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シリア・アラブ王国(1919年6月ー1920年7月)

2018-10-20 18:55:44 | シリア内戦

 

第一次大戦でトルコが敗れ、シリアはトルコから独立したが、独立は1年で幕を閉じた。フランスがシリアの支配者となったからである。シリア国民は独立を奪ったフランスを憎み、1年間の独立期をシリア国家の出発点と考えた。短い独立期のシリアは「シリア・アラブ王国」と呼ばれる。国王はメッカの太守の3男ファイサル・アリーであり、シリアにとってよそ者であるが、ファイサルは現地のシリア人に統治をまかせたので、シリア・アラブ王国はシリア国民にとって自分たちの国であった。

トルコ帝国の解体後、シリアがシリア国民のものとなったのはたった1年であり、その後シリアはフランスの支配下に入った。冷酷な帝国主義の原則が貫かれたのである。この点を抜きにフランス統治時代のシリアを理解することはできない。またシリア・アラブ王国時代とフランス統治時代は近代シリアの形成期であり、シリアという国の基本的な特徴が表れている。これらの特徴は第2次大戦後のシリアを理解する鍵となっている。

シリア・アラブ王国時代の国王ファイサル・アリーはアラビアのロレンスとともにアラブの反乱を指揮した人物である。シリアが一度は独立できた経緯、そしてそれが消滅した理由について書いてみたい。

 

       《アラブの反乱》

19世紀後半オスマントルコ帝国の弱体化が明らかになっていたが、大一次大戦の後半には、オスマントルコ帝国の解体は必須と思われた。英・仏はオスマン帝国の分割を考えていたが、帝国内のアラブ民族の間には独立の動きがなかった。トルコ帝国の軍隊に所属していたシリア人将校が反乱に踏み出すことはなかった。こうした中で唯一反乱を起こしたのはメッカのハーシム家である。メッカはイスラム教の聖地であるが、トルコ帝国の辺境部である。トルコ中心部に近いシリアやイラクでは反乱は起こらず、遠いアラビア半島で起きたのである。

 

 

ハーシム家のフサイン・イブン・アリーはオスマン帝国からヒジャーズ地方を支配するアミール(太守)に任じられていた。彼はオスマン帝国による弾圧や抑圧に対し不満を持っていた。フサインはオスマン政府が戦後に彼を廃位しようとしているという証拠をつかんだため、1915年頃からイギリスの外交官で駐エジプト高等弁務官のヘンリー・マクマホンとの書簡を交わしていた。この書簡は後にフサイン=マクマホン協定と呼ばれるが、この書簡でフセインは、三国協商の側について協力することにより、エジプトからペルシャまでの全域を包含するアラブ帝国を建国できると確信した。

1916年6月10日、フサイン・イブン・アリーはオスマン帝国からの独立を宣言し、ヒジャーズ王国が誕生した。しかしメディナには強力なトルコ軍がいて、フサインの部隊はこれと正面から戦うだけの力がなかった。フサインは5万人の軍勢を組織していたが、当時ライフルを持っていたのはそのうちの1万人にも満たなかった。アラブ軍はトルコ軍の本拠地があるメディナを攻撃する能力ははなく、比較的少数の守備隊しかいない紅海沿岸部の港町を攻略しながら北上した。

 

 

 

アラブ軍の軍事顧問となったのがアラビアのロレンスである。トーマス・エドワード・ロレンスは英国の諜報員としてメッカに派遣された。エジプトの英軍の目的はパレスチナからダマスカスまで侵攻することだったが、戦力が不十分だった。そのためアラブ軍を利用し、これにトルコ軍をかく乱させることにした。アラビア半島にトルコ軍をくぎ付けにし、その隙にエパレスチナを攻略するつもりだった。

