たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

穏健派から強硬に転じたアサド 2011年4月半ば

2018-06-24 22:38:12 | シリア内戦

2011年4月半ば、シリアでまだ革命は起きていない。いくつかの都市でデモが起きていたが、これらのデモは小規模だった。革命が起きたチュニジアやエジプトと比べると、その差は歴然としていた。ただし南部の小都市ダラアでは連続してデモが起きており、多いときは1万人の参加者があった。ダラアはシリア最南端の田舎町であったので、あくまで地方的な出来事だった。ダラアのデモが全国デモに発展すると予測した人は少なかった。

しかし英国の戦略研究所(Chatham House)の研究員が「ダラアでは後戻りできない変化が起きた」と指摘している。ダラアの問題を解決すれば、シリアは革命を避けることができたかもしれないが、4月半ばの時点で革命への止められない流れは始まっていたいたのかもしれない。


=======《冷静なシリア国民に変化》=======

          Twist in Syria’s Sobriety

                   By Rime Allaf

: http://www.bitterlemons-international.org/inside.php?id=1368

              BitterLemons-international.org  2011年4月14日

シリアのデモは小規模であるが、一か月近く続いている。この間改革を求める市民は大きな成果をあげた。国民が政権に圧力をかけ、いくつかの変革を実施させることに成功した。代償は大きく、多くの市民が死傷し、投獄されたが、これは大きな前進である。

チュニジアとエジプトの政権が倒れた直後、シリアでもデモが始まったことに、シリアの統治者は恐怖を感じた。一方でシリアの国民はこれまで不可能だと思われたことが現実になったので、驚いた。シリアのデモは政権が動員するデモに限られており、市民の自由なデモは禁じられていた。敢えてデモに参加し、逮捕されれば拷問されるので、デモをするには有機と覚悟が必要だった。しかし南部の小さな都市ダラアでは数週間デモが続いており、参加者は多い時で1万人を超えた。政権は動揺し、ダラア市民の要求の多くを受け入れた。このようなことはシリアの国民にとって初めての経験だった。

政権内にダラア市民の要求に応じるべきだと考える人びとがいて、結局大統領はこれを受け入れたようである。

シリアの国民は50年間戒厳令の圧政下で生きており、現実に順応してきた。彼らには「パンか自由化」という選択はなく、パンも自由もなかった。それでもシリアの国民は「レバノンやイラクの悲惨な状態に比べれば、自分たちのほうがましだ」と考えていた。シリアはイスラエルと敵対関係にあり、国内が混乱すればイスラエルとその同盟国が介入してくるに違いない。

しかし現在シリアと似たような境遇にあるアラブの国民が立ち上がり、政権を倒している。シリアの国民はこれを遠くから傍観するしかないと、あきらめるだろうか。むしろ彼らは近隣の国民の例にならい、自分たちの手で未来を切り開こうとするだろう。シリアで革命が起きるかはまだ不確定であるが、これまでにない変化が起きていることは確かだ。

例えば、政権の弾圧に対する恐怖が消えたことだ。弾圧への恐怖は政権の安定を保障してきた。しかし現在デモで多くの死傷者・逮捕者が出ても、新たに多くの市民がデモに参加している。治安部隊が残酷にデモを弾圧しても、次回のデモ参加者の人数は増えてしまう。そして反政府デモは他地域に伝播してしまう。恐怖による支配はもはや機能しない。

もう一つの変化は、シリアには安定政権が必要だという神話が崩れたことだ。政権が力を失った場合、宗派対宗派、民族対民族の戦闘が勃発する可能性が高く、シリア国民はこれまで反乱に懐疑的だった。

治安部隊が平和なデモを武力で弾圧し、死者が出たことに、人々は怒った。取り締まりを厳しくすれば市民はおとなしくなるだろうという作戦は失敗し、逆効果となった。デモの参加者はかえって増えた。

アサド大統領は改革を望んでいるが、彼の周囲の保守的な連中が改革を阻んでいる、とこれまで考えられてきたが、これ誤りだったのである。大統領の周囲には改革派が多く、むしろ大統領が改革を渋ったのである。大統領がいつから保守的になったのかは、わからない。ダラアの反乱への対応の中で、彼は用心深くなったのかもしれない。ダラアの反対派市民が注目していた3月30日の大統領演説は市民の期待を裏切った。反対派市民は端的で明確な変革を期待していたが、大統領は改革について検討すると約束しただけだった。大統領は政権内の改革派より慎重だった。大統領の報道官は一貫してダラア市民の要望に応えきた。大統領は市民への発砲を禁じている、と報道官は述べている。これはデモの自由を認めた発言である。しかし大統領は演説の中で戒厳令の廃止について検討すると述べただけだった。彼の演説は従来の政権の立場を繰り返すだけであり、最近のデモに現れた市民の不満に直接答えることはなかった。鈍感なのか、自国民を知らなないのか、3月30日国民が何を期待しているのか、理解していないようだった。それに比べ、政府内の改革派はデモに敏感に反応してきた。

