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(コバニ戦) ペシュメルガ、YPGの作戦に不満 11月1日

2015-12-30 20:46:31 | シリア内戦

   

29日夜明けに、自由シリア軍200人がムルシトピナルの入口からコバニに入った。その際ISISのスナイパーに撃たれ、3名が負傷した。 

29日の夜、ISISは越境地点を奪おうと6度目の試みをしたが失敗した。この日、米国はコバニを8回空爆した。標的はISISの少人数の部隊と命令系統の結節点、そして戦闘地域である。

30日の正午ごろ、イラクのクルド部隊(ペシュメルガ)の10人が2台の車でコバニに入った。

残り140名は、越境地点の安全が確認されてから、コバニに入る予定である。彼らは、大型の武器、重砲、その他の装備を運んできた。これらの武器の威力と米軍の空爆が戦いの流れを逆転させる決め手となる。

    

ペシュメルガはハサカ県北部のクルド地域を経由して、コバニに入ることはできない。テル・アビヤドを通らなければならないが、テル・アビヤドはISISの支配地である。

        

イラクのペシュメルガがコバニに入ることは、トルコが通過を許可することによって可能になった。トルコはクルド軍の支援に強く反対していたが、欧米諸国の圧力により、またトルコとイラクのクルド人の要望が強く、ペシュメルガの通過を許可せざるをえなくなった。しかしトルコはPKKの志願兵がコバニに入ることをいぜんとして許可していない。

         

トルコはイラクのクルド自治政府とは良好な関係にある。トルコは、石油関連事業を中心に同地域に巨額の投資をし、エルビルの繁栄と強く結びついている。       

 ワシントン中東研究所のジェフ・ホワイトは、ペシュメルガの到着について次のように分析する。

「ISISにも援軍が来ており、戦局を大きく変えることはないだろう。長期戦になりそうだ。ISISの戦力がコバニにくぎ付けになるのは、よいことだ。コバニが陥落しないことは、米国の戦略にとって都合がよい。ISISがコバニで戦っている間、他の地域で戦うISIS兵の数が少なくなるからだ」。

米国はISISの勢力拡大を恐れているようだ。また現在ISISが最も脅威となっているのはシリアではなく、イラクにおいてであり、特にキルクークの石油地帯とベイジの製油所を脅かしていることが気がかりのようだ。

           <  ペシュメルガ本隊、コバニに入る>

            

10月31日の夜、100名以上のペシュメルガ兵と大型の装甲車を中心とする20台の車列が国境を越え、コバニに入った。検問所がある正式の越境地点からではなく、西方のシャイル丘付近で越境した。ここには非公式な検問所がある。国境までトルコ軍が警護した。2日前、正式の入り口から入った自由シリアがスナイパーに撃たれたので、用心したようだ。

         

ペシュメルガの砲兵はシャイル丘に陣を構えるつもりで、最も近い場所で国境を超えたのかもいれない。重砲の位置は見晴しの良い丘の上が適している。

西方のシャイル丘付近は市外にあり、2次的な戦場にすぎない。主戦場はクルドの本部周辺である。ISISは市内の越境地点の奪取を作戦の要とし、機会を見ては、越境地点の攻略を試みた。ここを失えば、クルド軍は完全に包囲される。クルド軍は必至で死守してきた。 

       <必要なのは武器であり、援軍ではない>

2日前、トルコのクルド人はペシュメルガの到着を熱烈に歓迎した.PYDの広報官は「ペシュメルガが到着した瞬間を、クルドは決して忘れないだろう」と述べた。コバニの軍・政の代表が、ペシュメルガの到着に正式に歓迎の意を表した。同時に、彼はさらなる武器の支援が必要なことを強調した。一方コバニのクルド軍の中核部隊であるYPGの内心は複雑だ。

   

シリアの人民防衛隊(YPG)は、コバニが必要としているのは、戦闘員ではなく武器だ、と繰り返し述べている。

コバニの外務副大臣のイドリス・ナッサンは次のように述べた。「ペシュメルガが来てくれたことはよいことだ。しかし最初から強調しているように、我々が要望しているのは重火器と弾薬だ」。

YPGの中には、トルコの意図を疑っている者がいる。トルコはYPGの影響力を弱めるために、トルコの友人のペシュメルガとトルコが支援する自由シリア軍を送り込んだ、と彼らは疑っている。

かといってYPGは重装備を持っておらず、ペシュメルガに頼らざるを得ない。YPGはそもそもISIS相手に戦う戦力を持っていない。

 

      <指揮権の問題が浮上>

11月1日の朝、ペシュメルガはクルドのメディアに語った。「YPGは我々を前線に行かせてくれない。

民主統一党(PYD)のコバニ支部長がトルコのメディアに語った。「自由シリア軍とペシュメルガはYPGの指揮下で戦ってもらう」。

イラクのクルド自治政府関係者は、この方針に異を唱えた。「ペシュメルガはアービルのペシュメルガ管轄省の指揮下にある」。

ペシュメルガの将校が匿名でクルドのメディア(Rudaw)に語った。「我々は戦う準備ができている。それなのにYPGは、まあ、ひとまず落ち着いて、あれこれ準備をしろ、と言う」。

コバニの外務副大臣のナッサンは言った。「イラクの自治政府は、YPGが準備した軍事作戦について何も知らない」。 YPGとペシュメルガは指揮権について対立し、協力関係が壊れるかと思われたが、ペシュメルガは歩兵から独立した砲兵部隊として、その自立性を認めることで決着したようである。

    <自由シリア軍も独立性を主張> 

コバニの自由シリア軍もYPGの指揮下に入ることを嫌い、YPGとペシュメルガ3者の合同司令部の設立を勝手に発表した。現在400人の自由シリア軍がコバニで戦っている。

一方アレッポの自由シリア軍は、アレッポの戦闘員を引き抜かれて怒っており、コバニを優先を批判している。彼らは同時に2つの敵(政府軍とISIS)から攻撃されており、「兵を割く余裕はなない」。

 

トルコのエルドアン大統領は、30日パリでの記者会見で、欧米諸国がコバニを重視することを非難した。

「なぜコバニなのだ。イドリブはどうなんだ?ハマはどうなんだ?ISISによって40%近く占領されているイラクはどうなんだ?」

エルドアンの疑問を、多くのシリア人が共有している。 コバニは小さな街であり、コバニより大きな他のいくつもの都市がISISに支配されている。またアサドの空爆を受けている都市の住民を、米国は放置している。

