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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

シリア内戦の発端: ダマスカス 2011年3月25日

2016-09-30 12:13:00 | シリア内戦

 

3月25日、ダマスカス近郊の町ムアダミヤで、抗議する群衆と政府支持派が衝突し、3名死亡した。政府支持派は車列を組んで行進していた。

  

ダマスカス近郊は後に激戦地となり、化学兵器も使用された。ムアダミヤもそのひとつである。この地図は2013年に化学兵器が使用された地区を示しているが、反政府軍支配地とほぼ一致する。ジョバルだけがダマスカス市内であり、その他は市外である。将来激戦地となるこれらの地区の中で、最初に死者が出たのはムアダミヤであった。

3月25日の事件は、2011年のムアダミヤには政府支持派がかなりいたことを教ええくれる。反対派は治安部隊と衝突したのではなく、政府を支持する市民と衝突したのである。

           〈ダマスカス市内〉

ダマスカスは紀元前1500年に始まる長い歴史を持つオアシス都市である。。紀元前1000年にアラム王国の首都となったが、その後は新バビロニア、ペルシャ、セレウコス朝、ローマ各帝国の支配下に入った。ダマスカスは豊かだったが、商業都市であり、帝国を形成しなかった。しかしこの間ダマスカスはシリアの中心的な都市でありつづけた。 ローマ時代にはギリシャ・ローマ文化の重要な中心であった。そして紀元後635年イスラム帝国の首都となった。古風で壮麗なウマイア・モスクはイスラム時代の代表的な遺産となっている。シリア内戦でモスクの一部が破壊され、歴史学者はショックを受けている。

  

ダマスカス市内ではこれまで死者が出ていない。またデモの人数も少ないが、ヨシュア・ランディスは3月18日の小さな出来事に注目している。

====《Deraa: The Government Takes off its Gloves 》========

3月18日、ダマスカスのサラディン・モスクで説教師が母の日を祝う話をしていた。シリアで始まっていた劇的な抗議運動とは無関係に、彼の説教は従来と変わらぬものであった。

すると突然一人の若者が説教壇に上がり、説教師からマイクを奪い、大声で叫んだ。説教師を非難した。「現在のような状況で、よくもそのようなのんきな話ができたものだ。政治の話をしてくれ」。秘密警察が直ちに彼を逮捕し、連れ去った。

以上は礼拝に参加した住民がロイターに語ったことである。

このモスクはダマスカスの低所得者地区ルクナディンにあった。

これまで数十年、シリア国民は政府の意向に沿った説教をおとなしく聞いてきた。モスクでの説教中にこのようなことが起きたのは初めてであり、衝撃は大きかった。

ダラアのような、大きなデモが起きていないとはいえ、ダマスカスでもこれまで当然だったことが、地崩れしていた。

政権にとって最大の防壁である恐怖を、市民は乗り越えてしまった。

アラブ世界の革命の波は、自国民に対し最も残酷なシリアの政権にも押し寄せていた。

 ==============(ヨシュア・ランディス終了)

3月25日、ダマスカスの旧市街に数百人が集まり、抗議した。

    

このデモはすぐに解散させられた、とニューヨーク・タイムズが書いている。

=====《Syrian Troops Open Fire on Protesters in Several Cities》====== 

3月25日ダマスカスでは、数百人が集会を持とうとしたが、治安部隊が現れ、彼らを追い払った。通りでは政府を支持する人々がデモ行進をしており、自動車のクラクションをならし、アサド大統領の肖像を掲げていた。

追い払らわれた反対派は、荘厳なウマイア・モスクで抗議をした。礼拝中に数人が立ち上がり、「神! シリア! 自由!」と叫んだ。これは、政府支持派に対する反撃だった。

  

 ========================(ニューヨーク・タイムズ終了)

数百人の反対派とは対照的に、圧倒的多数の政府支持派が集まった、とアルジャジーラが書いている。

=======《Deaths as Syrian forces fire on protesters》========= 

3月25日、ダマスカスでは非常に多くの政府支持者が国旗とアサド大統領の肖像を掲げ、デモ行進をした。

夜になると、大勢の人がアルジャジーラの支局の前に集まり、政府支持者が多いことを放送してくれ、と要求した。

「彼らの言うことは事実である」とアルジャジーラのザイナ・フドル記者(女性)が述べた。「アサド大統領への支持を表明するため、数えきれないほど多くの人が市内を車でデモ行進をしている。大統領は国民から支持されている。バシャール・アサドは人気がある指導者である」。