政府は大統領特使をダラアへの派遣し、いくつかの譲歩をし、ダラア市民の怒りをなだめる努力をした。これが反対派市民を勢いづかせ、さらなる要求を実現させようという気持ちにさせた。

政権はダラアへの譲歩だけでなく、北部のクルド人に対しても急に譲歩した。シリア国籍を持たない数千人のクルド人にシリア国籍を与えた。

エジプトのメディアはデモで死んだ市民に追悼の意を表したが、シリアのメディアはそれをせず、ひたすら外国の手先である陰謀グループを非難するだけである。アラブの春が自国に飛び火し始めていることに、政権は怯え、平常心を失っているのである。

シリアで革命が始まったとは言えないが、現在の状況は革命前夜かもしれない。革命を避ける唯一の方法は政権が自ら根本的な改革をすることである。部分的な改革でごまかすことはできない。またデモを残酷に弾圧しても、大衆の怒りを大きくするだけである。

シリアのデモで死者が出ているにもかかわらず、アラブ諸国はアサド政権を支持しているようだ。アラブの国は反乱が自国に波及することを非常に恐れており、反乱の熱気を冷やさなければならいと考えているのである。アラブの国は、シリアでも革命が起きるなら、次は自分たちだと戦々恐々としている。

しかしトルコはアサド政権を批判している。トルコの首相はじめ政府要人が「シリア政府はただちに改革すべきだ」と明言している。トルコはシリアとの国境線が長く、シリアに直接影響を与えることができる。

==================(BitterLemons終了)

 

シリアのような独裁国では、冷酷な弾圧を続けなければ、滅んでしまう。独裁政権がいったん譲歩するなら、際限なく譲歩を迫られ、結局は崩壊してしまう。アラブの春のような強烈な民衆運動が起きた場合、独裁政権は倒れるしかないのだろう。

サド大統領はチュニジアやエジプトの例を見て、民衆に屈することは誤りだと考えていたようである。大統領が改革改革派であることに期待した民衆は大統領の本質を見誤っていた。知的で弱々しい大統領の雰囲気は穏健な改革派を思わせたが、実際は冷酷な権力主義者だった。しかし政権内に穏健派がおり、大統領と強硬派は穏健派を排除しなかった。そのためダラアへの政権の対応は矛盾したものになった。強硬派の政策と穏健派の政策がたびたび入れ替わった。

レバノンの政治評論家によれば、アサド大統領はエジプトとチュニジアの革命から学び、民衆のデモに屈してはならない、と考えるようなった。

 

======《シリアはもはや後戻りできない》======

     At the Point of No Return

            Nizar Abdel-Kader    

 http://www.bitterlemons-international.org/inside.php?id=1369

    BitterLemons-international.org  2011年4月14日

 

チュニジア、エジプト、リビヤ、イエメンでは、数百万の国民が抗議デモをし、改革を要求した。シリアではこのようなことはおきない、と多くの専門家が考えている。5週間前までシリアは域内で強力な国であり、国内は安定し、異変が起きる様子はなかった。

2005年アサド大統領は政府・議会で議論もせずに、経済の自由化を断行した。独裁国が自由経済を導入すると、政治改革が起きることが多いが、シリアでは政治改革は起きなかった。シリアの政治腐敗が極端だったため、経済の自由化により新しい特権階級が大統領の家族とその周辺に形成された。支配グループによる富の独占と国民に対する政治的抑圧は、国民の我慢の限界に達していたが、大統領はそれに気付かなかった。

3月半ばダラア市民の不満が爆発すると、大統領は市民の声に耳を傾けず、残酷にデモを弾圧した。そのため他の都市でもデモが起きるようになった。

3月30日の大統領の議会での演説は、国民の期待を裏切った。大統領の補佐官ブサニア・シャーバンがこれまで約束したことを、大統領は実行するつもりがないとわかった。大統領は戒厳令を廃止しなかった。そして大統領はデモをしている人たちを次男し、「連中はのは米国とイスラエルの陰謀の手先だ」と述べた。

