たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

4巻46-48章

2023-03-31 12:31:14 | 世界史

【46章】

市民全体から無差別に徴兵すべきではないと決まった。くじ引きで、10の部族が選ばれ、この中の兵役年齢の男子を兵士とした。編成された軍隊は、二人の執政副指令官に率いられ、戦地に向かった。少し前、三人の執政副司令官の間で、誰が留守役になるかでもめたが、今度は陣営で、司令官となった二人が上位の指揮権を求めてさらに激しく争った。二人はひたすら自説を主張し、何一つ合意に至らなかった。それぞれが自分の考えと作戦にこだわり、それを実行しようとした。二人はお互いに相手を軽蔑した。副将軍たちの抗議と苦言の末、両者は数日ごとに最高指揮権を交代することに同意した。こうしたことがローマに伝えられると、軍隊の経験が長い Q・セルヴィリウスは厳粛に祈った。「二人の司令官の争いがヴェイイ戦以上の悪い結果を生まないように願います」。

こう祈りながらも、彼は災難は避けられないと考えており、留守役である息子に、新たに徴兵と軍備を命令した。彼の予想は的中した。L・セルギウスがローマ軍の最高司令官になっていた時、アエクイ軍が退却を装い、不利な地形のところに移動した。そこはローマ軍の陣地に近く、敵は陣地を襲うことも可能だった。ローマ軍がアエクイ軍を追撃すると、アエクイ軍は突然反撃に転じ、ローマ兵は急峻な谷を降りて逃げた。逃げ遅れた兵は殺された。多数のローマ兵が崖から転げ落ち、折り重なって死んだ。ローマ軍の陣地に逃げた兵士もいて、彼らははなんとかもちこたえた。しかし翌日ローマ軍の陣地が大部分包囲されると、ローマ兵は後ろの門からあわてて逃げた。彼らは草原を必死で走り、あらゆる方向に逃げた。ローマに帰りつくと、彼らはローマ軍の敗北を誇大に伝えた。

アエクイ軍の反撃により崩壊したのはローマ軍の全部ではなく、残りの兵は軍旗を中心に司令部と共に踏み留まった。司令官と副将軍に従い、彼らはトゥスクルムに向かった。

ローマ軍の敗北を知らされたローマ市民はさほど驚かかなかった。予測していたことだったからである。留守役の執政副司令官は新たに部隊を編成し、いつでも出動できる状態にあった。役人が人々を安心させてから、執政副司令官は偵察隊を派遣した。間もなく、偵察兵が次のように報告してきた。「ローマの将軍と兵士はトゥスクルムにいる。敵は同じ陣地に留まっている」。

ローマ軍が健在なことを知って、市民は安心した。また元老院が Q・セルヴィリウス・プリスクスを独裁官に任命したので、市民は政府を信頼した。かつて政治的に困難な時期に、セルヴィリウスの予見が正しかったことを、市民は何度も見てきたし、今回の戦争でも彼の洞察力の深さが証明された。二人の司令官の争いが破局を生むことを知っていたのは彼だけだった。独裁官となったセルヴィリウスは執政副司令官である自分の息子を騎兵長官に選んだ。しかしこの年の騎兵長官について、権威ある著者の間で意見が分かれており、アハラ・セルヴィリウスが騎兵長官だったという説もある。独裁官と新しい軍団が戦地に向かった。独裁官はトゥスクルムにいた部隊を呼び出し、敵軍から3km離れた場所に陣地を敷いた。

【47章】

ローマ軍が敗れ、アエクイ軍が勝利すると、アエクイ軍の指導者は傲慢になり、軽率になっていた。最初の戦闘でこれが明らかになった。独裁官は騎兵に敵の正面を攻撃させ、これを切り崩した。続いて歩兵の旗手たちが全力で前進した。旗手の一人がおどおどしていると、独裁官は彼をなぎ倒した。ローマ軍の攻撃が猛烈だったので、アエクイ軍は圧倒された。アエクイ兵は戦場から押し出され、彼らの陣地に向かってまっしぐらに逃げた。

ローマ軍がアエクイ軍の陣地を攻撃すると、ほとんど抵抗がなく、あっという間に陣地を占領した。独裁官は陣地で獲得した戦利品を兵士に与えた。陣地から逃げた敵兵を追っていった騎兵が報告してきた。「敗北したラビクム軍と相当数のアエクイ兵がラビクム市内に逃げ込んだ」。

