たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

ダラアのデモを過激化させるムスリム同胞団  2011年3月23日

2016-08-24 16:09:23 | シリア内戦

 

3月22日の夜、治安部隊はモスクの掃討を開始した。対テロ警察・機動部隊・軍隊による合同作戦だった。323日未明になって、軍が増強された。抗議する市民相手に、本格的な軍事作戦だった。

モスクの周辺では、早朝から銃撃音が鳴り響いた。前夜から朝までに、すでに7名の死者が出ていた。女性や子供も負傷したが、治安部隊は救急車をモスクに近づかせなかった。モスクの電気・電話・インターネットは切断されており、外部の人間には、モスクで何が起きているかわからない。

 

シカゴ・サン・タイムズが同日昼以後の緊迫した状況を書いている。死者の数だけでなく、彼らが死んだ場所を具体的に書いており、22人が死亡したことの深刻さが伝わってくる。

またこの日軍隊からの離反者第一号が出た。一人の兵士がモスク攻撃の命令を拒否し、射殺された。彼自身は反政府軍として活躍することはなかったが、仲間の兵士は心穏やかでなない。反政府軍誕生の遠因となった。

 

=======《 15 killed in clashes in southern Syria》======= 

323日未明、シリアの治安部隊は、反対派が宿泊しているモスクとその周辺を、容赦なく攻撃した。これにより、少なくとも6名の市民が死亡した。

激しい銃撃音は一日中聞こえた。昼過ぎには、小機関銃の連続発射音が旧市街に響きわたる音が聞こえた、とAPの記者が語った。

英国のシリア人権員会が、ダラア市民の証言をネットに書いている。「治安部隊の兵士であるハリド・マルシはオマリ・モスクの攻撃を拒否したため、命令違反で射殺された」。この話の確認はできていない。

 

夕方、人々はローマ時代の旧市街地でデモをした。警察がこれに発砲し、3人死亡した。夜になって、さらに6人の死体が発見された。これらの情報は、活動家がダラアの住民から聞いたものである。

その他の死者を合計すると、この日ダラアの死者は22名である。

 

ダラアで多くの死者が出たにもかかわらず、夜になると、周辺の村々の人々がダラアに向かって行進した。村の名前はnkhil Jasim Khirbet Ghazaleh al-Harrahである。

彼らがダラアに近づくと、治安部隊が発砲した。死傷者については、わからない。

ダラアとそ周辺の村々の反乱は、政権にとって1970代以来最大の危機となっている。

=====================(シカゴ・サン終了)

 

  

 

亡命シリア人によるロンドンでの小さな集会は、さほど影響力がないかもしれない。しかしこれとは別に、亡命シリア人は国内の反対派に具体的な援助をしており、このことがシリア内戦を決定づけた。国外の反対派には外国の強力な支援があり、両者が協力して国内の反対派を支えた。

オクラホマ大学のヨシュア・ランディスは、反対派にムスリム同胞団の影響が見られる、と重要な指摘をしている。亡命シリア人の多くが、ムスリム同胞団に所属している。ダラアの反対派の中の過激分子は、この時すでに国外の亡命シリア人と結びついている可能性が高い。

ヨシュア・ランディスはシリアに住んでいるかと思えるほど、シリアの内情に通じており、内戦が必須と見ている。シリア全体で反乱が始まったわけでなく、まだダラアの問題にすぎない。この時期シリアの内戦を予言する者はいない。

 

====Deraa: The Government Takes off its Gloves》=====

 

323日、政府はむき出しの暴力によって、ダラアの民衆を鎮圧した。15人の市民が死亡した。

ダラアは貧しく、住民はイスラム教徒であり、困難な状況に置かれている。シリアが抱えている問題の最悪の例となっている。経済が破綻し、人口が爆発的に増加している。これらの深刻な問題に加え、最悪の知事と威圧的な治安部隊が市民を苦しめ、ダラアは不満が煮えたぎっている。

政府が一時的に鎮圧に成功しても、市民の抗議は続くし、むしろさらに拡大するだろう。

政府にとって最大の防壁となっていた「国家権力に対する恐怖」が払拭(ふっしょく)されてしまったからだ。若者の無気力が怒りに変わった。

YouTube、アルジャジーラ、携帯電話が全てを変えた。この3つは、権力と戦う強力な武器を、人々に与えた。

シリアは極限まで緊張しており、爆発寸前である。失業者があまりに多く、自由があまりに少ない。

反体制派はこれまで、比較的穏健な要求にとどめていた。戒厳令の撤廃、政党に関する新しい法律の制定、国民に自由を与えるることなどである。しかし昨日(23日)、彼らは、初めて宗派的なスローガンを叫んだ。

