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ローマ以前のイタリア②

2019-11-18 21:38:54 | 世界史

  

 

イタリック語を話す民族の中で、オスク人とウンブリア人が主要な部族であり、ラティウム人とファリスク人は小さな部族だった。オスク人とウンブリア人については前回書いたので、今回はファリスク人について書く。ファリスク語はラテン語に似ており、イタリック語派の中でラテン・ファリスク語グループに所属している。地図によれば、テベレ川がラティウムとファリスクの境界になっている。テベレ川の東側にラティウム人が住み、西側にファリスク人が住んでいる。しかしこれは紀元前8世紀までのことであり、紀元前7世紀にはエトルリア人がファリスク人の土地に進出し、ファリスク南部はエトルリア人の土地となった。

 

 

 ファリスク人は海側の土地を失い山側に住むことになった。山側の土地の大部分は樫(かし)の木が密集しており、耕地は頂上付近とテベレ川の流域に限られていた。また山側の土地はテベレ川の小さな支流が多く、多数の橋をかけるが必要があった。

なおファリスク人が8世紀以前海岸部に住んでいたというのはあくまで推定に過ぎず、最初から山間部にだけ住んでいたのかもしれない。この点について、ファリスク人が自ら語った文章は現存せせず、他の民族による記述もないので、結論は出ない。ただ彼らが、エトルリア人の同盟者として行動したことが知られている。

ファリスク人はエトルリアの支配下にあったけれども、イタリック系の部族としての特徴、つまり宗教と言語を失わなかった。彼らが信仰した女神キリティス(Quiritis)はもともとサビーニ人の女神であり、母性を象徴する神だった。(サビーニ人はウンブリア人の部族である)。女神キリティスはローマの女神ユノーと同じである。

初期のローマにとって、テベレ川の対岸のエトルリア人は周囲の隣人の中で特別な存在であった。彼らは文明人であり、裕福だった。ローマの建国は紀元前753年とされ、エトルリア人の都市ウェイイの成立は紀元前600年代ということしかわかっていないが、都市の成立と発展はウェイイが先であり、ローマが後だったことは間違いない。エトルリア人の都市ウェイイ(Veii )はローマから16kmしか離れていない。エトルリア人は先進民族であり、ローマとって文化と技術を学ぶべき先輩であったが、同時にライバルであり、敵であった。ローマの北8kmにある町フィデナエはテベレ川の東岸にあるにもわらず、エトルリア領となっており、ローマはこの町の支配をめぐり長年争った。

 

 

 

 ローマとウェイイの戦争において、ファリスク人はウェイイの忠実な同盟者として戦った。紀元前396年ウェイイとファリスク人はローマによって征服された。

ファレリは現在のチビタ・カステルラーナに存在した古代都市である。ここはエトルリアの南部であるが、ストラボンは「ファレリ人はエトルリア人ではない」と書いている。この地でラテン語の方言らしき言語で書かれた文章が発見された。現存する銘文(石や金属に刻まれた文)の大部分は紀元前4世紀後半ー紀元前3世紀前半のものである。ラテン語の方言らしき言語は現在独立した言語ーファリスク語として分類されている。ファリスク語はエトルリアの影響下でも失われず、ローマの支配下においても消滅しなかった。ファリスク人の文化について知ることが少ないが、紀元前4世紀半ばに造られたアンフォラは繊細で、洗練されている。 

 

  

 

ウェイイとローマとの戦争の際ファリスク人はウェイイの同盟者としてローマと戦った。ローマとウェイイとの戦争はローマの初代国王に時代に始まり、その後何度も繰り返された。この戦争はローマの初期の対外戦争中で最も重要だった。ウェイイはローマの周辺地域で最大の都市だったからである。ファリスク人の土地はウェイイの北にあり、ローマから少し離れているので紀元前6世紀までローマとの紛争はなかったが、紀元前5世紀になるとファリスク人はローマを脅威と考えるようになり、ウェイイと同盟しローマと戦った。この戦争にについて、ファリスク語の記録は存在せず、紀元前1世紀後半のローマの歴史家リヴィウスが「ローマ建国史」の中で、書いている。英文ウイキぺディアの「Fareli(ファレリ)」という項目が「ローマ建国史」の中のファリスク人に関する部分をまとめてている。

