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  たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

古代マケドニア王国 4

2025-05-19 04:16:25 | 古代

  〈サラミスの海戦〉
テルモピュラエの戦いが終わり、ギリシャ艦隊はマリアコス湾防衛の任務が 終了し 、彼らはアルテミシウム海峡を去り、サラミスに向った。アテネを脱出する最後のグループを運ぶためだった。航行中にテミストクレスはペルシャ艦隊の中のイオニア地方の部隊に向けて、手紙を書き、飲み水が得られる場所、つまり泉が湧き出ている場所をいくつか教え、寝返りを促した。イオニア地方の住民はギリシャ人なので、寝返ってくれる可能性があった。
ペルシャの地上軍はボイオティアを征服し、アテネに向っていた。アテネの市民はほとんど脱出していたが、最後のグループが残っていた。一方一方ペロポネソス半島の諸都市はコリント地峡でのペロポネソス防衛戦を準備していた。コリント地峡を通る唯一の道路を破壊し、壁を建設した。しかしペルシャの艦隊が地上兵をを運び、防衛線の背後に降ろすなら、地峡での防衛作戦は無意味になるのだった。アテネ市民の救出が完了し、作戦会議が開かれると、コリントの提督はコリント地峡の海上封鎖を主張した。一方、ギリシャ艦隊の指導者テミストクレスはペルシャ艦隊を消滅させることを考えており、次のように述べた。「アルテミシウムの海戦で、接近戦が我々に有利だとわかった。海峡で戦えば、我々は勝てる。ペルシャの艦隊の大部分が消滅すれば、コリント地峡の防衛は容易だ」。
アルテミシウムでは両軍が同数の船を失っているが、ギリシャ艦隊は互角に戦ったとも言えた。またアテネは127隻の半数を失っているが、アルテミシウム戦に参加せず、アッティカ沿岸を警備していた船も多かったので、決戦となるサラミス戦には、アテネの全ての船が参加し、180隻となった。アテネ以外のギリシャの船もアルテミシウム戦の時より多く、全体で370隻となった。アルテミシウムの時は270隻だった。テミストクレスが強気だったのは、彼の性格にもよるが、異常のような背景があった。
会議の出席者はテミストクレスを支持し、ギリシャ艦隊はサラミス島の東岸に停泊した。付け加えると、ギリシャ艦隊の司令官はスパルタ人であるが、テミストクレスは作戦会議をした。
アッティカは南に突き出る半島となっており、半島の東側の大部分はエウボイア海峡に面しており、南部だけエーゲ海に面している。半島の西側はサロニカ湾に面している。サロニカ湾はアッティカとペロポネソス半島の間の海である。アッティカの西側はサロニカ湾に面しているが、半島の付け根にサラミス島があり、島の北と東は海峡になっている。サラミス島の東の対岸にアテネがある。アテネは海峡に近いが海に面してはいない。
数日後、ペルシャ艦隊がサラミス島の近くに現れた。彼らは翌日のの夜明けに攻撃することにした。夜が明けると、ペルシャ艦隊が海峡に入って来た。ギリシャ艦隊は戦う態勢で待ち構えていた。ギリシャの乗り組員は勇敢な祖先を見習い、同胞とギリシャの未来のために戦うつもりだった。アルテミシウム戦の時、ギリシャの艦隊は一列に半円上状に並んだが、サラミスは狭い海峡だったので、ギリシャの船は2列に並んだ。ペルシャ艦隊は海峡に入ったが、狭い海域でぎゅうぎゅう詰めになり、自由な動きが制限された。ギリシャの艦隊は敵を見て急に後退した。彼らは朝風の吹くのを待って、戦闘開始を遅らせようとしたのだった。ところが、一隻だけは後退せず、ペルシャの船に向って行き、衝角をぶつけた。これを見て、他の船も朝風を待たずに攻撃を開始した。ペルシャの最前列の船は後退し、2列目と3列目の船の進行の邪魔になった。ペルシャの船は動きが遅くなった。戦闘開始から間もなく、ペルシャ艦隊の提督アリアビグネス(クセルクセスの弟)が戦死した。彼の船に織り移ったアテネの重装歩兵によって殺されたと言われている。アテネの船には歩兵が乗っており、その一人がアリアビグネスに槍を突き刺し、海に突き落とした。アナトリア西岸の都市ハリカルナッソスの女王が彼の死体を見た。女王はカリア地方の艦隊の指揮官であり、彼女の船はアテネの船に追いかけられていた。彼女は味方の船に昇格をぶつけた。これを見たアテネの船の艦長は彼女の船を味方だと判断し、追跡をやめた。司令官である大王の弟を失ったペルシャ軍は混乱した。フェニキア艦隊は海岸まで押し押し流され、多くの船が座礁した。ギリシャの戦列の中央部分がペルシャの戦列を突破して進み、ペルシャ艦隊は左右に2分された。
ぺルシャ艦隊は劣勢となったが、ハリカルナッソスの女性艦長は果敢にギリシャの船を攻撃した。彼女はアテネの船から逃げ切ると、戦いを再開したのである。彼女を高く評価した大王クセルクセスの言葉が残っている。「私の艦長たちは女みたいだが、女の艦長は男みたいだ」。
ペルシャ艦隊は南に向かって逃げたが、アエギナの艦隊が彼らを攻撃した。(アエギナ島はサラミス島の南に浮かぶ島)。
戦意を失ったペルシャ艦隊はアッティカのファレルムの港に避難した。ファレルムにはペルシャの地上軍の一部が残留していた。
ペルシャ艦隊は200ー300隻の船を失った。彼らは以前2回の嵐で600隻失っており、アルテミシウムで70-100隻失っている。1200隻でギリシャに向かったのに、現在は300隻以下になった。残った船の中には帰国を考える艦長もいて、海戦は終了した。
最後にペルシャ艦隊とギリシャの艦隊について補足する。ギリシャに向かったペルシャ艦隊は数が多いだけでなく、乗り組員は熟練しており、彼らの船はスピ-ドをがあった。彼らは船の先端の衝角を敵の船の横腹にぶつけ、沈めたり、オール(櫂:かい)を支える部分を破壊し、航行不能にすることができた。広い海域であれば、彼らは有利だったが、サラミス海峡は狭く、自由に動けなかった。ギリシャ艦隊の中心となるアテネはペルシャとの戦争に備え、急いで戦闘艦隊を建設したのだった。彼らの船は大きく、頑丈だったが、スピードが遅かった。乗組員は経験が浅く、操船術ではペルシャの船員に遠く及ばなかったが、ギリシャの船には武装した地上兵が乗っており、敵の船に近づと彼らは敵の船に乗り移り、海賊のように、敵の船と漕ぎ手を手に入れた。ギリシャの船も衝角攻撃ができたが、スピードが出ないので、敵に逃げられてしまうのだった。主な動力は漕ぎ手によるが、帆がついており、順風であれば、スピードが加わり、衝角攻撃ができた。両軍の船の特徴はこのように伝えられているが、実際の海戦でどのように戦われたのか、わずかしかわからない。

