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ギリシャ・トルコ戦争 1919年ー1922年

2018-09-15 19:55:08 | シリア内戦

 

第一次世界大戦においてオスマン・トルコ帝国はドイツ・オーストリア側に立ち参戦したが、1918年10月連合国に降伏した。

しかし停戦から半年後の1919年5月15日、ギリシャは、停戦協定を破り、小アジア西岸の都市イズミルに軍隊を上陸させた。イギリスがこれを支援していた。ギリシャの野望は大きく、アナトリア半島の沿岸部を奪うことであった。もしギリシャの野望が実現したなら、トルコは小さな内陸国となってしまう。バルカンからシリア・イラク・アラビアに及ぶ広大な領土を有したオスマン帝国が内陸の小国に転落するするのである。もっとも、大一次大戦後領土が収縮した帝国はほかにもある。オーストリアである。大戦前、オーストリアの領土はかなり広く、チェコ・ハンガリー・クロアチア・ボスニア・イタリア北東部を含んでいた。オーストリア・ハプスブルグ帝国は中世から近代にかけてドイツの歴史の中心に位置し、ドイツの文化的発展に貢献した。そのもっともよい例が音楽である。ハイドン・モーツアルト・ベートーベン・シューベルトはウイーンで活躍した。2つの大国オーストリアとトルコが大一次大戦で敗者となり小国に転落した。歴史の流れは国家の領域を激変させるのである。現在オーストリアとトルコは小国のイメージが定着している。

第一次大戦でトルコはイギリス・ロシアを相手に4年間戦った。この間トルコはダーダネルス戦で英国艦隊に壊滅的な打撃を与え、同じく英国のガリポリ上陸作戦を失敗に終わらせている。どちらの作戦もコンスタンチノープル攻略を目的としたが、英国は完全に失敗した。しかしながら長期戦では米国に支援される英・仏側が有利であり、トルコは敗北を受け入れた。

停戦から半年後の1919年5月15日、ギリシャ軍がイズミルに上陸した。これは火事場泥棒のような行為である。一般的に、大戦後の敗者に再び戦う気力は残っていない。火事場泥棒は成功することが多い。

しかしトルコは違った。1918年519日、軍集団(=数個師団)の司令官の一人が他の司令官たちや有力政治家に呼びかけ、抵抗運動を組織した。愛国的な抵抗運動はオスマン帝国領の分割に反対した。列強に対する抵抗運動を組織したケマル・パシャは後に祖国再建の父として国民の尊敬を集めることとなる。

抵抗運動の成立から5か月後(1918年10月)に停戦が成立し、11月半ばに英軍と仏軍が首都コンスタンチノープルを占領した。停戦が成立したとはいえ、トルコの分割を予定していた列強と、これに反対するケマル・パシャたちの抵抗派の対立は大きかった。

最初に書いたように、ギリシャ郡のイズミル上陸は1919年5月15日である。ケマル・パシャが指導するトルコ軍は戦争準備に一か月を要し、1919年6月27日ギリシャ軍と衝突した。トルコ軍にとっては祖国の存亡をかけた戦いであり、ギリシャとしてもアナトリアの沿岸部の獲得は1823年の独立以来の悲願であった。ギリシャの独立はバルカン半島南端部の独立で終了したのではなく、対岸のアナトリア半島の一部を獲得するまで独立は未完成だった。さびれた港町アテネは一時的な首都に過ぎず、本来の首都はコンスタンチノープルになるはずだった。独立後のギリシャの目標は、コンスタンチノープルを中心にバルカン半島とアナトリア半島にまたがる国家の建設だった。

20世紀初頭アナトリア沿岸部の住民がギリシャ語を話していたことを示す地図がある。地図中の色分けはギリシャ語方言の違いを示しており、これらの場所ではギリシャ語が話されているということである。

 

   

 

 

古代ギリシャ人は商業民族であり、地中海貿易に従事し、富を築いた。地中海沿岸の各地にギリシャの植民都市が築かれた。現在のイタリア、スペイン、フランスの地中海沿岸部にギリシャの領土はないが、先祖代々ここに住む住民の血にはわずかながらギリシャ人の血が流れている。トルコの地中海沿岸部も同じ事情である。また古代ギリシャ人は黒海にも進出しており、トルコの黒海沿岸部にもギリシャ人の植民都市が生まれた。

アナトリア半島の南と北の沿岸部はマケドニア時代にもギリシャ都市として発展を続けた。東ローマ帝国が1453年まで続いたため、ギリシャ人共同体が存続し、生活習慣と言語も受け継がれた。東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国は帝国内の異民族と宗教に対して寛容であり、宗教税を納めれば彼らの宗教に干渉しなかった。こうして20世紀になっても、トルコの地中海沿岸部にはギリシャ語を話す住民が多く存在した。

