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シリアの経済 中東政策会議②

2017-03-30 21:38:01 | シリア内戦

 

前回、中東政策会議の「シリアの経済」の前半を訳した。今回はその続きである。経済の各分野について語られている。自由貿易により、国際的な競争力のない繊維工場が倒産したことなど、具体的に語られている。シリアは市場経済を導入したが、競争力のある製造業がなく、経済の自由化のメリットは少ない。伝統的な繊維工業が倒産するなど、マイナス面も大きい。    

この報告は2011年夏に発表されているので、内戦と無関係である。2012年以後は、著者が親アサドか、反アサドかによって、経済評価も変わってしまう。2011年夏は、デモが収まる可能性も残っていた。シリアがどうなるかは誰にもわからなかった。

客観的な観察者として、報告の著者は次のように書いている。

「シリアが抱える問題は巨大で、現在の社会的混乱が無事おさまったとしても、前途多難である。また仮に体制転換が起きたとしても、新政権はこれらの問題を引き継ぐことになる。これらの問題はシリアの社会的発展の遅れと結びついており、体制転換によって簡単に解決する様な性格のものではない」。

======《シリアの経済:現実と課題②》=======

       2011年夏  Middle East Policy Council

      The Political Economy of Syria: Realities and Challenges

              by  Bassam Haddad

       《エネルギー》

        天然ガス生産量

年      1998 1999 2000 2001 2002 2003  

億立方m  53   54    55  50    61    62  

           2004 2005 2006 2007 2008

        64   55    57  56  55

       原油採掘量

年       1998 1999 2000 2001 2002 2003 

千バレル/日 576   579   548   581  548   527

                2004 2005 2006 2007 2008

                  495    450    435    415   398

 エネルギー産業はシリアの主要な収入源である。政府は油田への海外投資を期待している。今年の3月中旬、インドの ONGC ヴィデシと英国に本社があるIPR地中海デイベロープメントがユーフラテス流域に新しく3つの油田を発見した。これらの油田から日々1万バレルの原油の採掘が見込まれており、従来の大油田の減産をある程度穴埋めできる。

今年新しい4つの天然ガス処理工場が稼働し始めた。日々1600万立方メートルを処理することができ、シリア全体でのガス生産量は1日2800万立方メートルとなる。2011年には3600万立方メートルとなる予定である。生産されたガスの大部分(2000万立方メートル)は電気省へ送られ、発電に使用される。これにより政府はより多くの現金を国内に保有できる。

2010年ー2011年、シリアは1日に37万7000バレルの石油を採掘しなければならない。しかし、さらなる新油田の発見は期待できず、 1990年代末から2000年代初頭の生産量を回復することは難しい。政府は油田の枯渇におびえているが、新しい油田の発見とガスの増産により、少なくとも今後10年は何とかなると考えている。

新油田の発見は政府にとって幸運であるが、そうなると政府は改革の意欲を失うだろう。

石油・鉱物資源大臣のスフヤン・アローは、電力の有効利用と代替エネルギーによる発電を提案している。国民への燃料補助金も見直すべきだ。ディーゼル油購入のための補助金は政府にとって毎年15億ドルの負担となっている。ディーゼル油が格安で買えるため、レバノンやトルコに密輸して利益を得ることが横行した。ナジ・オタリ前首相によれば、補助金によって安く購入されたディーゼル燃料の約25%が国外に密輸されている。かといって補助の打ち切りによって打撃を受ける低所得者が多いので、時間をかけて徐々に減額することしかできない。

石油・天然ガス以外に、もう一つ重要な収入源がある。石油・ガスの通過国として、シリアはますます重要性を増している。まず第一に、エジプトの天然ガスを・ヨルダン・シリア・レバノンに送るアラブ・ガス・パイプラインがある。これをトルコのパイプラインに接続する計画がある。

       

実現すればシリアはアラブのガスをトルコに輸出できるし、同時にトルコ・イラン・アゼルバイジャンのガスを輸入できる。政府は財政赤字を穴埋めすることが可能になる。そして改革の意欲を失うだろう。シリアの経済には縁故主義が浸透しており、健全で合理的な経済とは言えない。長期的な発展の観点からは改革が必要であるが、政権はひっ迫しなければ、改革を後回しにするだろう。

 

