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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

ヴェイイ、フィデナエ、ファレリイとの戦争

2022-11-10 18:54:28 | 世界史

15章】

マエリウスが殺害されると、人々は騒いだが、どうしてよいかわか

らなかった。独裁官は市民集会の開催を宣言した。集まった市民に独裁官は述べた。

「マエリウスに国家転覆の罪がなかったとしても、独裁官の呼び出しに応じなかったので、彼は法律に従って殺害された。私はこの事件についてきちんと調べた。その結果マエリウスは死刑に値することが分かった。彼は普通の市民として扱われるべきでない。というのは、マエリウスはローマの法律が適用される自由市民であり、市民としての諸権利を有しているが、王政復活という重罪を企てたからである。ローマでは王政が廃止されたことを、彼は知っていた。国王が追放された年、国王の娘の息子たちは王政復活を試みた。彼らの母は王の娘であるが、父親は祖国を解放した執政官であり、息子たちの陰謀を発見すると、即座に彼らを斬首した。にもかかわらず、この父親、コッラティヌス・タルクイヌスは執政官を罷免され、ローマから追放された。ローマの人々はタルクイヌスという名前を持つ者を嫌ったのだ。数年後スプリウス・カッシウスが国王になろうと計画し、処罰された。最近では、十人委員が専制的で抑圧的な統治をして、国王のように振舞った。その結果彼らは財産を没収されたり、国外に追放されたり、死刑になった。ローマで王政を試みるものは厳格に処罰される。マエリウスは国王になろうとした。彼は何者か。貴族でもなく、栄誉を与えられたこともなく、国家に貢献したこともなく、彼は誰でも国王になれるという先例になろうとした。執政官であろうと、十人委員であろうと、栄誉を与えられた市民であろうと、国王になろうとすれば処罰される。カッシウス家やクラウディウス家のような不遜な高みに上った一族の人間であろうと例外ではない。いかに立派な祖先を持ち、輝かしい一族の出であろうと例外ではない。スプリス・マエリウスの場合はどうだろう。彼は護民官にさえなっていない。彼は護民官になりたいと思っただけだ。彼は穀物業者に過ぎない。彼は数ポンド(1ポンド=500グラム)の小麦と引き換えに、市民の自由を買い取ろうとした。また彼はわずかなトウモロコシを市民に与えて、ローマ人を奴隷にすることができると考えた。ローマは近隣の国家を征服した国民である。大胆にも彼はそのような国民を奴隷にしようとしたのである。国家はマエリウスが元老になることさえ認めないのだから、彼を国王と認めるはずがない彼はそれを自覚していた。国王はロムルスの権力と表彰を受け継ぐのである。ロムルスは天界からやって来て、天界に去って行った人物である。だからマエリウスは大胆な手段に訴えるしかない、と考えたのである。彼の行為は犯罪に違いないが、恐るべき前兆でもある。このような前兆を一掃するには、彼の血だけでは足りない。この狂った計画が話し合われた家は破壊されねばならない。裏切りの精神で汚染されたマエリウスの地所は没収されねばならない」。

【16章】

独裁官の言葉は以上である。そして彼はマエリウスの家を取り壊し、更地(さらち)にするよう命令した。この空き地を不遜な野心が瓦解した記念として永遠に残すためである。その後、この土地は「マエリウスの更地」と呼ばれるようになった。これと対照的に、穀物市場監督の L・ミヌキウスの功労を記念して、トゥリゲミナの門の外に黄金の牡牛の像がたてられた。(トゥリゲミナの門はアヴェンティーヌの丘の北端に近い門。アヴェンティーヌの丘への居住が遅かったため、この門の成立もやや遅れたようであるが、4世紀以後、主要な門の一つとなった。)

 

ミヌキウスはマエリウスのトウモロコシを1ブッシェル(=約36リットル)につき1アス(アスはローマの最初の硬貨)の値段で市民に販売したが、平民はミヌキウスが栄誉を与えられたことに文句を言わなかった。数名の権威ある著者がミヌキウスについて次のように書いている。「ミヌキウスは最初貴族の味方だったが、平民の立場に立つようになり、11人目の護民官に追加任命され、マエリウスの死が原因で生じた混乱を収拾した」。