しかし「正義と進歩のための運動:シリア」のアナス・アブダ(Anas al-Abda)議長は次のように指摘した。「政府支持派のデモがあったという報道の多くは虚偽の宣伝であり、事実の場合は政府が組織したものである。

 

虚偽の宣伝と言えば、数日前、レーム・ハダド情報相がダラアの事件について、アルジャジーラに語ったことは真実だろうか。彼はダラアのデモで毎回死者が出ていることについて説明した。「治安部隊はいかなる場合でも、デモをする市民に対し発砲してはならないと命令されている。しかし想定外の事態が起きた。これらの平和なデモをする市民の中に、武装したグループがおり、治安部隊都市民の両方に対し発砲した。その結果武装グループとの銃撃戦になった」。

流血のデモを目撃したダラアの市民は、アルジャジーラに証言した。「デモをする人々の中に、武器を持った者はいなかった。私自身がダラアの中央広場でそれを見た。若者たちと他の人々がデモをしていると、射撃音がして、実弾が飛んできた」。

===================(アルジャジーラ終了)

                〈ラタキアとホムス〉

25日大統領の故郷ラタキアでも、反対派と大統領支持派が衝突し、2名死んだ。反対派の青年が銃撃され、人々に運ばれる場面を写したビデオが YouTubeに投稿されている。

これに加え13歳の少年が治安部隊になぐられ、死亡した。治安部隊がデモを解散さえようとした時に起きたことである。少年はラタキアの近くのジャブラ村に住んでいた。

シリア第3の大都市ホムスでも1人死亡した。

ダラア以外でも死者が出始めており、流血のデモが各地に広がり始めている。ムアダミヤの抗議集会で、人々がダラアへの連帯を叫んでいるように、ダラアの反乱は影響力があった。25日までのダラアの死者は55名である、とアムネスティ・インターナショナルが発表している。政府でさえ37名の死者があったことを認めている。

3月18日から25日までのダラアは革命の発火点となった。

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シリア内戦の発端:サナメンの虐殺 2011年3月25日

2016-09-25 10:20:13 | シリア内戦

3月25日ダラア県北端の町サナメンで、大きなデモがあり、死者が出た。治安部隊が人々に向かって手当たり次第発砲し、10数人死亡した。負傷者は60人を超えた。

この事件について「サナメンの虐殺」と題するビデオが投稿されている。( 25.03 Sanamen Massacre- Daraa - Syria) 

発砲する警察官の姿は見えないが、重々しい機関銃の発射音が間近に聞こえる。ビデオは衝突の最前線に非常に近いところで撮影されている。機関銃の発射音が長く続き、非常に迫力がある。人々は身をかがめながら、逃げて来る。機関銃に続きドーンという迫撃砲のような音が聞こえる。平和なデモに対する発砲というより、銃撃戦がおこなわれているかのようである。しかし逃げてくるのは普通の市民であり、武器はもちろん、棒さえ持っていない。小さな男の子もいる。撮影者は最前線ら少し離れたところにいるので、銃撃場面は写っていない。

銃撃と砲撃が終わると、逃げていた人々が戻ってきた。かなりの人数である。スンニ派の町であるが、イスラム色を感じさせる服装をしている者はいない。頭に布を巻いているのはたった一人、鉢巻(はちまき)をしているのが一人だけである。覆面をした者は一人もいない。

最前線から戻ってくる人々と一緒に、負傷者が運ばれてきた。次々と運ばれてくる負傷者は人々が担いでいる。合計5人の負傷者は全員ぐったりしており、重傷のようである。死んでいるかもしれなかった。最前線が写っていないので、何とも言えないが、武器を持たない普通の市民を相手に激しい銃撃戦をやったようであり、異常である。

 

同じ場面を別の人が撮影しており、CNNがその動画の内容を書いている。「サナメンの虐殺」の撮影者の後方か前方で撮影されたようである。負傷者が運ばれてくる様子は同じだが、それ以外の場面は違っている。

=======《Dozens of Syrians reported killed in Daraa》=========

数百人の若者と少年たちのデモ隊が通りを歩いていると、突然銃撃音が始まった。彼らは逆もどりして逃げ出した。少し走ると、彼らは立ち止まり、再び隊列を組み、銃撃音がする方に歩き出した。するとまた銃撃音がして、再び逃げ出した。これを数回繰り返した。

