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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

ティクリート戦 仕掛け爆弾に進路を阻まれたイラク軍

2015-05-13 23:31:11 | イラク

         イラク軍もシーア派民兵も、多連装ロケット砲を装備

        

                                  (写真)  PressTV

3月2日、イラク政府軍は、ティクリートの攻撃を開始した。ティクリートはモスルに次ぐイスラム国の重要拠点である。作戦は順調に進み、3月11日、イラク国防相は勝利が近いことを語った。ところが、その2日後、突然作戦が行き詰まり、攻撃が中断した。アバディ首相は、米軍に空爆を依頼した。これは大きな方針転換だった。

当初、イラク政府は米国の航空支援を望まなかった。ティクリートはイラク人の手で奪回するという決意のもとに、作戦を開始した。イラク政府は米地上軍の再来を警戒しており、航空支援の拒否もその一環である。

反米的な政府内で、親米的なアバディ首相は孤立しており、彼の主張は埋もれていた。その彼が米国に空爆を依頼したのは、親イラン的な多数派に対し、一矢報いたのだという見方があった。

 

                <イランに従属するイラク政府 >

首相がマリキからアバディに代わっても、イラク政府はイランの傀儡政権だといわれる。アバディ首相は就任の時の約束をすべて破った、とも言われる。約束の基本理念は、シーア・スンニ・クルド・他の少数民族の連合政府をつくるということである。

5人の駐イラク米大使の補佐官を務めたアリ・キデリ(Ali Khederi)も同じ見方をしている。「イラクの真の支配者は、シーア派民兵軍であり、政府は無力である。首相・蔵相・石油相は愛国者だが、残りはすべてイランの代理人にすぎない。実際にイラクを支配しているのはイランだ。次は、サウジアラビアとバーレーンが同じ運命をたどるだろう」。

 アラウィ副大統領も数少ない愛国者のひとりである。キデリが名前をあげていないのは、副大統領は名誉職にすぎず、実権がないからだろう。アラウィ副大統領はイランに対する反感をあらわにする。「地域の大国がイラクの問題に口を出してはならない。イランの関与は限度を超えている。バグダッドが新ペルシャ帝国の首都になるなど、あるまじきことだ。」これは、大げさな恐怖ではない。先走ってしまうが、4月にこれを裏付ける話が報告された。

 3月25日米国は空爆を開始し、3月31日イラク軍はティクリート戦に勝利する。4月6日のロイター日本版が、その勝利の戦場にイラン人兵士がいた、と報告している。

 === イラン兵は、イラン最高指導者ハメネイ師の写真を胸に付け、カラシニコフ銃を持っていた。彼は「ティクリートを解放する戦いに参加したことを誇りに思う。今やイランとイラクは1つの国家だ」と述べ、同作戦でのイランの役割を誇示した。

 アングル:ティクリート奪還作戦の「誤算」、報復と略奪が横行

貼り付け元  <http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0MX0D620150406?pageNumber=3&virtualBrandChannel=0>

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           <ペルシャは千年間メソポタミアを支配した>

        ササン朝ペルシャの都クテシフォン

           

                                                                     (地図) vivo net

ササン朝ペルシャの首都クテシフォンはバグダッドの南東32㎞にあった。クテシフォンはパルティア王国の時代、紀元前58年頃、王国の首都となり、次のササン朝の時代も引き続き首都であった。合計すると700年間、ペルシャ王国の首都であった。パルチアはペルシャ人の国家であり、紀元前238年頃~紀元後226年に存在した。パルチアを滅ぼしたササン朝の存続期間は、紀元後226年~651年である。

                     クテシフォンの城門 遺跡    ウィキペディア

                 

紀元前550年のアケメンス朝の成立から、紀元後651年ササン朝が滅ぶまで、メソポタミアはペルシャによって支配された。アレクサンダーは紀元前330年アケメンス朝を滅ぼしたが、100年後、再びペルシャ人の国家パルチアが成立する。アレクサンダーとその後継者の支配期間はたった100年であり、ペルシャ人の支配期間は千年である。