しかし護民官の数を11人に増やすことを、元老院が認めたとは思えない。よりによって貴族が悪しき前例となる提案をしたはずがない。貴族が提案したわけでなく、譲歩しただけだとしたら、平民はそのようなことを押し通すべきでなかったし、そもそもそのようなことを試みるべきでなかった。彼の肖像に記されている文章が間違っていることは明白である。数年前に次のような法律が成立していた。「護民官は市民が選ぶべきであり、護民官団が勝手に追加任命してはならない」。

護民官の中で、Q・カエキリウス、Q・ユニウス、Sex・ティティニウスの三人だけがミヌキウスへの栄誉授与に反対した。また彼らは市民集会においてミヌキウスと騎兵長官セルヴィリウスを繰り返し批判し、罪のないマエリウスの死の責任を追及した。彼らは翌年の最高官を執政官ではなく、執政副司令官にすることに成功した。執政副司令官の定数を6人とすれば、マエリウスの死の復讐を主張する平民が選ばれる可能性があった。平民はおおいに期待したが、昨年の騒動を反省する声があり、執政副司令官の定数は3人となった。選ばれたのは、L・クインクティウス、Mom・アエミリウス、L・ユリウスだった。最も多く得票したのはアエミリウスで2位がクインクティウス、3位がユリウスだった。クインクティウスは昨年の独裁官の息子である。彼の父キンキナトゥスは平民に憎まれ、混乱の口実とされた。

3人の執政副司令官が統治した年に、フィデナエが宗主国ヴェイイの国王ラルス・トルミウスに対して反乱した。反乱の過程で犯罪が起き、最悪の事態となった。フィデナエにはローマの植民地があり、ローマはフィデナエの政策転換の理由を確かめるため、4人の使節を派遣した。するとこれらの4人、C・フルキニウス、クロエリウス・トゥッルス、Sp・アンティウス、L・ロキウスはヴェイイの王によって殺害された。ヴェイイの王はローマの使節への対処に迷い、さいころを振ると、良い目が出た。しかし王は明確な解釈をしなかったのに、フィデナエはローマの使節の死を意味すると理解した。それでヴェイイの王には責任がないと主張する者がいる。しかしそんなことはありえない。新しくヴェイイの同盟国になったフィデナエが地域の諸股間の協定に違反する行為についてヴェイイの王に相談に行った時、王はサイコロ遊びに夢中で彼らに応待せず、後で誤解のせいにしたに違いない。ヴェイイの王が望んでいたのは、ローマの使節の殺害により、フィデナエとローマの関係が修復不可能になることだと思われる。殺害された使節たちの像が中央広場の演台(近代の劇場の舞台の広さがある)に建てられた。フィデナエはヴェイイに隣接しており、ローマとフィデナエが戦うことになれば、ヴェイイがフィデナエ側にたって参戦するのは間違いなく、一方ローマは使節が殺害され怒っていたので、激しい戦闘が予想された。国家の危機だったので平民不平を言わなかった。M・ゲガニウス・マケリヌスが三度目の執政官に選ばれた。もう一人の執政官はセルギウス・フィデナスだった。これらの執政官の選出に、護民官は意義を唱えなかった。執政官の一人、セルギウス・フィデナスは就任時の名前ではなく、彼がフィデナエでの戦争に勝利したので、こう呼ばれるようになったのである。(フィデナスという名前はフィデナエの勝者またはフィデナエの英雄という意味).彼はアニオ川の南側の戦闘でヴェイイに勝利した最初の司令官だった。しかし彼の勝利には大きな犠牲が伴った。敵を打ち負かしたことを喜ぶ者より、ローマ兵の死を嘆く者の方が多かった。申告な事態に対し、元老院はマメルクス・アエミリウスを独裁官に任命した。独裁官は L・クインクティウス・キンキナトゥスを騎兵長官に選んだ。独裁官と騎兵長官はどちらも昨年の執政副司令官だった。騎兵長官キンキナトゥスは同名の父に恥じない息子であり、若かった。多くの兵士が戦死していたので、欠員を補充するため多くの古参の百人隊長が集められた。独裁官はクインクティウス・カピトリヌスと M・ファビウス・ヴィブラヌスを補佐官に任命した。独裁官として大きな権力を行使する人物が有能で地位にふさわしかったので、敵をローマの領土からアニオ川の向こうへ追い払うことに成功した。