英軍がアラブ軍の力を借りなければならなかった状況をよく示しているのは、イラクで英軍がトルコ軍に敗北していたことである。

1914年末、英軍はイラクに上陸したが、一年後トルコ軍に包囲され全滅の危機に陥った。これを救出するため、総勢2万の援軍を送ったが、犠牲者を増やすだけで失敗に終わった。ドイツとの戦いが終了し、対トルコ戦に本腰を入れれば別であるが、そうでなければトルコ軍はあなどれ内的だった。

アラブ軍を利用しようとする英国とアラブの独立を願うメッカのフサイン・アリーの間には溝があった。ロレンスは間に挟まれ、苦労することになる。ロレンスがメッカに派遣されたのは1916年10月である。

メッカの太守は遠大な野心を持ち、広大なアラブ地域の独立を目標としていたが、こうした考えがアラブ軍に浸透していないこともロレンスの指導を困難にした。兵士の多くがアラブ全体の独立という発想を理解していなかった。アラブ軍がトルコの鉄道の爆破に成功した時の話である。鉄道を停止させ貨車に積んであった馬などの積荷を獲得すると、兵士の一部は満足して故郷に帰ろうとした。彼らにとって作戦は終了したのである。

ウィキペディア(日本語)には「アラビアのロレンス」と「アラブの反乱」という項目があるので、詳しくはそちらをお読みいただきたい。

 

アラブ軍は幾度も挫折しかけながら、ロレンスも一度は任務を放棄しながら、英軍の作戦の地ならしを続け、北上した。アラブ軍がダマスカスに入場すると、ダマスカスの市民は熱烈に歓迎した。ダマスカスの市民もシリア各地の人々もみずから反乱に踏み出すことはなかったが、アラブ軍の到着を喜び、この日以来彼らの多くがアラブ民族主義者となった。

 

アラブ軍がダマスカスに入場したといっても、英軍がトルコ軍に勝利した後である。トルコ軍と英軍の決戦がパレスチナ北部でおこなわれ、英軍が勝利していた。英軍は1918年9月30日ダマスカスに入場した。続いて10月3日アラブ軍がダマスカスに入った。その後英軍はアレッポまで進撃した。パレスチナとシリアの攻略に成功したのは英軍である。アラブ軍は前哨戦で活躍し、英軍の勝利のための地ならしをした。

パレスチナ北部で敗れたトルコ軍は兵器が不足しており、兵士の士気が落ちていた。トルコ軍は4年間の戦いで疲弊していた。前哨戦でのアラブ軍の活躍を知り、トルコ軍内のアラブ人将兵はトルコのために戦うことに疑問を持ち始めた。実際に軍を離脱する者もいた。

パレスチナ北部の決戦はパレスチナとシリアにおけるトルコの支配を終わらせた点で重要である。

ウィキペディア(日本語)には「メギッドの戦い」という項目があり、戦況が詳しく書かれている。

 

       《英国の2枚舌》

アラブ軍は英軍の勝利に便乗してしてダマスカスに入場しただけだったが、英国はメッカの太守フサイン・アリーに独立を約束していたので、ダマスカスを首都とするシリア王国の誕生を認めた。これは前哨戦においてトルコ軍をかく乱したことへの代償だった。ただし約束にはあいまいな点があった。フサインはエジプトからペルシャまでの全域を包含するアラブ帝国を建設を求めていたが、英国はこれを受け入れるつもりはなく、独立アラブの領域はシリアとヒジャーズだけと考えていたようである。

駐エジプト高等弁務官のヘンリー・マクマホンからフサインへの手紙(1915年10月24日付)で、マクマホンはシリアを約束したがレバノンを除外している。エジプト・パレスチナ・イラクについては何も約束していない。

英国はフサインにアラブの独立を約束する一方で、フランスと秘密協定を結んでいる。内容はオスマン帝国の分割に関するものであり、フサインとの約束と矛盾するものだった。秘密協定によればシリアはフランスの影響圏になっている。英国がフサインとの約束を守ろうとするなら、フランスとの密約を破棄しなければならない。もし破棄する勇気がないなら、英国がフサインに与えることができるのは、ヨルダンとイラクである。

