たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

民主化革命は欧米の利益のための国家破壊

2018-05-31 21:25:28 | シリア内戦

 

革命においては穏健派と過激派に分裂することが多い。シリア革命の場合2013年以後この分裂が顕著になった。反乱軍は3つに色分けできた。過激派はヌスラ戦線とイスラム国であり、中間にイスラム主義諸グループがおり、穏健派として自由シリア軍が存在した。

革命の最初期20114月ー5月は武力革命の時期ではなく、反対派のほとんどが穏健派だった。しかしこの時期にも過激派は存在した。穏健派の中にひとにぎりの過激なグループが紛れ込んでいた。彼らの存在を指摘するのはシリア国営放送だけだったので、政府による虚偽のプロパガンダかもしれなかった。しかし一部のジャーナリストが、警察官と兵士の死が多い点に着目し、死亡兵士の名簿を調べた。兵士の死亡についての政府発表は事実だった。これと関連し、デモ隊の中に、あるいは大集団から少し離れた場所に銃を持ったグループがいたとする証言が多数あり、警察官と兵士は彼らの銃撃により死んだことはほぼ間違いない。

第2次大戦末期のロシア革命の発端となった血の日曜日事件では、死亡したのはデモ行進をしていた市民だけであり、兵士は一人も死んでいない。シリアの最初期のデモは血の日曜日事件のイメージで理解されているが、それは誤りである。

20114月ー5月、デモに参加したほとんどの市民の頭の中には武力革命という発想がなく、平和的な政治改革を求めていたが、少数の過激派が存在した。彼らは最初から政権転覆を目的としており、中途半端な改革で妥協するつもりはなかった。彼らの存在がなければ、政権は内戦を避けることができたかもしれない。しかし少数であっても武器を持つグループがいる場合、平和的改革による決着は困難だった。国内の治安に責任がある秘密警察は政権の転覆を目標としているグループの存在に気づいており、国家は危険な状態にある、と感じていた。秘密警察は政権転覆をめざすグループを相手にして死闘を繰り広げていたが、ほとんどのデモ参加者はこれに気付かなかった。とは言え、デモのたびに死者が出た。市民だけでなく、警官・兵士からも死者が出た。シリアのデモには最初から陰惨な側面があり、平和的解決の困難さを物語っていた。

 

平和的な革命が成功しそうもない場合、武装グループを投入する例はいくつもある。ソ連崩壊時のルーマニア、2003年のロシア、2010年のタイとキルギスタン、そして2011のチュニジア、リビアである。シリアの場合もこれに属する。これらの武装グループは例外なく欧米の情報機関であるか、その援助を受けている。

1989年の東欧民主化の中で、ルーマニアでも革命が起きた。同年年12月、チャウシェスク政権が倒れた。東欧諸国の民主化はほぼ平和革命だったが、ルーマニアの場合少し暴力的であり、チャウシェスク書記長は処刑された。この際、西側の情報機関が暗躍した。ルーマニア革命を指導した手法について、欧米の情報機関がみずから語っている。

 

===《正体不明のスナイパーと欧米による体制転換》==

Unknown Snipers and Western backed “Regime Change”

    A Historical Review and Analysis

 <http://www.globalresearch.ca/unknown-snipers-and-western-backed-regime-change/27904>

    By Gearóid Ó Colmáin

         Global Research   2011年1128

 

フランスとドイツが共同で経営するテレビ局(Arte)が放送した「革命の方法(Checkmate: Strategy of a Revolution)」という番組の中で、フランスなどの情報機関の将校がチャウシェスク政権を倒した経緯を明らかにした。彼らは暗殺部隊を使用したと語っている。

このドキュメンタリーを見れば、欧米の情報機関・人権団体・メディアディアが大衆の不満を利用し国家を破壊する方法がわかる。そのやり方は計画的で組織的である。

フランスの元スパイがルーマニア革命における欧米の役割について語った。

「革命を始めるための第一歩はその国の反対派についてよく理解することだ。有能なスパイ組織であれば、国民に影響力がある団体を特定ことは容易だ。この団体が社会に混乱を引き起こせば、政権は不安定になる」。