続いてローマ軍はフィデナエとアニオ川の間に連なる丘の上に布陣した。ファレリイ(ラテン語の近親言語を話すファリスキ人の都市だが、エトルリア化していた。ローマの北36km)の軍隊がヴェイイの援軍として到着するまで、独裁官は丘の上のローマ軍を動かさなかった。しばらくしてフィデナエの城壁の前に、ヴェイイ軍が陣地を敷いた。すると独裁官はそこから遠くない、アニオ川とテベレ川の合流地点に、軍団を移動させ、アニオ川からテベレ川に至る非常に長い戦列を形成した。翌日彼は出撃した。

【18章】

敵は意見が分かれていた。ファレリイの兵士たちは自信があり、遠くから来たにもかかわらず、すぐに戦闘を開始したがっており、即時開戦を要求した。ヴェイイとフィデナエの兵士は戦争を遅らせるのが得策だと主張した。ヴェイイの王トルムニウスは自国の兵士の意見に傾いていたが、ファレリイ軍が長引く戦争に嫌気がさして引き上げるのを恐れて、翌日攻撃を開始すると宣言した。敵が戦闘をためらっているのを見て、独裁官とローマ兵は新たな勇気を得た。翌日ローマ兵は「敵が戦おうとしないなら、敵の陣地とフィデナエの町を攻撃する」と言っていたが、敵軍が平地に向かって進んできたので、ローマ軍も進撃を開始した。ヴェイイ軍は兵士の数が優越していたので、彼らの将軍は兵の一部を丘の背後に回らせ、ローマ軍の陣地を攻撃させた。敵の三軍の配置は、右翼にヴェイイ軍、中央にフィデナエ軍、左翼にファレリイ軍だった。独裁官は左翼のファレリイ軍を受け持ち、カピトリヌス・クインクティウスはヴェイイ軍を、騎兵長官はフィデナエ軍を攻撃することになった。エトルリア人のヴェイイ軍とフィデナエ軍は敵と対峙しても消極的だったので、最初戦場に動きはなく、静かだった。独裁官はローマの砦の方を見て、前兆が良いという合図(煙を上げるなど)を占い師が出すのを待っていた。合図を確認すると独裁官は騎兵長官に攻撃を命じた。騎兵たちは大声で叫びながら突進した。これに続き歩兵部隊も猛烈な攻撃を開始した。エトルリア人の部隊は総崩れとなったが、騎兵だけは頑強に抵抗した。また最も勇敢なヴェイイの王はローマ兵に立ち向かった。ローマ兵は逃げる敵を追いかけ、バラバラになっていたので、戦闘は終わらなかった。

【19章】

ローマの騎兵の中に、A・コルネリウス・コッススという名前の副司令官がいた。彼は非常に美男子で、頑強で勇敢な戦士であり、自分の出自に誇りを持っていた。彼の家族はもともと名家だったが、彼の偉業により、彼の子孫はさらに高名になった。ヴェイイの王トルムニウスがあらゆる方向に馬を走らせ、ローマ兵を何度も攻撃し、ローマ軍が劣勢になっているのを見ると、戦場を駆け回っていたコルネリウスはヴェイイの王を識別した。王は目立つ軍装をしていたので、すぐに識別できた。コルネリウスは叫んだ。

「この兵士は人間が交わした約束を破った男に違いない。彼は国家間の条約も破った。地上に神聖な何かかがが存在すべきだというのが天の意思なら、私はこの男を殺して、ローマの使節の亡骸に犠牲として捧げよう」。

こう言ってコルネリウスは馬に拍車を当て突進し、槍を水平に持ち、ヴェイイの王に突き刺した。王が馬から落ちると、コルネリウスは槍を支えとして馬から飛び降りた。王が起き上がろうとしたので、コルネリウスは盾で王を突き倒し、何度も槍を突き刺した。王の死体から首を切断すると、彼は槍の先に王の首を掲げ、敵に向かって進んだ。敵兵は恐怖でパニックに陥った。敵の騎兵はこれまで健闘し、戦線を支えていた唯一の勢力だったが、彼らでさえ逃げ出した。

独裁官は猛烈に敵を追いかけ、多くの敵兵を殺した。そして残りの敵兵を敵の陣地に追い込んだ。フィデナエの兵士たちはこの辺の地理を熟知していたので、丘に逃げた。コルネリウス・コッススと騎兵はテベレ川を越え、ヴェイイの土地で略奪し、大量の物品をローマに持ち帰った。すでに書いたように、戦闘開始直後ヴェイイの王は分遣隊を派遣し、ローマ軍の陣地を攻撃させた。独裁官の補佐官ファビウス・ヴィブラヌスは最初陣地の周囲の防衛に務めたが、敵が防御策の破壊に専念しているのを見て、右側の主門から出撃した。敵は不意の攻撃に驚き、慌てて逃げだした。敵の人数が少なかったので、死者の数も少なかった。

【20章】

すべての戦場で成功した独裁官はローマに帰還した。元老院の命令に加えて市民の決議により、独裁官は勝利の栄誉を与えられた。しかし、兵士の凱旋行進において最も注目を浴びたのはコルネリウス・コッススだった。彼は最高の戦利品、即ちヴェイイの王の首と武具を持っていた。兵士たちは彼を讃えて野蛮な歌を歌い、彼をロムルスの地位にまで高めた。彼は王の武具を征服の神ユピテルにささげることにし、ロムルスが獲得した戦利品の近くに吊るした。当時ロムルスの戦利品だけが最高の戦利品と呼ばれていた。すべての人の目が二輪馬車の独裁官からコルネリウス・コッススに移った。この日コッススは栄誉をほぼ独占した。もちろん独裁官が無視されたわけではない。市民の決議により、454グラムの重さの金の王冠を国費で作り、独裁官がこれをユピテルの神殿にささげた。「コルネリウス・コッススが最高の戦利品をささげた」と書いたのは、現在の著作家全員がそう書いているからであるが、これには疑問がある。最高の戦利品とは最高司令官が敵の最高司令官から奪った物に限られており、コッススは副司令官に過ぎず、最高司令官ではなかった。ところがこれらの著作家を悩ませているのは、ヴェイイの王の遺品に「執政官だったコッススがこれを獲得した」と書かれていることである。アウグストゥス・カエサルは全ての神殿を復元し、新しい神殿を建設したが、そのひとつとして征服の神ユピテルの神殿を再建した。この神殿は年とともに劣化し、廃墟のようになっていた。アウグストゥスは私に言った。「崩れかけた神殿で、リネン(亜麻布)の胸当てに、執政官だったコッススがこれを獲得したと書かれているのをこの目で見た」。

神殿を再建したアウグストゥスの証言に疑念を差しはさむのは、不敬である。コルネリウス・コッススが副司令官だったという昔の年代記やリネンの巻物の記述が誤りかもしれない。お金の女神ユノーの神殿に保管されている歴代高官のリストによれば、コルネリウス・コッススが手柄を立てた年の10年後に、彼は T・クインクティウス・ポエヌスと共に執政官になっている。あれだけ有名な戦争の年が実は10年後に起きたなどと考えることはできない。コッススが執政官を務めた年の前の三年間と後の三年間は飢饉と疫病で戦争ができなかった。ユノーの神殿の巻物は異色であるが、疑問もある。なおマケル・リキニウスしばしばこの巻物を引用している。年代記のいくつかは死者の話以外は執政官の名前しか書いていない。コッススは執政官を務めた年の翌年執政副司令官になっている。同年彼は騎兵長官にもなっており、再び輝かしい働きをした。以上の記録を前に、人は推測することしかできない。矛盾する2種類の記録が存在しているので、いかなる推測も可能である。有名な戦争で手柄を立てた人物が貴重な戦利品をユピテルの神殿の近く、ロムルスの戦利品がよく見える場所に奉納したのは事実である。またアウグストゥスの証言を否定することもできない。彼は「A・コルネリウス・コッスス、執政官」という銘文を見たと語っている。

(日本訳注:以前からリヴィウスは複数の記録を参考にしていると書いているが、ここで新たに、ユノーの神殿の巻物とアウグストゥスの証言が加えられた。これら複数の記述が互いに矛盾場合もある、とリヴィウスは書いている。戦争時コッススが執政官ではなかったと考えればすむことにも思えるが、そうすると昔の年代記や歴代執政官のリストが誤りとなり、重大問題となる。リヴィウスのローマ史の多くがそれらに依拠しているからである。)

【21章】

翌年の執政官は M・コルネリウス・マルギネンシスと L・パピリウス・クラッススだった。ローマ軍はヴェイイの領土とファルスキ人の都市ファレリイの領土に進軍したが、牛と人間はどこかへ連れ去られていた。見渡す限り、敵の姿はなく、戦争にはならなかった。ヴェイイとファレリイは他国に攻撃されたのではなく、疫病に襲われたのだった。