 

 

英・仏間の秘密協定はフサインの蜂起直前の1916年5月16日に結ばれた。協定の折衝にあたったのはイギリスの政治家マーク・サイクスとフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコである。秘密協定は2人の名をとって、サイクス・ピコ協定と呼ばれる。

 

フランスが直接統治したかったのはアナトリア東部とレバノンであり、シリアは影響圏でよかった。ところがサイクス・ピコ協定は修正されることになった。

トルコが降伏し、連合国がトルコを占領中だった19195月ギリシャ・トルコ戦争が勃発し、3年間の戦いの後トルコが勝利した。その結果サイクス・ピコ協定を反映していたセーブル条約が修正された。シリア・イラクについては変更がなかったが、アナトリア全域はトルコ領になった。フランスは最も獲得したかったアナトリア東部を失った。そのためフランスは影響圏でよいと考えていたシリアの直接統治を考えるようになった。

シリアにアラブ国家の建設を望むフサインとフランスの対立が鮮明になった。

 

     《シリア・アラブ王国の成立》

ロレンスとともにアラブ軍を率いていたのはメッカの太守の3男ファイサルである。アラブ軍のダマスカス入場後、新たにシリア政府が誕生し、ファイサルが臨時政府の首班になった。彼はメッカ出身であり、ダマスカス市民にとって外来者であるが、政府に多くのシリア人を登用したので、シリア人はファイサルを支持した。

1919年1月パリ講和会議にファイサルはアラブの代表として出席し、オスマン帝国領アラブ地域の民族自決の原則による独立と主権の承認を求めた。しかしシリアを支配するつもりでいるフランスがファイサルの要求に反対した。

アメリカ合衆国が調停に乗り出し、住民意向調査を行なう委員会が設置された。委員会の2名が1919年6月に現地に入って調査を開始した。

 

19194月ファイサルは帰国し、6月議会選挙が行なわれ、全シリア議会が開催された。この議会において、シリアの独立とファイサルを国王とすることが議決された。

 

1919年8月アメリカ合衆国代表2名による住民意向調査委員会の調査報告書が出され、次のように今後の措置が提案された。

①パレスチナ、レバノンを含むシリア地方は、ファイサルを国王として単一の立憲君主制国家とし、期間を設けて合衆国またはイギリスの委任統治とする。ただし、レバノンはキリスト教徒の自治を認める。

②イラク地方はアラブ王家から人民投票により適当な人物を国王に選んで単一の立憲君主制国家とし、シリア同様に委任統治とする。

 

この委員会報告に対し、フランスはイギリスの陰謀であると非難し、イギリス国内では対フランス関係が悪化するとの懸念と、シリア地方における英軍の駐留経費が問題となった。このため、1919年9月イギリスはシリア地方から撤退すると発表した。シリア西部はフランス軍、東部はアラブ軍と交替し、パレスチナ及びヨルダン川東岸だけ駐留を続けるとになった。

この決定によりフランスは9月にシリアへ派兵を開始した。同じ9月にファイサルはロンドンでこの通告を受け、抗議したもののこれが受け入れられなかったため、フランスと交渉を行なった。折衷案が成立した。ファイサルはレバノンを放棄し、シリアについてはフランスの保護国となることを認め、アラブ政府の承認をとりつけた。

1920年1月帰国したファイサルに対し、シリアの指導者はフランスがつけた条件を容認できないと非難し、即時完全独立を求め、ファイサルもこれに同調せざるを得なかった。同月、散発的な武装蜂起がシリア各地で起こり、フランス・シリア戦争が始まった。

 3月8日シリア議会が開会され、同議会はパレスチナ及びレバノンを含む全シリアはファイサルを国王とし、立憲君主制国家として独立することを再度宣言した。

パリ講和会議以後の部分はウィキペディア「フランス委任統治領シリア」から引用した。


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