 。ササン朝が滅んでから150年後、クテシフォンの北西32㎞に位置するバグダッドが、アッバス朝イスラム帝国の首都になった。

 

        <親イラン派と親米派の対立>

イラク政府内で、 親イラン派と反イラン派が激突している。ISISとの戦闘に劣らないほどの内紛である。反イランの米国は、空爆を引き受ける条件として、シーア派民兵の撤退を要求した。米国はシーア派民兵をイランの別働隊とみなしている。米国はイランの手先を援護するは考えない、という立場である。

空爆の依頼が作戦の必要からなされれたものか、政治的理由によるものか、分らなくなるほど、イランをめぐる対立が前面に出ている。

ともあれ、攻撃が中断した経過を追ってみたい。

             <イスラム国が油井を燃やす>

         

(地図の説明) 地図中央の赤い小さな正方形が、市の中心部である。その南東にアルブ・アジル(Albu Ajil)がある。緑の小さな正方形で示されている。アルブは省略する事もあるようなので、本文でははアジルとだけ書いた。この地図は3月11日の戦況である。

イラク軍はチグリス川の東岸から作戦を開始した。3月4日、アジル(Ajil)に近づくと、イスラム国は油井を燃やし、黒煙がたちのぼった。戦闘ヘリの攻撃から身を守るため、煙幕として利用するためだった。

          

                                    ( 写真) Reuters                  

テイクリートの防備が完了しておらず、武器・弾薬・戦闘員を運びいれている最中だったので、イスラム国はできるだけアジルに敵を引き留めておきたかった。       

ティクリート南東のアジル(Ajil)油田は日々2万5千バレルの原油を産出し、キルクークの製油所に送られていた。1億5千万立方フィートの天然ガスが、日々キルクークの発電所にパイプラインで送られていた。イスラム国は6月にこの油田を奪取したが、自分たちの粗末な採掘方法では、天然ガスに点火する危険があると考えて、石油の採掘量をおさえていた。

       地図の下方に、北からアラム(Alam、ティクリート(Tikrit),ダウア(Dour)           

               

                               ( 地図) Reuters

7日、ティクリートの北方の町アラム(Aam)と南方の町ダウア(Dour)の町では、イスラム国の猛攻に隊し、なす術なく、イラク軍と人民動員軍は町を攻略できずにいた。

「無理押しをあきらめ、彼らを包囲して供給路を絶つ作戦に変えた」とアラムの町長ジャブリ氏が言った。

           <シーア派の危機を救ったイラン>

人民動員軍は、バドル軍その他のシーア派民兵軍の総称である。

6月、イスラム国の突然の進撃を前に、首都バグダッドは危機に陥った。シーア派の最高指導者シスターニ師は、シーア派住民に武装抵抗を呼びかけた。シスターニ師は温厚な人柄で知られ、これまで政治的な煽動を行ったことがない。2004年以後、イラク戦後の混乱期には、米軍に協調的な立場をとった。その彼が武装抵抗を呼びかけたのは予想外であり、シーア派がどれほど危機感を抱いたかが分る。

シスターニ師の呼びかけもあって、志願兵部隊が各地で結成されたが、彼らは武器もなく、兵士としての訓練も受けてていなかった。この時、即座に武器を与え訓練したのが、イランである。対応が早く、武器が無償であったことに、シーア派は感謝している。

 シーア派民兵の最大の組織がバドル軍である。バドル軍のハディ・アメリ司令官は、イラク人であるが、イランの革命防衛隊の一員で、イラン・イラク戦争ではイラン側で戦った。米国は彼をイラン人とみなしている。

                            

                                                  (写真) hadi ameri eu iraq org

「民兵組織は国の分裂要因であるから、解散させよ」と、米国がイラク政府に圧力をかけた。イラク政府は、人民動員軍という新軍を創設し、これにシーア派民兵を取り込んだ。要は、民兵軍に政府軍としての名前を与えたのである。

