たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

ダマスカス近郊で死者4名 2011年4月1日

2017-04-25 23:21:32 | シリア内戦

4月1日、ダマスカスのデモで4人の死者が出た。首都のデモで死者が出ることの意味は大きい。ただし、死者が出たのはダマスカス市内ではなく、郊外の町ドゥーマにおいてである。デモの参加者の人数は多かった。2012年以後の内戦中ダマスカス市内は平和だった。しかし反政府軍が市を取り囲み、ダマスカスの郊外は激戦地となった。2013年8月にはサリン攻撃が起きた。米政府は多数の証拠を提示し、政府軍がサリンを使用したと断定したが、シリア政府とロシアは、サリンを使用したのは反政府軍であると反論した。その後米国内でも反政府軍が真犯人であるとする説が根強く残った。

シリアのデモは2011年の3月18日に始まった。最初にデモが発生した都市のうち、ラタキアやバニアスではデモが弾圧されて終わり、2012以後強力な反政府軍は存在しなかった。両都市は内戦の間、平和だった。早い時期にデモが起き、しかも後の内戦期に激戦が繰り広げられたのは、ダラア、ホムス、ダマスカスの郊外である。

=======《Many arrested in Syria after protests》=====

                  Aljazeera    2 April 2011

4月1日、ダマスカスの郊外のドゥーマで、金曜礼拝の後、数千人の市民が街頭に集まり、政府に抗議した。2日前(3月30日)アサド大統領が改革を約束したが、ドゥーマの人々はこれを信じなかった。

治安部隊は催涙弾と警棒でデモを解散させようとしたが、効果なく、次に実弾を発射した。目撃者によれば、少なくとも4名の市民が死亡した。

しかしシリア国営テレビによれば、市民の死は治安部隊の発砲が原因ではない。建物の屋上に武装グループがおり、彼らは市民と治安部隊の双方を銃撃した。数人の市民が死亡したが、正確な人数は不明である。数十人が負傷した。負傷者には、数人の警察官が含まれる。

デモの中に海外メディアを意識して行動した者がいる。衣服を赤く染めて、負傷したと偽る者がいた。国営テレビは、海外メディア向けの偽の宣伝を批判した。

3月18日以来、市民の死者は60名を超える、と活動家が述べた。

==========================(アルジャジーラ終了)

ドゥーマのデモについて、CNNはデモ参加者の証言を紹介している。治安部隊の対応がよくわかる。また死者の数を6名としている。    

====《Protests ripple across Syria; at least 7 dead》====

         From Rima Maktabi and Salma Abdelaziz, CNN

4月1日、ダマス郊外のドゥーマのデモで、6名の市民が死亡した。目撃者と反対派の話によれば、治安部隊がデモに発砲した。

ドゥーマの中心に位置するモスクに数千人の市民が集まった。治安部隊は電気警棒・催涙弾・実弾で彼らを攻撃した。「私はこのように恐ろしい場面を見たことがない。部隊は少しのためらいもなく、群衆に向けて発砲した」と目撃者の一人が語った。彼自身も電気警棒で頭を殴られ、6人の死者と一緒に病院に運ばれた。病院には数十人の負傷者がおり、多くが重症者だった。

「6名が病院の死体安置所に運ばれるのを見た」と住民が語っている。ある市民は、頭をゴム弾で直撃された。数十人が負傷した。

一方シリア国営放送は、武装グループが治安部隊と市民の双方を銃撃した、と伝えた。またデモ隊と治安部隊との衝突はなかったと伝えた。

同じくダマスカスの郊外のクファル・スーサでも50人以上が負傷した。治安部隊がモスクを取り囲み、中にいる人々が孤立した。治安部隊はモスクの中に向けてゴム弾を撃った。その後人々を激しく殴り、負傷した人々を治安本部に運んだ。

 ダラア県北部のサナメン市でも、デモの市民が一人死亡し、10人が負傷した。

  

