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紀元前4世紀のギリシャ ⓷

2025-03-03 15:49:32 | 古代

   《第2回テッサリア戦:紀元前353年あるいは352年》

翌年の夏、ピリッポス2世は新しい軍隊を編成し、テッサリアに戻ってきた。彼はテッサリアの諸都市・地方に対し、フォキスとの戦いに参加するよう正式に要請した。ピリッポス2世は昨年敗北していたので、テッサリアの人々はマケドニア軍にあまり期待していなかったが、フォキスに征服されるのを避けるためには、マケドニア軍と力を合わせて戦うしかなかった。前回と同じく、この戦争はテッサリアの内紛が原因であり、都市フェラエに対する、残りの都市と地方の戦いだった。フェラエがフォキスと同盟し、ラリッサを始めとして残りの都市・地方はマケドニアと同盟した。

ピリッポス2世はマケドニア軍、およびテッサリア軍を率いることになった。シチリアの歴史家ディオドルスによると、マケドニア・テッサリア軍は歩兵2万、騎兵3千だった。

戦争のある段階で、ピリッポス2世はフェラエに近い港町パガサイを攻略した。フェラエはパガサイ湾から遠くないが、海に面していないので、近くの港町パガサイを自分の港として利用していた。パガサイはフェラエにとって補給や援軍の到着地として重要だった。パガサイの占領は前回の戦争の時だったという説もあるが、今回の戦闘の直前だったという説が有力である。ピリッポス2世は前回の戦争で、港町パガサイの重要性を学んだのである。それで、彼はフェラエを攻撃する前に、外部からフェラエへの援助を絶つことにした。

  〈クロコス平原の戦い〉

フォキスの躍進を維持するためには、オノマルコスはテッサリアで勝利しなければならなかった。フォキスの戦力は前年と同じ規模だった。加えて、同盟国アテネが援軍として大艦隊を派遣した。カーレスが率いるアテネ軍はパガサイでフォキス軍に合流するつもりだった。この戦争はアテネにとってピリッポス2世に一撃を加える良い機会だった。ところが、ピリッポス2世はフォキス軍が同盟国と合流する前に、戦争を開始した。フォキス軍は単独でマケドニア・テッサリア連合軍と戦うことになった。ディオドルスによれば、海辺に近い、広い平野が戦場となった。そこはパガサイ港から遠くないが、パガサイの南方であり、同様にフェラエの南方でもあり、アテネ軍またはフェラエ軍が前もって南下しない限り、フォキス軍と合流できなかった。アテネ軍もフェラエ軍も単独でマケドニア軍を相手にするつもりはなく、フォキス軍に合流してから戦うつもりだった。ピリッポス2世がフェラエを包囲・攻撃する可能性もあったので、フェラエは防衛戦も考慮しなければならず、フェラエの軍隊は遠くまで出向くことはできなかった。アテネ軍がパガサイ湾に近づている時、戦争が始まってしまった。

ピリッポス2世は、アポロ神の象徴である月桂冠をかぶり、神聖なアポロの神殿を汚した者を処罰する神として戦場に現れた。この戦いは記録が残っている古代ギリシャの歴史において、最も凄惨な戦争となった。ピリッポス2世の作戦は成功し、彼は決定的な 勝利を収めた。フォキス軍の傭兵の中には犯罪者のために戦っていると考え、戦わずして武器を捨てる兵士たちがいて、フォキス軍の兵数を減らし、軍の士気に悪影響を与えた。これに対し、フィリッポス2世は神がかりの精神状態で全軍を指揮したので、マケドニア・テッサリア軍の士気は高かった。特に人数で勝る騎兵が目覚ましい活躍をした。フォキス兵は海岸に向かって逃げた。アテネの艦隊がようやく到着していて、先に逃げた者は救われたが、多くの者が逃げ遅れ、殺されたり、捕まえられたりした。

6,000のフォキス兵が戦死し、3,000が捕虜となった。オノマルコスは捕虜となり、首つりの刑に処された。彼は十字架の刑で死んだとも言われている。オノマルコス以外の捕虜は溺死させられた。フォキスの将兵は敗軍の将兵として扱われず、アポロ神殿で盗みをした犯罪人として処罰されたのである。彼らを埋葬するこも許されなかった。ピリッポス2世は神の代理人として、神殿を冒とくした者たちを処罰した。捕虜となったフォキス兵はあまりにも残酷なやり方で処刑されたので、戦死した方がましだった、と言われた。

 

  《テッサリアの体制変換》

クロッカス戦後、テッサリアの諸都市・地方はピリッポス2世を終生の統治者(アルコーン)に任命した。

  (注;議会で選ばれるアルコーンは国王よ

り立場が弱い。中央ギリシャでは王政が廃止されており、議会によって選ばれる統治者はアルコーンと呼ばれた。アルコーンが居座って選挙を無視すれば、僭主と呼ばれた。)

ピリッポス2世はテッサリア連邦の収入を掌握し、テッサリア軍の司令官となった。

彼は今やテッサリアを自由に統治することができた。パガサイ港はもともとテッサリアの領土ではなかったので、ピリッポス2世はこの港町をマケドニア領とし、守備隊を置いた。パガサイを失ったフェラエは外国との連絡を絶たれた。テッサリア諸邦は昔からフェラエを敵とみなしていた。フェラエの指導者リコフロンはフォキスの将軍オノマルコスと同じ結果になるのを避け、ピリッポス2世と取引をした。リコフロンはフェラエの統治権をピリッポス2世に渡し、2,000人の傭兵を連れて、フォキスに亡命した。

ピリッポス2世は分裂していたテッサリアを統一し、西部のいくつかの都市を直接支配し、住民を追い出した。その中の一つの都市の場合、住民を根こそぎ追放し、代わりにマケドニア人を移住させた。また北部のペッラビア地方の支配を強化した。次に彼は沿岸部のマグネシア地方に軍を進め、この地方を直轄地とし、守備隊を置いた。こうしてピリッポス2世はテッサリアの君主になった。

 


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