元スパイがルーマニアへの干渉を隠そうとしないのは、革命はルーマニア国民に幸福をもたらすと信じているからだ。ルーマニア人の革命指導者も同じように考えている。

「自由な市場に基づく資本主義はルーマニアを豊かにするだろう。死者が出たが、やむを得ない犠牲だ」。

20年後の現在(2011年)、期待は裏切られ、ルーマニアはヨーロッパで最も貧しい国にとどまっている。大部分のルーマニア国民にとって、革命後の20年間は貧困が悪化した時代となっており、「チャウシェスク時代はよかった」という声が聞かれる。

ルーマニア革命に欧米の情報機関が関与したことについて、フランスのル・モンド紙は「民主主義への移行のための革命」に疑問を投げかけた。

 

       〈ロシア 1993年〉

199310月、新憲法制定をめぐってエリツィン大統領と、ハズブラートフ最高会議議長・ルツコイ副大統領などの議会派勢力が対立した。議会派は国会議事堂を占拠した。エリツィンの命令により、戦車が国会議事堂を砲撃した。ロシア政府は死者187人と発表したが、実際には2000人以上が死亡した。国会議事堂に対する本格的な攻撃の前から、多くの市民が死んでいた。国会議事堂の周囲には、議会派を支援する市民が集まっており、彼らは近くの建物の屋上のスナイパーによって狙撃され、死傷した。米国大使館付近にもスナイパーがいた。スナイパーからの銃撃を避けるため、彼らは国会議事堂に逃げ込んだ。その後国会議事堂に対する攻撃が始まった。最初は重機関銃による連射があり、続いて戦闘ヘリと戦車による砲撃が始まった。

議会派を攻撃したのはエリツィンの部隊ではあるが、外国の部隊も参加している。攻撃側がイディッシュ語で無線連絡していた。(イディッシュ語はユダヤ人が話すドイツ語である)。セルビアの作家ドラゴス・カラジッチは「米国とエリツィン政権が国民を代表する議会と市民を武力攻撃した」と書いている。

「欧米の指導者は民主主義の理想を掲げながら、平然と他国の市民を虐殺する。CIAの中佐が傭兵部隊を指揮し、イスラエルの狙撃師団のスナイパーが補助部隊となり、国会議事堂に結集したロシア国民を殺害した」。

国会議事堂の攻撃終了後、多くの議会派が処刑された。彼らは国会議事堂を防衛していたコサック、民兵、ロシア軍将校であり、壁際に立たされて銃殺された。奇跡的に絶命しなかった者が6名いて、老婆が彼らを自分のアパートに運び、手当てをした。

1997年セルビアで民主化運動が起きたが、作家ドラゴス・カラジッチは民主化運動の実態を知っていたので、民主化運動には参加しなかった。

 

        〈2011年 チュニジア〉

20111CNNが伝えた。「16日、武装グループが治安部隊と交戦している」。チュニジアの反乱で死亡した市民のほとんどは、正体不明のスナイパーに狙撃されて死んだ。狙撃用ライフルを持ったスェーデン人数名がチュニジアの治安部隊によって逮捕された。ロシア・トゥデイがこの映像を放映している。チュニジア・エジプト・リビアの革命は純粋に国内的で自発的な民主化運動ではなく、米国が計画し、指導した革命である。

1月から2月にかけてチュニジアで起きたことを見れば、英国・フランス・米国の大使館と情報機関がベン・アリ政権を倒すために計画した陰謀であることがわかる。

ベン・アリは欧米と友好的な関係にあったため、多くの人は欧米による陰謀に気付かなかった。国際政治の専門家チュスドフスキーなどが指摘していたにもかかわらず、多くの人が理解できなかった。

 