 

    

ダラア周辺の町や村から、数千人の市民がダラアの近くに集まり、北のサナメン市に向かって行進した。サナメンの入り口付近の軍の検問所に到着した時、市民の数は2万5千人に増えていた。彼らが検問を無視してサナメンに入ろうとしたとき、1000人の武装した部隊が発砲した。

その場にいた市民がCNNに電話で話した。「撃たれた人の血が私のシャツにかかった。私たちは負傷者の世話をした」。電話の向こうで救急車のサイレンが鳴っていた。

それでもデモの人々はその場を去らずに、サナメンに入る許可を求めていた。発砲は中止され、抗議する人々は兵士たちに訴えた。「市民と兵士の心は一つです!我々はダラアの市民を見捨てません!」

中部の都市ホムスと北東部カミシュリでも、それぞれ数千人のデモがあった。

 

政府に批判的な活動家たちは、政治と経済の両面で多くの不満を抱えている。またここ数日、アサド大統領に対し怒っている。

3月30日の演説で、大統領は戒厳令の廃止を宣言しなかった。また一般市民の訴えに理解を示さなかった。

大統領の演説が不評だったこと気づき、政府は翌31日戒厳令の廃止を検討する、と発表した。また市民と治安部隊の死の原因について調査すると約束した。死者が多かった2地域について調査するため、大統領は委員会を立ち上げるよう、最高司法会議に命じた。

戒厳令の廃止を検討する委員会は権威ある法律家たちによって構成され、4月25日までに結論を出す、と国営放送は伝えた。戒厳令の廃止は、シリア各地でのデモの主要な要求だった。政治警察は法律の制約なしに国民を逮捕し、拷問のレベルと処刑を自分の判断で決めた。人権監視団の中東部長サラ・ウィンストンが語る。「政権が国民の信頼を回復したいと考えるなら、政治裁判所をすぐに廃止し、言論と集会の自由を否定する法律も即刻廃止すべきです」。

======================(CNN終了)

3月30日の演説によって、大統領は国民の不満を理解していないことが明らかになった。大統領の側近は国民の不満を敏感に感じ取っており、3月18日以来柔軟な対応に勤めている。しかし抗議する市民と政権の意識の隔たりは大きく、デモは徐々に拡大していった。特に最大の震源地であるダラアでは、3月末まで市民の側に多くの死者が出てしまったので、政権と反対派の溝は深まってしまった。ここまで悪化したした原因は、ダラアの政治警察が革命グループの存在を疑ったからである。そしてその疑いは正しかった。ほとんど知られていない3月11日のデモは住民の請願だったが、3月18日以後のダラアのデモは、シリア革命を目的とするグループが大きな役割を果たしていた。ダマスカスの指導部が事態を鎮めようとしても、地元ではダラアの政治警察と革命グループが妥協の余地のない戦いをしていた。革命派の目的は結局政権の打倒なので、政権には彼らとの妥協という選択肢はない。少数の革命グループと怒れる一般市民は別だという信念のもとに、一般市民に対しこれまでの乱暴な対応を謝罪し、大幅な譲歩するしかない。一般市民の信頼を得ることにより、少数の革命派を孤立させる以外にない。

しかしこれは非常に難しい。市民は政治警察の残酷さを長年の経験で知っているいるが、革命グループの危険性については想像できない。

多くの一般市民が革命グループを支持している段階で、3月23日ダラアの政治警察はモスクの掃討作戦をやり、多くの市民を殺害してしまい、ダラア市民との溝を深めた。モスクを占拠する陰謀グループとの妥協はない、という政治警察の判断は正しかったが、陰謀グループは一般市民と一体だったため、事態を悪化させてしまった。

大統領就任時の人気は陰りを見せていたが、まだアサド大統領に対する期待は消えておらず、モスクの掃討作戦を延期して、一般市民を信じ、ひたすら譲歩すべきだったかもしれない。しかしモスクに戦闘用の武器が隠されている疑いがあったので、放置することはできなかったようである。