                   <イラク軍の構成>

約千人のイスラム国戦闘員に対し、3万の大軍が四方から攻め込んだ。

政府軍の構成は、2万人の人民動員軍・イラク正規軍3千人・スンニ派部族軍2千~4千人である。

この他に、人数は少ないが、米軍によって訓練された精鋭の特殊部隊がいる。この特殊部隊は危険を冒して突破口を切り開いた。3月9日に投稿されたビデオでは、特殊部隊の1人が死亡し、もう1人は足に負傷し、仲間に支えられて、やっと歩いていた。彼は西洋人のように見えた。特殊部隊を率いているのは米兵かもしれない。

 政府軍は前日6日に、ダウアの町の東と南に侵入したが、それ以上進めなかった。

               <フセイン残党の総帥 ドゥーリ将軍>

ダウア(Dour)はサダムフセインの右腕といわれたイザット・ドゥーリ(Douri)将軍の故郷である。彼はイラク革命防衛軍の軍事会議副議長であり、バース党のナンバー2である。したがって米軍はイラク戦争後、血眼になって彼を探した。米軍はサダムその他重要人物を指名手配にした。指名手配された人物は、つかまれば処刑だった。ドゥーリ将軍はイランとの戦争中に、化学兵器を使用し、ハラブジャのクルド人住民5000人を殺害した。フセイン政権で地位が高かったことに加え、戦争犯罪の責任を問われている。ただし、毒ガス使用について、クルド人は裁判を望んでいるが、米国は乗り気でない。毒ガスを誰から入手したか、裁判で追及されるのが不都合だからだ。

               

                                                            (写真)   20minuis francais

ドゥーリ将軍は米軍の追跡を逃げ切り、後にフセイン残党の総帥となった。彼は、スンニ派民兵を集め、ナクシバンディ軍を結成した。

2004年~2007年、ナクシバンディ軍は米軍を攻撃し、戦後成立した新政権と戦った。

 今回のティクリート防衛戦でも、ナクシバンディ軍はイスラム国と肩を並べて戦っている。ティクリートの真の支配者はナクシバンディ軍であるという。イスラム国とナクシバンディ軍の関係は複雑である。両者は同盟軍でありながら、一転して敵同士になりかねない緊張関係にある。

米国の指名手配から逃げ切ったイザット・ドゥーリ将軍だが、今回のティクリート防衛戦で戦死した。逃げるよりも故郷を守ることを優先したのかもしれない。

               <ドゥーリ将軍のメッーセジ>

イスラム国の電撃的な勝利の直後、7月14日、ドゥーリ将軍はイラク国民に「祖国の解放」を呼びかけた。その音声メッセージは旧バース党員が運営するウエッブサイトで公表された。

 「国の半分を開放した反乱に参加せよ。バグダッドの解放は目前である。すべての国民が各人の力に応じて、祖国の解放に努めなければならない。自由な祖国無しに、いかなる名誉も尊厳もない。」

 バース党残党がバグダッドをめざしていたことがよくわかる。また「国の半分を開放した」のはイスラム国であるにかかわらず、イスラム国の名前は語られない。その集団に対する言及もない。ただ「反乱」とだけ言われ、「国の半分を開放した」のは誰かはわからない。イスラム国の存在は消えている。バース党の残党はイスラム国と共闘していけるだろうか。両者が分裂してしまえば、イラク政府が有利になる。

             <9日ー11日の戦闘>

イザット・ドゥーリ将軍の故郷であるダウアの町の攻防は激烈なものとなった。イラク軍は兵を増強し、8日、やっと町の中心部を制圧した戦闘終了後、500個の仕掛け爆弾が発見された。「信じられない数の爆弾」、と指揮官のひとりがCNNに語った。町の西側の一角に、まだイスラム国が潜んでいる。

10日、アラムの町で、イスラム国の反撃がやんだ。彼らは町から姿を消した。アラムはイラク軍の手に戻った。住民が姿を現し、喜びの声をあげた。家の屋根で勝利の旗を振る住民もいた。

                        