とはいうものの、 コバニに関心が集まったのも自然な流れである。モスルが3日で陥落したことは衝撃であり、それに比較して、コバニは1か月以上持ちこたえているので、世界の評価が高まった。

11月2日、自由シリア軍のエカダ司令官が述べた。「現在我々の戦闘員320名がコバニで戦っている。ISISは市の60%を支配している」。

      <イラクのクルド自治政府、再び武器援助>   

11月5日、弾薬を積んだ数台のトラックが、イラクのアービルから到着した。トルコの許可を得ず、秘密にトルコを通って、コバニにはいった。ペシュメルガは10月31日にコバニに入ったが、到着早々指揮権と作戦をめぐってYPGともめた。しかしイラクのクルド自治政府のYPG支援は揺るがず、YPGが必要とするものを届けた。

コバニを追われたクルド人が語った。{イラクのクルドは我々の兄弟だ。クルドはひとつだ。一部が傷つけば、全員が痛みを感じるのだ」。

ペシュメルガ到着後の5日間の戦闘で、ISIS兵数百名が戦死し、ISISの攻勢は打ち砕かれた。

11月16日、クルド軍はミスタヌール丘を奪回した。

      イラクのクルド自治区のペシュメルガ

    

1か月半の戦闘で、コバニの村民800人が死亡した。

(参考)  

 

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(コバニ戦) クルドの援軍がスルチに到着 10月29日

2015-12-25 20:53:32 | シリア内戦

10月29日の早朝、トルコのクルド軍(ペシュメルガ)が重装備と共にスルチに到着した。クルド軍が待ち望んだ援軍と重火器であった。

        

米空軍の爆撃にもかかわらず、ISISはコバニ攻略をあきらめる様子はない。ISISが最初にコバニを攻撃したのは9月13日であり、1か月半、休みなく戦闘が続いている。数週間におよぶ空爆により、ISISは数百人の兵士を失ったが、コバニの包囲を解こうとはしない。今回のペシュメルガと重火器の到着により、流れが変わると期待されている。 

スルチでは、数千人が並木道を埋め、ペシュメルガの到着を迎えた。コバニからの避難民は「ペシュメルガがISISを追い出してくれること願っている。そうすれば家に帰れる」とかたった。コバニを追われた20万のクルド人が、テレビに映るペシュメルガをを見て、歓迎した。100人の将兵が前夜シャンルウルファに到着していた。重装備は陸路で、人員は飛行機で来た。空港からは、トルコ軍が護衛した。シャンルウルファはスルチに近く、歴史ある古都であり、シャンルウルファ県の中心都市である。コバニに近いスルチはシャンルウルファ県にある。ジャーナリストはスルチに宿泊し、国境のムルシトピナルに出向き、コバニの戦闘を撮影した。

      

 クルドのテレビ局が、武器を積んだ護送車列を放映した。トラックは北イラクからトルコに入り、シャンルウルファに向かった。そしてスルチを経てコバニに入る予定である。トラックの積み荷は、重砲と対戦車砲と装甲を貫通する重砲と言われている。小銃だけで戦っているクルド部隊が、これらの重火器を手に入れるなら、戦いの様相は一変する。これまで、ISISの戦車と装甲車に対し、なす術がなかった。これからは、戦車を破壊できる。

イラク・クルド自治政府のペシュメルガ担当大臣は、「ペシュメルガ部隊は無期限にコバニに留まる」と語った。「彼らは砲撃によってYPGを援護する」。

ISISは「コバニの奴らを皆殺しにしてやる」と公言しており、クルド側は危機感を抱いている。ISISの脅威に加え、最近ではヌスラ戦線も、穏健な反政府軍の支配地を奪い、領土を拡大している。

1000万人のシリア国民が難民となった。死者の数はまだ20数万とはいえ、シリア内戦は終わりが見えない。 

        <歴史ある都市シャンルウルファ>

シャンルウルファは、ガズィアンテプと共にシリアに近い大都市である。

   

「トルコ紀行2012」の著者が、ガズィアンテプから車でシャンルウルファに向かった。一部抜粋する。

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「東へと走った。緩やかな丘陵を暫く行くと川があった。ユーフラテス川だそうだ。この目で見られて感激だ」。

            

 「ガジアンテップとシャンルウルファの間の丘陵には麦畑の他に、ザクロとかピスタチオなどの林も見かける。どうやらシャンルウルファに近くなったようだ」。

     

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 スルチはコバニ戦によって有名になったが、シャンルウルファは昔からよく知られた都市であり、遺跡や名所が多い。古代・中世においてはエデッサと呼ばれた。

        

        《セレウコス朝の都市エデッサ》 

アレクサンダー大王の後継者であり、セレウコス朝の創始者セレウコス1世は紀元前303年、軍事植民都市をこの地に築き、ギリシャ人と東方の民族を混住させ、マケドニア王国の古都エデッサを記念して「エデッサ」と名付けた。 

        《エデッサ王国とキリスト教》

 セレウコス朝が滅亡し、紀元前132年、地方政権「エデッサ王国」が成立した。エデッサ王はイエスの存命中に改宗し、最初にキリスト教徒となった王であるという伝説がある。それは疑わしいが、キリストの死の直後ダマスカスに信徒団が成立しており、エデッサへの伝播が早い時期だったことは疑いない。パウロの活動の拠点だったアンチオキアからも近い。パウロ自身は地中海沿岸に布教したので、内陸のエデッサには来なかった。「エデッサ人への手紙」は存在しない。

          《独立を保ったエデッサ王国》

西のローマ帝国、東のパルチア帝国という2大帝国のはざまで、エデッサ王国は緩衝地帯となり、かろうじて独立を保った。 紀元68年の属州シリアに、エデッサ王国は含まれていない。   

    

しかし212年、ローマはエデッサとパルチアとの同盟を疑い、エデッサ王国を属州に組み入れた。

属州シリアの北部は現在トルコ領になっている。アンチオキアとエデッサは現在トルコ領である。

 2世紀のエデッサで、有名なシリア語訳聖書が誕生した。この時期エデッサの神学者は、聖歌の始まりにおいて重要な役割を果たした。続いて2世紀後半、グノーシス派の「トマスによる福音書」がエデッサで成立したといわれる。

3世紀半ばから4世紀初頭、デキウス帝やディオクレティアヌス帝の時代、キリスト教が弾圧され、多くのキリスト教徒がエデッサで殉教した。コンスタンチヌス帝は一転してキリスト教を保護した。325年の第1回ニカイア公会議に、エデッサ主教も出席した。