大統領の周囲には、情勢を的確に把握している穏健派がいたが、デモの中に武装反乱を準備している 者がいたなら、政権内の強硬派を抑えることはできなかっただろう。

チュニジアとエジプトの革命の成功により、シリアの若者の間で革命の機運が高まっていたが、シリアの大都市の富裕層と中産階級はシリアの安定を評価しており、政権の支持基盤はしっかりしていた。一方で下層階級の貧困は深まり、拡大していた。これは社会の安定を脅かす危険な要素であり、少数の革命グループにとって有利な状況になっていた。火をつければ燃え上がる状況だった。ダラアの政治警察は、革命グループを危険な存在と敵視しながら、貧困の問題を軽視した。

 

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アラブの貧しい国、シリア

2017-04-13 23:28:36 | シリア内戦

     

内戦前、シリアの経済は最悪という状態ではないが、貧困が増えていた。貧困の主な原因は人口増加である。現在シリアの人口は2200万であるが、第2次大戦後は320万であった。

現在の人口が1500万なら、貧困問題も緩和され、経済的観点からは、内戦が起きる原因が消えていただろう。シリアの政権は、戦後から1990年まで人口増加政策を続けた。これは大きな誤りだった。2005年シリアの国民一人当たりのGDPは224国の中で151位である。最貧国に近い。

    Demographics of Syria wikipedia

 

 

 

     年

人口

±%

1937

2,368,000

—    

1950

3,252,000

+37.3%

1960

4,565,000

+40.4%

1970

6,305,000

+38.1%

1980

8,704,000

+38.0%

1990

12,116,000

+39.2%

1995

14,186,000

+17.1%

Source:Onn.Winkler

 

 

シリアはもともと、それほど貧しい国ではない。湾岸の産油国のような豊富な油田はないが、自国の消費を賄える程度の油田がある。シリアは昔から農業国であり、食糧を自給している。またシリアは古い歴史を持ち、世界有数の歴史遺跡遺産と遺跡を持ち、観光収入がある。しかし残念ながら他に輸出産業がなく、自由貿易に乗り出したとき、外貨の稼ぎ手が観光だけでは、足りない。

         シリアのGDPにおける各分野の割合  2009年

             (シリア中央銀行発表)

①工業と石油などの天然資源 25%    ②小売り 23%

③農業 22%    ④観光 12%

ソ連が崩壊し、経済が破綻すると、ソ連圏のすべての国は経済危機に陥った。これらの国はソ連経済に結びついていたからである。これらの国は否応なく、自由主義諸国に助けを求めざるを得なかった。経済再建のため新たな投資を必要とし、また貿易による発展を求めて、これらの国は自由主義経済に移行した。シリアも同じ道を歩んだ。シリアの自由主義経済への移行は緩やかだっとはいえ、公企業の削減と私企業の成立の過程で失業が発生し、貧富の差が拡大した。これに加え、2007年・2008年の干ばつにより、東北部の農民の多くが破産し、流民となった。

貧困問題はシリア内戦の主な原因となったが、もう一つ重要な原因があった。警察国家への憎しみである。政治警察は法律の制約なしに市民を逮捕し、拷問・殺害した。そして偶然的な外部要因であるアラブの春が2つの不満を爆発させた。シリア内戦の原因は何か、という質問に対し、「アラブの春」と一言で答えた人がいた。アラブ圏内の世論は無視できない影響力を持っている。

また外国勢力がアラブの春の熱狂を利用し、反乱を引き起こした可能性もある。シリアの政権は一貫してそのように主張している。

アラブ諸国は親米か反米かで、2つに分裂していた。サウジアラビアと湾岸の君主国は親米国家であり、エジプトも親米に転じた。米国と敵対していたイラクのサダム・フセインは処刑され、反米国家はリビアとシリアだけになってしまった。2011年リビアとシリアとで起きた反政府運動は、民主化という観点だけで説明することはできない。この2国は、他のアラブ諸国と異なり、欧米に敵対していた。

今回は、アラブ内で孤立しているシリアについての記事を紹介する。著者はベルギー人で、3年間エジプトに滞在し、その間アラブ諸国を訪問している。彼はエジプトを厳しく批判し、シリアに好感を持っている。

 =====《Analysis of events of syria》=========

         by    Kris Janssenn

                               2011年4月30日   

カイロに滞在した3年間、私は、中東・北アフリカ諸国を訪問したが、国民の大部分が極端に貧しいことに気付いた。これらの国々で起きていることを理解するためには、貧困と社会的不正を念頭に置くことが必要である。エジプトには富があり、裕福な人もいるが、昔も今も富と権力はごく少数のエリートに集中している。政治的なエリートは同時に経済的なエリートである。両者の境界は消え、政治権力と経済力を有するのは同じ人間である。これらの富裕なエリートととは対照的に、一般の民衆は過酷な極貧の中にいる。エジプト国民の40%は、国連が定めた貧困水準(1日2ドル)以下の生活をしている。

シリアの状況は全く違う。シリアの政権は過度の社会的不平等と貧困を避けようと努めてきた。生み出された富が公正に分配される仕組みと方法を設定し、働く意思のある者に就職の機会を与えた。貧富の差を緩和するため、健康保険・教育・住居を国民に提供した。団結と正義の精神に基づき、進歩的で社会主義的な労働法を制定した。中東・北アフリカの多くの国々と異なり、シリアの社会は独立以来国民の団結を大切にしてきた。シリアは湾岸諸国のように豊富な資源(石油・天然ガス)を持たなかったが、比較的公正な社会を実現してきた。困難な時期にも粘り強く、勤勉によって目標を達成してきた。

シリアは多宗派・民族国家であるが、日々の生活においてそれぞれの出自は問題とされない。ムスリムであるか、キリスト教徒であるか、またはパレスチナ人であるかは、どうでもよい。あらゆる階層の人々が混合している。出身の宗派・民族を強調したり、質問することは不適切、またはタブーとされた。例えば、パレスチナ人はシリア国民としての市民権を与えられた。健康保険が適用され、パスポートを渡された。他のアラブ諸国に居住するパレスチナ人はこのような待遇を受けられない。

シリアは相手を尊重する社会である。シリアの人は差別、憎しみ、ファーナティズム(狂信)を嫌う。またサウジアラビアがそうであるように、異なる社会集団を見下すようなことはない。サウジアラビアの国民は、厳格で非寛容なワッハーブ主義に従うことを要求される。

シリアの社会を知る者にとって、現在シリアで起きている反乱が国内的な要因によるものでないことは、明明白白だ。外国の陰謀による破壊工作以外の何物でもない。彼らの唯一の目的は、欧米帝国主義に反抗したシリアを処罰することである。最後に残ったアラブ民族主義の国家を叩き潰すことである。

現在起きていることは、過去の歴史と無関係ではない。

シリアは1963年の革命以来、アラブ社会主義の道を歩んできた。特にハフェズ・アサドが政権についた1970年以後、これを国家の基本理念とした。シリアがこの理想にいかに忠実であったか、その例は多数ある。

またシリアはパレスチナ人の主張を常に支持してきた。シリアの土地がイスラエルによって奪われており、パレスチナ人と共通の経験をしている。1967年イスラエルはゴラン高原を占領した。

1975年ー1990年のレバノン内戦の時、シリアはレバノンを支援した。

イラクがイランを攻撃した時、シリアは道義的理由から、誕生したばかりのイラン革命政府を支援した。1980年に始まったイラン・イラク戦争は1988年まで続いた。シリアもイラクもアラブの国家であり、イランを支援することは仲間を裏切ることだった。シリアはこれを秘密にしようとしたが、これを知ったアラブ諸国、とりわけ湾岸諸国から厳しく批判された。