 

===《ローマ対ウェイイ・フィデナエ・ファリスク同盟》==

       Fareli   wikipedia 

ファレリはローマに近かったため、ローマはファレリの安全を脅かす危険な存在だった。そのため紀元前5世紀ファレリはエトルリア人の都市ウェイイと同盟した。リヴィウスは次のように書いている。

「ファレリとその南のカぺーナ(Capena)はローマに近かったため、ウェイイが陥落するなら、ローマは次に分たちを攻撃するだろうと考えた」。(カぺーナはファリスク人の都市。位置は上記地図参照)

ローマは初代の王ロムルスの時代以来ウェイイと戦争と休戦を繰り返していた。この戦争においてフィデナエはウェイイの同盟者だった。フィデナエはウェイイより小さな町であり、ウェイイよりローマに近かった。ウェイイはテベレ川の対岸にあったが、フィデナエはテベレ川のローマ側にあった。ローマが手始めに近隣の町を併合するとすれば、それはフィデナエだった。フィデナエは独立を守ろうとし、ウェイイと同盟した。ローマにとってウェイイとィデナエは最初の紛争相手だった。ローマはフィデナエの土地の一部を居留地とし、兵士を宿営させていた。紀元前437年フィデナエは反乱し、居留地のローマ人を攻撃した。ローマの懲罰が予想されたので、フィデナエはウェイイと同盟した。ローマは使節をフィデナエに送ったが、フィデナエはウェイイの命令に従いローマの使節を殺害した。ウェイイはローマと戦うつもりだった。ローマ軍がフィデナエに向かった。これに対し、ファリスク人がフィデナエに援軍を送った。フィデナエ・ファリスクの連合軍はローマ軍に比べ大軍となった。フィデナエの住民は長期戦に持ち込むことを望んだが、遠くから来たファリスク軍は長期戦を嫌い速戦を望んだ。ウェイイの指導者は即時決戦を決めた。ローマは人数では劣勢だったが、激戦の末ウェイイ・フィデナエ・ファリスク連合軍を破った。しかしローマ軍の犠牲は大きかった。

 436年ローマはウェイイの郊外とファレリの郊外を襲撃したが、都市を攻撃することはなかった。翌年フィデナエはローマの土地を略奪し、ウェイイに援軍を要請した。ファレリは戦争を望まなかったので、今回は援軍を送らなかった。

紀元前434年ローマ軍はフィデナエを占領した。ウェイイとファレリはこれに驚いた。2年前(436年)ローマはフィデナエ勝利したが、これをを占領することはなかった。ヴェイイとファレリはエトルリア都市連合に使節を送った。しかしエトルリア都市連合はウェイイへの援軍を断った。ローマはウェイイとフィデナエに勝利した。

 紀元前426年ウェイイがローマ領を襲撃したので、ローマは4人の執政護民官を選び、これに対処することにした。

 (注:ローマの最高官職は2名の執政官であるが、紀元前440年平民の不満を解消するため、護民官に執政の権限を与えた。執政護民官の任期は1年であり、人数は年により変わり、3ー6名である。執政護民官は戦時など平民の協力が必要な年に限り任命され、それ以外の年は従来通り執政官が任命された。紀元前408  ー367年は、ほぼ毎年執政護民官が選ばれた。422年初めて平民出身の執政護民官が誕生したが、3名のうちの一人りだけであり、残り2名は貴族だった。定員の中で平民と貴族の数が逆転したのは4回だけである。紀元前367年リキニウス・セクスティウス法が成立し、平民も執政官になれるようになり、執政護民官の制度は終了した。なお、執政護民官の直訳は「執政の権限を持つ軍事護民官」であり、英語では執政護民官と略称され、日本では執政武官と略称されることが多い。(注:終了)

