〈サラミスの海戦〉
テルモピュラエの戦いが終わり、ギリシャ艦隊はマリアコス湾防衛の任務が 終了し 、彼らはアルテミシウム海峡を去り、サラミスに向った。アテネを脱出する最後のグループを運ぶためだった。航行中にテミストクレスはペルシャ艦隊の中のイオニア地方の部隊に向けて、手紙を書き、飲み水が得られる場所、つまり泉が湧き出ている場所をいくつか教え、寝返りを促した。イオニア地方の住民はギリシャ人なので、寝返ってくれる可能性があった。
ペルシャの地上軍はボイオティアを征服し、アテネに向っていた。アテネの市民はほとんど脱出していたが、最後のグループが残っていた。一方一方ペロポネソス半島の諸都市はコリント地峡でのペロポネソス防衛戦を準備していた。コリント地峡を通る唯一の道路を破壊し、壁を建設した。しかしペルシャの艦隊が地上兵をを運び、防衛線の背後に降ろすなら、地峡での防衛作戦は無意味になるのだった。アテネ市民の救出が完了し、作戦会議が開かれると、コリントの提督はコリント地峡の海上封鎖を主張した。一方、ギリシャ艦隊の指導者テミストクレスはペルシャ艦隊を消滅させることを考えており、次のように述べた。「アルテミシウムの海戦で、接近戦が我々に有利だとわかった。海峡で戦えば、我々は勝てる。ペルシャの艦隊の大部分が消滅すれば、コリント地峡の防衛は容易だ」。
アルテミシウムでは両軍が同数の船を失っているが、ギリシャ艦隊は互角に戦ったとも言えた。またアテネは127隻の半数を失っているが、アルテミシウム戦に参加せず、アッティカ沿岸を警備していた船も多かったので、決戦となるサラミス戦には、アテネの全ての船が参加し、180隻となった。アテネ以外のギリシャの船もアルテミシウム戦の時より多く、全体で370隻となった。アルテミシウムの時は270隻だった。テミストクレスが強気だったのは、彼の性格にもよるが、異常のような背景があった。
会議の出席者はテミストクレスを支持し、ギリシャ艦隊はサラミス島の東岸に停泊した。付け加えると、ギリシャ艦隊の司令官はスパルタ人であるが、テミストクレスは作戦会議を主導した。
アッティカは南に突き出る半島となっており、半島の東側の大部分はエウボイア海峡に面しており、南部だけエーゲ海に面している。半島の西側はサロニカ湾に面している。サロニカ湾はアッティカとペロポネソス半島の間の海である。アッティカの西側はサロニカ湾に面しているが、半島の付け根にサラミス島があり、島の北と東は海峡になっている。サラミス島の東の対岸にアテネがある。アテネは海峡に近いが海に面してはいない。
数日後、ペルシャ艦隊がサラミス島の近くに現れた。彼らは翌日のの夜明けに攻撃することにした。夜が明けると、ペルシャ艦隊が海峡に入って来た。ギリシャ艦隊は戦う態勢で待ち構えていた。ギリシャの乗り組員は勇敢な祖先を見習い、同胞とギリシャの未来のために戦うつもりだった。アルテミシウム戦の時、ギリシャの艦隊は一列に半円上状に並んだが、サラミスは狭い海峡だったので、ギリシャの船は2列に並んだ。ペルシャ艦隊は海峡に入ったが、狭い海域でぎゅうぎゅう詰めになり、自由な動きが制限された。ギリシャの艦隊は敵を見て急に後退した。彼らは朝風の吹くのを待って、戦闘開始を遅らせようとしたのだった。ところが、一隻だけは後退せず、ペルシャの船に向って行き、衝角をぶつけた。これを見て、他の船も朝風を待たずに攻撃を開始した。ペルシャの最前列の船は後退し、2列目と3列目の船の進行の邪魔になった。ペルシャの船は動きが遅くなった。戦闘開始から間もなく、ペルシャ艦隊の提督アリアビグネス(クセルクセスの弟)が戦死した。彼の船に織り移ったアテネの重装歩兵によって殺されたと言われている。アテネの船には歩兵が乗っており、その一人がアリアビグネスに槍を突き刺し、海に突き落とした。アナトリア西岸の都市ハリカルナッソスの女王が彼の死体を見た。女王はカリア地方の艦隊の指揮官であり、彼女の船はアテネの船に追いかけられていた。彼女は味方の船に昇格をぶつけた。これを見たアテネの船の艦長は彼女の船を味方だと判断し、追跡をやめた。司令官である大王の弟を失ったペルシャ軍は混乱した。フェニキア艦隊は海岸まで押し押し流され、多くの船が座礁した。ギリシャの戦列の中央部分がペルシャの戦列を突破して進み、ペルシャ艦隊は左右に2分された。
ぺルシャ艦隊は劣勢となったが、ハリカルナッソスの女性艦長は果敢にギリシャの船を攻撃した。彼女はアテネの船から逃げ切ると、戦いを再開したのである。彼女を高く評価した大王クセルクセスの言葉が残っている。「私の艦長たちは女みたいだが、女の艦長は男みたいだ」。
ペルシャ艦隊は南に向かって逃げたが、アエギナの艦隊が彼らを攻撃した。(アエギナ島はサラミス島の南に浮かぶ島)。
戦意を失ったペルシャ艦隊はアッティカのファレルムの港に避難した。ファレルムにはペルシャの地上軍の一部が残留していた。
