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フランス・トルコ戦争 1918年12月ー1921年10月

2018-11-05 19:53:30 | シリア内戦

第一次大戦においてオスマン・トルコ帝国はドイツ・オーストリア側に立って戦ったが、敗北した。1918年10月30日、連合国とオスマン帝国との間で休戦協定が締結された。

停戦の半年後(1919年5月15日)、ギリシャは小アジア西岸の都市イズミルに軍隊を上陸させた。休戦協定においてトルコが占領を認めたのは2か所だけである。

①コンスタンチノープル

②ダーダネルス海峡とボスポラス海峡を守る要塞。

従ってギリシャ軍のイズミル上陸は休戦協定の違反である。

ギリシャ軍のイズミル上陸後、今度はフランス軍が黒海沿岸部と地中海沿岸部に上陸した。ギリシャもフランスもトルコ内に領土を獲得する目的で侵攻したものであり、明らかに休戦協定の悪用だった。

トルコでは旧オスマン軍に代わる新たな軍隊が生まれており、この愛国的な新トルコ軍がギリシャ軍とフランス軍に立ち向かった。新トルコ軍は1918年5月19日、オスマン・トルコ軍司令官の一人であったケマル・パシャの呼び掛けにより成立したものである。

休戦成立後ギリシャが侵略してきたことにトルコ国民は怒っており、ケマルの新軍は国民の支持を集めた。「ギリシャ・トルコ戦争」についてはすでに書いたので、今回は英語版ウイキペディアの「フランス・トルコ戦争」を訳す。

 

=======《  The Franco-Turkish War》=====                                                                wikipedia                                        〈フランス軍、黒海沿岸へ上陸〉

トルコの降伏後、フランス軍が最初にしたことはトルコ領内の炭鉱の占領だった。当時燃料は石炭に頼っており、石油は使用が始まったばかりで、石炭ほど普及していなかった。石炭は重要な戦略資源だった。フランス軍は燃料としての石炭を必要としていた。石炭がトルコ軍の反乱に使用される恐れもあったので、フランス軍は炭鉱を占領したのである。

1919年3月18日フランスの2隻の戦艦が黒海沿岸の2つの港(ゾングルダクとカラデニズ・エレーリ)に兵士を上陸させた。上記地図参照。この2港は炭鉱地帯に近かった。フランス軍は絶えずゲリラ攻撃を受け、翌年(1920年)6月8日、カラデニズ・エレーリから撤退した。しかしフランス軍はゾングルダクには留まり、1920年6月18日都市全体を占領した。

       〈コンスタンチノープル占領〉

1918年11月12日フランス軍の旅団がコンスタンチノープルに入った。翌年2月8日占領軍軍令官フランシュ・ドゥ・エスペレー将軍が到着し、占領行政を調整した。

フランス軍はコンスタンチノープルの占領で満足せず、アジア側に進出し、アナトリア半島の北西部の中心都市であるブルサを占領した。1920年夏ギリシャ・トルコ戦争が始まると、フランス軍はブルサをギリシャ軍に引き渡す形で撤退した。上記地図参照。

       〈アナトリア南部の戦闘〉

1918年11月17日フランス軍15000人がメルスィンに上陸した。将校150人はフランス人だったが、兵士の大部分はアルメニア人志願兵だった。

 

フランス軍は内陸部に進み、アダナに本部を置いた。この地域はキリキアと呼ばれ、山地が多いアナトリアにあって平地であり住みやすい。港もあり、トルコ東部への玄関の役目を果たしており、戦略的な要地となっている。

中世においてアルメニア人の国家、キリキア王国(1198年-1375年)が存在した。フランスはアルメニア人を支援しながら、トルコ東部にフランスの領土を得ようとしていた。

メルスィンに上陸したフランス軍の直接の目的はオスマン・トルコ政府を解体することだったが、サイクス・ピコ条約を現実のものとするための布石でもあった。

 

キリキアを占領したフランス軍は1919年末、ガジアンテプ、マラシ、ウルファの3地域を占領した。これらの地域はエジプトから北上した英軍が占領していたのであるが、両国間の約束に従い、交代したのである。

フランス人総督がこれらの占領地を支配することになったが、トルコ人の抵抗運動に直面した。フランスがアルメニア人の野望を支持していたため、トルコ人はフランス軍を危険な存在と見ていた。フランス人将兵はこの地域について何も知らず、情勢を知るためアルメニア人民兵を活用していた。トルコ人は地元のアラブ部族と協力し、アフランス軍に反抗した。

トルコの新しいリーダーとなったケマル・パシャにとって、フランスはギリシャほど危険な敵ではなかった。

ケマル・パシャは周囲の者に語った。

「ギリシャの脅威がなくなれば、フランスはアナトリア南部に固執しないだろう。フランスの真の関心はシリアにある」。

フランスの総督は自分の占領地でトルコ人が反乱を起こしたことに驚いた。英軍が占領地を無力化していなかったことが原因だ、と彼は英軍の怠慢を責めた。トルコ西部におけるギリシャ・トルコ戦争でギリシャが敗北したため、フランスの計画に狂いが生じた。トルコは反撃する力がないだろうという前提でフランス軍は作戦を開始した。キリキアからウルファに至る地域の占領はアルメニア人志願兵部隊でじゅうぶんだとフランスは考えていた。しかしケマル率いる新トルコ軍は強く、新トルコ軍の存在に励まされ、戦線から離れた南部にはゲリラ組織が誕生した。。

1920年1月20日ー2月11日マラシのフランス軍とトルコ人反乱軍との間で戦闘がおこなわれ、その後フランス軍は撤退した。フランス軍には地元のアルメニア人も加わっていた。フランス軍ガマラシ市から去ると、数千人のアルメニア人住民が虐殺された。

フランス軍のアルメニア人兵士(Sarkis Torossian)は日記の中でフランス軍の裏切りを疑っている。

「フランス軍はケマル・パシャ派のトルコ人反乱軍に武器・弾薬を与える代償として、安全にキリキアから脱出することができた」。

マラシのトルコ人反乱軍は南部の他の都市もフランス軍から奪還し、トルコ領土の保全に貢献した。フランス軍は撤退を繰り返した末に、キリキアから去った。

================(wikipedia終了)

フランス軍はトルコを分割する目的でキリキアに上陸したが、トルコ人に撃退されてしまったのである。この例はいったん降伏した後でも、戦勝国に好き勝手をさせる必要はなく、軍事的抵抗が有効であることを示している。

キリキア作戦の失敗により、サイクス・ピコ条約に示されたフランス要望は不完全な形でしか実現しなかった。1923年のローザンヌ条約で決定されたトルコ国境とサイクス・ピコ協定を見比べれば、違いがわかる。

ローザンヌ条約の16年後(1939年)、フランス領シリア内の地中海沿岸部ハタイ県がトルコ領となり、現在に至っている。

ギリシャ・トルコ戦争におけるギリシャの敗北とフランスのキリキア作戦の失敗により、アルメニア人の野望も消えた。1920年のセーブル条約において、アルメニアはトルコ東端に領土を獲得した。これはフランスの後押しがあったからである。アルメニアはキリスト教国であり、戦時中からフランスはアルメニアを支援していた。

 アルメニアは1923年のローザンヌ条約でトルコ東端の領土を失った。

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シリア・アラブ王国(1919年7月ー1920年7月)②

2018-10-28 17:30:21 | シリア内戦

第一次大戦中の1915年エジプトの英軍はパレスチナとシリアの攻略を計画していたが、戦いを有利に進めるため、アラブ軍をゲリラ部隊として利用することにした。アラブ軍の貢献に対する代償として英国はメッカのハーシム家にアラブの独立を約束した。同時期英国はトルコの分割について、フランスと話し合っていた。分割案によればフランスがシリアとレバノンを獲得することになっていた。

 

国はフランスとアラブの両者にシリアを与える約束をした。フランスもアラブもシリアの半分を得て満足するつもりはなく、結局両者の戦争によって決着がついた。フランスが勝利し、シリアは敗北した。シリアの独立は1年で終了した。

メッカのハーシム家のフサイン・アリーは全アラブの独立を要求していたが、アラブ軍の進撃路はメッカからダマスカスに至るものであり、現実問題として、独立アラブの領域はメッカを中心とする地方(ヒジャース)とシリアに限られた。

英国はフランスにシリアを与える約束しており、これとシリアの独立は矛盾する。そのためシリアは独立を達成したが、独立は1年で消滅した。大国フランスの意志が貫徹し、シリアはフランス領となった。

前回はアラブの反乱から独立までの流れを書いた。それに続くアラブの独立とその消滅については、ウィキぺディディア(英語版)の「シリア・アラブ王国」を訳す。

======《The Arab Kingdom of Syria》=======

                              wikipedia

           〈アラブ軍がダマスカスに入場〉

1918年9月19日エジプトの英軍とシリアを防衛していたトルコ軍の間で戦闘が始まった。これはシリアをめぐって双方が激突した決戦である。戦闘は一週間で終わり、26日トルコ軍は敗退した。勝利した英軍は1918年9月30日ダマスカスに入場した。続いて10月3日アラブ軍がダマスカスに入った。ダマスカスに入場したアラブ軍はただちに(10月5日)、臨時政府を立ち上げた。アラブ軍を率いたファイサル・アリーが臨時政府の代表になった。ファイサルは「宗教による差別のない、正義と平等に基づく国家の樹立」を宣言した。英国のエジプト派遣軍の司令官アレンビー将軍はファイサルの臨時政府を承認した。しかしフランスは反発していた。英国の後見によりシリアに新政府が誕生したことに、フランスの首相クレマンソーは怒った。ファイサルの政府はあくまで臨時に過ぎないとして、英国はフランスをなだめた。しかしフランスと英国の関係は緊張した。

ファイサルはダマスカス入場後アレンビー将軍から英国とフランスの間の秘密協定について知らされた。英国の裏切りはファイサルにとって衝撃だった。しかしながら彼の臨時政府が成立しており、フランスの反対を押し切れるだろうとファイサルは考えた。英国はフランスとの約束を無視するだろう、と彼は甘く見ていた。新政府樹立はアラブの反乱に参加した将兵にとって苦労の末に得た成果だった。シリア人はアラブの独立が達成されたので、ファイサルの臨時政府を熱烈に支持していた。

         〈パリの講和会議でフランスとアラブが対立〉

1919年のパリの講和会議ではオスマン帝国の分割が議題となり、戦勝国の間での取り分が話し合われた。フランスと英国の議論は白熱した。(1919年)5月の話し合いで、サイクス・ピコ協定が一部変更された。フランスはイラク北部のモスルを英国に譲る代償として、シリアをフランス領とすることを再確認した。同じころシリアをめぐるアラブとフランスの対立がのっぴきならないのを見た米国が両者の調停に乗り出し、住民の意向を調査することを提案した。調査の結果は1922年まで発表されなかった。調査結果によれば、大多数がシリアの独立を支持し、フランスの支配を拒否していた。

 

          〈シリア・アラブ王国の成立〉

パリ講和会議の様子を見て、シリア国民は独立を固める必要を感じ、国民議会の開催を準備した。アラブ青年協会などの民族主義的なグループはシリアの完全な独立を主張した。米国が主導する調停委員会はシリアの独立を支持した。選挙がおこなわれ、シリア各地の代表がダマスカスに集まった。レバノンとパレスチナの代表も参加した。フランスが国民議会の開催を妨害しようとしたため、ダマスカスに来れなかった代表もいた。

1919年6月3日シリアで最初となる正式な国民議会が開催された。アラブ青年協会に所属するハシム・アタシが議長に選出された。6月25日調停委員会がダマスカスに到着すると、「独立か死か」と書かれたビラがまかれた。