323日、彼らはこれまでの穏健なスローガンを棄て、次のように叫んだ。「イランに反対。ヒズボラに反対。我々が欲しいのは、神を恐れるイスラム教徒だ」。

このスローガンは1970年代と80年代のムスリム同胞団の不満と同じである。当時ムスリム同胞団はアラウィ派支配を否定した。アラウィ派は不信心であり、非アラブであり、隠れイラン人だと糾弾(きゅうだん)した。「隠れイラン人」という言葉は、アラブ人がムハンマドの第一の後継者であることを認めい人たちについて用いられ、非アラブ、特にイラン人を意味する。

1970年代のムスリム同胞団がシリアの政権を否認する際、この言葉を用いた。

またイラクのサダム・フセインが自国のシーア派をこの言葉で呼んだ。フセインはイラクのシーア派に対し、隠れイラン人的な偏向を捨てることを要求した。イランの宗教指導者に従うことをやめ、正統アラブ・イスラムを信奉することを求めた。

 

「イランに反対、神を信ずる者を歓迎」というスローガンを耳にし、政権は昔の恐怖を呼び起こした。政府はオマリ・モスクで発見された武器を提示しながら、反対派は米国の手先であり、アルカイダやタリバンと同類だ、と非難した。再び蜂起しようとするムスリム同胞団に対し、政府は反撃を決意した。

 

シリアのファルーク・シャラア副大統領は反対派に対する立場を明らかにした。

「イスラムの源泉を理解し、開かれた心を持つイスラム主義に反対するもでははない。しかし米国に指導されるアルカイダとタリバンは犯罪集団であり、受け入れられない。彼らは米国を敵呼ばわりしていながら、裏で米国と結びついている」。

 

政府と反対派の双方が、対決姿勢を鮮明にしており、両者の対決はさらに暴力的になり、宗派対立を深めていくだろう。

政府は過去30年の方針を強調するだろう。それは「安定と安全」であり、暗黙にイラクの混乱と悲惨と対比している。「シリアの国民はイラクのようになることを望むだろうか。内戦に引き裂かれ、宗派対立に苦しめられることを望むだろうか。

 

反対派は次のように言う。「シリアはレバノンと違う。イラクは宗派・民族別の分断国家にはならない。無秩序と独裁のどちらかだ、とういう政府の脅しは嘘だ。イスラム主義が不寛容だというのは作り話だ。政府は自分の予言を現実のものにする目的で、シリアを混乱させるだろう」。

 

戦争で真っ先に犠牲になるのは真実だ。また孫子が言うように「すべての戦争は欺きを原則としている」。

シリアの革命を成功させるには、エリート層を分裂させることが不可欠だ。シリアの支配層を構成するのは次の2つグループである。

①軍と治安部隊を率いるアラウイ派の将校団

②スンニ派の大商人と産業財閥。彼らは経済界の支配者であるだけでなく、シリアの精神と文化の継承者である。

 

[コメント①] 一つのデモで宗派的なスローガンが叫ばれたからといって、抗議する民衆が党派的であると考えるのは間違いです。確かにシリアには宗派主義が存在し、時々そのようなスローガンが叫ばれます。しかし大多数のスローガンは党派的なものではありません。現在起きているデモが宗派的であるというとらえ方は、真実から遠いものです。

[コメント②]                                                                                                                                           ⅸデモの参加者が叫んだ「反イラン、反ヒズボラ」という言葉にそれほど意味はなく、「神を恐れる人間」という言葉に大きな意味がある。結婚式で表明される、神への誓いと同じで、信仰心の表れと理解すべきえある。

政治改革が望まれており、改革運動には全国的な支持があるが、必ずしも革命や蜂起を国民が支持しているわけではない。多くの豊かな都市住民は無関心であり、自由より安定を願っている。このことが、反乱が農村地帯で起きている理由だ。

====================(ヨシュア・ランディス終了)

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シリア内戦の発端: ダラア 2011年3月23日

2016-08-23 15:13:06 | シリア内戦

     

ダラアの中心部にあるモスクは、反対派の拠点となっている。322日の夜、治安部隊はモスクの掃討を開始した。しかし反対派は「要求が受け入れられるまでは、モスクに留まる」つもりであり、モスクを守る決意は固い。掃討作戦は予想外にはかどらず、翌朝陸軍は部隊を増強した。モスク掃討は本格的な作戦になった。

一般市民をモスクから追い出すために、これだけ大げさな軍隊出動は不可解である。しかも、陸軍最精鋭の部隊まで投入している。この疑問に答えるような報告はなく、反対派や住民の報告と政府発表から、切れ切れの事実を知るのみである。