     【最後の地上戦】
  〈プラタイアの戦い〉  
      Battle of Plataea/wikipedia

最後の陸戦を書く前に、これまでの経緯をまとめておく。

テルモピュラエで勝利したペルシャ軍は、続いてボイオティアに向かった。テーベは戦わずして降伏し、テーベの西の都市テスピアとテーベの南東の都市プラタイアが交戦したが、敗れた。次にペルシャ軍はアテネに向かった。アテネの市民はすでに脱出していて、少数のアテネ兵がアクロポリスの丘に立てこもり、抗戦したが敗れた。アクロポリスの丘に立つ神殿は破壊された。アテネの建築を代表するパルテノン神殿とアテナの神殿が破壊され、丘のふもとの町は焼かれた。
まだ征服されていないペロポネソスの諸都市は防衛戦の準備を始めた。ギリシャの中央部からペロポネソス半島に至る唯一の道であるコリント地峡を遮断すれば、半島は守られるのであり、道路を破壊し、壁を建設し、ギリシャ軍が集結した。しかしクセルクセスにはペロポネソス半島を征服する意図がなく、ペルシャ軍はボイオティアとテッサリアで冬を過ごした。ペルシャ軍がコリント地峡に来ないとわかったので、ペロポネソス防衛のために集結したギリシャの部隊は解散した。
間もなくサラミス海峡の海戦が始まり、ギリシャ艦隊が勝利した。
ギリシャ艦隊がダーダネルス海峡を渡る橋を破壊したら、ペルシャの地上軍はトラキアで犬死することになる。ダーダネルス海峡に橋はなく、ダーダネルス海峡には橋がなく、船を並べた臨時の橋であり、簡単に破壊できた。そうなる前にクセルクセスは海峡を渡ることにした。彼は多くの兵とともに、トラキアに向かった。クセルクセスが信頼する将軍マルドニウスは志願してギリシャに残り、以後彼がペルシャ軍の司令官になった。クセルクセスが去った時、マルドニウスと残留部隊はテッサリアにいた。マルドニウスはペロポネソスを征服しても意味がないと考えていた。彼が重視したのは、ギリシャ本土の支配であり、そのためにはギリシャの艦隊を無力化する必要があった。アテネの艦隊を離脱させれば、ギリシャ艦隊は骨抜きになるので、マルドニウスは好条件を提示して、アテネを懐柔することにした。「ペルシャとの和平を受け入れ、アテネの艦隊を同盟軍から離脱させるなら、アテネは大幅な自治を認められ、肥沃な土地を与えられるだろう」。
アテネに降伏を勧める仲介者として、マルドニウスはマケドニアのアレクサンドロス1世を派遣した。アテネはスパルタの代表を同席させ、アレクサンドロス1世の話を聞いた。アテネはペルシャとの和平を拒否した。マルドニウスは再びアテネに軍を進めた。一部の市民はアテネに戻っていたが、彼らは再び脱出した。ペルシャ軍は再びアテネを破壊した。ペルセポリスの神殿はすでに破壊されており、今回はふもとの町が徹底的に破壊され、アテネの市内は更地となった。マルドニウスはサラミス島に避難したアテネ人に再び降伏を求めた。アテネはスパルタに急使を送り、「スパルタが一緒に戦ってくれないなら、我々は降伏する」と伝えた。これは6月である。スパルタは祝祭をやっていて、10日たってもも返事をしなかった。アテネが返事を催促すると、スパルタの統治者5人委員は「我々の軍隊はすでに出発した」と答えた。スパルタとアテネを中心に、ペルシャ軍と戦うことが決まった。その後多くの国が参加し、総勢38,000となった。スパルタ、アテネ、コリント、メガラが中心となった。テッサリア、ボイオティア、マケドニアはペルシャ側で戦った。ペロポネソス半島の北部はギリシャ軍の拠点となり、ギリシャ軍はここから出発して、コリント地峡からボイオティア南西部に向かった。