7月2日国民議会はシリアの完全な独立を議決した。ファイサルを国王とする立憲王政の国家が成立した。議会はフランスの主張を拒否し、米国に支援を求めた。しかし英国または米国が助けててくれるだろうというファイサルの期待は裏切られた。英軍がシリアから撤退し、代わってフランス軍がシリアに進駐した。

       

1920年1月、ファイサルはフランスと交渉せざるを得なかった。交渉の結果、シリア王国の存立は認められたが、シリアはフランスの保護国となった。シリア政府はフランス人顧問と専門家を受け入れることになった。

ファイサルを支持するシリアの人々は完全独立を求めており、ファイサルの譲歩に反対した。彼らはフランスとの約束を撤回するよう、ファイサルに迫った。その結果ファイサルはフランスとの約束を撤回した。これと同時にフランス軍に対するテロが始まった。

1920年3月シリアの議会が開催され、議会は再び独立シリア王国の成立を宣言した。ハシム・アタシが首相となり、ユースフ・アズマが戦争大臣兼参謀長となった。

英国とフランスはシリア議会の一方的な行動を非難した。1920年4月連合国はサン・レモ会議を開き、英・仏による中東支配を決定した。ファイサルとシリア議会はこの決定を批判した。    

          〈シリアとフランスの戦争〉

数か月間シリアは混乱した。ファイサル政府がフランスとの約束を実行しなかったので、7月14日フランス軍司令官アンリ・グローは最後通牒を発した。フランスとの戦争が困難で犠牲の多いものなる、と考えたファイサルは最後通牒を受け入れた。しかし参謀長のユースフ・アズマは国王の命令を無視しフランス軍を迎え撃つため進軍した。フランス軍はベイルートからダマスカスに向かっていた。アズマが率いるシリア軍は各兵士がライフルを持つだけであり、近代戦を戦うことはできなかった。兵士の人数も少なかった。フランス軍は大砲を持っており、戦力の差は明らかだった。戦わずして降伏しようとした国王の判断は妥当だった。フランス軍とシリア軍はダマスカスの西方25kmの地点(Maysalun )で衝突し、シリア軍は簡単に敗れた。アズマ将軍は戦死した。

      

1920年7月24日仏軍はダマスカスを占領した。フランス領シリア・レバノンが成立した。国際連盟の委任統治という形をとっているので、いくらか地元民に配慮することになるが、あくまで主権はフランスにある。オスマン帝国解体後成立したシリア王国は約1年で消滅した。

シリア軍の降伏後ファイサル国王はシリアから追放されることになり、1920年8月英国へ亡命した。翌年8月彼は英領イラクの国王になった。

フランス軍によるダマスカスを占領の翌日(7月25日)、親フランス的なアラー・ダルビ( 'Alaa al-Din al-Darubi )の政府が成立した。約1か月後の9月1日グロー将軍はシリア・レバノンを7つの州に分割した。これは独立の動きを封じ、フランスによる支配を容易にするためだった。

独立シリア王国は激動の末1年で消滅したが、その後のアラブ毒利運動の精神的な支柱となった。植民地支配を打ち破ろうととするアラブ民衆の行動が罰せられて終わるということがこれ以後繰り返された。革命的な熱意も帝国主義の武力の前に無力であった。独立シリア王国はアラブ独立運動の象徴となり、西洋列強に対する不信の念が民衆の心に根付いた。西洋列強は嘘つきであり抑圧者であるという考えが定着した。

 

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シリア・アラブ王国(1919年6月ー1920年7月)

2018-10-20 18:55:44 | シリア内戦

 

第一次大戦でトルコが敗れ、シリアはトルコから独立したが、独立は1年で幕を閉じた。フランスがシリアの支配者となったからである。シリア国民は独立を奪ったフランスを憎み、1年間の独立期をシリア国家の出発点と考えた。短い独立期のシリアは「シリア・アラブ王国」と呼ばれる。国王はメッカの太守の3男ファイサル・アリーであり、シリアにとってよそ者であるが、ファイサルは現地のシリア人に統治をまかせたので、シリア・アラブ王国はシリア国民にとって自分たちの国であった。

トルコ帝国の解体後、シリアがシリア国民のものとなったのはたった1年であり、その後シリアはフランスの支配下に入った。冷酷な帝国主義の原則が貫かれたのである。この点を抜きにフランス統治時代のシリアを理解することはできない。またシリア・アラブ王国時代とフランス統治時代は近代シリアの形成期であり、シリアという国の基本的な特徴が表れている。これらの特徴は第2次大戦後のシリアを理解する鍵となっている。

シリア・アラブ王国時代の国王ファイサル・アリーはアラビアのロレンスとともにアラブの反乱を指揮した人物である。シリアが一度は独立できた経緯、そしてそれが消滅した理由について書いてみたい。

 

       《アラブの反乱》

19世紀後半オスマントルコ帝国の弱体化が明らかになっていたが、大一次大戦の後半には、オスマントルコ帝国の解体は必須と思われた。英・仏はオスマン帝国の分割を考えていたが、帝国内のアラブ民族の間には独立の動きがなかった。トルコ帝国の軍隊に所属していたシリア人将校が反乱に踏み出すことはなかった。こうした中で唯一反乱を起こしたのはメッカのハーシム家である。メッカはイスラム教の聖地であるが、トルコ帝国の辺境部である。トルコ中心部に近いシリアやイラクでは反乱は起こらず、遠いアラビア半島で起きたのである。

 

 

ハーシム家のフサイン・イブン・アリーはオスマン帝国からヒジャーズ地方を支配するアミール(太守)に任じられていた。彼はオスマン帝国による弾圧や抑圧に対し不満を持っていた。フサインはオスマン政府が戦後に彼を廃位しようとしているという証拠をつかんだため、1915年頃からイギリスの外交官で駐エジプト高等弁務官のヘンリー・マクマホンとの書簡を交わしていた。この書簡は後にフサイン=マクマホン協定と呼ばれるが、この書簡でフセインは、三国協商の側について協力することにより、エジプトからペルシャまでの全域を包含するアラブ帝国を建国できると確信した。

1916年6月10日、フサイン・イブン・アリーはオスマン帝国からの独立を宣言し、ヒジャーズ王国が誕生した。しかしメディナには強力なトルコ軍がいて、フサインの部隊はこれと正面から戦うだけの力がなかった。フサインは5万人の軍勢を組織していたが、当時ライフルを持っていたのはそのうちの1万人にも満たなかった。アラブ軍はトルコ軍の本拠地があるメディナを攻撃する能力ははなく、比較的少数の守備隊しかいない紅海沿岸部の港町を攻略しながら北上した。

 

 

 

アラブ軍の軍事顧問となったのがアラビアのロレンスである。トーマス・エドワード・ロレンスは英国の諜報員としてメッカに派遣された。エジプトの英軍の目的はパレスチナからダマスカスまで侵攻することだったが、戦力が不十分だった。そのためアラブ軍を利用し、これにトルコ軍をかく乱させることにした。アラビア半島にトルコ軍をくぎ付けにし、その隙にエパレスチナを攻略するつもりだった。

英軍がアラブ軍の力を借りなければならなかった状況をよく示しているのは、イラクで英軍がトルコ軍に敗北していたことである。

1914年末、英軍はイラクに上陸したが、一年後トルコ軍に包囲され全滅の危機に陥った。これを救出するため、総勢2万の援軍を送ったが、犠牲者を増やすだけで失敗に終わった。ドイツとの戦いが終了し、対トルコ戦に本腰を入れれば別であるが、そうでなければトルコ軍はあなどれ内的だった。

アラブ軍を利用しようとする英国とアラブの独立を願うメッカのフサイン・アリーの間には溝があった。ロレンスは間に挟まれ、苦労することになる。ロレンスがメッカに派遣されたのは1916年10月である。

メッカの太守は遠大な野心を持ち、広大なアラブ地域の独立を目標としていたが、こうした考えがアラブ軍に浸透していないこともロレンスの指導を困難にした。兵士の多くがアラブ全体の独立という発想を理解していなかった。アラブ軍がトルコの鉄道の爆破に成功した時の話である。鉄道を停止させ貨車に積んであった馬などの積荷を獲得すると、兵士の一部は満足して故郷に帰ろうとした。彼らにとって作戦は終了したのである。

ウィキペディア(日本語)には「アラビアのロレンス」と「アラブの反乱」という項目があるので、詳しくはそちらをお読みいただきたい。

 

アラブ軍は幾度も挫折しかけながら、ロレンスも一度は任務を放棄しながら、英軍の作戦の地ならしを続け、北上した。アラブ軍がダマスカスに入場すると、ダマスカスの市民は熱烈に歓迎した。ダマスカスの市民もシリア各地の人々もみずから反乱に踏み出すことはなかったが、アラブ軍の到着を喜び、この日以来彼らの多くがアラブ民族主義者となった。

 

アラブ軍がダマスカスに入場したといっても、英軍がトルコ軍に勝利した後である。トルコ軍と英軍の決戦がパレスチナ北部でおこなわれ、英軍が勝利していた。英軍は1918年9月30日ダマスカスに入場した。続いて10月3日アラブ軍がダマスカスに入った。その後英軍はアレッポまで進撃した。パレスチナとシリアの攻略に成功したのは英軍である。アラブ軍は前哨戦で活躍し、英軍の勝利のための地ならしをした。

パレスチナ北部で敗れたトルコ軍は兵器が不足しており、兵士の士気が落ちていた。トルコ軍は4年間の戦いで疲弊していた。前哨戦でのアラブ軍の活躍を知り、トルコ軍内のアラブ人将兵はトルコのために戦うことに疑問を持ち始めた。実際に軍を離脱する者もいた。

パレスチナ北部の決戦はパレスチナとシリアにおけるトルコの支配を終わらせた点で重要である。

ウィキペディア(日本語)には「メギッドの戦い」という項目があり、戦況が詳しく書かれている。

 

       《英国の2枚舌》

アラブ軍は英軍の勝利に便乗してしてダマスカスに入場しただけだったが、英国はメッカの太守フサイン・アリーに独立を約束していたので、ダマスカスを首都とするシリア王国の誕生を認めた。これは前哨戦においてトルコ軍をかく乱したことへの代償だった。ただし約束にはあいまいな点があった。フサインはエジプトからペルシャまでの全域を包含するアラブ帝国を建設を求めていたが、英国はこれを受け入れるつもりはなく、独立アラブの領域はシリアとヒジャーズだけと考えていたようである。

駐エジプト高等弁務官のヘンリー・マクマホンからフサインへの手紙(1915年10月24日付)で、マクマホンはシリアを約束したがレバノンを除外している。エジプト・パレスチナ・イラクについては何も約束していない。

英国はフサインにアラブの独立を約束する一方で、フランスと秘密協定を結んでいる。内容はオスマン帝国の分割に関するものであり、フサインとの約束と矛盾するものだった。秘密協定によればシリアはフランスの影響圏になっている。英国がフサインとの約束を守ろうとするなら、フランスとの密約を破棄しなければならない。もし破棄する勇気がないなら、英国がフサインに与えることができるのは、ヨルダンとイラクである。

 

 

英・仏間の秘密協定はフサインの蜂起直前の1916年5月16日に結ばれた。協定の折衝にあたったのはイギリスの政治家マーク・サイクスとフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコである。秘密協定は2人の名をとって、サイクス・ピコ協定と呼ばれる。

 

フランスが直接統治したかったのはアナトリア東部とレバノンであり、シリアは影響圏でよかった。ところがサイクス・ピコ協定は修正されることになった。

トルコが降伏し、連合国がトルコを占領中だった19195月ギリシャ・トルコ戦争が勃発し、3年間の戦いの後トルコが勝利した。その結果サイクス・ピコ協定を反映していたセーブル条約が修正された。シリア・イラクについては変更がなかったが、アナトリア全域はトルコ領になった。フランスは最も獲得したかったアナトリア東部を失った。そのためフランスは影響圏でよいと考えていたシリアの直接統治を考えるようになった。

