たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

後藤健二、危険すぎるラッカに向かう 10月24日2014年

2015-11-28 21:04:26 | シリア内戦

 

後藤健二さんは湯川さんを救出するためにラッカに行ったのであり、外務省が後藤さんにそれを依頼したいう説がある。朝日の取材班が調べた限りでは、できればそれもしたいというというにすぎず、主目的ではない。目的はあくまで、イスラム国の首都ラッカを取材したいということだった。外務省はシリアに行こうとする後藤さんに対し、思いとどまるよう3回勧告している。後藤さんは、勧告を押し切ってラッカに行った。

イスラム国は世界中のマスコミの話題を独占している。しかしラッカはジヤーナリストが近づくにはあまりに危険な場所になっている。英国人とアメリカ人のジヤーナリストが斬首されている。米国の空爆により、イスラム国は大打撃を受けた。身代金を払わない米・英に対する報復として、両国のジヤーナリストを殺害し、残酷な映像を公開した。

 

8月8日アメリカ軍はISISに対する空爆を開始した。空爆の対象は、イラクのクルド地域に進出しているイスラム国だった。ISISがモスル・ダムを決壊させると大惨事となるので、モスル・ダムのISISに対する空爆が最も多い。ダムが決壊すると、大河チグリス川の増水による洪水となり、その後は水不足になる。人口が多い沿岸地域が2重の被害に見舞われる。

 

 

 

 

9月22日、米国はイラクに続き、シリアのイスラム国に対する空爆を開始した。イスラム国の首都ラッカ周辺は極度に緊迫していた。

そのラッカに後藤さんは乗り込んでいった。

彼は2012年以来、シリア内戦を主要テーマにしており、これまで10回現地を訪問している。最近はイスラム国を取材したいという気持ちが強かった。

戦地から一歩退いた場所で取材するという長年の姿勢が少し変化していた。20141月のアレッポ取材の時ヌスラ戦線につかまったが、無事解放された。結果として、警戒心がゆるんだ。「拘束されても交渉すれば何とかなる。拘束されたことにより人間関係が築けることもある」と彼は考えるようになった。ヌスラ戦線はスパイの疑いのある者を拘束しているのであり、普通のジャーナリストであると納得すれば、釈放する。経験は彼にそう教えた。

 

   <イスラム国のフィクサーから連絡>

そういう精神状態の時に、イスラム国の大物から後藤さんに連絡が来た。後藤さんにとっては安全なケースだった。取材に入ろうとする地域の支配者の許可を得た場合は安全だというのが、彼の経験則だった。

1022日、渡航の朝、訪れた友人のジャーナリスト前田利継さんに、後藤さんは語った。

「ラッカに行ける可能性が高まった。向こうのフィクサーから連絡があった」。

前田利継さんによれば、後藤さんはISIS支配地の危険性を認識していたようで、しっかりとした仲介者なしに、無謀に支配地に入ろうとしているような言動はなかったという。

前田さんはこうも話す。「彼は10月始めにシリアに入った時、途中でトルコに撤退した。彼はこの時ことを非常に悔しがっていた。本人の判断ではなく、地元ガイドの判断だったのかもしれない。だから次の渡航では何が何でも、という気持ちがあったのではないか」。

後藤さんの1022日の渡航について、前田さんは「情報収集をきちっとして、勝算があったから入ったのだろう」と分析する。「フィクサー」が誰を指すのかは、分らないという。

後藤さんは「空爆後の現地の様子をできるだけ早いタイミングで撮影したいから、今行く。一週間くらいで戻る」とも話していた。湯川さん救出の話はなかった。

 

後藤さんは「フィクサー」を信頼してラッカに赴いた。「フィクサー」がISIS内でどの程度の大物か、また後藤さんはその人物と直接連絡しあう親密な関係にあったのか、残念ながらわからない。単に小物が「大物から許可が出た」と連絡してきたのかもしれない。

 

   <危険すぎて、ラッカ取材なんて考えれない>

ジャーナリストの西谷文和さんは「空爆後の混乱を考えれば、取材はアレッポまでが関の山。ISISが支配するラッカなんて考えれない」という。これは西谷さんだけの判断ではなく、当時ISISの支配地に入るジャーナリストは皆無に近かった。

西谷さんは「後藤さんほど緻密で大胆な取材をできる人が何の勝算もなくISISの支配地域に入るわけがない。ひとりで湯川さんを助けられると思っていなかったと思う」と話す。

ISISの場合は、関係者に接触することさえ難しい。万が一、取材が許可されたとしても、いつ人質として利用されるかわからないという恐怖がつきまとう」。

西谷さんは非常に慎重で、シリア取材の際には、目的地の戦況や勢力図の変化を調べる。さらに目的地に至るまでの幹線道路の各検問所をどのグループが支配しているか、丹念に調べる。同じ勢力の支配地でも、内部分裂して対立し、争っている場合もある。情報の確度が身の安全を左右する。西谷さんは、情勢が読み切れず、シリアへの入国を断念したこともあったとう。

彼はシリアの状況について語った。

ISISの支配地域でなくても、シリアへ入ればそこは地獄のようなもの。護衛がいても、いつどのような形で拘束されるかわからない」。

 

   <これからラッカに向かいます>

1024日、後藤さんはキリスでガイドのアラッディン氏に会った。後藤さんは2012年以来7回彼と一緒に取材しており、彼を信頼している。

後藤さんは、ISISを取材すると切り出した。アラッディン氏は「危険すぎる」と思いとどまるよう説得した。

ISISは他の組織と全く違う。他の反体制組織と比べて、危険度がけた違いに高い。彼らは暴力を何とも思っていない」。

しかし後藤さんの意思は固かった。アラッディン氏がその理由を尋ねると、「報道が遮断されたISISの支配地域で、市民の生活ぶりを明らかにしたい。友人の湯川さんも助け出したい」と話した。

2人はキリスからシリア国境を超え、南に約20kmの町マレアに着いた。マレアは自由シリア軍の支配地域だった。

 

 

マレアからISISの支配地は目と鼻の先だ。このマレアで、アラッディン氏は後藤さんに、自らの意思でISISの支配地に入ったことを証明するメッセージを残すよう頼んだ。かつて、アラッディン氏が案内したフランス人ジャーナリストがISISに拘束された。自分に責任がおよばないようにするためだった。これが、後藤さんの最後のメッセージとなった。

「これからラッカに向かいます。イスラム国の拠点と言われますけれども、非常に危険な場所なので、何か起こっても、私はシリアの人たちを恨みません。どうかこの内戦が早く終わってほしいと願っています。何か起こっても、責任は私自身にあります。まあ、必ず生きて戻りますけれどもね」。

後藤さんはこれを撮影したスマートフォンをアラッディン氏に預けた。同時に妻や複数のテレビ局の知人たちの電話番号を記した紙を渡した。「一週間しても私から連絡がない場合、電話してほしい」と依頼した。

アラッディン氏はマレアから先の同行を拒み、知人のシリア人通訳を後藤さんに紹介した。

この通訳を選んだ理由について、アラッディン氏は「ほかにISISの支配地に入れるガイドが思いつかなかった」と語った。このガイドは金さえ払えば、難しい交渉もしてくれると評判だった。

1025日の朝、後藤さんはこの通訳と一緒に、車でマレアを出発した。その後、後藤さんからの連絡はない。

後に朝日の記者がこの通訳に電話すると、「何も言えない」と言ったきり電話に出なくなった。

アラッディン氏は約一週間後、後藤さんの妻らに電話した。

現地のトルコ人記者によると、この頃キリス周辺では、ジャーナリストをISISに売り飛ばし、多額の報酬を得るブローカーが暗躍していた。

ISISがジャーナリストの殺害ビデオを公開して以来、現地をめざすジャーナリストが減ってしまったため、案内人・通訳は失業し、誘拐まがいの行為を始めたのだという。

 

以上は朝日新聞取材班著「イスラム国人質事件」に書かれれていることに、少しだけ説明を加えました。

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後藤健二最後の報告 コバニ戦 10月5日 2014年

2015-11-26 00:36:11 | シリア内戦

 

2014年の10月初め、後藤健二さんがコバニの難民を取材している。後藤さんは2012年以来9回シリアを取材しており、10回目のこれが最後の報告となった。10月末、11回目の取材に出かけ、帰らぬ人となった。

10月初めは、まだコバニについての報道が少なかった。日本で最初にコバニについて話題にしたのは、後藤さんではなかったろうか。彼はいつものように、キリスからシリアに入った。キリスは彼にとってシリア取材の基地となっている。彼だけでなく、キリスには、ほとんどの反政府軍の基地がある。しかしキリスの市街地と異なり、国境付近は殺風景で、難民キャンプと小さなレストランがあるだけである。

   

102日、彼はツイッターに書いた。

「シリア取材に入ります。最新の動画編集アプリでレポートします」。後藤さんの動画はNHKに提供したものは鮮明だった。今回、画質に気を使ったようだ。画質の良し悪しにかかわらず、彼の動画は説得力がある。はっきりとした語り方をするので、彼の説明はよく理解できる。

シリアに入った後藤さんは国境沿いに東に向かった。しかし戦闘が激しさを増しており、危険性があるため、途中でトルコ側に入った。(地図参照)

後藤さんは非常に残念だったようである。ガイドのアラッディン氏の助言にやむなく従った。後藤さんは長年戦地の後方で取材を続けてきたが、最近は危険なISISの取材に意欲を燃やしていた。ISISについて、国民の関心が高まっていたこともある。

トルコに入った後、スルチに向かった。スルチは国境をはさみ、コバニの向かい側である。スルチで105日まで取材した。

 