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古代マケドニア王国 3

2025-05-12 13:13:21 | 古代

戦闘開始の初日、2回の戦闘でペルシャ軍は多くの兵を失った。クセルクセスは「敵の兵士も負傷し、戦闘不能になったに違いない」と考えた。ギリシャ軍は兵の数が少ないので、次の一押しで勝利できるだろうと考え、翌日クセルクセスは前日と同じように部隊を繰り出した。しかし前日同様、ペルシャ軍は兵を失うだけで、隘路を突破できなかった。クセルクセスは落胆し、攻撃をあきらめ、部隊を後方の陣地に引きあげた。その日の午後、クセルクセスが打開策を考えていると、トラキア人が耳寄りな情報をもたらした。山側の道を通れば、テルモピュラエの隘路の背後に出ることができる、ということだった。トラキア人は案内人を提供してくれた。このトラキア人の名前はギリシャ人の間で「悪夢」および「裏切り者」の同意語となった。
その日の夕方、クセルクセスは「不滅の部隊」を山越えの道に派遣した。20,000の部隊がアノペと呼ばれる尾根を進んだ。しばらくして山道は2つに分かれ、一方はフォキスに向かい、他方はマリアコス湾に向かっていた。マケドニア軍はマリアコス湾に向かう道を選んだ。
戦闘3日目、テルモピュラエの南側の山中で防衛していたフォキスの部隊は樫の木の葉音を聞き、ペルシャ軍が来るのに気づいた。彼らは驚いて立ち上がった。ペルシャ軍の司令官ヒダルネスも敵の存在に気づき、身構えた。最初ヒダルネスは敵をスパルタ兵と考えて、警戒したが、案内人からフォキス兵だと教えられて安心した。フォキスの部隊は急いで近くの丘に移動した。ペルシャ軍は一斉に矢を放っただけで、それ以上攻撃しなかった。彼らは少数の敵を無視して山道を先に進んだ。ペルシャ軍にとってテルモピュラエの背後に到着することが重要であり、無駄に時間を失いたくなかった。フォキス兵の役目はペルシャ軍の侵攻を止めることだったが、何もせずに敵を通してしまった。
急使がテルモピュラエのギリシャ軍のところにやってきて、ペルシャ軍が山道を進んでおり、フォキスの部隊は進軍を止められなかった、と伝えた。翌日の夜明けに、レオニダスは作戦会議を開いた。アイオリス地方(アナトリアのエーゲ海沿岸部)出身のペルシャ人が「今回のペルシャ軍は10年前とは違い、大軍だ」と警告したこともあり、いくつかの都市が撤退を主張したが、レオニダスは戦争継続を訴えた。間もなく、ギリシャ軍の背後にペルシャ軍が現れた。レオニダスが「撤退したい者は撤退してよい」と述べたので、多くのギリシャ兵が撤退した。残ったギリシャ兵は2,000人だけだった。残留兵の中心はスパルタ人であり、他の残留兵はボイオティアのテスピアの兵士700人、テーベの兵士400人、人数不明のスパルタの隷属部族の兵士たちだった。彼らは敗北を覚悟しながら背後の敵に向かって行った。ボイオティアのテスピアとテーベの兵士たちは祖国を守るために死をいとわなかったのであり、スパルタ人はギリシャのために戦った。「スパルタ兵は撤退しない」という伝説はこの時生まれた。レオニダスたちが最後まで戦い、敵軍を引き付けたので、他のギリシャ兵が逃げることができた。その結果一定数のギリシャ兵が温存され、彼らは次の戦いの勝利に貢献した。