冒頭の写真と次の写真には、普通の市民に交じって、覆面をした闘士ががいる。少数の熱血漢がいることは確かである。

   

 

CBSがダラアの反乱についてまとめており、23日早朝から25日までの部分を訳す。

 

====How schoolboys began the Syrian revolution========

323日の未明、治安部隊がオマリ・モスクを襲撃した。ダラアの抗議運動は拡大し、人々はオマリ・モスクに結集していた。部隊兵は閃光弾をモスクに投げてから、銃撃を開始し、5人が死亡した。前日までに負傷した人々を治療していた医師も死亡した。

地元の住民によれば、この襲撃を行ったのは、特殊部隊である。多くの人が、第4師団所属の特殊部隊だと言っている。第4師団を率いているのは、大統領の弟のマヘル・アサドである。

 

ダラア市長とダラアの治安部隊の長官が転勤させられたが、住民の怒りは消えなかった。

落書き少年の親戚である28歳のモハンマドが語る。「なぜアサド大統領本人がダラアに来ないで、代理を寄こしたんだ。大統領が直接人々に謝るべきだった。我々は100%シリア人だ。彼は我々に対し、心からの同情と敬意を示すべきだった」。 

 

      《葬儀後の抗議集会》       

ダラアの抗議は指数的に増大し、シリアではおきまりの悲劇となった。前日死んだ者たちの葬儀は、政権に抗議する集会に転化し、さらに多くの人が集まった。治安部隊が発砲し、前日より多く人が死んだ。その結果次の葬儀に集まる人の数がさらに多くなることは間違いなかった。これが現在のダラアで進行している抗議のパターンだ。

 

324日、政府は政令を発し、税金を減額し、公務員の月給を1500シリア・ポンド(32.6ドル)増額した。

翌日(25日)、葬儀に集まった数万人の市民が、「我々がほしいのはパンではなく尊厳だ」。治安部隊が発砲し、15人の死者が出た。

怒った抗議者たちの一部の者が、ハフェズ・アサド前大統領の彫像を引き倒した。ハフェズ・アサドは現在でも大部分のシリア人の心に、恐怖を呼び起こす。

彼の息子である現大統領バシャール・アサドの肖像がは破られ、燃やされた。

この一週間に、ダラア市とその周辺での抗議運動で死んだ者は55名である。

全国で、ダラアへの連帯が合言葉となった。「われわれの精神と血をダラアにささげる」

===============(CBS終了)

 

23日について、ニューヨーク・タイムズは、モスク攻撃を行ったのは陸軍であり、兵が増強されたと書いている。

 

=======(Protesters Are Killed in Syrian Crackdown》=====

シリア南部のダラアで、治安部隊はデモの鎮圧を続けている。

6人あるいは15人が死亡したという報告があるが、ダラア市は封鎖されており、連絡が難しいので、死亡者の正確な人数は不明である。しかしダラアで一週間続いている民主化運動で最も多い死者が出たことは確かなようだ。活動家とインターネットの報告によれば、死者の数はもっと多い。

 

23日の早朝、シリア陸軍はダラアの兵を増やし、デモの鎮圧を開始した。陸軍の部隊は、オマリ・モスクとその周辺に集まっている人々を攻撃した。オマリ・モスクは市の中心部に位置しており、抗議する人々の拠点になっている。

部隊は催涙弾と実弾射撃で群集を解散させようとした。負傷者を治療していた医師、アリー・モハメドもこの時死亡した。この日の午後、彼の葬儀があり、数千人が集まった。その中の一部の者が市の中心部に戻ろうとしたが、少なくとも1名が死亡した。

この日1日で15名死んだと、APが伝えている。4人の死体が治安本部の近くに横たわっていた。

 

シリア国営テレビは以上の報告と異なる場面を放映している。

      

治安部隊がオマリ・モスクから人々を追い払った後、モスクには銃、手りゅう弾、弾薬,現金が残されていた。国営テレビは市民4人が死亡したと伝え、彼らは武装した暴徒であり、救急車を襲おうとした、と説明した。

 

国営放送SANAが伝えた。「暴徒は医師、医療スタッフ、救急車の運転手を殺害した。治安部隊は、これらの攻撃な暴徒者に発砲し、数人を負傷させた。

 

50年前に敷かれた戒厳令は政治集会を禁止しているにもかかわらず、先週いくつかの都市で抗議運動が起きた。その中でダラアのデモが最の大きく、18日と20日、数千人が街頭に集まった。これらの人々は政府の建物に火をつけ、警官隊と衝突した。数人死亡したと報告されている。

 