         《観光、サービス業、建設》

    実質GDPを構成する分野の成長率:%

年     2005 2006 2007 2008 2009 2010 

農業    7.8  10.2 -13.5   -8.7     5.4     2.2

工業      -3     0.6     3.8     5.5    -0.9     5.3

サービス  13.3    3.4    16.6     8.3     3.9     3.8

                        (出典) エコノミスト 情報班

 2009年、410万人の観光客がシリアを訪れた。観光収入はシリアのGDPの約11%を占める。これによってサービス業が潤っている。

観光業と財政における改革により、今後数年建設業も成長するだろう。しかしダマスカスのような都市では、建設ブームが過熱し、地価が高騰し、世界の上位レベルになっている。ここ数年湾岸の建設会社数社が参入しており、プロジェクトの規模がおおきく、質も向上している。

建設業にのみ投資が集中し、農業と製造業が放置されることはシリア経済全体の健全性を損なう。その例が農村の崩壊と農民の都市への移住である。建設ブームは一時的に経済を向上させるが、観光業とサービス業の拡大は国民全体の生活向上に結び付かない。観光業は固定資本(工場の建物や機械)の蓄積につながらず、職業における技能を高めず、富の再分配を行わない。

         《工業》

この分野は石油とガスの新たなプロジェクトへの投資によって維持される、というのが一般的な見方だ。しかし石油の埋蔵量が枯渇にむかっているので、投資をしても将来的な保障がない。

さらにシリアは世界的な経済危機を乗り越えたが、工業製品に対する国内需要は激減した。2008年に比較し2009年は80%減だった。

繊維工業が最も打撃を受けた。経済危機の影響だけでなく、中国からの輸入品の増加もあり、シリアの企業はこれに対抗できず、立ち直るのが難しい。

自動車、テレビ、コンクリート製造など、重工業に対しては、ある程度の投資があった。

2009年の中東・北アフリカの発展報告によれば、海外直接投資は製造業に対し10%だけだった。薬品は目覚ましい成功を続けており、国内需要の95%を供給している。これはアラブ世界で2位である。55の国に輸出しており、14000人を雇用している。

     《公企業と私企業の協力》

政府は私有財産制への移行に慎重であり、公企業の活性化に重点を置いた。「公企業と私企業の協力」という方針のもとに、民間の活力を取り入れることを試みた。これは20年前に着手されたが、何度も中断された。2010年政府は本腰を入れて、再びこれに取り組んだ。この試みは経済的には有望だったが、政治・社会体制にとっては冒険的で、危険だった。この時点では、まだほとんどの国民が公企業で働いていた。政府は国民への補助金を減額し始めたが、あいかわらず福祉的な恩恵と補助金を支給していた。

「公企業と私企業の協力」のさいかいにより、企業は共同の所有として設立されたが、徐々に私人が実権を握り、しばしば完全な私企業に移行した。

新しく生まれた私企業の多くは公企業との契約に依存しており、政府からの優遇措置に頼っていた。私企業の所有者が政権とつながる者や政権内部の者だったので、こうした特権が与えられた。私企業の多くが不健全だった。

こうした状況下では、公共的な物資を社会に供給するためには、現存する公企業の活性化が望まれた。

採算の取れない、非効率な公企業は国家の財政にとって負担になっており、独立採算性の企業に変えることが計画された。2010年の夏の時点で、黒字の公企業は260の中の10%以下だった。

公企業の改革は国家と社会の両方に有益だったが、海外の援助国や国際金融機関の間で不評だった。彼らは公共企業の数が減ることを望んでいた。特に赤字の公企業はそうであった。

しかし民営化は国民の犠牲を伴う。そのため国際社会の希望に反することになるが、シリア政府は公企業を残す方針である。そして公企業の再生のために、さらなる投資をするつもりである。しかし公企業の運営体質ににメスを入れるつもりはない。

構造改革をせず、新たな投資が現在の制度と法律の下で行われるなら、失敗に終わる可能性が高い。非効率で赤字を出し続ける公企業は近い将来破局を迎えるだろう。

その結果国際社会が奨励する私企業だけが残るだろうが、シリアの私企業の実態は政治・経済的なブローカーである場合が多い。私企業のトップの仕事は政府から資金を引き出し、政府の仕事を請け負うことである。彼らの仕事は、製品を作り、販売することではない。シリアはブローカーの利益だけが保護される社会になるだろう。

ブローカー的企業が多いとはいえ、私企業はシリアの経済を支えている。2000年私企業はGDPの52.3%だったが、2007年60.5%になった。薬品、冶金、繊維は、現在私企業が行っている。一方で私企業が増えたことは批判の的になている。「政府は多くの国民に最低限の生活を保障する責任を放棄した」。