勝利したペルシャ軍はボイオティアに進み、ほとんどの都市を攻略し、ボイオティアは降伏した。次にペルシャ軍はアテネに向かった。アテネの市民は艦船によって救出され、サラミス島に避難したが、パルテノン神殿は破壊された。

    【海上の戦い】
  〈アルテミシウムの海戦〉
       Battle of Artemisium/wikipedia                                                                                                                ペルシャ艦隊は陸上部隊と並行して南下していたが、テッサリア南部の沖で嵐に会った。嵐は2日間続き、彼らは1200隻の艦船の三分の一を失った。
モピュラエの戦いが始まる前日、残りの艦隊がエウボイア島の北端のアルテミシウム岬に達した。


敵が2回の嵐にあっている間、ギリシャの艦隊はエウボイア島の西側のエウボイア湾で待機していいたが、嵐が去ると、テルモピュラエへの入り口であるアルテミシウム海峡を封鎖するため、北上した。彼らの目的はペルシャ艦隊がテルモピュラエに近づけないことだった。アルテミシウム海峡の南はエウボイア海峡であるが、南に行かず、西に進むとマリアコス湾に入り、湾の奥にテルモピュラエがある。アルテミシウム海峡の防衛については、反対意見もあった。ペルシャの大艦隊と戦っても負けるだけだ、と考える艦長も多かったが、エウボイア島の代表はこの作戦を強く支持した。ギリシャ艦隊が戦わなければ、エウボイア島はぺルシャ人によって占領されるからだった。この作戦を考えたペリクレスは作戦の必要性を再度説明し、ギリシャ艦隊はアルテミシウム海峡の防衛を継続することになった。ペリクレスは説得しただけでなく、賄賂を渡したとも言われている。
翌日テルモピュラエでは、ペルシャの長槍部隊が攻撃を開始した。彼らは5日前に到着していたが、ギリシャ軍が戦わずして撤退するのを三日間待った。いた。最後の二日間は嵐になり、攻撃できなかったのである。
ペルシャの長槍部隊が攻撃を開始した日、ペルシャ艦隊はアルテミシウム岬の北東の島に到着し、島の沿岸に停泊した。この時15隻のペルシャの艦艇が別行動をし、アルテミシウス海峡に入って来た。ギリシャの艦隊はこれらの船を捕獲した。