翌日ローマ軍はラビクムに向かった。ローマ軍はラビクムを総攻撃し、占領した。町の略奪が終わると、ローマ軍は首都に帰還し、独裁官は退任した。彼の任期は一週間で終わった。護民官がラビクムの領土の分割を要求して騒ぎ始める前に、全員出席の元老院において、ラビクムへの植民が決定された。1500人の植民者がラビクムへ送られ、各人が2ユゲラ(jugeraは四分の一ヘクタール)の土地を得た。

翌年の執政副司令官はメネニウス・ラナトゥス、 L・セルヴィリウス・ストゥルクトゥス、P・ルクレティウス・トゥリキピティヌス、スプリウス・ヴェルティウス・クラッススだった。最初の三人は二度目の就任だった。

年が変わり、執政副司令官になったのは A・センプロニウス・アトゥラティヌス、M・パピリウス・ムギラヌス、Sp・ナウティウス・ルティルスだった。センプロニウスは三度目の就任、他の二人は二度目の就任だった。この二年間、対外関係は平穏だったが、国内は土地法をめぐってもめた。

 

(日本訳注)44ー47章は紀元前420年の出来事である。47章の最後の部分で、前419年と418年の執政副司令官の名前があげられている。英文ウイキペディアの「ローマの執政官のリスト」によれば、421年から418年の最高官は次のようになっている。

43章 :紀元前421年 執政官 ファビウス・ヴィブラヌス 

44ー47章の途中まで;420年 執政副司令官 クインクティウス・キンキナトゥス、マンリウス・  ヴルソ 

47章の最後の部分:前419ー418年

  前419年 執政副司令官 アグリッパ・メネニウス・ラナトゥス、Sp・ナウティウス・ルティルス

  前418年 執政副司令官 セルギウス・フィデナス、セルヴィリウス・アキラ

紀元前418年の執政副司令官について、リヴィウスは3人の名前、執政官リストは2人の名前をを上げているが、共通する者は一人もいない。ウイキペディアの「執政官リスト」はリヴィウスより60歳年上のヴァロが作成したものである。リヴィウスはヴァロのリストを知りながら、これと異なる最高官の名前を採用した可能性が高い。ヴァロやリヴィウスの時代には複数の執政官リスト、複数の年代記、複数の歴史書、多くの碑文が存在していたが、これらの間に食い違いがあり、その結果ヴァロとリヴィウスの間に相違が生まれた。リヴィウスは最高官の名前を年代の代わりにしたが、ヴァロは年代を確定し、彼の年代はその後広く使われた。ヴァっロ(Marcus Terentius Varro)は紀元前116年に生まれ、前27年に死んだ。彼はキケロに並ぶ文筆家とされ、国家文書館の館長にもなっている。(日本訳注終了)

 

48章】

騒ぎを起こした護民官は Sp・マエキリウスと M・メティリウスである。前者は4回目の護民官就任であり、後者は3回目の就任である。二人はローマにいない時に選ばれた。敵から奪った領土を個人に分配する法律の制定を、彼らは求めた。もしこれが実現すると、多くの貴族が土地を没収されることになる。ローマの首都は、もとは外国の土地だったのであり、平民の居住地を除き、ほとんどすべての土地が武力で獲得され、売却や割り当てにより、私有地となったのである。したがって護民官の法案は貴族と平民の間にし烈な争いを引き起こすのは確実だった。執政副司令官は元老院でこの問題を取り上げ、貴族の私的な集まりでもこれについて議論したが、対処法が見つからず、途方に暮れた。このような時、十人委員の孫であり、最年少の元老だったアッピウス・クラウディウスが立ちあがって意見を述べた。

「私の家に昔から伝わる、なじみの策を伝えるため、家族を代表して話します。昔私の祖父は護民官を打倒する唯一の方法について元老院で話しました。それは護民官の一部を仲間から切り離し、拒否権を行使させることです。庶民でありながら頭角を現した者は、国家の指導者の威厳を前にして、容易に意見を変えるものです。ただし、上位の者として彼に語るのではなく、その場にふさわしい話し方で説得しなければなりません。運や状況の変化とともに、彼らの感情は変わります。同僚たちが法案を提起し、平民の熱狂的な支持を集めると、自分だけが取り残されたと感じ。彼はためらわらず元老院の陣営に走ります。こうして彼は元老たちだけでなく、貴族全体の信頼を勝ち取るのです」。

