たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

ブダ=ペストの壮麗なオペラハウスとハイドン

2013-08-28 14:02:15 | 音楽

              ブダ=ペストの風景   viator より

 

                                    ブダ=ペストを紹介する動画を見ました。その中で、オペラ・ハウスを案内していました。それはとても豪華で美しいものでした。最高と言われるミラノのスカラ座と比べても遜色がありません。ウイーンのオペラ・ハウスよりもひとまわり小さい分,壮麗な内装にこだわって建設されたということです。

 

ハンガリーの首都に、どうしてそんなに立派なオペラの劇場があるの、と思うかもしれませんが、知る人ぞ知る、ハイドンの音楽を誕生させるのに大きく力を尽くしたのは、一人のハンガリー貴族です。エステルハージ家は大貴族であり、財力があるだけでなく、当主は音楽に理解があり、ハイドンの音楽活動の環境を整えてくれました。ハイドンは、樂団の副楽長としてエステルハージ家に迎えられたことにより(後に樂長に昇進します)、演奏と作曲に専念することができました。

 

ハイドンは苦学・独学の人と言われます。モーツアルトもベートーベンも音楽家の家系に生まれています。彼らと異なり、ハイドンは、少年聖歌隊から出発して、自分の力で道を切り開かなければなりませんでした。ウイーンの大聖堂の聖歌隊に9年務めた後、声変わりで解雇されたされてからは、苦難の時期でした。10年間独学で音楽の勉強をし、作曲をしました。

 

ようやく作曲が認められ、ボヘミヤの伯爵の宮廷楽長の職につくことができましが、間もなく伯爵は貧窮し、ハイドンは解雇されます。この後すぐに、エステルハージ家に迎えられ、はじめて真に安定した地位を得ます。そしてこのハンガリー貴族の庇護のもとで、ハイドンは数々の名曲を作曲しました。

 

ハイドンの音楽は、モーツアルトの音楽より素朴で簡潔で、その単純さがかえって強い印象と感動を与えます。

 

ついでにベートーベンとハイドンの出会いについて述べます。ベートーベンはボンの選帝侯から留学費をもらってウイーンにきているので、ハイドンより恵まれています。正式に音楽教育を受けることができる身分だったのですが、彼が師事した三人の教師が口をそろえて、「ベートベンは作曲について、私から何も学ばかった。」と言っています。そして三人のうち二人は「彼は作曲家にはなれないだう。」と断言しています。他の二人同様「私から何も学ばなかった」とは言ったものの、「作曲家にはなれないだろう」とは言わなかったのがハイドンです。

 

もう一点、ハイドンがベートーベンの理解者だったことを述べます。ベートーベンは「ハイドンからは、何も学ばなかった」と言っているので、二人の関係は冷めたものだと思っていたのですが、そうでは、ありませんでした。若き日のベートーベンはウィーン留学を延長してもらいたかったのですが、ボンの宮廷は打ち切りを考えていました。その時、ハイドンはベートーベンの留学を延長してくれるように、ボンの宮廷に陳情の手紙を書いています。

 

ベートーベンを推薦するその手紙は形だけのなもではなく、若いべートーベンの才能を真に理解し、彼が作曲家としての勉強を続けられるように、と心から願ったものでした。

 

ハイドンがこのように真実味のある推薦状を書いたのは、自分が若いころ苦労したためと、ベートーベンの中に、真の才能を予感していたからです。この点でベートーベンが作曲を学んだ他の二人の作曲家とは、ハイドンは決定的に違います。他の二人の考えでは、作曲の技法と理論がすべてでした。ハイドンにとって、技法と理論は参考にすべきものであっても、それだけでは音楽にはなりませんでした。

 

ベートーベンは「ハイドンからは何も学ばなかった」と言っていますが、それは若い時の、作曲の基礎理論と技法についてであって、後にはハイドンの音楽から多くを学んでいます。両者の音楽を聴けば、ベートーベンがハイドンの音楽から出発していることは明らかです。

 