        〈2011年 シリア〉

シリアでは3月にデモが始まったが、武装グループとスナイパーが大きな役割を果たした。数百人の兵士・治安部隊員がイスラム主義者とムスリム同胞団によって殺害され、拷問され、身体を切断された。4月私はハマを訪問した。ハマは美しい町である。市民の話によると、以前は平和な町だったが、最近武装グループが街路を歩き回っており、住民はこわがっている、という。果物店の店主は暴力事件を目撃した、と私に語った。ハマに滞在中シリアのテレビを見た。ニュース番組で、ワシントン・ポストの記事を紹介していた。記事の表題は「CIAが反対派を支援」というものだった。CIAの支援とは、軍事訓練と資金を与えることだ。それは米国の利益のためだ。

数日後私は文化的な古都アレッポに行った。複数のホテルを経営するビジネスマンに話を聞くと、彼はアサド大統領を支持している、ということだった。彼はいつもアル・ジャジーラTVを見ているが、最近その報道内容に疑問を持つようになった、という。「兵士がデモををする市民をなぐったり、拷問したりして知る映像を見ると、あんなことをしてはいけないと思う。ただし、映像は偽物かもしれない。自分には判断できない」。

彼の言うように、政府軍兵士の犯行とされている残虐行為の犯人は武装グループかもしれない。ハマで起きたことだがが、切断された死体が川に投げ捨てられた。誰の犯行か、解明は難しい。

ところでアサドを支持する多くの市民が国営放送に洗脳されているわけではない。シリアの人々はインターネットにアクセスできるし、西側の衛星放送を見ることができる。アル・ジャジーラだけでなく、BBCCNNなどの国際放送を見ていいる。またニューヨーク・タイムズやル・モンドをネットで読んで読むことができる。

ハマとアレッポで、人々の話を聞いた限りでは、大部分の市民が政権を支持しているようだ。

==============(Global Research 終了)

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兵士9人が死亡 バニアス 2011年4月10日

2018-05-15 22:42:03 | シリア内戦

 

  

シリアの北西部は地中海に面している。この地域はアラィ派住民が多数を占めており、アサド政権にとって信頼できる支持基盤となっている。しかしこの地域の中心的な都市にはスンニ派も居住している。ラタキアとバニアスの住民の約半分がスンニ派である。ラタキアとバニアスでは、シリアで最も早くデモが起きている。地中海岸の北部にラタキアがあり、南部にタルトゥスがある。その中間に小さな港町バニアスがある。

ラタキアとバニアスでは早い時期にデモが始まっていたが、デモ参加者があまり多くなく、欧米のメディアが取り上げることはなかった。しかし2011年4月10日バニアスでシリア軍兵士9名が死亡し、いくつかのメディアがこれを報じた。死亡した市民は4名であり、市民の死よりも兵士の死のほうが多い、驚くべき結果になっている。

 

======《命令を拒否した兵士が射殺される》====

  Syrian soldiers shot for refusing to fire on protesters

            <https://www.theguardian.com/world/2011/apr/12/syrian-soldiers-shot-protest>

         Guardian 2011年4月12日

     〈4月10日〉

バニアスでは治安部隊がデモを容赦なく鎮圧している。そうした中、デモをする市民に発砲することを拒否した兵士が、治安部隊によって射殺された。

でもまだysマダヤ村出身の召集兵ムラド・ヘジョも治安部隊のスナイパーによって射殺された。彼の家族は「ムラドは市民に発砲することを拒否した」と述べている。

YouTubeに投稿された動画の中で、負傷した兵士が「治安部隊が私の背中を撃った」と語っている。

市民に対する発砲を拒否したために治安部隊によって射殺された別の兵士ムハンマド・クンバルの葬儀の映像も投稿されている。

命令拒否は離反の前兆であり、アサド政権にとって深刻な問題である。

バニアスでの兵士の死について、シリア国営テレビは異なった説明をしている。「武装グループが兵士たちを待ち伏せ、発砲した。9人の兵士が死亡した」。

バニアスの人権活動家たちも「兵士の死傷は必ずしも治安部隊の発砲によるものではない」と認めている。バニアスの人権活動家ワシム・タリフは次のように述べた。「市民の中に武器を持った者がいて、彼らは自衛のため発砲した