全員がクラウディウスの見解に同意した。Q・セルヴィリウス・プリスクスが真っ先に若者をほめた。「クラウディウス家の若者が、昔のクラウディウス家の人々の気質を失っていないのは、素晴らしいことだ」。

元老院の指導者たちは説得すべき護民官を分担し、できるだけ多くの護民官を寝返らせることにした。会議が終了すると、彼らはそれぞれ目標の相手に接触した。説得したり警告したり、約束したりしながら、元老たちは「拒否権を行使すれば、元老全員が喜ぶだろう」と語った。元老たちは6名以上の護民官を味方にできた。翌日になり、元老たちは打ち合わせどおり、マエキリウスとメティリウスが市民を煽動している様子を観察した。二人は最も悪質な見返りを市民に約束しているところだった。これだけの約束をすれば、マエキリウスとメティリウスが市民の強い支持を集めるのは確実だった。元老たちは動揺した。その後元老院の指導者たちの誰一人として対策を考えつかなかった。結局彼らは護民官に助けを求める以外に方法がなかった。国家は困り果て、まるで助けを求める市民のように護民官のもとに逃げ込んだ。護民官と彼らの権力がこの日ほど輝いたことはない。彼らは邪悪な同僚に打ち勝ち、元老を困らせ、貴族と平民の対立を引き起こすことに成功した。元老院では、マエキリウスとメティリウスに対し拍手が起こり、議場のあちこちから応援の声がかけられた。議場が静まると、元老の切り崩しにあった護民官たちが告白した。

「元老たちの考えでは、マエキリウスとメティリウスの法案は国家を破壊するものだから、拒否権を行使すべきだということでした。我々は元老院から正式に感謝されました」。

その後マエキリウスとメティリウスが護民官を集め、切り崩しに応じた同僚たちに向かって、「平民を裏切る者だ」とか、「執政官の奴隷だ」とか、侮辱的な言葉を浴びせかけた。その後マエキリウスとメティリウス」は法案を取り下げた。

 

 

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4巻43ー45章

2023-03-19 06:02:33 | 世界史

 

43章】

翌年の執政官はヌメリウス・ファビウス・ヴィブラヌスと T・クインクティウス・カピトリヌスだった。後者は有名な父 T・クインクティウス・カピトリヌスと同名の息子だった。ローマとの戦争でヴォルスキ軍は強さを見せたが、勝利したか否かはわからなかった。アエクイ族は自分たちがローマに勝利したと主張したうえで、ローマとの戦争を始めた。しかし戦争の運はアエクイを見放していた。アエクイとの戦争を指揮することになったのはファビウスがだった。しかし書くに値することは起きなんかった。戦いが始まると、アエクイ軍は戦意がなかった。彼らはすぐに四散した。ローマ軍は勝利したが、敵が弱すぎたので、執政官にとって名誉とはならなかった。とはいえ、ヴォルスキ戦でセンプロニウスが敗戦しかけた不名誉を忘れさせてくれたので、人々は彼に拍手を送った。戦争前、人々は不安だったが、結果はあっけない勝利に終わった。戦後の静けさは、突然の内紛によて破られた。貴族と平民が激しくぶつかった。対立の原因は財務官の人数についてもめたことだった。財務官の人数は最初一人だったが二人になり、今度は首都財務官のほかに、執政官の補佐をする財務官の創設が提案された。戦時において執政官に様々な任務が発生し、執政官だけでこれらを処理するのは無理だった。執政官が新種の財務官の創設を元老院に求めると、元老院は了承した。すると護民官が補佐官の半分は平民から選ぶべきだと主張した。財務官はこれまで貴族から選ばれていた。執政官と元老院は護民官の要求に反対したが、彼らの要求を拒否するのは難しくなった。既に平民は執政副司令官になる資格を認められており、再び同様な権利を平民に与えるのはまずいと執政官は考えて、新種の財務官創設を取りやめた。護民官はこれで引き下がらず、農地法をはじめ、いくつもの革命的な法案を立て続けに提出した。護民官の活躍がこの年の主要な出来事となった。元老院は翌年の最高官を執政官にしたかったが、護民官が拒否権を行使したので、決定に至らなかった。翌年の最高官が選定されずに、この年が終わってしまった。それで一時的な最高官が選定されることになったが、これが簡単に決まらなかった。暫定最高官の選定について貴族が話し合おうとすると。う護民官が拒否権を行使した。すったもんだの末、やっと暫定最高官が決まった。こうして新年が始まり、新しい護民官が選ばれた。護民官はさっそく暫定最高官と争いを始めた。そのため別の暫定最高官が選ばれることになったが、貴族が誰を暫定最高官にすべきかか話し合うために集まると、護民官は会議を妨害した。やっと二人目の暫定最高官が決まったが、彼も辞任に追い込まれた。数人目の暫定最高官が執政官の選挙を決定したが、護民官はこれに反対した。このような時、かつて暫定最高官を務めた    L・パピリウス・ムギラヌスが元老院と護民官を厳しく批判した。