1990年イラクがクェートに侵攻した時、シリアは強い調子でイラクを非難した。

2003年3月米国がイラクに侵攻した時、破局的な結果を予言し、これに反対した。シリアはイラク避難民の多くを受け入れ、150万の難民に安全、居住施設、医療、教育を提供した。シリアは天然資源に恵まれた豊かな国ではないが、隣国の国民の救済に努めた。

 

欧米がアラブに干渉しようとする時、シリアは防壁の役目を果たした。シリアは一貫して次のように主張した。「アラブの土地と資源はアラブのものであり、アラブのもめごとはアラブ諸国が自分たちで解決すべきである」。

例えばパレスチナのハマスとファタハが争った時、シリアは干渉せず、どちらの側にも立たなかった。両者に施設と援助を与え、彼らが和解するよう促した。

こうしたシリアの汎アラブ主義と反欧米帝国主義の姿勢は、数十年一貫したものだった。これが欧米列強を怒らせ、復讐を決意させた。欧米列強と同盟関係にあるアラブ諸国は、欧米に同調した。欧米列強にとってシリアは罰せられるべきだったし、できることなら破壊されるべきだった。列強と同盟関係にあるアラブ諸国は、国民に支持される政策を持たず、他人に操られる人形のような政権である。もっとも典型的な例は、エジプトのムバラク大統領であり、イスラエルに対し屈従的な彼の姿勢は、国民から軽蔑され、非難されている。

シリアがアラブ民族の自決の権利を放棄し、外国勢力に屈従を約束すなら、シリアとシリア国民に対する侵略は即座に停止するだろう。

現在シリアで起きていることは外国の謀略の結果である。その証拠は、国際メディアの報道内容である。アルジャジーラ、BBC、CNN、アル・アラビーヤなどが、可能な限りあらゆる手段を使って嘘の報道をしている。恐ろしい話や映像により、国民に反乱をけしかけ、シリアについて誤った印象を世界に発信している。チュニジアやエジプトで撮影された映像を巧妙に修正し、シリアで起きたこととして放送するなど、これらの報道機関はためらいもなく事実を改ざんしている。

このような虚偽報道によるプロパガンダ作戦は、欧米のダブル・スタンダードを際立たせている。2006年イスラエルがレバノンを爆撃し、住民のインフラを破壊した時、国連の安保理事会と欧米は、これを議題にしなかった。

2008年12月ー2009年1月のガザ戦争の際、イスラエルの爆撃により、1500人が死亡し、5000人が負傷した。この時も何の反応もなかった。イスラエルのシオニストが50年間近隣のパレスチナへの侵略を繰り返した時、国際社会と国際メディアはこの世に存在しないかのようだった。

湾岸の小国バーレーンのデモが残酷に弾圧されていることは何故報道されないのだろう。米国の第5艦隊の寄港地だからだろうか。サウジと湾岸諸国の軍隊が、バーレーンのデモを信じられないほど冷酷に鎮圧していることは、誰も知らない。欧米諸国はバーレーン国民の団圧を承認し、支援しているからだ。

シリアは10年以上前に改革に着手し、現在も急ピッチで改革を行っている。シリア政府は経済を近代化し、世界経済に適応させるのため、広範囲におよぶ措置をとった。しかし社会と経済を変革するためには時間がかかる。魔法のような方法は存在しない。失業問題の解決は複雑な過程を経なければならない。失業問題はシリアだけの問題ではなく、世界の多くの国が抱えている問題である。ヨーロパも米国も失業率が高い。数週間や数か月でこれを解決できる政府はない。真の改革をするには、何年もかけて新しい枠組みを導入し、その後それを検証し、時間をかけて適正なものにして行かなければならない。