シリアにアラブ国家の建設を望むフサインとフランスの対立が鮮明になった。

 

     《シリア・アラブ王国の成立》

ロレンスとともにアラブ軍を率いていたのはメッカの太守の3男ファイサルである。アラブ軍のダマスカス入場後、新たにシリア政府が誕生し、ファイサルが臨時政府の首班になった。彼はメッカ出身であり、ダマスカス市民にとって外来者であるが、政府に多くのシリア人を登用したので、シリア人はファイサルを支持した。

1919年1月パリ講和会議にファイサルはアラブの代表として出席し、オスマン帝国領アラブ地域の民族自決の原則による独立と主権の承認を求めた。しかしシリアを支配するつもりでいるフランスがファイサルの要求に反対した。

アメリカ合衆国が調停に乗り出し、住民意向調査を行なう委員会が設置された。委員会の2名が1919年6月に現地に入って調査を開始した。

 

19194月ファイサルは帰国し、6月議会選挙が行なわれ、全シリア議会が開催された。この議会において、シリアの独立とファイサルを国王とすることが議決された。

 

1919年8月アメリカ合衆国代表2名による住民意向調査委員会の調査報告書が出され、次のように今後の措置が提案された。

①パレスチナ、レバノンを含むシリア地方は、ファイサルを国王として単一の立憲君主制国家とし、期間を設けて合衆国またはイギリスの委任統治とする。ただし、レバノンはキリスト教徒の自治を認める。

②イラク地方はアラブ王家から人民投票により適当な人物を国王に選んで単一の立憲君主制国家とし、シリア同様に委任統治とする。

 

この委員会報告に対し、フランスはイギリスの陰謀であると非難し、イギリス国内では対フランス関係が悪化するとの懸念と、シリア地方における英軍の駐留経費が問題となった。このため、1919年9月イギリスはシリア地方から撤退すると発表した。シリア西部はフランス軍、東部はアラブ軍と交替し、パレスチナ及びヨルダン川東岸だけ駐留を続けるとになった。

この決定によりフランスは9月にシリアへ派兵を開始した。同じ9月にファイサルはロンドンでこの通告を受け、抗議したもののこれが受け入れられなかったため、フランスと交渉を行なった。折衷案が成立した。ファイサルはレバノンを放棄し、シリアについてはフランスの保護国となることを認め、アラブ政府の承認をとりつけた。

1920年1月帰国したファイサルに対し、シリアの指導者はフランスがつけた条件を容認できないと非難し、即時完全独立を求め、ファイサルもこれに同調せざるを得なかった。同月、散発的な武装蜂起がシリア各地で起こり、フランス・シリア戦争が始まった。

 3月8日シリア議会が開会され、同議会はパレスチナ及びレバノンを含む全シリアはファイサルを国王とし、立憲君主制国家として独立することを再度宣言した。

パリ講和会議以後の部分はウィキペディア「フランス委任統治領シリア」から引用した。

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レバノン分裂の原因は宗派対立ではない

2018-10-13 17:46:05 | シリア内戦

 

 

ダマスカスからベイルートは比較的近い。ホムスへ行くより近い。シリアの幹線道路1号線はベイルートに向かっている。オスマン帝国時代ベイルートはダマスカス州に所属していた。このことを思い起こすなら、1975年ー1990年のレバノン内戦にシリアが干渉したことを、侵略と呼ぶのは適当ではない。海を越えた遠い異国を植民地にするのとは違う。米国による中東支配のほうが「外国の干渉」と呼ぶにふさわしい。実際アラブの世論は常にそのように主張してきた。

15年続いたレバノン内戦はシリアが仲裁者となることで終了した。内戦中に多くのキリスト教徒がレバノンを去り、国外に移住した。キリスト教徒はレバノンの支配階級ではあるが、人口に占める割合は多くない。キリスト教徒の国外脱出によりさらに人口が減り、彼らがレバノンを支配し続けることは難しくなった。オスマン帝国時代末期から続いたキリスト教徒によるレバノン支配は終わりをむかえた。

内戦によりキリスト教徒とイスラム教徒の勢力が逆転したが、内戦の国際的な構図は残り、内戦終結後イスラエルとシリアは抗争を続けた。

 

     《レバノンをめぐる国際的な緊張》

イスラエルにとってレバノンもシリアも隣国である。イスラるの北がレバノンであり、北東がシリアである。シリアレバノンが一体化し軍事力を持つ日が来るなら、イスラエルの生存が危うくなる。そしてそれが現実となりつつある。

2003年米国がイラクに侵攻し、サダム政権が倒れた。イラクにおけるスンニ派とシーア派の地位が逆転し、シーア派が優位に立つようになった。シーア派の指導者の多くは、サダム政権時代イランに亡命した経験を持つ。イラン政府の庇護のもと、イランに亡命し力をつけた政党が現在イラクの主要政党となっている。イランで成立した軍事組織は現在正規軍と互角の軍事力を有している。

イラクにおけるシーア派の地位は揺るぎないものとなっている。そして彼らの背後にはイランがいる。イランはシーア派の国であり、カルバラなどイラク南部のシーア派の生地は、イランのシーア派にとっても重要な聖地である。

イランは内戦に苦しむアサド政権を窮地から救い、シリア各地に軍事拠点を持っている。イランから地続きでイラクとシリアにイランの影響圏ができあがった。この影響圏はレバノンまで延びている。レバノンのヒズボラは全面的にイランに依存している。

2000年代イランの大統領だったアフマディニジャドが国連で演説した。「イスラエルという国は消滅するだろう」。直訳は「イスラエルを地図から消してやる」である。国連加盟国を消滅させるという発言は禁句であり、これを聞いた各国代表は席を立ち、退場した。

一般の人にとってアフマディニジャドの発言は、少し変人の大統領がまた過激なことを言っている、という程度だったが、当のイスラエルは内心穏やかではなかった。

そしてシリア内戦がアサド政権の勝利で終わりそうになる2018年には、イラン本国からイラク・シリア・レバノンへ続くイラン回廊が完成した。変人アフマディニジャドの言葉は、現実味を帯びてきた。イスラエルの恐怖は相当なものであり、20189月、ネタニヤフ首相は「先制攻撃の必要性」を説いている。

 

レバノンのキリスト教徒の優位が失われた最大の原因は人口に占める割合が低下したためである。しかしレバノンの経済的繁栄を支えてきたのは彼らである。イスラム教徒側は政治的に優勢になったとはいえ、キリスト教徒と妥協しなければレバノンの繁栄はない。またキリスト教徒はイスラエル・サウジアラビア・米国から支援されており、キリスト教徒が極端に圧迫されるなら、再起をかけてイスラム教徒による支配に挑戦するかもしれない。1990年の内戦終結からシリア内戦開始までの20間レバノンは微妙な均衡状態にあった。シリア内戦が始まると、均衡は破れつつある。

 

   《レバノンの歴史が教えること》

1943年レバノンはフランスから独立したが、その後の歴史はキリスト教徒とイスラム教徒の間に妥協が成立しては破たんするということを繰り返してきた。そして1975年遂に内戦に突入した。妥協が破綻する原因はほとんどの場合国内問題が原因ではなく、中東情勢に巻き込まれた結果国内が分裂したのである。イスラエルの隣国であり小国であるレバノンはイスラエル対アラブの紛争から距離を持つことはできなかった。

 

       《レバノンの大統領の条件》

レバノンのキリスト教徒の指導者の中には、レバノンはキリスト教国であり、キリスト教徒が国家を運営すべきであると考える者もいた。彼らは下層民であるイスラム教徒に対する譲歩を不要と考えた。紛争や内戦で活躍するのは彼らであるが、平時において彼らの代表が大統領になることはなかった。多数派であるイスラム教徒の支持を得なければレバノンは安定しない、と考えるキリスト教徒が代々大統領になった。大部分のキリスト教徒とイスラム教徒はレバノン国民という共通の意識を持っており、キリスト教徒の指導者であってもイスラム教徒の支持を得ることはできたのである。

「キリスト教徒とイスラム教徒の対立は避けることができる」と独立後のレバノンの歴史は教えている。宗教は異なってもレバノン国民という共通意識があり、指導者がこの意識に配慮した時期のレバノンは安定し繁栄した。レバノンは地中海に面し、海路でヨーロッパとつながっているので、経済発展のチャンスがある。レバノンの良き時代が突然破られるのはアラブとイスラエルの対立に巻き込まれたからである。小国は国際紛争に巻き込まれやすい。レバノンは中東の動乱に翻弄されたのである。

冒頭でシリアとレバノンの距離的近さについて述べた。ダマスカス市民にとって、北東部のハサカやデリゾールより、レバノンのほうが身近だった。植民地帝国フランスは

レバノンとシリアを分断した。この行為は後々まで非難されるだろう。しかし1920年レバノンはシリアから分離し、1943年独立国となり、人々のの間にレバノン国民という意識が定着していった。現在では、「レバノンはシリアの一部だ」と主張することは無理がある。1943年以後のレバノンの歴史について知ると、レバノンは独立国として歩むのがよいと思えてくる。

レバノンノンの宗派対立は根本的なものではなく、実はどこの国にもある階級対立である。国家権力は富裕階級と結びつくのが常であり、貧困層の問題を放置すれば、どこの国も国家分裂の危機になる。

 

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オスマン帝国時代のレバノンとシリア

2018-09-29 23:26:03 | シリア内戦

シリアは米国にとって敵国である。これはシリアがアラブ民族主義路線を捨てないからだ。アラブ民族主義は欧米による中東支配を終わらせることを目的としており、中東に大きな利権を持つ欧米諸国を中東から追い出すことを考えている。

米国は2001年以来アサド政権を倒そうと考えてきた。代わりに、親米的な政権を打ち立てるのである。2003年米軍がイラクを占領すると、シリアはこれに反対し、反米テロリストをイラクに送り、またテロリストが自国を通過するのを許可した。これに対し米国は「シリアは滅ぼされるべき国家」であると宣言した。

2005年レバノンのハリリ元首相の暗殺を契機に、米国はシリアの反体制派を支援し、アサド政権転覆のチャンスをうかがった。

ハリリ元首相の暗殺はレバノンをめぐるイスラエルとシリアの対立を象徴する事件である。イスラエルの背後には米国がおり、シリアの背後にはイランがいる。1980米国年のイラン革命以来米国とイランは敵対関係ニある。レバノン内戦は1990年に終了したが、内戦の構図は残っている。

2006年7月イスラエ軍がレバノンに侵攻したが、ヒズボラの抵抗にされ、やむなく退却した。アラブ・イスラエル戦争においてイスラエルは4戦全勝であり、勝利なくして退却したのは、この時が初めてである。イスラエル軍と戦ったのはヒズボラだけでなく、レバノン南部から多くの志願兵が集まった。ヒズボラはもともと士気が高いうえに、志願兵も祖国防衛の意識が高かった。

4回の戦争でも、イスラエルが敗北しそうになった局面はあり、そこから逆転するのがイスラエルである。対レバノン戦では戦争を途中で放棄しただけで、イスラエル軍が弱体化したとまでは言えないが、ヒズボラを甘く見たのは明らかに誤算だった。今後ヒズボラの武器が増強されるなら、逆にヒズボラがイスラエルに侵攻する可能性がある。

ヒズボラの背後にはイランがいる。イランはヒズボラ結成結成以来の変わらぬ支援者である。ヒズボラは長年イランからの武器・資金の援助を認めず、「イランは精神的な支援者である」と述べてきた。2012年ヒズボラの指導者ハッサン・ナスララはイランから資金と武器を得ていることを認めた。イランの指導層には「イスラエル国家を消滅させるべきである」と考えるグループがいる。ヒズボラがイランの先兵としてイスラエルに戦いを挑む日が来るかもしれない。これはイスラエルにとって悪夢である。シリア内戦の2年目(2012年)、イランの革命防衛隊がシリアで活動していることを知ると、イスラエルの首相は動揺し、オバマ大統領にイラン攻撃を催促した。

イランの革命防衛隊はアサド政権を援助するためにシリアに入った。彼らは少数であり、自ら戦闘に従事するのではなく、アサド政権側で戦う民兵を組織していたのである。

これに恐怖をおぼえるイスラエルの心理は理解しがたいが、イスラエルとイランの対立が深刻であることは事実である。

シリアはイスラエルとの戦争を避けているが、レバノン問題ではイスラエルと対立している。シリアはレバノンの隣国であり、レバノノンに対し影響力がある。レバノンは民族構成が複雑で独立後も内紛が絶えなかった。シリアは中立な立場で、仲裁者としての役目を果たした。しかし1975年にレバノンで内戦が勃発すると、シリアは対立に巻き込まれてしまう。

レバノンの支配的な勢力はキリスト教徒であるが、人口に占める割合は過半数に程遠い。彼らは伝統的にレバノンの支配階級であり、彼らの経済活動はレバノン経済の大部分を占める。イスラム教徒の多くは地方の農民か都会の庶民である。1958年イスラム教徒が反乱を起こしたが、米国海兵隊によって鎮圧された。

レバノンは地中海貿易で繁栄しており、ヨーロッパとの交流が盛んである。また彼らの宗教はヨーロッパと同じである。アラブなまりがない標準的な英語を話すレバノン人も少なくない。

その一方で、レバノンはシリアと関係が深い。オスマン帝国時代シリアとレバノンの間に国境はなかった。第一次大戦後の1920年3月、シリアの議会は次のように宣言した。

「パレスチナ及びレバノンを含む全シリアはファイサルを国王とし、立憲君主制国家として独立する」。

フランスがこれを無視したため、5月シリア議会は完全独立の要求と委任統治拒否を議決した。

7月はじめ、レバノンに進駐していたフランス軍はダマスカスに向けて進軍を開始し、ファイサル国王に委任統治受諾を要求した。国王議会はは独立を主張し激しく反発したが、国王は議会を解散し、フランスの要求を受け入れた。

7月23日フランス軍はダマスカスを占領し、28日ファイサル国王をダマスカスから追放した。ファイサル国王はイタリアへ逃れた。

8月10日セーヴル条約によりパレスチナがシリアから切り離され、英国が統治することになった。

 

  

セーブル条約で新たに生まれた国境線は住民の民族構成や経済的一体性を無視し、かなり乱暴に決められた。アレッポ県は南北に分断された。日本語ではアレッポの古代・中世の呼び名はハレブとされてきた。オスマン時代はアレプと呼ばれたようだ。

仏領シリアと英領イラクの境界線も乱暴に決められた。

  

 

次にフランスが統治することになったシリアについてみてみたい。

セーブル条約の翌月フランスのグーロー高等弁務官がシリアを5分割し、各地域に知事を置いた。

 

ゾール県はアレッポ州とダマスカス州に分配され、消滅した。南部のドゥルーズ派に独立した領域が与えられた。北部のクルド人には独自の領域が与えられなかった。

           〈ジャバル・ドゥルーズ州〉

ジャバルは山という意味であり、ジャバル・ドゥルーズ州をあえて訳せば山岳ドゥルーズ州となる。ドゥルーズ派は元来エジプトのシーア派(イスラム教)だったが、1000年代の前半エジプトから逃れシリアの山岳地帯に住み着いた。彼らは団結心が強く、自分たちの伝統に忠実である。ドゥルーズ派はフランスの高等弁務官から独立した領域を与えられたにもかかわらず、1925年反乱を起こしている。高等弁務官がシリアに近代的な制度を持ちこもうしたが、それはドゥルーズ派の伝統を破壊することになった。フランス統治下のシリアでは、ほとんどの地域がフランスによる支配に不満を持っており、不満を行動に示したドゥルーズ派は尊敬された。

      〈大レバノン州〉

何故小さな領域しかないレバノンが大レバノンと呼ばれているのか。その理由を知ることは1975年から1990年まで続いたレバノン内戦の原因を知ることでもある。

少し遠まわりになるが、オスマン帝国時代のレバノンについて説明したい。

     

オスマン帝国時代、レバノン地方はいくつかの県に分かれていたが、中核部分はレバノン県だった。この地域は港湾都市ベイルートとその後背地からなっていた。後背地の東北端にレバノン山があり、レバノン県は古い時代からレバノン山地方と呼ばれてきた。県名もレバノン県ではなく山岳レバノン県と表記されることもある。19世紀になるとベイルートが経済的に発展し、レバノンで最も重要な都市になるが、この地域は伝統に従いレバノンまたはマウント・レバノンと呼ばれていた。

  

上記の地図は1888年以後のものであり、それ以前はベイルート州は存在しない。レバノン地方の各県はダマスカス州に所属していた。

地図には変則的な点がある。ベイルート市はレバノン県に所属せず、南隣りのベイルート県に所属している。ベイルート県とされている地方はシドン地方であり、本来シドン県とすべきである。この奇妙なやり方の原因はレバノン県はキリスト教とドゥルーズ派の間で内紛があり、ベイルート市は混乱に巻き込まれるのを避け、離脱したのである。ベイルート市は新たにシドン地方を得たうえ(ベ、レバノン地方はベイルート州と呼ばれることになった。ベイルート県とベイルート州の創設の原因となった1839年ー1860年の内紛はレバノンが抱える問題を鮮明にしている。20世紀後半のレバノンの複雑なを理解する助けになる。

         《オスマン時代のレバノン内戦》

レバノン県の主要勢力はキリスト教徒であり、ベイルートを拠点に地中海貿易に従事し、富を築いている。しかし、レバノン県の南部はドゥルーズ派(イスラム教)の居住地となっている。1839年トルコ政府は近代化の改革に着手した(タンジマート改革)。改革には宗教的差別の廃止が含まれていた。これはイスラム教徒の特権を否定することであり、イスラム教徒のドゥルーズ派は格下げされたと感じた。これが引き金となってキリスト教徒とドゥルーズ派の間の紛争が発生した。紛争は2年経過しても終わらなかった。1842年12月トルコ政府はレバノン県を南と北の地区に分けるよう、ダマスカスの州知事に要請した。しかしこの対策は外国の圧力によるものであり、キリスト教徒とドゥルーズ派の間の対立はかえって深まった。

1858年キリスト教徒内部の分裂が明らかになった。重税に苦しむキリスト教徒の小作農がキリスト教徒の地主に封建的特権の廃止を求めた。地主が要求を拒否したので1959年1月、農民は武装反乱を起こした。ケゼルバン地方の領主たちは追い出され、農民が土地と建物を接収した。

     

ケゼルバン地方の反乱は他の地方にも影響を及ぼし、キリスト教徒の農民はドルーズ派の地主に対しても武装反乱を起こした。ドルーズ派の領主は武装農民に対する防衛のためドルーズ派の民兵を組織した。1842年レバノン県は南北に分断され、北部はキリスト教地区、南部はドゥルーズ派地区とされたが、キリスト教地区にもドゥルーズ派が住んでおり、ドゥルーズ派地区にもキリスト教徒が住んでいた。

1859年8月北部でキリスト教徒農民とドゥルーズ派農民が衝突した。キリスト教の司教がレバノン県の委員会に軍隊の介入を要請した。しかし軍隊の派遣を待たずドゥルーズ派領主の民兵が農民の争いの仲裁に入った。

農民の若者20名が死亡した。

これを契機にドゥルーズ派領主は戦争の準備を始めた。トルコ政府はこれを黙認した。一方キリスト教の司教はキリスト教徒農民に武器を配り始めた。

これは北部のキリス教地区で起きたので、住民構成はキリスト教徒が多数派だった。キリスト教徒に武器が渡るなら、彼らが優勢であることは明らかだった。しかしダマスカス州全体ではイスラム教徒が多数派であり、また彼らはキリスト教徒に反感を持っていた。トルコ政府の近代化政策により、宗教が平等化され、イスラム教徒は特権を失い、リスト教徒と同等になってしまったからである。

ダマスから最も近い大都市はベイルートであり、レバノン県はダマスカス州に属している。ベイルートとダマスカスは幹線道路で結ばれており、両都市間の往来はかなり容易である。現在もシリアの幹線道路1号線はベイルートに向かっている。

 

レバノンのキリスト教徒は、ダマスカスのイスラム教徒の感情をよく知っており、恐怖を持っていた。そしてこの恐怖が現実になる。

レバノン県の事件が翌年ダマスカスに波及する。

1860年7月9日ー11日、ドゥルーズ派とスンニ派がダマスカスのキリスト教徒を虐殺した。トルコ軍は計画段階でこれを承知しており、黙認した。2万5000人が死亡した。米国とオランダの領事も殺された。死者の数は1万5000人という説もあり、正確な数字は分からない。教会と宗教学校は焼き討ちされた。こうした中で郊外の貧民地区のキリスト教徒は隣人のイスラム教徒によって守られた。よって守られた。

(参考)wikipedia:1860 Mount Lebanon civil war

              《 フランス統治下のレバノン》

第一次大戦後レバノン州は他の州とともにフランスの統治下に入った。フランスの高等弁務官はオスマン時代の県境と州境を無視し、新たに6つの州を設定した。この際レバノン州の州境が東にずれ、領土が増えた。これはレバノン州の指導者が内陸部の土地を拡大することを望んだからである。これはダマスカス州の領土を切り取り取り、レバノン州に与えることだった。ダマスカスのスンニ派にとって不利益であり、レバノンのキリスト教徒にとって有益なことはフランスの高等弁務官の望むところだった。オスマン時代のレバノン州を小レバノンと呼び、フランス統治時代のレバノン州を大レバノンとよぶことになった。

上記の地図の中に、小レバノンと大レバノンの違いがよくわかるものがある。Keserwan Districtと書かれた地図には、レバノン山脈が示されている。伝統的な小レバノンは地中海とレバノン山地の間の地域である。フランスが設定した大レバノンはバノン山脈の東側の部分も含んでいる。

支配者は領土を得ることしか考えない。砂漠でもない限り土地には人が住んでいる。大レバノンは新たにスンニ派とシーア派を多数抱えることになった。彼らはイスラム教徒である。これまでドゥルーズ派以外のイスラム教徒は無視できたが、スンニ派とシーア派が増えたために、人口の点で彼らは第3の勢力となった。

これまでキリスト教徒と述べてきたが、正確にはマロン派キリスト教徒である。レバノンにはギリシャ正教徒もいるが少数であり、話を単純にするため無視してきた。

      

 

        《レバノン内戦 1975-1990年》

第三の勢力となったスンニ派とアラウィ派の多くは地方の農民か都市の下層階級であり、政治参加の意識も弱く、当分の間問題を起こすことはなかった。

ところが1970年ヨルダンから追い出されたパレスチナ解放機構(PLO)がレバノンに逃げ込んできた。情けない話だが、レバノンの軍隊は彼らを追い出すだけの軍事力がなかった。PLOはイスラエルを敵とする軍事集団である。レバノンはイスラエルと国境を接している。イスラエルとPLOは一触即発の状態となった。貧しいイスラム教徒はマロン派の富裕階級に不満を持っており、PLOの存在に励まされ、武装グループを結成した。マロン派は以前から民兵組織を有していたが、イスラム教徒の武装組織に対抗するため新たに民兵組織を結成した。彼らはイスラエルの支援を受けた。

イスラエルとPLOの対立がレバノン内戦の原因であるが、最初に武力衝突したのはマロン派(キリスト教徒)とイスラム教徒である。レバノン内部の階級対立という形で内戦が始まった。両者の戦闘が長引くにつれ、キリスト教徒とともにレバノン支配の一翼を担っていたドゥルーズ派もイスラム教徒の側に立って参戦した