「ヴェイイとの戦争、アエクイがローマの城壁までやって来たことを思い出してほしい。ローマの安全はかろうじて守られているだけだ。人々はローマを見捨て、忘れ去っている。ローマが守られているのは、神々の配慮と幸運のおかげだ。ヴェイイやアエクイが再び戦争を始めるなら、急襲によってローマは占領されるがろう。神々も考えを変えたのだ。ローマには貴族の最高官が存在しないし、軍隊もなく、将軍もいない。内戦をしている国が外国の軍隊と戦えるだろうか。ヴェイイとアエクイが同時に攻めてきたら、ローマの敗北と破壊は避けられない。神々でさえお手上げだ。貴族と平民の双方が譲歩し、国民の一致を実現する以外に滅亡を避ける方法はない。貴族は執政副司令官の選出を認め、護民官は財務官を4人に増やすことに同意すべきだ。財務官は貴族と平民の区別なく選ばれるのがよい」。

【44章】

執政副司令官の選挙となり。以下の4人の貴族が選ばれた。L・クインクティウス・キンキナトゥス、L・フリウス・メドゥッリウス、M・マンリウス、A・センプロニウス・アトゥラティヌス。クインクティウスは三度目の就任、フリウスは二度目の就任だった。

財務官の選挙がおこなわれた。執政副司令官センプロニウスが選挙を管理した。平民も財務官に立候補したが全員落選した。例えば護民官アンティスティウスの息子、護民官セクストゥス・ポンピリウスの兄弟などが落選した。彼らは権威が低く、人々の関心をひかず、執政官の息子や孫である候補者に太刀打ちできなかった。身分の高い貴族に人々の関心が集まった。護民官全員が選挙結果に怒った。特にポンピリウスとアンティスティウスは親族が落選したので平静心を失うほど怒った。

「これは、いったいどういうことだ。我々は平民を代表する護民官であるというのに、選挙で負けるとは。悪事を働いてきた貴族が勝つとは。今や市民は新しい自由と権利を有しているのに、平民は一人も査察官に選ばれなかった。執政副司令官にも平民は選ばれなかった。護民官が息子を応援し、もう一人の候補者を彼の兄弟の護民官が応援したのに、二人とも落選した。歴代の護民官が市民の自由を守るために努力してきたのに、今回の選挙で護民官の権威は役にたたなかった。何かの裏切りがあったに違いない。選挙を管理したA・センプロニウスは単刀直入ではなく、裏技が得意だ」。

選挙管理官が不正な手段で平民の候補者を落選させた、と護民官たちは主張した。しかしA・センプロニウスは不正をしていなかったし、選挙管理官は厳正な役職だったので、護民官たちは正式にセンプロニウスを攻撃することはできなかった。護民官たちの憎悪は A・センプロニウスの叔父カイウス・センプロニウスに向けられた。

彼らは N・カヌレイウスの応援を得て、ヴォルスキ戦の不手際を理由にカイウス・センプロニウスを告発した。

次に護民官たちは国有地の分配の問題を繰り返し元老院に働きかけた。しかし A・センプロニウスはこの提案を断固退けた。彼が反対する真の理由について、護民官たちの推察は当たっていた。彼の叔父の裁判の日になった時、A・センプロニウスは選択を迫られた。土地法案へ反対の立場を貫けば、平民を怒らせ、叔父の判決に悪影響を与えるだろう。かといって、法案への反対を撤回すれば、貴族への影響力を失うだろう。結局彼は法案に反対する道を選び、護民官と平民の憎しみを買ってしまった。彼は政治的信念を曲げず、国家を裏切らなかった。これに対し、三人の護民官は平民の間で影響力を強めた。三人の護民官は平民への土地の分配を後回しにして、A・センプロニウスへの復讐を優先した。逆風に対し、センプロニウスと元老院は毅然と立ち向かった。個人の救済を優先して国家を裏切ってはならなかった。裁判が始まっても、A・センプロニウスの信念は揺るがなかった。貴族たちが平民をなだめようと努力したが、センプロニウスは堂々と叔父を弁護するだけだった。彼の叔父カイウス・センプロニウスは15000アス(アスはローマの最初の貨幣で、銅貨)の罰金を支払うことになった。

