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オスマン帝国時代のレバノンとシリア

2018-09-29 23:26:03 | シリア内戦

シリアは米国にとって敵国である。これはシリアがアラブ民族主義路線を捨てないからだ。アラブ民族主義は欧米による中東支配を終わらせることを目的としており、中東に大きな利権を持つ欧米諸国を中東から追い出すことを考えている。

米国は2001年以来アサド政権を倒そうと考えてきた。代わりに、親米的な政権を打ち立てるのである。2003年米軍がイラクを占領すると、シリアはこれに反対し、反米テロリストをイラクに送り、またテロリストが自国を通過するのを許可した。これに対し米国は「シリアは滅ぼされるべき国家」であると宣言した。

2005年レバノンのハリリ元首相の暗殺を契機に、米国はシリアの反体制派を支援し、アサド政権転覆のチャンスをうかがった。

ハリリ元首相の暗殺はレバノンをめぐるイスラエルとシリアの対立を象徴する事件である。イスラエルの背後には米国がおり、シリアの背後にはイランがいる。1980米国年のイラン革命以来米国とイランは敵対関係ニある。レバノン内戦は1990年に終了したが、内戦の構図は残っている。

2006年7月イスラエ軍がレバノンに侵攻したが、ヒズボラの抵抗にされ、やむなく退却した。アラブ・イスラエル戦争においてイスラエルは4戦全勝であり、勝利なくして退却したのは、この時が初めてである。イスラエル軍と戦ったのはヒズボラだけでなく、レバノン南部から多くの志願兵が集まった。ヒズボラはもともと士気が高いうえに、志願兵も祖国防衛の意識が高かった。

4回の戦争でも、イスラエルが敗北しそうになった局面はあり、そこから逆転するのがイスラエルである。対レバノン戦では戦争を途中で放棄しただけで、イスラエル軍が弱体化したとまでは言えないが、ヒズボラを甘く見たのは明らかに誤算だった。今後ヒズボラの武器が増強されるなら、逆にヒズボラがイスラエルに侵攻する可能性がある。

ヒズボラの背後にはイランがいる。イランはヒズボラ結成結成以来の変わらぬ支援者である。ヒズボラは長年イランからの武器・資金の援助を認めず、「イランは精神的な支援者である」と述べてきた。2012年ヒズボラの指導者ハッサン・ナスララはイランから資金と武器を得ていることを認めた。イランの指導層には「イスラエル国家を消滅させるべきである」と考えるグループがいる。ヒズボラがイランの先兵としてイスラエルに戦いを挑む日が来るかもしれない。これはイスラエルにとって悪夢である。シリア内戦の2年目(2012年)、イランの革命防衛隊がシリアで活動していることを知ると、イスラエルの首相は動揺し、オバマ大統領にイラン攻撃を催促した。

イランの革命防衛隊はアサド政権を援助するためにシリアに入った。彼らは少数であり、自ら戦闘に従事するのではなく、アサド政権側で戦う民兵を組織していたのである。

これに恐怖をおぼえるイスラエルの心理は理解しがたいが、イスラエルとイランの対立が深刻であることは事実である。

シリアはイスラエルとの戦争を避けているが、レバノン問題ではイスラエルと対立している。シリアはレバノンの隣国であり、レバノノンに対し影響力がある。レバノンは民族構成が複雑で独立後も内紛が絶えなかった。シリアは中立な立場で、仲裁者としての役目を果たした。しかし1975年にレバノンで内戦が勃発すると、シリアは対立に巻き込まれてしまう。

レバノンの支配的な勢力はキリスト教徒であるが、人口に占める割合は過半数に程遠い。彼らは伝統的にレバノンの支配階級であり、彼らの経済活動はレバノン経済の大部分を占める。イスラム教徒の多くは地方の農民か都会の庶民である。1958年イスラム教徒が反乱を起こしたが、米国海兵隊によって鎮圧された。