、という報告がある。我々はこの件を調べるつもりだ」。

この日(4月10日)、バニアスのデモで少なくとも4人の市民が死亡した。

バニアスではパンが不足し、電気と通信も途切れがちである、と住民が話している。

同日バニアスに近い2つの村で暴力事件が起きた。反対派の指導的な人物によれば、政権支持派の武装グループが村を襲撃した。AP通信によれば2つの村を襲ったグループは自動小銃を使用したという。2つの村名前は Bayda とBeit Jnadである。

最近バニアスとラタキアでは暴力事件がしばしば発生している。政府支持派の武装グループや私兵が活動している、と地元の住民が話している。「4月10日、乗用車に乗ったシャビーハ(政府の私兵)が銃撃した。その車にはアサド大統領が張り付けられていた。

 

        〈4月12日〉

2日後(4月12日)の夜、バニアスは騒乱状態となり、外部との通信が完全に切断された。治安部隊はバニアスの近くの村バイダをくまなく掃討した。目撃者によれば、治安部隊に武装グループが加わり、両者は無差別に機関銃を撃っている。バイダ村は徹底的に攻撃された。

=====================(ガーディアン終了)

 

9名兵士の死について米国オクラホマ大学のヨシュア・ランディスが詳しく書いている。兵士たちは命令に従わなかったため射殺されたという説に、彼は反論している。

 

=====《9人の兵士を射殺したのはだれか》=====

Western Press Misled – Who Shot the Nine Soldiers in Banyas? Not Syrian Security Forces

 <http://www.joshualandis.com/blog/western-press-misled-who-shot-the-nine-soldiers-in-banyas-not-syrian-security-forces/

       ヨシュア・ランディス   2011年4月13日

4月10日、バニアスで9名の兵士が死亡した。死亡した兵士は市民への銃撃命令を拒否し、治安部隊によって射殺されたと報道されている。これが事実でない証拠が複数ある。欧米のメディアは誤った報道をしている。

今朝私の妻がシリア軍の中佐から話を聞いた。

    〈ウダイ・アフマド中佐の証言〉

ウダイ・アフマド中佐の義兄弟は4月10日に死亡した将兵の一人である。死亡した義兄弟はヤスル・カシウル少佐である。軍のトラックがバニアスに向かう幹線道路を走っていると、突然襲撃された。カシウル少佐はトラックを運転しており、アフマド中佐は後部座席に座っていた。襲撃された時の状況をアフマド中佐が語った。

「トラックは2方向から銃撃をうけた。道路に面した建物の屋上から銃撃され、同時に道路の中央分離帯のコンクリートに隠れていた連中が銃撃してきた。2台の軍用車が銃撃され、9名が死亡した。私の義兄弟のヤスル・カシウル少佐も死亡した」。

シリア国営テレビが銃撃の場面の映像を放送している。市民への発砲を拒否した兵士が射殺されたという話は完全な誤りである。命令を拒否した兵士が証言するYouTubeビデオがあり、ガーディアンが紹介している。

Footage on YouTube shows an injured soldier

兵士は「治安部隊によって背中を撃たれた」と語っている、というガーディアンの説明は誤りである。このビデオの中で、兵士は「市民に対し発砲しろと命令されていない」と言っている。この兵士は「治安回復の目的でバニアスに向かっていた」と言っている。政府軍やその手先によって撃たれた、とは言っていない。彼はそのようなことを否定している。質問者は答えを誘導しようとしているが、兵士は質問者が引き出そうとする話を否定している。数人がこの負傷した兵士を取り囲んで、上官によって撃たれたという告白を引き出そうとしているが、失敗に終わっている。そして負傷した兵士は次のように言った。「銃撃され場合にのみ発砲しろ、と命令された」。負傷した兵士を取り囲んでいるのは反対派のようである。彼らの一人が兵士に質問した。「我々に向けて発砲するのを拒否したら、どうなる?」市民を撃てとは命令されていないと言ったばかりなのに、そう質問された兵士は答えようがないようだ。「我々は市民に発砲していない。橋のところで、我々は銃撃された。あらゆる方向から銃撃された」。

 

  〈イタリアの有力紙の2人の記者の観察〉

イタリアの有力紙レプブリカのベテラン記者( Alix Van Buren)