 

ギリシャは1823年トルコから独立したが、その後着実に領土を拡大した。

 

 

 この地図にはギリシャがセーブル条約で獲得した領土も示されている。黄色の部分である。セーブル条約が締結された1920年8月10日ギリシャ軍とトルコ軍は戦闘中である。戦闘開始から1年経過しており、さらに1年続くことになる。結局ギリシャはセーブル条約で得た領土を失うことになる。

セーブル条約によりギリシャはアナトリアに領土を得たが、ギリシャが本来望んでいた領土はもっと多い。1919年ギリシャの首相ヴェニゼロスがパリの講和会議に自国の要望を提出したが、それは次のようなものである。

 

 

1920年8月10日のセーブル条約で、ギリシャは黒海沿岸部と地中海沿岸部を得ることができなかった。

 

 

地中海沿岸部の大部分がイタリアの勢力圏となっている。黄色の地に緑の縦線で示されているのがイタリアの勢力圏である。黄色の部分はトルコ領である。

セーブル条約におけるイタリアの勢力圏について少し説明したい。

トルコは1918年10月連合国に降伏・停戦し、11月半ば英軍と仏軍が首都コンスタンチノープルを占領した。首都占領は停戦時の合意に基づくものであったが、翌19194月イタリア軍がアンタルヤに上陸した。これは19179月の英・仏・イタリア間の合意に基ずくものである。イタリアはアンタルヤを中心とする地中海沿岸部を獲得することになっていた。1917年ロシアで革命が起き、トルコとの戦争を担ってきたロシア軍が離脱したため、英・仏がその穴を埋めなけれなかったが、ドイツとの戦争が一進一退の状況で、余裕がなかった。それで両国はイタリアに頼ったのである。しかし英・仏は猫の手も借りたいからイタリアの要求を飲んだだけで、約束を果たす気持ちは薄かった。1919年になると英国はギリシャ軍に期待するようになり、ギリシャ軍のイズミル上陸を支援した。こうしてイタリア軍のアンタルヤ上陸の翌月、ギリシャ軍がイズミルに上陸することになった。

セーブル条約締結の時点でギリシャとトルコは戦闘中であり、その後トルコ軍はギリシャ軍の撃退に成功し、イズミルを奪還した。

1923年7月のローザンヌ条約はトルコの勝利を反映しており、ギリシャはセーブル条約で得た領土を失った。また地中海沿岸部のイタリアの影響圏も消滅した。トルコはシリア・レバノン・イラク・パレスチナ・ヨルダンを放棄し、アナトリアの領土を回復した。アナトリア東部におけるフランスの影響圏も消滅した。

同じくアナトリア東部のアルメニア領とクルド領も消滅した。

 

 

ローザンヌ条約で唯一残った外国の影響圏があり、ダーダネルス・ボスポラス両海峡の国際管理となった。これは英国の権益である。

ギリシャ・トルコ戦争の終結後、住民交換がおこなわれた。約100万人のギリシャ正教徒がトルコからギリシャへ、50万のイスラム教徒がギリシャからトルコへと移住した。彼らは故郷を追われるのと同じであり、双方の合計150万人が悲痛な体験をした。

ギリシャの野望は多くの住民に苦しみを与えただけで終わった。しかしギリシャの野望はイスラエル建国ほど空想的ではない。1453年に滅んだビザンチン帝国はギリシャ帝国の側面を持っていた。

ビザンチン帝国は東ローマ帝国とも呼ばれるように、ローマ帝国の東半分であるが、西ローマが滅んでから、イタリア半島に領土を持ち続け多。イタリアにおいても東ローマの影響がおおおきかった。800年にカール大帝が西ローマ皇帝となるまで、東ローマ皇帝は単独のローマ皇帝だった。ビザンチン帝国の公用語はラテン語ではなくギリシャ語である。またギリシャ正教の聖職者と官僚はギリシャ人だった。ギリシャ人は帝国の統治に深く関与しており、東ローマ帝国はギリシャ人の国家と言えた。

1453年東ローマ帝国はオスマン・トルコによって滅ぼされた。そのオスマン・トルコ帝国19世紀末には衰退が著しく、第一次大戦での敗北により解体が避けられなかった。そのような時、伝統的なギリシャ人の国家を再建するという考えが生まれるのは自然だった。ビザンチン帝国の亡霊が現れても不思議ではない。


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