たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

2005年以来続いているアサド政権転覆の陰謀

2018-07-31 23:39:00 | シリア内戦

シリアの最初のデモは2011年3月18日であり、以後11月末まで続いた。12月に武装反乱が始まった。この武装反乱はカタール・サウジアラビア・米国がシリアの反対派に武器を与えたことで可能になった。このことはよく知られているが、2011年のデモの背後にCIAがいたことはほとんど知られていない。デモに参加したシリアの市民の多くもそれを知らない。デモは自然に拡大したのではなく、拡大させようとした少人数のグループがいたのである。そしてそのグループは

CIAの支援を受けていた。2011年3月18日に始まったデモについて、アサド大統領は「これは外国の陰謀である」と繰り返し語った。デモに参加した多くの市民は陰謀について知らなかったので、「大統領は自分に抗議する国民がいることを認めたくないので外国の陰謀のせいにしたいのだろう」と考えた。そして世界中がそのように理解した。シリアの歴史に詳しい歴史学者だけが、「シリアで現在起きていることは米国の陰謀だ」と語った。私はダラアの3月ー4月半ばのデモについて調べているうちに、デモの中に少数の過激グループが存在することを知った。そしてCIAが彼らを支援しているという記事は真実かもしれないと思うようになった。

ダラアの秘密警察はダマスカスの秘密警察より残酷だったのは、彼らは外国に支援される陰謀に気付いていたため、最初から敵と戦っていたのである。デモに参加した普通のダラア市民は秘密警察と陰謀グループの戦いに巻き込まれたが、その自覚がなかった。

米国は2005年以来アサド政権転覆の陰謀をを続けていることをしらねばならない。

=====《米国は秘かに反体制派を支援》=====

US secretly backed Syrian opposition 、cables released by WikiLeaks

 <https://www.washingtonpost.com/world/us-secretly-backed-syrian-opposition-groups-cables-released-by-wikileaks-show/2011/04/14/AF1p9hwD_story.html?noredirect=on

      By Craig Whitlock

        ワシントン・ポスト 2011年4月17日

最近公開された外交通信によれば、米国の国務省はシリアの反対派グループを支援し、衛星テレビ局を通じてシリア政府を批判する内容の放送をシリア国内に向けて送っている。

ロンドンのバラダTVは設立当初から、シリアの独裁者バシャール・アサド大統領を倒す計画を持っていたが、最近バラダTVの活動が活発になっており、シリアでデモがあると必ずそれを放送している。

3月18日の最初のデモ以来、治安部隊の発砲により数十名の市民が死亡している。シリア政府はこれを武装集団の責任にしている。

バラダTVはロンドン在住のシリア反体制亡命グループと深い関係がある。米国の極秘外交通信によれば、2006年以来国務省は亡命グループに600万ドル渡し、バラダTVを運営させてきた。バラダTVという名前はダマスカスの中心部を流れるバラダ川に由来する。

2005年以来米国の資金がシリアの反体制派に流れている。2005年はブッシュ大統領がシリアとの外交関係を絶った年である。シリアの反体制派への資金援助はオバマが大統領になっても続けられた。一方でオバマ大統領はシリアとの関係改善に取り組んでおり、今年(2011年)の1月、6年ぶりに米国の大使がダマスカスに着任した。不可解であるが、オバマの最初の2年間、互いに矛盾する2つの政策が続いた。

ウィキリークが暴露した米国の外交通信には次のように書かれている。

「2009年シリアの情報機関が米国の進行中の陰謀について米大使館に問いただした。米大使館の職員たちは驚いた。職員の誰かが、『国務省はそのような作戦を中止するだろう』とシリア側に答えた。『そのような行為は我が国とシリアとの関係改善の努力を台無しにする』」。

このテーマで再び外交通信が送られた。国務省の高官のサインがある2009年4月の電文には次のように書かれている。

「米国による非合法団体への資金援助はシリアの政権転覆を援助するに等しい、とシリア政府は考えている。現在行われている、シリアの亡命グループおよび国内の反対制派への資金援助を中止することは生産てきである」。