オマリ・モスクのイマームであるアフメド・サヤスナががアル・アラビーヤに語った。「モスクの中に武器はなかった。現在警察がモスクを占領している」。

YouTubeの動画では、モスクの拡声器が「自国民を殺す者などいない。諸君は我々の息子であり兄弟である」と呼びかけている。少し離れたところを、武装した部隊が走っており、銃声と助けを求める声が聞こえる。

この記事の印刷版は324日に発表された。

======================(ニューヨーク・タイムズ終了)

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シリア内戦の発端: ダラア 2011年3月22日

2016-08-22 19:57:09 | シリア内戦

   

 

20日大統領の特使がダラアに来て、長老たちと話し合った。政府と長老たちは和解の方向に向かったようであるが、長老たちが提出した要望書の中には政権が受け入れられない項目があった。それはダラアの政治警察警察の廃止である。ダラアの最高権力者は知事ではなく、政治警察長官である。知事の解任より、政治警察長官の解任の方が重い。

長老たちは政治警察長官の解任にとどまらず、政治警察そのものの廃止を要求している。これが意味することは、政府は地方長官を派遣せず、ダラアのことは自分たちにまかせてほしい、ということである。長老たちは自治を要求したに等しい。自治を大幅に認めれば、中央政府の権力は名目的なものになる。自治と独立は紙一重である。政府がこの要求に応ずるはずもなく、知事を解任したが、政治警察長官については解任ではなく、転勤させたにとどまった。 

落書きをした少年たちが長老たちの子供であるにかかわらず、少しも手心を加えなかったのは、政治警察に柔軟さが欠けていた。しかし意図的にそうしたのかもしれない。ダラアのことは自分たちにまかせろ、という長老たちの態度を、政治警察は常々苦々しく思っていたのかもしれない。

 

シリアには、民主主義とは相いれない部族制度が残存している。民主主義は部族制度の解体を前提として成立する。

2011年のシリアでは、近代的な国家では存在しない部族権力が、中央勢力と争っている。シリアは民主主義を導入する前に、近代的な中央政府を確立しなければならない。ところが、旧勢力の部族と民主主義を求める夢想派が同時に反乱した。

 

21日のエコノミストが1820日のシリアのデモについて書いている。The Arab awakening reaches Syria ) 

同紙は重要な指摘をしている。これまで身を潜めていた反体制が動きだしたというのである。この時期アサド退陣を要求するスローガンを口にする者はいない。大統領に改革を要求しているのである。しかし最初から政権転覆を目的をしている連中がいる。彼らがチャンス到来とばかり、動き始めた。穏健な活動家は、抗議運動が危険な方向に引きずられてしまうのではないか、と恐れている。

反体制派の多くは国外に亡命したが、国内に潜伏している反体制派もいる。両者は密かに連絡を取っており、亡命シリア人には外国の支援がある。また盲目的に怒りを爆発させている大衆を見て、抗議運動を去った活動家もいる。怒れる大衆が外国の支援を受ければ、収拾がつかなくなる。21日のインデペンドは予言的な指摘をしていた。

 

   〈スン二派部族が革命を宣言〉

21日ダラアでは死者がなかったが、アサド政権打倒の気運は強まっており、 シリア南部のスン二派部族が、革命組織を結成した。組織名は「南シリア・アラブ部族・氏族連合」と言い、その書記長が3月21日ネットにビデオを投稿した。その中で書記長のオベイディ弁護士は、シリアの独裁者・体制・その支持者を批判し、革命を宣言した。

「勇敢なるシリアの国民!現在、自由と変革の嵐が吹き荒れている。41年間続いた不法なアサド一族の支配に終わりが来た。殺人・投獄・解雇・横領など、制度的な犯罪的によって、10万人以上が犠牲になった。さらに300万人が追放された。

 諸君が今すべきことは、国民と革命のために立ち上がることである。

我々の目標は国民的な革命であり、特定のグループ、宗派、宗教、人種を敵とするものではない。憎むべきは汚職と腐敗であり、異なる宗派や人種ではない。

我々(部族・氏族連合)は、シリアの半分以上を占める部族・氏族を代表している。

 バース党の諸君!アサドの私党を離党せよ!

