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アントニウスとオクタウィアヌス ①カエサル死後

2019-05-17 20:55:48 | 世界史

紀元前44年3月15日カエサルは元老院の共和主義者によって殺害された。カエサルは軍隊の力を背景に独裁的な権力を持つようになっており、ローマの伝統的な共和制の破壊者と見られていた。カエサルが殺害されると、アントニウスはローマから逃げた。カエサル派に対する粛清の始まりだと考えたからである。アントニウスはカエサルの副将であり、カエサル派のナンバー2だったので、彼の命も危なかった。しかし共和派の陰謀はカエサル一人の殺害で終了したようなので、アントニウスはローマに戻った。

カエサルを殺害したグループは「解放者」と自称し、カピトールの丘にたてこもった。彼らは法の裁きとカエサル派の復讐を恐れていた。彼らはは特にアントニウスを恐れていた。カエサルが指揮した戦争において、危険な場面では、アントニウスが先陣を務めた。アントニウスが復讐を決意したなら、彼らの運命は尽きるであろう。カエサルを殺害した人々は「カエサルが死ねば、共和制が再建されるだろう」と考えたていた。しかし中産階級と下層階級は熱狂的にカエサルを支持しており、少数の貴族が彼らの英雄を殺したことを知ると、彼らはとても怒った。こうした状況を背景に、今やカエサルの後継者であるアントニウスは主導権を握った。

アントニウスは執政官であり、公的な立場からも、指導者となる要件を満たしていた。執政官は2人であり、もう一人はカエサルだった。カエサルの死後、アントニウスは単独の執政官となった。

 

   

 

アントニウスは執政官の権限で、国家の資金を押さえた。カエサルの未亡人カルプルニアはカエサル個人の証書と莫大な不動産の管理権をアントニウスに渡した。こうして彼女はアントニウスがカエサルの後継者であり、カエサル派の新たな指導者であることを世に示した。

カエサルの死の翌日、アントニウスの騎兵長官レピドゥスは6000人の兵を従えてローマ市内を行進し、秩序を回復する意志を示した。秩序を回復すると言っても、6000人の兵は中立ではなく、カエサル派の味方だった。レピドゥスはカピトリーヌの丘に立てこもる殺人者たちを攻撃しようとしたが、アントニウスは平和的な解決を望んでいたのでレピドゥスを制止した。反カエサル派とカエサル派双方の多くは、内戦を避けたがっており、平和的な解決を望んでいた。

317日(カエサルの死後3日目)、アントニウスの調停の努力により、元老院議員が集り、両派の妥協について話し合った。ローマ市内にはカエサル派の退役兵が集まっていたが、彼らは妥協を受け入れた。

カエサルを殺害した者たちに恩赦が与えられた。それと引き換えに生前のカエサルの行為はすべて承認された。カエサルはたびたび国法を無視する行動をしており、それがカエサル殺害の理由だった。恩赦と引き換えに、カエサルの無法行為を水に流すことになった。カエサルは独善的な行為が多かったとはいえ、カエサル殺害の主犯であるブルートゥスとカッシウスはカエサルに引き立てられて高い地位(法務官)に就いたのである。カエサルの行為が承認されたので、彼らは地位にとどまることができた。

カエサルの死により定員2人の執政官がアントニウス一人となっていたことに関し、アントニウスは補充を認め、共和派のドラベラが新たに執政官となった。ドラベラは共和派の大物キケロの女婿(娘の夫)であり、ドラベラの執政官就任をアントニウスが受け入れたことで、共和派の元老院議員たちは安心した。ローマから逃げていた元老院議員もローマに帰ってきた。彼らはアントニウスの復讐を恐れていたのである。

カエサルを殺害した「解放者」たちは身の安全をされたが、彼らは軍隊を持たず、資金がなく、民衆の支持もなく、処刑されずに済んだことで満足するしかなかった。これと対照的にアントニウスは元老院と妥協することにより、カエサルに代わる新しい指導者になろうとしていた。彼はカエサル派の退役兵を満足させると同時に、元老院の大多数と和解することができた。またカエサルの暗殺犯たちにとって、アントニウスはカエサル派の復讐に対する防波堤となってくれた。

カエサルの死の4日後(3月19日)、カエサルの遺書が開封され、読み上げられた。遺書には次のように書かれていた。「カエサルの姪の息子オクタウィアヌスを養子とし、主要な相続人とする」。

当時マケドニアにいた19歳の若者がカエサルのユリウス氏族の一員となり、ローマの養子縁組の慣習に従い、ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスと改名した。アントニウスも遺産の一部を受け取ることになった。カエサルの妻カルプルニアはアントニウスがカエサルの後継者であると考えていたが、カエサルの遺書はオクタウィアヌスを相続人としており、矛盾があった。しかしオクタウィアヌスはまだ若かったので、現時点でアントニウスのライバルとなることはなさそうだった。オクタウィアヌスは19歳であり、軍事指揮官としての能力はなく、複雑なローマの政治についても未経験だった。

