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シリア・イスラム戦線が米国の軍事介入に反対

2018-01-28 00:40:37 | シリア内戦

2013年8月21日の未明ダマスカスのグータ地区にサリン攻撃がおこなわれた。米国のオバマ政権はアサド政権を非難し、米国の軍事行動を示唆した。「数百人の市民が毒ガスという存酷な手段により殺害された。再びこのような悲劇が起こることがないよう、断固たる行動が必要である」。

米国の決意は固まっているように見えた。米国のベイルート大使館が特に重要な任務を持たない人と大使館員の家族に対し、レバノンから去るよう勧告した。

シリアの反対派の多くが米国の直接介入を望んでいた。米国の介入を引き起こすため、彼らがグータ地区にサリン弾を撃ち込んだのかもしれない。

こうした中でイスラム主義グループの中の最大勢力であるシリア・イスラム戦線が米国の攻撃に反対であるあることを表明した。ヌスラ戦線とISILは一貫して米国の軍事介入に反対している。反対派の中でサリンを扱う能力を扱う持っているグループが、米国の軍事介入に反対しており、「グータ地区に対するサリン攻撃は反対派による謀略だ」という説は根拠を失う。

この時期の反対派が何を考えていたかについて、ワシントンポストが伝えている。

 

===《イスラム主義グループが米国の軍事介入に反対》==

Syrian Islamists protest U.S. strikes; Americans exit embassy in BeirutSyrian Islamists protest U.S. strikes; Americans exit embassy in Beirut

  <https://www.washingtonpost.com/world/middle_east/us-orders-partial-evacuation-of-embassy-in-beirut-as-tensions-rise-over-syria-strike/2013/09/06/6af006a8-16f5-11e3-804b-d3a1a3a18f2c_story.html?tid=pm_world_pop&utm_term=.1a4bdae45dc3>

              By Liz Sly

            ワシントンポスト 2013年9月6日

イスラム主義グループは米軍によるシリア攻撃に反対しているが、自由シリア軍の指導部は米軍の介入を願っている。イスラム主義グループと自由シリア軍は対立を深め、こうした反対派内の分裂により、内戦を終結させる努力は混迷している。

シリア北部で指導的な位置にあり、厳格なイスラム主義グループが米国の軍事介入を支持してはならない、と構成員たちに警告した。ネットのフェイスブックに、次のように書かれている。

「米国の軍事介入は米国の利益になるだけであり、アサド大統領を倒そうとしている人々の利益にはならない」。

米軍の介入に対するシリア・イスラム戦線の反対は断固としたものではないが、反対派の多くは米軍の介入によってアサド政権の終末が早まること期待しているなかで、、これに疑問をなげかけた。

米国の真の目的は裏切り者の利益を増すことだから、警戒するように」。

シリア・イスラム戦線は、原理主義グループであるアフラール・シャムによって指導されている。

別のイスラム主義グループは米国の軍事介入を断罪するビデオを投稿した。このビデオは反対の立場が明確だ。

「我々は西側諸国による軍事介入を拒否する。これはイスラム世界への新しい侵略だ」。

このビデオを投稿したのは、8つの原理主義グループの代表である。* a video posted on YouTube.

反対派の多くは米軍の介入によってアサド政権の終末が早まることを期待している。

反対派は米国の軍事介入を歓迎するグループと反対するグループに分かれている。シリアの反対派は一様ではなく、方針がまとまっていない。数百の小さなグループが乱立しており、彼らは互いに同盟したと思うと分裂し、再び新たな同盟を結成する

というようなことを繰り返している。

穏健な自由シリア軍を統括している最高軍事評議会はこれまで何度も西側の支援を要請し、米国の軍事介入に賛成してきた。

自由シリア軍はSILやヌスラの対極にある穏健なグループの集まりである。自由シリア軍は反乱軍全体の中で圧倒的に多数であったが、アサドの正規軍とまともに戦う力はなく、西側の武力介入を求めていた。西側はこれに応じることなく、放置した。この間SILやヌスラなどの過激派が優勢になった。

自由シリア軍とは反対に、過激な原理主義グループは米国の軍事介入に反対した。米国の真の攻撃目標は自分たちである、と過激派は考えていたからである。アルカイダ系のISILとヌスラ戦線は米軍の攻撃に備え本部を撤収し、武器や資金を他所へ移している。彼らは本気で自分たちが攻撃されると考えている。これは反対派の支配地に住む住民の報告である。

米国にテロリストと規定されているISILとヌスラの他に、やや穏健なグループが多数存在する。アフラール・シャムが率いるシリア・イスラム戦線は自分たちをイスラム原理主義者と公言しており、実際過激な小グループが複数含まれる。しかしシリア・イスラム戦線はSILやヌスラとは異なり、やや穏健であるとみなされている。アフラール・シャムはシリアの広い範囲に支配地を有している。彼らは特に北部に基盤があり、SILとヌスラより普通の市民から信頼されている。

アフラール・シャムのようなグループにとって、予想される米軍の攻撃はジレンマになっている。2年前から米軍の介入を望んでいるグループと異なり、彼らは米国の軍事介入に反対してきた。そし、てこの姿勢はシリア国民に支持されてきた。今になって米軍の介入を歓迎するするなら、彼らを支持してきた国民の信頼を裏切ることになる。

しかし「米軍のシリア攻撃により、アフラール・シャムのようなグループは軍事的に利益を得るだろう」と、英国の軍事情報誌 IHS ジェーンのチャールズ・リスターが述べている。

「現実問題として、SILとヌスラよりやや穏健なイスラム主義グループにとって米軍の攻撃は有益である。しかし彼らは西側の軍事介入を公に承認することはできない。そこに彼らの矛盾がある」。

もう一つ重要な点がある。反乱軍の支配下にある地域の住民は日々空爆を受けている。彼らの多くはともかく内戦が終了することを願っており、たとえ外国の介入であっても戦争終結を早めるならよいと考えている。イスラム主義グループはこうした住民の願いを無視することができない。

イドリブ県の活動家たちは外国の軍事介入を望んでいることを国会議員に伝えるビデオを発表した。ビデオには死亡した子供たちが散乱している場面があり、生き残った子供たちが軍事介入を願っていた。

私はイドリブのアフラール・シャムの報道官に問い合わせた。彼は次のように強調した。「先日の我々の発表の真意は、我々は米国の攻撃に賛成も反対もしない、ということだ。米国の攻撃が何を意味するか国民に説明しているだけだ」。

 

米国のベイルート大使館が特に重要な任務を持たない人と大使館員の家族に対し、レバノンから去るよう勧告した。アメリカはシリアを攻撃するかもしれない、という緊張が高まっている時に出された退去勧告は、米国の攻撃が近いことを教えた。

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シリア・イスラム戦線

2018-01-23 23:19:05 | シリア内戦

 

今回のテーマ「シリア・イスラム戦線}は2013年11月に成立したイスラム戦線の前身であり、約一年前に成立した統一戦線である。

 

20129月シリア・イスラム解放戦線が成立した。3か月遅れて、1221日シリア・イスラム戦線が成立した。両者の名前は似ている。イスラム諸派の統合に失敗したため、一字違いの名前を持つ2つの統一戦線が生まれたためである。最初にできたシリア・イスラム解放戦線についてはこれまで書いてきた。イスラム解放戦線の中心敵なグループであるスクール・シャムはアフラール・シャムと並ぶ有力なグループだった。しかし2014年以後、ヌスラ戦線やISIS強大になり、スクール・シャムは競争に敗れて弱体化した。

イスラム解放戦線のナンバー2であるファルーク旅団もスクール・シャムに劣らず有力なグループであり、シリア各地のグループを従え、広域ネットワークを築いていた。彼らはトルコ・シリア国境の検問所のうち最も重要な2か所を支配していた。ファルーク旅団の本拠はホムスにあり、革命の聖地ホムスの支配者であることが彼らの威光を高めていた。20137月ホムスの反対派は一掃され、ファルーク旅団は急速に勢力を失った。

今回はイスラム解放戦線に3か月遅れて成立したシリア・イスラム戦線について、ウイキペディア(英語版)を訳す。シリア・イスラム戦線の中心的なグループはアフラール・シャムである。彼らは優勢なヌスラ戦線やISISにも対抗し、自らの存在を維持し続けた。

 

======《The Syrian Islamic Front》========

                 wikipedia

20121221日、11のイスラム主義グループが連合し、シリア・イスラム戦線が成立した。それぞれの組織は独立を維持したまま、協力を緊密にすることを約束したものであり、連合が一体性を強めるか、ばらばらになるかは予断を許さない。