シリア語圏の中心都市エデッサには、様々な神学者が集まり、グノーシス派など無数の教派が乱立した。5世紀半ば、エデッサのネストリウス派は絶頂に達した。

       ≪東ローマ帝国時代≫

東ローマ帝国時代、エデッサにはオスロエネ府主教区があり、11の付属主教区が置かれた。11世紀以後はこれらコンスタンチノープルの正教会の主教管轄区は消滅した。東ローマの府主教区が置かれたにもかかわらず、異端のシリア正教会は残存した。シリア正教会はオスマン時代にも生き残り、1914年、ウルファ(エデッサ)には、5000人のシリア正教会の信者が住んでいた。同年ウルファの住民はトルコ人が最も多く45000人であり、次いでアルメニア人25000人だった。 

 シリア正教会はアッシリア東方教会に属する。アッシリア東方教会が分派=異端となったのは、451年である。コンスタンチノープルの正教会がローマ・カトリック教会から分裂したのは、11世紀である。   

         《イスラム帝国の時代》

イスラム帝国は戦いを交えずこの地方を征服し、エデッサはウマイヤ朝やアッバース朝に支配された。ローマ時代のウルファ城の円柱と、アッバース朝時代の城壁が現在も残っている。

              

            《十字軍の時代》 

第1回十字軍の際、ブーローニュのボードゥワンが、1098年、十字軍国家・エデッサ伯国を成立させた。ボードゥワンはアルメニア人領主のソロスに歓迎されてエデッサに入城したが、後にこれを退けたのである。 

第1回十字軍以後、エルサレム王国と他3つのキリスト教国家が成立した。エデッサ伯国とアンチオキア公国・トリポリ公国である。

                         

 1144年、アレッポの領主ザンギーは、エデッサ伯国の都を陥落させた。十字軍国家に勝利したザンギーは、イスラム世界の英雄として称えられたが、1146年に奴隷に殺されてしまった。

 ザンギーの二男ヌールッディーンは父に匹敵する武勇を見せた。エデッサ伯国は都を奪回していたので、彼はさっそくエデッサの都を落とした。1149年には十字軍国家アンティオキア公国の公爵レーモン・ド・ポワティエを戦死させた。1150年にはユーフラテス川の西に残っていたエデッサ伯国を滅ぼし、伯爵ジョスラン2世を捕らえた。

 ザンギー父子は対十字軍戦争で華々しい活躍をした。サラディンがこれを受け継ぎ、エルサレム王国を滅ぼした。サラディンが没した1193年には、エルサレレム王国とエデッサ伯国は地図から消えている。

        

 地中海から接近でき、援助が可能な二つの十字軍国家が残っている。アンチオキア公国とトリポリ伯国である。キリキア・アルメニア公国は十字軍国家ではない。キリスト教徒のアルメニア人が十字軍の遠征に乗じて建設した国である。

            <ザンギー朝>

ザンギー父子は、サラディンに負けない英雄だった。父ザンギーは武勲により、アレッポとモスルを中心とする広大な領土の支配権をカリフから認められた。

     

 サラディンは、アレッポの領主ヌールッディーン・ザンギーの家臣であり、ダマスカスの統治を任されていた。エジプトに内紛があり、解決に手を貸したサラディンはエジプトの宰相にとりたてられた。ヌールッディーン・ザンギーは、臣下のサラディンが大国エジプトの宰相になったことに衝撃を受けた。サラディンが臣従を拒否し、独立すれば、ダマスカスが失われる。しかしサラディンはダマスカスの支配権をヌールッディーンと争わなかった。 

           <アイユーブ朝>

ファティマ朝のカリフが死ぬと、サラディンはエジプトの支配者になった。これによりファティマ朝が滅び、サラディンのアイユーブ朝が成立した。アイユーブはサラディンの苗字である。

             

 サラディンは、アッバース朝のカリフを正統とし、エジプトのカリフ制を廃止した。自らをバグダードのカリフに仕えるスルタン(宰相)と称した。またファティマ朝のシーア派の教えを異端とし、カリフ・ハーキムが建設した図書館に収蔵されていた書物を売却した。

       ≪アイユーブ朝時代のエデッサ≫

1211年に、かつてのキリスト教会の聖堂を再利用しハリル=ウル=ラフマン(Halil-ur-Rahman)・モスクが建設された。モスクの中庭に、聖なる魚の池バルックル・ギョル(Balikligöl)がある。池の周りは庭園に囲まれている。 

 

               

この池について、アブラハムがニムロド王により火の中に投げられたが、火が水に変わったという言い伝えがある。大勢の魚が観光客の投げるえさに殺到しているが、白い魚を見たものは天国に行けるという言い伝えもある。

 オスマン時代には、メヴリディハリルモスクが建てられた。

                  

シャンルウルファ関連の日本語版ウイキペディアは充実している。「トルコ紀行2012」には、多くの美しい写真がある。

(参考)

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(コバニ戦) ISIS、化学兵器を使用 10月21日

2015-12-21 23:04:51 | シリア内戦

     

10月21日の夜、コバニ市内で爆発があり、その後約20人が呼吸困難、目から出血、やけどや吐き気の症状をうったえた。

彼らを診察したワラト・オマール医師は、異常な症状に驚いた。原因がわからなかったが、彼は化学兵器を疑った。「患者たちは、爆発の後に異臭を感じており、症状はそのガスが原因のようだ」。

「皮膚に赤い斑点がある患者。やけどがある患者。呼吸困難な者。のどが痛み、吐き気がする者。目や鼻が炎症を起こしている者。一人は、体中が斑点とやけどに覆われていた」。

                  

 

6月にイラクに進撃したとき、ISISは占領したイラク軍の基地で、残存していた化学兵器を手に入れたた可能性がある。イラクに化学兵器はなかったとされるが、それは最新で現役のものがなかったということであり、劣化したり、空になった砲弾が基地に保管されていた。

イラクの国連大使の報告によれば、ISISがファルージャのムサンナ基地を占領した際、将兵を脅し、化学砲弾を奪った。

大使は41番の格納庫と13番の格納庫が心配だと語った。41番の格納庫には空の砲弾2000発が保管されていた。中身は空だったが砲弾はマスタードで汚染されていた。大使の心配な様子からすると、中身が詰まっているものがあるかもしれない。それに汚染された605個のマスタード容器。最後に汚染された建材。