 軍隊の諸君! 国民と革命の側に立つべきだ。

学者とすべての宗派の指導者の方々!革命を支持し欲しい。

 シリアの若者たち!独裁政治に抗議しよう。

全国民が団結し、平和なデモに参加しよう」。

 

      〈3月22日〉

 

3月22日、ダラアのデモは参加者が減り、1000人以下だった。数百人という報告が多い。4日連続のデモの波が、5日目になってようやく引いたようだった。

軍隊と警察が厳重な警戒をする中で、オマリ・モスクの中と外に集まった人々が政府を批判するスローガンを叫んだ。

治安部隊がモスクに突入することが予想されたので、これをを防ぐため、集まった人々はモスクの周囲を取り囲み、人間の盾をつくった。反対派は、要求が受け入れられるまでモスクに留まるつもりであった。

治安部隊は人間の盾を強行突破し、モスクを守る人々と衝突した。少なくとも4人の市民が死亡した、と活動家が報告した。

 

この日 AFPの写真家とビデオ撮影者がダラアに入ろうとしたが、警備の部隊に止められ、なぐられたうえに、撮影機器を取り上げられた。逮捕後の尋問の際、係官は手荒な逮捕について謝罪したが、撮影機器は返さなかった。

写真家の話では、ダラア市のすべての入り口に兵士が配置されており、旅行者の身分証を、彼らが作成した名前のリストと照合している。

 

昨日(21日)は数千人がデモ行進をしたが、死者は出なかった。デモの大部分は普通の市民であり、政権は彼らに対する取り締まりを緩めた。そして彼らの中の少数の過激派にターゲットを絞った。特殊部隊を配置し、危険な動きをする者だけを見張った。

 

今日(22日)4人の死者が出たのは、治安部隊がモスクに立てこもっている過激派を強制排除しようとしたからである。人間の鎖としてモスクを取り囲んでいたのは過激派を熱心に支持する人たちだけである。その数は数百人にすぎない。

今日のデモは激減していたのだから、治安部隊はモスクに居座る連中を放置したほうが得策だったかもしれない。モスクの強制排除は4人以上の死者を出し、結果的に裏目に出た。死者が出ると、影響が大きい。

 

強制排除による死者が出たのは夜であり、翌日には再び大きなデモとなり、さらに11人の死者が出た。22日深夜と23日の死者の合計は15人となり、18日の死者7名を超えた。18日の死者は6名とされていたが、催涙ガスを吸った11歳の少年が3日後死亡した。

 

モスクの強制排除はダラアの反乱をさらに拡大する結果となったが、これを行ったのは、ダマスカスから派遣されているエリート部隊である。ダラアの治安部隊の判断ではなく、シリア軍の中核となる部隊の判断である。

 

 

        

(参考)

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シリア内戦の発端:ダラア 2011年3月21日

2016-08-20 16:29:34 | シリア内戦

            

ダラアでは、18日ー20日に続き、21日にも数千人がデモ行進をした。地上にはエリート部隊が配備され、上空を戦闘ヘリが舞い、厳戒態勢が功を奏したのか、この日死者は出なかった。これまでデモを規制していた部隊とは異なる、黒い戦闘服を着た部隊が登場した。彼らは攻撃ライフルを持っていた。デモ隊の中にまぎれこんでいたり、背後に潜む危険な連中はけん制され、デモは平和的なものになった。バース党青年部の建物が破壊されたにもかかわらず、この日死者は出なかった。

政府は死者を出さずにデモを規制する方法を考えたようである。中央政府は逆らう者は殺してまえ、という非情な姿勢ではなく、反乱の火を消す方法をを苦慮している。戦闘のエキスパートをダラアに送る作戦は正しかったようだ。

ネットのDer Standardというサイトが21日について書いてる。 

 (Protestbewegung dehnt sich aus    21 März 2011

 

 「黒い服を着て、攻撃ライフルをたずさえた数百人の部隊がダラアの道路に配置された。彼らは18日の治安部隊と異なる部隊である。この黒服の部隊はデモをする人々に対して配備されたのではない。

シリアの政権が暴力のエスカレーションを望んでおらず、民衆の感情をなだめようとしていることは、明白だ。15人の落書き少年たちは釈放された」。

 

21日ダラアが完全に封鎖され、厳戒態勢にあることを、ツァイト(Zeid)が書いている。

===《Das syrische Regime lässt auf Demonstranten feuern》====

 

3月21日ダラアの紛争は新しい段階に入った。前日死んだ者の埋葬後、大勢の人が声を合わせて叫んだ。「アラーが唯一の神!シリア!自由!もう我々は恐れていない。」

人口30万の都市は噴火しているようだ、と目撃者が語った。

市内に入るすべての道路は兵士たちによって封鎖されていた。上空をヘリコプターが旋回している。インターネット、電話、電気はせつだんされた。

事態を鎮静化するため、アサド大統領は、2週間投獄されていた少年たちの釈放を命じた。また18か月の兵役期間を15か月に短縮する予定である。県知事ファイサル・クルスムを失職させた。知事はデモの処理に際し、重大な過失を犯した。住民の要望に従い、彼は罷免された、とSANA(国営放送)が伝えた。