シリア・イスラム戦線の中心的なグループはアフラール・シャムであり、残りは以下のぐるープである。

①ハク旅団(Al-Haqq Brigade);ホムス

②ファジル・イスラム運動( Al-Fajr Islamic Movement);アレッポ

③アンサール・シャム(Ansar al-Sham);ラタキア

④ジャイシュ・タウヒド(Jaysh Al-Tawhid);デリゾール

⑤ハムザ・ムッタリブ旅団(Hamza ibn ‘Abd al-Muttalib Brigade);ダマスカス

参加メンバーは対等という条件に、アフラール・シャムは不満だったようである。彼らは統一戦線を指導するのはと自分たちだと考えていた。

結成間もない翌20131月、いくつかのメンバーが改名を宣言した。新しい名前はアフラール・シャム・イスラム運動(The Islamic Movement of Ahrar al-Sham)である。他のメンバーは怒ったが、解散には至らなかった。そしてシリア・イスラム戦線という元の名前が使われ続け、定着した。

20134月新メンバーが加わった。ハマ県のハク旅団集合(Haqq Battalions Gathering)である。
ハク旅団集合は20138月ハマのいくつかの原理主義グループによって結成された。中心メンバーはリワ・ムジャヒディ・シャム( Liwa Mujahidi al-Sham)である。彼らはシリア・イスラム戦線の重要なメンバーになった。

201389日アフラール・シャムの指導者ハッサン・アブードがイドリブ県のラム・ハムダンで死んだ、とシリア人権団体が伝えた。

シリア・イスラム戦線はシリアの広い地域において影響力を確立した。シリア・イスラム戦線とその中心的なグループであるアフラール・シャムは資金の多くを支配地における人道的・社会的な活動に費やした。例えばイスラム的な教育活動や食料・水・燃料の支給である。これらの人道的活動の経費の一部は、IHH人道的救援基金(トルコのNGO)やカタール慈善団体によって支給されている。

2013年シリア・イスラム戦線の指導者ハッサン・アブードはアルジャジーラに出演しインタビューに答えた。彼は初めてメディアに登場し、本名を明かした。
「新規参入者に軍事訓練とイスラム教育をほどこすため、我々はシリア全土に訓練所を持っている。このほかに、有望な人材が指揮官になるための訓練所もある。数十のグループがシリア・イスラム戦線に参加したいという要望を述べている」。
シリア・イスラム戦線の設立宣言には、次のように書かれている。「イスラムの教えを厳格に守り、アサド政権を倒し、全シリア人のための国家を樹立する。新国家はイスラム法によって統治されるイスラム教国となる」。

イスラム戦線は湾岸の厳格なイスラム・スンニ派から資金と援助を得ている。有名な資金提供者は次の3名である。

①クェートの説教師Hajjaj al-Ajami

②サウジ在住のシリア人説教師Adnan al-Aroor

③クェートの政治家 Hakim al-Mutayri

イスラム戦線は厳格なイスラムを信奉しているが、ヌスラ戦線より穏健であり、シリア国民の間で広い支持を集めている。

2013821+を受けた時、米国はシリア攻撃を攻撃を考えた。この時イスラム戦線は米国の軍事介入に反対し、95日インターネット上で声明を出した。

「欧米によるシリアへの軍事干渉を、我々は拒否する。これはムスリムに対する新しい侵略であり、米国に利益をもたらすだけである。アサド政権を倒そうとしている人々の利益にはならない」。


2013
11 22 日シリア・イスラム戦線に所属するグループのリーダーたちは新しい統一戦線「イスラム戦線」の結成宣言に参加した。これまでイスラム諸派は2大グループに分かれていたが、両者が歩み寄りひとつにまとまった。

2大グループの一つはこの記事のテーマであるシリア・イスラム戦線であり、もうひとつはシリア・イスラム解放戦線である。
新しい統一戦線の誕生にともない、シリア・イスラム戦線はネット上で解散を表明した。
====================(wikipedia終了)

2013821日シリア軍がダマスカスのグータ地区にサリン弾が撃ち込まれた。これを理由に米国はシリア攻撃を準備していた。これに対し、シリア・イスラム戦線が米国の軍事介入に反対の意を表明したことを知り、私は驚いた。反対派は米国の軍事介入を望んでおり、そのきっかけが欲しかった。反対派はそのきっかけをつくるため、ダマスカスでサリン弾を使用した、という説は根強かった。

反対の最大勢力であるシリア・イスラム戦線が米国の軍事介入に反対していたとすれば、反対派による陰謀説は根拠を失う。

20138月の時点でイスラム諸派は一つにまとまってはいないが、少なくとも2つの統一戦線が出来上がっている。自由シリア軍の時代は終わり、反対派とはイスラム諸派を意味するようになっている。統一戦線のひとつであるシリア・イスラム戦線が米国の軍事介入に反対の意を表明した意味は大きい。「反対派は米国の軍事介入を望んでおり、そのきっかけを作るためにダマスカスの郊外でサリン攻撃を行った」という主張が否定されるからである。

 

シリア・イスラム戦線が米国の軍事介入に反対したことは事実であるが、必ずしも本心ではなく、建前に過ぎず、本心では米国の軍事介入を望んでいたようだ。現実問題と必要と建前との矛盾がある。シリア・イスラム戦線のイデオロギーは反欧米・反近代・イスラムへの回帰である。

米国に頼ることはイスラムとアラブへの裏切りである。アサド政権は欧米からの自立を貫き、その結果国際的に孤立した。このことはアラブ世界では高く評価されてきた。シリア・イスラム戦線が米国に頼るなら、アサド政権以下になってしまう。

20138月のダマスカスのサリン事件について、米国はシリア軍の犯行と断定したが、反対派の陰謀という主張もそれなりに説得力がある。私は検証を試みたが、結論に至らなかった。現地の状況を提示するだけで終わった。

ただ一つだけわかったことがある。これは戦争中に起きたことである。オバマ政権は人道的な理由を前面に出しているが、これはまやかしに過ぎない。米国にとって大事なのは国益であり、シリア攻撃の真の理由は国益であり、人道的な理由は口実に過ぎない。米国が人道的な立場で行動しているなら、内戦の終結を第一に考えるはずである。しかしアラブ世界における米国の信用失墜という形の戦争終結を、米国は絶対に受け入れられない。米国は自国の威信を損なわない形での戦争終結に固執する。

一方アサド政権は生き残ること以外、考える余裕がなく、そのためには何でもする。政権が倒れれば、政権の重要人物は死刑である。万一亡命できたとしても、オサマ・ビン・ラディンのように家に閉じこもる生活であり、最後に暗殺されるかもしれない。

アサド政権としては、米国の介入の口実となる化学兵器の使用は避けたいが、現地の戦況によりやむを得ず使用したかもしれない。

シリア軍は航空攻撃に加え、ミサイル・戦車・重砲などの攻撃手段を有しており、圧倒的に優勢である。ただし最後は歩兵が進出しなければならない。地下に隠れていた反対派に狙撃される危険がある。空爆や砲撃は地下を破壊することはできない。1年半の戦いにより、シリア軍の歩兵の数は目に見えて減っている。シリア軍の歩兵部隊は徐々に消滅に向かっている。クサイル・ホムスで戦った歩兵部隊はレバノンのヒズボラである。ダマスカスのグータ地区の反対派の支配地に進出する際、歩兵の犠牲を出さない目的で、シリア軍はサリン攻撃をしたのかもしれない。

米国にとっても、アサド政権にとっても人道的な問題は2次的な重要性しか持たない。両者の一次的な重要性とは勝利することである。

サリン攻撃をしたのは誰かという問題に、私が興味を失ったわけではなく、犯人についての決定的証拠が世に出る日を待っている。

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ファルーク旅団(ホムス)②

2018-01-22 23:30:06 | シリア内戦

 

2013519日反対派はクサイルで完敗し、続いて712日ホムスから一掃された。クサイルとホムスの反対派のその後が気になっていたが、湯川陽菜さんが2014年の春クサイルからシリアに入っており、クサイルの反対派ルートはまだ健在なようだった。

また2015730日ホムスを拠点とするファルーク旅団について書かれた記事がある。この記事は前々回紹介した。以上の2点から、ホムスの反対派はまだ健在なのかもしれないという疑問が生まれた。ウイキペディア(英語版)にファルーク旅団の項目があり、それによればファルーク旅団は2014年に消滅している、という。

 

========《The Farouq Brigades》========

                 wikipedia

ファルーク旅団は内戦の初期ホムスを拠点とする自由シリア軍のメンバーによって結成された。2012年急速に規模が大きくなり、名声が高まった。その後内部分裂と戦場での敗北により、2013年にはかつての影響力を失った。