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ギリシャ・トルコ戦争 1919年ー1922年

2018-09-15 19:55:08 | シリア内戦

 

第一次世界大戦においてオスマン・トルコ帝国はドイツ・オーストリア側に立ち参戦したが、1918年10月連合国に降伏した。

しかし停戦から半年後の1919年5月15日、ギリシャは、停戦協定を破り、小アジア西岸の都市イズミルに軍隊を上陸させた。イギリスがこれを支援していた。ギリシャの野望は大きく、アナトリア半島の沿岸部を奪うことであった。もしギリシャの野望が実現したなら、トルコは小さな内陸国となってしまう。バルカンからシリア・イラク・アラビアに及ぶ広大な領土を有したオスマン帝国が内陸の小国に転落するするのである。もっとも、大一次大戦後領土が収縮した帝国はほかにもある。オーストリアである。大戦前、オーストリアの領土はかなり広く、チェコ・ハンガリー・クロアチア・ボスニア・イタリア北東部を含んでいた。オーストリア・ハプスブルグ帝国は中世から近代にかけてドイツの歴史の中心に位置し、ドイツの文化的発展に貢献した。そのもっともよい例が音楽である。ハイドン・モーツアルト・ベートーベン・シューベルトはウイーンで活躍した。2つの大国オーストリアとトルコが大一次大戦で敗者となり小国に転落した。歴史の流れは国家の領域を激変させるのである。現在オーストリアとトルコは小国のイメージが定着している。

第一次大戦でトルコはイギリス・ロシアを相手に4年間戦った。この間トルコはダーダネルス戦で英国艦隊に壊滅的な打撃を与え、同じく英国のガリポリ上陸作戦を失敗に終わらせている。どちらの作戦もコンスタンチノープル攻略を目的としたが、英国は完全に失敗した。しかしながら長期戦では米国に支援される英・仏側が有利であり、トルコは敗北を受け入れた。

停戦から半年後の1919年5月15日、ギリシャ軍がイズミルに上陸した。これは火事場泥棒のような行為である。一般的に、大戦後の敗者に再び戦う気力は残っていない。火事場泥棒は成功することが多い。

しかしトルコは違った。1918年519日、軍集団(=数個師団)の司令官の一人が他の司令官たちや有力政治家に呼びかけ、抵抗運動を組織した。愛国的な抵抗運動はオスマン帝国領の分割に反対した。列強に対する抵抗運動を組織したケマル・パシャは後に祖国再建の父として国民の尊敬を集めることとなる。

抵抗運動の成立から5か月後(1918年10月)に停戦が成立し、11月半ばに英軍と仏軍が首都コンスタンチノープルを占領した。停戦が成立したとはいえ、トルコの分割を予定していた列強と、これに反対するケマル・パシャたちの抵抗派の対立は大きかった。

最初に書いたように、ギリシャ郡のイズミル上陸は1919年5月15日である。ケマル・パシャが指導するトルコ軍は戦争準備に一か月を要し、1919年6月27日ギリシャ軍と衝突した。トルコ軍にとっては祖国の存亡をかけた戦いであり、ギリシャとしてもアナトリアの沿岸部の獲得は1823年の独立以来の悲願であった。ギリシャの独立はバルカン半島南端部の独立で終了したのではなく、対岸のアナトリア半島の一部を獲得するまで独立は未完成だった。さびれた港町アテネは一時的な首都に過ぎず、本来の首都はコンスタンチノープルになるはずだった。独立後のギリシャの目標は、コンスタンチノープルを中心にバルカン半島とアナトリア半島にまたがる国家の建設だった。

20世紀初頭アナトリア沿岸部の住民がギリシャ語を話していたことを示す地図がある。地図中の色分けはギリシャ語方言の違いを示しており、これらの場所ではギリシャ語が話されているということである。

 

   

 

 

古代ギリシャ人は商業民族であり、地中海貿易に従事し、富を築いた。地中海沿岸の各地にギリシャの植民都市が築かれた。現在のイタリア、スペイン、フランスの地中海沿岸部にギリシャの領土はないが、先祖代々ここに住む住民の血にはわずかながらギリシャ人の血が流れている。トルコの地中海沿岸部も同じ事情である。また古代ギリシャ人は黒海にも進出しており、トルコの黒海沿岸部にもギリシャ人の植民都市が生まれた。

アナトリア半島の南と北の沿岸部はマケドニア時代にもギリシャ都市として発展を続けた。東ローマ帝国が1453年まで続いたため、ギリシャ人共同体が存続し、生活習慣と言語も受け継がれた。東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国は帝国内の異民族と宗教に対して寛容であり、宗教税を納めれば彼らの宗教に干渉しなかった。こうして20世紀になっても、トルコの地中海沿岸部にはギリシャ語を話す住民が多く存在した。

 

ギリシャは1823年トルコから独立したが、その後着実に領土を拡大した。

 

 

 この地図にはギリシャがセーブル条約で獲得した領土も示されている。黄色の部分である。セーブル条約が締結された1920年8月10日ギリシャ軍とトルコ軍は戦闘中である。戦闘開始から1年経過しており、さらに1年続くことになる。結局ギリシャはセーブル条約で得た領土を失うことになる。

セーブル条約によりギリシャはアナトリアに領土を得たが、ギリシャが本来望んでいた領土はもっと多い。1919年ギリシャの首相ヴェニゼロスがパリの講和会議に自国の要望を提出したが、それは次のようなものである。

 

 

1920年8月10日のセーブル条約で、ギリシャは黒海沿岸部と地中海沿岸部を得ることができなかった。

 

 

地中海沿岸部の大部分がイタリアの勢力圏となっている。黄色の地に緑の縦線で示されているのがイタリアの勢力圏である。黄色の部分はトルコ領である。

セーブル条約におけるイタリアの勢力圏について少し説明したい。

トルコは1918年10月連合国に降伏・停戦し、11月半ば英軍と仏軍が首都コンスタンチノープルを占領した。首都占領は停戦時の合意に基づくものであったが、翌19194月イタリア軍がアンタルヤに上陸した。これは19179月の英・仏・イタリア間の合意に基ずくものである。イタリアはアンタルヤを中心とする地中海沿岸部を獲得することになっていた。1917年ロシアで革命が起き、トルコとの戦争を担ってきたロシア軍が離脱したため、英・仏がその穴を埋めなけれなかったが、ドイツとの戦争が一進一退の状況で、余裕がなかった。それで両国はイタリアに頼ったのである。しかし英・仏は猫の手も借りたいからイタリアの要求を飲んだだけで、約束を果たす気持ちは薄かった。1919年になると英国はギリシャ軍に期待するようになり、ギリシャ軍のイズミル上陸を支援した。こうしてイタリア軍のアンタルヤ上陸の翌月、ギリシャ軍がイズミルに上陸することになった。

セーブル条約締結の時点でギリシャとトルコは戦闘中であり、その後トルコ軍はギリシャ軍の撃退に成功し、イズミルを奪還した。

1923年7月のローザンヌ条約はトルコの勝利を反映しており、ギリシャはセーブル条約で得た領土を失った。また地中海沿岸部のイタリアの影響圏も消滅した。トルコはシリア・レバノン・イラク・パレスチナ・ヨルダンを放棄し、アナトリアの領土を回復した。アナトリア東部におけるフランスの影響圏も消滅した。

同じくアナトリア東部のアルメニア領とクルド領も消滅した。

 

 

ローザンヌ条約で唯一残った外国の影響圏があり、ダーダネルス・ボスポラス両海峡の国際管理となった。これは英国の権益である。

ギリシャ・トルコ戦争の終結後、住民交換がおこなわれた。約100万人のギリシャ正教徒がトルコからギリシャへ、50万のイスラム教徒がギリシャからトルコへと移住した。彼らは故郷を追われるのと同じであり、双方の合計150万人が悲痛な体験をした。

ギリシャの野望は多くの住民に苦しみを与えただけで終わった。しかしギリシャの野望はイスラエル建国ほど空想的ではない。1453年に滅んだビザンチン帝国はギリシャ帝国の側面を持っていた。

ビザンチン帝国は東ローマ帝国とも呼ばれるように、ローマ帝国の東半分であるが、西ローマが滅んでから、イタリア半島に領土を持ち続け多。イタリアにおいても東ローマの影響がおおおきかった。800年にカール大帝が西ローマ皇帝となるまで、東ローマ皇帝は単独のローマ皇帝だった。ビザンチン帝国の公用語はラテン語ではなくギリシャ語である。またギリシャ正教の聖職者と官僚はギリシャ人だった。ギリシャ人は帝国の統治に深く関与しており、東ローマ帝国はギリシャ人の国家と言えた。

1453年東ローマ帝国はオスマン・トルコによって滅ぼされた。そのオスマン・トルコ帝国19世紀末には衰退が著しく、第一次大戦での敗北により解体が避けられなかった。そのような時、伝統的なギリシャ人の国家を再建するという考えが生まれるのは自然だった。ビザンチン帝国の亡霊が現れても不思議ではない。

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米国は2001年にシリア攻撃を決定していた

2018-08-31 22:53:20 | シリア内戦

米国は2005年以来、アサド政権の転覆を画策しており、外国に亡命しているシリアの反体制派を支援してきた。これは米政府の外交通信から明らかである。2005年以来の米国の策謀については前回まで書いてきた。米国はアサド政権の転覆について、2001年9月に決定していた。9月11日貿易センタービルが倒壊したが、イラク攻撃はその10日後に決定された。米国は2003年3月にイラクを攻撃したが、これは1年半前に決定されていた。そして米国の計画はイラクだけを攻撃対象にしたものではなく、中東の敵性国家のすべてを攻撃することだった。ソ連崩壊後、米国に対抗できる軍事力を持つ国は存在せず、米国の新保守主義者はこの機会を逃さず米国に有利なように世界秩序を再編しようとしたのである。

2001年9月に決まった中東再編のための戦争計画で、イラク攻撃の次に予定されていたのはシリア攻撃である。しかしこの予定は狂ってしまった。米軍はバグダードを占領し戦争に勝利したが、戦後のイラクは武装ゲリラによるテロが頻発(ひんぱつ)し、安定しなかった。そのためシリア攻撃は延期された。しかし計画を放棄したわけでなく、チャンスをうかがっていたのである。

 2001年9月米国がイラク、シリア、リビア、イランへの攻撃を決定したことについて、ウェズリー・クラーク退役将軍が証言している。

     〈クラーク退役将軍の爆弾発言〉

米国は2003年3月米国はイラクを攻撃した。開戦理由としてイラクが生物・化学兵器を保有し、核兵器を開発していることがあげられた。開戦理由には多くの疑問があったが米国は開戦に踏み切った。2007年米軍の元陸軍大将がイラク戦争には差し迫った理由がなかった、と語った。地政学的に重要な中東の情勢を米国に有利な形で解決するため、ブッシュ政権は武力を行使することにしたのである。つまりイラク攻撃の理由は米国による中東支配の強化であり、そのための手段として米国は圧倒的な軍事力を持っていた。たとえて言うなら、米国はかなづちであり、米国に敵対する中東の国はくぎにすぎなかった。

1990年前半のユーゴ内戦の時、ウェズリー・クラークはユーゴスラビアへの攻撃を指揮した。彼は1997年から2000年までNATOの欧州最高連合司令官だった。米軍の中心を歩んできた彼は、2007年3月米国の独立系テレビ「デモクラシー・ナウ」に出演した。その番組でクラーク元大将が爆弾発言をし、この発言は有名になった。イラク戦争を決めたのはブッシュ大統領、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官であり、将軍たちに何の相談もなく、また戦争の理由についての説明すらしなかった。前例のない一方的な命令に、将軍たちは驚き、内心憤慨していたようである。クラーク元将軍の率直な話し方がその時の驚きを物語っており、インタビューの中で最も印象的な部分である。インタビューは公開の場でおこなわれており、この場面で観客から笑い声がもれた。このインタビュー はYouTubeに投稿され、拡散した。日本語字幕付きのものもある。その動画のリンクを張ればよいことであるが、資料として重要なので、クラーク将軍の話の内容を以下に書き写した。映像なしで文章だけを読む場合のことを考え、訳は一部変えた。