帰国後の108日、TBSに出演した。

「東、西、南と、イスラム国がコバニを包囲しまして、三方から攻めたてていったんです」。

直接取材した、トルコに逃れた難民について、こう語った、「受け入れ態勢もできていない。通常であれば、難民キャンプをイメージするでしょうけれども、そういうものも全然ないんです。避難してきた人たちは苦しい生活を強いられています」。

ISISについては、有志連合による空爆後、外国人ヘのリスクが高まったと分析した。「彼らは今、ほとんど取材を受け付けてくれないんです。空爆が始まってから非常にセンシティブになっていまして、外国人に対してスパイ容疑をかけてくるんです」。

以上は朝日新聞取材班著「イスラム国人質事件」をもとに書いた。

 

「正義の味方」にも出演し、戦闘中のコバニの映像を紹介していた。私が紹介した5日の写真では、丘の上から煙が上がっていたが、後藤さんの映像では、丘のふもとから小さな煙が上がっていた。後藤さんは説明した、「戦闘は日に日に激しさを増している。国境のトルコ側に戦車が並んでいるのは、不測の事態に備えてである」。

場面変わって、体育館のようなところに収容されている難民が映し出され、後藤さんは「設備が整っていなくて、避難してきた人々は疲弊している」と説明した。

  

   《 検証 後藤健二人質事件 》

 

コバニ戦から話題が離れるが、後藤健二さんが殺害されるに至った経緯について、朝日新聞取材班著「イスラム国人質事件」をもとに、私が気になっていたことを書いてみる。

結論から先に言うと、イスラム国と後藤さんの妻との間で金銭交渉が行われた1月前半に解決することが、唯一のチャンスだった。秘密裡に行われたこの交渉が行き詰まった時に結論は出たのであり、その後は何も変えられなかった。

120日に2億ドル(200億円)を要求する動画が公表された時には、交渉が決裂していた。秘密交渉で20億円の支払いを拒否した相手に、ビデオで200億円要求しても意味がない。

    <妻にメールが来る>

ISIS11月末に後藤さんの妻城後りん子さんにメールを寄こしたが、迷惑メールに分類され、りん子さんは気付かなかった。123日に2度目のメールが届き、これもゴミ箱行きとなったが、りん子さんがたまたまゴミ箱を開き、気づいた。

倫子さんは英国の企業に所属するコンサルタントに相談した。彼は後藤さんが信頼している知人で、何かあったら彼に相談するようにと、後藤さんが彼女に言っていた。

 <イスラム国、20億円要求>

20151月始め、イスラム国が初めて要求金額を提示した。1500万ユーロ(20億円)だった。身代金の相場を知るコンサルタントは、要求額が高すぎると考え、値切り交渉を助言した。

りん子さんはメールで訴えた、「高い。そんなに払えない」。政府関係者によると、彼女が提示した金額は日本円に換算すると6億円だった。

書き遅れたが、倫子さんは朝日新聞の取材を拒否しており、すべて政府関係者の話に基づいている。

りん子さんが提示した金額を、イスラム国は拒否した、「6億円だと?笑わせるな。20億円出せ」。

これは綸子さんに向かって言っているのではなく、背後の日本政府に要求しているのではないだろうか。個人が払える金額ではない。

 

この段階で20億円出せば、後藤さんは救われたのである。数兆円を気軽に浪費している日本国が20億円のはした金を出せばよかったのである。危険地域に入るジャーナリスト専用の保険金が支払われれば、それだけ政府が負担する額は減る。後藤健二さんの人質事件は、これで解決だった。政府は払う考えがなかった、「テロリストとは交渉しない」。

 

りん子さんが最初に6億円出すと言ったことは、敬服に値する。危険地域に入るジャーナリスト専用の保険がいくら支払われるか、わからないが。拒否したイスラム国はさっさと滅んでしまえ。

というよりイスラム国は最初から日本政府に要求していたようだ。だから倫子さんが提示した6億円という金額を拒否したのだ。

朝日取材班に語った政府関係者は、「1月始め、イスラム国が初めて要求金額を提示した。1500万ユーロ(20億円)だった」としているが、これには疑問がある。

 1月21日の毎日の記事では、政府関係者が、「昨年11月に『イスラム国』側から後藤さんの家族に約10億円の身代金を要求するメールが届いていた」と証言している。

もし毎日の記事が事実であるなら、10億円が20億円に増えた経緯を知りたい。大きな疑問点であるが、今回は朝日新聞取材班の報告に従って話を進める。

 

 

身代金交渉は最後まで決着がつかなかった。

秘密の金銭交渉が行き詰まった後、イスラム国は日本政府に対して、公開ビデオで200億円要求する。これを政府が拒否したことについは、議論するまでもない。イスラム国自体が本気で要求しているのではなく、用済みとなった後藤さんを処分するための見世物にすぎない。また侵略的な米帝国の片棒ををかつぐ日本を罰する、という宣伝効果をねらったのである。

安倍首相の中東での演説が挑戦的だったので、イスラム国は態度を硬化させたと以前考えたが、そうではない。日本との対立を際立たせ、後藤さん殺害の効果を高めるのに利用しただけだ。イスラム国は20億円取り損なって残念がっているだけだ。払わなかったことに対する見せしめに殺すだけだ。

 

    <イスラム国、要求を変える>

意外なことに、イスラム国は200億円要求をひっこめて、新たにサジダ死刑囚の釈放を要求してきた。これはヨルダン政府の秘密交渉が成功した結果である。それにしても、新たな交換条件が生まれたとはいえ、イスラム国は後藤を殺すという方針をあっさりと変えた。

ラッカ長官が「後藤は殺さない」と言ったとされる。また「サジダとの交換のために、後藤さんはアクチャカレに向かった」という情報もある。

イスラム国は後藤健二を殺すべきものとして逮捕したのではなく、あくまで身代金のための人質にすぎなかった。

イスラム国にとって身代金が取れなかったことは敗北であり、人質交換は名誉ある撤退にすぎなかった。それでもサジダ死刑囚の釈放はそれなりによい話だったのかもしれない。イスラム国の最上層部にザルカウイ時代のイラク・アルカイダの幹部がおり、その人物はサジダたちが行った10年前の自爆攻撃をよく覚えている。それで、彼女が釈放されるなら、後藤を開放してもよい、と決定した。

イスラム国が釈放を求めた女性サジダ・リシャウィは、2005年にヨルダンで起きた自爆テロの実行犯の一人である。彼女は、腰のベルトにつけていた爆弾が点火せず失敗したが、彼女の夫と他の二人は成功した。その日、アンマンのホテルで、結婚式に列席していた57人が死亡した。

しかしサジダとの交換は、最初から難点があった。彼女はヨルダン国民57人を殺した死刑囚であり、もし彼女を釈放するなら、ヨルダン国民に対する相応の見返りがなければならない。ISISに囚われているヨルダン人との交換なしに、サジダ死刑囚の釈放はありえない。

「サジダと後藤の一対一の交換」というイスラム国の要求は、そもそも実現不可能だった。

 

後藤さんは生かしておいてはならない人物ではなく、殺すために捕まえた人物ではない。交換条件が良ければ釈放してもよい人物だった。もともと金銭要求のために捕まえた人質にすぎない。

 

秘密に行われた12月前半のの金銭交渉をうまくやれば、後藤さんは助かった。満額の20億円を出さずとも、交渉次第で15億円で決着したかもしれない。保険金が支払われれば、15億円より少ない費用で済んだ。

 

20億円という要求金額からすると、実際は後藤さんの妻ではなく、日本政府に要求したと考えられる。それを、政府は鼻から相手にしなかった。

 

巨額な金額を払えば、事件の再発を促す、とよく言われる。今回政府が払わなかったことで、「日本政府は払わない」という評判が定着し、効果的な再発防止策となった。

しかし今回のような事件が、日本人に対し、しばしば起こるだろうか。とりあえず、誠実なひとりのジャーナリストを救い、再び起きないようにジャーナリストたちに用心を促すという方法もあった。

政府は安全保障上の問題のように言うが、単なる金銭問題にすぎない。しかも政府にとって、はした金にすぎない。20億円はイスラム国を助けるというが、イスラム国を育てた国の責任に比べたら、無に等しい。

 

根本はジャーナリズムと国際報道を、どう評価するかという問題である。国家の主要企業と官僚・政治家の関連企業に対しては、毎年数兆円の国費を使っている。それは必要経費であるが、ジャーナリストにお金は出せないということである。黙って死になさいということである。

 

日本政府の意をくんだヨルダン政府は、イスラム国との間で、後藤さんとの交換条件について秘密交渉をした。その成果が「後藤とサジダの交換」だった。この点で日本政府とヨルダン政府は努力をした。しかしヨルダン国民の中に、カサスベ中尉釈放の要求がわき上がり、後藤さんとの交換は実現しなかった。

日本政府が、自分は火の粉をかぶらず、自国の国民の救済をヨルダン政府に押し付けたことも、虫のいい話だった。

 

 《 朝日取材班の本と違う話 》

 

以上朝日取材班の本に基づいて書いたが、異論があり、内容がかなり違い、時期も1か月以上のずれがあリ、私はちょっと混乱した。

 

  <交渉が行われたのは、11月であり、12月3日以降メールのやりとりはなかった>

11月の初旬、妻のところに、「イスラム国」の関係者を名乗る人物から、メールが送りつけられ、「後藤さんを誘拐しているので、日本円で、およそ10億円の身代金を払え」と要求してきた。

 

126日の週刊ポストに次のようにある。

 

後藤氏の妻の携帯電話に約10億円の身代金を要求するメールがあったのは昨年11月初旬だった。本誌は11月中旬にいち早く、「後藤氏失踪」の情報を入手し、取材に動いた。当時、外務省関係者に接触すると、身代金交渉を行なっていることをはっきりと認めた。

 

 

11月の間、金銭交渉が行われた。その間に20億円に要求が吊り上げられた。11月末にイスラム国は日本政府に払う意思がないと見切りをつけ、交渉を打ち切った。

妻が12月2日に出したメールに返事がなく、以後1か月半以上の間、メールのやりとりがなかった。120日、突然200億円要求の動画が公開された。妻は半狂乱になった。政府関係者は真実をリークした。それが毎日の記事である。

 

実際には11月に交渉が行われた事実を、政府は消し去った。朝日は12月初めに、妻が初めてメールを受け取ったとしているが、実際にはその時点で交渉が終了している。

メールを最初に受け取った日を1か月遅らせている。また、「イスラム国が初めて要求金額を提示したのは、1月始め」としている。約2か月遅らせている。

政府がとんでもない嘘をついている?