ペルシャ艦隊は200ー300隻の船を失った。彼らは以前2回の嵐で600隻失っており、アルテミシウムで70-100隻失っている。1200隻でギリシャに向かったのに、現在は300隻以下になった。残った船の中には帰国を考える艦長もいて、海戦は終了した。
最後にペルシャ艦隊とギリシャの艦隊について補足する。ギリシャに向かったペルシャ艦隊は数が多いだけでなく、乗り組員は熟練しており、彼らの船はスピ-ドをがあった。彼らは船の先端の衝角を敵の船の横腹にぶつけ、沈めたり、オール(櫂:かい)を支える部分を破壊し、航行不能にすることができた。広い海域であれば、彼らは有利だったが、サラミス海峡は狭く、自由に動けなかった。ギリシャ艦隊の中心となるアテネはペルシャとの戦争に備え、急いで戦闘艦隊を建設したのだった。彼らの船は大きく、頑丈だったが、スピードが遅かった。乗組員は経験が浅く、操船術ではペルシャの船員に遠く及ばなかったが、ギリシャの船には武装した地上兵が乗っており、敵の船に近づと彼らは敵の船に乗り移り、海賊のように、敵の船と漕ぎ手を手に入れた。ギリシャの船も衝角攻撃ができたが、スピードが出ないので、敵に逃げられてしまうのだった。主な動力は漕ぎ手によるが、帆がついており、順風であれば、スピードが加わり、衝角攻撃ができた。両軍の船の特徴はこのように伝えられているが、実際の海戦でどのように戦われたのか、わずかしかわからない。
【最後の地上戦】
〈プラタイアの戦い〉
Battle of Plataea/wikipedia
最後の陸戦を書く前に、これまでの経緯をまとめておく。
テルモピュラエで勝利したペルシャ軍は、続いてボイオティアに向かった。テーベは戦わずして降伏し、テーベの西の都市テスピアとテーベの南東の都市プラタイアが交戦したが、敗れた。次にペルシャ軍はアテネに向かった。アテネの市民はすでに脱出していて、少数のアテネ兵がアクロポリスの丘に立てこもり、抗戦したが敗れた。アクロポリスの丘に立つ神殿は破壊された。アテネの建築を代表するパルテノン神殿とアテナの神殿が破壊され、丘のふもとの町は焼かれた。
まだ征服されていないペロポネソスの諸都市は防衛戦の準備を始めた。ギリシャの中央部からペロポネソス半島に至る唯一の道であるコリント地峡を遮断すれば、半島は守られるのであり、道路を破壊し、壁を建設し、ギリシャ軍が集結した。しかしクセルクセスにはペロポネソス半島を征服する意図がなく、ペルシャ軍はボイオティアとテッサリアで冬を過ごした。ペルシャ軍がコリント地峡に来ないとわかったので、ペロポネソス防衛のために集結したギリシャの部隊は解散した。
間もなくサラミス海峡の海戦が始まり、ギリシャ艦隊が勝利した。
ギリシャ艦隊がダーダネルス海峡を渡る橋を破壊したら、ペルシャの地上軍はトラキアで犬死することになる。ダーダネルス海峡に橋はなく、ダーダネルス海峡には橋がなく、船を並べた臨時の橋であり、簡単に破壊できた。そうなる前にクセルクセスは海峡を渡ることにした。彼は多くの兵とともに、トラキアに向かった。クセルクセスが信頼する将軍マルドニウスは志願してギリシャに残り、以後彼がペルシャ軍の司令官になった。クセルクセスが去った時、マルドニウスと残留部隊はテッサリアにいた。マルドニウスはペロポネソスを征服しても意味がないと考えていた。彼が重視したのは、ギリシャ本土の支配であり、そのためにはギリシャの艦隊を無力化する必要があった。アテネの艦隊を離脱させれば、ギリシャ艦隊は骨抜きになるので、マルドニウスは好条件を提示して、アテネを懐柔することにした。「ペルシャとの和平を受け入れ、アテネの艦隊を同盟軍から離脱させるなら、アテネは大幅な自治を認められ、肥沃な土地を与えられるだろう」。
アテネに降伏を勧める仲介者として、マルドニウスはマケドニアのアレクサンドロス1世を派遣した。アテネはスパルタの代表を同席させ、アレクサンドロス1世の話を聞いた。アテネはペルシャとの和平を拒否した。マルドニウスは再びアテネに軍を進めた。一部の市民はアテネに戻っていたが、彼らは再び脱出した。ペルシャ軍は再びアテネを破壊した。ペルセポリスの神殿はすでに破壊されており、今回はふもとの町が徹底的に破壊され、アテネの市内は更地となった。マルドニウスはサラミス島に避難したアテネ人に再び降伏を求めた。アテネはスパルタに急使を送り、「スパルタが一緒に戦ってくれないなら、我々は降伏する」と伝えた。これは6月である。スパルタは祝祭をやっていて、10日たってもも返事をしなかった。アテネが返事を催促すると、スパルタの統治者5人委員は「我々の軍隊はすでに出発した」と答えた。スパルタとアテネを中心に、ペルシャ軍と戦うことが決まった。その後多くの国が参加し、総勢38,000となった。スパルタ、アテネ、コリント、メガラが中心となった。テッサリア、ボイオティア、マケドニアはペルシャ側で戦った。ペロポネソス半島の北部はギリシャ軍の拠点となり、ギリシャ軍はここから出発して、コリント地峡からボイオティア南西部に向かった。