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優先すべきことをはっきり言う緒方貞子

2013-08-21 17:24:37 | 日本の政治

 

NHKスペシャルで「緒方貞子」を見た。国連難民高等弁務官として、海外の多くの人から信頼され、尊敬された「緒方貞子」の生き方をドラマとインタビューで紹介した番組である。特に、父ブッシュの湾岸戦争後のクルド人の反乱の時、サダム・フセインの攻撃を恐れて避難しようとしている大量のクルド人を救おうとした彼女の努力が語られ、「高等弁務官緒方貞子」の生き方がよくわかった。

 

クルド人たちは、毒ガスによる攻撃を恐れてトルコまたはイラン国境方面へ逃げていたのであるが、トルコは国境を閉ざした。したがって国境を超えてトルコへ逃げようとした人々は逃げ場を失った。トルコ政府は自国内のクルド民族の独立運動に悩まされており、トルコ・イラク両地域のクルド人の合体を促すようなことはできなかったのである。

 

逃げ場を失い、国境付近にとどまっている多数のクルド人を救わなければ、と緒方氏は考えたのであるが、法務担当の職員に反対された。難民とは、「本国での迫害を逃れ、他国に避難して困窮している人」であり、自国に留まっているクルド人は難民の定義にあてはまりません、というのである。

 

イラク国内に国連は無断で入っていく事はできないし、勝手なことはできない。したがってイラク国内のクルド人を救済するには、「主権」の壁を越えなければならない。安保理決議を経れば済む話ではあるが、どのようにして解決したか、番組では、語られていない。

 

方法はともかく、緒方貞子は、前例を破り、クルド人難民の救済を決定し、実行する。そしてこの時、「国内避難民」という新しい規定が生まれた。

 

クルド人難民問題の時、死と隣り合って生きている難民を救うという国連本来の任務に立ち返り、前例にとらわれず大胆な決定をくだした緒方氏であるが、ユーゴ紛争では、彼女の姿勢が裏目に出る。

 

ユーゴ国内の難民に救援物資を空輸していた国連の航空機が撃ち落され、乗っていたイタリア人兵士2名が死亡する。敵側の難民に物資を空輸する航空機は、敵機とみなされたのである。相手は、おそらく国連機と知っていて、敵とみなして撃ち落したのである。

 

敵側の民間人はやはり敵なのか、敵兵とは一線を画すべきなのか、判断が分かれるところである。これは、非常に難しい問題である。大原則はもちろん、兵と民間人は区別すべきである。しかし、味方の兵が多く死に、その原因が、民間人による敵への情報提供だったとしたら、どうするのか。

 

ユーゴ紛争の場合は、民間人同士が互いに敵になってしまったので、悲惨なものになった。この難しい状況の中で、緒方高等弁務官は、内戦に巻き込まれた住民の救済ということを第一の任務として行動した。また同時期、おなじユーゴで、国連の特別代表だった明石氏は、中立という国連の立場を貫いた。二人の日本人が、国連創設の理念を最終的な拠り所として行動した。

 

明石国連特別代表は、国連の中立性を守って行動したことが高く評価されているが、他方において、現実的な判断を誤り、国連の部隊に多くの犠牲を出したという批判にもさらされている。この点を突き詰めて考察している本があれば、ぜひ読みたいのですが。

 

今回のNHKスペシャルも、国連の無力な立場を提示し、「緒方貞子」の前に立ちはだかる皮肉な現実を描いているのだから、もう少し掘り下げてほしかった。

 

番組は、救われた人の多くが、緒方高等弁務官の決断によるところが大きかったことを知って、彼女に感謝していることを伝えている。私としては、もう一歩踏み込んで、困難な現実に対して彼女を支える理念について伝えてほしかった。

 

映画ではあるが、「アラビアのロレンス」では、並はずれの信念の持ち主である主人公が完全に挫折する場面がある。その描き方は徹底していて、ロレンスは、任務途中ですべてを投げ出し、退官する決意をするのである。戦争の現実は生易しいものではない。

