たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

ローマ以前のイタリア

2019-10-23 00:12:06 | 世界史

 

イタリアの歴史は紀元前8世紀の中頃、半島中部のエトルリアと半島南部のギリシャ植民地で始まった。ローマは紀元前753年に建国されたことになっているが、まだ村に過ぎず、文字も持たず、文明以前の段階にあった。エトルリアとギリシャ植民地については、すでに書いたので、今回はエトルリア人とギリシャ人以外の諸民族について書きたい。

これら諸民族はエトルリアとギリシャよリ文明化が遅れ、紀元前500年頃まで文字を持たなかった。遅れて文字を使用するようになったが、ほとんどの民族はまとまった文章を書くまでに至らず、やがてローマに吸収された。ローマの支配下で彼らの言語は紀元後1世紀まで存続したが、彼らの言語で書かれた文章は少なかった。それでも、これらの民族の名前のいくつかが、地名として残った。

 

 

  

エトルリア人とギリシャ人以外以外の民族のうち、北イタリアの諸民族はそれぞれ独立した民族であるが、南イタリアでは一つの民族がいくつかの部族に分かれている。これらの部族の言語は共通のイタリック語(古代イタリア語)グループに属している。地図では、イタリック語の地域は灰色で示されている。ただし唯一の例外があり、南東の端のメッサピア人の言語はイタリック語ではない。地図では、メッサピア人の居住地は黄色で示されている。半島中部、アドリア海沿岸部の南パイセン人はイタリック語を話すが、北隣の北パイセン人の言語はイタリック語ではない。シチリア島のシケル人の言語はイタリック語である。

ローマが所属したラテン人はイタリック語族に属し、非常に小さなグループだった。

 

       《オスク人》

オスク語はイタリック語の中で、最も広い地域で話された言語である。オスク人は実際に存在したようであるが、半ば伝説的な時代のことであり、彼らの居住地はわかっていない。その後南イタリアのいくつかの部族がオスク語を話すようになった。現在知られているオスク語はこの時期のオスク語であり、その昔にオスク人が話していたであろう原オスク語については何もわかっていない。オスク語を話すようになった部族のうち、サムニウム人とルカニア人が主要な部族となった。ルカニア人はイタリア半島の最南部に住んでいたが、沿岸部はギリシャ人の支配地となり、ルカニア人の居住地は山間部だけとなった。地図では、ギリシャ語地帯の中央に狭いオスク語地帯が示されている。したがって地図に示されているオスク語の地域のほとんどが、サムニウム人の居住地である。

1848年オスク語の文章が書かれた青銅の平板が発見された。この青銅の板は紀元前3世紀に作成された。

 

青銅板の両面に書かれていた板内容は、神々や超自然的存在への奉納の記録である。表(おもて)面に25行書かれており、女神ケレスを拝する儀式が行われた場所が記されている。女神ケレスは穀物と農業の神、母なる大地の神であり、ローマの平民にとって重要な神だった。オスク人の主要部族であるサムニウム人はローマの平民の神を取り入れたのである。サムニウム人は紀元前343291年ローマに激しく抵抗し、2回ローマ軍に勝利したが、結局敗れ、ローマの支配を受け入れた。サムニウム人はローマ人と戦ったが、両者はともにイタリック語族に属し、サムニウム人はローマの平民の神ケレスを受け入れることに抵抗はなかったようだ。青銅板の表(おもて)面には、フローラ神の祝祭の行事の際、4つの神にいけにえを捧げなければならないと書かれている。フローラ女神は花と季節の神であり、サビーニ人の神である。サビーニ人はウンブリア人の部族であるが、オスク人もローマ人もサビーニ人の神であるフローラを信仰した。また、表(おもて)面には、一年おきに聖所の祭壇の前で特別な儀式が行われたことが書いてある。

青銅板の裏面には23行書かれており、サムニウム人が様々な時期に祈りをささげた17の神々の名前が記されている。また、定期的に貢納した者だけが聖所に入ることが許される、と書かれている。

 

       《ウンブリア人》

ウンブリア語はオスク語に非常によく似ており、この二つの言語を話す部族は同族であったか、一方が他方から強い影響を受けたか、のどちらかである。言語学者はオスク語とウンブリア語をほぼ同一言語と考えており、両言語をオスク・ウンブリア語グループと呼び、まとめて扱っている。

紀元前9世紀にウンブリア人の集落がいくつか存在した。彼らは防衛に適した丘の上に住んだ。ウンブリアはエトルリアに隣接している。テベレ川が境界ではなく、テベレ川の西岸地方もウンブリア人の土地であり、テベレ川からかなり離れたアレッツォもウンブリア人の土地だった。アレッツォの近くの2つの町( Chianciano とClusium)に、8-7世紀のウンブリア人の住居跡が残っている。

 

 

その後テベレ川の西岸の多くの町がエトルリアの支配下に入り、テベレ川がエトルリアとウンブリアの国境になった。た。したがってアレッツォだけでなく、ペルージャもエトルリア領となった。

 

  