                                                                 (写真) ABC News

イラク軍は11日、陸軍病院の制圧に成功し、建物の上部に国旗を掲げた。 陸軍病院はティクリート市内にあり、中心部に近い。イラク軍は市の中心部を四方から包囲し、イスラム国戦闘員を閉じ込めた。

          陸軍病院の制圧を祝う民兵     (写真)AFP

                           

陸軍病院の数ブロック南にある大統領宮殿では、まだ戦闘が続いていたが、イスラム国の抵抗が終わるのも、時間の問題となった。この戦況は、市の中心部での勝利が近いことを思わせた。イラク軍司令部がそう感じただけでなく、米軍上層部もティクリート解放作戦が順調に進んでいることを認めた。

 8日の段階で、アバディ首相は「イラク軍の進撃は予定以上に順調だ」と述べていた。

11日、オベイディ国防相は、作戦は3日で終了するだろうといった。

            <イラク軍、攻撃を停止>

その2日後、13日と14日、イラク軍は攻撃を停止した。勝利する予定の日に、突然行き詰った。市の中心に踏みこめば、犠牲が大きいことがわかったからである。新たな作戦と援軍が必要になった。

作戦がゆきづまったことについて、バドル軍の最高指揮官カリム・ヌーリは、まず爆弾を除去しなればならない、と語った。「道路わきと建物に数千個の爆弾が仕掛けられている。これを除去して進路を安全にしなければならない。爆弾処理の専門家と、よく訓練された兵士が必要だ。人数は千5百人程で十分だ。必要なのは、人数ではない」。

 軍事専門家も、イラク軍は爆弾処理の技術班が欠如していると指摘している。しかもスナイパーやミサイルに狙われる状況下での作業となるので、攻撃部隊との緊密な連携が必要になる。

実際、空爆開始後のことであるが、ブルドーザーで道路の地雷を処理していた運転手が、ミサイル攻撃によって、死亡した。

             道の両側の建物潜むスナイパーを警戒しながら進む兵士

             

ヌーリ指揮官は、ISISの人数は、60ー70名と推定している。メディアの多くは数百人と推定している。メディアの多くは数百と報じている。

 イスラム国は市の中心部を最終防衛陣地としており、敷設した爆弾の数はアラムやダウアの時より多い。ダウアの場合は500個だった。ヌーリ指揮官は数千個と言っている。(メディアの多くは数百と報じているが、千個を超えているようだ)

爆弾には、通常の火薬より爆発力の強い化学物質を使用している。

   ISISが保存していた大量の窒化アンモニウム ( 爆発力の強い化学物質)

        

周辺の町村や市の周辺部で敗北後、イスラム国の戦闘員は市の中心部に逃げ込んだ。そういう作戦だったようである。

 無理に踏み込めば、多くの戦死者が出ることが予想された。国防相は「犠牲を避けるために停止した」と語った。「我々は、自軍の犠牲を最低限にすること、そして市内の住民を守ることを考慮しながら、戦っている」。この言葉の裏の意味は、戦死者が増えている事実を無視できなったということである。

          <アメリ司令官は勝算があると判断>

バドル軍のアメリ司令官は勝利を確信していた。「テロリストは完全に包囲され、市内に閉じ込められている。あわてる必要はない。敵は日々死んでおり、敵の士気は落ちている。そのうち突破口ができるだろう。その時、総攻撃すればよい」。

「敵の士気は落ちている」という判断には根拠がある。ISIS戦闘員が多数戦死したが、捨てられた死体の中に、ISISの内部の抗争による死体があったからだ。ISISの幹部が逃亡したという情報もあった。

 イラン日本語ラジオも、ISISの士気が低下していると伝えた。

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  <ISISの指導者、ティクリートでの大敗を認める >    3月13日

サラーフッディーン州の中心都市ティクリートは、バグダッド北部のISISの司令部の拠点で、ここから自爆テロ要員がイラク各地に派遣されています。

イラクの政府軍と義勇兵は、ISISとの数日に及ぶ衝突の末、11日水曜にこの都市の中心部に入りました。

ISISの指導者バグダディは、12日木曜、ISIS運営のラジオからのメッセージで、ティクリートでの大敗を認めると共に、ISISのメンバーに対し、士気を失わないために、衛星チャンネルを見ないよう求めました。