2014年、残存構成員が他のグループに流れ、ファルーク旅団はほぼ消滅した。

                〈旅団成立から2012年9月まで〉

旅団の名前は第2代カリフ、ウマルに由来している。ウマルはムハンマドの側近であり、アブ・バクルを継いでカリフとなった。彼は信仰心が篤くイスラムの教えに忠実であり、ファルーク(善悪を区別する人)と呼ばれていた。

デモの開始(20113月)から数か月後、ファルーク旅団が組織された。最初は独立したグループではなく、シリア軍からの離脱兵からなる旅団(ハリド・イブン・ワリド)に従属していた。

ハリド・イブン・ワリド旅団(Khalid ibn al-Walid Brigade)は20116月に成立していた。ほとんど平和なデモの段階であった時期に、ハリド・イブン・ワリド旅団はホムスとラスタンでシリア軍と衝突し、有名になった。

 

 

2011年の後半ファルーク旅団はホムスのババ・アムル地区を中心に活動していた。旅団の構成メンバーは約3000名だった。

 

 

ファルーク旅団の指導者はシリア軍から離脱した中尉アブドル・ラザク・タラスである。彼の叔父ムスタファ・アブドゥル・カディール・タラス(Mustafa Abdul Qadir Tlass) 30年間(1972 年ー 2004年)国防大臣を務めた。

 

  

 

ファルーク旅団がホムス市の一画を支配していることは、政権にとって我慢できないことだった。2012年の早い時期にシリア軍はババ・アムルへの攻撃を強めた。反乱軍は多くの犠牲を出し、ホムスの田園地帯やラスタン・クサイルなどの都市に撤退した。

ババ・アムルから撤退を余儀なくされたものの、その後数か月ファルーク旅団は組織の拡大に努めた。シリア各地で新たに反乱グループが誕生しており、彼らを自分たちの仲間にした。また以前から存在しているグループも引き込んだ。こうしてファルーク旅団はヨルダンとの国境地帯とトルコとの国境地帯まで、広い地域に仲間を持つことになった。トルコとの国境地帯で活動するファルーク・シェマル旅団はグループはいくつかの国境検問所を支配していた。ファルーク・シェマル(Farouq al-Shemal)旅団は北のファルークと呼ばれている。

20129月・ファルーク旅団やスクール・シャムなど、多数のイスラム主義グループが集まり、シリア・イスラム解放戦線を創設した。イスラム解放戦線の指導者によれば、構成員は4万人を超えており、彼らはイスラムの教えに沿った国家建設を目ざしているという。20135BBCはイスラム解放戦線の人数を2万人と推定している。

201311月イスラム解放戦線に代わり、新たに「イスラム戦線」が成立した。しかしファルーク旅団はこれに参加しなかった。

ワシントン・インスティチュートのジェフリー・ホワイトと戦争研究所(ISW)のジョセフ・ホリデイによれば、ファルーク旅団は穏健なイスラム主義グループであり、世俗主義とイスラム原理主義の中間に位置している。戦闘員の多くがジハードのスタイルをし、黒のはち巻をしてひげを生やしているが、彼らの信仰心はそれほどでもなく、湾岸の信仰心厚い支援者からの資金目当てであるようだ。

ファルーク旅団には宣伝部門があり、彼らの戦闘場面を撮影し、YouTubeFacebookに投稿している。それらの写真や映像には旅団のロゴが張られており、映っているのが彼らであることが識別できる。これは資金集めのためである。資金提供者は多様であり、シリア人、湾岸の富裕層、西側諸国、イスラム主義団体などである。

20124月ファルーク旅団はホムスのキリスト教住民の地区でジズヤを徴収した、と批判された。ジズヤとはイスラム支配下の非イスラム教徒に課される税金である。キリスト教徒やユダヤ教徒はそれほど高くない税金を払えば、イスラム教に改宗しなくてもよかった。

ジズヤ徴収を批判されたファルーク旅団は「そんなことはしていない」と否定した。ISW(戦争研究所)は「この批判をしているのはアサド政権だ」と書いている。

ファルーク旅団による他宗派迫害問題はこれで終わらず、ホムス市のキリスト教住民の90%を追放したという報告がなされた。これに対しホムスのイエズス派は反論している。

「彼らは追放されたのではなく、戦闘を避けて避難したのだ」。

マクラッチ新聞(McClatchy Newspapers)はレバノンに避難したキリスト教徒に聞き取りをしたが、彼らは「キリスト教徒であるという理由での迫害はなかった」と答えている。「ただしファルーク旅団が政権と結びつきのあるキリスト教徒を多数逮捕したため、同じ地区に住むキリスト教徒たちが逃げた例はある」。

20129月シリア北部のファルーク旅団が外人部隊を率いるイスラム原理主義者Abu Mohamad al-Absiを誘拐した。北部旅団の司令官は誘拐の理由を述べた。「彼ら(外国人グループ)はバブ・ハワの検問所を明け渡すよう要求したが、応じなかった。アブシはアルカイダの旗を掲げた。我々はアルカイダを歓迎しない」。

====================(wikipedia中断)

 

 

トルコとシリアの長い国境線には、いくつもの検問所があるが、バブ・ハワの検問所は最も重要なもののひとつである。バブ・ハワの越境地点がシリア内戦に果たした役割は大きい。資金と武器がトルコからバブ・ハワに入り、シリアの反対派に配布された。自由シリア軍を統括する最高軍事評議会の現地本部はバブ・ハワにある、武器庫もある。バブ・ハワ経由の供給はアレッポ西方とイドリブ北部の反対派を支えた。アレッポ西方からイドリブにかけて強力な反政府軍が存在するため、シリア軍のアレッポ作戦は困難になった。ホムスから北上するシリア軍に対し、この地域が防波堤となったため、アレッポの北方は反対派の天国になった。

ホムスを拠点とするファルーク旅団がバブ・ハワの検問所を支配しようとしたことは、彼らの勢力の伸長を示している。

後半は201210月以後のウイキペディアを続ける。201210月以後のファルーク旅団についてであるが、2012年の最後の3か月についての記述は少なく、2013年の最初の話題は、元ファルーク旅団の指揮官がシリア軍兵士の心臓を切り取った事件である。この事件についてはすでに書いたが、並はずれて野蛮な行為をした指揮官がいた、という単純な話ではないようだ。シリア内戦の残酷さの一片にすぎない、とウイキペディアは教えてくれる。内戦の本質をかいま見る思いである。

 

====《The Farouq Brigades(続き)》======

    〈2012年9月ー2013年5月〉

201210月ファルーク旅団の指導者の一人であるアブドゥル・ラザク・タラス元中尉が更迭された。彼に代わったのはAbu Sayeh Juneidiである。

10135月、反対派の司令官アブ・サッカルがシリア軍兵士の内臓を切り取り、それを口に入れようとする動画が公開された。彼は彼を見習うことを反対派にすすめ、アラウィ派に恐怖を与えるよう誘った。シリア人権監視団によれば、アブ・サッカルはファルーク旅団に所属しておらず、独立のオマル・ファルーク旅団の司令官である。

しかしBBCはオマル・ファルーク旅団はファルーク旅団の下位グループである、としている。ファルーク旅団は多数に枝分かれした家系図のように互いにつながっている諸グループの集合である、という。

自由シリア軍の参謀長はアブ・サッカルの行為を非難した。アブ・サッカルのグループが自由シリア軍に所属するかどうか、不明である。自由シリア軍は命令系統がないも同然であり、どのグループが所属しているのか否かについても、あいまいである。

アブ・サッカルは裁判にかけられるべきだ、とシリア国民連合は表明した。自由シリア軍の最高軍事評議会は彼の逮捕を命令した。一方アブ・サッカルは次のように弁明している。

「あれは復讐だった。あのシリア軍兵士の携帯電話にビデオが収録してあった。あの兵士母親と2人の娘を凌辱していた。別のビデオでは、アサドの兵士が女性を辱め、人々を拷問し、身体を切断し、殺していた。子供たちまでもそのようにされた」。

201646日アブ・サッカルはラタキア県でシリア軍によって殺された。その時彼はヌスラ戦線と共に戦っていた。

01311月までに、ファルーク旅団は衰退し、多くの小さなグループに分裂した。その結果勢力圏を著しく縮小した。ファルーク旅団はラッカから追い出され、トルコからラッカへの入り口の町であるテル・アビヤドを失った。その後も旅団の分裂は止まらず、ファルーク旅団はほぼ消滅した。