シリアの民主化は急速に進められたので、急に自由になったメディアは、無制限なまでに活発になった。そのなかで人権問題が大きく取り上げられるようになった。シリアは多数政党制であるが、実際には社会主義的なバース党が支配的であり、国民の日常生活を管理し、制限している。

一党独裁は改めるべきであるが、改革と冒険主義は別物である。他国の改革の例で実証された確実な道を進むのではなく、無政府的な混乱に突き進むなら、無法と暴力が支配することになるだろう。これまで不自由だが市民生活は存在した。それさえも失われるだろう。

シリアの政権は経済の自由化を推進してきた。政治的改革にも着手した。これを続けることが着実な改革の道である。冒険に走ることに意味があるだろうか。

==================(Kris Janssen終了)

 

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シリアの経済 中東政策会議③

2017-04-05 23:38:59 | シリア内戦

 

中東政策会議が発表した「シリアの経済」は、統計上の数字を中心に話を進めながら、内戦前のシリアの現実をよく描いている。

「バース党社会主義の下で、多くの国民が社会的格差を経験した。しかし自由主義的改革の開始はこの格差をさらに広げた」。

また単に失業率が10%を超えると書くだけでなく、偶然的要因をも書いている。

2006年イラクから避難民が移住し、低賃金労働の就職のための競争がますます激化した」。

長い文章なので、3回に分けて、訳した。今回が最終回である。

======《シリアの経済:現実と課題③》=======

       2011年夏  Middle East Policy Council

      The Political Economy of Syria: Realities and Challenges

              by  Bassam Haddad

国民の生活水準は向上していない。最近5年間国富は増えたが、多くの国民はその分け前を得ていない。このことは統計が示しているし、2011年の3月と4月のシリアの都市や町の様子からもわかる。国民一人当たりのGDPを示す購買力は4年前の3,999ドルから4,574ドルに増えた。しかしこの数字はGDPを人口で割ったものにすぎないので、増えた分が国民にどのようにに分配されているかを示していない。2005年以後シリアの貧困率は10%上昇している。貧しさは東北部と南部に集中している。

失業率は10%もあり、毎年23万人の若者が新たに就労年齢に達している。現在シリアの人口は2200万であるが、2030年には3000万になるだろう。

現在最も差し迫った問題は、物価が上昇し、公務員の給与とののギャップが拡大していることである。労働組合総連合が勇気ある経済報告をし、公務員の給与が物価高に対応していないことを嘆いた。職員と家族は前例のない生活苦を強いられている。大部分が貧困水準を下回るか、それに近づいている。

 

水不足が経済に悪影響を与えている。中東・北アフリカの多くの国々と違い、シリアは砂漠国ではなく、水源がある。しかし水源管理の失敗により、国民一人が年間使用できる水の量は約300立方メートルになってしまった。世界基準では1000立方メートル以下が水不足とされている。干ばつにより、数千の家族が農村から都市に移住した。都市で彼らは失業者となり、都市の失業者の数を増やすことになった。

水不足が深刻になっているので、近い将来国民の不満が爆発するかもしれない。識者によれば、農業用水を農家に任せているることが、水の無駄使いの原因となっている。しかし農業用水を国家管理すべきだという意見は無視されている。過去10年間、干ばつは200300万の住民に被害をもたらし、貧困水準以下の人々の数が劇的に増えた。

 

識字率は向上しており、2008年には83.6%になった。2007年、国民の健康のための政府支出は、公共支出の6%である。専門的な助産師のもとでの出産は、2002年は70%だったが、2006年には93%になった。出産時の死亡が減少したので、将来若者の数が増えることになる。また彼らは字が読めるので、政治についての関心が高まる。難題を多く抱え、機能不全の政府組織にとって、新たな負担が増える。

