ブダ=ペストの風景 viator より
ブダ=ペストを紹介する動画を見ました。その中で、オペラ・ハウスを案内していました。それはとても豪華で美しいものでした。最高と言われるミラノのスカラ座と比べても遜色がありません。ウイーンのオペラ・ハウスよりもひとまわり小さい分,壮麗な内装にこだわって建設されたということです。
ハンガリーの首都に、どうしてそんなに立派なオペラの劇場があるの、と思うかもしれませんが、知る人ぞ知る、ハイドンの音楽を誕生させるのに大きく力を尽くしたのは、一人のハンガリー貴族です。エステルハージ家は大貴族であり、財力があるだけでなく、当主は音楽に理解があり、ハイドンの音楽活動の環境を整えてくれました。ハイドンは、樂団の副楽長としてエステルハージ家に迎えられたことにより(後に樂長に昇進します)、演奏と作曲に専念することができました。
ハイドンは苦学・独学の人と言われます。モーツアルトもベートーベンも音楽家の家系に生まれています。彼らと異なり、ハイドンは、少年聖歌隊から出発して、自分の力で道を切り開かなければなりませんでした。ウイーンの大聖堂の聖歌隊に9年務めた後、声変わりで解雇されたされてからは、苦難の時期でした。10年間独学で音楽の勉強をし、作曲をしました。
ようやく作曲が認められ、ボヘミヤの伯爵の宮廷楽長の職につくことができましが、間もなく伯爵は貧窮し、ハイドンは解雇されます。この後すぐに、エステルハージ家に迎えられ、はじめて真に安定した地位を得ます。そしてこのハンガリー貴族の庇護のもとで、ハイドンは数々の名曲を作曲しました。
ハイドンの音楽は、モーツアルトの音楽より素朴で簡潔で、その単純さがかえって強い印象と感動を与えます。
ついでにベートーベンとハイドンの出会いについて述べます。ベートーベンはボンの選帝侯から留学費をもらってウイーンにきているので、ハイドンより恵まれています。正式に音楽教育を受けることができる身分だったのですが、彼が師事した三人の教師が口をそろえて、「ベートベンは作曲について、私から何も学ばかった。」と言っています。そして三人のうち二人は「彼は作曲家にはなれないだう。」と断言しています。他の二人同様「私から何も学ばなかった」とは言ったものの、「作曲家にはなれないだろう」とは言わなかったのがハイドンです。
もう一点、ハイドンがベートーベンの理解者だったことを述べます。ベートーベンは「ハイドンからは、何も学ばなかった」と言っているので、二人の関係は冷めたものだと思っていたのですが、そうでは、ありませんでした。若き日のベートーベンはウィーン留学を延長してもらいたかったのですが、ボンの宮廷は打ち切りを考えていました。その時、ハイドンはベートーベンの留学を延長してくれるように、ボンの宮廷に陳情の手紙を書いています。
ベートーベンを推薦するその手紙は形だけのなもではなく、若いべートーベンの才能を真に理解し、彼が作曲家としての勉強を続けられるように、と心から願ったものでした。
ハイドンがこのように真実味のある推薦状を書いたのは、自分が若いころ苦労したためと、ベートーベンの中に、真の才能を予感していたからです。この点でベートーベンが作曲を学んだ他の二人の作曲家とは、ハイドンは決定的に違います。他の二人の考えでは、作曲の技法と理論がすべてでした。ハイドンにとって、技法と理論は参考にすべきものであっても、それだけでは音楽にはなりませんでした。
ベートーベンは「ハイドンからは何も学ばなかった」と言っていますが、それは若い時の、作曲の基礎理論と技法についてであって、後にはハイドンの音楽から多くを学んでいます。両者の音楽を聴けば、ベートーベンがハイドンの音楽から出発していることは明らかです。