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  たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

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紀元前4世紀のギリシャ①

2025-01-31 18:06:19 | 古代

        【ピリッポス2世】

ピリッポス2世の最初の軍功は,奪われた領土を取り返したことである。西の隣国、イリュリア王国は、現在アルバニアとなっている地域を支配していたが、359年マケドニア軍を破り、領土を奪った。敗戦の際、国王ペルディッカス3世が死亡した。翌年ピリッポス2世は領土を回復し、マケドニアの西の国境はオフリド湖となった。現在オフリド湖はアルバニアの南東、マケドニア共和国との国境に位置している。ピリッポス2世の時代の領土の領土の北限は現在のマケドニア共和国の南4分の1の線だった。ピリッポス2世のマケドニアの東端はハルキディキ半島の付け根までだった。エーゲ海の北端の沿岸部はイオニア人が植民しており、内陸部はトラキア人の土地だった。エーゲ海北端から南西に少し下ると、三本の細い脚を海に向かって突き出したような形の半島がある。三本の足にはそれぞれ名前があり、本体の部分がハルキディキ半島である。この半島の沿岸部にもイオニア人が植民しており、半島の西側の付け根から少し離れた海岸がマケドニア領であり。海岸から内陸に入って行くとマケドニアの首都ペッラがある。ずっと後になって、ハルディキ半島の西側の付け根に港湾都市テッサロニキが建設される。ハルキディキ半島から離れた沿岸部はマケドニア領であるが、港町ピュドナは数回アテネに奪われたが、そのたびに奪い返している。紀元前357年ピリッポス2世はハルディキ半島のトラキア側の付け根の港町アンフィロポリスを奪取した。アンフィポリスの近くに良質の金の鉱山があり、経済的に有益だっただっただけでなく、ハルキディキ半島獲得への第一歩になった。アテネもアンフィロポリスを狙っていたが、軍事行動が必要なので迷っているのに漬け込み、ピリッポス2世は「代償としてピュドナを引き渡すから、アンフィポリスはあきらめてくれ」と言ったのて、アテネは了解した。ピリッポス2世はすぐにピドナを奪い返したので、アテネは宣戦布告した。ピリッポス2世はハルキディキ半島の諸都市と同盟し、アテネに勝利した(紀元前356年)。ハルキディキ半島か突き出ている3つの細い半島の一つ、南のパレネ半島の付け根は戦略的な価値があり、かつてコリントとアテネの間で争われ、アテネが勝利し、アテネ領となっっていた。の植民地だった。ポティダイアの住民は独立を望んでおり、アテネに勝利したピリッポス2世は、アテネによるポティダイアの支配を終わらせた。同年ピリッポス2世はアンフィポリスの東方の町クレニデス(Crepis)を占領し、町の名前をピリッポイと変え、鉱山を守るため、強力な守備隊を置いた。ピリッポイの鉱山は金を産出し、以後の戦争の資金源となった。
ピュドナの北の町メトネ(Methone)はアテネ領だったので、355ー354年ピリッポス2世はこの町を包囲した。この時の戦闘で彼は右目を負傷し、失明した。アテネの二つ艦隊が応援に来たが、354年町は陥落した。ハルキディキ半島の南の湾(テルマ湾)に、アテネの港はなくなった。
354-353年、トラキアの沿岸部をさらに東に進み、ピリッポイの東の町アブデラを攻撃した。
これまでピリッポス2世はギリシャの周辺部で領土固めをしてきたが、ギリシャ中心部の内紛に関与し、マケドニアの覇権を拡大した。

      〈神聖聖戦争〉
神聖聖戦争はギリシャ人の聖地デルフィをめぐる戦争である。デルフィはフォキスの領土にあるが、独立している。デルフィを聖地と考える国々全体ががデルフィを所有している。
フォキスがデルフィへの巡礼者を略奪したり、デルフィの土地を勝手に利用したことが原因で神聖聖戦争が3回起きた。アポロの神殿があるデルフィ地方は小国フォキスの領土内にあるが、フォキスの所有地ではない。
最初の神聖聖戦争は紀元前5世紀初頭に起きた。小国フォキスの港町キッラの市民がデルフィへ向かう巡礼者から盗んだり悪事を働いたりした。デルフィはコリント湾に近く、キッラは海からの入り口になっていた。またキッラの市民は巡礼者を略奪しただけでなく、デルフィの土地に侵入した。こうした不法行為に対し、いくつかの国が合同でキッラを討伐した。コリント湾の対岸の都市シキオン(Sicyon、コリントの西)の海軍がキッラの港を封鎖し、上陸作戦に備えた。アテネの陸兵が上陸し、テッサリア軍が町の陸側を包囲した。包囲後、攻撃側がキッラの市民が利用する水道の源泉に毒を入れたと言われている。キッラは陥落し、町は完全に破壊され、市民は山に向かって逃げた。テッサリアはデルフィの南側の斜面と港を欲しがっており、単独で介入しようとしていたので、他の国もキッラ攻撃に参加したとも言われている。
2回目の神聖聖戦争戦争はデルフィ地方又はアポロン神殿の問題ではなく、デルフィの西の小国ドリスの問題であるが、スパルタなど、ドーリア人にとって、ドリス地方はデルフィと一体である。デルフィのアポロン神殿はパルナッソス山にあるが、パルナッソス山の北西の方角にオエタ山がある。パルナッソス山とオエタ山の間の谷間がドーリア人の故郷である。パルナッソス山の周囲のデルフィ地方はすべてのギリシャ人の聖地となったが、ドーリア人にとってオエタ山とその周囲のドリス地方も聖地なのである。特にスパルタはドリス地方を首都としている。スパルタ人は故郷を決して忘れない。
紀元前458年、フォキスが隣国ドリスの3つの町を占領した。するとスパルタ軍がやってきて、フォキス軍を破リ、ドリスは3つの町を取り戻した。スパルタ軍がペロポネソスに帰る途中、アテネ軍に攻撃されたが、スパルタ軍は彼らを撃退した。5年間の休戦後、スパルタは、ギリシャの中央部に対するアテネの帝国主義的な野望を打ち砕くことにした。
フォキスはドリス地方の侵略に失敗したにもかかわらず、さらに大胆な行動に出た。アポロン神殿とデルフィ地方を占領したのである。これはフォキス単独の行動ではなく、背後にアテネがいた。ただちにスパルタ軍がやってきて、フォキス兵を追い払い、デルフィは支配権を取り戻した。スパルタ軍が去ると、ペリクレスとアテネ軍がやってきて、デルフィの支配権をフォキスに与えた。
フォキス兵がデルフィから追い払われたのは449年、アテネ軍がデルフィを占領したのは447年と3世紀のギリシャの歴史家フィロコルスは書いているが、20世紀前半のイギリス人、アーノルド・ウィコムはどちらも448年に起きたと考えている。