しばらくして銃撃音が完全にやみ、デモ隊全員が戻ってきた。その中に負傷者を運ぶグループがあった。5ー6人でひとりの負傷者を運び、合計7人の負傷者が運ばれてきた。

運ばれている負傷者のひとりは手首を上げ、別の負傷者は手足をだらりと垂らしていた。数人の負傷者が血に染まっていた。

=============(CNN終了)

負傷者のその後がわかる、3つ目の動画がある。では、地面の上に担架が置かれれており、その上に横たわっている人は死んでいるようである。5人以上らしいことがわかる。(مجزرة الصنمين - 25-3-2011

ニューヨーク・タイムズは、死者は7人としている。その中の3人には、はっきりと銃弾の跡が残っている。

ダラアの医師がニューヨーク・タイムズに語ったところでは、死者の数は10人から15人であるという。住民たちはAPに、20人死んだと話した。Syrian Troops Open Fire on Protesters in Several Cities

CNNは翌日、この事件を再び取り上げ、。ブサニア報道官が述べた政府見解の内容を書いている。

       

==《Syrian protesters wounded by gunfire; disputes over who is responsible》==

シリア国営放送がこの事件について放送した。その中で、大統領の報道官ブサニア・シャーバンが語った。「陰謀グループが警察官から武器を奪い、発砲した。治安部隊がこれに反撃した」。

後にシリア国営放送は、外国人が逮捕されと放送した。米国の市民権を有し、シリアで働いていたエジプト人男性が次のように自白した。

「外国の軍関係者が私に電子メールを寄こし、シリアの写真やビデオを送れと指示しえきた。私は最近ヨルダンを経由してイスラエルに行ったこともある。

 

衝突の日の翌日、サナメンの治安部隊が去り、軍隊がこれにかわった。軍隊はサナメン市を包囲し、市への出入りを規制した。

市が封鎖されたので、食料の不足が懸念されている。

一方で、軍隊の存在によって勇気づけられた住民もいる。彼らは叫んだ。「アラー! シリア! シリア軍万歳!」

兵士のひとりが言った。「我々は住民に発砲するぐらいなら、自分を撃つだろう」。

 

26日サナメンでは、彼らの葬儀に数千人が集まった。通りを歩く葬列は、抗議のデモ行進をも意味した。

女性たちは歩きながら、声を合わせて言った。「私たちは殉教者に自分の血と命をささげる」。

==============-(CNN終了)

      

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シリア内戦の発端: ダラア 2011年3月24日・25日

2016-09-21 10:00:19 | シリア内戦

       

ダラアでは3月18日のデモで6人死亡したが、その後は20日に1人死亡しただけで、22日まで死者はなかった。連日数千人のデモが続いたが、22日になって数百人に檄減した。この日デモの波は引いたので、政府は対話姿勢を続けて穏健な市民をなだめた方が得策だったかもしれない。

しかし政府はイスラム過激派の巣を放置できないと判断し、22日の夜モスクの掃討を開始した。モスクには反対派が寝どまりしており、革命の宣伝と作戦の基地となっている。モスク内に武器が持ち込まれれば、モスクは要塞となり、攻略は困難となる。政府軍は多くの死傷者を出すことになる。それを防ぐために、モスクは政府軍の管理下に置かなければならない。軍事的な判断として、早い段階でのモスク掃討は必要だったのかもしれない。

しかしモスク掃討は難航し、23日の夜までに22人の市民が死亡した。

    

前日の死者の数に比例し、24日の葬儀には優に2万人の市民が参加した。

CNNによれば、「殉教者を讃えるため、驚くほど多くの人が集まった。ダラアの市民全部が通りに出てきたかのようだった。人々は死者を埋葬し、市民を殺害した責任者の処罰を要求した」。

24日のダラアについて、アルジャジーラが書いている。

=======《Anger in Syria over crackdown》============

3月24日、9人の葬儀に約2万人が参加した。彼らは「自由!」と叫びながら通りを行進した。AFPによれば、治安部隊が人々に発砲した。死者は報告されていない。

市の南にある墓地で、彼らは「殉教者の死は無駄ではない」と叫んだ。

昨日(23日)、25人以上が治安部隊によって殺された。

葬られたのはその中の9人である。

「死者の数は100人以上だ」と、目撃者の一人がアルジャジーラに語った。「多くの人の行方がわからず、路上にあったいくつもの死体が運び去られた。街は完全に混乱状態だった」。

