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シリア内戦はエジプト革命と違う

2018-07-21 23:09:17 | シリア内戦

 

エジプトではムバラクの独裁体制が30年以上続いていた。

20111月に始まった民衆革命について、ウィキペデイアから抜粋する。

=======《エジプト革命》=========

2011年1月、ムバラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。2月11日、ムバーラクは大統領を辞任した。翌年(2012年)5月から6月にかけて大統領選挙がおこなわれ、ムハンマド・ムルシーが当選した。同年6月30日の大統領に就任した。

人民議会選挙の選挙は大統領選挙の5か月前(3011年末)におこなわれ、イスラム教系の政党が躍進した。3012年1月23日に議会が初召集された。しかし6月14日、最高憲法裁判所が選挙法に不備があり3分の1の議員について当選を無効と認定した。これに伴い議会は解散されることとなり、軍最高評議会は立法権掌握を宣言した。こうした動きは司法を利用した軍によるソフトクーデターとの批判も行われた。

=================(ウィキペデイア終了)

 

エジプト革命は不完全な勝利に終わった。軍最高評議会が立法権を確保したからである。武力を握る軍部が、立法権を有するなら軍部による独裁の継続は可能である。国民によって選ばれたのは大統領だけであり、軍部は権力を部分的に手放したにすぎない。このように革命の成果は不完全だったとはいえ、大統領が国民によって選ばれたことは国民にとって一歩前進である。何よりリビアのような内戦にならず、平和的に野党候補が新大統領に選出されたことは評価すべきである。

シリアはエジプトのようにはならなかった。2011年末までシリアでは大規模なデモは起きず、アサド大統領は辞任の必要を感じなかった。2012年になって武装反乱が始まり、悲惨な内戦に突入した。

エジプトには言論の自由があり、労働運動も活発である。こうした政治環境を背景に、2011年1月、1万-2万人のデモが起きた。これに対し政権は高圧的な対応をしたので、再び同規模のデモが起きた。これが数回回繰り返された後、21日には20万の市民が首都に集まり政府に抗議した。その結果ムバラク大統領は辞任した。

しかし大規模な抗議運動によって得た成果は限定的だった。最初に書いたように、軍部が立法権を手放さかったからである。アラブ世界においてはこれが限界なのである。

シリアのアサド政権が民主的でないからといって、暴力革命を起こすのは現実無視である。目的を達成できないだけでなく、現在より悪い状態に転落してしまう。

ヨーロッパの民主的な国々も暴力革命を経験してきたが、ほとんどの革命が短期間で終わっている。暴力革命は民主主義もたらす契機に過ぎず、民主主義は経済発展とともに時間をかけて徐々に達成されたものである。比較的残酷だったフランス革命も真の民主主義をもたらさず、革命後実権を握ったのは富裕な市民である。都市の貧民と地方の農民は捨てられた。フランス革命は5年続いたがこの間戦闘が続いたわけではなく大部分政治的な闘争だった。ロシア革命はヨーロッパの革命と異なり、内戦が5年続き多くの死傷者が出た。また経済破綻が著しかった。ロシア革命においては国民の犠牲があまりに大きく、ロシア革命は避けるべき革命の手本となっている。シリア内戦も悪しき革命の手本となってしまった。

 

2011年のエジプト革命は中途半端なものに終わったが、エジプトの地中海沖に天然ガスが発見されており、経済が大きく好転するだろう。経済発展とともに政治改革がおこなわれ、平和的に民主主義へ移行するだろう。

シリアにはそのような幸運がないので、自力で経済発展する以外にない。シリアは古い歴史を持つ国であるが、小さな国である。1945年のシリアの人口は500万人だった。シリアは北欧の小国スエーデンを見習い、最先端技術による産業を発展させるべきだった。第2次大戦後シリアは欧米の敵国だったため、欧米の先進技術を取り入れる機会を失った。トルコから独立したアラブ諸国においてアラブ民族主義は神聖な理念であり、アラブの土地を奪ったイスラエルを滅ぼすことは義務だった。欧米はイスラエルの後見人であり、アラブの敵であった。シリアに安定をもたらしたハフェズ・アサド大統領は理念にとらわれない現実主義者であり、パレスチナ問題の現実的な解決をを模索していたが、イスラエル・欧米との和平には至らなかった。

欧米との経済交流がなかったことはシリアの経済発展を遅らせ、2012年の内戦の原因となった。シリアは石油の増産と農地を増やすことによって経済成長してきたが、1990年代後半の干ばつにより、新しく農地となった場所は不毛の地に戻った。破産した農民は都市の郊外や南部の農業地帯に流れ、極貧層を形成した。2011年のデモの参加者の何割かは彼らである。もちろんデモを指導したのは、昔からの反体制派とアラブの春と呼ばれた革命イデオロギーに共感した熱狂的な若者たちである。彼らだけでは人数が少なく、デモやってもさみしい結果に終わる。実際ダマスカス市内のデモはそうなった。ただ都市の郊外や農村には貧困に苦しむ人々がおり、それなりに人が集まった。

シリアの経済成長を支えてきた石油は枯渇に向かっており、減産に転じる日は近い。最近ゴラン高原で石油が発見されたが、1967年以来イスラエルが占領している。ゴラン高原を奪回しない限り石油はシリアのものにはならない。1967年の戦争でシリアがイスラエルに敗北したことが悔やまれる。現在シリアには経済発展の展望がない。

 

 


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