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ISIS、コバニ市の3分の1を占領 10月8日

2015-11-23 23:36:07 | シリア内戦

 

ISISがコバニを最初に攻撃したのは、9月13日である。9月末までに農村部を占領し、10月1日、市まで1kmに迫った。

10月5日、ISISは画期的な勝利をした。戦略的に重要なミスタヌールの丘を占領し、市内に突入した。

           市内での戦闘

       

10月6日、ISISは市内に100m侵入した。この日、コバニ自治州に集結しているISIS兵は9千人だった。これまでの作戦に比べ、けた外れに多い。   

 ISISは市内を進み、幹線道路48号線に入ろうとした。その時、待ち伏せしていたYPGに襲われ、ISIS兵20人が死亡した。

           

戦闘は一日中続き、ISISは市内に深く侵入した。マクタラ・ジャディーダ地区とカニ・アラブ地区、さらに工業地区を占領した。工業地区は市場の東にある。ISISは市内をかなり進んだが、48号線付近で戦っており、市場に至っていない。(上の地図参照)  

     

しかし10月7日の朝、形勢が逆転した。クルド軍は昨日奪われた地域の多くを奪回した。

このクルドの逆転劇は、米空軍による空爆のおかげである。前の夜、米空軍がISISの陣地を3回空爆し、戦車1両・3台の戦闘車両・対空砲1門を破壊し、小部隊の兵士のほとんどを殺傷した。

10月8日も、米空軍はISISの背後を空爆した。

        

クルド軍はISISを押し返した。また米空軍はモスクの近くに集まっているISISの部隊を空爆した。

ISISが占領したのは工業地区までであるが、ISIS兵がモスクにいたということは、一部の兵は市の中心部にまで入っている。モスクは市の東西の境界から等距離にある。地図によれば、モスクの占領には至っていない。

        

 クルドが押し返したとはいえ、この時期のISISは勢いがあり、市内から追い出すことは不可能に近い。米国の政府高官は、コバニはISISの手に落ちるだろうと語っている。

そうはならなかったが、10月末までにISISはコバニ市の東半分を支配する。クルドは西半分を守り抜くことになる。モスクは両陣営のほぼ中間に位置する。(10月30日の地図参照)

ISISが空爆をうけた8日、ISISに援軍が到着した。ISISは工業地区から西に進み、市場を占領した。(市場の位置は10月30日の地図参照)

ISISはさらに市の中心部へ向かった。ISISは現在のところ、市内の3分の1を占領している。

10月8日の夜、大きなトラックでクルドの警察署に対し自爆攻撃をした。その後、警察署を占領した。

10月9日、米国とヨルダンの空軍が、コバニを爆撃した。標的となったのは、ISISの宿舎、司令部、補給基地と倉庫、5台の装甲車である。クルド軍は7日-9日の集中的な空爆に感謝した。

「この3日間の空爆は非常に効果があった。しかし空爆だけでは勝てない。地上の戦闘員が強くなければならない。我々は弾薬が不足し、重火器を持っていない。これらの必要物資の供給を妨害しているのはトルコだ」。

クルド軍はさらに反撃した。警察署を占拠しているISISを包囲した。この戦闘でISIS兵11人が死んだ。しかしクルド軍は弾薬が底をついた。 

      <ISISは勝利するだろう>

10月30日の地図を見れば、ISISはコバニ市の半分を占領していることがわかる。10月9日には市の3分の1を占領しており、クルド側に悲観論が生まれた。

トルコ在住のコバニ出身者が10月8日に書いた。「コバニが陥落しないことを願っている。しかしもう駄目だ」。

米国の軍関係者は、ISISが勝利するだろうと見ている。

コバニで戦闘が始まってから最初の20日間、米国は何もしなかった。この間に300の村がISISの手に落ちた。米国はコバニは戦略的に重要性が低いと考えていた。

8日ケリー国務長官が述べた。「コバニで多くの住民が難民となっており、悲劇的だが、冷静に判断するなら、ISISの中枢を破壊することが先決だ。ラッカ周辺の司令部と軍事的基盤を破壊することが、最も効果的だ」。

米国の空爆はラッカに集中した。このラッカへ空爆はISISに大きな打撃を与えた。 

米国の戦略的判断は正しかったが、コバニには戦略的な意味が全くないということではない。コバニはトルコとの国境にある都市である。ISISがこの都市を支配するなら、ラッカへの志願兵と武器の送り込みが万全になる。ISISはコバニの両隣りの都市ジェラブルスとテルアビヤドをすでに支配地としている。

     

コバニを獲得することで、ジェラブルスとテルアビヤドは安定する。

これまでクルドはISISに対する防波堤の役割を果たしてきた。コバニでクルドが敗れれば、トルコとの国境地帯のほとんどをISISが支配することになる。ISISはジェラブルスとタラビヤドで満足しているわけではない。実際ISISはハサカ県のセレカニエの周辺を攻撃した。クルドとの前哨戦をやった後、簡単にあきらめた。クルドが手ごわかったからと、この時は優先課題が他にあったからである。国境地帯の制覇というISISの目標は変わっていない。

8日のニューヨーク・タイムズはコバニの避難民の数を18万6千人としている。20万人という報告もある。

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コバニ戦 ミスタヌールの丘の戦闘 10月5日

2015-11-19 22:33:23 | シリア内戦

 

ISISはコバニ自治州の75%を占領した。9月24日、市の南方8kmに迫った。27日、ISISはさらに市に近づいた。

      

(地図の説明)9月15日の前線がコバニ自治州の境界とほぼ一致する。黄色の部分がコバニ市であり、クルド軍が防衛している。

      <9月27日ー8月4日>

[引用開始]===========

    コバニ包囲戦   Siege of Kobanî

 9月27日、米国と有志連合がコバニ市から4kmにあるISISの陣地を空爆した。アリシャールという村にISISの司令部があり、いくつもの陣地があった。空爆はこれらを標的とした。これが有志連合による最初の空爆だった。

しかしISISに対する空爆は抑制されたものだった。トルコに配慮したからである。クルド人を支援することは、トルコの敵を支援することになる。

空爆を受けながらも、、ISISは市内に向けて砲撃を続けた。

9月28日までに、トルコから1500人のクルド人が援軍としてコバニに到着した。

翌日、ISISは市の南と南西5kmのところまで迫った。この間ISISは2日連続、市内を砲撃した。

9月30日、ISISは市から2kmに迫った。

クルド軍が反撃し、ISISの戦車2台を破壊した。

10月1日、ISISは最後の村を占領し、市の入り口から1kmに迫った。クルド軍は市街戦に備え、陣地の防備を強化した。この日の夜、クルド軍は市の郊外の村の大部分から退却した。彼らは極端に武器が不足していた。

 

ISISは占領した近郊の村で、拷問・女性に対する暴行・殺人を行った。またクルド兵の男女を問わず、首を切断した。

10月2日、ISISは市から数百メートルに迫った。ここで激しい戦闘となり、市の東側でISIS兵57人が死亡した。市の南側ではISISのイラク人指揮官と8人の兵が死んだ。

この日までの5日間に、有志連合は合計7回出撃した。

10月3日、ISISは市の南西の境界にも迫った。夜になって、米空軍がISISを空爆した。

3日の深夜、ISISは市内に入ろうとしたが、クルド軍の反撃にあって、追い返された。

10月4日、有志連合はISISを空爆した。補給物資・戦闘員・重砲・人員輸送車を標的にした。市内の住民はすでにトルコ避難しており、市内にはクルド軍の戦闘員しか残っていなかった。この日最後まで市内に残っていた外国のジャーナリストも去った。

コバニ自治州の90%の住民が避難した。  

================= [引用終了]

          <ミスタヌールの丘の戦闘>

      

10月5日は、包囲の開始以来最も激しい戦闘となった。繰り返される砲撃と重機関銃の音がコバニ市内に響いた。ISISは、市の南東のミスタヌールの丘を攻撃した。丘からは市街地を見渡せる。ここを奪えば、市内を砲撃でき、敵の動きを把握できる。市内に入ることが容易になる。コバニの包囲を開始してからの3週間にして最大の山場を迎えた。

次の地図で、ミスタヌールの丘の位置がわかる。地図は8日の戦況であるが、5日とあまり変わらない。ISISは市内に踏み込んだが、先に進めずにいる。

       

   ekurd.netというサイトが、ミスタヌールの丘の戦闘に関するテレビ報送について書いている。

[引用開始]===========

クルドのテビ局 NTVは、「丘の上に、戦車と機関銃とISIS兵の姿が見えた」と報道した。リポーターは続けた。

「4日から5日にかけて一晩中、激しい戦闘が続いた。1時間に15回の爆発音が聞こえた。ISISは戦車と迫撃砲で丘を砲撃した。ISISの攻撃はここ数日、激しさを増していた。ISISの歩兵は家の中から、あるいは土壁の背後から小銃を撃ってくる」。