ISISの報道官もメッセージの中で、イラクとシリアでのISISの敗北を認めると共に、ISISのメンバーに対し、イラクとシリアで目的を果たせない場合には、西アフリカに渡るよう求めました。   ==============

          <アメリ司令官が見過ごす兵士の心>

バドル軍のアメリ司令官は、十分に勝算があると考えているが、ISISと戦ってきた兵士たちの心は暗い。勝利を信じて戦い続ける気力は残っていない。

兵士の心情を伝えるワシントン・ポストの記事を抜粋する。

====戦士者の数が多いので、攻撃は中止された。志願兵たちは、最後の大攻勢に向けて心の準備ができているか、危ぶまれている。ナジャフの墓地に向かって絶え間なく運ばれてくる棺の数が、攻撃中止の理由を物語っている。墓地の労働者によれば、毎日60人の戦死者が運ばれて来るという(15日の時点)。

          

                               (写真)Jaber alHelo  AP       

1日の戦闘で100人死ぬこと珍しくなかった、と語る兵士もいる。ISISは待ち伏せが得意であり、政府軍側は死傷者が増える。ISISの捕虜になって、生きたまま焼かれた者もいる。

イラク軍は、ティクリト周辺と市内にあるイスラム国の根拠地をほとんど奪取したが、代償は大きかった。兵士たちは、戦闘は想像以上に過酷だった、と言っている。攻撃が中断し、兵士の士気が落ちている現実を前に、数人の政府の人間が、米国に空爆を要請すべきだ、と言い始めている。

政府は相変わらず強気だが、ティクリート攻撃がつまづいたことは、兵士たちの犠牲の大きさが原因であり、今後の見透しは暗い。兵士なしで戦うのなら別だが。ティクリート戦に決着をつけるのがやっとで、次なるモスルでの勝利は遠のいた。   =========

Iraqi offensive for Tikrit stalls as casualties

貼り付け元  <http://www.washingtonpost.com/world/middle_east/iraqi-offensive-for-tikrit-stalls-as-islamic-state-inflicts-casualties/2015/03/16/258a6dec-cb58-11e4-8730-4f473416e759_story.html>

 シーア派の最高指導者シスターニ師は、戦死者が多いことに留意するよう、軍・政の指導者に注意を促した。

         <当初の作戦が甘かった>

イラク政府は、外国に頼らず、イラク人自らの手でティクリートを取り返す意気込みであった。それが、途中から米国に空爆を要請したのは、親米派の巻き返しというような政治的な理由ではなく、戦場の現実からの必要かもしれない。戦場の過酷さと、戦死者の多さについての記事を紹介したが、そもそも作戦に問題がなかったのか。

 作戦計画の段階で、ある参謀は、米国の空爆が必要であると主張していた。イラク軍のサーディ参謀中将である。彼は14日、自分は最初から米空軍の支援を望んでいた、と語った。「残念なことに、この2週間、米国の航空支援なしに戦わなければならなかった。イラク空軍の爆撃は不正確で、限界がある。米国空軍は世界のトップである。とくに偵察機(AWACS)の情報収集は精密であり、攻撃目標を正確に特定し、破壊する」。

専門家の中にも、米空軍の支援なしの作戦は、そもそも無理があったという見解がある。「イラクの指導部は、戦況についての判断が甘い」。

           