現在(2011年4月)も、国務省がシリアの反体制グループへの資金援助を続けているのか、はっきりしない。しかし2010年9月までの資金が準備されていたことが外交電文からわかる。正確に言うと、この資金はシリアの民主化計画のものであり、すべてが反体制派に流れているわけではないが、間違いなく何割かは反体制派に流れている。ワシントン・ポストは計画の全容と関係者の名前を把握しているが、国家機密に関することであり、資金を受け取っている者の生命の危険があるので、公表できない。

現在シリアの各地でデモが起きており、これまで市民の死者の合計は数十人に達している。米国のホワイト・ハウスはこれを批判しているが、アサド大統領の辞任を求めてはいない。

バラダTVへの資金援助について書かれている外交電文の真偽について、国務省は質問に答えなかった。

国務省次官補であるタマラ・ウイッテは、中東局の民主化と人権部門の責任者であるが、彼女によれば国務省は政党や政治運動を支援していない。「我々は基本理念を支持しているのである。シリアやその他の国には、政権に改革を求めている多くの団体がある。我々が信じ、支持しているのは政治的な目標(アジェンダ)である」。

国務省は世界中で民主主義と人権の理想を普及させる計画に資金を提供しているが、反体制グループに資金を与えることはない、ということである。

2006年2月、米国とシリアの関係は最悪だった。ブッシュ政権は「シリアの改革派の運動を強化するため、500万ドル供与する」と発表した。

シカシシリア国内の反体制派はこれを受け取ろうとしなかった。そんなことをしたら、彼らは反逆罪で逮捕されたり、処刑されたりするからである。2006年米国大使館が送った電信には次のように書かれている。

「根っからの反体制派であっても米国から資金をもらう勇気はないだろう」。

ちょうどこの頃、ヨーロッパに亡命しているシリアの反体制派が「正義と発展の運動」を結成した。このグループはアサド大統領の罷免を明言しており、シリア国内では非合法である。米国の外交通信はいつも彼らを穏健で自由主義的なイスラム主義者と呼んでいるが、彼らは以前ムスリム同胞団に所属していた。

 

     〈バラダTV〉

「正義と発展の運動」がいつから米国の資金を受け取っているのか、わからない。しかし外交通信によると、2007年米国の外交官が反アサドの衛星放送の設立を思いついたことがわかっている。しかし「正義と発展の運動」とバラダTV関係者は米国からの資金援助を否定している。バラダTVの報道部長(Malik al-Abdeh)に電話で質問すると、彼は「そのような話は聞いたことがない」と答えた。「我々は独立のシリア人実業家たちから資金を得ている」。アブデー報道部長は彼らの名前を言わなかった。彼は「バラダTVは『正義と発展の運動』とは関係がない」としながら、それの政治部門の委員であることを認めた。委員長は彼の兄弟アナス・アブデーである。電話の最後にアブデー報道部長が言った。「バラダTVの評判を落とすのが目的なようなので、これ以上話しても無駄だ。電話を切らせててもらう」。

反体制派の人たちは言う。「バラダTVの視聴者は増えているが、アルジャジーラやBBCアラビア語放送などの衛星放送と比較にならないほど少ない。24時間放送だが、ほとんどが再放送だ。人気番組は『変革に向かって』という討論番組と、米国在住の亡命グループ制作の『最初の一歩』」。

 

ロンドン在住のシリア反体制派であるオサマ・モナジドはバラダTVの番組製作者であり、「正義と発展の運動」のメディア向けの広報の責任者だった。しかし彼はこの一年間どちらの仕事もしていない。彼は現在革命運動に全精力を注いでおり、現在シリアで起きているデモの様子を撮影したビデオと最新情報をジャーナリストたちに渡している。

彼は言う。「米国がバラダTVを支援しているとは思えない。私はバラダTVの経理については何も知らないので断言はできない。少なくとも私自身は米国の資金を受け取っていない」。