しかしファイサル・メクダド外務副大臣が率いる政府の使節団は民衆から罵倒された。政府は危機感を強めた。

ダマスカス、ホムス、バニアス、アレッポ、デリゾールでも、数千人が街頭に集まり、思想の自由と腐敗の根絶を要求した。

 

シリアは中東で最も残酷な警察国家であり、これに匹敵するのはリビアのカダフィ政権とチュニジアのベン・アリ政権だけである。反対派の人間と人活動家は容赦なく逮捕され、投獄され、拷問される。秘密警察が目を光らせ、国民を見張っている。国連のバン・キ・ムン事務総長は、シリアの秘密警察のやり方は容認できない、と述べている。

================(Zeid終了)

 

LIBNANというニュース・メディアが、21日のダラアの近くの町でも小さなデモがあったことを伝えている。またイスラエルがゴラン高原を占領しているので、パレスチナと同じく、シリアには反イスラエル世論があることを述べている。断固たる反イスラエル姿勢が政権に求められている。

 

===Protests spread to southern Syrian town Jassem》====

 

21日ダラアで、昨日のデモで死んだ市民の葬儀後、数千人がデモ行進をした。

 

ダラアの抗議運動はチュニジアとエジプトの反乱に触発された、と住民が言った。彼は今日(21日)のダラア市のデモについて、次のように語った。

「昨日のデモで死んだライド・アクラドの埋葬後、大勢の人が墓地からオマリ・モスクに向かって行進した。

 

ダラアの抗議運動は周辺地域に拡大し、近くの町ジャセムで、21日数百人がデモをした。「現在彼らは町の中心部で座り込みをやっている」と活動家が述べた。

 

ヨルダン国境に近いハウラン地方の都市ダラアのデモは、シリアでは最も人数が多い。次の都市でもデモが起きている。ホムス・ダマスカス・デリゾール・カミシュリ・バニアス・アレッポ。

 

明らかに、政権は不意を突かれて驚いている。シリアは、地上でもっとも抑圧的な国家である。数週間前、アサド大統領は満足そうな様子で語っていた。「アラブ世界では大衆運動が吹き荒れ、政変が起きているが、シリアは影響を受けないだろう。政府の政策が民衆の感情と一致しているからだ」。

この主張は事実によって否定された。ただし、政権崩壊が差し迫っているわけではない。またデモ参加者の大部分は、重要な点で、政権と同じ考え方をしている。それは反イスラエル・反西欧という思想である。

 

ダラアの出来事によって明らかになったが、政権は予想通り、自国民に対し極端な暴力を行使した。デモ隊に向かって実弾を放った。

これは政権の強さを示すものではなく、実は弱さを証明している。

エジプトとチュニジアでは政権に属する者が、抗議する人々と交渉を始めた。不人気な政権のトップが辞職し、軍部が改革の過程を指導した。

シリアの政権は部分的な変革を許す余裕がない。アサド家が頼れるのは、人口の12%を占めるアラウイ派だけである。政権は合法性によってではなく、恐怖によって統治している。

 

シリアはイランの同盟国であり、反政府運動が拡大した場合、イランを中心とする同盟と反イラン連合の対立が先鋭化する。このように緊張した状況があるので、シリア政府は、極端な手段を用いて反対運動を弾圧するだろう。

 

アサド政権はイスラエルの最も手ごわい敵であることで、国民から正統性を認められてきた。しかし1973年以来、ゴラン高原はイスラエルに占領されたままであり、この間イスラエル軍とシリア軍の間で1発の銃弾も発射されていない。

ゴラン高原の町クネイトラでデモがあり、「アサドは裏切り者だ」と叫んだ。イスラエルのゴラン高原占領を、容認しているからである。そして「シリアの治安部隊をイスラエルが援助してている」からである。

この批判はムスリム同胞団のアサド批判と同一である。「シリア政府はイスラエルを擁護している。ゴラン高原について沈黙してるのは、シリアがイスラエルに従属している証拠だ」。

 ====================LIBNAN終了)

     イスラエルが占領しているゴラン高原

      

 

321日ダラアのバース党青年部の破壊された、とガーディアンが伝えた。同紙は318日ー21日のダラアの反乱に関連して、シリア国家の特異性を述べている。反イスラエル・反西欧という立場を鮮明にするシリアは、周辺のアラブ諸国の中で孤立している。

 

======《反西欧のシリアにも革命が迫る》====

    Even anti-western Syria is not immune to revolution

 

321日バース党の青年革命団ダラア支部の建物が破壊された。

 