ティクリトにも化学弾が保管されていた。また別の場所で、劣化したマスタード弾が放置されているのを、米兵が発見している。化学兵器の前段階物質が保管されている場所もある。これらの場所の多くは、現在ISISが支配している。ISISが実際に奪ったものと、支配地にある有毒化学物質は相当な量になる。

ISISはアルカイダの化学兵器に関する知識を受け継いでいる。さらにシリアでの2年間に、化学兵器を使用する技術を習得した。

先月(9月)、ISISはイラクの町で化学兵器らしき爆弾を使用し、11人の警察官が被害にあった。死者はいなかった。今回のコバニの場合と似ている。被害者の数は今回のほうが多い。

2003年以来、17人の米兵が神経ガスとマスタードガスの被害を受けたが、口止めされている。

     <7月12日、化学兵器による攻撃で3人死亡>

実は、コバニでの化学兵器の使用は今回で2度目である。前回の方が、被害者の症状が重く、死亡している。1回目に使用したのは7月12日である。

現在陥落の瀬戸際となっているコバニの闘いが始まったのは、9月23日である。これはISISにとって2度目の挑戦であり、最初にコバニを攻撃したのは、7月始めである。6月の華々しい電撃的な勝利の直後、早々とコバニ征服に取り掛かった。ISISにとって国境をさえぎるクルドは邪魔な存在である。コバニ獲得は重要課題だった。ISISはこの時、化学兵器を使用した。それでも勝利に至らず、コバニ作戦をいったん中断した。        

2か月後の9月、ISISは2000名の大兵力をそろえて、再びコバニに襲いかかった。そして10月21日、2度目の、化学兵器を使用した。 

最初のコバニ攻勢は7月2日に始まった。コバニの東方にあるアディコ(Avdiko)村が戦場となった。

ISISは機関銃と迫撃砲で攻撃したが、クルドの人民防衛隊(YPG)は10日間、粘り強く抵抗した。ISISは優越した武器で戦っているにもかかわらず、勝利できない。7月12日、ISISはさらに残忍な、決定的な手段を用いた。

         

3人の戦死者を診察した医師団は、死者に銃弾の跡がなく、いかなる外傷もないことに気付いた。「死者が出血しておらず、遺体にひどいやけどと白い斑点があるので、死因は薬品によるものと考えられた」。

やけどと皮膚が崩れた遺体の写真を見て、イスラエルの専門家は、マスタード・ガスによる症状だと思われるが、写真だけでは断定できないと語った。

                

写真を発表したのは国際問題中東評論(Middle East Review of International Affairs)である。

MERIAの発表が遅かったためか、7月12日の化学兵器使用についてネットが取り上げたのは、3か月後の10月13日である。

イランのPRESS TVはISISの化学兵器使用について報じた後、次のように述べた。

「シリアの国連大使は、トルコとサウジアラビアはテロリストに大量破壊兵器を供給している、と非難した。

10月10日、シリアのジャファリ大使は、国連の委員会で、トルコとサウジは過激な反乱分子に化学兵器を与えている、と述べた。大使は、トルコはテロリストの100団体を支援している、と付け加えた」。

以上、7月12日と110月21日の化学兵器使用事件について述べた。

          <10月22日ー27日の戦況>

      

10月22日の夜、、ISISはシャイル丘を攻撃し、数時間の戦闘の後、丘を占領した。

23日の夜、米軍が丘を空爆し、クルド軍は丘を奪い返した。

      

 10月26日、ISISは越境地点に4度目の攻撃をしたが、再び失敗した。越境地点を奪えば、コバニの包囲が完成する。クルドの敗北が決定する。

10月27日、ISISはビデオを公開した。英国人人質のジョン・カントリーが語った。「ISISはコバニの大部分を占領した。クルドはまだ数か所に潜んでいるが、コバニの戦いはほぼ終了した。ISISはクルドの残存兵を掃討している」。

ISISのビデオは、戦時日本の大本営発表と同じである。現実には、ISISのほうが苦しい。

10月13日以来、米空軍の爆撃は効果的であり、ISISは前進できない。そのうえ、19日には、クルドへ、大量の武器の投下があった。

21日の化学兵器の使用は、ISISの焦りの反映かもしれない。

クルドへの援軍として、もうすぐペシュメルガが到着する。心理的な圧迫を感じているのは、ISISだ。クルドは勇気づけられることが続いている。

     

(参考)

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米輸送機、コバニのクルドへ武器を投下 10月19日

2015-12-17 21:09:42 | シリア内戦

 

10月15日、米軍関係者が語った。「コバニへの空爆開始以来、数百人のISISが死亡したが、コバニが陥落する危険は去っていない」。

10月18日、ISISは再び越境地点を猛烈に攻撃したが、クルド軍に阻まれた。ISISに援軍が来たが、クルド軍の守りを崩すことはできなかった。

この日ISISは、2か所で、自動車爆弾による攻撃をした。一つはクルドの本部がある保安地区に対し、もう一つは新文化センターの近くのハレイ広場に対してである。新文化センターは13日以来ISISが占領している。保安地区は10日以来、ISISが占領している。

    

この日ISISは、クルドの支配地に向けて41発の砲弾を撃った。

18日の夜は、クルド軍への武器投下の前夜であり、米軍はコバニのISISを11回空爆した。

      <C-130、武器・弾薬を投下>

       

 10月19日、米軍のC-130輸送機が武器・弾薬・医薬品をコバニに投下した。これらの補給品は、イラクのクルド自治政府が米国に投下を依頼したものである。3機のC-130が27個の荷を投下した。

このことは、米国がコバニのクルド軍に対する援助を本格化する意図を明らかにした。つい最近、米国務省はシリアのクルド政党PYDと直接の話し合いをした。トルコの反対があり、クルド援助を控えてきた米国だが、ここにきてクルド援助を決断した。

米軍は空爆によってコバニのクルド軍を援護しきたが、武器・弾薬を配布したのは今回が初めてである。米政府はトルコのエルドアン大統領の反対を押し切って、クルド軍に武器を投下した。ISISは優越した武器によってクルド軍を攻撃している。クルド軍は、陥落を目前にして絶望的な戦いをしている。クルド軍が最も必要としているものを、米国は投下した。

      

 ケリー国務長官は、コバニのクルド人を援助しないことは道徳的に許されない、と表明した。

米国がコバニのクルド軍の援助を本格化することは、シリア内戦に深く関与することを意味する。これまで3年間、米国はシリア内戦から距離を置いてきたが、コバニ援助は大きな方針転換の端緒となるかもしれない。