しかしシリアの亡命グループが米国から資金を得ていることは、ダマスカスの米国大使館が送った複数の電文から明らかである。国務省の「中東パートナシップ・イニシアチブ」という計画がこれを担当している。国務省はロサンゼルスの非営利団体「民主主義協議会」を通じてシリアの亡命派に資金を流している。「民主主義協議会」のウエッブ・サイトには次のように書かれている。

「民主主義協議会の目的は中東・アジア・南米において安定した社会を建設するため、信念ある人々を支援することである」。

2009年4月のダマスカスの米国大使館の電文によれば、「民主主義協議会」は国務省から630万ドル受け取っている。この資金はシリア関連のプロジェクトの費用であっる。プロジェクト名は「市民社会強化イニシアチブ」というもので、その活動は「民主主義協議会」とシリアのパートナーが個別の目標で協力し、例えばメディアの可能性を追求することである。大使館の別の電文によって「メディアの可能性」の一つ がバラダTVであることがわかる。

 

      〈国務省の資金の使われ方〉

国務省の報道官エドガー・ヴァスケスによれば、2005年以来、中東パトナーシップ・イニシアチブのシリア・プロジェクトに750万ドル出費した。しかしダマスカスの米国大使館の電文によれば、使われた金額はもっと多く、2005年ー2010年の期間に約1200万ドルである。

また大使館の電文には、シリアの保安機関がワシントンからの資金の流れを突き止めるかもしれないという恐怖が、繰り返し語られている。2009年の電文には、シリアの情報機関が多くの人に「中東パトナーシップ・イニシアチブ」について尋問している、と書かれている。

また米国の外交官は警告した。「シリアの情報機関は通信を傍受し、『正義と発展の運動』の活動を把握しているかもしれない」。2009年6月の電文には、『正義と発展の運動』がシリア国内の組織を拡大しようとしていたが、この動きはシリアの情報機関に筒抜けだった。『正義と発展の運動』のロンドンとシリアの間の通信は暗号を使わなかったからである。米国の外交官は「この作戦は穴が開いた船で出発したようなもの」と述べている。ロンドン在住のシリア人亡命グループとロサンゼルスの「民主主義協議会」と関係についても、シリアの情報機関が既に知っていることは確かだった。その結果、シリアの反体制派への援助計画は破滅した、と米国の大使館員たちは嘆いた。

「正義と発展の運動」の通信内容がシリアの情報機関に筒抜けだとすれば、そのメンバーが逮捕される危険がある。シリアは一斉逮捕の時期をうかがっているだろう。

==============(ワシントン・ポスト終了)

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シリア内戦はエジプト革命と違う

2018-07-21 23:09:17 | シリア内戦

 

エジプトではムバラクの独裁体制が30年以上続いていた。

20111月に始まった民衆革命について、ウィキペデイアから抜粋する。

=======《エジプト革命》=========

2011年1月、ムバラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。2月11日、ムバーラクは大統領を辞任した。翌年(2012年)5月から6月にかけて大統領選挙がおこなわれ、ムハンマド・ムルシーが当選した。同年6月30日の大統領に就任した。

人民議会選挙の選挙は大統領選挙の5か月前(3011年末)におこなわれ、イスラム教系の政党が躍進した。3012年1月23日に議会が初召集された。しかし6月14日、最高憲法裁判所が選挙法に不備があり3分の1の議員について当選を無効と認定した。これに伴い議会は解散されることとなり、軍最高評議会は立法権掌握を宣言した。こうした動きは司法を利用した軍によるソフトクーデターとの批判も行われた。

=================(ウィキペデイア終了)

 

エジプト革命は不完全な勝利に終わった。軍最高評議会が立法権を確保したからである。武力を握る軍部が、立法権を有するなら軍部による独裁の継続は可能である。国民によって選ばれたのは大統領だけであり、軍部は権力を部分的に手放したにすぎない。このように革命の成果は不完全だったとはいえ、大統領が国民によって選ばれたことは国民にとって一歩前進である。何よりリビアのような内戦にならず、平和的に野党候補が新大統領に選出されたことは評価すべきである。