当然ながら、起業の機会はすべての人に平等ではない。シリアの銀行はリスクを回避する傾向が強く、融資を得るのは敷居が高い。特に大規模プロジェクトは融資が得られない。中小規模のプロジェクト場合、起業家はラミ・マクルーフのような大資産家にたち打ちできない。マクルーフは縁故資本主義の象徴として国民から不満を買っている。彼の商業帝国は、政権と大統領の家族との強い結びつきがなかったら、成立しない。実際シリアでは、権力と結びつきががあれば、法的な障害がなく、経済的な制約もなく、思いのままに事業を進めることができる。シリアは昔から、有力者を中心とする縁故社会だが、現在は新しい形の縁故主義が猛スピードで成長している。

シリアでは、私企業は市場経済の健全なプレイヤーではなく、大部分は国家と自由市場の破壊者である。健全な私企業は例外的な存在である。

        《経済改革と問題点》

現在の社会的混乱にもかかわらず、改革への取り組みが中断しなければ、シリア経済の展望は明るい。2005年、第10回バース党指導会議で、バシャール・アサド大統領は「社会主義市場経済」を打ち出した。石油の埋蔵量の激減という現実を前に、シリアの政治エリートたちは、経済改革を受け入れた。

その結果、2007年首相直轄のシリア投資庁が設立され、新しい投資法が成立した。その他いくつかの法律や政令が制定され、私企業の誕生を促した。2009年にはダマスカス証券取引所が取引を開始した。2004年以来多くの私立銀行が設立されており、証券取引所の成立により、投資と融資が活発になった。

私企業に対する規制が徐々にではあるが緩和されたことにより、シリアの経済は劇的に発展した。しかしシリアの製造業は旧式であり、競争力がなかった。自由貿易になっても輸出の望みがなく、外国の製品が流入すれば、対抗できなかった。企業が倒産し、雇用が失われる危険があった。

私企業の増加と成功は喜ばしいが、それは主にサービス業の分野であり、工業は衰退している。例えば2010年の最初の2か月間、28の旅行会社が誕生する一方で、48の繊維企業が倒産している。繊維企業は競争に敗れたのである。新しい旅行会社は利益をあげている。

新たな投資は観光業など、収益が見込まれる事業に向かう。しかしサービス産業は多くの国民に利益をもたらさず、熟練労働者を育てることもない。この問題は投資家に任せていても解決しない。政府が工業分野の育成に取り組まなければならない。

経済の自由化とともに倒産・失業などの社会問題が生まれた。また急激な人口増加の問題もあり、自由化によりすべてが解決するわけでない、と認識されるようになった。

シリアの人口増加率は2.5%、失業率は10%を超えている。これ以外にも多くの問題が山積している。

①石油の埋蔵量が底をつきかけている。

②私企業活動を妨げる官僚制度

③公的企業が企業の半数を占め、しかも大部分が非効率で赤字

④銀行の数が少なく、新規企業の立ち上げを妨げ、現存する企業も新発展ができない

シリアが抱える問題は巨大で、現在の社会的混乱が無事おさまったとしても、前途多難である。また仮に体制転換が起きたとしても、新政権はこれらの問題を引き継ぐことになる。これらの問題はシリアの社会的発展の遅れと結びついており、体制転換によっていっきに解決する様な性格のものではない。

====================(中東政策会議終了)

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シリアの経済 2011年夏発表 中東政策会議

2017-03-18 19:11:32 | シリア内戦

            

ダマスカスの聖パウロ教会は質素だが、どこか重々しい。1939年に建てられたとは思えないほど、古めかしい。建物の一部には、古代のダマスカスの城門の石が用いられている。使徒パウロは夜中この城門の窓から縄で降り、ダマスカスから逃げ出したと言われている。ダマスカスのユダヤ教徒は彼の新しい教えを嫌い、彼を憎んでいた。

この教会はローマ・カトリックの教会だが、シリアには東方教会もある。どちらも第一世代のキリスト教徒の教えを現在まで受け継いでいるが、東方教会は何と言っても地元である。

もう一つ、ダマスカスの歴史を感じさせる建物を紹介する。中世の英雄サラディンの墓所である。サラディンは12世紀後半、十字軍と戦ったイスラム教徒の英雄である。

       

 ダマスカスは古都と呼ばれるのが最もふさわしく、紀元前14世紀の記録に登場している。紀元前965年アラム王国の首都となった。それ以後も各時代の歴史が刻まれ、記録や遺跡が多く残っている。

ダマスカスを訪れると、タイムマシーンで過去の時代に入り込んだ錯覚にとらわれる、とよく言われる。現在この都市の支配層は、革命で滅ぼされても仕方がないような無能な人たちなのだろうか。時の経過は冷酷で、現在ダマスカスは地方都市に成り下がり、この都市の支配者は国家を運営するだけの力量はないのだろうか。

 

2011年の夏、中東政策会議がシリアの経済を評価している。シリアでデモは始まっていたが、内戦に発展するか、デモだけに終わるか誰にも分からなかった。内戦が報告者の判断に影響を与えることはなく、単純に2011年夏の時点でのシリア経済の評価となっている。前半は総論であり、後半では主要分野を具体的に述べている。内戦前のシリア経済を知ることができる内容となっている。少し長いので、今回は前半だけを訳す。

=======《シリアの経済:現実と課題》=======

              2011年夏  Middle East Policy Council 

          The Political Economy of Syria: Realities and Challenges

                    by  Bassam Haddad

  シリアの政権は統制経済の改革に着手し、市場経済を部分的に導入した。改革は不充分だったが、ある程度の成果があった。また経済成長も年率約6%を維持しており、経済は好調だった。しかしシリアは教科書的な経済手法では解決できない問題を抱えていた。経済的な病は単純ではなく、複雑に絡み合っており、これを解決するには、社会制度・法律・行政の根本的な改革が必要だった。よほど強固な政治的意思がなければ、こうした広範囲の改革は実現できなかった。

2000年ー2010年までの10年間、経済は順調だったが、政権はいくつかの政治・経済的な困難に直面した。

①2000年にバシャール・アサドが新大統領となったが、兄の突然の死によって彼が急きょ大統領となったものであり、政治的基盤は弱かった。2005年まで彼の地位は安定しなかった。

②シリアはもともと域内で孤立しており、パレスチナ・レバノン問題とイラク戦争によって国際的にも孤立が深まった。200年まで緊張が続いた。

③石油の埋蔵量の減少が危機的なレベルになっていた。

最初の2つの問題はほぼ解決していたが、3番目の問題はどうすることもできなかった。そして最近新たに干ばつの問題が生まれた。長期的な見地を欠いた水源管理とここ数年の少雨により農地は砂漠となった。数十万の農民が土地を捨て、都市に移り住んだ。移住先の都市すでに人口過剰で生活インフラが未整備だった。

シリアは2008年の世界的な経済期(リーマンショック)を何とか乗り越えたが、シリアが今後の経済危機に対処できるかは不透明である。政権が社会・経済的な安定の継続を望むなら、経済構造と支配機構を大幅に修復しなければならない。

大企業の成長を奨励しながら、一般国民への補助金を削減するやり方はもはや限界である。この方針は2005年の第5回バース党指導会議で決定され、数字の上では経済成長に貢献したが、国民の中・下の階層にとって大きな打撃となり、社会の安定を脅かすことになった。大企業の大部分は政権の中枢と結びつき、法律の制約を受けない。経済格差に苦しむ国民の恨みが政権に向けられている。

縁故主義市場経済は格差を生み、健全な経済発展の障害となる。政権の一部はこのことを理解しているが、縁故主義経済からの脱却は容易でない。

大統領が改革を決定したとしても、官僚機構は政策を実行する能力も意志もなく、また権威もない。シリアの政治エリートはゲームのやり方を変える気がなく、改革について共通認識が生まれていない。

改革を実行する役人が存在しないので、経済活動の無法状態は変わらず、健全な経済発展は望めない。

以下で、これまでの改革が不十分だったことを具体的に検証したい。

シリアの経済はEUと湾岸の市場に統合されており、2008年の世界的な経済危機の打撃は大きかった。特に製造業とサービスの分野は影響が大きかった。しかし成長産業である観光業は、世界中の観光業が落ち込んでいる時に増収を続け、経済危機をやわらげる役割を果たした。観光以外にも安定分野があり、2010年末までシリアは政治的にも経済的にも安定していた。しかし社会の安定を支える経済は、将来に不安を抱えていた。

エコノミスト紙の経済班の予測によれば、2009年のマイナス成長後、シリアの実質GDP成長率は2010年に3.9%、2011年に4.2%までにしか回復しない。2007年までシリアはほぼ6%の成長を続けていた。一方インフレ率は6.2 %に達するだろう。世界的に物価が上がる中で、シリアでは消費税が施行されるからである。

また貿易収支も黒字から赤字に転落している。2007年までシリアの貿易収支は黒字だったが、2008年以後赤字に転じた。観光収入の増加のおかげで、貿易の経常収支の赤字は1.3%にとどまるだろが。

他方で希望を持てる要素もある。一連の経済改革と、トルコとEUとの貿易協定により、経済発展の基盤ができた。また米国との関係改善もシリアの経済を強化し、シリアは中東・北アフリカ地域で重要な役割を果たすだろう。