 

==《ウェスリー・クラーク元アメリカ陸軍大将が語る中東問題の真相》==

<https://www.youtube.com/watch?v=5ePR-KBvaX8>

            YouTube THINKERmovie

                 2011年4月14日投稿

それは2001年9月11日のテロから10日ほどたった日のことだ。私は国防総省(ペンタゴン)に行ったが、そこでラムズフェルド国防長官とウォルフォヴィッツ次官と顔を合わせた。それから下の階に行って私の部下たちに会った。すると、将軍のひとりが私を呼び、彼の部屋へ来いと言う。「ちょっと来てくれ。ぜひ話したいことがある。数分で終わるから、ともかく聞いてくれ」。

私は「あなたは忙しいのでは?」言った。

すると彼が答えた。

「いや、それほどでもない。実は、我々はイラクと戦争することになった」。

私は驚いて、彼に問いただした。「イラクと戦争だなんて! いったいどういう理由で?」

彼の答えはこうだ。「わからない」。

  (ここで聴衆が爆笑する)

彼は付け加えた。「たぶん他に方法がないのだろう」。

私は言った。「サダム・フセインとアルカイダの関係を示す証拠が見つかったのかな」。

彼が言った。「いや違う。新しいことは何もない。状況は今までと同じだ。ただ上のほうがイラクとの戦争を決めたのだ。彼らの考えはたぶん、こうだ。我々はテロ対策で行き詰まっている。しかし我々には強力な軍隊があり、不都合な政権を倒すことができる。我々はハンマーで、連中は釘(くぎ)だ」。

この話は2001年9月20日ごろのことだ。それから2ー3週間後、私は再び彼に会いに行った。この時アフガニスタンへの空爆は始まっていた。

私は彼に聞いた。「やっぱりイラクと戦争するんですか?」

彼は答えた。「疑問の余地なし。そしてさらに悪い」。そう言いながら、彼は机のほうに手を伸ばして、一枚の紙を手に取り、言った。「今日、上の階のラムズフェルド長官の部屋からまわってきたものだ。これに、こう書かれている。我々は今後5年間で7つの国を征服する予定だ。まずイラク。次にシリアとレバノン。それからリビヤ、ソマリア、スーダン。最後にイラン」。

================(YouTube終了)

米国が2001年にシリア攻撃を決定していたことは、ブッシュ大統領の発言からもわかる。

2002年1月29日ブッシュ米大統領は、イラク、イラン、北朝鮮の3国を、最も脅威となる国家として非難した。ブッシュは50年前に使用された言葉を復活させ、イラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼んだ。ブッシュが突然昔の言葉を持ち出したので、多くの人は戸惑った。第2次大戦に興味のある人はすぐわかった。第2次大戦においてドイツ・イタリア・日本は枢軸国と呼ばれた。枢(すう)はドアの回転軸(じく)であり、「支えとなるもの、中心」という意味でも用いられる。ドイツは西欧と東欧の中央に位置するので、ドイツとその同盟国を枢軸国と呼んだのだろう。

ブッシュ米大統領の「悪の枢軸」発言が1年後のイラク戦争の予告であると理解した人はほとんどいなかった。

1月末の「悪の枢軸」発言は有名になったが、3か月後(5月6日)ボルトン安全保障担当補佐官がキューバ、リビア、シリアを新たに「悪の枢軸」に加えたことはあまり知られていない。

2001年9月20日にシリア攻撃が決定されていたというウェズリー・クラーク将軍の発言に加え、ボルトン安全保障担当補佐官がシリアを「悪の枢軸」ひとつと呼んでいることを考え合わすなら、シリアがアメリカの攻撃対象だったことは疑いない。

イラク戦争の次に予定されていたシリアへの攻撃は延期されてしまったが、2005年レバノンの親欧米派首相ラフィク・ハリリが暗殺されると、米国は暗殺の背後にシリアがいると考え、アサド政権転覆の策謀を開始した。この時から米国の資金が亡命シリア人シリア人グループへ流れ始める。 

これに関連して桜井ジャーナルは次のように書いている。

「調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュは、ニューヨーカー誌の2007年3月5日号で、

アメリカ、イスラエル、サウジアラビアは、シリアとイランの2カ国とレバノンのヒズボラをターゲットにした秘密工作を開始したと書いた」。

(桜井ジャーナルの本文のタイトル;

元欧州連合軍最高司令官がISを作り上げたのは米の友好国と同盟国だと発言、西側のテロ作戦に綻び

 

 

2001年9月の決定は一度挫折したとはいえ、アサド政権転覆の工作は続けられた。

また2007年イスラエルはシリアの核施設を攻撃しており、イスラエルとシリアとの関係は緊迫していた。

2007年のシリアの原子炉への空爆について、イスラエルはこれまで沈黙してきたが、2018年3月18日これを認めた。イスラエル情報相は今になって公表する理由を語った。「10年前の出来事はイランへの警告として役立つ」。                       

2007年9月6日、イスラエル空軍の4機のF-16戦闘機が数百マイル離れたデリゾールにある原子炉を爆撃した。原子炉は大部分完成していた。この一夜だけの航空攻撃について、シリアもイスラエルもこれまで沈黙してきた。噂が流れ、盛んに議論されてきた。

今回公表された文書により、イスラエルが数年にわたりデリゾールの原子炉を監視したことなど、作戦の全体が明らかになった。北朝鮮の技術援助により、シリアはプルトニウムを得るための原子炉を自国内に建設した。原子炉はほぼ完成しており、数か月以内に稼働すると予想された。

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シリア国民評議会と米国 2012年7月

2018-08-16 22:51:46 | シリア内戦

2012年11月、シリア反体制派の統一組織「シリア国民連合」が成立した。シリアの反体制派はいくつものグループに分裂していたが、何とか連合するに至ったのである。シリア内戦を発端から見ていくならば、「シリア国民連合」の成立はかなり遅い。デモが始まった2011年ではなく、翌年の11月である。もちろんその間反体制派を代表する組織は存在しており、活発に活動していた。それが「シリア国民評議会」である。そしてシリア内戦の原因を考えるとき、「シリア国民評議会」が果たした役割を見過ごすことができない。「シリア国民評議会」は2011年8月23日イスタンブールで成立したが、その母体となるグループは2005年以来、アサド政権の転覆を画策しており、アラブの春が始まった2011所と以後彼らの活動は活発になった。

「シリア国民評議会」と英・米との密接な関係について、英紙ガーディアンが書いている。「シリア国民評議会」の成立過程についてはほとんど知られていなかったが、ガーディアンが光をあてた。

本文中で言及がある「シリア救国戦線」について前もって説明しておく。2005年レバノンのハリリ大統領の暗殺を批判して亡命したカッダム元副大統領を中心に集まったグループである。一時期反体制派の中で最大のグループとも言われた。

カッダム元副大統領はバニアスの出身であり、2011年3月・4月地中海沿岸部のデモが過激化したのは、彼の配下のグループの活動といわれている。

次に訳すガーディアンの記事には、2005年「救国戦線」と米政府との接触が最初に実現した、と書かれている。この記事は「シリア国民評議会」についての説明であるが、その主要構成グループである「正義と平和運動」についても言及されている。「正義と平和運動」については、私は前回の投稿で書いている。

 

==《シリア反体制派の広報官は誰を代弁しているのか》==

  The Syrian opposition: who's doing the talking?

                by Charlie Skelton

<https://www.theguardian.com/commentisfree/2012/jul/12/syrian-opposition-doing-the-talking

                  ガーディアン 2012年7月12日   

現在(2012年7月)、シリアでは町や村が破壊され、多くの市民の兵士が死んでおり、死者数は数千人となっている。これから書くのは、こうした内戦の血なまぐさい出来事についてではないが、重要なことである。シリアの内戦について報告しているのはどのような人々か、について書くのである。反体制派の広報官たちはシリアについての専門家や民主主義を求める活動家であり、シリアの反体制派を代表して発言している。彼らは欧米諸国によるシリアへの干渉を求め、早急の行動が必要であると警告している。これから書くのは、シリアの反体制派の中で最も注目されている人物についてであり、彼らと英・米の民主化運動プロジェクトとの関係についてである。反体制派を代表して発言する彼らの経歴について、欧米のメディアは多くを語らない。また彼らの発言内容を検証しようとしない。彼らがアサド大統領を憎んでいることは確かであり、その点についてどうこう言うつもりはない。問題なのは彼らの独立性である。

実際シリアの反体制派の代表的な人物の多くは古くからの亡命者であり、彼らは米国から資金を得ている。米国はアサド政権を倒す目的で彼らを支援してきたのである。米国の計画は2011年のアラブの春よりずっと前に始まった。

現在亡命グループは声高に外国の軍事介入をもとめているが、米国政府は現在の段階ではまだ、武力によるアサド政権の打倒を宣言していない。しかし米国のネオコン(新保守派)たちはシリアの亡命グループの長年の友人である。ネオコンはブッシュ大統領のイラク侵攻を熱心に支持したが、現在はシリアへ軍事介入するようオバマ大統領に圧力をかけている。シリアの反体制派を代表する人たちは米国の援助を得ており、米国とヨーロッパの好戦的なタカ派との密接な関係により利益を得てきた。ネオコンによるオバマ政権への圧力は成功しているようだ。4日前(7月8日)クリントン国務長官は「我々は重要な決断に近づいている」と述べた。シリアにおける戦闘が激しくなり、ロシアの戦艦がシリアのタルトゥス(地中海に面する港)に向かっている。このように緊迫した時期に、シリア国民を代表して発言している人々について知ることは、意味がある。    

      〈シリア国民評議会〉

昨年8月、シリアの反体制各派が結集し、「シリア国民評議会」が成立した。これに参加していないグループもあるが、「シリア国民評議会」は反体制派を代表する最大の組織である。ワシントン・タイムズは次のように書いている。

「互いに対立する亡命グループが、ともかくまとまる必要性から互いの意見を調整する場として『シリア国民評議会』をたちあげた」。

「シリア国民評議会」は欧米と親しく交渉することができ、早い時期から欧米によるシリアへ干渉を求めてきた。今年(2012年)2月、「シリアの友」諸国のサミットがチュニジアで開かれた。会議の冒頭で英国のヘイグ外相が述べた。

「私は数分後、シリア国民評議会の指導者たちと会う予定だ。我々はシリア国民評議会をシリア国民の正当な代表と認めるつもりである」。

シリア国民会議の広報官の代表的な人物は、パリ在住のシリア人学者バッサマ・コドマニである。

        〈バッサマ・コドマニ〉

コドマニはシリア国民会議の役員であり、外交部長でもある。コドマニはシリア国民会議の権力の中心に近いところに位置し、最も発言力のある広報官である。

「アサド政権とのいかなる交渉も無意味である。議論すべきは新政権をいかに打ち立てるかである。必要なのは国連の第7章決議である。現政権がこれに従わない場合、武器輸入の禁止が課せられ、最終的には武力による制裁が発動する」。コドマニの念頭にあったのは、国連軍による平和維持活動である。

大規模な国際的軍事行動が要求される時、厳密に誰がそれを要求しているのかを知ることは重要である。シリア国民会議の広報官ということはわかっているが、その人物について知る必要がある。