IS militants captured a strategic hill overlooking Syrian Kurdish Kobani town

     ==============  [引用終了]

同じことをロイターも伝えている。

YPGの一人がロイターの記者に語った。「ここ3日間、状況が悪化している。そして今日は最悪だ。連中(ISIS)は何が何でも、市内に突入しようとしている」。

クルド軍の方も必死である。丘を失えば、ISISを市外に押しとどめることは難しくなる。有志連合もクルドを支援した。ISISに対し、3回空爆した。

丘を防衛するクルド守備軍は必死である。コバニ陥落は時間の問題というのが一般的な見方であり、劣勢なクルド軍も絶望的な状況を自覚していた。「我々はいかなる犠牲を払っても、市を防衛する」とYPGは決意を表明した。老人に手りゅう弾を渡し、ろくに訓練も受けていない少年少女を前線に送った。

こうしたなかで、ISISの戦車と重機関銃に対抗して、自爆攻撃がなされた。。自爆したのはクルド人女性である。これはクルド人女性兵士による最初の自爆攻撃である。彼女は2児の母親であり、名前はデイラール・カンジ・カミス(Deilar Kanj Khamis)という。彼女は2児と別れて、死に向かった。

クルド軍の多くが退却し、少数の者が最後まで戦った。彼女は残留者の一人だった。カミスはミルカン(Arin Mirkan)という戦士名を持ち、殉死以前から、勇敢な戦闘員という評判が高かった。

 

       

彼女の自爆攻撃により、10人のISISが死んだ。クルドの反撃により、さらに6人のISISが死亡した。空爆はほとんど効果がなかったと言われる。

クルド軍は、女性自爆者を含め11人戦死した。

 

クルドの必死の反撃にもかかわらず、5日、ISISはミスタヌールの丘の南側を制圧した。

        

ISISは先週、市の西側の、別の丘も占領している。ISISは戦略的に極めて有利になった。

こうしたISISの進撃を、クルド軍は懸命に食い止めようとしている。ISISはまだ市内に入っていない。しかし市の境界付近で戦闘が始まっている。

米国と有志連合もクルド支援のため、ISISを空爆している。しかしクルドの指導者は、有志連合とトルコの努力は不十分だ、と批判した。「彼らは、危機にあるコバニを救うおうと考えていない」。

[引用開始] ===============

 IS militants captured a strategic hill overlooking Syrian Kurdish Kobani town

トルコは国境で起きていることに介入する気配がない。トルコにとってコバニのクルド軍は敵であり、ISISと戦う理由がない。クルディスタン労働者党(PKK)がかかげるクルド民族主義は、トルコの治安にとって最大の脅威である。シリアの人民防衛隊(YPG)はPKKの下部組織である。

バイデン副大統領は、10月2日ハーバード大学で述べた、「トルコのエルドアン大統領は、アサド大統領を倒すことに夢中になっており、イスラム過激派がトルコからシリアに入ることを許してる」。

米国の空爆はシリアではなく、イラクのISISに対して集中している。ペンタゴンの報道官は「コバニで起きていることに無関心ではない」と言った。

   ================== [引用終了]      

       トルコ側から撮影した5日の戦闘

       

 手前の戦車はトルコ軍の戦車。遠くに煙が立っているのが見える。そこがミスタヌールの丘。

      <ISIS、市内に突入>

ISISは丘の南側だけでなく、同日のうちにミスタヌールの丘を完全に制圧した。

市の南東部の教会付近で、すでに戦闘が始まっていた。丘から近い場所である。市の入り口でクルドの防衛線を破り、30人のISISが市内の草地に入った。ISISはこの時初めて市内に足を踏み入れた。ISISの歩兵を、狙撃兵と重機関銃が援護した。ミスタヌールの丘からも援護の砲撃があった。

10月6日、ISISは市内に100m侵入した。4回建てのビルの屋上にISISの旗が翻った。

     

10月8日のインディぺンデント紙が、コバニから住民16万人が脱出し、3千人が残っている、と書いている。市内のことか、コバニ自治州のことかわからない。

      

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コバニ戦 最初の10日間 2014年9月

2015-11-16 23:25:34 | ウクライナ

 

もともとコバニは小さなクルドの村にすぎず、クルドの主要な居住地から離れていた。1912年に、バグダード鉄道が通り、小さな駅ができて、町になった。コバニはカンパニー(会社)がなまったものだという説がある。コンバニ? 会社とは、バグダード鉄道を建設したドイツの会社のことである。

オスマン帝国の迫害を逃れたアルメニア人が、駅の近くに町をつくった。これが村から町へ発展する最初のきっかけとなった。町の建設者であるアルメニア人はコバニの主要な住民となり、3つのアルメニア教会があった。しかし1960年代、ほとんどのアルメニア人がソビエト連邦内のアルメニア共和国へと移住した。

 

ISISとの戦争前、コバニの人口は45千人である。住民のほとんどがクルド人であり、アルメニア人は1%にすぎない。他にアラブ人 (5%)とトルクメン人 (5%)が住んでいる。

 

   

 

 

コバニの戦いは大きな波紋を呼んだ。戦闘開始から最初の10日間で13万人が難民となった。シリア北部の難民がコバニに流入し、人口が増えていた。コバニに避難してきていたのに、再び難民となった人も多い。コバニは2014年9月から20151月まで、5か月間ISISによって包囲された。都市の大部分が廃墟となり、ほとんどの住民がトルコへ避難した。

この間クルド人民防衛隊(YPG)が、劣勢を耐え抜いて闘い、最後に勝利した。クルドの女性兵士について世界のメディアが報じた。

    

 

しかし、コバニを最初に攻撃した時、ISISはそのように重大な戦闘になると予想していなかった。8月までの作戦の延長にすぎなかった。8月半ばのタブカ空軍基地の時よりは楽だろうと考えていた。この空軍基地はラッカの政府軍にとって最後の拠点となっていた。これを落とそうとして、ISIS3度攻撃し、3度失敗した。ISISを撃退したと考え、政府軍は撤退した。ISISは政府軍の留守を狙って4度目の攻撃をした。基地には、少数の守備隊しか残っておらず、ISIS基地を占領した。

   

ISISはシリア内戦に遅れて参入したものであり、ラッカ県とデリゾール県に単独支配を確立したのは、2014年になってからである。ラッカ県の大部分を1月に、デリゾール県は7月に掌握した。ラッカ県に残っていた政府軍の3つの根拠地も、8月、苦戦の末奪い取った。

  

ラッカ県とデリゾール県にまたがる支配地を得たことにより、ISISはアレッポ県の前進基地の維持が容易になった。

 

ISISはすでにアレッポ県北東部にいくつかの町を獲得している。20141月のラッカ制圧の直後、114日アル=バーブを攻略した。続いて23日、マンビジを攻略した。どちらもアレッポの東にある町である。

   

 

アレッポに近いアルバーブは、アレッポ攻勢のための前進基地である。このアルバーブにとって、ジェラブルスは重要である。ジェラブルスは国境の町であり、トルコからの援軍と補給をアルバーブに送ることができる。アルバーブはラッカのISISによって支えられているが、ジェラブルスはなんといっても近い。ジェラブルスからの補給により、アルバーブはかなりの程度自立できる。

  

マンビジはジェラブルスとアルバーブの中間に位置し、補給の中継基地の役目を果たしている。また前進基地アルバーブから一歩退いた後方基地の役目を果たしている。実際ISISは、アレッポ付近で捕まえた子供たちを、マンビジに監禁した。

2014年5月29日、約250人のクルド人の生徒がアレッポで中学校の試験を受けた。コバニへ戻る途中で、生徒たちはイスラム国に誘拐された。100人ほどの少女たちは数時間後に解放されたが、少年153人がコバニの南西55キロに位置するマンビジの学校に拘束された。幸い、ISISに凶悪な意図はなかったようで、14歳〜16歳の少年は全員無事帰った。ただし、5か月間厳しい宗教教育を受け、苦痛を味わった。

 

コバニをISISの支配下に置けば、ジェラブルスは安定する。ラッカ県の拠点テルアビヤドとジェラブルスの間にコバニがある。コバニは邪魔な存在である。アレッポ県北東部の支配地はラッカ県北部と結合され、強化される。将来のアレッポ攻勢とイドリブ進出に備え、アレッポ県の北東部をまず固める。

アレッポの手ごわい政府軍を後回しにして、ISISはコバニを先にかたづけようとした。

 

20127月以来、クルド人民防衛隊(YPG)がコバニを支配している。YPGとクルド人政治家はコバニをクルド自治領とみなしている。彼らは、コバニ市とその周辺をコバニ州と呼ぶ。コバニ州はアレッポ県アイン・アラブ(=コバニ)地区の北半分である。

          

アイン・アラブ地区の2004年の人口は19万人である。、コバニ自治州はアイン・アラブ地区の北半分なので、人口は約12万人である。しかし、ISISの攻撃を受けるまで、コバニは平和であり、シリア北部から多くのクルド人がコバニに避難した。クルド人はコバニとアフリン以外にも住んでいる。

2014年の統計の時よりはるかに多くの人が、コバニ自治州に住んでいた。20万人が難民となった。

 

    <ISIS、周辺の村々を攻撃>

2014913日、ISISはコバニに大攻勢をかけ、市の東西の村々に侵入した。16日、戦略的に重要なユーフラテス川の橋を占領した。

917日、戦車・ロケット砲・重砲と共に進撃し、ISIS21の村を占領した。これによってコバニ市は完全に包囲された。コバニ州に隣接する地域の自由シリア軍も、市内に退却した。17日の進撃地点を地図で示す。

 

      

  