病院は少なくとも25人の死体を受け取った、と言っている。病院の職員が昨日ロイターに語った。「我々は午後5時にそれらの死体を受け取った。全ての死体に銃弾の跡があった」。(ダラアの午後5時は標準時では午後3時である。)

今日(24日)、葬儀の後も抗議が続いている。APによれば、ダラアでは昨日の殺戮の抗議して、座り込みをやっている。

ダラア住民の話では、今日になっても多数の治安部隊が通りに配備されたままであり、街は緊迫している。数十人の市民が市の中央のマハタ地区で座り込みをしている。

また近隣のいくつかの町の住民がダラアの住民を助けるために、ダラアに向かった。彼らが市内に入ろうとした時、治安部隊と衝突し、数十人が死亡した。

ダラア市民の多くが、政権の転覆を願っている。

ダラアの市内には軍隊、対テロ警察、機動隊が配置され、厳重に警戒している。

23日と24日の2日間で、約35名の市民が死亡した、と国連のバンキムン事務総長が語った。

「シリア政府はデモをする人間の人命を無視しており、リビア、チュニジア、エジブト、イエメン、バーレーン政府と同様に残酷である」とヒューマン・ライツ・ウォッチ(NGO)のサラ・リーは述べた。「アサド大統領は改革の約束をしながら、改革を求めている人々を殺している」。

大統領は3日前、いくつもの改革を約束した。減税、公務員の給与増額、メディアの自由、雇用を増やす、汚職の根絶などであり、国民の要求にこたえるものであった。

特にダラアに関しては、市民と話し合い、意見を聞くための委員会を立ち上げると約束した。

==============(アルジャジーラ終了)

        〈3月25日〉

3月25日ダラアでは再び多数の市民が死亡した。最多の死者が出た23日の繰り返しになった。

ダラアに近い町の住民がダラアに向かって行進していたが、途中で銃撃された。20人が死亡した。

   

ダラアの市内では、中央広場に数千人が集まった。 数人がアサド大統領の大きな写真を引きはがした。それを見ていた大勢の人が口笛を吹き、かっさいした。この反逆的な行為は集まった市民の感情を代弁しているようである。

    

ازالة صورة بشار من ميدان درع               

その後人々は知事の公邸に向かった。

彼らは知事の公邸に向かった。知事邸に火をつけ、前大統領ハフェズ・アサドの像を倒した。

すると知事の公邸の向かいにある将校クラブの建物の屋上から、狙撃手が人々を銃撃した。ダラアの医師の話によると、数十人が頭や首を撃ちぬかれ、死亡した。数百人が死亡した。(CNN:Syrian protesters wounded by gunfire) 

多数の死者と負傷者が出た25日、ダラア市民の怒りは新たになった。CNNが書いている。

======《Dozens of Syrians reported killed in Daraa》========

ダラアの政治活動家カマル・アスワドによれば、人々は政府の改革を信じていないし、大統領は実弾使用を許可していない、という報道官の発表をあざ笑っている。

    

「ブサニア(政府報道官)! 我々が要求しているのはパンではない、尊厳だ」と人々は叫んだ。

25日シリア国営放送(SANA)は、ダラアで自発的なデモがあり、人々はアサド大統領をほめたたえ、愛国的なスローガンを合唱した、と放送した。

「ダラアの市民は大統領の寛大な決定に感謝し、閣下に対する忠誠を表明した。閣下の指導のもとに団結し、シリアに対する陰謀と戦うことを誓った。

ダラアでは、3月22日から25日の4日間に37名が死亡した。2人は子供である。(国連難民高等弁務官のコルビル報道官の発表)

==================(CNN終了)

323日これまでで最多の死者が出た後、2425日と連続して多くの市民が死んだ。このことに政府は動揺しているようであり、26日大統領の報道官ブサニア・シャーバンは弁明に努めた。彼女は長年閣僚を務め、大統領が信頼するアドバイザーである。

「大統領は流血を望んでおらず、国民ひとりひとりをたいせつにしている。私は大統領が命令にサインするのを見た。「いかなる事態になっても市民に発砲してはならない」。しかし、間違いは防げないし、命令が完全に実行されるとは限らない。

Syrian Troops Open Fire on Protesters in Several Cities

        

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