴える場がないと感じた。また自分たちの困窮に、国家は無関心であることを、彼らは知った。王政中期まで、平民の訴えに対し、国王は反応していたのであるが、共和制の元老院は何の反応も示さなかった。その結果平民は明確な意思表示をした。平民出身の兵士たちが、無断で近くの山に移動し、そこに立てこもった。兵士の一部は執政官の暗殺を考えていたが、理性ある兵士が彼らを抑え、代替案として、立てこもりを提案したのである。執政官の暗殺より穏健ではあるが、戦争が迫っている時の兵士のストライキは重大な軍律違反である。この時の兵士の不満は借金棒引き要求が拒否されたことだった。平民が困窮してただけでなく、

その一部は行きすぎてしまった。

軍隊においてマリウスの部下であったスッラは後にマリウスのライバルとなり、さらに敵となった。スッラは平民派とマリウスは一体であるとし、両者に戦いを挑んだ。スッラは有力貴族の立場を正統と考え、その代理人として平民派を粛正したが、彼の弾圧は苛烈で在り、有力貴族が望むものではなかった。スッラは平民派と有力貴族派の対立を悪化させ、先鋭化させた。マリウスが平民派を制御擦れば一番良かったのだが、彼は軍事的な能力にもかかわらず、政治家として未熟だった。その隙を突いて、スッラがマリウスと平民派の両方を一掃しようとして、事態を悪化させた。平民派と元老院閥族派と平民派は互いに殺し合い、多くの者が犠牲になった。共和制初期の対立において暗殺されたのは護民官一人であったが、これと比較にならない規模の争いとなった。このよ

≪ 2章の英訳注 ≫

1聖所 一巻8章

3密集陣形 軍団は一列500名で合計6列からなる。彼らは重装備の歩兵。

5 力と能力の神。ヴィクトリアの別形態。

6 最高官が神に神殿を献上する儀式。彼は入り口の柱に手を置き、これが神に神殿を手渡す象徴的な行為である。同時に彼は大神官の言葉を復唱して検定の辞を述べる。

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