地図には、コバニ自治州の境界が示されていないが、境界線は「15日の前線」とほぼ一致する。17日に、ISISはコバニ自治州内に入った。コバニ自治州の境界の確認のため、別の地図を示す。

   

 

2日後の19日、ISISはさらに39の村を奪った。ISISは市まで20kmに迫った。

45千人が、国境を越えてトルコへ避難した。他にかなり多くの人が、トルコに入れず、追い返された。休みなく砲撃され、村人は逃げた。100の村が無人となった。数十人のYPGと住民が死亡した。

 

920日、ISISは市まで15kmに迫り、市から10kmの範囲内に砲撃した。

この日、YPGに援軍が到着した。トルコから300人以上のクルド人戦闘員が、市内に入った。

トルコのクルド労働党(PKK)の幹部が、シリアのクルド部隊に志願するよう、トルコのクルド人青年に訴えた。この日3発のロケット弾が市内に落ちた。避難民の数は合計6万人に達した。

20日と21日の2日間で39人のISISが死亡し、27人のクルド兵が死亡した。YPG100個の村の住民をシリアの他の地域へ避難させた。

21日、ISISは市まで10kmに迫った。コバニ市の南と東の郊外が主な戦場だった。

22日、米軍がタラビヤド付近を空爆した。ISISの武器と戦闘員がトルコからタラビヤドに入り、コバニに向かっている。空爆は効果的だった。東の郊外のISISの前進は止まった、とYPGが発表した。前進を阻まれたISISは、市内に向けて砲撃した。市から6km西の村と7km東の村で戦闘が続いた。

    

この日トルコのクルトゥルムス副首相が、国境を越えてトルコに逃れたクルド避難民は、13万人であると発表した。

 

924日、トルコから飛来した数機の戦闘機が、ISISの補給ルートを空爆した。この時点では、米空軍はシリアの領空権を尊重し、トルコ側から侵入した。ISISへの補給はトルコから来る。ISISを攻撃する戦闘機もトルコから来る。変な話だ。

しかしISISの進撃は衰えず、市の南方8kmに迫っている。ISISに援軍が来ており、戦闘員は4000人になった。

925日の朝、ISISは市まで2kmに迫った。この日までに、ISISはコバニ自治州の75%を占領した。

 

     

 

31日の防衛線がコバニ自治州の境界である。

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ISISと政府軍の攻防 ラッカ 2014年8月

2015-11-13 21:21:23 | シリア内戦

2014年1月、ISISはラッカ市からヌスラ戦線とアフラール・シャムを追い出し、ラッカ市に単独支配を確立した。同時にラッカ県の大部分を支配下に置いた。

しかし、ISISの支配地はラッカのみで、隣りのデリゾール県を支配しているのは、自由シリア軍とヌスラ戦線である。ISISはデリゾール県の攻略にとりかかった。

2014年4月10日、ISISは国境の町アブカマルを自由シリア軍から奪った。アブカマルはイラクからシリアへの入り口である。(次の地図参照)

2014年7月14日、ISISはデリゾール市からヌスラ戦線と自由シリア軍を追い出した。ISISはイラクと国境を接するデリゾール県を獲得した。ISISはデリゾール県とラッカ県をひとつの領域としてまとめあげた。

   

ISISはハサカ県とアレッポ県の支配地をさらに拡大広しようとしている。ISISがまとまった領域を支配下に置いたことに、シリア政府は脅威を感じ、ISISを押し返そうとした。

7月半ば、政府軍はハサカ県南部のISSをを攻撃した。ハサカ県南部のシャッダダは、イラクの支配地ととデリゾール県の支配地を結ぶISISの重要拠点である。121砲兵連隊は、このシャッダダを砲撃した。

これは、これまでのISISの成果を切り崩そうという作戦である。政府軍は本腰を入れていることは明瞭である。ISISは反撃に出た。

2014年7月23日の夜、ISISはハサカ県の121砲兵連隊基地とラッカ県の17師団を同時攻撃した。ISISによる政府軍への攻撃としては、ISISがシリアに来て以来、最大規模だった。2つの基地は、ISISと政府軍の決戦場となり、双方が多数の死傷者を出した。

121砲兵連隊基地をめぐる戦闘については、すでに書いたので、17師団基地での戦闘について書く。

       <17師団基地の戦い>

ラッカ市の北にある17師団の基地は最後に残された政府軍の拠点であリ、タブカ軍事空港に次いで、最も堅固に防備されている。

    

7月23日の深夜、ISISの突撃部隊が、17師団の基地に攻撃を開始した。いつものように、自爆攻撃で始まった。爆弾を積んだ2台の自動車が17師団の外郭に突入した。しかしいつもと少し違って、突入寸前に師団兵によってよって砲撃され、手前で破裂してしまった。それでも師団兵19人が死亡した。

自爆攻撃に続き640人のISISが、300人の駐屯(ちゅうとん)兵に襲いかかった。シリア空軍の戦闘機が飛来し、ISIS兵を爆撃した。航空支援にもかかわらず、基地守備軍は敗北した。師団の本拠地に300人しかいなかったからである。

17師団基地への航空支援の他に、この日シリア空軍の戦闘ヘリがラッカ市内にあるISISの本部その他を攻撃した。

 2日間の戦闘の後、26日、師団兵は撤退し、ISISは17師団基地を占領した。撤退した師団兵は93旅団基地へ向かった。数十人がタブカ軍事空港へ逃げた。(93旅団基地とタブカ軍事空港の位置は地図参照)

撤退する4グループのうち、ひとつのグループは後に残り、ISISの追撃を抑えた。それでも、撤退するグループのひとつは、ISISの待ち伏せにあった。50人がISISによって捕らえられ、処刑された。無事撤退できた2グループの数百人が93旅団基地にたどりついた。300人の師団兵が途中の村で孤立している。

この戦闘で、合計105名の師団兵の死亡が確認されている。140人の生死がわからなかったが、この中の108人が、20日後タブカ軍事空港に帰った。

捕虜となった師団兵の何人かは、ラッカ市内を引き回され、処刑された。彼らの生首が棒の上にさらされた。

ISISの戦死者は28人である。

     <ISIS、93旅団の基地を占領>

121師団の基地を失い、ラッカの政府軍の基地は、93旅団の基地とタブカ軍事空港のみとなった。8月7日、ISISは93旅団の基地に3つの自爆攻撃をした。夜を徹した戦いの末、ISISは基地の3分の2を制圧した。

翌日ISISは93旅団の基地を完全に掌握(しょうあく)した。

(原文) Battle of Raqqa

          <タブカ軍事空港の攻防>

 

      

政府軍に残された拠点はタブカ軍事空港のみとなった。ISISはタブカ軍事空港の攻略のための準備を始めた。これまでいくつかの反政府軍が何度か、この空港の奪取を試みた。2013年の11月25日には、政府軍のヘリコプターを撃ち落し、乗員が全員死亡した。しかし攻略はすべて失敗に終わっている。

8月10日、ISISはタブカ軍事空港への攻撃を開始した。

8月17日、シリア空軍は、タブカ軍事空港の周囲のISISを空爆した。同時にラッカ市内のISISも空爆した。ISISの戦闘員31名が死亡し、数十名が負傷した。市民8名が死亡し、10名が死亡した。

この日、シリア空軍は、デリゾールのISISに対する空爆も含め、合計40回空爆した。翌日も20回空爆した。ラッカの水道施設が破壊され、市内の水道が止まった。これらの空爆は、米国が提供した情報に基づいた誘導ミサイルによるものである。米国と西側の国が、ドローンで得た情報をシリア軍に提供したという。

ISISに対する空爆に加え、政府軍はタブカ軍事空港に援軍を送り、防備を堅固にした。また大量の弾薬と食料を守備兵に届けた。

空爆されたにもかかわらず、ISISは空港の周囲の村々を占領し、基地に対する包囲の輪をせばめた。8月19日、ISISは基地の入り口に、2つの自爆攻撃をした。続いて200人の戦闘員が基地を攻撃した。半数が外国人志願兵だった。

これに対し、守備軍は重火器でISISを砲撃した。空軍がISISを空爆した。

ISISは基地への突入に失敗し、退却した。翌日の午前中、戦闘はなかった。しかし午後になって、ISISは2度目の攻撃を開始した。彼らは地雷原に阻まれ、政府軍による砲撃と空爆に見舞われた。地雷は、ISISの前回の攻撃進路を観察し、特殊部隊が敷設した。戦闘は22日の午前中まで続いた。

ISISは、基地の近くの検問所を占領したが、基地に踏み込むことはできなかった。政府軍は夜の間に援軍を基地に空輸した。

最初の2日間にISIS戦闘員70名が死亡した。ISISのチュニジア人指揮官ウマール・アブドルラフマンも死亡したと言われている。

8月22日の夜、ISISに援軍が到着し、ISISは3度目の攻撃を試みた。自爆攻撃で基地の門を爆破し、突入を試みたが、失敗に終わった。シリア空軍はこの時、同時にタブカ市内のISISの基地も空爆した。

      <4度目の攻撃で、空港を占領> 

8月24日、ISISは4度目の攻撃をし、今度は成功した。軍事空港の大部分を占領した。政府軍はホムス方面に向かって退却しており、空港にはわずかな守備隊しか残っていなかった。ISISはこの日、タブカ空軍基地を完全に占領した。

占領の際、ISISはMiG-21戦闘機1機を破壊した。残りの15機のMiG-21とすべてのヘリコプターは無事避難した。 ISISはSA-16対空ミサイルと空対空ミサイル(Atoll missiles)を手に入れた。

基地の守備隊は170名が死亡した。150名ほどが捕虜になった。彼らはは、処刑された。

    