同じ年、ヴェスタ神殿の巫女ポストゥミアが純潔を汚したとして告発された。彼女は無実だったが、同性愛者の服装をし、処女らしくない自由な振舞いをしていたので、疑われた。彼女は拘留されたものの、無罪となった。大神官が神官全員を代表し、彼女に軽薄な行動を改め、外見についてとらわれず、聖なることを学ぶように忠告した。同じ年、ギリシャ人の都市クマエ(ナポリの北)がカンパニア人によって占領された。

(日本訳注)カンパニア人はオスク語を話した。オスク語はウンブリア語の兄弟言語であり、オスク人は紀元前7世紀にエトルリア語のアルファベットを採用したようであり、紀元前5世紀のオスク語アルファベットが残っている。オスク語はイタリア中部においては弱小部族ヘルニキなど、いくつかの小部族が話すのみだが、イタリア半島南部では主要な部族サムニウム人がオスク語を話している。クマエはイタリア南部のギリシャ都市の中で最も早く建設され、ローマはこの都市を通じて、ギリシャの文化を学んだ。英文ウイキペディアに歴代執政官のリストがあり、それによれば44章は紀元前420年の出来事である。つまりクマエ陥落は紀元前420年である。しかし英文ウイキペディアの「クマエ」の項目では、カンパニア人によるクマエ占領は紀元前421年となっている。(日本訳注終了)

【45章】

翌年の執政副司令官はアグリッパ・メネニウス・ラナトゥス、P・ルクレティウス・トゥリピキティヌス、スピリウス・ナウティウス・ルティルスだった。この年ローマは幸運に恵まれ、災難はなかったが、不安なことはあった。奴隷たちが反乱を計画した。市内のあちこちに放火し、人々が火から家を守ろうとしている間に、武装して、カピトールの丘を占拠しようという計画だった。しかしユピテル神がこの邪悪な計画をくじいた。二人の奴隷がこの陰謀を報告し、反乱を企てた奴隷たちは処罰された。通告した二人は巨額の報奨金、10000アスを与えられ、奴隷から解放された。次にアエクイが再び戦争を企てた。ラビィクムがアエクイと同盟した、と信頼できる筋が報告してきた。もともとラビィクムにとってアエクイは敵だったのに、一転して彼らと同盟した。

(ラビクムはラテン人の都市で、ローマの南東20km。ローマとアエクイ地域の中間にある)

ローマはアエクイとの戦争を年に一度の行事程度に見なしていたので、彼らに使節は送らず、ラビクムにだけ使節を送った。ラビクムはあいまいな返事をしてきた。彼らは戦争の準備をしていないものの、平和が続かないことは明らかだった。ローマはトゥスクルムにラビクムの動きを監視するよう依頼した。

翌年の執政副司令官はルキウス・セルギウス・フィデナス、M・パピリウス・ムギラヌス、C・セルヴィリウスだった。C・セルヴィリウスの父 Q・セルヴィリウス・プリスクスはフィデナエを占領した独裁官だった。年の初めに、トゥスクルムから使者が来て、次のように報告した。「ラビクムが軍を編成し、アエクイと一緒に我々の領土を荒らした。その後、彼らはアルギドゥス山に陣地を築いた」。

ローマは戦争を布告し、元老院は二人の執政副司令官に出発するよう命令し、もう一人の執政副司令官は首都を管理するよう命令した。ところが三人の執政副司令官はそれぞれが軍の司令官になろうとして、譲らなかった。三人は首都の行政をつまらない仕事と見下し、軍務を栄光ある任務と考えていた。元老たちは驚きながら、珍しいもめごとを見ていると、クインクティウス・セルヴィリウスが述べた。「三人は元老院と国家の権威を忘れているようなので、子に対する父親の権威によって口論を終わらせるしかるしかないようです。くじを引いて決めてもよいが、私の息子を首都の行政にあたらせます。軍隊の指揮を熱望する者は、自分の感情を抑えることを学ばなければならない。そうでなければ思慮深い作戦と兵士への思いやりを実践できない」。

 

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