 

紀元前426年4人の執政護民官が選ばれ、3人が軍を指揮しウェイイへ出発し、残る一人はローマの防衛を担当した。ローマ軍は3人の指揮官の不和などが原因で、ウェイイとの戦争に敗れた。ローマ軍が敗れると、フィデナエは反乱し、フィデナエ領内のローマ人植民者を殺害した。ローマ軍の敗北と植民地の住民の虐殺により、ローマはパニック状態になった。ローマはアエミリウス・マメルキヌスを3度目の独裁官に任命した。ウェイイ軍がテベレ川を渡り、フィデナエに陣を張った。ローマ軍がフィデナエの2km手前に到着し、翌日戦闘が始まった。ローマ軍は巧妙に別動隊を潜ませたので、不意を襲われたウェイイ軍は瓦解し、逃走した。フィデナエ軍は場内に撤退したが、ローマ軍の先兵は城内への侵入に成功し、続いて全軍が城内に入った。多くのフィデナエ兵が虐殺された。死ななかったフィデナエ兵は奴隷として売られた。

 

紀元前403年ローマとウェイイの戦争が始まり、ローマ軍はウェイイの近くに宿営した。この戦争は長引き、これまでにない重大な結末を迎えた。これまでローマはウェイイと何度も戦って来たが、ウェイイの城を攻めたことはなかった。ローマ軍は要塞を攻め落とすだけの能力がなかった。今回長い戦争の最後にローマ軍はウェイイの攻略に成功した。長い戦争といっても、ローマ軍がウェイイの面前に宿営しているだけという時期が多かった。

ローマ軍がウェイイの面前に陣を敷いた次の年(402年)、ファレリとカぺーナはウェイイとの同盟を誓い、援軍を送った。ファレリとカぺーナの軍は後方からローマ軍の2つの宿営地を攻撃した。ウェイイ軍は正面からローマ軍の防御柵を攻撃した。ローマ軍の指揮官たちの不統一が原因で、ローマ軍は敗走した。逃走兵の何割かは、大きな宿営地に合流し、残りはローマに帰った。

 紀元前400年ローマ軍は失われた2つの宿営地に再び兵士を配置した。それからローマ軍はファリスク人の2つの都市、ファレリとカペ―ナの領土を襲撃したが、都市を攻撃することはなかった。

紀元前399年ファレリとカペ―ナはウェイイに援軍を送った。ローマ軍は宿営地から出撃してファレリ・カペ―ナ軍を襲ったので、ファレリ・カペ―ナ両軍は敗走した。ローマ軍は彼らを追いかけ、多くの兵士を殺害した。さらにローマ軍の分遣隊がカペ―ナに送られ、生き残りの兵を殺した。

紀元前398年ローマ軍はファレリとカペ―ナの領土を襲い、破壊し、焼きはらった。翌年ローマ軍はウェイ、ファレリ、カペ―ナを攻撃したが、主敵であるウェイイに決定的な打撃を与えることはできなかった。この年(397年)、エトルリア都市同盟の会議が開かれた。ファレリとカペ―ナはファリスク人であったが、ウェイイの同盟者であったので、この会議に出席し、全エトルリアが団結しウェイイの包囲を解くべきだ、と主張した。エトルリア都市同盟はファレリとカペ―ナの要望に対し、次のように答えた。

「ウェイイへの援軍については以前断っており、今回も同じである。この重要な問題について、ウエイイは我々(都市同盟)に助言を求めなかったからである。しかしウエェイイへの危機が差し迫っていることを考慮し、エトルリアの若者がローマとの戦いに志願することを許可する」。

 エトルリア都市同盟がウェイイの正式な援軍を断った理由は、ウエイイ自身が都市同盟の干渉を嫌い、自立志向の態度をとってきたからである。これはウエイイに限ったことではなく、エトルリアの諸都市はそれぞれが独立しており、都市同盟は軍事同盟として不完全だった。ウェイイへの援軍拒否には別の事情もある。このころエトルリア諸都市は自身の問題を抱えていた。エトルリア北部にケルト人が流入していたが、ケルト人は勇猛であり、エトルリア諸都市はこれらの移住者を武力で追い出す決心がつかなかった。