アントニウスによって恩赦をを与えられた殺人者たちの中で、主犯格のブルートゥスはアントニウスに感謝の意を示し、カエサルの葬儀を公式におこなうこと、また遺書が有効であることを認めた。主犯格のカッシウスと反カエサル派の急先鋒であるキケロはこれに反対したが、ブルートゥスは聞き入れなかった。

320日カエサルの葬儀がおこなわれた。

 

 

カエサルの忠実な副官であり、現在は執政官であるアントニウスが喪主を務め、弔辞を述べた。扇動的なスピーチの中で、アントニウスはカエサルの事業を数え上げ、遺書を読み上げ、カエサルがローマ市民に残した遺産について詳しく述べた。それからアントニウスは血の付いたカエサルのトーガ(衣装)をつかみ、民衆に向かって指し示した。これを見た民衆は怒りに燃え、暴動を起こした。中央広場(フォルム)に面した建物のいくつかと、カエサルを殺害した人々の家が焼け落ちた。殺人犯たちは恐怖にとらわれ、国外に脱出した。特に主犯のブルートゥスとカッシウスはローマ市内では身の安全が保障できない状況だった。これを口実にして、アントニウスは彼らから、法務官の職を奪い、彼らをシチリアとアシア(現在のトルコ西部)に送り出した。二人は穀物を調達し、ローマに送る仕事をすることになった。このような仕事はブルートゥスとカッシウスのように高い地位にある者にふさわしくなかった。2人が左遷され、国外に遠ざけられたため、殺人犯への恩赦の約束がかなりの程度反故になった。反カエサル派の重要メンバーが失脚したので、カエサル支持派とのバランスが崩れた。

ブルートゥスとカッシウスは下級役人の仕事をするつもりはなく、シチリアにもアシアにも行かず、ギリシャに向かった。

カエサルの遺言には、オクタウィアヌスが相続人と書かれていたにもかかわらず、アントニウスはカエサル派の指導者として振る舞い、オクタウィアヌスが相続すべきカエサルの遺産を着服した。

カエサルの葬式の日の暴動により、元老院とカエサル派の妥協が敗れかけた。アントニウスの権力は元老院との妥協により成立したのであり、彼の指導的な立場は揺らぎ始めた。アントニウスは崩れた均衡を取り戻そうとした。元老院階級の支持を得るため、彼はアントニウス法を制定し、独裁を廃止した。一方で彼はカエサルの退役兵の人気を得る必要があり、カエサルが残した書類にあったとする法案を制定した。これらの法律の一つは退役兵に土地を与えるものであった。アントニウスの推薦により、レピドゥスが神祇官に就任した。アントニウスはカエサルの軍事面での補佐官であり、レドゥスは行政面での補佐官だった。神祇官はローマの宗教と道徳をつかさどる職であり、現実的な権力はなかったが、権威は高かった。執政官は任期1年だったが、神祇官は終身だった。国王がいないローマでは、神祇官は精神的な面で国家の象徴だった。カエサルがこの地位にあったので、彼の死後、誰がこの地位に就くか、注目された。アントニウスはレピドゥスとの同盟を固めるため、娘アントニアをレピドゥスの息子の妻にした。

カエサルの退役兵6000人はアントニウスの護衛兵となり、アントニウスは自分がカエサルの後継者であることを市民と元老院に示した。カエサルの遺書にはオクタウィアヌスが後継者と書かれていたが、アントニウスは無視した。

 

      《オクタウィアヌス》

  

カエサルが殺害されたとき、オクタウィアヌスはギリシャにいた。3か月後(6月)、オクタウィアヌスはローマに帰り、カエサルの遺産の相続を要求した。アントニウスはすでに地位を固めていたが、オクタウィアヌスはカエサルの息子であり、後継者となる資格があった。ただし彼は経験のない19歳の若者であり、アントニウスに対抗することは容易でなかった。しかし幸いなことに味方が現れた。元老院議員のキケロはアントニウスを危険人物と見ていた。「カエサルという独裁者がこの世から消えても、アントニウスという別の独裁者が生まれたのでは、元も子もない」とキケロは考えていた。

キケロと元老院がアントニウスに警戒感を強めていた時、アントニウスはローマ市民の支持を失う行為をした。シーザーをユピテルやマルスのような神とするという提案に反対したのである。したのである。カエサル派の市民はアントニウスに不満を持った。

 

   

 