アサド大統領はエジプトのムバラク大統領やチュニジアのベン・アリ大統領と違い、国民から支持されている。しかしデモが起きた時彼は対処を誤った。彼は治安機関に頼り、デモを鎮圧しようとた。大統領は市民の要望を理解することによって政権の正統性を維持すべきだった。市民に対する暴力は政府に対する批判を強めることになったが、民衆のデモに厳しく対応することは大統領の方針だったようである。

エジプトとチュニジアの革命についてアサド大統領は独自の見方をしていた。ムバラクとベン・アリは民衆に譲歩した結果、政権を追われたとアサドは考えた。譲歩は弱さを認めることであり、危険であることを彼は知った。自国でデモが起きた時、アサド大統領は断固とした姿勢を貫こうとしたのである。確かにこのやり方をすれば政権は生き延びることができるだろう。彼の父も冷酷な独裁者と呼ばれながら、長期安定政権を維持したのである。

 

エジプトやチュニジアほどではないとはいえ、シリア国民は不満を抱えている。一つは国民には政治的自由がなく、支配者には無制限の自由があることだ。もう一つは失業者が増加し、極貧層が増えていることだ。就業うしている場合でも賃金が安く、物価が高い。1995年の自由経済導入以後、貧富の差が開き、2極化が起きた。

3つ目の不満は、海外に住む亡命者が帰国できないことである。彼らは数千人に過ぎないが、有力者であり影響力がある。彼らは自国の政権が代わり、帰国できる日を待っている。

米国はシリアでデモをしている人々を支援するつもりがないようだ。アサド政権が倒れれば、もっと反米的な政権が誕生すると考えているからだ。ダマスカスにムスリム同胞団の政権が誕生することは米国にとって悪夢である。ムスリム同胞団は元祖イスラム原理主義集団である。

===================(BitterLemons終了)

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2011年4月半ばのシリアの状況

2018-06-12 23:45:52 | シリア内戦

 

20114月半ば、ダラアの反乱は終息の見込みがなくなっていたが、ダラアは最南端の小都市であり、全体としてみればシリアの政権が危機にあるわけではなかった。私がこの時期について書き続けているのは、シリアがどのような経緯を経て、2012年以後の内戦に突入したかを検証するためである。

武力革命は長引かず、犠牲が限定的である場合はよいが、革命に伴う経済破たんが長期にわたり、国民の犠牲も多大になる場合がある。後者のようになる危険は5分5分なので、できるなら漸進的な革命を選ぶのが良い。シリアの革命は武力革命の失敗例であり、革命の原因はアサド政権の腐敗と冷酷にあったのか、革命派の盲目と外国の陰謀にあったのか、厳しく問われなければならない。2011年の春ダラアの状況が悪化した経緯はについて判断する材料を与えてくれる。

今回はシリアをよく知る識者が20114月半ばのシリアの状況をどのように見ていたか、について2つの記事を取り上げる。

最初はシリアと米国と米国の大学で国際関係を教える教授の文章である。

 

=====《アサド政権は危機を乗り越えるだろう》===

     Weathering the Storm

              By Alias Samo

BitterLemons-international.org   2011414

: http://www.bitterlemons-international.org/inside.php?id=1366

 

チュニジアの青年の焼身自殺をきっかけに、アラブ世界に革命が燃え上がった。シリアの都市でも抗議デモが起きたが、大統領の退陣を求めるものではなく、この点でカイロ、チュニス、ベンガジにおける激しい抗議と異なっていた。またエジプト、チュニジア、リビアの場合、首都で大規模なデモが起きたが、シリアの首都ダマスカスでのデモは人数が少なかった。またイスラム主義者の拠点都市アレッポとハマでは、デモが起きていなかった。いくつかの都市でデモが起きているが、イスラム過激派が動いていないことは、政権にとって安心材料だった。1978-1982年のムスリム同胞団による激しい反乱はアレッポで始まり、ハマで終わった。

現在シリアでデモをしている人々は大統領に改革を求めているのであり、彼の退陣を求めているわけではない。人々が大統領に希望を託していることには、いくつかの理由がある。

①アサド大統領は多くの傲慢な独裁的指導者のイメージからかけ離れており、謙虚で親しみやすく、普通の市民のような性格である。

②アサド大統領は米国に屈せず、イスラエルに立ち向かうアラブの最後の勇士であり、国内だけでなくアラブ世界で人気がある。彼はアラブ民族主義の立場を捨てない最後の指導者である。