多くのエトルリア兵がウエイイに集結しているという噂(うわさ)がローマに伝わると、ローマ社会の内紛は終息し、ローマは敵に対し団結した。

ローマはウェイイへの援軍が集まっていることを知ったが、これへの対応は翌年になった。

 ================(wikipedia終了)

 続く部分はリヴィウスの「ローマ建国史」を訳す。原文はラテン語であるが、ネットに英訳がある。

 ====《ローマ建国史 第5巻18章ー22章》====

Titus Livius (Livy), The History of Rome, Book 5

                            Canon Roberts

 紀元前396年、6人の執政護民官の中の2人が軍の指揮官となり、ローマ軍はファレリ軍とカペ―ナ軍へ向かって進んだ。しかしローマ軍は勇気があったが、用心を欠いていたので、待ち伏せされた。多くのローマ兵が死に、指揮官の一人(ゲヌキウス)も最前線で死んだ。もう人の指揮官(ティティニウス)は兵を呼び集め、近くの丘に新たに戦列を立て直したが、敵に向かって進むことはなかった。これによって兵の損失は防げたが、不名誉なことだった。ローマ軍の敗北はローマ市民を動揺させただけでなく、ウエェイイの前に宿営しているローマ兵をうろたえさせた。勝ち誇ったカペ―ナとファレリの兵に加え、エトルリア全土から集まった兵がウェイイに向かっている、という噂が、ウエェイイの前のローマ宿営地の間で広まり、兵士は逃げ出した。ローマの宿営地はすでに攻撃された、という噂がローマに伝わった。また敵はローマに向かっているという噂まで広まり、ローマ市民は恐怖に陥り、様子を見に城壁に行ったり、都市が破壊されないよう、神々に祈願した。

 フリウス・カミルスが独裁官に選ばれ、ローマを救済し、ウエェイイを破壊する任務が託された。独裁官の任期は不定だが、半長くて半年であり、6人の執政護民官が選ばれた年(396年)の途中でカミルスが独裁官に就任した。カミルスは騎兵長官にコルネリウス・スキピオを選んだ。指揮官が刷新され、兵士と市民は期待した。独裁官フリウス・カミルスは前回の戦いの際逃亡した兵士を処罰し、「恐れるべきは敵ではない」ことを兵士たちに理解させた。セルヴィうす彼は新軍を編成すため兵を徴収する一方で、ウェイイの宿営地に行き、兵士たちを励ました。徴兵を逃れようとする市民はいなかった。ラテン人やヘルニキ人の部隊が援軍を申し出た。

 

 

独裁官は元老院でラテン人やヘルニキ人に感謝した。また彼はウェイイ占領に成功したなら、マットゥータ(暁の女神)の神殿を修復すると誓った。マットゥータ神殿は6人目の国王セルウィウス・トゥッリウスによって創建された。

ローマ軍は北に向かって進軍した。彼らを見送った市民は勝利を確信できず、期不安ながらも新しい指揮官に期待した。ローマ軍の最初の攻撃目標はファリスク人の都市ファレリとカペ―ナであり、ファレリの南西13kmにある町ネぺーテ(Nepete)の郊外が戦場となった。ネぺーテは現在のネーピ(Nepi)である。

 

 

 

ローマ軍の指揮官は戦争の経験があり、作戦は巧妙かつ慎重だったので、ネぺーテでの戦闘に勝利した。続いてローマ軍はファレリとカペ―ナ両軍の宿営地を一掃し、多くの戦利品を奪った。戦利品は売られ、収益の大部分は財務官が受け取り、残りが兵士に分配された。 