オバマ政権は、イラクのISISに対する積極的な空爆と異なり、シリアに対しては、1か月遅れで、回数も少なく控えめにシリア空爆を開始した。

今は忘れられているが、 2013年夏の化学兵器使用疑惑事件の時は、米国は空爆を思いとどまった。2014年9月15日以後のシリア空爆は、明らかに重要な方針転換であり、シリアに対する直接的軍事干渉の開始である。このことを、アサド政府とイランとロシアは敏感に理解している。米国は、反政府勢力の支援という形で、間接的には最初からシリアに干渉してきた。今やシリアの領空侵犯とラッカとコバニに対する空爆は既成事実化している。

アサド大統領が語っている。「シリア政府は領空の通過と空爆を許可していない。そもそも米国は我が国に許可を求めていない。ヨルダン政府を通じて通知してきただけだ。米政府は、外国の政府に対して命令口調であり、それを受け入れない政府は合衆国の敵とみなされる」。

コバニに対する武器援助は武力干渉のエスカレーションかもしれない。非政府地上軍との緊密な連携である。

     

イラクのクルド自治政府の話によれば、投下されたのは24トンの小火器・弾薬と10トンの医薬品である。

これについて、トルコのクルド人政治家がコメントした。「もう少し早ければなおよかったが、今回の武器援助は大きな意味がある。『小火器』の内容が何なのか知りたい。ISISの戦車・大砲を破壊できるミサイル等が含まれていれば別だが、ISISと対等に戦うには重火器が必要だ」。

トルコのメディアは、C-130はトルコの領空を通らなかったと伝えた。クルド人への武器援助に、トルコは反対していた。

クルドへの武器投下の前日、エルドアン大統領は強い調子でこれに反対した。

「シリアのクルド人が米国から武器を受け取ることは許されない。連中はテロリストである。米国が私の許可を期待することは誤りである」。

トルコはコバニのクルド軍をPKK同様のテロリストとみなしている。トルコのクルド政党PKKの自治要求闘争により、4万人が犠牲となった。20135月、トルコはPKKと和解したが、根本的な解決に至っていない。 シリアのYPGに武器援助をすれば、トルコのPKKに流れる危険がある。

米国もEUも、PKKをテロリストと認定している。

同18日、オバマ大統領は、エルドアン大統領に電話をし、コバニに武器を投下するつもりだと伝え、その必要性を説明した。

米政府関係者は「ISISはトルコと合衆国双方にとって危険な敵である、と我々は信じて疑わない。早急にISISの力を弱めなければ、手遅れになる」と語った。

翌19日、トルコ政府は両首脳の電話会談について声明を出した。

「2国の大統領はシリア問題について話し合った。ISISの拡大を食い止める方法と、コバニが話の中心である。

エルドアン大統領は、トルコが150万人のシリア難民と18万人のコバニ難民を受け容れていることに対する理解を求めた。

両首脳は、ISISとの戦いを強化するために、両国が緊密に協力しあうことに合意した」。

政府発表は両首脳が合意したと語ったが、真相はわからない。物別れだったかもしれない。

クルド民族主義が長年トルコの敵であったという理由に加え、別の事情もあった。エルドアン大統領にとって、ISISは敵ではなく、仲間だった。大切な商売相手である。彼の子息は、ISISの石油販売を一手に引き受けており、莫大な利益を得ているという。エルドアンに向かって「ISISはトルコと合衆国双方にとって危険な敵である」と説得しても無駄だった。 

 空爆の翌日の20日、トルコ政府は「コバニのクルド軍に対する援軍と補給がトルコ領内を通過することを許可する」と発表した。エルドアン大統領の考えが変わったとも思われず、ダウトオル首相が上司である大統領の意向を無視し、米国との合意の路線で決定したのだろう。

       

 C-130がシリアの上空を往復する間、地上からの攻撃はなかった、と米中央軍が発表した。

パラシュートによる投下は、爆弾の投下と違って、どこに落ちるか、わからない。低空飛行で投下すれば、予定した地点に落下する。しかし地上からの対空砲火がある状況では、輸送機が撃ち落される危険が増す。3機の輸送機は地上からの攻撃を受けなかったので、落ち着いて投下できたのだろう。

中央軍は「投下はほぼ成功したようだ。投下後の結果について報告を受けてからでないと断定できないが」と述べた。

20日、YPGは大量の武器と弾薬を受け取ったと語った。

ただし、一個だけISIS側に落下した。米軍はそれを破壊したと発表したが、ISISはそれを獲得したようである。ISISのビデオによれば、荷の中身は弾薬のほかに、手りゅう弾とRPGだった。小銃より有効なものが含まれていた。

    

米中央軍はコバニの戦況を説明した。

「米空軍は10月の初め以来、ISISを135回空爆しており、彼らがコバニ市を制圧するのを遅らせている。空爆は数百人のISIS兵を殺害し、数十の装備を破壊した。

ISISはいぜんとしてクルド軍を圧迫しており、コバニが陥落する危険は去っていない」。

    

2つの円の接点がISISの最前線であり、米空軍がそこを爆撃した。最初の地図は、市内だけの範囲であり、この地図は郊外のミスタヌールの丘を含む広い範囲を表している。

地図中の文が、ISISは市の20%を支配していると述べている。これは10月15日、クルドの外務副大臣が「我々は市の80%を支配している」と語ったことに基づく。13日の空爆が非常に効果があり、ISISは一時的に撤退した。

翌日、クルド軍の司令官が、ISISは市内から撤退したと語った。

米軍はこれらの発表を否定している。そして米軍の判断が正しかった。地図に示された、2つの円の接点が主戦場であり続ける。ISISは市内の3割から4割を占領し続ける。円の接点は、最初の地図では、「クルド本部」と記されているあたりである。多少の変化はあるが、クルドの本部周辺で、延々と攻防が続く。

       

 (参考)

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陥落寸前のコバニが持ちこたえた理由  10月11日―15日

2015-12-11 15:17:58 | シリア内戦

    

コバニが世界の注目を集めるようになったのは、トルコに近かったからである。ISISに対するメディアの関心は高かったが、ISIS取材は危険すぎて、戦線には近づけなかった。しかしコバニの場合、ジャーナリストは安全なトルコ側から撮影できた。多くのジャーナリストがスルチに集まった。メディアの関心が集まったなかで、「コバニ陥落寸前」のニュースは、米国の政策に少なからず影響を与えた。