エジプト・サウジアラビア・そして多くの湾岸諸国はイスラエルに対し妥協的であり、親欧米であり、欧米に支持されている。これら穏健な体制の国々は、地域の安定に貢献しており、間接支配を望む欧米にとって足場であり、柱である。

これに反し、シリア・イラン・ヒズボラ・ハマスはイスラエルに敵対し、反欧米の旗を掲げる危険な勢力である。

米国と穏健ナアラブ諸国は、時にはシリアの政権を自分たちの陣営に誘い入れようとし、あるいは手なずけようとし、またこれを倒そうとしてきた。

しかし最近3カ月間、自陣営の穏健な諸国で大衆蜂起が起き、チュニジアとエジプトの政権は倒れてしまった。

対照的にシリアは安定している。アサド大統領の考えによれば、シリアの安定の理由は欧米の影響下に入らなかったからである。シリアはアラブ的なものを真正に体現しており、イスラエルとその背後にいる西欧諸国と正面から戦うことが、シリア国民の信念であり、イデオロギーであり、正義である。他のアラブ諸国に欠けている、アラブ愛国心がシリアにはある。

しかしシリア政府のこうした考えは、独裁者が生き延びるための方便であり、妄想にすぎない。

このようなアラブ愛国論はシリア国民の関心をひかない。もっと重要な問題から目をそらす、ごまかしにすぎない。

 

シリア以外のアラブ諸国の国民の間でも、アラブ民族主義は国民の関心事ではなくなっている。ムバラクやベン・アリに比べ、アサドが人気ある指導者であることは確かだが、彼の親族が率いる抑圧組織はエジプトやチュニジアより残虐である。

抗議する人々は「圧政からの自由!戒厳令と特別裁判の廃止!」と叫んだ。

またアサド政権はムバラクと同じくらい腐敗し、富を独占してる。

シリア国民は、アサドのいとこであるラミ・マクルーフは、仲間だけの資本主義の頂点に立っており、ダラアの人々は彼を呪っていた。彼が所有する電話会社のダラア支社は焼き討ちされた。

シリアのバース党は、ムバラクの国民民主党より長期間政権の座にあり、その分余計堕落しており、貪欲(どんよく)である。バース党ダラア支部も焼き討ちされた。

 

政権はダラアの主な支持層にわいろを渡し、彼らの支持をつなぎとめようと努力した。しかしながら一般の人々が求める「自由と民主主義」については、それを実現する約束をしていない。次の世代まで、根本的な変革をするつもりはない、とアサド大統領は率直に述べた。

こうした政権の姿勢は、話し合いと和解、そして新政権への平和な移行を、最初から不可能にする。したがって、もしシリアで国民蜂起が起きれば、それはリビアのように激烈な闘争になるだろう。

==============(ガーディアン終了)

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シリア内戦の発端;市民を銃殺しないよう、米国と国連が求める

2016-08-10 12:20:55 | シリア内戦

 

ダラアのデモは当初200人にすぎなかった。子供たちが政府を批判する落書きをして逮捕され、親たちが釈放を求めた。このわずか200人のデモに警察が発砲し、負傷者が出た。これに怒った親たちに多くの住民が同調し、3月18日のデモは数千人に膨れ上がった。デモ隊と警官隊が衝突し、警官隊は応援の部隊を呼んだ。上級の部隊がヘリコプターでサッカー場に降り立った。デモ隊はこの部隊にも果敢に挑戦した。この日の衝突で、デモ隊5名が射殺された。事件後現場には多くの石が散らばっており、デモ隊の主な攻撃手段は投石だったと思われる。暴徒が発砲したというは政府発表はないので、銃の使用はなかったと思われる。投石する市民5名を、治安部隊は射殺した。

一般的には、投石するデモ隊に実弾射撃するのは、やりすぎである。この日デモに参加した人々は、仲間が殺されたので怒った。投石は殺害を目的としていない。隣国イラクの王政時代の話だが、学生たちが首相の乗る自動車に、石やレンガを雨あられと投げつけた。首相は車の中で笑いながら、手を振っていた。王政時代のイラクの首相は心が広かった。

これと対照的に、2011年のダラアでは、治安部隊が投石する市民を射殺した。

例外的には、大勢が少人数に向けて集中的に投石する場合は殺人に至る場合がある。機関銃と大砲を持つ英軍がアフリカの原住民ズールー族の大軍の前に全滅した例がある。

また2014年のウクライイナの政変では、警官隊がデモ隊に負け、退却した。それをデモ隊が追撃する場面を写した動画がある。一人の警官が死んだように倒れている。退却した警官隊に代わって、スナイパー部隊が登場した。