レバノンは地中海貿易で繁栄しており、ヨーロッパとの交流が盛んである。また彼らの宗教はヨーロッパと同じである。アラブなまりがない標準的な英語を話すレバノン人も少なくない。

その一方で、レバノンはシリアと関係が深い。オスマン帝国時代シリアとレバノンの間に国境はなかった。第一次大戦後の1920年3月、シリアの議会は次のように宣言した。

「パレスチナ及びレバノンを含む全シリアはファイサルを国王とし、立憲君主制国家として独立する」。

フランスがこれを無視したため、5月シリア議会は完全独立の要求と委任統治拒否を議決した。

7月はじめ、レバノンに進駐していたフランス軍はダマスカスに向けて進軍を開始し、ファイサル国王に委任統治受諾を要求した。国王議会はは独立を主張し激しく反発したが、国王は議会を解散し、フランスの要求を受け入れた。

7月23日フランス軍はダマスカスを占領し、28日ファイサル国王をダマスカスから追放した。ファイサル国王はイタリアへ逃れた。

8月10日セーヴル条約によりパレスチナがシリアから切り離され、英国が統治することになった。

 

  

セーブル条約で新たに生まれた国境線は住民の民族構成や経済的一体性を無視し、かなり乱暴に決められた。アレッポ県は南北に分断された。日本語ではアレッポの古代・中世の呼び名はハレブとされてきた。オスマン時代はアレプと呼ばれたようだ。

仏領シリアと英領イラクの境界線も乱暴に決められた。

  

 

次にフランスが統治することになったシリアについてみてみたい。

セーブル条約の翌月フランスのグーロー高等弁務官がシリアを5分割し、各地域に知事を置いた。

 

ゾール県はアレッポ州とダマスカス州に分配され、消滅した。南部のドゥルーズ派に独立した領域が与えられた。北部のクルド人には独自の領域が与えられなかった。

           〈ジャバル・ドゥルーズ州〉

ジャバルは山という意味であり、ジャバル・ドゥルーズ州をあえて訳せば山岳ドゥルーズ州となる。ドゥルーズ派は元来エジプトのシーア派(イスラム教)だったが、1000年代の前半エジプトから逃れシリアの山岳地帯に住み着いた。彼らは団結心が強く、自分たちの伝統に忠実である。ドゥルーズ派はフランスの高等弁務官から独立した領域を与えられたにもかかわらず、1925年反乱を起こしている。高等弁務官がシリアに近代的な制度を持ちこもうしたが、それはドゥルーズ派の伝統を破壊することになった。フランス統治下のシリアでは、ほとんどの地域がフランスによる支配に不満を持っており、不満を行動に示したドゥルーズ派は尊敬された。

      〈大レバノン州〉

何故小さな領域しかないレバノンが大レバノンと呼ばれているのか。その理由を知ることは1975年から1990年まで続いたレバノン内戦の原因を知ることでもある。

少し遠まわりになるが、オスマン帝国時代のレバノンについて説明したい。

     

オスマン帝国時代、レバノン地方はいくつかの県に分かれていたが、中核部分はレバノン県だった。この地域は港湾都市ベイルートとその後背地からなっていた。後背地の東北端にレバノン山があり、レバノン県は古い時代からレバノン山地方と呼ばれてきた。県名もレバノン県ではなく山岳レバノン県と表記されることもある。19世紀になるとベイルートが経済的に発展し、レバノンで最も重要な都市になるが、この地域は伝統に従いレバノンまたはマウント・レバノンと呼ばれていた。

  

上記の地図は1888年以後のものであり、それ以前はベイルート州は存在しない。レバノン地方の各県はダマスカス州に所属していた。

地図には変則的な点がある。ベイルート市はレバノン県に所属せず、南隣りのベイルート県に所属している。ベイルート県とされている地方はシドン地方であり、本来シドン県とすべきである。この奇妙なやり方の原因はレバノン県はキリスト教とドゥルーズ派の間で内紛があり、ベイルート市は混乱に巻き込まれるのを避け、離脱したのである。ベイルート市は新たにシドン地方を得たうえ(ベ、レバノン地方はベイルート州と呼ばれることになった。ベイルート県とベイルート州の創設の原因となった1839年ー1860年の内紛はレバノンが抱える問題を鮮明にしている。20世紀後半のレバノンの複雑なを理解する助けになる。