③これまでのデモで市民が死亡しており、政権にとって不吉な兆しはあるが、シリア国民の多くは現実的であり、チュニジアやエジプトと同じことは望んでも無理と判断しており、リビアアやイエメンに様になることは絶対避けたいと考えている。シリア国民の不満は大きいが、現実主義的な判断に基づき、穏健な改革で我慢することになりそうだ。彼らの不満は大きく、いくつかの改革を望んでいる。

①戒厳令を緩和し、政治的自由をある程度認める

②支配階級の腐敗を根絶。統治過程の透明化。

③政党の自由を認める。(現在バース党以外の政党も存在するが、真の野党は禁止されている。その結果、縁故主義がまんえんし、有能な人材に道が開かれない。)

デモが始まってから、大統領は改革を実行した。内閣を一新し、ダラアとホムスの知事を解任した。またクルド人へ市民権を与えた。これ以外の改革もできるだけ早急に実現したほうがよい。

エジプトのムバラク大統領の辞任はエジプト国民にとってだけでなく、シリアにとっても喜ばしいことだった。最近数十年エジプトとシリアの関係は急速に悪化していた。1961年のアラブ連合の解消により、両国の関係は友好から不信に変わった。1973年のアラブ・イスラエル戦争(第4次中東戦争)後に、両国の関係は最悪となった。エジプトのサダト大統領は米国の提案を完全に受け入れ、1979年イスラエルとの和平条約に調印した。これに対しハフェズ・アサドは米国から距離を置き、イスラエルに敵対的な姿勢を崩さなかった。サダトとアサドの対立は自世代のムバラクとバシャール・アサドに受け継がれた。

ムバラクの辞任は国内問題が原因だったが、エジプト国民は反米・反イスラエル的な感情が強く、新政権がこれに沿った外交に転ずるなら、イスラエルとエジプトの関係は悪化するだろう。シリアとエジプトが再び統一戦線を組み、イスラエルに敵対してくれば、シナイ半島とゴラン高原の平和が危うくなり、イスラエルの平和の条件が崩れるだろう。

ムバラクの退陣により、シリアとエジプトとの関係が敵対から友好へ変わる可能性が生まれたとはいえ、シリアを取り巻く国際環境は厳しい。特に最近10年年間米国からの圧力に直面してきたが、今後も続くだろう。

現在アサド政権は国内危機に直面しているが、チュニジア、エジプト、リビアのようにはならず、危機を克服するだろう。

==============(BitterLemons終了)

 

シリアの場合、最初にデモが起きたのは小・中の都市だけであり、首都ダマスカスと第2の都市アレッポは平穏であった。シリアは10か月かけて徐々に危機に突入していったのである。そして10か月後には収拾困難な事態になってしまっていた。20113月半ばにデモが始まっており、政権が夏の終わりまでに問題を解決できなかったことが、2012年以後の内戦を不可避なものにした。4月半ばは危機的な状況ではなかったが、一歩一歩破局に向かっていたのである。

 

======《外交を重視し、国民を軽視》======

Paying Lip Service to Resistance does not Provide Immunity

          By Karim Emile Bitar

     BitterLemons-international.org   2011年414

  http://www.bitterlemons-international.org/inside.php?id=1367           

 

2003年の米国によるイラク侵攻は大きな失敗だった、とアサド大統領は考えていた。シリアはイラクからの難民130万人を受け入れ世話をしたが、これは人口2200万人のシリアにとって重荷だったが、シリア国民はこの政策を支持した。シリアはイランとの戦略的な協力関係を強め、ハマスとヒズボラを支援した。2006年のレバノン内紛の際、シリアはヒズボラを支援した。シリアはイラクで戦争をするブッシュ政権に公然と敵対的姿勢を示した。これはシリアの孤立化を招く、危険な政策だったが、少数の友好国もあり、助け舟となった。トルコはアラブ諸国に対し、「もめ事を起こさない」方針を取っていた。またフランスのサルコジ大統領もシリアに対し友好的だった。

しかし現在(20114月半ば)シリア政府は国内問題に直面している。見せかけの改革や部分的な変革によって国民の不満をなだめることはもはや不可能である。

2000年代後半には少雨と無雨により、シリア東部の農家が農業を捨てた。雨水に頼る農業を営む農民はもともと貧しく、破産により都市に流れ最下層民になった。シリアの政権は外交を重視し、国内の貧困層に対する配慮が不十分だった。イラク難民はシリア政府に感謝したが、破産した自国の農民は不満だった。シリアの国民はアサド政権の外交を支持していたとはいえ、内政には不満だった。