護民官スプリウス・マエリウスは混乱を起こそうと試みたが、失敗した。彼は自分の名前が平民の間で人気があるのを過信し、ミヌキウスを告発した。また彼の土地を没収することを要求した。また護民官マエリウスはセルヴィリウス・アハラの土地を没収すべきだと主張した。セルヴィリウスは護民官である彼を告発したが事実無根だったうえに、セルヴィリウスは裁判なしで市民を処刑しているというのである。護民官マエリウスは本人が考えていたほど人気がなく、市民は彼の主張に関心を示さなかった。市民が心配していたのは勢いを増す疫病の広がりであり、ローマにも伝播する予兆があったことだった。予兆の一つは地震が立て続けに起こり、郊外の家々が崩壊したことだった。人々は執政官を先頭に、救済を厳粛に神々に願った。

翌年の執政官は C・ユリウスと L・ヴェルギニウスだった。ユリウスは二度目の執政官就任だった。この年ローマは前年に増して災難に見舞われた。疫病が郊外にとどまらず、市内に達し、悲惨な状況となった。ローマ人は略奪に出かける余裕がなく、元老院も平民も外征どころではなかった。フィデナエは最初山から動かず、村々の壁の内側に閉じこもっていたが、やがて平地に降りてきて、ローマ領で略奪した。ファリスキ人の都市ファレリイは戦争をするつもりがなかった。彼らは同盟国フィデナエに誘われても、ローマが疫病に打ちのめされているのを見ても、戦いには参加しなかった。一方でフィデナエがヴェイイに使者を送ると、ヴェイイは参戦を了承した。フィデナエとヴェイイの軍隊がアニオ川を渡った。彼らはコリナ門(ローマの北端の門)の近くまで来ると、両軍の旗を掲げた。ローマの郊外でも市内でも、人々は恐れおののいた。執政官ヴェルギニウスはキリヌスの神殿(ローマ北部のキリナル丘に建てられた神殿)で元老院を開催した。元老院は執政官ヴェルギニウスに独裁官を任命するよう求めた。ヴェルギニウスの愛称はプリスクス(古風な)だったという説と、ストゥルクトゥス(人々を組織するのが上手)という説がある。彼は元老院から独裁官の選定を委託されたにもかかわらず、同僚にいちおう相談することにした。彼は同僚の同意を得て、夜に独裁官を選定した。独裁官はポストゥミウス・アエブテイウス・ヘルバを騎兵長官に任命した。

【22章】

独裁官は命令した。「明日の夜明けまでに、全員コリナ門の外に集合せよ」。健康な人間は全員武装して集まった。軍旗が国庫から出され、独裁官に渡された。ローマが戦争の準備を始めると、敵軍は丘のふもとへ後退した。戦意に燃えたローマ軍は彼らを追いかけた。ノメントゥム(フィデナエの北東12km。もとはサビーニの土地だったが、かなり早い時期にラテン人の町となった)の近くで戦闘になった。エトルリア軍(ヴェイイ軍とフィデナエ軍)は劣勢となり、フィデナエに逃げ込んだ。ローマ軍はフィデナエを包囲した。フィデナエの町は高台にあり、城壁で守られていたので、攻略するのは難しかった。またフィデナエは十分な量のトウモロコシを前もって備蓄していたので、包囲の効果も低かった。攻略も、包囲も無駄に見えたが、フィデナエはローマから近く、独裁官は周辺の地理を熟知しており、フィデナエの城壁がない箇所があるのを知っていた。そこはローマ軍の陣地から遠いだけでなく、接近が困難な地形だった。独裁官はそこからローマ兵を侵入させ、砦を爆破することにした。彼はローマ軍を四つの部隊に分け、城壁の周囲のいくつかの箇所で日夜攻撃を続けさせた。敵はローマ軍の攻撃に気を取られ、攻撃を受けない場所への注意を怠った。ローマ兵はトンネルを掘り進み、ついにフィデナエの市内に入った。エトルリア兵はローマ軍の陽動作戦にはまり、真の危険を見落とした。城壁の上のエトルリア兵たちが、恐怖の叫び声を上げたので、ローマ兵は味方の突破作戦が成功したのを知った。

この年二人の査察官がマルティウスの広場にある政府の建物に来て、この場所では最初となる人口調査を実施した。査察官は C・フリウス・パキルスM・ゲガニウス・マケリヌスだった。

 

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