         《オスマン時代のレバノン内戦》

レバノン県の主要勢力はキリスト教徒であり、ベイルートを拠点に地中海貿易に従事し、富を築いている。しかし、レバノン県の南部はドゥルーズ派(イスラム教)の居住地となっている。1839年トルコ政府は近代化の改革に着手した(タンジマート改革)。改革には宗教的差別の廃止が含まれていた。これはイスラム教徒の特権を否定することであり、イスラム教徒のドゥルーズ派は格下げされたと感じた。これが引き金となってキリスト教徒とドゥルーズ派の間の紛争が発生した。紛争は2年経過しても終わらなかった。1842年12月トルコ政府はレバノン県を南と北の地区に分けるよう、ダマスカスの州知事に要請した。しかしこの対策は外国の圧力によるものであり、キリスト教徒とドゥルーズ派の間の対立はかえって深まった。

1858年キリスト教徒内部の分裂が明らかになった。重税に苦しむキリスト教徒の小作農がキリスト教徒の地主に封建的特権の廃止を求めた。地主が要求を拒否したので1959年1月、農民は武装反乱を起こした。ケゼルバン地方の領主たちは追い出され、農民が土地と建物を接収した。

     

ケゼルバン地方の反乱は他の地方にも影響を及ぼし、キリスト教徒の農民はドルーズ派の地主に対しても武装反乱を起こした。ドルーズ派の領主は武装農民に対する防衛のためドルーズ派の民兵を組織した。1842年レバノン県は南北に分断され、北部はキリスト教地区、南部はドゥルーズ派地区とされたが、キリスト教地区にもドゥルーズ派が住んでおり、ドゥルーズ派地区にもキリスト教徒が住んでいた。

1859年8月北部でキリスト教徒農民とドゥルーズ派農民が衝突した。キリスト教の司教がレバノン県の委員会に軍隊の介入を要請した。しかし軍隊の派遣を待たずドゥルーズ派領主の民兵が農民の争いの仲裁に入った。

農民の若者20名が死亡した。

これを契機にドゥルーズ派領主は戦争の準備を始めた。トルコ政府はこれを黙認した。一方キリスト教の司教はキリスト教徒農民に武器を配り始めた。

これは北部のキリス教地区で起きたので、住民構成はキリスト教徒が多数派だった。キリスト教徒に武器が渡るなら、彼らが優勢であることは明らかだった。しかしダマスカス州全体ではイスラム教徒が多数派であり、また彼らはキリスト教徒に反感を持っていた。トルコ政府の近代化政策により、宗教が平等化され、イスラム教徒は特権を失い、リスト教徒と同等になってしまったからである。

ダマスから最も近い大都市はベイルートであり、レバノン県はダマスカス州に属している。ベイルートとダマスカスは幹線道路で結ばれており、両都市間の往来はかなり容易である。現在もシリアの幹線道路1号線はベイルートに向かっている。

 

レバノンのキリスト教徒は、ダマスカスのイスラム教徒の感情をよく知っており、恐怖を持っていた。そしてこの恐怖が現実になる。

レバノン県の事件が翌年ダマスカスに波及する。

1860年7月9日ー11日、ドゥルーズ派とスンニ派がダマスカスのキリスト教徒を虐殺した。トルコ軍は計画段階でこれを承知しており、黙認した。2万5000人が死亡した。米国とオランダの領事も殺された。死者の数は1万5000人という説もあり、正確な数字は分からない。教会と宗教学校は焼き討ちされた。こうした中で郊外の貧民地区のキリスト教徒は隣人のイスラム教徒によって守られた。よって守られた。