シリアの財政は健全である。政府は2010度の予算を緊縮した。石油価格の上昇により、輸出による増収が見込まれ、同年政府の赤字は減少し、 GDPの6.4 %(32億ドル)になりそうだ。石油の増収分が公共投資と公務員給与の増額によって減殺されなければ、財政赤字はもっと改善する。国民への燃料費補助金は減額されたが、シリアは家庭用の精製石油(燃料)を輸入しているので、財政にとって負担となっている。

2011年に10%の付加価値税(=消費税)が実施されれば、政府の増収となり、将来的に減少する石油収入を補うこともできる。2010年携帯電話契約を長期契約に変えることが予定されており、これも政府にとって増収となる。

シリア政府の収入は2003年にGDPの28%だったが、年々減少し、2010年には19%にまで減少した。国家統制経済から自由主義経済へ移行しようとする努力が見られる。

(訳注)国家の収入が大きいことが統制経済の特徴である。自由主義経済の日本は、統制経済をわずかに修正し始めただけのシリアと、同レベルである。2016年日本のGDPは504兆円、政府収入は60兆円であり、政府収入はGDPの12%である。ただし公債を含めると政府収入は96兆円であり、19%となる。(訳注終了)

金融政策も改革され、中央銀行の独立性が保証された。中央銀行の金融政策の種類が増え、洗練された政策を行えるようになった。シリア中央銀行は外貨取引上の制約を減らすことができ、2008年以後投資を促進した。

一般銀行に対する規制が変更され、私立銀行の最低資本金が3300万ドルから2億2000万ドルに引き上げられた。これにより私立銀行は大規模なインフラ事業に融資することが可能になった。シリアは現在世界金融危機(リーマン・ショック)の影響から脱しつつあり、今こそ政府は約束した改革を実行すべきである。海外からの投資を増やし、経済を多様化しなければならない。

   

         《シリア経済の可能性》

シリアは魅力ある投資先である。大規模投資があれば、観光、金融、保険、個人消費の分野は高度成長するだろう。そうなればシリアは石油の減収を心配しなくてもよい。

11回目の5か年計画と政府内部からの情報から判断すると、政府は公共部門への投資を増やすつもりのようだ。元経済担当副首相のアブドラ・ダルダリによれば、新計画はインフラ、エネルギー安全保障、高成長産業に重点的に投資するつもりだ。

拡大アラブ自由貿易協定への参加によって、シリアの輸出産業に有望な新市場が開かれたが、アラブ諸国間の貿易量はほとんど伸びず、失望に終わった。これに反し、イラン、トルコ、EUとの取引額は大幅に増えており、シリアの企業が競争力をつければ、将来さらに大きな利益が見込まれる。

労働その他のコストが安いにもかかわらず、これまでシリアの製品は周辺国市場でも世界市場でも競争力がなかった。

シリアの製造業が競争力を向上させることができるか否かは死活的な問題であり、政治的問題と同じく最優先課題である。シリアを取り巻く国際環境は、シリアに敵対的であり、政権は常に綱渡り外交を迫られている。同時に経済的に沈没する危険も迫っており、両面において緊張を強いられている。

いくつかの業種が競争力を高めることに成功したが、全体として見ればわずかなものにすぎない。多くの場合、成功から報酬を得ているのは、政権内の者か、政権と結びつきのある者である。

昔も今も、エネルギー産業とサービス業(とりわけ観光)がシリアの経済成長の原動力である。しかし石油の埋蔵量が減少しており、増産の時代は終わっている。急速に増加する人口に利益を分配するには、この2大分野だけでは足りない。付加価値を生む産業を新たに創出するしかない。独自の技術革新による新しい産業こそが多くの雇用を吸収する。

改革に着手したことは実を結びつつあり、海外からの投資を期待できるようになった。これが実現すれば新たな展開となり、より多くの国民にチャンスを与えるだろう。外国との関係が改善しているので、海外投資が実現に向かっていた。ところが時期悪くデモが起き、治安部隊は武力でこれを鎮圧した。流血の弾圧をしたことで、シリア政府は国際的な非難の的となり、国際社会は再びシリアに背を向けた。

2010年末シリアは今後5年間で550億ドルの海外からの投資を計画していた。シリアの開発計画を支援するため、サウジアラビアは特別貸与を予定していた。この計画の前提は、シリアと域内(中東)諸国の安定である。またシリアの主要な産業に投資されることも重要だった。そうすれば多くの人に利益がもたらされ、失業を減らすことができた。

しかし現在国内が混乱し、周辺国との緊張が高まっており、海外からの投資と借款の前提が崩れつつある。

=====================(中東政策会議終了) 

     

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内戦前のシリアの経済

2017-03-15 22:50:13 | シリア内戦

シリアは砂漠地帯もあるが、地中海に近い西部とユーフラテス沿岸には農業地帯があり、急激な人口増加がなければ食物を自給できる。1960年代以後新たに農地を増やし、人口増加を支えて来た。ユーフラテス川から遠い地域はステップ地帯であったが、井戸を掘ることによって農地に変えた。これが1990年代以後徐々に破たんし始め、2000年代後半になると、全体的に破たんした。この地域はもともと地下水の層が薄く、長年くみ上げた結果、地下水が枯れてしまった。雨がほとんど降らなかった2007年と2008年この地域の農地は砂漠となり、農民は2年連続で収入がなく、破産した。彼らは土地を捨てて都会へ移住し、難民となった。家族の中の若者が親戚・知人の紹介で、低賃金労働の機会を得、老人・子供を養った。しかしそううまくいかなかった場合もあるようで、餓死しそうになった家族も多いようである。アサド大統領自身がこのような家族の救済にした、と語っている。

2008 年ー2011年の干ばつの被害により、80万人が生活の手段を失った。このことがシリア内戦の引き金となった可能性があるが、これだけが決定的要因だとするの早計である。短期間にこれらの人々を労働力として吸収できれば、体制を転覆する要因にはならない。

問題なのは、シリア経済が農村で破産した家庭の働き手を吸収する力があるか、である。国家経済の破産なくして革命は起きないし、起こしてはならない。そもそもシリアの経済は破産していたのか。東北部農村で破産した人々を吸収できる見込みはなかったのか。

            〈 シリアのGDP〉

1965年ー2005年

  

 

2006年ー2011年

   

シリアは1960年以後経済成長を続けていたが、1985年ー1995年マイナス成長となった。これはソ連がゴルバチョフ期から崩壊期へと至る時期である。ゴルバチョフの改革(ぺレストロイカ)は経済の低迷故に失敗した。ソ連の衛星国や親ソ国はソ連崩壊前から経済的打撃を受けた。

シリアは1995年以後再び経済成長を開始し、2010年に至っている。

2016年6月、IMFが内戦中のシリアの経済について報告した。その第一章は「内戦前」と題されている。

 

=========《内戦中のシリアの経済》========

      2016  IMF Working Paper :  Syria's conflict economy

                          by Jeanne Gobat  and Kristina Kostial

             第1章 内戦前のシリアの経済

     〈経済の自由化〉

2000年代、シリアは経済成長を求めて、徐々に経済の自由化を推進した。石油の埋蔵量が減少しており、生産量は減少に向かっていた。これは国家の収入の減少を意味し、財政の悪化は免れなかった。

シリアは1990年代にソ連崩壊後の社会主義諸国の例に倣い、自由主義経済への移行に着手していた。石油の減収を埋めるには、新たな経済発展が必要であり、2000年以後経済改革がさらに促進された。国家中心の統制経済が多様化され、種々の規制が緩和された。また国民への燃料補助金が打ち切られ、税体系が簡素化された。

2004年私立銀行の設立が許可され、2009年には40年ぶりに株式市場が再開された。2001年シリアはWTOへの加盟を申請し、2007年トルコとの間に自由貿易協定を結んだ。IMFがシリアの経済改革を支援し、銀行の監督強化や金融政策の近代化について技術的なアドバイスをした。その他以下のような改革のためのアドバイスをした。

①国債市場の拡大

②政府収入の強化と方法の簡素化 

③国と地方の財政運営の改善

       〈安定した経済〉

インフレ率は低く、経済成長は力強く、2009-2010年の期間、石油以外の分野の成長率は平均4.4%だった。公営企業が大きな割合を占めているにもかかわらず、財政赤字は限度内であり、2009年末借入金の残高はGDPの31%だった。(輸出入の)経常収支はほぼ均衡しており、2010年末の時点で準備金を十分保有していた。それは10か月分に相当する額だった。