次にローマ軍はウェイイに向かった。ウェイイは城壁で守られており、これまでローマ軍はこれに挑戦する自信がなく、攻略を決意したのは今回が初めてである。ウェイイは城壁をさらに強固していた。ウェイイの城壁とローマ軍の最前線の間で、単発的な戦闘が繰り返された。ローマの指揮官は命令なしに敵を攻撃することを禁じ、攻城の準備に専念させた。最も重要で困難だったのは、ウェイイ市内までトンネルを掘る作業だった。兵士にとってトンネルを掘り続けるのは過酷な労働だった。そこで指揮官は全兵士を6つのグループに分け、交代制で穴掘りに従事することにした。それぞれのグループは6時間で穴掘りを終了し、他のグループと交代した。こうして穴掘りは休みなく続けられ、トンネルはウェイイ市内に達した。この作戦は成功し、ローマ軍の勝利は確実となった。ウェイイはこれまで陥落したことはなかったが、城壁のおかげであり、ウェイイ軍は強兵ではなかった。ローマ軍の勝利が確実になると、指揮官のフリウス・カミルスは考えた。

「裕福な都市が手に入り、これまでの全ての戦争で獲得得した戦利品の合計より大きな富を得るだろう。その富を独り占めにし、兵士に対する分け前をけちり、兵士の怒りを招くようなことは避けたい。かといって兵士に気前よく報償を与えたら、元老院の感情を逆なでするだろう」。独裁官フリウス・カミルスは元老院に手紙を送った。

「数時間後ウェイイはローマのものとなります。この勝利は天の加護、私の作戦、そして兵士の忍耐と努力の結果です。戦利品の分配について、元老院の決定を知らせてください」。これまでにない大勝利がもたらす富の分配をめぐり、元老院の話し合いは紛糾した。年老いたリキニウスは言った。「「戦利品を欲しい市民はウェイイに行けばよい」。アッピウス・クラウディウスはこれに反対した。

「そのような気前の良さは前例がなく、無駄使いであり、不公平であり、無謀だ。敵から得た財は国庫に納めるのは犯罪かもしれないが、現実問題としてたびかなる戦争の出費により国庫は空である。せめて兵士への給金は戦利品を財源とすべきである。そうすれば平民から徴収する税を少なくでき、ローマの全家庭が恩恵を等しく受け取ることになる。勇敢な兵士によって得られた富が貪欲な浮浪者によって盗まれることもない。危険で困難な最前線に出向く兵士は略奪を好まず、略奪に熱心なのは浮浪者である」。

 このようなアッピウス・クラウディウスの主張に対し,年老いたリキニウスは次のように反論した。

「敗者から奪った財をは疑いの目で見られ、国庫に収納されるのは適切でない。そんなことをするなら、平民は元老院を批判し、争乱や革命が起きるだろう。平民に贈り物を与え、なだめなければならない。長い間税によって押しつぶされ、困窮した平民を救済する手段として、戦利品を分け与えるべきである。彼らの多くはこれまでの戦争に参加しており、今回の兵勝利によって報われるべきせある。その場合彼らが敵から奪うのを許可したほうが、国家から支払われるより、彼らの喜びは数倍大きい。独裁官は平民の不満と憎しみを避けたいと思い、また独断を避け、戦利品の分配について元老院の考えを問い合わせてきたのである。独裁官の慎重さに応え、元老院は平民に戦利品の獲得を許すべきである」。元老院の多くがこの提案を無難なやり方と考えた。平民の中で戦利品を望んだもの者はウェイイの手前にあるローマ軍宿営地に行った。

 多数の市民がウェイイへ行ったので、ローマ軍宿営地はいっぱいになった。独裁官カミルスは兵士に戦闘の準備を命令してから神に祈った。

 「デルフィのアポロ様、あなたに導かれ、私はウェイイを破壊しに行お迎えしてきます。略奪品の10分の1をあなたに捧げます。女王のユノー様、あなたは今ウェイイに住んでいますが、我々の街に移られることを希望します。あなたの威厳にふさわしい寺院がお迎えします」。