=================(wikipedia終了)

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クロアチアからシリアへの武器輸送は終わっていない

2018-01-20 01:07:30 | シリア内戦

2012年11月から2013年2月の間に、75の民間輸送機がクロアチアのザグレブ空港から離陸した。武器や弾薬の一部3000トンがトルコとヨルダンを経由してシリアの反政府勢力へ送られた。

大量の武器がシリアへ送られた事実が明らかにになり、改めてシリア内戦が外国の代理戦争であることを印象づけられた。

クロアチアからシリアへの武器輸送はこれで終わったのではなく、その後むしろ増加した。その後の輸送量の多さに比較すると、2012年11月ー2013年2月の武器輸送はわずかなもであった。特に2016年の増加は著しい。

OCCRP(組織犯罪と腐敗報告プロジェクト)がクロアチアの武器輸出を、グラフを用いて解説しており、一目でその実態がわかる。このグラフはサウジアラビアによる反対派への支援の急増を物語っている。

 

====《クロアチアの武器がシリア内戦を激化》====                       -Croatian Arms Sales to Saudi Arabia Fuel Syrian War

                by Lawrence Marzouk, Ivan Angelovski and Jelena Svircic

 <https://www.occrp.org/en/makingakilling/croatia-sells-record-number-of-arms-to-saudi-arabia-in-2016/                      

                                      OCCRP     2017 年2月21日

 2016年クロアチアは前代未聞の量の中古の武器をサウジアラビアに売却した。これらの武器がシリアに流れるのは歴然としており、多数の証拠がある。これはEUの法律と国際法に違反している。

3016年4月自由シリア軍に所属するヌール・ディン・ゼンキ(Nour al-Din al-Zenki Movement)がクロアチア製の多連装ロケットRAK-12 を使用している動画がある。YouTube

 

サウジ軍は中東で最良の、最も高価な武器をすでに保有しているにもかかわらず、2016年新たに8170万ドルの中古の武器を購入した。それらは、ロケット砲、迫撃砲、手りゅう弾発射機、弾薬などである。

サウジのクロアチアからの武器購入は4年前から続いているが、2016年に急増した。8170万ドルという額は2016年の9月までのものであり、年の終わりには、これまでの4年間の合計金額を超え、その2倍になりそうだ。

クロアチアの軍事評論家Igor Tabakによれば、クロアチアは現在武器を生産しておらず、サウジに売却しているのは中古品であり、旧ユーゴや東欧諸国で生産されたものである。

クロアチアの不要な在庫品を売却して利益を得ていること、それがシリアで使われていることを、クロアチア政府は頑固に否定しているが、クロアチア国防相の文書を見れば、明らかだ。

2012年以来クロアチアの武器売却が急増していることを、組織犯罪と腐敗報告プロジェクト( Organization Crime and Corruption Reporting Project )が明らかにした。2012年はシリア内戦が始まった年である。

2012年と2013年の2年間に、クロアチア国防省はそれ以前の10年間に等しい量の武器を売却した。2011年クロアチアは18,000 トンの武器を保有していたが、その後の2年間で その4分の1以上(5,000トン)を売却した。

我々はクロアチア国防省に売却先を質問したが、返事はなかった。2015年と2016年の売却についても、説明がなかった。

クロアチア国防省の文書はネットに公開されている。

2012 Report by the Croatian Ministry of Defense

2013 Report by the Croatian Ministry of Defense

2014 Report by the Croatian Ministry of Defense

2012 Report by the Croatian Ministry of Defense

2013 Report by the Croatian Ministry of Defense

2014 Report by the Croatian Ministry of Defense

 

上の写真は「シャムの剣」というグループが投稿したビデオの場面である。日付は2016年5月18日。これはクロアチア製のロケット RAK-12 である。下の写真はクロアチア兵士であるが、同一のロケットを持っている。

              【武器売却は国家機密】

クロアチアは2012年の冬シリアの反乱軍に最初に武器を供与した国の一つである。これはCIAの作戦であり、サウジアラビアが資金を出し、ヨルダンを経由してシリアに持ち込まれた。の調査によってわかった。

これについてニューヨーク・タイムズなどにより、多くの報道がなされた結果、恐れをなしたクロアチア政府は売却武器が最終的に誰の手に渡ったかという情報を公式記録からすぐに抹消した。

国連の貿易統計によれば、2012年と2013年の2年間に、クロアチアは3600万ドルの武器をヨルダンに売却した。クロアチアの役割が世界的なニュースになると、ヨルダンに代わりサウジアラビアが武器購入を引き受け、2014年以後1億2400万ドルの武器をクロアチアから購入した。

2012年以前クロアチアのヨルダンとサウジアラビアへの武器輸出額は数十万ドルに過ぎなかった。2015年以後クロアチアからサウジへの武器輸出枠は3億200万ドルだった。

 

 

       

写真の男が手にしているのはクロアチア製の手りゅう弾発射機

RBG-6である。彼はコーカサスを拠点にしているイスラム主義グループImarat Kavkazのメンバーである。

手りゅう弾発射機RBG-6と多連装ロケットRAK-12 はシリアで大量に出回っている。これらはユーゴ解体後の1990年代クロアチアで生産されたものである。

===================(OCCRP終了)

 

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ファルーク旅団(ホムス)

2018-01-19 01:14:40 | シリア内戦

ヌスラ戦線を除くイスラム諸派が大同団結しようという試みは2012年秋に始まった。最初に統一戦線を組織したのはスクール・シャムであり、2012年9月「シリア・イスラム解放戦線」が成立した。シリア・イスラム解放戦線は8個のグループで構成されたが、その中で4つのグループが有力である。

①スクール・シャム(イドリブ、アレッポ)

②ファルーク旅団(ホムス)

③リワ・イスラム(ダマスカス)

④タウヒド旅団(アレッポ)

イスラム解放戦線内の主要グループのひとつであるファルーク旅団には話題が多く、ファルーク旅団の元指揮官がシリア軍兵士の心臓を切り取ったことは前々回書いた。

今回はファルーク旅団のメンバーであるクロアチア人医師について書く。ファルーク旅団はホムスを拠点としている。2013年7月12日反対派はホムス市内から一掃され、ファルーク旅団も勢力を縮小したが2014年になっても活動を続けている。

2012年末クロアチアの武器が大量にシリアの反対派に流れた。ファルーク旅団はこれに関っているようである。 

 

=======《クロアチア人医師の役割》=======

Dr Jamal Assad, a gynecologist from Zagreb Croatia, must think drawing blood in Syria is much more important than treating patients in Croatia.         <https://syrianfreepress.wordpress.com/2015/07/30/jihadist-jamal-assad/    

                    the real Syrian Free Press

                                                 2015年7月30日

 

クロアチアのザグレブの産婦人科医はザグレブで治療するより、シリアで人を殺すほうが重要だと考えているようだ。

彼、ジャマル・アサドはファルーク旅団と一緒に写真に写っている。医療器具とは、おさらばしたようです。

 

ジャマル・アサドはアル·ファルーク旅団とともに戦い、ジハードと同じ服を着ています。

彼は何度も旅行し、多くの人々や政府と会っています。これは、シリアの人々を殺害しているテロリスト・グループへの援助を増やすためです。

     

彼はシリア国民を代表していない。彼は反対派であるシリア国民連合のために活動している。反対派はサウジアラビアと米国の産物です。これらのグループの戦闘員はシリア人ではない。

 

2013年のアル・アラビア紙に次のように書かれている。

「クロアチアの首都ザグレブは数か月前から、反政府勢力に送られる武器の中継点となっている。武器の資金は、サウジが出している。この報告はザグレブの地元紙に掲載されたものであり、執筆者は著名なJutarnji List氏である。クロアチア政府はこの話を否定した。

Jutarnji Listの報告は以下のようなものである。

『クロアチアの外交筋によれば、シリアの反乱軍に武器を運ぶため、昨年(2012年)11月から今年2月の間に75の民間輸送機がザグレブ空港から離陸した。これは米国主導のもとに、武器や弾薬の一部3000トンの輸送がトルコとヨルダンの航空貨物会社を利用しておこなわれた。銃、ロケットやグレネードランチャーなどの武器はクロアチアのものである。また英国を含むいくつかの他の欧州諸国出自のものもある。これらの武器はトルコとヨルダンを経由してシリアに入った』」。