8月10日以来4回の戦闘で、政府軍兵士は合計で200名が死亡した。700名が基地から退却した。

ISISの死者は合計で346名である。

(原文) Battle of Al-Tabqa air base

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ラッカ 2013年―2014年1月

2015-11-10 22:25:11 | シリア内戦

ラッカ市にはアッバース朝の宮殿があったが、現在残っていない。宮殿があった場所は住宅地となり、古代・中世のラッカ市街地には現在住宅が建っている。アッバース朝時代の工房地区も消えてしまった。

1950年代、朝鮮戦争で世界的な綿花景気が発生し、ラッカの農業は前例のない成長をとげた。ユーフラテス川中流域の再耕地化が進み、綿花はラッカ地方の主要農な産物となった。

                ラッカ市近郊を流れるユーフラテス川

        

ラッカ市は2014年になって、ISISの首都として有名になったが、元来反政府勢力が弱い街である。アラウィ派の都市と同程度に親アサド的であった。2011年と2012年、反政府勢力の動きはなく、2013年になって、隣県アレッポの反政府勢力が進出して来た。

2011年、ラッカ市でも数回デモが起きたが、広がらなかった。反政府的な連中も2012年の末までおとなしくしていた。部族連合は政府を支持していた。

      

イドリブ・デリゾール・アレッポから、50万人のの避難民がラッカに逃れた。ラッカが安全な街だったからである。

2012年6月、アサド大統領は親政府的なラッカを訪れ、モスクの礼拝に参加した。

2013年になると、武装勢力がラッカ県に進出してきた。3月3日、イスラム系のいくつかの旅団がラッカ市を包囲した。市の北端を突破した後、市内の政府施設を攻撃した。3月4日、イスラム系旅団は市の中央広場を占領し、ハフェズ・アサドの黄金の像を引き倒した。

3月5日、反政府軍は政府軍を市から追い出した

彼らは県知事のハッサン・ジャラリとバース党のラッカ支部長スレイマンを逮捕した。

県の首都が反徒の手に落ちたのは、これが最初である。ラッカ市制圧に参加したのは、次の諸グループである。

①自由シリア軍 ②ヌスラ戦線 ③アフラール・シャム ④フサヤ・ビン・ヤマン旅団

戦闘で最も活躍した2つのグループの指導者が死亡した。ヌスラのラッカ県司令官とアフラール・シャムのラッカ部隊の最高指揮官である。

政府側も、警察長官が死亡した。

住民は反徒に「市内に入らないでくれ」と懇願した。政府軍の砲撃と空爆を予想したからである。

ラッカの政府軍が少数とはいえ、反徒は簡単に勝利した。市の北端を突破されてからは、政府軍は戦わず退却した。憲兵将校と国境警備隊の将校たちは、軍の装備を17師団の本部に移動させた。17師団の本部は市に隣接しており、非常に近い。この間反徒たちは手を出さなかった。かれらも戦闘を避けた。政府軍は市から東西に向かって退却した。一部は、60㎞離れたラッカ空港に退却した。

反徒によるラッカ占領後、シリア空軍が20回ラッカを空爆した。10人の反徒と29人の市民が死亡した。

         <17師団の基地をめぐる戦い>

ラッカ市から政府軍は去ったが、彼らは17師団の基地に移っただけである。今度は、ラッカ市の北にある第17師団の基地が戦場になった。2013年4月4日、自由シリア軍が基地の4分の3を占領した。師団の中枢である司令部は、政府軍が守り抜いている。戦闘で政府軍兵士80人が死亡し、250人が負傷した。

 

              < ISIS、シリアに登場>

反政府軍と第17師団との戦闘は決着しておらず、第17師団の基地をめぐる攻防は続いた。反政府軍側に新たにISISが加わった。ISISはこの時初めてシリアに登場した。

ISISは今や反政府軍の支配下にあるラッカ市内に入り込んだ。ISISは新参者であり、実力者ヌスラのすそを分けてもらうようにして、市内の一画に自派の拠点を築いた。わずかな支配地を得ると、さっそく住民を処刑した。

             

2013年7月の勢力図には、ISISの支配地はない。ISISはまだ実績がなく、反政府軍の小さなグループにすぎない。地図上で赤く示されているのは反政府軍の支配地である。

タラビヤド(=テルアビヤド)はクルドの支配地の中にありながら、反政府軍が支配している。コバニの西隣りのジェラブルスも反政府軍が支配している。

            <ISISと反政府諸軍とのみぞ深まる>

8月15日、ISISは17師団の包囲作戦から離脱すると宣言した。彼らはラッカ市の行政に専念するつもりであり、ラッカ県の最も緊迫した戦線から兵をひきあげた。

ヌスラ戦線と他のグループは17師団の攻撃に全力をあげていた。その間、ISISはラッカ市の独占支配に集中した。肩身の狭い新参者が、ラッカを独り占めにしようとした。政府軍と戦わず、反政府軍の成果を横取りする行為だった。当然ヌスラはじめ諸グループは怒った。

17師団の基地をめぐる攻防はえんえんと続き、その間ISISの横取り行為は着々と進められ、ラッカの単独支配にあと一歩となった。

ISISはラッカ以外でも同様の行為をしており、2014年1月3日、イドリブとアレッポの反政府軍の怒りが爆破した。反政府軍が団結して両地域のISISを総攻撃した。

12月の初め、自由シリア軍本部の武器の管理がずさんであることが発覚して、米国は自由シリア軍に対する援助を停止した。参謀長のイドリス将軍は落ち込んでいた。年が明け、ISIS討伐に参加する将軍は、元気そうだった。

 

イドリブとアレッポの反政府軍の怒りが先に爆破したが、ラッカの反政府軍の怒りも頂点に達していた。3日遅れて、1月6日、ヌスラに率いられたラッカの反政府軍がラッカ市内のISISを攻撃した。東部地区にあったISISの大きな収容所を打ち破り、50人の囚人を解放した。これは手始めであり、ラッカ市内のISISの全拠点に対する攻撃が、一日中続いた。攻撃に参加したのはヌスラの他に、以下の部隊である。

①アフラール・シャム ②リワ・タウヒド ③自由シリア軍系の小さな諸部隊

ISIS指導部は、自軍の部隊をすみやかに撤退させた。1月7日、ISISはアフラール・シャムの司令官と停戦協定を結んだ。

ISISはラッカから消えた。ラッカ県の北部、トルコとの国境の町テル・アビヤド(=タラビヤド)からも撤退した。

ISISはラッカ市から追い出されたが、立ち直りがすばやかった。1月7日の停戦協定を2日後に破った。9日、ISISはラッカ市の南側の橋を封鎖した。翌日、東部地区の大部分を制圧し、市の中心部に進んだ。

1月12日、イラクとの国境からISISの援軍が大挙して到着した。デリゾールからも援軍が来た。大軍勢となったISISは、13日ヌスラの本部を攻撃した。翌日ISISはラッカ市の大部分を制圧し、ヌスラの最後の砦となった知事の宮殿を包囲した。

アフラール・シャムは犠牲者が増えるのを恐れ、ISISの要求を受け入れ、立ち去った。これがISISの迅速な勝利を助けた。

ISISは追い出される前の状態を回復しただけなく、ラッカ支配が完成された。ヌスラとアフラール・シャムがラッカから消え、ISISはラッカの単独支配者となった。

ハサカ市とデリゾール市と違って、ラッカ市内に政府軍は残存していない。しかし政府軍は、市の北側に隣接する17師団の基地を拠点としている。政府軍にはさらに、市から少し離れたところに、2つの拠点がある。北方の第93旅団基地と南西のタブカ軍事空港である。

      

次に、3つの基地を含む、狭い範囲の地図を示す。ネットでかなり探して、やっと見つけた。ただラッカ県全体の中での位置がわからないので、上に広い範囲の地図を示した。 

    

続いてISISはラッカ県の他の町を奪いかえした。1月13日、国境の町テルアビヤドをアフラール・シャムから奪いかえした。この時アフラーラル・シャムの戦闘員を処刑し、彼らの家を焼いた。翌14日、ラッカ市の西隣りのタクバに入った。リワ・シャウヒドは町を明け渡すことに同意した。

同日14日、オマール・シシャニ司令官が率いるISISの部隊が、アレッポ市の北東のアル=バーブを攻略した。      

ラッカのISISの部隊にアレッポを撤退した部隊が加わった。(アル=バーブの位置は2つ目の地図も参照)

ISISはラッカ周辺が安定したので、兵力に余裕ができ、アレッポ方面の作戦を続けた。

1月23日、アル=バーブの北東のマンビジを攻略した。マンビジの位置は上下の地図参照。

       

ISISは東からアレッポに迫っている。ラッカの支配地を延長する形で、アルバーブとマンビジに進出した。

ISISは本拠ラッカ市のすべての入り口に検問所を設け、特に市内に入る車両の検査を厳重にした。市内の住民に古風で厳格な宗教的規律を押し付け、残酷な処罰をした。このことでISISは批判されるが、統治しようという姿勢は評価されるべきである。自由シリア軍の多くは、統治についての自覚がなく、自ら無法者の振る舞いをし、町は無警察・無行政の状態に放置されている。

5か月後の6月10日、ISISはモスルで勝利するが、その時、ラッカ県におけるISISの課題は、政府軍が3拠点に残存していることだった。

(参考)

 

 

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オスマン時代と変わっていないシリア

2015-11-06 22:56:29 | シリア内戦

 

2012年末、アサド政権は1か月と持たないと言われた。2013年と2014年、アサド政権は倒れないと言われた。2015年になって、アサド政権は目に見えて弱体化している。