が私に報告してきた。彼は現在ダマスカスにいる。

「現在シリアで起きていることは非常に複雑だ。ネットで事実を知るのは困難だ。シリアには外国の記者がいないので、何が起きているのか、さっぱりわからない。外国の介入という重大な問題について、私はある情報を得た。尊敬されている反対派の人物が次のように語った。

『4月10日、元副大統領カッダム(Khaddam)の側近2人がバニアスで逮捕された。2人は武器と資金を配り、シリアに混乱を起こそうとしていたようだ。外国の陰謀グループが存在し、活動している、と確信している反対派もいる』」。

 

レプブリカ紙のもう一人の記者ヘイサン・マレーは「カッダム元副大統領の配下の者たちがバニアスで暗躍している」と断言している。また同記者はリファト・アサドに忠実な、ならず者たちにも言及している。リファト・アサドは現大統領の叔父であるが、サウジアラビアと親密な関係にある。彼の妻とサウジアラビアのアブドラ国王の妻は姉妹である。ヘイサン・マレーによれば、リファト・アサド配下のならず者たちがタルトゥスからラタキアに至る地中海沿岸で活動している。

 

   〈バニアスの著名な反対派の意見〉

シリアのキリスト教徒で作家のマイケル・キロ(Michel Kilo)は外国の陰謀を認めながらも、それよりも民主主義への移行が先決事項であると考えている。

カッダム元副大統領はアサド政権と敵対しているが、反対派からは批判されている。バニアス出身のアブ・エルケルもカッダムを嫌う一人である。多くの人がアブ・エルケルのブログを読んでいる。彼は現在獄中にいる。2度目の逮捕であり、最初の逮捕は数週間前である。彼はバニアスで著名な反対派であり、バニアスの最初のデモは彼の釈放を要求するものであった。逮捕される前、彼はFaceBookでカッダム元副大統領を厳しく批判した。賛成のコメントがいくつも寄せられた。コメントの一つはカッダム元副大統領を呪い、「カッダムは無実な人たちの死に責任がある」と書いている。

 

    〈アラビア語のメディアが伝えること〉

シリアで起きていることについて、アラビア語のメディアには興味深い記事がいくつもあるが、欧米のメディアがこれらの記事に注目することはない。例えばワタン紙がシリアの作家ヘイサン・マンナ(Haytham Manna)について書いている。

「多くの人がマンナに接触してきた。その中に、シリア人実業家でありながら、外国のパスポートを持つ人物がいた。この人物はマンナに言った。「現在デモをしている若者たちに資金と武器を配布したいので、仲介してくれ」。

マンナに接触してきた人物には湾岸の大国の人間もいる、とワタン紙はほのめかしている。ヘイサン・マンナはダラア出身の作家であり、外国がダラアの若者たちに武器と資金を渡したがっていたことになる。ダラアはシリアで最初に大きなデモが起きた都市であり、現在も抗議する市民と治安部隊の間で激しい衝突が起きている。ワタン紙が書いているマンナの発言が事実なら、意味することは重大である。

またヘイサン・マンナは故郷ダラアでデモをしている人々に「絶対に武器と資金を受け取ってはならない」と助言したと言われている。

================(ヨシュア・ランディス終了)

外国によるシリアの反対派への武器・資金援助2012年以後大規模になり、公然の秘密となった。2011年の武器・資金援助はかなり小規模であり、事実を突き止めるのは困難である。上記ヨシュア・ランディスの記事は2011年の武器・資金援助についての、数少ない証言を明らかにしている。

軍用トラックが襲撃され9名の兵士が死亡した事件の背後には、カッダム元副大統領がいるようである。カッダム元副大統領はハフェズ・アサド政権において大統領に次ぐ実力者となった。彼はスンニ派であり、自分の能力により政権のナンバー2にまでのぼりつめた。カッダムはハフェズ・アサドの死後短期間、臨時大統領に就任した。2011年彼は反対派の大物となり、シリア軍から離脱した将校たちの世話をした。カッダム元副大統領はバニアスの出身であり、地中海沿岸部のデモの過激化に責任があるようだ。2011年3月ー4月シリアでデモをする人々の多くは暴力革命をするつもりがなく、カッダム元副大統領配下のグループに批判的だった。デモをする一般の市民にとって、カッダム元副大統領は政権側の人間であり、仲間ではなかった。