しばらくして、ペルシャ艦隊のギリシャ人の乗組員が泳いで脱走してきて、ペルシャ艦隊の作戦について情報をもたらした。
「ペルシャの大部分の船が修理中であり、活動できる200隻の艦艇はエウボイア島の外側(東側)にいて、エウボイア海峡から出て來るギリシャの船を見張っている。ペルシャ側はまだ戦うつもりがない。彼らは『ギリシャ艦隊は戦わずに逃げるだろう』と考えている。逃げてきたところを補足するつもりだ」。
ペルシャ海軍の200隻が本隊から分離しているなら、ギリシャ艦隊にとってチャンスだった。ギリシャ艦隊は敵の200隻を攻撃をすることにしたが、ペルシャ艦隊全部と戦うのを恐れていた。それで彼らは夕方まで待った。ペルシャ軍の200隻はエウボイア海峡の東側を見張っているということであるが、エウボイア島は南北に長く、彼らがどこにいるか、わからない。南の出口の西側の陸地はアッティカであり、ギリシャ艦隊の一部がアッティカの沿岸を見張って航行している。彼らが偶然に200隻のペルシャ艦艇を発見すれば、挟み撃ちを実現できるが、出会う確率は低い。アッティカ防衛のギリシャ艦隊はアッティカの長い海岸線を航行しているからである。ギリシャ艦隊は夕暮れ前に、アルテミシウム海峡(北の出口)からわずかに出て、自分たちがアルテミシウム海峡から逃げ出すつもりがないことを示すことにした。これは、分離行動をしている200隻に、自分たちの位置を知らせるためだった。ついでにギリシャの指揮官たちはペルシャの乗組員の操船術の練度と戦術を確かめるつもりだった。彼らはペルシャの200隻と戦おうとしていただけで、まだペルシャ艦隊全部と戦うつもりはなかった。ギリシャ艦隊は数が少なかった。ギリシャ臘艦隊の総数は270隻であるが、一部はアッティカの沿岸を監視していた。もしペルシャ艦隊の主力が出てきたとしても、間もなく夜になり、戦闘にはならないだろう。ギリシャ側の思惑は外れ、全面戦争となった。
 ギリシャ艦隊が海峡から出てくるのを発見すると、ペルシャ艦隊は、夕方にもかかわらず、攻撃することにした。「ペルシャ艦隊の多くは整備中」という情報は正しく、北東の島に残っていた船も多かった。ペルシャ艦隊のフェニキアとエジプトの部隊の乗組員は船の操縦に熟練していた。彼らは勝利を確信して、ギリシャ艦隊に向かって高速で進んだ。ギリシャの艦船は扇のような陣形を組んだ。船尾を扇のかなめの方に向け、船首を外に向けた。この時代の戦艦の船首の底部は突き棒になっており、これを敵の船の横腹にぶつけて穴をあけるのである。ギリシャの船が巧妙な防衛態勢を取っているので、ペルシャ艦隊は戸惑った。するとギリシャの艦隊は防衛体制から攻撃に転じた。不意を突かれたペルシャ艦隊は30隻の船を捕獲されたり、沈められたりした。間もなく夜になり、戦闘が終わった。夜の間に嵐となり、エウボイア島の東側にいたペルシャの200隻が岩場に流され、難破した。小さな勝利に続き、狙っていた200隻が自滅したので、ギリシャ海軍にとって幸運が続いた。
翌日、ペルシャの艦隊は姿を見せなかった。航行可能な200隻の難波はペルシャ海軍にとって痛手であり、彼らは船の整備をしなければならなかった。一方で、ギリシャ艦隊にアテネの53隻が加わった。また彼らは敵の200隻の難破を知った。夕方の少し前、ギリシャ艦隊はアルテミシウム海峡を出た。見張りをしていたキリキアの小艦隊に出会い、これらのを破壊して帰った。
3日目、ペルシャの全艦艇が航行可能となり、停泊地から出発した。ギリシャの艦隊はアルテミシウム海峡の入り口で彼らの侵入を防ぐことにした。激しい戦闘が一日続き、ギリシャ艦隊は必死で防衛線を守ろうとした。ペルシャ艦隊は敵を両側から包み込んで、袋たたきにしようとした。夜になり、戦闘が終った。両軍はほぼ同数の船を失ったが、船の総数が少ないギリシャ軍にとって、大きな損失だった。アテネの船の半分が失われた。アテネ艦隊は同盟軍の中で最強であり、同盟軍にとって大きな損失だった。ペルシャ側で最も活躍したのはエジプト艦隊である。エジプトの船には重装歩兵が乗り込んでいて、彼らがアテネの船に飛び移って船員を服従させ、船を捕獲した。アテネの船5隻が奪われた。アルテミシウム海峡に帰ったギリシャ艦隊では、これ以上戦えない、という意見が出て、アルテミシウムから撤退すべきか、について話し合われた。間もなく、テルモピュラエの敗北が伝えられ、地上軍の援護が不要になり、ギリシャ艦隊はアルテミシウムから去った。

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