クロアチア外務省のバリシック報道官はこの話を否定し、AFPに語った。

「我が国がシリアの反乱軍に武器を売ったり、与えたりすことはない」。

2013年2月末、ニューヨーク・タイムズが次のように書いた。

「サウジアラビアはクロアチアから購入した武器をシリアの反乱軍に送っている。

米国とヨーローッパの政府筋によれば、サウジが資金を出した歩兵用の武器は1990年代のユーゴ内戦時の遺産であり、内戦終了後国連に申告されなかったものである。12月これらの武器がヨルダン経由でシリアの反乱軍に流れ始めた。それ以来武器を積んだ輸送機が何度もクロアチアから飛び立った。積荷は数千のライフル銃や数百の機関銃、などだった。

 

============(real Syrian Free Press終了)

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スクール・シャム旅団(イドリブ、アレッポ)

2018-01-18 03:11:44 | シリア内戦

 

ヌスラ戦線を除くイスラム諸派が大同団結しようという試みは2012年秋に始まった。しかしスクール・シャム旅団を中心とするグループとアフラール・シャムを中心とする2つの集団に分裂した。20131122 2つの大集団が合流し、イスラム諸派の統一戦線=イスラム戦線が成立した。これにより、反対派には3つの極が生まれた。ヌスラ戦線・ISIS・イスラム戦線である。自由シリア軍は戦闘部隊としては意味を失った。彼らは政治活動家・社会活動家としては一定の役割をになうだろう。

最初にイスラム諸派の統一を試みたのはスクール・シャムであり、2012年年9月、シリア・イスラム解放戦線が成立した。スクール・シャムはアフラール・シャムとリワ・イスラムと共に、多数のイスラム主義グループの中の3強である。

またスクール・シャムの指導者アブ・イッサもシリアではよく知られている。ウイキペディア(日本版)の「サイドナヤ刑務所」という項目に次のように書かれている。

 

「2011年の反政府デモの数カ月後(英語版)、様々な恩赦で多くのイスラム主義収容者が釈放されたが、ザーラン・アルーシュ、アブ・シャーディ・アブード(ハッサン・アブードの兄弟)やアームド・アブ・イッサといった著名な受刑者も釈放されていて、釈放後シリア内戦においてジャイシュ・アル=イスラム、アハラール・アル=シャーム・イスラム運動、スクール・アル=シャム・ブリゲードといったイスラム主義反政府グループを率いている。

また、当刑務所を含むシリアの刑務所では拷問や栄養失調、公平な裁判無しの独断的な死刑といった勾留者への非人道的な扱いが繰り返し報告されている。

『サイドナヤ刑務所に送られた勾留者の70%が生きて帰れておらず、軍法会議による裁判のほとんどは秘密警察によって決められてしまう』」。

ジャイシュ・イスラムとスクール・シャムの指導者が釈放されたことは物議を呼んでいる。反アサド国民運動をイスラム過激派によるテロと見せかけるため、アサド政権はわざと彼らを釈放した、というのである。

 

ウイキペディア(英語版)に「スクール・シャム」の項目があるので抜粋する。

======《As Suquor al-Sham 》==========

スクール・シャム旅団はアレッポ県とイドリブ県で活動し、20136月には17の下位グループを率いていた。彼らは道路の脇に爆弾を仕掛け、シリア軍に損害を与えることで有名になった。彼らは狡猾であり、釈放したシリア軍捕虜の車に爆弾を仕掛け、自由になった捕虜の車がシリア軍の検問所に帰りついた時、遠隔操作で爆破した。2012年の半ばまで、彼らは自爆攻撃をしなかった。

スクール・シャム旅団は20119月、アフマド・アブ・イッサによってイドリブ県のザウィーヤ地方のSarjehという町で結成された。

 

 

 

彼は4か月前サイドナヤ刑務所から釈放されたばかりだった。彼の旅団はシリア軍からの離脱者と一般市民の混成部隊だった。グループのウエッブ・サイトによれば、旅団は離脱兵の部隊と市民部隊とに分かれていた。市民部隊の指導部は顧問(シューラ)会議と呼ばれ、アブ・イッサが議長だった。市民部隊は軍事物資・食料の調達とプロパガンダを担当した。戦闘部隊は独立しているが、市民部隊のアドバイスに基づいて行動した。

スクール・シャムは「自分たちは自由シリア軍の一部である」としており、「シリア国民会議は国際社会においてシリア革命を代表する組織である」と認めている。しかしながら「シリア国民会議は自分たちに命令する権限はない」と考えている。

 

20139月、スクール・シャムと多数のグループが自由シリア軍との決別を表明した。

「シリア国民会議は我々の代表ではない。我々はシリア国民会議をゴミ箱に捨てる」。

続いて12月、スクール・シャムの指導者が自由シリア軍と決別を表明した。

「我々は、もはや自由シリア軍とは無関係である」。

スクール・シャムとシリア国民会議・自由シリア軍との関係を説明するため、2013年にまで話が及んだが、2012年について、もう一つ書かねばならない。

20128月スクール・シャムやファルーク旅団をはじめとして、多数のイスラム主義旅団が合同し、シリア・イスラム解放戦線が成立した。アブ・イッサが指導者になった。アブ・イッサアブ・イッサによれば、戦闘員の総数は4万を超えるという。また彼は「イスラムの教えに沿った国家の建設を目標としている」と述べた。「イスラムの教えに沿った」というあいまいな表現により、イスラム法をそのまま実定法にするつもりはない、と彼は暗に示している。

2014年の1月、多数の反対派グループとISILとの間であからさまな戦争が起きた。最初ISILが完敗し、支配地から逃走したが、半月もたたないうちにISILは反撃に出た。その後徐々に支配地を奪回した。ISILとの戦いの過程で、スクール・シャムは目に見えて弱体化した。

20141月スクール・シャムの宗教指導者アブ・アブデル・ラフマンは血なまぐさい殺し合いに抗議し、グループを去った。

20142月スクール・シャムの軍事部門の最高指揮官アブ・フセイン[本名Mohammed al-Dik)がISILに襲われ、死亡した。

同じく2月スクール・シャムの参謀長と最初からの構成グループであるSuyouf al-Haq旅団が無断でISILと停戦した。その後参謀長とSuyouf al-Haq旅団はスクール・シャムから離脱した。

(スクール・シャム旅団はいくつかの旅団によって結成された。旅団は複数形である)

Suyouf al-Haqは先に離脱していた Liwa Dawoodに合流した。

リワ・ダウード(Liwa Dawood)はスクール・シャムの強力なメンバーだったが、2013年に離脱し、新しいグループ(ジャイシュ・シャム)をたちあげた。

こうして勢力を失ったスクール・シャムは2015年夏、アフラール・シャムに合流した。

2015年3月イドリブ県を中心にシリア北西部の制圧をめざし、ジャイシュ・ファタハ(征服軍)が結成された。これはロシア軍の空爆下で反対派が戦線を維持する努力であり、ヌスラ戦線とアフラーラール・シャムがまず同盟した。この同盟を軸に各派が集合した。サウジアラビアはジャイシュ・ファタハ(征服軍)を積極的に支援した。

20169月スクール・シャムはアフラール・シャムから去り、ジャイシュ・ファタハに参加した。

2017125 日アフラール・シャムがヌスラ戦線と戦闘になった時、スクール・シャムはアフラール・シャムの側で戦った。

====================(wikipedia終了)

 

 

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スクール・シャムとイスラム解放戦線

2018-01-14 01:27:56 | シリア内戦

自由シリア軍は一つにまとまることに失敗したが、イスラム主義グループは2012年秋以後かなりのまとまりを見せた。ここではイスラム主義グループから、ヌスラ戦線を除く。ヌスラ戦線の活躍は目覚ましく、最強のイスラム主義グループであるが、これについては機会があったら書きたい。ヌスラ戦線に続くイスラム主義グループがいくつかあり、それらを中心に多数のグループがまとまれば、人数の点ではヌスラを超える大勢力となり、戦闘力の点でもヌスラに匹敵するものとなる。

2012年9月シリア・イスラム解放戦線が結成された。これはスクール・シャムを中心に、主要なイスラム主義グループを統一する試みだったが、アフラール・シャムの取り込みに失敗し、統一は実現しなかった。それでもイスラム解放戦線は数万の戦闘員をかかえる大きな軍団だった。イスラム解放戦線の中心的なグループであるスクール・シャムはアフラール・シャムやリワ・イスラムに匹敵するグループであるが、あまり知られていない。リワ・イスラムについては「ダマスカスのサリン事件」で書いたので、これからスクール・シャムとアフラール・シャムについて書く。イスラム解放戦線にリワ・イスラムは参加したが、アフラール・シャムは参加しなかった。