最初米国はコバニが戦略的に重要だと考えていなかった。コバニを守ることを課題とはしていなかった。冷静に判断するなら、コバニという一つの戦場だけにとらわれず、有志連合の空爆が全体としてISISにどれだけの打撃となったか評価すべきである。

しかし10月10日、コバニ陥落の悲観論が優勢になり、米国の政策を変えることになった。

この日、ISISは、保安地区の広大な敷地を占領した。ここにはYPGの司令部とクルド自治政府の建物が複数あった。クルドは軍・政の中枢を失った。またISISはすでに市内の4割を占領している。(次の地図は30日の戦況である。市の境界とクルド本部を示す地図はこれしか見つからない)

   

ISISがコバニで勝利すれば、米国によるシリア空爆が無力だったという印象を与える。

米国と有志連合は、コバニのISISに対して50回空爆した。それが無意味だったことになる。コバニの敗北が有志連合の信頼性を損なうことは避けられない。米国はISISを抑え込めるのだろうか、という疑問が生まれる。

地上軍を投入を前提としない、オバマの「ISISとの戦い」が有効か、という根本問題が再び問われる。

 またコバニの戦いがISISの勝利で決着すれば、ISISにとって絶好の宣伝材料となる。ISISは、米国の空爆に抗して戦う戦士の姿をネットで公開している。ISISの支持者と潜在的支持者は勇気づけられるだろう。反対に、ISISと戦っている穏健な勢力は落胆するだろう。 

コバニはISISにとって戦略的な意味がある。ISISは既に国境の2つの町、ジェラブルスとタラビヤドを支配しており、新たにコバニを獲得すれば、250kmに及ぶ国境線を支配することになる。

その上、コバニの戦闘が終結すれば、コバニで戦ってきた数千のISIS兵は他の地域へ向かい、新たな領土獲得に取り掛かる。

ISISにコバニでの勝利を許せば、不都合なことが多い。反対に、ISISの勝利を引き延ばし、コバニをISISにとっての泥沼とすれば、ISISをコバニにくぎ付けし、消耗させることができる。

    

米国の政府関係者は、「クルドは苦戦しているが、コバニのISISに対する空爆はそれなりに成果があったと」指摘する。ISISはコバニの獲得を最重要な課題としており、なんとしてでも勝利しようと、隠していた戦車・重火器をコバニに持ってきた。おかげで米空軍は、彼らが大切にしている戦車・重火器を破壊することができた。クルドに劣らず、ISISも大きな代償を払っている。

        (参考)Kobani's fall would be symbolic setback for Obama Syria strategy

陥落は必定と思われてコバニが、不思議に持ちこたえたのは、米国のおかげである。上に述べたような理由で、米国はコバニを重視するようになった。米軍は空爆の回数を増やした。しかしクルド軍は弾薬を使い果たし、窮していた。地上軍は存在しないも同然になろうとしていた。「空爆だけでは勝てない」状態である。この問題も、米軍が解決した。24トンの小火器と弾薬を空から投下した。

米国が本腰を入れたことで、コバニは救われた。

 

空爆は両刃の刃であり、空爆で一人の住民が死ぬと、空爆に対する恨みから2人がISISに参加する、と言われる。米国が重要視したラッカの空爆ついて考えるなら、ラッカのISISは兵舎にまとまって居住しているわけでなく、数人ずつに分かれて一般の民家に住んでいる。空爆で彼らを壊滅しようとするなら、街全体を瓦礫にしなければならない。空爆は効果が少なく、マイナス面が多い。

実際コバニがそうなった。クルドは勝利したが、コバニの町は廃墟となってしまった。しかしそれは3カ月間に及ぶ空爆の結果である。クルド軍が最も危機的な状況にあった10月半ば、街が瓦礫となる損害はまだわずかであり、ISISを撃退する効果のほうに大きな意味があった。

空爆の強化と武器の投下に加え、米国はもう一つの点で、クルドを助けた。米国がトルコに地上軍を出せと迫ったことが、思わぬ効果を生んだ。トルコは地上軍を出すことは拒否したが、クルド軍への援軍の通過と武器の通過は許可せざるを得なかった。これが、イラクのクルド軍(ペシュメルガ)の到着に結び付いた。

          出撃しないトルコの戦車

         

エルドアン大統領がクルド援助をしぶるのは、彼国内事情による。トルコ国内で、トルコ民族主義派とクルド民族主義派が対立している。トルコ民族主義派は、イスラム教スンニ派であるISISを支持している。当然ながら、彼らはシリアのクルド軍を支援することに、強く反対している。トルコ民族主義の強硬派はそれほど多くないとしても、多くの国民がトルコ民族主義とイスラム教スンニ派を信奉している。

    <10月11日ー15日の戦況>

10月11日、 約1時間半にわたる激しい戦闘があり、米軍をはじめとする有志国連合は町の南と東で2度の空爆を実施した。またクルド人部隊は少人数のグループに分かれ、町を包囲しているISIS をあちこちで襲撃した。空爆とYPGの反撃により、ISIS は多くの兵を失った。

翌日、ISIS に援軍が到着した

     

    <越境地点を奪われたら、おしまいだ>

10月13日、ISIS は新文化センターにトラックで自爆攻撃をし、占領した。

ISIS は国境越えの地点(国境柱付近)を占領しようと、クルド軍に対し自動車で自爆攻撃をしたが、手前で爆発し、失敗に終わった。クルド軍はISIS を追い払った。クルド兵の一人が語った。「越境地点を奪われたら、おしまいだ。今回はISISを撃退したが、現在の状態が続けば、越境地点を守り抜くことはできない」。

    <クルド兵,GPSで爆撃地点を指定>

13日から15日まで、米国は39回ISISを空爆した。そのうちの21回は13日の夜行われた。31人のISIS兵が死亡し、クルド軍はISISを押し返した。

クルド兵は米空軍から空爆用のGPSを与えられ、標的の位置を指示したので、空爆はきわめて効果的になった。この緊密な連携は2015年になっても続けらる。メディアの取材に対し、携帯電話のようなものを持ったクルド兵が、「これで爆撃の位置を指定するんだ」と語っていた。「誰から与えられた」と記者が質問すると、「それは秘密だ」と返事した。

13日から17 日までに、爆撃回数は合計53回に達した。小銃だけで戦うクルド軍にとって、空爆は強力な援護射撃となった。陥落寸前のコバニが、イラクのクルド軍(ペシュメルガ)の到着まで持ちこたえた秘密は、空爆にあった。

      

   (参考) Siege of Kobanî

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(コバニ戦) ISIS、クルドの本部を占領 10月10日

