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4巻61章

2023-06-21 09:13:10 | 世界史

【61章】
新しい執政副司令官は 6人だった。T・クインクティウス・カピトリヌス、Q・クインクティウス・キンキナトゥス、C・ユリウス・ユルスは二回目の就任だった。アウリウス・マンリウスと L・フリウス・メドゥリヌスは三回目の就任だった。マニウス・アエミリウス・マメルクスは初めての就任だった。彼らはローマ軍を率いてヴェイイに向かった。ローマ軍が包囲を開始すると、エトルリア連合の会議が主神ヴォルトゥムナの聖地で開かれたが、エトルリア諸都市がヴェイイを救うか否か,決定されなかった。
(日本訳注;ウンブリア南部のオルヴィエートに多くの神殿があり、オルヴィエトはエトルリア人の聖地だった。)
翌年ローマ軍は再びヴェイイを包囲したが、前年と違い、包囲が不完全だった。護民官の一部が戦争に反対したことと、ヴォルスキ戦に兵士が引き抜かれたことが原因で、ヴェイイを包囲するローマ兵の数が少なかった。この年の執政副司令官は C・ヴァレリウス・ポティトゥス(3回目の就任)、マニウス・セルギウス・フィデナス、P・コルネリウス・ムグネンシス、クナエウス・コルネリウス・コッスス、カエソ・ファビウス・アンブストゥス、スプリウス・ナウティウス・ルティルス(2回目の就任)だった。フェレンティヌム(アルバ湖の南東、遠い)とエケトラエ(場所不明)の間の地域で、ローマ軍とヴォルスキ軍が戦い、激戦となった。ローマ軍が勝利した。その後ローマ軍はヴォルスキの町、アルテナ(フェレンティヌムの西)を包囲した。

アルテナの兵士が出撃してきたが、撃退された。ローマ軍は彼らを追って門から入り、町を占領した。町のはずれに砦があり、アルテナ兵が防衛していた。この砦は接近が困難な地形の場所にあった。砦の下方で多くのアルテナ兵が殺され、残りが捕虜となった。ローマ軍は砦を攻撃したが、防備が強固で踏み込めなかった。町が占領される前、国家の倉庫からトウモロコシを砦に運び込んでいたので、アルテナ兵は降伏するつもりがなかった。ローマ軍は撤退せざるを得ない状況だったが、奴隷の裏切りにより、砦の侵入可能な墓所がわかった。ローマ兵はその奴隷の後に続き傾斜地を上り、砦を占領した。ローマ兵は守備兵を殺すと、砦に逃げ込んでいた住民はパニックになり、すぐに降服した。ローマ軍はアルテナの町と砦を破壊してから、ヴォルスキの土地を去った。ローマ軍はヴェイイと戦う必要があった。アルテナを裏切った奴隷は奴隷身分から解放され、二軒分の土地を与えられた。彼はセルヴィウス・ロマノスと呼ばれた。アルテナはヴォルスキではなくヴェイイに所属するという人がいるが、誤りである。エトルリア地方に同じ名前のの都市があった。ヴェイイとカエレの間に同名の都市が存在したのでる。(カエレはティレニア海沿岸の都市、ローマの北西50km)
しかしエトルリアのアルテナはローマが王政だった頃に破壊された。その後アルテナはカエレが支配した。ヴォルスキ軍に勝利した後、ローマが攻撃し、破壊したアルテナはヴォルスキの町である。〔4巻終了)

 