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キリスト教の司祭ファン・デル・ルフトの証言

2018-05-06 22:36:39 | シリア内戦

2011年4月13日に放送されたシリア国営テレビの内容を、アルジャジーラTVが紹介している。

====《Violence continues across Syria》=====

                      YouTube  Al Jazeera   2011/04/13

              <https://www.youtube.com/watch?v=Gwle0-pP7r4>

 

シリア国営放送によれば、デモの際に死傷者が多かった主な原因はムスリム同胞団による銃撃である。その証拠として、レバノンのムスリム同胞団から命令を受けた人物が国営テレビに登場し、告白した。彼は銃を与えられ、シリアに戻った経緯を語った。

「民主化を求めてデモをする市民と大統領支持派の若者の両方を射撃しろ、と私は命令された。私はデモが行われている場所に到着したが、私は同胞を殺傷することはできないと感じ、引き金を引くことができなかった」。

もう一人登場し、彼も「ムスリム同胞団に責任がある」と語った。「『デモは十分におこなわれている、もっと劇的な混乱を引き起こすす必要がある』と私は言われた。具体的に何をすればよいのか、と私が質問すると、彼は答えた。『武器を手に入れるのだ。銃やRPG(自動推進手りゅう弾)、そして戦車だ』。恐ろしい話をされ、私は自分の耳を疑った。すると『心配するな。多くの市民がデモに参加している』と言われた」。

2人の証言にとどまらず、シリア国営テレビはさらに続けた。

「レバノンの国会議員も武装グループを支援している」と述べ、別の人物がテレビに登場し、証言した。レバノン政府はこれを否定している。「我が国はシリアに干渉するだけの力はない。そもそもそのようなことを考えていない」。

=================(アル・ジャジーラ終了)

最初の証言者の話の終わりに、小銃とピストルの映像があるが、それらがどのような状況で発見され、押収されたのかについては何も語られていない。

2011年3月-4月、国外からシリアに持ち込まれた武器の量は限定的であり、それらの武器の大部分はレバノンの闇市場で購入されたものである。シリアでデモが始まる少し前からレバノンの闇市場ではライフルやRPGが飛ぶように売れていた、とレバノンの闇商人が語っている。資金がなければ武器を買えない。資金を持っていたのはムスリム同胞団などの組織力があるグループである。カタールはアラブ諸国のムスリム同胞団を支援しており、カタールによるシリアのムスリム同胞団への資金援助は2011年の春に始まっていた可能性が高い。

2011年3月23日政府軍がダラアのモスクを掃討した。作戦終了後、モスクに保管されていたライフル、手りゅう弾、現金(紙幣)が発見された。シリア国営放送はこれらの映像を公開した。シリアで最初に2千人を超えるデモが起きたのは、2011年3月18日のダラアにおいてである。シリアの最初のデモの5日後に、反対派の拠点に武器が保管されていることが判明した。

ダラアに続き、ホムスでも大きなデモが起きるようになる。ホムスにおいても、デモの最初から武装グループが存在した。これについては、オランダ人神父の証言がある。

シリアは神父の故郷である。彼はオランダで生まれたが、シリアでの生活のほうが長い。キリスト教イエズス会のファン・デル・ルフト神父は、シリアに50年住んでおり、ホムスでデモが始まった時、彼はホムスに住んでいた。神父は「最初のデモの時から、民衆の中に、武器を持た人間がいた」と書いている。ルフト神父は2012年1月にオランダのネットに投稿した。その英訳があるので、紹介する。

======《ファン・デル・ルフト神父の手紙》===

Father Frans on the Syrian Rebellion: The “Protestors” Shot First

         Posted by John Rosenthal

<http://www.trans-int.com/wordpress/index.php/2014/04/14/father-frans-on-the-syrian-rebellion-the-protestors-shot-first/>