2015-12-08 21:11:46 | シリア内戦

 

ISISは9月末までにコバニ市周辺の農村部を占領し、10月5日市内に入った。10月8日、ISISは市場を攻略し、この日までに市の3分の1を占領した。

    

10月10日、ISISはYPGの本部を占領し、クルド側は敗北感を深めた。面積では、ISISが占領地をわずかに増やしたにすぎないが、クルド軍は軍事的な中心を奪われ、深刻な事態だった。同じ敷地内にクルド自治政府の建物もあり、クルドは軍・政の本拠を奪われたのである。

   

ISISは戦闘員を増強しており、5000人に達している。コバニの東方はISISの支配地であり、ラッカから兵を送ることが容易である。またラッカ以外にも、コバニに近いISISの拠点から兵が送られている。これに対し、守る側のクルド軍のほうは、武器と食糧が不足しているが、補給が来ない。

     

この危機的な状況は、トルコとイラクのクルド人の間に大きな反響を呼び起こした。トルコでは、コバニのクルド軍を援助しない政府に対し、4日間連続で、抗議行動が行なわれた。この抗議行動は、クルド民族主義派とトルコ民族主義派の抗争に発展し、31名が死亡した。

     

怒ったクルド市民は石を投げるにとどまらず火炎瓶を投げ、さらには、ピストルを発射する場合もあった。

      

この時点では、コバニについて日本人の関心は低かったが、シリア内戦に関心がある世界のメディアは、コバニに注目するようになった。国連は、コバニが陥落するなら、数千人が虐殺されるかもしれないと警告した。

また、この時のクルドの援軍要請が、後のイラクのクルド軍(ペシュメルガ)のコバニ到着に結びつく。コバニのクルド軍は小銃だけで戦い、弾も尽きていた。

 

米国の国家安全保障担当次席補佐官のトニー・ブリンケンが述べた。

「ISISはさらなる勝利をした。今や町の40%を支配しており、彼らはコバニを占領するだろう」。彼は、クルド軍を戦力と呼ぶに値しないと評価している。

「コバニには地上軍がいないので、今後の見通しがたたない。空爆だけでISISの進撃を押し返すことはできい」。

英国のシリア人権団体のラミ・アブデルラフマン理事長もクルド軍の無力を認めた。

クルド軍が3か月間も持ちこたえるとは、誰も予想していなかった。

米空軍は9日と10日、コバニのISISを空爆した。そのうち4回の爆撃は、クルド本部周辺のISISを標的にした。

ISISは主にコバニ市の東部を占領し、南部はわずかである。ISISは東から進んでおり、クルド軍は抵抗している。特に住民の脱出路だけは守り抜こうとしている。

10月10日、ISIS戦車を市内に進めた。クルド本部に対する攻撃で、ISISは自爆攻撃を行い、クルド兵2名が死亡した。内務省軍の建物付近でも戦闘がおこなわれている。ISISは、遠くから市の中心部に向けて迫撃砲を撃っている。

この日の夕方、ISISは大モスクの近くで自動車爆弾を爆破させた。モスクの高所は見晴らしがよく、スナイパ―は広い範囲を狙撃できる。モスクを奪われないよう、クルド軍が防戦している。

ISISはトルコとの国境まで1kmにまで迫っている。クルド本部が陥落したので、市の北端の国境柱付近も危険になった。

 

ISISが国境柱付近を占領すれば、クルド軍は完全に包囲される。軍は自滅を待つこととなり、住民は脱出路を失う。クルド軍は危急を訴え、援軍を要請した。

上の地図について一点だけ説明すると、クルドの守備範囲が西に延びていることに意味はない。農村地帯であり、ISISが重視していないだけである。市内の東と北を占領すれば、西部の制圧は容易である。上記の地図からはみ出るが、農村地帯の西のはずれにはユーフラテス川があり、その対岸はISISの支配地ジェラブルスである。

以上述べたように、ISISの攻撃中心は市の東部であるが、南部でもクルド兵を待ち伏せ攻撃をし、クルド兵10名が死亡した。 

     

国連特使は、コバニとその周辺に12000人の住民が残留しており、彼らは虐殺されるだろうと警告した。これらの残留者のうち、700人の老人が市の中心部に住んでいる。市の中心部はすでに激戦地となっており、老人たちは戦闘に巻き込まれる恐れがある。トルコへの脱出口は一か所しかなく、それを失えば包囲が完成する。

国連のミストゥラ特使は、トルコに対し、コバニのISISと戦っている有志連合に歩調を合わせるよう求めた。

「コバニに隣接しているトルコは、何らかの援助ができるはずだ。せめて、クルドの志願兵と武器・装備の通過を許可してほしい」。いつもは中立の立場をとる国連としては、異例の発言だった。コバニに留まっている12000人の命が危険にさらされているからである。

特使の念頭には、1995年のスレブレニツァの虐殺がある。ボスニア内戦で、この町のムスリム(イスラム教徒)8000人がセルビア人によって殺害された。

有志連合を統括しているアレン米退役将軍は、トルコに地上軍を出すよう求めた。トルコはシリア内戦に巻き込まれることを警戒しており、「単独では出せない」と断った。将軍は再びトルコに要求する予定である。

コバニの活動家ムスタファ・エブディは語った。

「ISISはずる賢く、空爆を避けるために、普通の自動車にクルドの旗を立てて移動している。弾薬の補給はバイクで行っている。YPGの制服を着てクルド側に侵入し、スパイ活動を行っている。

コバニは陥落寸前だ。しかしクルド兵は全員命をかけて戦っている。コバニはISISとの闘いの象徴だ」。

メディアが注目しており、コバニの征服は、ISISにとって象徴的な勝利となるだろう。

     

トルコの3分の1の県に多くのクルド人が住んでいる。トルコの非合法政党PKK(クルディスタン労働者党)は、トルコという国家の分裂要因であり、トルコ政府にとって国内最大の敵である。シリアのクルド政党・PYD(民主統一党)はPKKの傘下にある。このために、PYDはトルコから敵とみなされた。

コバニへの志願兵と武器の通過を、トルコは禁じた。

(参考)

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イスラム国、後藤健二殺害予告 緊迫の10日間

2015-12-01 22:56:28 | シリア内戦

 

      <湯川・後藤殺害予告>

2015年1月20日、72時間以内に2億ドルの身代金の支払いがなければ、湯川と後藤を殺害するという動画が公開された。

1月24日午後11時、湯川氏殺害の写真を持った後藤健二の静止画と後藤さんの音声がネットに流れた。

   