 【第3回神聖聖戦争】
第3回神聖聖戦争はフォキスがデルフィの土地(南側のキッラ平野)で耕作したことが原因で始まった。すでに述べたが、デルフィは地理的にフォキスの領土内にあるが、フォキスはこの地方に対して所有権がない。デルフィを聖地と考えている諸国が共同で聖地を所有している。フォキスがキッラ平野で耕作したことは聖地の侵害であり、デルフィを保護する国々はフォキスに耕作をやめ、罰金を払へと命令した。罰金の額はフォキスの支払い能力を超えたが、罰金を払わなければ、フォキスは宗教的な犯罪者としてギリシャの国々から敵とみなされ、攻撃されるだろう。しかし宗教的な建て前とは別に、テーベはフォキスを屈服させたかった。フォキスはテーベの覇権を認めず、紀元前362年のマンティネイア戦争の際、テーベに援軍を送らなかった。テーベはフォキスにテーベ連合への参加を求めたが、フォキスは断った。
    (マンティネイア戦; 紀元前362年)
覇権国となったテーベはペロポネソス半島中央部のアルカディア地方を支配下に置いた。アルカディア地方盧諸都市がテーベへの従属を受け入れる中での中でマンティネイアだけはテーベの支配を拒否した。テーベとの戦争になれば、マンティネイアは負けるしかなかったが、スパルタとアテネがマンティネイアを支援したので、勝敗はわからなくなった。またペロポネソス半島西部のエリスもマンティネイアを支持した。エリスはアルカディア連盟との間で領土問題を抱えていた。一方テーベの同盟国はテッサリア、エウボイア、アルゴス、ロクリスなどであった。両陣営の戦闘は勝敗がつかなかったが、テーベの将軍エパメノンダスが、スパルタ軍の集中攻撃に会い、戦死した。テーベ軍の強さはエパメノンダス一人にかかっておたので、スパルタ軍はエパメノンダス一人に攻撃を集中させた。エパメノンダスは以前の戦いでスパルタ軍を破り、テーベを強国にしたのだった。エパメノンダスを失ったテーベの覇権は陰り始める。エパメノンダスを倒すことによって、スパルタは往年の軍事力の片鱗を見せた。この戦いを通じて、スパルタ軍は迅速かつ的確に行動した。ーーーーー(マンティネイア戦の説明終了)

マンティネイア戦の時、フォキスがテーベに協力しなかったことを、テーベは恨んでいた。フォキスの聖地侵入はテーベにとってフォキスを罰する良い機会だった。アテネは社会闘争(同盟市戦争)の最中で、国外の問題に口を出す余裕がなかった。フォキスのかつての同盟者フェラエのアレクサンドロスは死んでいた。(フェラエはテッサリア南東部の都市で、パガサイ湾北西部に近い。)
デルフィを守る国々は隣保同盟を結成しており、同盟は重要事項を投票によって決定した。参加国はそれぞれ2票投じた。紀元前360年まで、テッサリアが隣保同盟を牛耳っていたが、テッサリアが内戦に突入して機能不全に陥り、代わってテーべが同盟の指導国となった。投票の際、テーベは容易に多数派を形成できた。紀元前357年秋の会議で、隣保同盟はフォキスとスパルタに罰金を課した。フォキスはつい最近の聖地侵犯が裁かれたのであるが、スパルタは過去にテーベを25年間占領したことで裁かれた。ペロポネソスでアテネに勝利したスパルタは高圧的な姿勢で諸国に臨み、テーベに軍隊を置いた。

フォキスとスパルタに対する罰金の額が法外に高かったのは、テーベは罰金の支払いで問題を解決するつもりがなく、戦争の口実を欲しがっていたのである。テーベのさもしい復讐のために聖戦が利用され、破壊的な結果を招くと予想されたので、フォキスに同情する国もあった。


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