シリアはエジプトのようにはならなかった。2011年末までシリアでは大規模なデモは起きず、アサド大統領は辞任の必要を感じなかった。2012年になって武装反乱が始まり、悲惨な内戦に突入した。

エジプトには言論の自由があり、労働運動も活発である。こうした政治環境を背景に、2011年1月、1万-2万人のデモが起きた。これに対し政権は高圧的な対応をしたので、再び同規模のデモが起きた。これが数回回繰り返された後、21日には20万の市民が首都に集まり政府に抗議した。その結果ムバラク大統領は辞任した。

しかし大規模な抗議運動によって得た成果は限定的だった。最初に書いたように、軍部が立法権を手放さかったからである。アラブ世界においてはこれが限界なのである。

シリアのアサド政権が民主的でないからといって、暴力革命を起こすのは現実無視である。目的を達成できないだけでなく、現在より悪い状態に転落してしまう。

ヨーロッパの民主的な国々も暴力革命を経験してきたが、ほとんどの革命が短期間で終わっている。暴力革命は民主主義もたらす契機に過ぎず、民主主義は経済発展とともに時間をかけて徐々に達成されたものである。比較的残酷だったフランス革命も真の民主主義をもたらさず、革命後実権を握ったのは富裕な市民である。都市の貧民と地方の農民は捨てられた。フランス革命は5年続いたがこの間戦闘が続いたわけではなく大部分政治的な闘争だった。ロシア革命はヨーロッパの革命と異なり、内戦が5年続き多くの死傷者が出た。また経済破綻が著しかった。ロシア革命においては国民の犠牲があまりに大きく、ロシア革命は避けるべき革命の手本となっている。シリア内戦も悪しき革命の手本となってしまった。

 

2011年のエジプト革命は中途半端なものに終わったが、エジプトの地中海沖に天然ガスが発見されており、経済が大きく好転するだろう。経済発展とともに政治改革がおこなわれ、平和的に民主主義へ移行するだろう。

シリアにはそのような幸運がないので、自力で経済発展する以外にない。シリアは古い歴史を持つ国であるが、小さな国である。1945年のシリアの人口は500万人だった。シリアは北欧の小国スエーデンを見習い、最先端技術による産業を発展させるべきだった。第2次大戦後シリアは欧米の敵国だったため、欧米の先進技術を取り入れる機会を失った。トルコから独立したアラブ諸国においてアラブ民族主義は神聖な理念であり、アラブの土地を奪ったイスラエルを滅ぼすことは義務だった。欧米はイスラエルの後見人であり、アラブの敵であった。シリアに安定をもたらしたハフェズ・アサド大統領は理念にとらわれない現実主義者であり、パレスチナ問題の現実的な解決をを模索していたが、イスラエル・欧米との和平には至らなかった。

欧米との経済交流がなかったことはシリアの経済発展を遅らせ、2012年の内戦の原因となった。シリアは石油の増産と農地を増やすことによって経済成長してきたが、1990年代後半の干ばつにより、新しく農地となった場所は不毛の地に戻った。破産した農民は都市の郊外や南部の農業地帯に流れ、極貧層を形成した。2011年のデモの参加者の何割かは彼らである。もちろんデモを指導したのは、昔からの反体制派とアラブの春と呼ばれた革命イデオロギーに共感した熱狂的な若者たちである。彼らだけでは人数が少なく、デモやってもさみしい結果に終わる。実際ダマスカス市内のデモはそうなった。ただ都市の郊外や農村には貧困に苦しむ人々がおり、それなりに人が集まった。

シリアの経済成長を支えてきた石油は枯渇に向かっており、減産に転じる日は近い。最近ゴラン高原で石油が発見されたが、1967年以来イスラエルが占領している。ゴラン高原を奪回しない限り石油はシリアのものにはならない。1967年の戦争でシリアがイスラエルに敗北したことが悔やまれる。現在シリアには経済発展の展望がない。