(参考)wikipedia:1860 Mount Lebanon civil war

              《 フランス統治下のレバノン》

第一次大戦後レバノン州は他の州とともにフランスの統治下に入った。フランスの高等弁務官はオスマン時代の県境と州境を無視し、新たに6つの州を設定した。この際レバノン州の州境が東にずれ、領土が増えた。これはレバノン州の指導者が内陸部の土地を拡大することを望んだからである。これはダマスカス州の領土を切り取り取り、レバノン州に与えることだった。ダマスカスのスンニ派にとって不利益であり、レバノンのキリスト教徒にとって有益なことはフランスの高等弁務官の望むところだった。オスマン時代のレバノン州を小レバノンと呼び、フランス統治時代のレバノン州を大レバノンとよぶことになった。

上記の地図の中に、小レバノンと大レバノンの違いがよくわかるものがある。Keserwan Districtと書かれた地図には、レバノン山脈が示されている。伝統的な小レバノンは地中海とレバノン山地の間の地域である。フランスが設定した大レバノンはバノン山脈の東側の部分も含んでいる。

支配者は領土を得ることしか考えない。砂漠でもない限り土地には人が住んでいる。大レバノンは新たにスンニ派とシーア派を多数抱えることになった。彼らはイスラム教徒である。これまでドゥルーズ派以外のイスラム教徒は無視できたが、スンニ派とシーア派が増えたために、人口の点で彼らは第3の勢力となった。

これまでキリスト教徒と述べてきたが、正確にはマロン派キリスト教徒である。レバノンにはギリシャ正教徒もいるが少数であり、話を単純にするため無視してきた。

      

 

        《レバノン内戦 1975-1990年》

第三の勢力となったスンニ派とアラウィ派の多くは地方の農民か都市の下層階級であり、政治参加の意識も弱く、当分の間問題を起こすことはなかった。

ところが1970年ヨルダンから追い出されたパレスチナ解放機構(PLO)がレバノンに逃げ込んできた。情けない話だが、レバノンの軍隊は彼らを追い出すだけの軍事力がなかった。PLOはイスラエルを敵とする軍事集団である。レバノンはイスラエルと国境を接している。イスラエルとPLOは一触即発の状態となった。貧しいイスラム教徒はマロン派の富裕階級に不満を持っており、PLOの存在に励まされ、武装グループを結成した。マロン派は以前から民兵組織を有していたが、イスラム教徒の武装組織に対抗するため新たに民兵組織を結成した。彼らはイスラエルの支援を受けた。

イスラエルとPLOの対立がレバノン内戦の原因であるが、最初に武力衝突したのはマロン派(キリスト教徒)とイスラム教徒である。レバノン内部の階級対立という形で内戦が始まった。両者の戦闘が長引くにつれ、キリスト教徒とともにレバノン支配の一翼を担っていたドゥルーズ派もイスラム教徒の側に立って参戦した

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ギリシャ・トルコ戦争 1919年ー1922年

2018-09-15 19:55:08 | シリア内戦

 

第一次世界大戦においてオスマン・トルコ帝国はドイツ・オーストリア側に立ち参戦したが、1918年10月連合国に降伏した。

しかし停戦から半年後の1919年5月15日、ギリシャは、停戦協定を破り、小アジア西岸の都市イズミルに軍隊を上陸させた。イギリスがこれを支援していた。ギリシャの野望は大きく、アナトリア半島の沿岸部を奪うことであった。もしギリシャの野望が実現したなら、トルコは小さな内陸国となってしまう。バルカンからシリア・イラク・アラビアに及ぶ広大な領土を有したオスマン帝国が内陸の小国に転落するするのである。もっとも、大一次大戦後領土が収縮した帝国はほかにもある。オーストリアである。大戦前、オーストリアの領土はかなり広く、チェコ・ハンガリー・クロアチア・ボスニア・イタリア北東部を含んでいた。オーストリア・ハプスブルグ帝国は中世から近代にかけてドイツの歴史の中心に位置し、ドイツの文化的発展に貢献した。そのもっともよい例が音楽である。ハイドン・モーツアルト・ベートーベン・シューベルトはウイーンで活躍した。2つの大国オーストリアとトルコが大一次大戦で敗者となり小国に転落した。歴史の流れは国家の領域を激変させるのである。現在オーストリアとトルコは小国のイメージが定着している。