多くのシリア人が現在の政権の下での改革に期待している。現政権に取って代ろうとする人々が民主的な政治をおこなうとは、とうてい思えない。多くのシリア国民は反乱を支持していない。カタールの国民でさえ、シリアの反乱を支持していない。現在シリアで起きていることは国民的な反乱ではない。大部分の国民は反乱に参加していない。現在の状況を正確に述べるなら、政権を奪取しようとするスンニ派武装グループが政府軍に戦いを挑んでいるのである。

最初から抗議運動は平和的とは言えなかった。最初のデモのとき、行進する人々の中に武器を持った人間がいるのを、私は見た。この連中が最初に発砲した。多くの場合デモ隊に紛れ込んでいた武装グループが最初に発砲したので、治安部隊が銃撃により対応した。

政権がアラウィ派とスンニ派の対立をあおっているか、他地域については、わからない。しかしホムスにおいては、政権はそのようなことをしていない。むしろ政府軍は両者の血なまぐさい闘争を抑止する役割を果たしている。政府軍がホムスから去ってしまうなら、内戦が始まるだろう。

バシャール・アサド大統領はキリスト教徒の代表者たちに支援を求めたことはない。キリスト教徒の多くが彼を支持しているのは、彼の政権が倒れるなら最悪の事態になると予測するからである。

   Father Frans van der Lugt

           Homs, 13 January 2012 

==============(ルフト神父の手紙終了)

ルフト神父は自分の目で観察したホムスの状況を語っており、貴重な証言となっている。国民の10%を占めるキリスト教徒にとって、イスラム原理主義政権の誕生は最悪であり、現政権以外の選択はない。国民の74%を占めるスンニ派の大部分にとってもイスラム原理主義は新奇で窮屈であり、望ましくない。イスラム原理主義政権は最初は嫌われるかもしれないが、彼らが清廉潔白で有能であれば、徐々に受け入れられる可能性はある。何割かの国民が現政権に不満だったのは、政権の腐敗と過酷な政治的弾圧が重なったからである。イスラム原理主義政権が国民に受け入れられる可能性は皆無ではないが、10%のキリスト教徒と16%を占めるアラウィ派やドゥルーズ派などからは拒否されるだろう。また国民の74%がスンニ派が戸いっても、その中の8%はクルド人であり、彼らの独立傾向は変わらない。イスラム原理主義政権の支持母体となるスンニ派アラブ人は66%でしかない。34%は非国民・異国民となる。また66%のスンニ派アラブ人はイスラム教の熱心な信奉者ではなく、部族社会の一員であるという意識が強い。200年後半、水不足により農業を捨て、都会に流れた農民は血縁・地縁により就職した。非正規・低賃金だったが、ともかく生き延びることができたのは、血縁・地縁によってたすけられたからである。

これまでの中央政権は部族の存在を認めて、地域の部族と交渉しながら統治してきた。従ってスンニ派アラブ人の大部分は部族の利害を優先して新政権に立ち向かうだろう。

2014年4月7日、ルフト神父は覆面の男に射殺された。

日本のイエズス会が追悼文を寄せている。

==《シリアのホムスで殺害されたイエズス会司祭》==

                                         2014年5月20日

ルフト神父は、2年にわたる政府軍による包囲によって頻繁な砲撃や必需品の不足などが続く旧市街にとどまり、反体制派掌握地域の住民との連帯を生涯かけて実践しました。ファン・デル・ルフト神父は今年2月、AFPの取材に対し、50年近く暮らしてきたシリアは自分にとって故郷のようなものだと語っています。同神父は、レバノンで2年間アラビア語を学んだ後、1966年にシリアに移住。イエズス会の修道院でキリスト教信者を率い、貧しい家庭には、イスラム教徒でもキリスト教徒でも分け隔てなく支援を行っていました。

2014年2月のインタビューでは次のように語っていました。「私はシリアの人々から寛容を学んできました。彼らが今苦しんでいるなら、ともに連帯したいのです。よいときを共にしたように、痛みにおいても共にいるのです」。

================(日本イエズス会終了)

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