 

 

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シリアとエジプトの違い 2011年3月9日

2018-07-03 23:32:51 | シリア内戦

 

2011年シリアの首都ダマスカスではデモは起きず、2012年以後の武装反乱においても、武装グループの支配地となることはなかった。シリア内戦を理解するうえで、ダマスカス市民がアサド政権を支持していたことを忘れてはならない。シリア内戦は地方の反乱だったのである。シリア第2の都市アレッポと第3の都市ホムスにおいても大規模デモは発生せず、デモが武装反乱に移行したとは言えない。シリア内戦は大衆運動を背景にした革命ではなく、大衆の支持が少ない状態で始まった武力革命である。多数の市民のデモが武装反乱に移行したのはダラアだけである。シリア全体として見ると、2011年の平和な大衆デモは低調に終わり、2012年になって武装闘争が始まったのである。エジプトでは大規模な大衆デモによって、平和的に新政権が誕生した。シリアはエジプトと非常に違う。2011年シリアでは革命と呼べる大衆運動は起きなかった。

米国バージニア州のジョージ・メイソン大学の教授はシリアとエジプトの違いについて書いている。シリアという国の特徴がよくわかる。

 

======《シリアで革命が起きない理由》=====

 Why Syria is Unlikely to be Next… for Now

           By Bassam Haddad

      Arab Reform Bulitin  201139

Carnegie Endowment for International Peace 

http://www.carnegieendowment.org/arb/?fa=show&article=42936&utm_source=Arab+Reform+Bulletin&utm_campaign=03474a3dc6-ARB+Weekly+%28English%29&utm_medium=email

 

アラブいくつかの国では、数万の国民が変革と新政権の誕生を求め、デモをしている。しかしアラブの中でも豊かな産油国ではこうしたことは起きていない。シリアは貧しい国であるが、大きなデモは起きていない。シリアはアラブの強国であるが貧しく、国民は多くの不満を抱えている。シリアの国民はチュニジアのような圧政とエジプトのような貧困に苦しんでいるにもかかわらず、怒りの声をあげない。

シリアの統治権力はヨルダンやモロッコのように世襲制であり、支持基盤は国民の10%に過ぎない。それでもシリアの大衆運動は低調である。なぜだろう。政府を批判した者には残酷な制裁が加えられる。その恐怖が抑止となっていることは確かである。しかし事情はもっと複雑である。

自国民に対する暴力は多くの場合不満を黙らせる手段として有効であるが、常に危険をはらんでいる。一か八かの賭けであり、一歩間違えばすべてを失うことになる。

 

       〈シリアとエジプトの違い〉

シリアのメディアが伝えることを見れば、またシリアについての報道を見れば、シリアの人々が近隣のアラブ国民の不満に共感していることは明らかである。そしてシリアでも24日デモが計画された。この日を「怒りの日」と呼び、参加を呼び掛けた。しかし集まった人数はとても少なかった。それでも警官は彼らを規制し、なぐった。最近の数週間も、時々デモが起きている。これらのデモは政権の打倒を叫ぶものではなく、エジプトなどの場合と比較にならないほど小規模だった。

エジプト国民は言論の自由、表現と団体運動の自由、完全に自由な多数政党制を獲得している。元祖イスラム原理主義グループであるムスリム同胞団さえ公認されている。もっともムスリム同胞団の中核は革命組織であり、政党は外郭団体に過ぎないが。このようにエジプトの社会は自由だったため、国民の抗議運動は大胆だった。

エジプトと違ってシリアには政治的自由が存在しない。130日アサド大統領はウォール・ストリート・ジャーナルとの対談で「シリアはエジプトとは違う」と述べた。彼が意味したこととは逆の意味で、これは正しい。アサドは国民から政治的自由を奪っておきながら、国民が自分を批判しないので、自分は国民に支持されていると錯覚していた。