第一次大戦でトルコはイギリス・ロシアを相手に4年間戦った。この間トルコはダーダネルス戦で英国艦隊に壊滅的な打撃を与え、同じく英国のガリポリ上陸作戦を失敗に終わらせている。どちらの作戦もコンスタンチノープル攻略を目的としたが、英国は完全に失敗した。しかしながら長期戦では米国に支援される英・仏側が有利であり、トルコは敗北を受け入れた。

停戦から半年後の1919年5月15日、ギリシャ軍がイズミルに上陸した。これは火事場泥棒のような行為である。一般的に、大戦後の敗者に再び戦う気力は残っていない。火事場泥棒は成功することが多い。

しかしトルコは違った。1918年519日、軍集団(=数個師団)の司令官の一人が他の司令官たちや有力政治家に呼びかけ、抵抗運動を組織した。愛国的な抵抗運動はオスマン帝国領の分割に反対した。列強に対する抵抗運動を組織したケマル・パシャは後に祖国再建の父として国民の尊敬を集めることとなる。

抵抗運動の成立から5か月後(1918年10月)に停戦が成立し、11月半ばに英軍と仏軍が首都コンスタンチノープルを占領した。停戦が成立したとはいえ、トルコの分割を予定していた列強と、これに反対するケマル・パシャたちの抵抗派の対立は大きかった。

最初に書いたように、ギリシャ郡のイズミル上陸は1919年5月15日である。ケマル・パシャが指導するトルコ軍は戦争準備に一か月を要し、1919年6月27日ギリシャ軍と衝突した。トルコ軍にとっては祖国の存亡をかけた戦いであり、ギリシャとしてもアナトリアの沿岸部の獲得は1823年の独立以来の悲願であった。ギリシャの独立はバルカン半島南端部の独立で終了したのではなく、対岸のアナトリア半島の一部を獲得するまで独立は未完成だった。さびれた港町アテネは一時的な首都に過ぎず、本来の首都はコンスタンチノープルになるはずだった。独立後のギリシャの目標は、コンスタンチノープルを中心にバルカン半島とアナトリア半島にまたがる国家の建設だった。

20世紀初頭アナトリア沿岸部の住民がギリシャ語を話していたことを示す地図がある。地図中の色分けはギリシャ語方言の違いを示しており、これらの場所ではギリシャ語が話されているということである。

 

   

 

 

古代ギリシャ人は商業民族であり、地中海貿易に従事し、富を築いた。地中海沿岸の各地にギリシャの植民都市が築かれた。現在のイタリア、スペイン、フランスの地中海沿岸部にギリシャの領土はないが、先祖代々ここに住む住民の血にはわずかながらギリシャ人の血が流れている。トルコの地中海沿岸部も同じ事情である。また古代ギリシャ人は黒海にも進出しており、トルコの黒海沿岸部にもギリシャ人の植民都市が生まれた。

アナトリア半島の南と北の沿岸部はマケドニア時代にもギリシャ都市として発展を続けた。東ローマ帝国が1453年まで続いたため、ギリシャ人共同体が存続し、生活習慣と言語も受け継がれた。東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国は帝国内の異民族と宗教に対して寛容であり、宗教税を納めれば彼らの宗教に干渉しなかった。こうして20世紀になっても、トルコの地中海沿岸部にはギリシャ語を話す住民が多く存在した。

 

ギリシャは1823年トルコから独立したが、その後着実に領土を拡大した。

 

 

 この地図にはギリシャがセーブル条約で獲得した領土も示されている。黄色の部分である。セーブル条約が締結された1920年8月10日ギリシャ軍とトルコ軍は戦闘中である。戦闘開始から1年経過しており、さらに1年続くことになる。結局ギリシャはセーブル条約で得た領土を失うことになる。