イスラム解放戦線の結成から3か月後、2012年12月21日、アフラール・シャムを中心とするシリア・イスラム戦線が成立した。

イスラム主義者たちは一つにまとまることができず、2大グループに分裂した。

この分裂は状態は約一年続き、2013年11月22 日両者は合流した。新しい統一戦線の名は「イスラム戦線」となった。統一前の両者の名は、既に述べたが、紛らわしいので再び書く。

 ①シリア・イスラム解放戦線(中心;スクール・シャム)

 ②シリア・イスラム戦線(中心;アフラール・シャム)

先ず、①のシリア・イスラム解放戦線について書くことにしたい。ういきう

ウイキペディア英語版にイスラム解放戦線の項目がある。

===== 《Syrian Islamic Liberation Front》======

2012年末シリア・イスラム解放戦線は反対派の中で最も戦闘力のあるグループのひとつだった。反政府武装勢力の半数を占め、数の上では最大だった。

20のイスラム主義グループの指導者たちが秘密の協議を重ねた末、2012年9月イスラム解放戦線が結成された。スクール・シャム旅団の指導者がイスラム戦線の指導者となった。彼の正式な名前はアフマド・イッサ・シェイクであるが、通常アブ・イッサと呼ばれている。シリア各地の20のグループがまとまとまり、数万の戦闘員からなる大部隊が成立した。

イスラム解放戦線の指導者アブ・イッサは次のように述べた。

「我々は自由シリア軍と良好な関係にあるが、彼らに全面的に支援ことはない。自由シリア軍の指導者はトルコに住んでおり、戦いを直接指導していないのは問題だ」。

イスラム解放戦線には、スクール・シャムに劣らず活発に活動しているグループが参加している。

①ファルーク旅団(ホムス)

②リワ・イスラム(ダマスカス)

③タウヒド旅団(アレッポ)

④デリゾール革命会議

⑤タジャモ・アンサール・イスラム(ダマスカス)

⑥ Ibn al-Aas Brigade( (アレッポ)

⑦ al-Naser Salaheddin Brigade (ラタキア)

これらのグループは地理的に互いに離れており、規模の点でも影響力の大きさでもまちまちである。また彼らの支援者もそれぞれ異なっている。

イスラム解放戦線の指導者アブ・イッサは武器の出所について次のように述べている。

「我々は政府軍から武器を手に入れている。または国内と外国の武器商人から武器を買っている」。

しかし彼らはトルコとカタールによって支援されているようだ。

「イスラム解放戦線がトルコ経由の武器を独占し、解放戦線に属さないグループを無力化しようとしている」と、自由シリア軍は非難している。

 

イスラム解放戦線はイスラム教スンニ派を信奉しており、ムスリム同胞団系やイスラム原理主義系のグループを含んでいる。しかし真に過激なグループはシリア・イスラム戦線に参加している。

イスラム戦線の中心的なグループであるアフラール・シャムは最初解放戦線に参加したが、リーダーの一人が解放戦線に殺害され、すぐに離脱した。比較的穏健な解放戦線が過激なグループのリーダーの一人を殺害したのである。解放戦線はアフラール・シャムを引き留めようと試みたが、無駄だった。

 

イスラム解放戦線はイスラム主義の国家の樹立を目標として入るが、かなり現実的であり、シリアが多民族国家であるという事実を受け入れており、「少数民族を排斥しない」と約束している。

また「宗教的なイスラム法は理念として尊重されるが、現実的な法律とはしない」としている。

「これは2段階戦術に過ぎず、イスラム解放戦線の最終目的はイスラム国家の樹立であり、彼らの本質はアルカイダと同一である」と、自由シリア軍は批判している。

==================(ウイキペディア終了)

イスラム解放戦線の中でナンバー2のファルーク旅団に以前所属していた人物が変なことで有名になった。殺害した政府軍兵士の心臓を切りとったのである。この蛮行をおこなったのは自由シリア軍ということになっているが、実はファルーク旅団の元戦闘員であるようだ。この事件が起きたのは2013年5月12日である。ファルーク旅団はホムスを拠点としており、当然クサイル戦に参加している。心臓切り取り事件の一週間後(5月19日)、反対派はクサイルから一掃された。

心臓切り取り事件について、 AFP(日本版)は次のように書いている。

==《 シリア軍兵士の「心臓を食べる」反体制派、動画がネットに》===

                  <http://www.afpbb.com/articles/-/2943857>

                     【2013年5月14日 AFP】

シリア反体制派の戦闘員が、政府軍兵士の遺体から心臓を切り出して食べる様子を写したとみられる映像が、インターネットに投稿された。

YouTube)に投稿された映像では、戦闘員の1人がぼかし処理された遺体にかがみ込み、心臓を切り取りながら、バッシャール・アサド政権の兵士たちに向け「おまえたちの心臓と肝臓を食べることを、われわれは神に誓う」と述べている。

映像の中で自由シリア軍に所属するとされているこの戦闘員は、片方の手に短刀、もう片方の手に心臓を持ち立ち上がる。そして心臓を口に運ぶところで、映像は唐突に終わっている。

 

映像は「SyrianGirl War」という名のユーザーによって12日に投稿されたが、信ぴょう性は定かではない。

=======================( AFP終了)

若い日本人ジャーナリストによれば、蛮行をおこなった兵士はファルーク旅団に所属していたが、2012年10月分派を立ち上げたという。この時期ファルーク旅団は自由シリア軍と良好な関係にあった。ただし形式的に自由シリア軍に所属するが距離を置くという、微妙な関係だった。蛮行兵士がたちあげた分派と自由シリア軍との関係も同じだろう。

さくらぎ・たけしブログがこの事件について興味深い話を書いている

=======《バニアスでの虐殺-追加-》======

            http://t-sakuragi.com/?p=650#more-650       

      TAKESHI SAKURAGI

               投稿日時: 2013/05/16        

 先日、バニアスでの虐殺を取り上げました。宗派間の争いが激化している中で、ある映像が数日前に動画サイトに投稿されました。カニバリズム。そう呼んでいいのか分かりませんが、ホムス県のレバノンとの国境の町、クサイルでFSAの指揮官が政府軍の遺体から心臓と肝臓をほじくり出して、口にしました。実際に食したのかは定かではありませんが、単なるパフォーマンスにしては常軌を逸している行為であると、反体制派側からも批判の声が上がっています。

指揮官の名前はアブ・サッカル(ハリード・アル=ハマド)。彼が所属していた部隊がシリアの反体制派の主力であるファルーク旅団。しかし、去年の10月に除隊し、別の組織を彼自身が立ち上げた。オマル・アル=ファルーク旅団。彼の部隊は宗派間抗争が入り乱れるクサイルを拠点に戦果を上げた。レバノンとの国境沿いの町クサイルは武器の中継地としても反体制派として手放せない地域。政府側にとっても地中海に繋がるこのルートはアラウィ派の支持基盤を固める重要な砦になる。

ここはシーア派の村々が点在し、レバノンのヒズボラにとっても重要な地域であり、反体制派の進撃を食い止める必要がある。アブ・サッカルは宗派間抗争に積極的に関与しているとされる。映像からも彼のアラウィ派への憎悪が読み取れ、彼自身、レバノンのシーア派の村に迫撃砲を撃ち込んでいる。今回の映像に対し、反体制派側である自由シリア軍、反体制派国民連合はすぐさま非難声明を出した。しかし、人肉を食らうほどの憎悪とはどのようなものなのだろうか。

ただ、実際に映像を見ると、反吐(へど)が出ます。僕はアサド政権側には批判的です。だからといって、反体制派側に肩入れしているわけでもありません。両者共々、人権を無視した行動をしているのは事実ですし、その責任を擦り付け合うのもどうかと思っています。それで、バニアスの虐殺についての記事がNYTimesに出たので、少し補足します。

証言者が語ることで、バニアスの虐殺の様子も見えてきた。生後数ヶ月の赤ん坊に火を放つ。妊婦の腹から胎児を抉り出す。数人の子供と大人が血の海の中を折り重なるように倒れている。政府軍や民兵は民家を次から次へと捜索し、殺戮を繰り返した。ある男性はコンクリートブロックで死ぬまで頭部を殴られた。政府軍が引き上げた後、村人が外の様子をうかがうと、無数の遺体が路上に散乱していた。遺体はブルドーザーで集められ、身元確認もされることなく埋葬された。虐殺が起きた村の一つ、バイダでは決して大きな衝突はなかった。革命当初は平和的デモを繰り広げていたが、何度か政府軍に痛めつけられるうちに沈黙を守るようになった。この周辺はアラウィ派、スンニ派、キリスト教徒と宗教、宗派が入り乱れている。彼らは互いに「宗派間の火種を起こさないよう」気を使っていたのだろう。しかし、(2013年)5月2日に起きた政府軍と自由シリア軍の衝突が虐殺を引き起こした。