2015年になって、政権は3月28日イドリブ市を失い、5月21日パルミラを失った。

イドリブとパルミラでの敗北は、一時的なものではなく、シリアの政府軍の兵士の数が激減しているからである。組織された攻撃を実行できる軍隊は、もはや存在しない。

兵士の死亡が4年間続き、補うための新兵が集まらないからである。最初から予想されたことだが、やや突然である。

政府軍はイランの海外部隊の指揮下にあるという。

サウジアラビアは強気となり、和平に耳を貸さず、アサド政権の解体は時間の問題と考えている。トルコとイスラエルが同調している。米国はイランとの交渉によるシリアの和平を模索した時期もあったが、アサド政権の崩壊が視野に入ってきた現在、サウジと同じ姿勢である。

 アサド政権が倒れても、シリアに平和は来ない。政府軍に代って、シリア全土を平定できる軍隊は存在しないからである。自由シリア軍が弱体なことは深刻な問題である。政府軍が消えた後、それに代わる中央軍は存在しない。後に残るのは全国各地の地方軍だけである。地方軍の中で、最も強力なのは、ヌスラ戦線とISISである。ヌスラが各地の反政府軍をまとめる場合を除き、中央軍が成立する可能性はない。

 

自由シリア軍が弱体なことは、武器が不足している他に、根本的な問題がある。

第一次大戦後、シリアはオスマン帝国から独立したが、独立は偶然のたまもので、独立戦争を戦い抜いたわけではない。独立戦争を戦う過程で国内が統合されることが多いが、シリアにはそれがない。

独立後の政権をめぐる抗争が、統合のための生みの苦しみだったかもしれない。安定した政権が生まれず、苦しまぎれに一時期エジプトと合体した。その時ナセルがハフェズ・アサドに尋ねた、「どうして自分の国を差し出すのかね」。アサドが答えた、「20人の独裁者がいる国を統治するのは不可能です」。

 

国内統合は結局不完全なまま現在に至っている。シリアは多民族国家である。オスマン帝国解体の原因は、統一の欠けた多民族国家であったからである。新たに誕生したシリアも多民族国家であり、オスマン帝国同様、解体の危機にある。

シリアの統一はもともと難しいが、唯一の可能性は、国民の6割を占めるスンニ派アラブ人が軍隊を組織し、諸民族を統合することであった。しかしスンニ派アラブ人は内紛を繰り返し、安定した政権をつくることができなかった。軍隊をまとめることもできなかった。それをしたのは少数民族のアラウィ派だった。

アラウィ派政権を取り除いた時、後に残るのは、いくつもの少数民族と分裂したスンニ派アラブ人である。

スンニ派アラブ人がまとまれない具体的な例を、ケビン・マズールが書いている。2014年9月9日の記事である。

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      Local struggles in Syria’s northeast

一年かけてシリアの国外に住むシリア人にインタビューした結果、私は、シリア内戦は国家レベルで2つの勢力が争っていると考えるべきでない、と実感した。地域レベルで様々な戦いがおきている。

シリアの反政府勢力に武器を与える前に、シリア各地の地域的な特性をよく知らなければならない。

アサド側で戦っている民兵は、アサド政権存続のためではなく、自分の地域を守るために戦っているのである。ISISや自由シリア軍に忠誠を誓う場合も同様である。全国レベルの発想を持ちながら戦っている人間は非常に少ない。

 地域のことしか考えていない人々に武器を与えることで、はたして望む結果が得られるか、立ち止まって考えるべきだ。

戦っている当事者に目を向けなければいけない。地域の戦闘を決定しているのは地域の事情である。個々人は自分の目の前で起きていることに反応しているだけだ。原理・原則は特にない。自分を守るため、自分の利益のために戦っている。

シリア内戦の図式は「スンニ派住民は民主的な統治を求め、アラウィ派少数政権と戦っている」というものだ。 しかしすべてのスンニ派がアラウィ派政権と戦っているわけではない。政権に協力しているスンニ派もいる。

内戦開始後に新たな紛争が生まれた。ISISは内戦開始の2年後に、シリアに入ってきたものであり、内戦の原因ではありえない。ISISがシリアに来た時、シリア人のメンバーはいなかった。ISISはそもそもシリアと関係ない集団である。最初の内戦が、副産物として別の戦争を生み出したのである。

他にも、アサド政権の支配力が弱まった後で誕生したグループがある。

シリア東方教会の治安部隊ストロである。ストロはYPGよりはるかに小さな部隊であり、影がうすいが、北東部では無視できない要素である。ストロは政党を持たず、YPGの政治部門であるPYDに歩調を合わせている。

政権側の民兵組織「国民防衛軍」も内戦が始まってから組織された。

 

潜在的に存在していたものが、内戦を契機に、実際に戦う武装集団として登場した場合もある。

ヌスラ戦線には、シリア人が多く参加している。イラク・アルカイダに参加していたシリア人がシリアに帰ってきた。彼らが中核となってヌスラ戦線が結成された。

YPGは2012年に戦闘を開始したが、2004年にイラクのクルド自治区で結成されている。

政府軍以外のこれら諸部隊は地域的発想で戦っている。政府軍側の民兵でさえ、政権のために戦っているのではない。

シリア北東部の国民防衛軍は、アサド政権の影響下にあり、武器と軍服を支給されているが、自分の土地を守るために戦っており、遠くへ出かけて冒険をする考えはない。

そもそも政権側が話を持ちかけたのではない。ハサカの国民防衛軍は侵略者から身を守るために結成された。外部の武装勢力に対抗しようとした結果である。武装勢力が地域に迫ってきた時、多くの都市は地域防衛のため、人民委員会を設立した。戦闘が本格的になると、人民委員会は国民防衛軍に参加した。

政権に批判的な人たちは、国民防衛軍を「アラウィ派のごろつき」と呼ぶ。しかし国民防衛軍は地域に根差しており、アサドの傭兵ではない。デリゾールとハサカの国民防衛軍はスンニ派のアラブ人である。部族ごとに戦闘員を組織し、国民防衛軍に参加した。「スンニ派対アラウィ派の戦争」では説明できない。

たしかに国民防衛軍にはアラウィ派のメンバーが多いが、故郷から離れて遠征するものは少ない。地域の生活を守るために、結成されたからである。

一般的な図式で説明できないことが他にもある。クルド人はスンニ派であるからアラブ人と同盟しそうなものである。しかしクルドにとって、スンニ派もアラウイ派も同等であり、両者から距離を置いている。

 シリア東方教会はキリスト教であり、まったく孤立している。現在の状況は少数民族にとってきわめて危険であり、キリスト教徒は生存の瀬戸際にある。

現在のシリアに最強の軍団が存在しない以上、いかなる同盟関係も一時的なものであり、不安定である。スンニ派は昔からまとまらない。新たににスンニ派原理主義集団のISISが登場し、分裂要因が増えた。ISISは不信心者のスンニ派と戦っている。

シリア北東部は、中央の対立とは関係なく、地方的なレベルで対立している。地域内の他民族に対する恨みが争いの原因であり、時には隣村との争いである。

その典型的な例がハサカ市の場合である。

住民の多くはアラブ人であり、それぞれの部族に属している。ハサカ市には、クルド人とキリスト教徒もかなり住んでいる。内戦が始まると、民族の対立が表面化した。他地域ではアラブ人が政府に対して反乱したが、ここでは、アラブ人が政府の同盟者になった。

 

     <オスマン時代のまま放置されたハサカ>

歴史的に、シリア政府はハサカ市を植民地のように扱ってきた。代理人に統治を任せ、シリア政府は北東部の臣民と、直接関係しなっかった。地元の指導者と部族の有力な人物だけを相手にした。

これはオスマン帝国の統治方式と同じだった。地方の統治に関心がなく、オスマン帝国の政府は、代理人が集めた税を受け取ることで満足した。 

ハサカ市で長い間、治安の責任者だったマンスーラは、意図的に住民を分裂させた。民族間に争いの種をまいた。彼は、住民に紛争をもちこんだ策略家として記憶されている。

現在も、シリア政府はこの策略を続けている。

マンスーラは昇進して、全シリアの治安部門の責任者になっていた。内戦が始まると、ハサカ知事という身分で戻ってきた。

シリア政府が奉じるイデオロギーはアラブ民族主義であり、クルドを国家の構成要素とは認めていない。クルドという民族の存在を否認している。クルドの旗を掲げること、クルド語を教えることは禁止されている。クルド民族を象徴する行為は違法である。軍隊と行政機関では、クルド人は下級の職務以外、採用されない。

これとは対照的に、政府はアラブ人を信頼している。1980年代、ムスリム同胞団が反乱した時、アラブの部族のほとんどが、政府に忠実だった。2004年のクルドの反乱の時も、アラブ人は政府側についた。現在も政府は東北部のアラブ部族の支持を維持しようと努力している。

つい最近も、彼らがISISに取り込まれないよう、政府はビラをまいた。

「シリア・アラブ軍からユーフラテスの谷の部族の諸君へ。諸君の勇敢さは歴史が証明している。君たちが示した勇気を、軍は尊敬し、評価している。今後も諸君の戦いを期待する」。

現在(2014年9月)のハサカの政府軍基地をめぐる攻防でも、とアラブは政府軍を助けている。

 

       <ISIS、121連隊基地を制圧>

2014年7月末、ハサカに進出したISISは、121連隊基地の大隊本部を攻撃した。政府軍は守りきれず、撤退した。しかし、かなりの数の兵士が本部内に取り残された。近くの政府軍も包囲されており、援軍を出せなかった。そこで政府は地元のアラブ民兵軍(国民防衛軍)に救助を頼んだ。クルド軍(YPG)も救助に駆けつけた。