その音声は英語であり、話す内容は、イスラム国に指示されている感じだ。

「私はケンジ・ゴトウ・ジョウゴだ。湯川遥菜がカリフ国の土地で殺害されたことは、見ての通りだ。私たちを拘束している人たちは期限を通告し、警告を実行した。安倍、お前が、遥菜を殺した。彼らの警告を真剣に受け止めず、72時間の期限を守らなかったからだ。

りん子、愛する妻。2人の娘をいとしく思っています。安倍に、湯川にしたことを私にさせないでください。あきらめないでください。家族とインディペンデント・プレスの同僚が、政府に圧力をかけてください。彼らの要求は簡単になり、より公正になっています。もうお金を要求していません。テロリストに資金援助する心配はなくなりました。獄中にある彼らの姉妹サジダ・リシャウィの釈放を要求しています。

簡単です。サジダを彼らに渡せば、私は釈放されます。・・・・・・・・

りん子、私に残されれた時間は数時間かもしれません。このメッセージが公開される時、私はこの世にいないかもしれません。これをあなたが聞く私の最後の言葉としないでください。

以上は (youtube)後藤健二氏からの救出依頼のメッセージ より。

ケンジ・ゴトウ・ジョウゴのジョウゴの意味が、誰もわからなかった。後藤さんは妻の城後倫子さんの家に婿入りしており、戸籍上は城後健二だと、後でわかった。

 

1月27日、カサスベ中尉の写真を胸のところに持った後藤さんの写真がネットに公開された。再び後藤さんの音声が語った。

「これは、私の最後のメッセージです。ヨルダン政府が死刑囚の解放を遅らせているので、私の解放も遅れている。日本政府はヨルダン政府にプレッシャーをかあけるべきだ。私は殺されるだろう。私に残された時間は24時間しかない。ヨルダン人パイロットに残された時間はさらに短い」。

この時ヨルダンでは、カサスベ中尉の釈放要求が、国民的世論となっていた。後藤とサジダの交換要求を知った時、ヨルダンの国民は、後藤とともに自国の空軍将校カサスベ中尉を返して欲しいと願った。彼は、乗っていた戦闘機が故障した、とも撃墜されたとも言われる。

ヨルダン政府はカサスベ中尉はすでに処刑されているという情報を得ており、、カサスベ中尉生存の証拠をイスラム国に求めた。これにより、後藤・サジダの一対一交換は行きづまった。

 

1月29日の朝、イスラム国が最後通牒を出した。画面にアラビア語テキストがあり、後藤さんが英語で語った。

「29日の日没までに、私との交換のために、サジダ・リシャウィをトルコ国境に連れてこなければ、ヨルダン人パイロットは殺される」。現地時間の29日の日没は、日本時間では同日11時30分頃である。

 

この最後通牒が出される前夜、同様の内容の最後通牒のメールが後藤さんの妻に届いた。イスラム国は最後通牒をメディアに公表しろと要求していた。当初イスラム国は最後通牒を妻から発信させようとしたようである。メールにはこう書かれていた。

「リンコ、お前はこのメッセージを世界のメディアに公表し、広めなければならない。さもなければ、健二が次だ。29日木曜日の日没までに、健二との交換に、サジダがトルコ国境付近にいなければ、ヨルダン人パイロットを即座に殺すつもりだ」。

しかし妻はメディアに公表しなかった。政府が反対したのだと思う。

 

要求された期限、現地時間29日の日没になった時、妻のメッセージがロイター通信に発表された。少し遅れて、日本の東洋経済オンラインが、音声と英文と日本語訳を公表した。

タイムリミットの時間になったので、妻はいてもたってもいられなかったのだろう。前夜イスラム国に要求されたにもかかわらず、メッセージを出さずにいたが、もはや政府の命令などに従っていられなくなったのだろう。

===========

     <後藤さん妻、解放求める音声メッセージ公開>

                  東洋経済オンライン 1月30日(金)1時45分配信

 私たち夫婦には、2人の幼い娘がいます。妹のほうは、健二が日本を離れた時には、わずか生後3週間でした。私は、2歳の上の娘が再び父親に会えることを望んでいます。2人の娘が父親のことを知りながら、成長していくことを望んでいます。

 

私の夫は善良で、正直な人間です。苦しむ人びとの困窮した様子を報じるためにシリアへ向かいました。健二は、湯川遥菜さんの居場所を探し出そうとしていたと推測できます。私は遥菜さんが亡くなったことに、非常に悲しい思いをしました。そして、彼の家族の悲しみを思いました。家族の皆さんがどれだけつらい思いをされているかがわかるからです。

 

12月2日、健二を拘束したグループからメールを受け取ったとき、健二がトラブルの中にあることを知りました。1月20日、私は湯川遥菜さんと健二の身代金として2億ドルを要求する動画を見ました。それ以来、私とグループとの間でメールを何回かやりとりしました。私は、彼の命を救おうと戦ったのです。

 

20時間ほど前に、誘拐犯は私に最新の、そして最後の要求と見られる文章を送ってきました。「リンコ、お前はこのメッセージを世界のメディアに対して公表し、広げなければならない。さもなければ、健二が次だ。29日木曜日の日没までに健治と交換するサジダがトルコ国境付近にいなければ、ヨルダン人パイロットを即座に殺すつもりだ」。

 

私はヨルダン政府と日本政府のすべての努力に対して感謝しています。ヨルダンと日本の人々から寄せられる同情に対しても感謝しています。私が小さかったころ、私の家族はヨルダンに住んでいました。そのため私は12歳になるまで、(ヨルダンの首都である)アンマンの学校に通っていました。だから、私にはヨルダンとヨルダンの人々に対して、特別な感情を持っており、多くの思い出があります。

==========

 

期限が過ぎた翌日の30日そして31日、何もなかったので、まだ希望があるかもしれない、と思えた。イスラム国は最初の要求を変えたし、その後、サジダ解放を繰り返し要求した。一直線ではなく、ジグザグと進んだ。

私の希望と裏腹に、後藤さんは処刑されていたのである。イスラム国は日本時間2月1日午前5時頃、ネットに公表した。

 

湯川さんの時と同様、動画による殺害シーンではなく、それぞれ一枚の写真だけなので、両人の死は確認できないとする説がある。

イスラム国を脱走した元イスラム国兵士が、間近からではないが、後藤さんに違いない人物が処刑されるのを見たと証言している。

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