                              (写真) Khalid Mohammed AP

(参考)Al jazeera のいくつかの記事のほか、次のサイトからまとめた。

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スパイカー基地の新兵虐殺  証言2

2015-05-06 00:04:36 | イラク

前回スパイカー基地の新兵が虐殺された事件について書いた。BBCが別の生還者の証言を収録している。この生還者の話を聞くと、生還者は10人以上いるようである。

証言者の名前はサーヘル・アブドル・カリームさんである。

事件の日、スパイカー基地には3千人いたというが、航空兵の数としては、多すぎる。カリームさんの証言で、周辺の地上兵が、事件の前日スパイカー基地に集められたことがわかった。スパイカー基地には一晩泊まっただけで、今度はバグダッドへ移動することになった。バグダッドに向けて出発して間もなく、突然15日間の休暇が与えられた。軍の輸送車を降り、民間人の服に着替え、別の大型トラックの荷台に乗つた。帰省する人間として、サマラに向かう。サマラはティクリートとバグダッドの中間に位置する。出発して間もなく、ISISの車が現れ、トラックごと捕虜となった。

     バグダッドの北方にあるサマラとティクリート      Press TV

    

 (地図の説明) 南端にバグダッドがあり、その北にサマラがある。サマラの北にティクリートがある。

相次ぐ軍の命令には、不自然なものがある。

米国が再建したイラク軍には、不可解な点が多々あり、そのことを理解することが、ISIS問題解決の近道かもしれない。

BBCのドキュメンタリーの中で、カリームさんはアラビア語を話しているが、英文字幕があり、以下に訳した。

ーーーーーーーーーーーー

Bbc Documentary 2015 - ISIS - ON THE FRONTLINE - HD

貼り付け元  <https://www.youtube.com/watch?v=P_CLPBzu-Hs>

 

我々の仲間が殺されたのは、上官たちの裏切りによるものだ。上官と部族はなぜ、このような裏切り行為をしたのだろう。なぜ我々をISISの手に引き渡したのだ。私にはわからない。

私が裏切られたと考える理由は、将軍が我々を基地から追い出したからだ。将軍は我々に移動を命じた。

基地には重砲とその他の武器があった。攻撃されても、我々は反撃できた。どのような攻撃を受けても、反撃できるだけの武器がそろっていたからだ。百人、2百人、あるいは3百人が死んだとしても、戦ったほうがよかった。

それなのに、将軍は我々をISISに引き渡してしまった。「家族のもとに帰れ」と言った。この命令のために、数千人が殺されてしまった。

           <カリームさんの部隊はスパイカー基地に移動>

前日の午後1時、全員の携帯電話がとりあげられた。一人残らず。理由はわからない。そして、スパイカー基地に移動することになった。携帯電話は間もなく戻ってきた。我々はスパイカー基地に着いて、その夜を過ごした。

夜が明け、朝の6時に、「荷物をまとめて、バグダッドに行け」と言われた。我々は、武器と荷物をまとめ、バグダッドへ行く準備をした。荷物は自動車に積んだ。自動車の数台はハマーだった。(ハマーは悪路対応車。タイヤが大きくて車高が高い)

                        ハマー           ウイキペディア

       

 我々は車に乗った。バグダッドへ行くつもりだった。出発すると、車列はあっちへ行ったりこっちへ行ったりしたあげく、停止した。将軍は車列を停止させた後、我々を車から降ろした。車から降りて集合すると、将軍は我々に命じた。「バグダッドへ行く計画は中止になった。軍服を脱いで、民間人の服に着替えよ。武器は置いていくように。諸君に15日間の帰宅休暇を与える。家族のもとに帰りなさい。15日後、バグダッドのタージュ基地に集合しなさい。そこで新しい部隊に配属される予定だが、まだ決定していない。もとの部隊に戻ることになるかもしれない」

我々は、道路は安全か、と将軍に質問した。「部隊と地元の部族が警備しているので、道路は安全だ」という返事だった。部隊には送迎用の民間車があるが、全員同時に使用できる台数はない。将軍は「君たちをサマラまで送って行くように、政府の大型トラックを手配した」と言った。

我々は民間の服に着替え、武器を渡し,幹線道路に向かって歩き出した。幹線道路は、車と人の往来が多かった。その道路を歩いて大学に向かった。私たちをサマラまで送ってくれるトラックは大学の車庫にあるからである。我々は大人数で幹線道路を30~40分歩いた。目的地の大学に着くと、トラックが並んでいた。大部分が政府のトラックだ。そばに立っていた数人の将校が我々に告げた。「ここにならんでいる車が、君たちをサマラやバグダッドに送って行く」。それらのトラックに我々は分乗した。私は順調に事が運んでいると感じた。