ローマ軍はウェイイ軍の兵の数を超えていたので、独裁官カミルスは四方からウェイイを攻撃するよう命令した。これはウェイイ兵の注意をひくためであり、ウェイイ市内に達したトンネルを秘密にしておくことが真の目的だった。ウェイイの兵と市民はトンネルの完成により城壁が無意味になっていることに気づかず、自分たちの運が尽きていることを知らなかった。何日も宿営地から動かなかったローマ軍が急に狂ったように城壁に押し寄せてきたので、ウェイイ軍は不思議に思った。

トンネルから多くのローマ兵が地上に飛び出した。そこはウェイイ市内のユノー神殿がある場所だった。地上に出たローマ兵は城壁を守備していたウェイイ兵を背後から襲い、別の部隊は城門のかんぬきをはずした。一方ウェイイの女性や奴隷たちは石やタイルをローマ兵に投げつけた。ローマ兵は彼らの住居に火をつけた。威嚇する声、恐怖の叫び声、絶望的な苦しみの声が聞こえた。女性や子供は泣いていた。間もなく、城壁の守備兵は一掃され、すべての城門が開けられた。ローマ兵は密集して市内に入り、または守備兵のいない壁をつ次々とよじ登った。多くの人間が死に、戦いが終わった。

 独裁官は勝利を宣言し、非戦闘員の安全を保障した。ローマ兵たちは独裁官の許可を得て、市内を略奪した。彼らは予想をはるかに超えた量と価値の戦利品を獲得した。独裁官戦利品の多さに驚き、ローマのあまりの幸運に不安になった。「嫉妬の神がローマの幸運を不相応だと考え、後でローマに厄災を与えるかもしれない」。彼は「その厄災が小さなもので済みますように」と祈った。祈りを終えて歩き出すと、彼は躓いて転んだ、と言い伝えられている。これは彼の祈りが無駄である前兆だったと、人々はうわさした。数年後独裁官は有罪を宣告され、ローマは占領された。

独裁官は非武装のウェイイ市民の安全を保障したものの、ウェイイの自由民を奴隷として売った。その代金が国庫に納められた全てだった。しかしこのことにさえ、平民は不満だった。戦利品を手に入れた平民は誰にも恩を感じなかった。勝利に貢献した彼らの指揮官に対しても、彼らは感謝しなかった。なぜなら指揮官は平民に戦利品を渋ることで、元老院に評価されることを願ったからである。彼らは元老院にも恩義を感じず、彼らが唯一賞賛したのは老人のリキニウスだった。

ロ―マ兵はウェイイのすべての家の家財を奪った。最後に神殿の供え物と神々をローマへ運んだ。これは略奪ではなく、ロ―マ兵はウェイイの神々を崇拝していたので、ローマへ招いたのである。兵士の中の選ばれた者が身を清め白衣を着て、恭しく寺院に入りユノー女神を運び出した。をかけ、ローマへ運んだ。これまでエトルリアの神官以外女神に手を触れた者はいなかった。ユノー女神を運んでいた兵士の一人が陽気に女神に呼び掛けた。「ローマへ行きたい?」。すると女神はうなずいた、と他の兵士たちが証言した。

ユノー女神はアヴェンティーノの丘に運ばれた。そこは独裁官カミルスが女神を招いた場所であり、彼は約束通り神殿を建てた。神殿は女神の永遠の住まいとなった。

 

 

 以上がウェイイ陥落のあらましである。ウェイイはエトルリア諸都市の中で、最も裕福だった。ウェイイは10年官包囲されている間に敵に大きな損害を与え、最後の敗北においても偉大さを示した。その敗北は戦闘における敗北ではなく、地下道を掘るという巧妙な作戦に敗れたのである。

  =================(Livius 終了)

 

多くのウェイイ人が殺され、富が奪われ、自由民が奴隷として売られたが、建物は戦闘中に一部破壊されただけであり、ウェイイはエトルリア人の都市として存続した。

 

 

 

 

 

 

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