セーブル条約によりギリシャはアナトリアに領土を得たが、ギリシャが本来望んでいた領土はもっと多い。1919年ギリシャの首相ヴェニゼロスがパリの講和会議に自国の要望を提出したが、それは次のようなものである。

 

 

1920年8月10日のセーブル条約で、ギリシャは黒海沿岸部と地中海沿岸部を得ることができなかった。

 

 

地中海沿岸部の大部分がイタリアの勢力圏となっている。黄色の地に緑の縦線で示されているのがイタリアの勢力圏である。黄色の部分はトルコ領である。

セーブル条約におけるイタリアの勢力圏について少し説明したい。

トルコは1918年10月連合国に降伏・停戦し、11月半ば英軍と仏軍が首都コンスタンチノープルを占領した。首都占領は停戦時の合意に基づくものであったが、翌19194月イタリア軍がアンタルヤに上陸した。これは19179月の英・仏・イタリア間の合意に基ずくものである。イタリアはアンタルヤを中心とする地中海沿岸部を獲得することになっていた。1917年ロシアで革命が起き、トルコとの戦争を担ってきたロシア軍が離脱したため、英・仏がその穴を埋めなけれなかったが、ドイツとの戦争が一進一退の状況で、余裕がなかった。それで両国はイタリアに頼ったのである。しかし英・仏は猫の手も借りたいからイタリアの要求を飲んだだけで、約束を果たす気持ちは薄かった。1919年になると英国はギリシャ軍に期待するようになり、ギリシャ軍のイズミル上陸を支援した。こうしてイタリア軍のアンタルヤ上陸の翌月、ギリシャ軍がイズミルに上陸することになった。

セーブル条約締結の時点でギリシャとトルコは戦闘中であり、その後トルコ軍はギリシャ軍の撃退に成功し、イズミルを奪還した。

1923年7月のローザンヌ条約はトルコの勝利を反映しており、ギリシャはセーブル条約で得た領土を失った。また地中海沿岸部のイタリアの影響圏も消滅した。トルコはシリア・レバノン・イラク・パレスチナ・ヨルダンを放棄し、アナトリアの領土を回復した。アナトリア東部におけるフランスの影響圏も消滅した。

同じくアナトリア東部のアルメニア領とクルド領も消滅した。

 

 

ローザンヌ条約で唯一残った外国の影響圏があり、ダーダネルス・ボスポラス両海峡の国際管理となった。これは英国の権益である。

ギリシャ・トルコ戦争の終結後、住民交換がおこなわれた。約100万人のギリシャ正教徒がトルコからギリシャへ、50万のイスラム教徒がギリシャからトルコへと移住した。彼らは故郷を追われるのと同じであり、双方の合計150万人が悲痛な体験をした。

ギリシャの野望は多くの住民に苦しみを与えただけで終わった。しかしギリシャの野望はイスラエル建国ほど空想的ではない。1453年に滅んだビザンチン帝国はギリシャ帝国の側面を持っていた。

ビザンチン帝国は東ローマ帝国とも呼ばれるように、ローマ帝国の東半分であるが、西ローマが滅んでから、イタリア半島に領土を持ち続け多。イタリアにおいても東ローマの影響がおおおきかった。800年にカール大帝が西ローマ皇帝となるまで、東ローマ皇帝は単独のローマ皇帝だった。ビザンチン帝国の公用語はラテン語ではなくギリシャ語である。またギリシャ正教の聖職者と官僚はギリシャ人だった。ギリシャ人は帝国の統治に深く関与しており、東ローマ帝国はギリシャ人の国家と言えた。

1453年東ローマ帝国はオスマン・トルコによって滅ぼされた。そのオスマン・トルコ帝国19世紀末には衰退が著しく、第一次大戦での敗北により解体が避けられなかった。そのような時、伝統的なギリシャ人の国家を再建するという考えが生まれるのは自然だった。ビザンチン帝国の亡霊が現れても不思議ではない。

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