  ーーーーーーー(日本訳注)ーーーーーーー

   〈リヴィウスが参考にした年代記と歴史書〉

大神官が記録した年代記は紀元前400年以前のものは消失した。紀元前387年、ガリア人がローマを包囲・略奪した際に、消失したとも言われる。従って紀元前400年以前のローマ史は事実かどうか疑わしい、伝説に過ぎないことになる。それでも、リヴィウスのローマ史を読むと、何らかの事実が語られているような気がする。大神官の年代記は掲示板に書かれて公表されており、物好きな貴族がそれを書き写していた可能性を否定できない。それ以外にも、コピーの存在は否定できず、紀元前400年以前について、何かの記録が存在したのかもしれない。
紀元前400以前のローマについて書いたのは、リビウスが最初ではない。紀元前270年に生まれたクイントゥス・ファビウス・ピクトルがローマ建国から彼の時代までの歴史を書いている。大神官の年代記が存在しない紀元前400年以前のローマについて、ファビウス・ピクトルは父親の世代まで語り継がれた伝説を書き留めたのだろうか。共和制の最初の100年(紀元前5世紀)について彼が何を典拠にしたのか、わからないが、ローマの建国については、南イタリアのギリシャ人の説を参考をにした可能性がある。最初にローマの起源について書いたのはギリシャ人である。シラキューズのアンテイオクスが紀元前420年頃にローマの起原について書いた。アンテイオクスの主な著作はシチリアの歴史であり、ギリシャ人のシチリア植民から紀元前424年までを書いた。彼のシチリア史は信頼性が高いと言われており、彼のローマ史についても期待できそうだ。トロイの王子アエネイスがラティウムスに来たという話や、ラテン地方の都市アルバの歴史を最初に書いたのは、彼かもしれない。ローマ建国以前のラティウムについて最初に語ったのはローマ人ではなく、ギリシャ人かもしれない。しかし、残念ながら、アンテイオクスが書いたとされるローマの起源は範囲が広く、具体的に彼がどの部分を書いたのかはわからない。彼のローマ史は失われているからである。
もう一人のギリシャ人がローマの起原について書いている。ペパレトゥスのディオクレスである。ペパレトゥスはコペロス島にある町である。コペロス島はギリシャ本土沿岸の小島であり、エウボイア島の北にある。ディオクレスは紀元前4世紀末に生まれ、前3世紀初頭に死んだ。彼はローマ人最初の歴史家クイントゥス・ファビウス・ピクトルより50歳年上である。ディオクレスはラテン地域の都市アルバの王朝末期について書いた。例えば前国王の双子の息子ロムルスとレムスがアルバの王を倒した事件などである。ローマ人最初の歴史家ファビウス・ピクトルはディオクレスの著述を自分の歴史に取り入れたと言われている。それにしても二人のギリシャ人歴史家が、ローマの起源に興味を持ったのはなぜだろう。ディオクレスの時代には、ローマはエトルリア諸都市に代わる新しい勢力となっていたので、ローマに興味を持つのは自然だが、その起源にまで興味を持つのはなぜだろう。まして紀元前400年代末に、シラキューズのアンテイオクスがローマの起源に興味を持つのは不思議
クイントゥス・ファビウス・ピクトルに影響を与えた先人については以上である。次に、ファビウス・ピクトルに続く、もう一人のローマ人歴史家について説明したい。ルキウス・キンキウス・アリメントゥスの生年はわからない、紀元前200年ごろに活動したことしかわからない。彼はローマ人最初の歴史家ファビウス・ピクトルより年下と思われるが、ピクトルがローマ史を執筆したのは晩年であり、執筆活動の点では、数年の違いしかない。
キンキウス・アリメントゥスは大神官の年代記やその他の国内の記録をもとに、各年の出来事を書いた。これは年代記と同じ形式であり、彼のローマ史は年代記とも呼ばれている。この点は彼の先輩のファビウス・ピクトルも同じであり、ピクトルのローマ史も年代記と呼ばれている。キンキウス・アリメントゥスの叙述は客観的であるとして、ポリュヴィオス(紀元前200年生まれ)やハリカルナッソスのデイオニシウス(紀元前60年生まれ)は彼を称賛した。紀元後4世紀のローマ人歴史家フェストゥスは、しばしばアリメントゥスの年代記を引用している。近代においても、ナポレオンと同世代のイタリアの歴史家ニエブールがアリメントゥスを高く評価した。「アリメントゥスは批判的に古代の事実を調査した。彼はローマの遺跡を調査し、ローマの歴史に新しい光を当てた。アリメントゥスは他のローマ人歴史家と違い、初期のローマが他のラテン諸都市に対しそれほど優越していなかったと書いている」。
キンキウス・アリメントゥスのローマ史は大部分失われたが、ローマ建国の年を検証した箇所が残存している。通説の紀元前763年に対して、彼は紀元前729年または728年と主張した。これについて近代イタリアの歴史家ニエブールが解説している。「昔のローマの歴史家たちが所有していた記録は、ローマ建国の年をタルクイヌス家の最初の王の即位の132年前としていた。昔のローマの一年はキンキウス・アリメントゥスの時代の一年より短かった。従って132年前は98年前に過ぎなかった、とアリメントゥスは考えたのである。しかしタルクイヌス家の最初の王が既に暦を改めており、冬の間の日数を増やし、一年の長さはアリメントゥスの時代と同じになっていた」。
アリメントスの作品は大部分失われた。ファビウス・ピクトルと二人のギリシャ人のローマ史も失われている。しかしこれら4人の作品はリヴィウスの時代には存在した。リヴィウスはこれらの作品を参考にした。

ーーーーーーーーーーーーーーー (日本訳注終了)             


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