 

難民となった人々を助けたいと願う緒方高等弁務官に対し、あざ笑うかのような皮肉な現実がたちはだかっている。彼女は、それを直視し、深く考えているようなので、「主権国家にたいして無力な国連」という難題について、彼女がどう考えているかもっと聞きたかった。

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終戦時、玉音放送を阻止しようとした将校の回想

2013-08-11 18:06:25 | 日本の政治

 

「玉音放送を死守せよ」というドキュメンタリーを見た。なんと、終戦時の近衛師団の反乱の時、玉音放送をさせまいとNHKに乗り込んだ中隊長が、当時を振り返る。NHKに乗り込んだときの話だけでなく、反乱に至るまでの当時の状況が語られる。

 

本土決戦が迫っており、いろいろな噂が乱れ飛ぶが、正式な本土防衛計画は何も伝えられない。不安になった彼は陸軍省に行ってみた。陸軍省には、緊迫感が感じられず、昼間から酔っぱらっている将校もいた。

 

これは、作家が書いている小説ではない。当時の中隊長が自ら語っているのである。サイパンでも沖縄でも、兵士と住民は降伏を許されず、厳格この上ない規律に従って死んでいった。サイパン玉砕の時の映像で、日本女性が断崖から海に向かって飛び降りるシーンを見ると胸を突かれる。実は、その映像はカットされていて、最近ノーカット版を見ることができた。母親は自分が飛び降りる前に、赤ん坊を崖の下に投げている。

 

国民に対しこれほどの厳格さを求める陸軍であるが、その中枢である陸軍省は、たるんでおり、昼間から酔っぱらっている将校もいる。

 

陸軍省は参謀本部と違って、軍隊特有の緊張感はない。大蔵省はじめ各省と同じく、内閣に属するからである。参謀本部は内閣から独立して、天皇に直属する。陸軍省が内閣の一員だからと言って、「昼から酒を飲んでいるほどだらけている」など、聞いたことがない。

戦後になって批判ばかりされる陸軍だけれども、戦後の国民は当時の国家が直面していた現実について何も知らないし、一方当時の将校の多くは問題解決に必死だった。戦後言われれるのと違って、かれらは多面的にあれこれ考え、考え抜いていた、というのが私の実感です。 

したがって今回の「陸軍省がだらけている」という証言は、大変な驚きでした。

 

参謀本部に対しても、不信感を抱いている将校が多かった。いったい参謀本部は確固とした本土決戦の計画を立てているのだろうか? 下級将校の間で疑念が深まり、陸軍全体が反乱するという噂が真実味をおびていた。

「蹶起(けっき)して、自分たちで本土を防衛しよう」という気運が生まれた。大隊長でさえ、反乱を止めようとせず、迷っていた。

 

終戦前夜、近衛師団の将校が師団長を殺害した。部隊に偽命令を発し、出動させた。NHKの放送を使って、全国民に呼びかけようとした。軍中枢に対する若手将校の不信感には深刻なものがあった。

 

200万の将兵の頂点に立つ参謀本部と、底辺に位置する中隊の将校とでは、隔たりが大きすぎる。参謀本部は作戦全体を把握し、将来を見据えなければならない。参謀本部が下した決定は、軍団・師団・連隊・大隊を経て中隊に伝えられる。

中隊は、広大な戦場の極小の一点で戦っているにすぎない。

 

また逆に、参謀本部の側では、遠い戦地からの電文を読むだけの場合もあり、戦場の様子をことごとく理解するのは、そもそも難しい。参謀本部がすべての戦場について、実際的な感覚を持つことは、不可能に近い。それでいて、自分が命令したことを「実行せよ」と迫る。

 

 ガダルカナルから現地の様子を報告に来た参謀が、泣きながら、東条に向かって「馬鹿野郎」と怒鳴りつけたという話があります。ガダルカナルで、米軍は防備を固め、日本兵は、敵の機関銃になぎ倒された。その後は、戦うどころか、飢えとマラリアで死んでいる、と参謀は涙ながらに語ったのです。

 

ただ、この時は、それを聞いた辻政信が、あわててガダルカナルに飛んで、対策が取られたので、溝は埋められ、参謀本部本来の機能が果たされたといえます。

 

スターリングラードの時のヒットラーはもっとひどい。独軍の猛攻をうけたソ連軍は、ターリングラードのほとんどを失いますが、最後の一角と補給線だけを守り抜き、冬を待ちます。極寒の冬こそがソ連軍にとって最強の援軍です。独軍のの将兵は寒さで病気になり、凍傷によって手足の指を失います。ソ連軍は大反撃に転じ、独軍をはさみ撃ちにします。独軍は降伏します。

 

降伏する前に、独軍司令官パウルスは退却の許可をヒトラーに求めました。戦況が悪化し、これ以上戦えないと判断したからです。

ヒトラーの返事は「退却は断じてならぬ。最後の勝利を信じて戦え。」というものでした。この時、ヒトラーは、戦場から何千キロも離れたところで、愛人や党幹部の妻子そして愛犬に囲まれて暮らしていました。

 

改めて確認しますが、独軍屈指の司令官は、この時降伏しています。将兵どころか島民にまで降伏を許さなかった日本というものがどういう国か、考えるうえで参考になります。ヒトラー自身の考えは日本の軍部と似ており「勝利もしくは全滅あるのみ」の二者択一でした。しかし、司令官パウルスは自分の判断で降伏しました。日本の場合,ほとんど全ての司令官は「全滅」の道を選びました。

 

300名の兵を率いてNHKに乗り込んだ中隊長の話に戻ると、彼は、反乱が陸軍全体によるものと考えていました。しかし、反乱したのは、自分の属する近衛師団だけかもしれないと考え初め、非常に悩んだ、と述べています。

自分の命令に従う兵のことを考えると、万一、少数派の反乱に加わっているとすれば、かれらを逆賊にしてしまう、と思ったのです。

彼は、場合によってはNHKの人間を斬る、という覚悟で乗り込んだのですが、迷っているうちに、反乱中止の決定が伝えられ、彼の中隊は血を流すことなくNHKからひきあげました。

 

彼が陸軍省に行ったのは、近衛師団の反乱とは関係なく、それ以前の話です。当時彼は状況がせっぱつまっており、やきもきしていました。敵が首都に迫るときは房総に上陸すると聞いていたので、彼は、自転車で千葉に行きましたが、何の防備もされていませんでした。

 

海軍の消滅という歴然たる事実。戦車は中国にあり、海を渡って運べないという状況でした。しかし彼には降伏などという考えはなく、本土決戦をするつもりでした。

しかし本土防衛の作戦について具体的に何も知らされず、「敵を上陸させ、内部にひきこみ、それから、本格的にたたく。たとえば、宇都宮あたりまで下がる。」という噂が彼の知る全てでした。

 

「内部に引き込んで、それから叩く」という作戦は理解できるとしても、千葉の海岸に何の防備もしないで、ただ敵を房総に上陸させるというのでは、彼でなくとも不安になります。それで何か情報を得ようと、彼は陸軍省に向かったのです。

 

終戦前夜に、近衛師団の中隊長が置かれた状況がよくわかるドキュメンタリーだったので、書きとめました。

 

中隊長は、作戦全体からすれば、将棋の駒、しかも金でも銀でもなく、歩にすぎませんが、日本軍の中隊長は敵国から高い評価を受けています。日本の下級将校あ兵と一体となって戦いました。決死の覚悟と機転の利いた戦方を、多くの敵将が賞賛しています。

 

番組のタイトルが「玉音放送を死守せよ」となっているように、番組の前半は、その時のNHKのアナウンサーの回想です。反乱将校に拳銃をつきつけられたアナウンサーです。

「日本の一番長い日」の二人の当事者、玉音放送を阻止しようとした将校と、それを放送しようとしたアナウンサーが当時を回想した番組です。

 

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