今年のビルダーバーグの会議にバッサマ・コドマニは参加した。ビルダーバーグ会議は米国など先進国の財界・政界の大物が集まる会議である。非公式の先進国サミットのようなものである。非公式な故に、米国を中心とする先進国の影の権力者たちが彼らの世界政策について本音で話し合う。コドマニがビルダーバーグ会議に参加するのは、2度目である。最初の参加は2008年である。この時はフランスの学識者として参加したが、今回は国際関係の専門家として参加している。7年前(2005年)、コドマニはカイロのフォード財団の役員であり、国際協力計画部長だった。フォード財団は世界中で様々な活動をしており、本部はニューヨークにある。彼女はフォード財団の重役だった。しかしフォード財団は彼女の出発点に過ぎず、その後彼女はさらに重要な地位についていく。

2005年2月米国とシリアの関係が決裂し、ブッシュ大統領はダマスカス駐在米大使を米国に帰国させた。シリアの反体制派のいくつもの計画がこの時始まった。ワシントンポストが書いている。

「2005年米国とシリアの外交関係が断絶すと同時に、米国の資金がシリアの反体制派に流れ始めた」。

2005年コドマニは「アラブ改革イニシアチブ」の常任理事に就任した。「アラブ改革イニシアチブ」は「外交問題評議会(CFR)」が主催する研究プログラムである。「外交問題評議会(CFR)」は米国最強の圧力団体である。CFRは米国外交部門のエリートが集まる頭脳集団(シンク・タンク)である。CFRのウエッブサイトには、「アラブ改革イニシアチブ」がCFRのプロジェクトであると書かれている。「アラブ改革イニシアチブ」はCFRの中東プロジェクトの一部門である。

中東プロジェクトには欧米の外交・情報官僚と銀行家が集まり、中東情勢を分析している。国際的なメンバーからなる理事会が彼らを指導している。理事長は退役将軍のブレント・スコウクロフトである。ブレント・スコウクロフトはキッシンジャーの後継者として安全保障担当補佐官を務めた。「中東プロジェクト」の理事には大物が並んでいる。スコウクロフトの後継者であるブレジンスキーやゴールドマン・サックスの会長ピーター・サザーランドである。

以上述べたことから、2005年コドマニが「アラブ改革イニシアチブ」の常任理事に就任したことの重要性がわかる。欧米の支配層の中心に位置する情報専門家と銀行家がコドマニを選び、中東政策研究を担当させたのである。

米国を中心とするCFR(外交問題評議会)はよく知られているが、実は欧州版CFRも存在する。コドマニは欧州CFRのメンバーでもあり、欧州CFRの「アラブ改革イニチアチブ」の常任理事である。

欧州CFRはヨーロッパの頭脳集団(シンクタンク)であり、外交官・ジャーナリスト・学者のほかにジョージ・ソロスのような銀行家も参加している。ソロスの「開かれた社会財団」は欧州CFRへの主要な資金提供者である。つまり欧州CFRは銀行家の資金提供により集まった政策集団なのである。そしてコドマニはそのメンバーのひとりである。

要するにコドマニは多くの民主主義活動家とは異なっており、偶然シリアの反体制派のスポークスマンに選ばれたわけではない。

欧州CFRのメンバーであるコドマニは、国際政治の専門家として評価が高い。彼女はフランスの国際外交学院の主任研究員であり、カーネギー国際平和基金・中東センターの研究員である。国際外交学院の院長はフランスの海外情報機関の元将校ジャン・クロード・クースランである。カーネギー国際平和基金は比較的中立で、優秀な研究員が多い。

コドマニは専門家として評価され、英・米による中東民主化政策の推進者となった。アサド政権の打倒を目的とするシリアの反体制派は英・米の介入を強く望んでいるが、コドマニは両国と緊密に結びついている。彼女以外の反体制派のスポークスマンも同様である。

          <ラドワン・ツィアデ>

「シリア国民評議会」の外交委員長のラドワン・ツィアデも欧米の中東政策と深い関係がある。ツィアデの経歴は興味深い。彼は米国平和研究所の上級研究員である。米国平和研究所は国費によって設立された世界政策のためのシンクタンク(頭脳集団)である。平和研究所の理事の多くは元国防関係者や元安全保障関係者である。院長のリチャード・ソロモンはキッシンジャー安全保障担当補佐官の部下である。

今年(2012年)2月、ツィアデはワシントンのタカ派集団に加わり、オバマにシリアへの介入を求める書簡に署名した。書簡の署名者には、政治・軍事の実力者が名を連ねていた。

例えばブッシュ大統領に影響力があったカール・ローブや国防総省のイラン・シリア作戦の元責任者エリザベス・チェイニーなどである。ツィアデはワシントンの権力集団のメンバーであり、いくつかの由緒あるシンク・タンクと関係があった。

ツィアデはロンドンにも人脈があり、2009年チャタム・ハウスの客員研究員になった。また彼は昨年(2011年)6月のチャタム・ハウスの公開討論「シリアの政治的将来」に出席した。この討論には「シリア国民評議会」のメンバーであるナジブ・ガビアンも参加していた。ガビアンは早い時期にシリアの反体制亡命グループと米国政府を結びつけた人物である。ウオール・ストリート・ジャーナルは次のように書いている。

「アーカンソー大学の政治学者ガビアンはシリアの『救国戦線』と米政府との接触を最初に実現した」。それはシリアと米国の関係が険悪になった2005年のことだった。ガビアンは当時「シリア国民評議会」の書記局の一員だった。同時に彼はワシントンにある「政治・戦略研究シリアセンター」に所属していた。これは米政府に政策について助言をする政治団体だった。

ツィアデは長年米政府との接触を続けていた。2008年彼は米政府の建物内でシリアの反体制性グループの会合に参加した。この小さな会議のテーマは「変化に向かうシリア」だった。この会議の共同主催者は米国の「民主主義協議会」とロンドンをを拠点とする「正義と平和運動」だった。ワシントンでの会議は「正義と平和運動」にとって大きなチャンスだった。アナス・アブダ議長と広報部長はロンドンからワシントンに向かった。彼らのウエッブ・サイトには次のように書かれている。

「会議にはこれまでになく多くの人が出席した。会議室は下院議員、上院議員、研究所の代表、ジャーナリスト、亡命シリア人でいっぱいだった。討論の司会者は超タカ派のジョシュア・ムラフチクだった。彼は2006年に「イランを爆撃せよ」と言う記事を書いている。討論の議題は「反体制組織の誕生」だった。「正義と平和運動」のアナス・アブダ議長の隣には、広報部長のオサマ・モナジドが座っていた。2人は2011年夏に成立するシリア国民評議会で広報を担当することになる。

 

            〈オサマ・モナジド〉

コドマニとツィアデと並び、モナジドはシリア国民評議会の広報の最も重要なメンバーである。広報官はほかにもいる。シリア国民評議会はムスリム同胞団を含む大きな組織である。コドマニ、ツィアデ、モナジド以外の広報官の例として、シリア社会人民党のジョルジュ・サブラがいる。彼は抑圧的で全体主義的なアサド政権を批判し、投獄され、長年牢獄で暮らした。

シリアの反体制派の主要勢力の大部分が国民評議会に参加しているが、反体制派は多様であり、参加していない重要なグループもある。例えば、有名な反体制作家マイケル・キロ は国民評議会に参加していない。暴力が国家を引き裂いている現実について、彼は雄弁に語っている。

「シリアは破壊されている。多くの通りが、そして都市や村が破壊されている。このような解決をが受け入れる者がいるだろうか。少数のグループが権力に留まろうとするために、国家が破壊されるのだ」。 

国民評議会に参加していない反体制派もいるが、国民評議会が最大の連合組織であることは間違いない。そしてコドマニ、ツィアデ、モナジドはそれを代表する存在である。モナジドはしばしばテレビのニュース番組に登場し、シリアで起きていることについて伝えている。

「政権は毎日のように市民を虐殺している。子供まで殺され、女性は凌辱されている」。

しかしツィアデを含む国民評議会はシリアに住む普通の市民ではなく、現在シリアで起きていることを見る視点は一般市民のものではない。これまで述べてきたように彼らは最初から体制転換を目標とする革命派であり、しかも米国の援助によりこれを実現しようとしている。

============(ガーディアン終了)

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2005年以来続いているアサド政権転覆の陰謀

2018-07-31 23:39:00 | シリア内戦

シリアの最初のデモは2011年3月18日であり、以後11月末まで続いた。12月に武装反乱が始まった。この武装反乱はカタール・サウジアラビア・米国がシリアの反対派に武器を与えたことで可能になった。このことはよく知られているが、2011年のデモの背後にCIAがいたことはほとんど知られていない。デモに参加したシリアの市民の多くもそれを知らない。デモは自然に拡大したのではなく、拡大させようとした少人数のグループがいたのである。そしてそのグループは

CIAの支援を受けていた。2011年3月18日に始まったデモについて、アサド大統領は「これは外国の陰謀である」と繰り返し語った。デモに参加した多くの市民は陰謀について知らなかったので、「大統領は自分に抗議する国民がいることを認めたくないので外国の陰謀のせいにしたいのだろう」と考えた。そして世界中がそのように理解した。シリアの歴史に詳しい歴史学者だけが、「シリアで現在起きていることは米国の陰謀だ」と語った。私はダラアの3月ー4月半ばのデモについて調べているうちに、デモの中に少数の過激グループが存在することを知った。そしてCIAが彼らを支援しているという記事は真実かもしれないと思うようになった。

ダラアの秘密警察はダマスカスの秘密警察より残酷だったのは、彼らは外国に支援される陰謀に気付いていたため、最初から敵と戦っていたのである。デモに参加した普通のダラア市民は秘密警察と陰謀グループの戦いに巻き込まれたが、その自覚がなかった。

米国は2005年以来アサド政権転覆の陰謀をを続けていることをしらねばならない。

=====《米国は秘かに反体制派を支援》=====

US secretly backed Syrian opposition 、cables released by WikiLeaks

 <https://www.washingtonpost.com/world/us-secretly-backed-syrian-opposition-groups-cables-released-by-wikileaks-show/2011/04/14/AF1p9hwD_story.html?noredirect=on

      By Craig Whitlock

        ワシントン・ポスト 2011年4月17日

最近公開された外交通信によれば、米国の国務省はシリアの反対派グループを支援し、衛星テレビ局を通じてシリア政府を批判する内容の放送をシリア国内に向けて送っている。

ロンドンのバラダTVは設立当初から、シリアの独裁者バシャール・アサド大統領を倒す計画を持っていたが、最近バラダTVの活動が活発になっており、シリアでデモがあると必ずそれを放送している。

3月18日の最初のデモ以来、治安部隊の発砲により数十名の市民が死亡している。シリア政府はこれを武装集団の責任にしている。

バラダTVはロンドン在住のシリア反体制亡命グループと深い関係がある。米国の極秘外交通信によれば、2006年以来国務省は亡命グループに600万ドル渡し、バラダTVを運営させてきた。バラダTVという名前はダマスカスの中心部を流れるバラダ川に由来する。

2005年以来米国の資金がシリアの反体制派に流れている。2005年はブッシュ大統領がシリアとの外交関係を絶った年である。シリアの反体制派への資金援助はオバマが大統領になっても続けられた。一方でオバマ大統領はシリアとの関係改善に取り組んでおり、今年(2011年)の1月、6年ぶりに米国の大使がダマスカスに着任した。不可解であるが、オバマの最初の2年間、互いに矛盾する2つの政策が続いた。

ウィキリークが暴露した米国の外交通信には次のように書かれている。

「2009年シリアの情報機関が米国の進行中の陰謀について米大使館に問いただした。米大使館の職員たちは驚いた。職員の誰かが、『国務省はそのような作戦を中止するだろう』とシリア側に答えた。『そのような行為は我が国とシリアとの関係改善の努力を台無しにする』」。

このテーマで再び外交通信が送られた。国務省の高官のサインがある2009年4月の電文には次のように書かれている。

「米国による非合法団体への資金援助はシリアの政権転覆を援助するに等しい、とシリア政府は考えている。現在行われている、シリアの亡命グループおよび国内の反対制派への資金援助を中止することは生産てきである」。

現在(2011年4月)も、国務省がシリアの反体制グループへの資金援助を続けているのか、はっきりしない。しかし2010年9月までの資金が準備されていたことが外交電文からわかる。正確に言うと、この資金はシリアの民主化計画のものであり、すべてが反体制派に流れているわけではないが、間違いなく何割かは反体制派に流れている。ワシントン・ポストは計画の全容と関係者の名前を把握しているが、国家機密に関することであり、資金を受け取っている者の生命の危険があるので、公表できない。

現在シリアの各地でデモが起きており、これまで市民の死者の合計は数十人に達している。米国のホワイト・ハウスはこれを批判しているが、アサド大統領の辞任を求めてはいない。

バラダTVへの資金援助について書かれている外交電文の真偽について、国務省は質問に答えなかった。

国務省次官補であるタマラ・ウイッテは、中東局の民主化と人権部門の責任者であるが、彼女によれば国務省は政党や政治運動を支援していない。「我々は基本理念を支持しているのである。シリアやその他の国には、政権に改革を求めている多くの団体がある。我々が信じ、支持しているのは政治的な目標(アジェンダ)である」。

国務省は世界中で民主主義と人権の理想を普及させる計画に資金を提供しているが、反体制グループに資金を与えることはない、ということである。

2006年2月、米国とシリアの関係は最悪だった。ブッシュ政権は「シリアの改革派の運動を強化するため、500万ドル供与する」と発表した。

シカシシリア国内の反体制派はこれを受け取ろうとしなかった。そんなことをしたら、彼らは反逆罪で逮捕されたり、処刑されたりするからである。2006年米国大使館が送った電信には次のように書かれている。

「根っからの反体制派であっても米国から資金をもらう勇気はないだろう」。

ちょうどこの頃、ヨーロッパに亡命しているシリアの反体制派が「正義と発展の運動」を結成した。このグループはアサド大統領の罷免を明言しており、シリア国内では非合法である。米国の外交通信はいつも彼らを穏健で自由主義的なイスラム主義者と呼んでいるが、彼らは以前ムスリム同胞団に所属していた。

 

     〈バラダTV〉

「正義と発展の運動」がいつから米国の資金を受け取っているのか、わからない。しかし外交通信によると、2007年米国の外交官が反アサドの衛星放送の設立を思いついたことがわかっている。しかし「正義と発展の運動」とバラダTV関係者は米国からの資金援助を否定している。バラダTVの報道部長(Malik al-Abdeh)に電話で質問すると、彼は「そのような話は聞いたことがない」と答えた。「我々は独立のシリア人実業家たちから資金を得ている」。アブデー報道部長は彼らの名前を言わなかった。彼は「バラダTVは『正義と発展の運動』とは関係がない」としながら、それの政治部門の委員であることを認めた。委員長は彼の兄弟アナス・アブデーである。電話の最後にアブデー報道部長が言った。「バラダTVの評判を落とすのが目的なようなので、これ以上話しても無駄だ。電話を切らせててもらう」。

反体制派の人たちは言う。「バラダTVの視聴者は増えているが、アルジャジーラやBBCアラビア語放送などの衛星放送と比較にならないほど少ない。24時間放送だが、ほとんどが再放送だ。人気番組は『変革に向かって』という討論番組と、米国在住の亡命グループ制作の『最初の一歩』」。

 

ロンドン在住のシリア反体制派であるオサマ・モナジドはバラダTVの番組製作者であり、「正義と発展の運動」のメディア向けの広報の責任者だった。しかし彼はこの一年間どちらの仕事もしていない。彼は現在革命運動に全精力を注いでおり、現在シリアで起きているデモの様子を撮影したビデオと最新情報をジャーナリストたちに渡している。

彼は言う。「米国がバラダTVを支援しているとは思えない。私はバラダTVの経理については何も知らないので断言はできない。少なくとも私自身は米国の資金を受け取っていない」。

しかしシリアの亡命グループが米国から資金を得ていることは、ダマスカスの米国大使館が送った複数の電文から明らかである。国務省の「中東パートナシップ・イニシアチブ」という計画がこれを担当している。国務省はロサンゼルスの非営利団体「民主主義協議会」を通じてシリアの亡命派に資金を流している。「民主主義協議会」のウエッブ・サイトには次のように書かれている。

「民主主義協議会の目的は中東・アジア・南米において安定した社会を建設するため、信念ある人々を支援することである」。

2009年4月のダマスカスの米国大使館の電文によれば、「民主主義協議会」は国務省から630万ドル受け取っている。この資金はシリア関連のプロジェクトの費用であっる。プロジェクト名は「市民社会強化イニシアチブ」というもので、その活動は「民主主義協議会」とシリアのパートナーが個別の目標で協力し、例えばメディアの可能性を追求することである。大使館の別の電文によって「メディアの可能性」の一つ がバラダTVであることがわかる。

 

      〈国務省の資金の使われ方〉

国務省の報道官エドガー・ヴァスケスによれば、2005年以来、中東パトナーシップ・イニシアチブのシリア・プロジェクトに750万ドル出費した。しかしダマスカスの米国大使館の電文によれば、使われた金額はもっと多く、2005年ー2010年の期間に約1200万ドルである。

また大使館の電文には、シリアの保安機関がワシントンからの資金の流れを突き止めるかもしれないという恐怖が、繰り返し語られている。2009年の電文には、シリアの情報機関が多くの人に「中東パトナーシップ・イニシアチブ」について尋問している、と書かれている。

また米国の外交官は警告した。「シリアの情報機関は通信を傍受し、『正義と発展の運動』の活動を把握しているかもしれない」。2009年6月の電文には、『正義と発展の運動』がシリア国内の組織を拡大しようとしていたが、この動きはシリアの情報機関に筒抜けだった。『正義と発展の運動』のロンドンとシリアの間の通信は暗号を使わなかったからである。米国の外交官は「この作戦は穴が開いた船で出発したようなもの」と述べている。ロンドン在住のシリア人亡命グループとロサンゼルスの「民主主義協議会」と関係についても、シリアの情報機関が既に知っていることは確かだった。その結果、シリアの反体制派への援助計画は破滅した、と米国の大使館員たちは嘆いた。

「正義と発展の運動」の通信内容がシリアの情報機関に筒抜けだとすれば、そのメンバーが逮捕される危険がある。シリアは一斉逮捕の時期をうかがっているだろう。

==============(ワシントン・ポスト終了)

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シリア内戦はエジプト革命と違う

2018-07-21 23:09:17 | シリア内戦

 

エジプトではムバラクの独裁体制が30年以上続いていた。

20111月に始まった民衆革命について、ウィキペデイアから抜粋する。

=======《エジプト革命》=========

2011年1月、ムバラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。2月11日、ムバーラクは大統領を辞任した。翌年(2012年)5月から6月にかけて大統領選挙がおこなわれ、ムハンマド・ムルシーが当選した。同年6月30日の大統領に就任した。

人民議会選挙の選挙は大統領選挙の5か月前(3011年末)におこなわれ、イスラム教系の政党が躍進した。3012年1月23日に議会が初召集された。しかし6月14日、最高憲法裁判所が選挙法に不備があり3分の1の議員について当選を無効と認定した。これに伴い議会は解散されることとなり、軍最高評議会は立法権掌握を宣言した。こうした動きは司法を利用した軍によるソフトクーデターとの批判も行われた。

=================(ウィキペデイア終了)

 

エジプト革命は不完全な勝利に終わった。軍最高評議会が立法権を確保したからである。武力を握る軍部が、立法権を有するなら軍部による独裁の継続は可能である。国民によって選ばれたのは大統領だけであり、軍部は権力を部分的に手放したにすぎない。このように革命の成果は不完全だったとはいえ、大統領が国民によって選ばれたことは国民にとって一歩前進である。何よりリビアのような内戦にならず、平和的に野党候補が新大統領に選出されたことは評価すべきである。

シリアはエジプトのようにはならなかった。2011年末までシリアでは大規模なデモは起きず、アサド大統領は辞任の必要を感じなかった。2012年になって武装反乱が始まり、悲惨な内戦に突入した。

エジプトには言論の自由があり、労働運動も活発である。こうした政治環境を背景に、2011年1月、1万-2万人のデモが起きた。これに対し政権は高圧的な対応をしたので、再び同規模のデモが起きた。これが数回回繰り返された後、21日には20万の市民が首都に集まり政府に抗議した。その結果ムバラク大統領は辞任した。

しかし大規模な抗議運動によって得た成果は限定的だった。最初に書いたように、軍部が立法権を手放さかったからである。アラブ世界においてはこれが限界なのである。

シリアのアサド政権が民主的でないからといって、暴力革命を起こすのは現実無視である。目的を達成できないだけでなく、現在より悪い状態に転落してしまう。

ヨーロッパの民主的な国々も暴力革命を経験してきたが、ほとんどの革命が短期間で終わっている。暴力革命は民主主義もたらす契機に過ぎず、民主主義は経済発展とともに時間をかけて徐々に達成されたものである。比較的残酷だったフランス革命も真の民主主義をもたらさず、革命後実権を握ったのは富裕な市民である。都市の貧民と地方の農民は捨てられた。フランス革命は5年続いたがこの間戦闘が続いたわけではなく大部分政治的な闘争だった。ロシア革命はヨーロッパの革命と異なり、内戦が5年続き多くの死傷者が出た。また経済破綻が著しかった。ロシア革命においては国民の犠牲があまりに大きく、ロシア革命は避けるべき革命の手本となっている。シリア内戦も悪しき革命の手本となってしまった。

 

2011年のエジプト革命は中途半端なものに終わったが、エジプトの地中海沖に天然ガスが発見されており、経済が大きく好転するだろう。経済発展とともに政治改革がおこなわれ、平和的に民主主義へ移行するだろう。

シリアにはそのような幸運がないので、自力で経済発展する以外にない。シリアは古い歴史を持つ国であるが、小さな国である。1945年のシリアの人口は500万人だった。シリアは北欧の小国スエーデンを見習い、最先端技術による産業を発展させるべきだった。第2次大戦後シリアは欧米の敵国だったため、欧米の先進技術を取り入れる機会を失った。トルコから独立したアラブ諸国においてアラブ民族主義は神聖な理念であり、アラブの土地を奪ったイスラエルを滅ぼすことは義務だった。欧米はイスラエルの後見人であり、アラブの敵であった。シリアに安定をもたらしたハフェズ・アサド大統領は理念にとらわれない現実主義者であり、パレスチナ問題の現実的な解決をを模索していたが、イスラエル・欧米との和平には至らなかった。

欧米との経済交流がなかったことはシリアの経済発展を遅らせ、2012年の内戦の原因となった。シリアは石油の増産と農地を増やすことによって経済成長してきたが、1990年代後半の干ばつにより、新しく農地となった場所は不毛の地に戻った。破産した農民は都市の郊外や南部の農業地帯に流れ、極貧層を形成した。2011年のデモの参加者の何割かは彼らである。もちろんデモを指導したのは、昔からの反体制派とアラブの春と呼ばれた革命イデオロギーに共感した熱狂的な若者たちである。彼らだけでは人数が少なく、デモやってもさみしい結果に終わる。実際ダマスカス市内のデモはそうなった。ただ都市の郊外や農村には貧困に苦しむ人々がおり、それなりに人が集まった。

シリアの経済成長を支えてきた石油は枯渇に向かっており、減産に転じる日は近い。最近ゴラン高原で石油が発見されたが、1967年以来イスラエルが占領している。ゴラン高原を奪回しない限り石油はシリアのものにはならない。1967年の戦争でシリアがイスラエルに敗北したことが悔やまれる。現在シリアには経済発展の展望がない。

 

 

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