虐殺が起きた村の住人は「もうアラウィ派の人間は歓迎しない。彼らがシリアに住むことは許されない」と怒りを滲ませた。今回の虐殺の主導者が政府軍、シャッビーハ、一部武装したアラウィ派の一般市民であり、決して全てのアラウィ派の人間がこれほど残虐な行為を許容しているわけではない。しかし、宗派間の亀裂は修復不可能なレベルに達している。その亀裂は残虐性を帯びて、シリア全域に拡大している。

NYTimesの記事は異常です。

参考サイト

http://www.foreignpolicy.com/articles/2013/05/13/most_disgusting_atrocity_syrian_civil_war_rebel_eat_heart?page=0,1

http://www.thenational.ae/news/world/middle-east/syria-rebels-vow-to-punish-atrocities-after-video-outrage#ixzz2TOCNFYWH

http://www.nytimes.com/2013/05/15/world/middleeast/grisly-killings-in-syrian-towns-dim-hopes-for-peace-talks.html?pagewanted=1&_r=0&ref=world

            《クサイル攻防戦》                              

           http://t-sakuragi.com/?p=675#more-675

    TAKESHI SAKURAGI    投稿日時: 2013/05/22        

先日、アブ・サッカルの話をしました。彼の蛮行は多くの非難を浴びました。彼自身はその後のインタビューで、「法の裁きを受ける覚悟はある。ただし、アサドと彼に従うシャッビーハも同じような裁きを受けなければならない」、「このままシリアで流血が続ければ、私のような人間はいくらでも現れるだろう」と述べています。その彼の部隊が展開している場所がホムス県のクサイルという町です。3日ほど前からクサイルでは双方による陣地の奪い合いが続いています。

双方とは体制派と反体制派です。体制派は政府軍とシャッビーハ、反体制派は自由シリア軍。それとクサイルでは体制派を後押しする強力な部隊も加わっています。ヒズボラです。ヒズボラがシリアの内戦に関与していることは以前から報道されてきましたが、小規模なものでした。しかし、クサイルが自由シリア軍の手に落ちて以降、シリア、レバノン領内のシーア派の村に迫撃砲が着弾するようになりました。死傷者も出る事態に危機感を募らせたヒズボラは(イスラエルの空爆にも神経を尖らせていたこともあり)盟友であるアサド政権を徹底的に支持することを誓います。

それが先月のヒズボラ指導者のナスラッラーの演説になります。そして彼の演説は今回のクサイル攻防戦へと繋がります。クサイルを自由シリア軍から奪還すれば、少なくとも国境沿いのシーア派の村が攻撃にさらされる心配はなくなります。同時にクサイルは首都ダマスカスとアラウィ派が拠点とする地中海沿いの地域一帯を結ぶ重要な町です。ここを潰せば、反体制派への物資の補給や人員の補充を厳しくなり、政府側にとっても今後の戦況を有利に運べるようになるのは確実です。両者の思惑が合致し、クサイルは火の海に包まれました。

==================(さくらぎブログ終了)

 

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ダマスカスのイスラム主義グループ 2013年11月

2018-01-13 13:47:53 | シリア内戦

2012年5月19日サハバ大隊と名のるグループが「高官6名を殺害した」と発表した。

「私アフマド・タクタク中尉は、サハバ大隊の野戦指揮官の一人でである。私はサハバ大隊を代表し、我々の特殊作戦中隊が決行した成果を報告する」。

この秘密作戦は失敗に終わり、高官6名の生存が確認された。犯行声明を出したサハバ大隊はダマスカス南部を拠点とする有力なイスラム主義グループである。

2か月後の7月18日再び高官暗殺が企てられ、今度は成功し、高官4人が死亡した。これについて犯行声明を出したのはサハバ大隊ではなく、イスラム大隊である。イスラム大隊は小さなグループであり、このように大きな戦果を挙げることができたのは不思議である。

大きな戦火というのは、この事件は大統領暗殺に等しいからだ。アサド大統領個人に絶対的な権力はなく、死亡した4人こそが権力の中心だった。2000年ハフェズ・アサド大統領

が死亡したが、独裁者の死後にありがちな混乱はなかった。この微妙な時期、政権を支えたのは今回殺害された4人を頂点とする軍・情報機関・バース党の幹部だった。国家統治に未経験なバシャール・アサドが実権を持つことは不可能だった。バシャールは象徴としての役割を引き受け、粛清も行わず、予想外の行動もしなかった。バシャールの時代になっても、ハフェズ・アサドの体制が継続していた。

 

            〈イスラム大隊〉

大戦果を挙げたイスラム大隊については、ほとんど知られていない。2014年7月10月19日ダラア県で戦闘に参加したこと、2015 年12月25日ハマ県でヌスラと共に戦ったことが知られているだけである。

             〈サハバ大隊〉

高官6人の暗殺に失敗したサハバ大隊はダマスカスのイスララム諸派の中でも有力なグループである。

ダマスカスのイスララム諸派の内情について述べた述べた記事があり、サハバ大隊も取り上げられている。

自由シリア軍の活躍は2013年春に終了した。それ以前から戦いの主役であったイスラム諸派は反乱を継続した。

2012年夏反対派の軍事攻勢は頂点に達し、アサド政権の崩壊は時間の問題と考えられた。この状況は翌年春まで続いたが、5月19日反対派はクサイルで完敗し、続いて7月12日反対派はホムスから一掃された。ホムスでは早い時期に大規模な抗議運動が始まり、シリア革命の聖地と呼ばれていた。しかしクサイル以外に補給経路がなく、クサイルを失ったことで、ホムスの反対派は形勢が不利になった。

クサイルとホムスにおいてアサド政権は巻き返しの能力があることを示した。もっとも航空攻撃と砲撃はシリア軍が行ったが、歩兵の主力はレバノンのヒズボラだった。

反対派が負けたことに変わりはなく、彼らの勝利は無期限に遠のいた。

この状況に最も激しく反応したのはサウジアラビアだった。ヒズボラはイランから資金援助されており、クサイルとホムスでの勝利はイランの勝利とも言えた。サウジアラビアはこのことに恐怖を感じた。2013年夏以後、サウジアラビアは反対派の再建に乗り出した。

自由シリア軍は戦闘力がなく、メディアがとりあげただけで、最初から戦闘集団としての存在感はなかった。サウジアラビアがイスラム諸派の支援に力を入れた結果、名実ともにイスラム諸派が反対派の主要勢力となった。

2013年11月、ダマスカスのイスラム主義グループが一つにまとまり、統一戦線を形成した。

 

======(ダマスカス大攻勢作戦室)=======

          The Greater Damascus Operations Room

                             http://carnegie-mec.org/diwan/53566?lang=en

                                      Carnegie Middle East Center

 

 2013年11月6日反対派は「ダマスカス大攻勢作戦室」の成立を発表した。統一ある作戦を実行するため、各グループの意見を調整する場が「作戦室」だった。 一定地域の支配を実現するため、また大がかりな作戦を実行するために各派が緊密な協力を約束したのである。シリアの主要地域でイスラム諸派が「作戦室」を立ち上げているが、穏健自由シリア軍各派も同様である。「作戦室」という言葉が表すように、軍事的必要に迫られ、諸派はまとまって行動するようになった。各グループへの資金と武器の配布を容易にし、諸派が協力して共通の軍事目的を達成するため、「作戦室」は協議の場を提供する。 

2012年湾岸と欧米の諸国が自由シリア軍を統一指揮下に置くため、軍事会議を設立した。自由シリア軍の軍事会議とイスラム諸派の「作戦室」は同様な目的で設立されているが、「作戦室」は自由シリア軍と無関係であることに特徴がある。また「作戦室」は完全に外国によって支援されており、作戦に必要な経費をすべて支給されている。支援者は湾岸の個人であるが、彼らはしばしば国家から暗黙の承認を得ている。

                〈「作戦室」に所属する各派〉 

ダマスカスには以前からいくつかの作戦室が存在しており、11月6日の発表は9個の作戦室が統合したものである。「ダマスカス大攻勢作戦室」はダマスカス全域のイスラム諸派を統合することになった。。参加グループは次の12派である。

1. Islamic Ahrar al-Sham Movement(アフラール・シャム)

2. Shabab el-Hoda Battalions(シャバブ・ホダ大隊)

3. al-Habib al-Mustafa Brigades(ハビブ・ムスタファ旅団)

4. Sahaba Battalions and Brigades(サハバ大隊・旅団)

5. Amjad al-Islam Gathering

6. Der’ al-Asima Brigade

7. Eissa bin Maryam Battalion

8. Aknaf Beit al-Maqdes Brigade

9. Single Umma Brigade

10. Sham al-Rasoul Brigade

11. Tawhid al-Asima Brigade

12. Fursan al-Sunna Battalion

 これらのグループの中には他の複数の作戦室に関係しているものもあり、12のグーループの結束の緊密さについては確定的ではない。 

最初の4つのグループはダマスカス市内と郊外で有力な戦闘集団である。残りのグループのいくつかも、彼らの支配地では強力な存在である。12のグーループは程度の佐差はあるが、イスラム主義を信条としている。アフラール・シャムといくつかのグループはイスラム原理主義の熱心な信奉者である。

8番目のアクナフ・バイト旅団(Aknaf Beit al-Maqdes Brigade)はパレスチナ人のグループであり、ハマスの支援を受けているようだ。ハマスはムスリム同胞団に属している。

3番目のハビブ・ムスタファ旅団は以前自由シリア軍の一員であると表明しており、現在もサリム・イドリス将軍の最高軍事司令部と関係を維持している。

1番目のアフラール・シャムはイスラム戦線の一員である。イスラム戦線はシリア全土のイスラム主義者が結集した統一戦線である。

ダマスカスのイスラム主義グループが統一戦線を形成するのは今回が初めてではない。「アンサール・イスラム集合」という名の合同組織が存在したが、消滅した。ハビブ・ムスタファ旅団など今回「作戦室」に参加したグループのいくつかはかつて「アンサール・イスラム」の一員だった。

6日に成立した「ダマスカス大攻勢作戦室」はこれまでにない規模の統一戦線であるが、成功するか消滅するか予測できない。

はっきりしていることは、ダマスカスのイスラム主義グループが自由シリア軍とサリム・イドリスの軍事司令部と縁を切ったことである。反対派を代表するシリア国民連合に対するイスラム主義者の反乱であり、ジュネーブ会議を拒否し政権と戦い続ける決意の表明である。「作戦室」の一員がこう言った。「イスラム主義者の結集は、自由シリア軍の無能な軍事会議にとって必殺パンチとなるだろう」。  

「作戦室」から除外されたのはサリム・イドリス元将軍の軍事会議だけではない。反対派の有力なグループの多くはダマスカスに影響力があるが、彼らは全部排除されている。例をあげるなら、クネイトラを拠点とする フルカン旅団(Furqan Brigades)である。さらに重要な3グループも除外されている。

        

「ダマスカス大攻勢作戦室」に参加しているグループについて知ることは重要だが、これに参加していないグループを確認することも重要だ。
誰もが気づくことは、ザフラン・アルーシュのジャイシュ・イスラム(イスラム軍)が参加していないことだ。ダマスカス最強のこのグループは少し前までリワ・イスラム(イスラム旅団)と名乗っており、東部郊外のドゥーマを拠点としている。ジャイシュ・イスラムはダマスカスだけでなくシリア全体で最も戦闘力があり、有名なグループの一つである。彼らが湾岸の個人とサウジアラビアに支援されていることが、最近話題になった。リーダーのアルーシュは有名であるが、同時に彼に対する批判も多く、ジャイシュ・イスラムを中心とするイスラム主義グループの統一に反感を持つ者が多かった。9月リワ・イスラムがジャイシュ・イスラムを立ち上げると、ダマスカスのイスラム派の間に反対の声があがった。資金と武器をいっかつして受け取る必要からダマスカスのイスラム系グループが一つにまとまることにした時、彼らはジャイシュ・イスラムを除外した。なぜか。
「ダマスカス大攻勢作戦室」のメンバーのいくつかはジャイシュ・イスラムの支配拡大に反発していた。しかしジャイシュ・イスラムとライバル関係にありながら、「作戦室」に参加していないグループもある。アルーシュの地元ドゥーマで互いに争っている旅団や会議は参加していない。例えばジャイシュ・イスラムの最大のライバル、ドゥーマ殉教旅団は参加していない。「ダマスカス大攻勢作戦室」はドゥーマの内部抗争に巻き込まれるのを避けるため、ジャイシュ・イスラム以下ドゥーマのすべてのグループの参加を拒否した可能性がある。

ただし、11月6日の「ダマスカス大攻勢作戦室」の成立宣言には裏があり、公表された12の参加グループ以外にも参加しているグループがあるようなのだ。したがってジャイシュ・イスラムの不参加についても疑う余地がある。

               〈秘かに参加しているグループ〉
「作戦室」から除外されている重要なグループはジャイシュ・イスラムだけではない。ジャイシュ・イスラムに劣らず重要なグループが参加リストから消えている。それはアルカイダ系のヌスラ戦線とISISである。ヌスラ戦線はダマスカス県で活発に活動している。現時点ではISISの影響は首都では限定的なものにすぎない。「作戦室」の地域分室の参加グループを一つ一つ調べると矛盾にきづく。地域分室にはアルカイダ系が参加している。例えばヌスラはジュンド・マラヘム(Jund al-Malahem)同盟の創立メンバーである。またヌスラは「一つの旗同盟」と「イスラム連盟」の一員である。「イスラム連盟」にはISISも参加している。
つまりヌスラ戦線とISISは地域分室には参加していながら、「ダマスカス大攻勢作戦室」のメンバーではないことになっている。理由は簡単で、ヌスラとISISの参加を公表したくないのだ。「ダマスカス大攻勢作戦室」はアルカイダと無関係であるという体裁を取りたかったのだ。

これは首都大攻勢のための資金の性格を反映している。資金は湾岸の個人に由来するが、これは国家が支持する計画である。サウジはシリアの反乱を再建することを計画しており、「ダマスカス作戦」の根底にはサウジの意図があるようだ。イスラム主義グループの支援者たちは米国やメディアによってテロの支援者とみなされることを恐れた。
11月6日の「ダマスカス大攻勢作戦室」の成立宣言では、参加グループのリストにアルカイダ系の名はなかったが、実際にはヌスラは指導的なメンバーだった。ISISもその一員だった。

ジャイシュ・イスラムが「作戦室」に秘かに参加しているか、あるいは実際に排除されているかについては、わからない。
 

「ダマスカス大攻勢作戦室」に所属する12派についてはすでに紹介したが、彼らは以前からそれぞれの地域で作戦室を形成していた。11月6日発表に発表された「大攻勢作戦室」はこれらの作戦室が合同したものである。
ダマスカス市内と郊外の各地域に成立している作戦室とその構成グループは以下のとおりである。

主要4グループが複数の作戦室を掛け持ちしている。

1. The Jund al-Malahem Operations Room in East Ghouta:

        (Eastern/South-Eastern suburbs)

①アフラール・シャム

②シャバブ・ホダ大隊

③ハビブ・ムスタファ旅団

④Eissa bin Maryam Battalion.

2. The Jobar Operations Room:

             (East Damascus)

①シャバブ・ホダ大隊

② ハビブ・ムスタファ旅団     

3. The Mleha Operations Room:

              (Mleha, South-East suburbs)

①シャバブ・ホダ大隊

②ハビブ・ムスタファ旅団

4. The Amjad al-Islam Operations Room in Erbin:

              (East Damascus)

  The Amjad al-Islam Gathering.

5. The Harasta Operations Room:

             (North-East suburbs)

 ①Der’ al-Asima Brigade,

②シャバブ・ホダ大隊

③ ハビブ・ムスタファ旅団

④ Amjad al-Islam Gathering.

6. The Islamic League Operations Room in South Damascus:

    (Yarmouk Camp/al-Hajar al-Aswad, south Damascus)

① サハバ大隊・旅団

②Aknaf Beit al-Maqdes Brigade,

③アフラール・シャム

④シャバブ・ホダ大隊

⑤Single Umma Brigade,

⑥ Sham al-Rasoul Brigade.

 7. The Daraya and Moadamiya Operations Room:

         (Daraya/Moadamiya, west of Damascus)

 サハバ大隊・旅団

8. The One Flag Alliance Operations Room in Western Ghouta:

           (Western countryside)

① サハバ大隊・旅団

②Tawhid al-Asima Brigade,

③アフラール・シャム

④ Aknaf Beit al-Maqdes Brigade, Fursan al-Sunna Battalion.

 

9. The Zabadani Operations Room:.

      (North-West of Damascus, Lebanon border)

 アフラール・シャム

================(カーネギー終了)

 

 

 

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