2000-2009年、外国からの直接投資は平均するとGDPの1.3%であり、薬品、食品加工、繊維などの分野に投資された。

        〈貧困と失業の増加〉

2010年のシリア政府の報告によれば、貧困からの脱却を目的とした新世紀計画は、いくつかの分野で前進した。それらは、以下のようなものである。

①初等教育の普及

2男女間の教育格差をなくす

③幼児死亡率を減らす

④子供の予防接種の普及などである。

       〈地域間の経済格差〉

貧困率は1997年から2004年にかけて改善したが、2005年以後再び悪化した。農村は都会より貧しく、 経済の自由化による恩恵がなかった。また農民は数年連続の干ばつによる被害に苦しんだ。2007年東北部の貧困率は約15%であり、全国の貧しい人の半分がこの地域に住んでいた。2000年代後半、多くの農民が南部の都市や沿岸地方に移住した。彼らが移住した地域のいくつかは貧困地域に転落した。シリアの人口は数十年増加を続けたが、雇用の増加は追いつかなかった。10年間に失業率は2倍になった。2006年と2007年の失業率は16%だった。同じ期間、若年労働者(15歳ー24歳)の失業率は22%だった。

      〈ビジネス環境が悪く、法の支配がない〉

2009年の「国別ビジネス環境」によれば、シリアは181か国の中で137位だった。融資が受けにくく、契約は守られず、土地の登録ができない。改善した点もあり、短期間で事業を開始できるようになった。

2009年の起業調査によれば、シリアへの投資の障害となっているのは汚職、教育されていない労働者、電力不足などであった。役人にわいろを渡さないと、ものごとがを進まない、と80%以上の企業が答えている。中東・北アフリカの平均は37%である。経済の自由度についての別の調査(Heritage Index)によれば、2006年ー2009年シリアは抑圧され、ほとんど自由がない国に分類された。法の支配の点で、シリアは悪い方から数え、域内で4番目だった。シリアの政府機関は公的な責任を問われず、汚職まみれだった。司法機関は透明性がなく、独立性がなかった。

      〈不十分な改革〉

2000年に大統領に就任したアサド大統領は政治改革を宣言したが、改革の速度が遅く、改革推進派と反対派との間に対立がうまれた。

=====================(IMF報告終了)

上記IMFの報告によれば、2006年と2007年シリアの失業率は16%となっているが、IMFは上記と別の報告を出しており、それによれば2006年と2007年の失業率は8%となっている。IMFが2種類の統計を発表しているのは不可解だが、IMFは自ら調査したわけではなく、シリア政府の発表に基づいており、2種類の数字の原因はシリア政府にあるかもしれない。シリア政府は最初16%という数字を発表したが、後に8%に変更した。現在ネットのすべてのサイトが8%としている。

      

   

2000年代になり失業率は低水準になっている。が高くなるのはであり、2008年を除けば、2000年代後半の失業率は8%と安定している。

小さなことであるが、上のグラフでは2008年の失業率が12%となっているが、他の多くのサイトでは10%となっている。            

          1997年 16.76%                  2005 年   8.01 %      

         1998      12.41                   2006     8.12

         1999      13.46          2007     8.41

         2000      13.48                  2008      10.92 

         2001        8.17                  2009        8.12                                      

         2002      11.67                   2010        8.61

         2003      10.78               

         2004      12.23                   (出典) Index Mundi

 

失業率8%はやや高い数字だが、許容範囲のように思われる。世界の各国の失業率がどの程度か見てみよう。

2015年の失業率統計では、188か国の中で最悪の国はソロモン諸島であり、31%である。失業率8.2%は悪いほうから数えて82位である。失業率8.2%が原因で政権が倒れるなら、世界の半数近くの国の政権が倒れてしまう。

失業率が10%を超えると、要注意であり、国家の不安定要素になる。悪いほうから数えた順位は52位である。失業率10%台の国をいくつか挙げてみる。

   10%  フランス、トルコ

   11%  イタリア、イラン

   12%  ポルトガル、エジプト

   13%  ヨルダン、スーダン

 

200年後半のシリアの失業率は8%」がネットの常識となっており、「内戦前のシリアの経済」で述べられた16%という数字は幻の数字となっている。しかしこれは簡単に否定できない。

実は16%が正しい。シリア政府が意図的に修正。

IMFの初歩的なミス。そうえはなく実態を正確に判断した。または意図的に悪い数字をはじき出した。

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シリア最初のデモは自然発生的ではなかった

2017-03-07 23:55:00 | シリア内戦

 

シリア内戦の発端となる最初のデモはダマスカスでもアレッポでもなく、3月18日南部の小都市ダラアで起きた。18以後以後のダラアのダラアは革命最初の日々としてよく知られている。それ以前についてはほとんど知られていなかったが、4月16日のアルジャジーラが、ダラア住民の回想が引用した。その中で3月11日のデモが語られている。

「逮捕された子供たちの親たちが、モスクから知事邸まで行進し、子供たちの釈放を求めた。彼らが簡単に引き下がらないので、政治警察が配下の部隊を呼んだ。大勢の治安部隊が現れて、彼らに発砲し、負傷者が出た。知事邸まで行進したのは200人だったが、発砲の話を聞いて多くの住民が集まり、数百人のデモが行われた」。