18日ダラアのデモ隊が射殺されたことについて、シリア政府は状況説明をせず、治安部隊の取り締まりが度を過ぎていたことを認めている。政権の立場を悪くするため、治安部隊の裏切り者が行ったと発表している。

 

18日に5名の死者が出たことによって、ダラアのデモは性格が変わった。死んだ仲間は生きかえらず、政府のごまかしの対応でことを終わらせることはできない。民衆はこうしたことが2度と起きないよう、恐怖政治を終わらせたいと願った。

シリアは一党独裁の国家であり、体制批判は許されない。それを許せば、国家崩壊の危険がある。ポーランドの民主化は成功したが、ソ連の民主化はソ連解体につながった。体制批判を許さないことには、それだけの理由がある。

多数政党による議会制民主主義が現代の潮流であり、いまどき恐怖の支配による独裁国家など時代遅れに見える。しかし、民主主義国家といえども、あっという間に独裁国家になることがある。いかなる国家も、本質は同一であり、独裁制と恐怖による支配という骨格を持っている。民主政治は衣装がそれを隠しているだけである。

恐怖政治の下で生きる人は、自由と民主政治を求める。

ダラアの民衆は18日の事件をきっかけに、恐怖政治の廃止を目標にするようになった。このことは体制の打倒を意味し、革命の要求に他ならない。

しかしこの時期、シリアの大都市は平穏である。孤立した地方の小都市ダラアの反乱にすぎない。全国的な反乱を前にしているわけではない。シリア政府は、ある程度の譲歩をすることによってダラアの住民の不満を鎮めようとした。大統領特使をダラアに送り、落書き少年たちを釈放することを約束した。しかし今やダラアの民衆が要求するのは政治犯全員の釈放である。政権はそれには応じなかった

 

政治犯全員の釈放と政治的な逮捕の廃止すれば、デモがやりやすくなる。現在いくつかの都市で起きている非常に小さなデモが、いっきに拡大する恐れがある。

逮捕と拷問、最悪の場合処刑がデモに歯止めをかけており、政治的な逮捕が廃止になれば、シリアでもアラブの春が起きかねない。

政治犯全員の釈放と政治的な逮捕の廃止という要求は政権の存立を脅かす要求である。ダラアの民衆がこの要求を掲げて一歩も譲らない姿勢を示したことは、政権に対する挑戦であり、勇気ある行動であるが、厳しい弾圧を受けて終わる可能性が高い。繰り返すが、ダラアは孤立した地方の小都市である。

無謀な挑戦をしたダラアだが、米国と国連がこれを応援した。平和なデモに武器を使用したシリア政府を批判した。両者は人権無視の権力乱用を行うシリア政府を手厳しく批判した。

BBCが書いている。

==========《シリアで3名以上死亡    3月18日》===========

                                 Middle East unrest: Three killed at protest in Syria

                  

                (写真)2000年に大統領に就任したバシャール・アサド

デモをする人々に対し武器をしようすることを、米政府は強く非難した。

大統領府の安全保障会議の報道官が述べた。「米国は平和なデモを許可するよう、シリア政府に強く求めた。本日(18日)の暴力に責任がある者は処罰されるべきである。

また国連のバン・キ・ムン事務総長が語った。「平和なデモに対し武器を使用することは受け入れがたい。またでもをする人々をむやみに逮捕してはならない。

シリア政府には、人々の合法的な要望に耳を傾ける義務がある。ただ抑圧するのではなく、人々と真摯な議論をし、真の改革を実現しなければならない。

    《数百人が負傷》

SANA(=シリア国営放送)が伝えた。

「18日ダラアのデモで暴力をふるう者がおり、破壊行為が行われた。これに対処するため、治安部隊が出動した。スパイたちは暴力ふるうことにより、国内に混乱を引き起こそうとしている。個人と公共の建物が破壊された」。

 

 AFPはこの日のデモで数百人が負傷した、と伝えている。ダラアの人権活動家が AFPに語った。「デモで負傷した多くの者を、治安部隊が病院からどこかへ連れ去った」。

 

ダマスカスの有名な活動家がこのデモについてAPに語ったところによると、少なくとも5人が射殺された。その場にいた目撃者と病院勤務者の証言だという。

            (18日については、何度か書いており、重複する部分は省略した。)

=============(BBC終了)

この記事は同一事件について、シリア政府と米国・国連の真逆な見方の両方をよく伝えている。

18日に流れが決まり、20日の大統領特使のダラア訪問と彼らが示した大きな譲歩も、その流れを変えることはできなかった。落書き少年の家族の問題から、ダラア市民一般の反乱に拡大してしまったからである。米国と国連は反乱する市民を明確に支持した。この構図がそのまま5年間続く。

 

 

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