ローマに帰ったオクタウィアヌスはカエサルの遺産を渡すよう、アントニウスに要求したが、アントニウスは拒否した。カエサルの遺書にはローマ市民と退役兵士への約束が書かれており、オクタウィアヌスはこれを実行すため巨額の借金をした。また彼は自分の警護隊への給金も借金で賄った。こうしたことにより、カエサル派の支持はアントニウスからオクタウィアヌスに移り始めた。

このように、カエサルが死んだ年の夏には、アントニウスの立場は揺らいでいた。元老院の反カエサル派と市民・軍隊のカエサル派を妥協させることは簡単ではなかった。多くのカエサル派は内戦を恐れていたので、カエサルの殺害者たちへの恩赦をやむを得ないと考えたが、熱心なカエサル派はこれを認めなかった。カエサルの葬式の日に起きた暴動が、カエサル派の心情を表している。民衆の怒りに動揺したアントニウスはあわてて殺人犯への恩赦を撤回し、主犯の2人を左遷した。これは元老院の反カエサル派を怒らせた。元老院の反カエサル派は狂暴である。カエサルを殺したことからも、それがわかる。彼らを抑え込むにはカエサル以上の手練手管が必要である。アントニウスの軍事的な能力は高かったが、政治能力はそれほど高くなかった。彼の能力は戦場で発揮され、カエサル死後、戦争の指揮官としてアントニウスに匹敵する者はいなかった。しかし、対立する政治的党派を妥協させるのは至難の業であり、アントニウスの能力を超えていた。

アントニウスは元老院の反カエサル派と妥協の姿勢を見せたために、本来彼の支持者であるカエサル派の支持者の中でも熱心な人々の信頼を失った。一方でオクタウィアヌスはカエサル派の支持を集め始めていた。彼は軍事と政治に未経験な若者であったが、カエサルの後継者にふさわしい行動をした。オクタウィアヌスは亡きカエサルの意志を受け継ぎ、兵士たちに恩給を与え、ローマの民衆の生活向上に努めた。

    

        《キケロ》

元老院議員のキケロはオクタウィアヌスに接近し、両者はアントニウスに対し協力して戦うことになった。カエサルが死んだ年(紀元前44年)の9月、キケロは元老院でアントニウスを批判する演説をおこなった。これを境にアントニウスと元老院の協力関係は終了し、両者は互いに敵となった。

カエサルが死んだ3月から、キケロがアントニウスを弾劾する9月までの6か月間、キケロがどのように行動したか、振り返ってみたい。

 

    

 

キケロはカエサルの暗殺に関係していなかったが、共和派の重鎮であった。暗殺犯たちは、自分たちの過激な行為がキケロに支持される、と確信していた。主犯の一人であるマルクス・ユリウス・ブルートゥスはカエサルの血がついた短剣を掲げ、「キケロが共和制を復活させるだろう」と叫んだ。紀元前43年2月キケロが暗殺犯の一人(トゥレボニウス)にあてた手紙に、次のように書かれている。

「昨年3月15日の栄光ある挙行に、君たちが私を誘ってくれなかったのは、とても残念だ」。暗殺犯たちはキケロの慎重な性格を知っていたので、キケロを誘わなかった。キケロは反対するだろうと思っていたからである。

カエサル死後の混乱期に、キケロは人気ある指導者になった。彼はアントニウスを軽蔑していた。「カエサルの暗殺者たちが同時にアントニウスを殺さなかったのは残念である」とキケロは言った。キケロはアントニウスの評判を落とすために、あらゆる努力をした。

にもかかわらず、アントニウスは執政官であり、カエサル派大衆の支持があったので、アントニウスを失脚させることは困難だった。とりあえずキケロは現実に妥協せざるを得なかった。アントニウスは暗殺犯の処刑を考えたが、元老院を敵に回す決心ができず、民衆に支持される執政官という立場で満足した。こうしてカエサルの死後、アントニウスとキケロは指指導的な政治家となった。キケロは元老院の代弁者であり、アントニウスはカエサルの後継者としてカエサル派を代表した。

しかしながら、2人の関係は最初から敵対的であった。キケロの発言からもそれは明らかである。

「アントニウスはカエサルの遺言を自分に都合がよいように解釈している」。

4月オクタウィアヌスがギリシャからローマに帰ってくると、キケロはオクタウィアヌスをアントニウスの対抗馬にしようと計画した。

9月になるとキケロはアントニウスを攻撃する演説を開始した。彼は「アントニウスは共和制にとって危険な人物である」と述べた。その一方でキケロはオクタウィアヌスを「神からの贈り物」と称賛し、「彼は名誉を望んでいるだけであり、カエサルの過ちを犯さないだろう」と述べた。

キケロは元老院を反アントニウスでまとめた。この時期のキケロは圧倒的な人気があり、彼に匹敵する政治家はいなかった。アントニウスの立場は弱まった。

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