貧しさと政治的自由のない環境は、若者にとって酸素が欠乏した状態に似ていた。48年間戒厳令が解除されないのは異常であり、圧制の象徴だった。農業従事者だけでなく、他の産業の労働者も貧困ライン前後の生活をしていた。就業者の大部分が非正規労働であり、セーフティ・ネットは存在しない。闇市場が栄えていた。特権的な少数の人々が、通信事業、農業ビジネス、商業、不動産業を独占していた。シリアの経済は総入れ替えを必要としていた。シリアの反乱は南部の貧しい田舎の小都市ダラアで始まった。他の地域にも、基本的人権を奪われ、貧しさから抜け出すチャンスを見いだせない若者が多い。彼らはチュニジアとエジプトの革命に刺激され、革命に活路を見出そうとしている。これらの若者の願望を無視することは、噴火に近づいている火山に注意を払わないのに等しい。

シリアの政府が勇気ある改革をするなら、若者の不満の爆発を避けることができ、健全な経済発展の道を歩むことになる。特権階級による富の独占という病根さえ切除すれば、シリアには経済発展のための好条件がある。

①シリア国民は識字率が高い。

②若年層が多く、労働力が十分にある。

③シリアは古代・中世の歴史的遺産が多く、観光業による収入が見込める。

④国家財政の赤字は少なく、新産業育成のための国家プロジェクトが可能である。

このような条件がそろっているにもかかわらず、シリアはこれまで改革に取り組んでこなかった。アラブの若者の間に改革を求める熱気があふれている現在、アサド政権がもし改革を後回しにするなら、命取りになるだろう。

シリアの国民は19781982年の反乱を忘れておらず、流血革命を望んではいないとはいえ、根本的な変革を願っている。そしてそれが将来でなく、今実現することを期待している。バシャール・アサド大統領が中途半端な妥協で切り抜けようとするなら、決定的な過ちを犯すことになるだろう。既得権を持つグループとの全面対決なしに、真の改革は実現しない。しかし残念ながら、アサド大統領には、そのような改革を断行する意志も能力も欠けているようである。したがってアサド政権は劇的な破滅に向かうだろう。

それでもアサド政権にとって唯一の希望がある。それはイスラエル、ヨルダン、サウジアラビアは現状維持を望んでおり、アラブの国で劇的な政変が起きるのを警戒していることだ。エジプトで革命が起きた時、これらの国は米国にムバラク政権を守るよう圧力をかけた。これが失敗に終わると、これらの国は「他の国おいて連鎖反応が起きないよう手を打ってくれ」と米国に願った。クリントン国務長官が「アサド大統領は改革派だ」と発言したのは、3国の要望に沿った結果である。

シリアと対立していた中東の国も、アサド政権の転覆を考えておらず、現状維持を望んでいた。ただしイスラエルはそうではないかもしれない。

アサド政権の外交政策を支持していたはずの国民は、現在政権を脅かしており、アサド政権が敵と考えてきた米国と親米アラブ諸国はアサド政権の安定を願っている。

===================(BitterLemons終了)

 

米国とシリアはハフェズ・アサドの時代から敵対関係にあり、2003年以後米国は民衆反乱によりアサド政権を転覆させる機会をうかがってきた。ところが2011327日クリントン国務長官はアサド大統領を称賛する発言をした。「シリアを訪問した(米国の)議員たちの話によれば、アサド大統領は改革者である」。この時期ダラアの反乱は収拾不可能なまでに悪化しており、アサド政権の転覆をうかがう米国にとって、ついにチャンスが来たのである。もちろダラアの反乱だけて政権が倒れることはないが、よい兆候である。ダラアで起きたことがホムスでも起き、徐々に他の都市に広がっていけば、アサド政権は危機に陥る。

アサド政権を応援する発言をしたクリントン国務長官は米国内で厳しく批判され、すぐに発言を修正した。「あの発言は議員の考えを伝えただけで、国務省の見解ではなく、私の考えではない。

シリアを敵国と考える米国の立場と矛盾する発言をしたクリントン長官の真意は謎である。民衆デモによりエジプトで政変が起きたことは、サウジアラビアやヨルダンを動揺させたようである。明日は我が身か、と震え上がり、アラブの反乱の火消しを米国に頼み、それに答えてクリントン長官はシリアで燃えかかった火を消そうとしたのかもしれない。しかしそれは米国の長年の方針に反することだった。

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