3月11日のデモは自然発生的で、ごく少数のデモだった。

本格的なデモの最初となる3月18日のデモも、自然発生的なものだったと、私は思い込んでいた。

ダラアにはいくつかの大家族があり、逮捕された少年たちはそうした家族に属しており、これらの大家族を怒らせるような出来事は、すぐに多くの住民に伝わる。したがって3月18日のデモは自然発生的なもだったろう、と私は思っていた。3月11日のデモについてほとんど知られておらず、一般的には3月18日にダラアのデモが始まったとされる。同時にこの日はシリア革命が始まった日である。

 

3月18日のデモは自然発生的なものではなく、計画していたグループがいたことが、2年後に判明した。そのグループに所属していた人物の手記が2013年3月BBCに掲載された。その手記によれば、彼のグループは前日ダラア以外のどこかに集まり、翌日(18日)のデモについて話し合った。その場所がどこかは書かれていない。「翌日ダラアに向かった」と書かれている。この人物はダラアで商社を経営していたが、デモの計画に集まった場所がダラアではなかったことから、このグループはダラア住民だけで構成されていたものではないと推測される。ダラアのデモにとどまらず、シリア革命を計画するグループだったようだ。チュニジアやエジプトの革命を見て、シリアでも革命を起こそうとと考える者たちが、唯一見込みがありそうなダラアで反乱を始めたようである。

この人物の名前はバシャール・ヘラキといい、彼の経歴は興味深い。商社を経営するようになったのは1999年で、それ以前彼は陸軍大尉だった。最初のデモに参加後、2011年以内に彼はシリアを去った。手記を発表した2013年3月、彼はシリア国民会議の重要メンバーになっていた。彼の兄弟ニザール・ヘラキ(Nizar al-Heraki)はカタール駐在の反対派大使である。

ヘラキ兄弟はどちらも反対派の大物である。

 

=====《最初のデモを組織した人物の回想》=====

    Deraa protests: Organiser recalls start of Syrian uprising                 

          By Bashar al-Heraki

                 BBC  2013年3月15日         

2011年3月17日私はデモを準備しているグループのひとりだった。翌日我々はダラアのオマリ・モスクに行った。シリアの革命はここから始まった。我々の抗議は政府をいらだたせることを知っていたが、彼らが最初の日から発砲し、市民を殺すとは予想していなかった。

我々がモスクを出てくると、人々が「神!シリア!自由!」と叫んだ。言葉の3つ目はバシャール・アサド(大統領)であるべきなのに、自由と入れ替えたので、政権は反乱と受け止めた。そして多くのデモ参加者を殺傷した。

私は写真を撮っていた。バシャール・アサドの部隊が最初から武力行使をしたことに、我々は驚いた。警告ぬきで、いきなり発砲した。デモにたいしては最初は催涙弾や放水をするものだが、彼らはこれらを省略した。

デモをするには勇気が必要だった。我々は内心で恐れていた。しかし我々は恐怖を乗り越え、「自由」を宣言しなければならなかった。アラブの春(民主化運動)がチュニジアとエジプトで勝利し、リビアでも始まっていた。

抗議するする市民は団結していた。ますます多くの若者が我々の主張に賛同した。ダラアの他の地区でもデモが始まった。しかし治安部隊が発砲したので、人々は逃げ去った。

我々は負傷者の手当てをし、死者の遺体を病院に運んだ。

 

市民に犠牲者が出たので、体制は終わりが近い、と我々は思った。もう後戻りできない。治安部隊に殺された人たちは、彼らの信念のために死んだ殉教者である。ますます多くの市民が我々を支持するようになった。各種民間団体の指導者や知識人も我々に賛同した。

 

我々は翌日再びデモをすることを発表した。またストライキを組織した。私は「治安部隊は殺人者だ」とビラに書いた。

デモの時我々は治安部隊に大声で叫んだ「お前たちの任務は兄弟たちを守ることだろう。我々は全員シリア国民だ、敵ではない」。彼らは言い返した。「これは国家の安全の問題だ。我々は国家を守るために全力を尽くす」。彼らは聞く耳を持たなかった。

逮捕されている子供たちの親たちは、心配で気が狂いそうだった。ある母親は息子の友達が逮捕されたのを知ると、恐怖のあまり、息子を連れて逃げた。彼らは町から町へと逃げ回ったが、政治警察はどこまでも追いかけた。

==================(BBC終了)

コメント (1)
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