 国民防衛軍とYPGが到着した時、ISISはすでに大隊本部を占領していた。国民防衛軍とYPGはISISを包囲し、ISISへの補給を切断した。

そこまではよかったが、アラブ人の国民防衛軍は戦意が乏しかった。政府軍の部隊はショックをうけた。大隊本部に取り残された将校のほとんどはアラウィ派だった。国民防衛軍のアラブ人は彼らが殺されるのを見て、喜んだ。

121連隊のシリア軍将校は見殺しになった。

ISISは大隊本部を制圧した。

大隊本部を見捨てた国民防衛軍は、ハサカ市のアラブ人居住区の防衛に専念した。シリア東方教会(ストロ)も自分の地区を防衛した。YPGはハサカ市の周辺部と市内のクルド地区に検問所を設けた。

国民防衛軍はこのような裏切り行為をしたが、政府軍は関係を絶たなかった。

政府軍は国民防衛軍にYPGを加え、合同作戦室を設けた。これにシリア東方教会のストロとイスラム教・ドゥルーズ派の「威信軍」も加わった。

これらの多様なグループはISISの脅威にさらされており、それぞれの土地と住民を守る必要に迫られ、政府軍に頼った。政府軍は厄介な敵ISISと戦うため、補助兵力が必要だった。4つの民兵軍は、互いに異質な集団であり、共通するものがなく、人的な結びつきもない。政府軍を中心とした合同は便宜的なもである。

     < シリア政府を憎むクルド人>

国民防衛軍が政府軍将校の死を喜んでいるように、クルド軍と政府軍の関係も呉越同舟である。クルドはアサドに協力していると非難されるが、両者の間に正式な合意は存在せず、クルドがシリア政府を憎んでいることに変わりはない。 

かつてシリア政府はクルド抵抗運動の英雄アブドゥラ・オジャランを追放し、国内のクルド人を弾圧した。

オジャランはトルコのクルド労働者党(PKK)の創始者のひとりであり、トルコとシリアのクルド人から絶大な尊敬を得ている。

1980年代末、シリアの後ろ盾であるソ連は崩壊前夜であり、シリアにとって頼れない存在となった。シリアは、NATO加盟国トルコと、南の敵国イスラエルにはさまれており、一触即発を恐れた。そこでシリアは隣国トルコとの関係改善を試みた。トルコに対する友好的姿勢の証しとして、1988年、自国にかくまっていたトルコからの亡命者・PKKのオジャラン党首を追放した。

オジャランは各国を転々としたが、結局トルコ政府によって逮捕された。クルドのカリスマ的指導者は、シリア政府の日和見主義的な外交の犠牲になった。処刑にならず、投獄された。

オジャランがシリアのクルド人に悪影響を与えていたことも追放の理由だった。オジャラン追放と同時に、シリア政府はPKKと結びつきがあるシリアのクルド人を逮捕した。

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ISIS、デリゾールを奪取 2014年7月

2015-11-04 23:47:59 | シリア内戦

   

2014年723日、深夜12時をすぎてから、ISISはハサカ県南端にある121連隊の基地を攻撃した。これまでにない大部隊による攻撃である。ほとんどがシャッダダを基地とするISISであり、他地域からの援軍は少なかった。ISIS3方面から進み、防衛線を突破し、構内に侵入した。連隊兵と接近戦になった。ISIS121連隊の司令官ミジアド・サラメ将軍を殺害した。他に20人の連隊兵が死亡した。

以上はISIS側の報告であり、政府軍の報告はこれと異なる。

ISISは構内に入っていない。連隊はISISの攻撃を退けた」。

しかし次の夜、ISISは連隊本部の大部分を占領した。政府軍はいったん逃げたが、重砲とともに戻ってきた。ISISは連隊本部から撤退した。

 

第121砲兵連隊基地はハサカ県とデリゾール県にまたがる地域を間管轄している政府軍の本拠地である。ハサカ県南部とデリゾール県北部に、にらみをきかせている。ISISがここを襲撃したのは、大胆であるが、これはISISの精一杯の反撃にすぎない。政府軍の方が先にハサカ南端のISISの拠点シャッダダに攻撃を開始した。121砲兵連隊の基地は高台にあり、ここからシャッダダを砲撃した。

 

冒頭の地図は、シャッダダがラッカおよびデリゾールの両都市と結びついていることをよく示している。シャッダダは隣国イラクのモスルとも結びついている。2014610日のISISのモスル攻略は劇的な事件だったが、シャッダダから出発したのである。

 

  

モスルの支配者となったISISの次の目標はキルクークだった。さらに南下してバグダードを目指す勢いだった。しかしシーア派の抵抗にあって、バグダード攻略は遠のいた。より容易な選択として、バグダードの西のアンバール県に向かった。

モスル占領直後の地図を見ると、ISISがハサカから東進し、続いて南下したことがわかる。

   

バグダード攻略は挫折(ざせつ)したが、ISISイラク正規軍から奪った戦車と重砲により強化されている。ISISはイラクのアンバール県とシリアのデリゾール県の征服に取り掛かった。両県にはすでに拠点があるので、完全制覇を めざしたのである。。これは可能な目標であり、成功すればシリア再進出のための安定した基盤を得ることになる。

アサド政府軍は2012年にデリゾール県の大半を失い、いくつかの重要な地点だけを守っていた。デリゾール県を支配していたのは自由シリア軍である。

そこにISISが登場した。ISISはヌスラを追い出し、デリゾールの新たな支配者となった。ISISはラッカ県とデリゾール県にまたがる広い地域を獲得した。ハサカ県はシリアの他の地域から切り離され、北東の隅に孤立した。

 

 

 

モスル攻略の起点となたシャッダダは、イラクのニナワ県とデリゾールを結ぶ結節点となり、今後さらに重要性を増すと予想される。

アサド政府軍は早めにシャッダダのISISをたたくことにした。

 

根本にあるのは、610日のモスル攻略以後、ISISがシリアで勢力拡大に乗り出したことである。ISISは、シリアに進出した1年前より格段に強力になっている。シリアでの最初の地固めが、デリゾール県の制覇だった。アサド政府軍はこれに脅威を感じ、ISISを押し戻そうとした。その努力の一つがシャッダダ砲撃だった。

ISISが121砲兵連隊基地を襲撃したのは、政府軍のシャッダダ砲撃を挫折(ざせつ)させるためである。

 

  <デリゾール県を支配していたのは、自由シリア軍>

シリア政府は2012年にデリゾール県のほとんどを失った。しかしデリゾール市の一画だけは守り抜いた。デリゾール県を支配していたのは、自由シリア軍である。2014年の7月、ISISはこれらの反政府軍をデリゾールから一掃した。

ISISのデリゾール作戦は、モスル攻略前から進められていたが、モスル攻略後に完了した。

 

   <ISISのデリゾール作戦>

2014410日、ISISはアブカマルの自由シリア軍を2方向から攻撃し、町の一部を占領した。アブカマルはイラクとの国境にあり、イラクのアンバール県からデリゾール県への入口である。(アブカマルの位置は上記地図参照)

    アブカマル付近のユーフラテス川

   

 

410日のアブカマル攻撃は、3か月にわたるデリゾール戦の開始であった。戦闘が終了した714日、ISISはデリゾール市から自由シリア軍とヌスラ戦線を追い出した。しかし市内に政府軍の支配地が残存しており、完全支配ではなく、分割支配である。

 

自由シリア軍はISISと政府軍の両者から攻撃され、敗北した。自由シリア軍は兵の数では、ISISを圧倒していたが、武器が貧弱であり、弾薬も不足していた。また政府軍との長期間の戦いで、疲労していた。自由シリア軍は2012年にデリゾール県の大部分を政府軍から奪い取ったが、政府軍の奪回作戦に苦しめられ、消耗した。

 

  <米国、自由シリア軍を見捨てる>

ISISがデリゾール市に迫った時、自由シリア軍は米国に資金と武器の援助を要請した。中東を訪問していたサマンサ・パワー国連大使に直接訴えた。大使は、「ワシントンの同僚にしっかり伝える」と答えたものの、結局米国からは何も与えられなかった。

自由シリア軍は政府軍との戦いで、多くの戦死者を出した。苦労して獲得したデリゾールをISISに奪われ、これらの犠牲は無意味となった。

 

   <デリゾールの支配者ISIS>

勝利の翌日715日、ISISはヌスラのデリゾール司令官を処刑した。これはヌスラときっぱり袂を分かつ行為である。ISISは反政府軍の中で孤立しており、敵対関係にある。唯一の友人ヌスラを失えば、周囲はすべて敵である。

半年前の1月初め、シリア北部の自由シリア軍・ヌスラ・イスラム系諸軍が団結してISISを攻撃した。ISISは一時窮地に陥り、シリアのほとんどの根拠地を捨てて逃げた。その時ヌスラの指導者が、いち早く、ISISとの内輪もめをやめるよう呼びかけた。ISISとしては、万一の場合に備えて、ヌスラと妥協しておくほうが得策だと思うが・・・。

 

デリゾール市の攻略後、ISISは自由シリア軍が支配していた町や村のほとんどを征服した。ISISはデリゾール県の95%を支配するにいたった。

 

817日、英国人権団体が発表した、「この1週間、ISISは石油が豊富なデリゾール県で、700人の部族民を殺害した」。非正規軍による虐殺として、シリアで最大規模とされる。

 

ISISがデリゾール県の部族民に支配を受け入れさせるやり方は巧妙である。虐殺はあくまで最後の手段である。部族の長老と対話集会を設定し、最初は説得する。「俺たちを恐ろしい連中と思って、警戒しているようだが、俺たちは牙なんてないぞ」。

説得だけではなく、お金もちらつかせる。ISISはデリゾール県の住民を懐柔するために、200万ドル使ったと言われている。

ISISのデリゾール支配は、これまでの自由シリア軍による支配より強固なものになりつつある。アサド政権は危機感を抱いた。

 

    

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