           <ISISの登場>

しかしいつの間にか、黒旗を掲げたISISの車が私たちの後ろを走っているではないか。我々はがくぜんとした。彼らは全員武装している。

4人のISISがれわれのトラックに飛び乗ってきた。その中の一人が「メデイアの人間を連れてこい」と言った。カメラを持った人間が来て、我々を撮影した。

撮影が終わると、「車から降りて、一列に並べ」と言われた。車から降りると、ISIS取り囲まれ、なぐられた。なぐられた後、我々は監禁された。

         

                                  (写真)NewYorkTimes

ドアが開く音がして、誰か入ってきた。ティクリート出身の男だった。彼は下級看守に言つた。「全員シーア派かどうか確認したか」。下級看守は「自信がありません」と答えた。すると上級看守の男は我々に向かって、「いいか、よく聞け。誰がスンニで、誰がシーアか調べる。スンニ派は手を上げろ。シーア派なのにスンニ派だと偽った者は死刑だ」と言った。何人かが手を挙げた。しかし最後通牒を聞いて、我々は挙げた手を下した。スンニ派は3~4人しかいなかった。

 私たちは監禁されていたが、ある時私の友人の一人が連れ出された。続いて私の番だ。私を含めた4人が、監禁されている広間から連れ出された。同時に別の広間からも数人が連れ出された。我々は、頭を下げたまま歩けと言われた。

            

                                                                     (写真)NewYorkTimes

大きな広間に着くと、そこにいたISISが「どうしてここに連れて来たんだ。連れ戻せ。ここは死体でいっぱいだ」と言った。我々の上級看守は「今さらそう言われても無理だ」と反論した。「じゃあ、とりあえず塹壕の横へ連れて行け。ここの死体を急いでかたづけるから」。大きな広間の床には、至る所に死体が転がっていた。死体の多くには拷問のあとがあった。多く兵士が頭を強く打たれて死んだ。

私と一緒だった者も、拷問中に突然死んだ。彼は頭を何度も打たれ、私の足元に崩れるようにして死んだ。

 

塹壕に着くと、私たちが乗せられたのと同じような大型トラックがやって来た。荷台は若い兵士でいっぱいだった。トラックが止まると、兵士たちは周辺の様子を見て、恐ろしくなった。あちこちに死体が転がっており、また生きている私たちが血だらけなのを見て、彼らはパニック状態になり、あらゆる方角に逃げ出した。ISISはあわててつかまえようとした。逃げるイラク軍の若者を追って、ISISもあらゆる方角に走り出した。我々の看守はその混乱を見て、気を取られた。私はその時ふと、トラクターが墓をっ掘っていたことを思い出した。生き埋めにしていたのか、死体を埋めていたのか私にはわからない。頭を上げることを許されず、横眼で見ていただけなので、はっきりとはわからない。

我々の看守が逃げた兵士を捕まえるために去って行ったので、我々は死体を埋める溝を飛び越えて、逃げ出した。両手が縛られていなかったので、全力で溝を飛び越え、走ることができた。看守は我々が逃げたのに気づき、発砲し始めた。仲間2人が撃たれて倒れた。ヒッラ市出身のアミールと私は、必死で逃げた。

私は地元のスンニ派の住民に助けを求めた。彼は言つた「スンニ派のふりをしろ。なんとか助けてやる」。そのスンニ派住民のおかげで、無事ティクリートを抜け出すことができた。

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前回と今回の2人の証言者が、どちらもスンニ派の住民に助けられて、脱出している。スンニ派の中にも、シーア派との殺し合いを望まない人間が、かなりいる。今のうちに内戦をやめれば、解決に向かう。スンニ派の死者数が増え、シーア派を憎むスンニ派が圧倒的多数になれば、解決の道はない。

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