雇用の創出は新5年計画の最重要課題となっている。すでに若者の雇用機会が失われている。軍の兵士の人数は、1990年には12%だったが、2008年には6%を下回るになった。さらに2006年イラクから避難民が移住し、低賃金労働の就職のための競争がますます激化した。

バース党社会主義の下で、多くの国民が社会的格差を経験した。しかし自由主義的改革の開始はこの格差をさらに広げた。

富裕層の消費が社会全体を潤す(トリクル・ダウン)こともなかった。トリクル・ダウン理論は世界的に否定されつつあるが、シリアの現実も、この理論の誤りを示している。しかしシリア政府はまだこの理論を信じている。

都市と農村の格差を縮めようと、政府は農村部に投資をしたが、期待した結果を生まなかった。

政府の財政拡大政策のおかげで、失業率は抑えられているが、政府は財政支出を減らすつもりなので、失業が増えるだろう。国民への補助金は非効率であり、やめるべきだ、と経済学者が主張している。しかし補助金を大幅にカットするなら、ほとんどの生活必需品とサービスの値段が跳ね上がるだろう。補助金制度の縮小が理論的に正しいとしても、これを実施するなら、最貧層に破滅的な打撃を与えるだろう。

 

シリアの政権は1986年に市場経済の導入を開始した。私企業の設立を許可する一方で、これを政権の影響下に置こうとした。市場経済の拡大と同時に、政権の支持基盤の拡大をもくろんだ。その結果政治と経済の両エリート層とを結びつける戦略的なネットワークは維持され、拡大された。このネットワークは成熟し、経済人と政権の実力者との結びつきが深まっている。ネットワークの基礎は信頼関係であるが、経済界は若い指導者を心から信頼するようになっている。もともとは権力の基盤としてのネットワークだったが、現在は純粋な信頼関係に代わっている。また2010年末には人口の多数を占めるイスラム教スンニ派が大統領に好感を持つようになった。彼は前大統領より国民の支持を集めている。

1986年の市場経済導入開始から24年経過し、シリアには新しい階級が生まれている。彼らは積極的で、精神的に自立した若い政治・経済エリートである。将来彼らが実権を握るようになれば、現在の行きづまりを打開するかもしれない。これまで述べた行き詰まりの中で最大の問題は、石油が枯渇しかけていながら、代替収入が見当たらない、ということである。従って貧困・失業対策をする財源がない。新たに200万人の雇用を創出すれば、この問題は解決する。しかし、現在それを期待できる企業も業種も見当たらない。

新興エリート層が力強い経済発展を実現すれば、多くの問題を解決するだろう。

 

新興エリート層が国政を担うのは将来のことである。現在もう一つの勢力が生まれている。彼らは予測不能な形で社会の安定を崩すかもしれない。市場経済を保障する制度のもとで、外国資本が投資され、外国資産が増大した。外国資本は徐々に政治権力から独立した実力を持ち始め、縁故関係によらない、自立した経済活動を始めている。将来外国資本は政治権力に対抗する力を持つだろう。市場経済へのドアはまだ少し開いただけであり、新しいチャンスの恩恵を受けているのは、主に政権の追随者であるが、市場経済への本格的な移行は予期しない結果を生み、政権が統制できない事態が生まれるだろう。

 

      《将来への展望》

現在多くの若い専門家が大統領をとり囲んでいる。数年前まで旧弊なタカ派が実権を握っていたことを考えると、大きな変化である。大統領はこれまで考えられなかったような危険を冒し、改革を実行するかもしれない。これまでのやり方では、シリアは生き延びられない。しかし政権の中には、これまで通り利権に安住したいという守旧派も多い。またシリア国民は一般に新しいものを警戒し、現状を好む傾向があり、守旧派はそのことを頼りにしている。しかし枯渇した油田から石油が再び湧いてくることはないので、石油に代わる新たな産業を生まなければ、貧困と失業がさらに拡大するだろう。その時、政権は間違いなく倒れるだろう。

====================(中東政策会議終了)

 

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