ムバラク政権はシリア同様抑圧的だったが、エジプトの社会は自由で開かれていた。自由な新聞と複数の政党があり、最近10年間政治活動は活発だった。政治活動家は支持者を増やし、各種のネットワークを利用して動員をかけた。時間とともに大衆運動が拡大し、幅広い層の国民が大衆運動に参加した。20042010年、中規模ないし小規模の労働運動が全国で発生した。過去10年の間に、大衆運動を指導する人物やグループが登場し、彼らは大きな政治力を持つようになった。こうしてエジプトの大衆運動は極めて活発になった。これはシリアと対照的である。シリアには自由な大衆運動は存在しない。

シリアでは富裕層と貧困層の2極化が進み、極貧層が増えていたが、経済的なセーフティーネットが存在しなかった。シリアの社会経済状況はエジプトより悪かった。また政治によって生まれた貧困もある。長年のバース党政権カ下で政権と結びついた人びとは優遇され、それ以外の人びとはうち捨てられてきたため、現在両者は分断されている。シリア国民の多くが貧困に耐え、政権に不満を持っている。それなのに、なぜシリア国民の不満が爆発しないのだろう。

エジプトは単一民族であるのに対し、シリアは多民族・多宗派の複雑な社会である。さらにシリアの場合、地方の独立性が温存されており、国家統合が不完全である。このようにシリアの社会は多様で分断されているので、国民がまとまって不満を表明することがない。シリアで革命を起こすことは難しい。政権によって弾圧される恐怖も大きいので、シリア国民はおとなしくしている。

 

    〈シリアがチュニジアやリビアと違う点〉

チュニジアには自由な政党が存在せず、反体制的な政治活動が過酷に弾圧される点でシリアと似ている。にもかかわらずアラブの春と呼ばれる民衆革命はチュニジアから始まった。シリアの場合、政府・政党・軍が独裁者と密接に結びついており、それぞれが単独で反乱を起こせないようになっている。現大統領の父ハフェズ・アサドは統治機構のすべてに信頼できる者を配置した。それに対し、チュニジアの軍と警察は大統領からある程度独立していた。そのため軍と警察はベン・アリ大統領を切り捨てた。シリアではこのようなことが起きない。ハフェズ・アサドは空軍の将校であり、軍の実力者である。彼は軍に依拠して大統領になったのである。

リビアもチュニジアと同様であり、統治機構が反乱側に回った。カダフィは国家の頂点にあると思い込んでいたが、政府・政党・軍・経済人との関係が緊密ではなく、彼らは危機に際しカダフィと運命を共にする気がなかった。

これと対照的に、シリアの独裁者は宗派を超えたビジネス階級を支援してきた。これらの経済人の多くはダマスカスの伝統的な商業地区の出身者だった。従ってダマスカスで反乱が起きることはない。もしシリアで反乱が起きるとすれば、北部においてだろう。

 

     〈シリアの対外政策〉

 米国とイスラエルは中東で残酷な行動をしてきたので、アラブの民衆は両国を憎んでいる。シリアは米国とイスラエルに抵抗してきたので、正統な国家と理解されている。特にシリアがヒズボラとハマスを支援していることは、高く評価されている。ヒズボラとハマスはアラブの抵抗のシンボルである。親米的なアラブ諸国の指導者はアラブ世界で評判が悪く、反対にバシャール・アサドは非常に人気がある。

しかしながらアサド政権に対する国内の不満が解消されるわけではない。エジプトの民衆がムバラク政権に怒りを示したのは、彼の親米的な政策とイスラエルとの共謀が原因ではない。アラブ世界は新しい時代に入っており、親米的な政権も米国の影響から脱し、自立へ向かっている。そのためエジプト国民の不満は外交政策にはなかった。

エジプトの民衆がアラブ民族主義を重視していることに変わりはないが、かれらが求めたのは国内における民主政治の実現である。国民の声が政治に反映する社会を求めたのである。エジプトを始めアラブの新しい波はシリアに影響を与えずにはいない。これまで成功してきた恐怖政治が通用しなくなるかもしれない。

==================(カーネギー終了)

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