現在ペルージャはウンブリア州の中心都市であり、アレッツォはトスカーナ州の都市となっている。

紀元前9世紀にウンブリア人の集落がいくつか存在したが、最初に都市が成立したのは、ウンブリアの南部である。ウンブリア人はエトルリアとギリシャから生活用具を輸入し、自ら壺などを造った。紀元前7世紀テルニがウンブリアで最も重要な都市だった。

 

 

 

テルニの人々は当時ウンブリ・ナハルティ(Umbri Naharti)と呼ばれた。彼らはウンブリア人の中で、最大の人口を持つ部族であり、よく組織され、好戦的だった。彼らはネラ(Nera)川の盆地にまとまって住んだ。北部のウンブリア人が残したウンブリア語文書の中で、ナハルティ人は7回言及されされている。ローマ人も彼らについて語っている。ローマの支配下において、ナハルティ人は重要で特権的な役割を果たした。しかしながら、純粋にウンブリア的な南部からは、ウンブリア語で書かれた文章は発見されていない。

 

1444年ウンブリア北部の都市グッビオで、ウンブリア語の文章が書かれた複数の青銅板が発見された。

 

 

 

 

グッビオは町の成立以来、イグヴィン(Iguvine)と呼ばれており、ローマによる征服後も名前を変えなかった。これらの青銅版はイグヴィン・タブレット(Iguvine Tablets)と名付けられた。ウンブリア北部の都市グッビオはエトルリアの文化的影響を受けており、エトルリア文字を参考にしてウンブリア語のアルファベットを考案した。合計7枚のタブレットは紀元前3ー1世紀に作成された。グッビオはローマから離れていたので、ローマによる征服はウンブリア南部より遅く、紀元前21世紀だった。紀元前3世紀に製作されたタブレットはウンブリア語で書かれているが、紀元前1世紀のものはラテン語で書かれている。

======《イグヴィン・タブレット》======

      Iguvine Tablets     wikipedia

 

      

  

 

7枚のタブレットは、グッビオのコンソール宮殿に保管されている。タブレットにはウンブリア語の文が書かれている。

オスク・ウンブリア語で書かれた文の中で、これほど長い文章は発見されておらず、これらのタブレットは最も重要な文献となっており、死語となった古代ウンブリア語の文法を知る助けとなっている。またこれは、古代イタリック系の人々の宗教について書かれたテキストがほぼ完全な形で発見された唯一の例であり、初期ローマの宗教について知る重要な手がかりを与えてくれる。

イグヴィンの神々中では、3つの神が主審であり、この点はローマと似ている。初期ローマの場合もユピテル、マルス、クイリヌスの3神が最高神である。しかしイグヴィンの主神を修飾する形容詞はエトルリアの場合と共通している。イグヴィンでは、神事は都市の最も重要な行事であり、神官は最高の権威を持っていた。ユピテルに仕える12人の神官は行政の最高職でもあった。

タブレットが発見されて以来、これらのテキストの重要性が注目され、多くの学者が解読を試み、テキストの大部分は理解されたが、古代のウンブリア語の単語は解読されていないものが多く、テキストの一部について解釈が分かれている。

      (テキストの構成)

最初の5枚は簡潔に事実を述べており、67枚目は1枚目と同じ内容を詳しく書いたものであり、文学的で賛美するスタイルになっている。

      (1枚目の表面の内容)

神へ犠牲をささげる場合、鳥が飛んでいるか木に止まっているを見てから儀式を始めなければなららない。を3匹の牡牛、3匹の雌ブタ、3匹の角が白い牡牛をそれぞれの神に、また聖所のそれぞれの場所に犠牲としてささげられなければなならない。(神の名前、聖所の特定の場所はウンブリア語であるため、省略)

続いて聖所の門の後ろに、3匹の雌の子羊を捧げなければならない。羊の殺害を清めるために、尻の部分を神にささげなければならない。

     (1枚目の裏面の内容)

要塞の守護を祈願して、1枚目表面と同様に神への犠牲がささげられるべきことが書かれている。そして次のように注意している。「儀式の途中で不都合なことが起きた場合、最初からやり直さなければならない」。1枚目の裏面のテーマは要塞の守護の祈願であり、敵の名目が列挙されている。

①タルディナト(Tadinates、現在のグァルド・タルディーノ):イグヴィン(現在のグッビオ)の南東。ペルージャ県の地図参照。

②エトルリア

③ナハルティ(現在のテルニ): 南ウンブリアの中心都市

④ラプスコイ(Iapuzcoi ):民族系統不明。パイセン人に隣接し、アドリア海近くに住むと推定。

         (3枚目以下省略)

=============(wikipediaからの引用終了)

イグヴィンの敵が4つ列挙されているが、ローマの名前はない。1枚目のタブレットが製作された時、ローマはイグヴィンに何の脅威も与えていなかった。ウンブリア南部のテルニは紀元前3世紀にローマに征服されたが、ローマから遠かったイグヴィンがローマの支配下に入ったのは紀元前2世紀である。オスク人とウンブリア人がローマに征服された時期は次の通り。

   ①オスク人    紀元前291年   

   ②南ウンブリア人 紀元前260年頃 

   ③北ウンブリア人 紀元前100年代

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする