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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

第一回十字軍 アンティオキア戦④

2019-02-20 19:48:43 | 世界史

十字軍が最初にイスラム教徒から奪還することになった都市、アンティオキアは難攻不落の要塞だった。町の西をオロンテス川が流れ、東側には小高い山(シルピウス山)があったうえに、堅固な城壁で守られていたからである。にもかかわらず、場内の守備兵の裏切りにより、十字軍はアンティオキアの攻略に成功した。

しかしながら、攻略の数日後に、モスルのケルボガ軍を主力とする大勢のトルコ軍が到着し、アンティオキアの十字軍を包囲した。包囲開始の時点で、十字軍はすでに食糧不足に陥っており、包囲開始直後に餓死者が出始めた。十字軍にとって、ろう城は自滅の道に見えた。決死の覚悟で打って出るにしても、城を囲むトルコ軍の数はあまりに多かった。十字軍は完全に行き詰まった。

こうした時絶体絶命の時、天上の神が十字軍を見放していない、と思わせる出来事がアンティオキア場内で起きた。

ペテロ教会の地下で神聖な槍(やり)が発見され、十字軍の中でも信心深いトゥルーズ伯レーモンなどは勇気づけられた。神聖な槍とは十字架のキリストを突いた槍であり、フランク王国の君主や武将に珍重された。この槍の持ち主には神の加護があると信じられ、君主にとっては王権の神聖化に役立った。しかし聖槍はすでに複数発見されており、信ぴょう性は低かった。

十字軍に随行していた聖職者が使徒アンドレの幻視を見た。幻視に聖アンドレが現れ、聖槍が埋められている場所を指し示した。その場所はペテロ教会の聖歌隊の近くだった。レーモンの兵士12人が朝から晩までそこを掘った。かなり深くまで掘った。そしてついにキリストの聖槍を発見した。使徒アンドレのお告げは正しかった。この日は64日だった。兵士たちは喜び、聖槍を祭壇にささげ、神をたたえる聖歌を歌った。

市内は歓喜にわきたち、十字軍の誰もが聖槍を見に来た。ギリシャ人、アルメニア人、シリア人も聖槍を見に来た。

 

しかしながらトルコ軍に包囲された現実は何も変わっていなかった。このままでは空腹がひどくなるだけであり、かといって一一般の兵士の奥は城を出てトルコ軍と戦うのは恐ろしかった。しかし十字軍の指導者たちは聖地エルサレムを解放する決心が固かった。また、恐れを知らぬ戦士であるボエモンのような指導者もいた。弱気な指導者はすでに離脱しており、残った指導者は決死の覚悟を持っていた。彼らが最後に下した決定は、城を出て戦うことだった。戦わずして自滅する道を選ばず、打って出ることに道を切り開こうとした。十字軍とケルボガ軍との戦闘について、年代記は次のように伝えている。

 

======《アンティオキア戦》=======

The Battle for Antioch in the First Crusade (1097-98) according to Peter Tudebode

https://deremilitari.org/2013/11/the-battle-for-antioch-in-the-first-crusade-1097-98-according-to-peter-tudebode/>

 

城を出て戦うことが決まると、十字軍は3日間断食をし、貧しい者たちに施しをした。

十字軍は6つの部隊に分かれた。

①フランドル伯とヴェルマンドア伯ヒューの部隊

②ゴドフロア侯爵の部隊

③ノルマンディー候ロバートの部隊

④ル・ピュイ司教アデマールの部隊(キリストの聖槍保持)とプロヴァンス軍。レーモンの部隊はアンティオキアに残り、山頂の砦からの攻撃に備える。

⑤ボエモンの甥タンクレードの部隊⑥ボエモンの部隊

十字軍に同行していた聖職者たち(司教・司祭・僧)は兵士と一緒に城を出た。彼らは黒服を着て、十字架を掲げ、勝利を祈りながら行進した。

アンティオキアに残る者たちは、城門の近くの壁に並び、出陣する兵士と聖職者を見送った。

十字軍の部隊がつぎつぎに城から出てくるのを見て、ケルボガは次のように命令した。

「まだ攻撃するな。全部の部隊が城を出るのを待て。それから、我々は敵の主力部隊を攻撃する」。

最初に城を出たのはヴェル万ドア伯ヒューとフランドル伯の部隊である。それに続き、残りの部隊が規律正しく行進した。

十字軍のすべての部隊が城を出終わると、その数はケルボガの予想より多かったので、彼は不安になり、野戦軍司令官に命じた。

「敵が発砲し始めたら、すぐに退却しろ」。

ケルボガは負けそうな気がしたのである。ケルボガは山のほうに向かって退却し始めた。十字軍は彼らを追撃した。山のふもとまで退却したトルコ軍はそこで2つに分かれ、半分は地中海へ向かった。ケルボガは十字軍を挟み撃ちにしようとした。ケルボガの意図を見て取り、十字軍は第2軍と3軍の一部を抜き取り、新たに第7軍を編成し、レイナドゥス伯を第7軍の指揮官とした。第7軍は、海のほうに移動したトルコ軍に対処することになった。

戦闘が開始され、海側のトルコ軍は十字軍第7軍に向けて無数の矢を放った。十字軍から多くの犠牲者が出た。十字軍の本隊は山と川の間の、幅2kmの場所に集まった。

一方トルコ軍本隊は退却をやめ、十字軍に向かって進撃してきた。トルコ軍は十字軍を取り囲み、槍と矢を十字軍に向けて放った。

さらに白馬に乗った大勢のトルコ軍が旗を掲げながら、山の上から降りてきた。これを見た十字軍は心の底から震え上がった。しかし白馬の軍団は、十字軍の見方だった。実はこの白馬の軍団は幻視だったが、多くの兵士が、実際に見たと言っている。

海側のトルコ軍は十字軍第7軍に押されて劣勢になり、もはや逃げるしかなくなり、草に火をつけ、それを本隊に知らせた。これを見て山側のトルコ軍本隊は浮足立った。

十字軍本隊はトルコ軍の陣地に進んでいった。トルコ軍は川の土手沿いに陣を敷いており、十字軍はそこに向かった。ゴドフロア候、フランドル伯、ヴェルマンドア伯ヒューは連携し、トルコ軍を攻撃し始めた。この最初の打撃に続き、残りの十字軍部隊も攻撃を始めた。トルコ軍と他のイスラム軍は戦いの叫びの声を上げた。十字軍は神に祈りながら、敵に向かって馬を走らせた。トルコ軍の抵抗は大きかったが、戦闘の末、十字軍が勝利した。

トルコ軍は逃げ出し、十字軍は彼らのテントの所まで追いかけた。そして最後には、十字軍はトルコ軍をタンクレードの砦まで追い詰めた。

 

 (注)十字軍がアンティオキアを攻略する前の話であるが、タンクレードはアンティオキアの南の門の向かいにあった修道院の廃墟を要塞に造り替えた。タンクレードの要塞とはこのこの砦のことである。(注終了)

トルコ軍は金、銀の財宝だけでなく、牛、羊、馬、ロバ、穀物、ワインなどを打ち捨てて逃げた。これらの食糧は十字軍にとって貴重な補給物資となった。

十字軍勝利の噂(うわさ)はすぐに広まり、近隣のアルメニア人やシリア人住民がシルピウス山を包囲し、トルコ軍敗残兵を捕まえたり、殺したりした。

十字軍は勝利に歓喜し、城内に戻った。

山頂の砦を守備していたトルコ軍の司令官は、ケルボガが敗れたことに怒ったが、すぐに恐怖心に打ちひしがれた。彼は十字軍への幸福交渉を始めた。山頂の敵への抑えとして市内に残っていたレーモンはトルコ軍司令官の降伏を受け入れた。山頂の砦に十字軍の旗が掲げられた。その後この司令官はボエモンの臣下になり、キリスト教徒になった。ボエモンは山頂の砦に自分の部下をを新たに配置した。

十字軍の最終的な勝利で終わったこの戦いは、6109868日に起きた。

 

(原文)Peter Tudebode: Historia de Hierosolymitano Itinere 

(出典(Philadelphia: American Philosophical Society, 1974)

===================(年代記終了)

 

トルコ軍に勝利する前から、ボエモンはアンティオキアの支配に執着し、聖地エルサレム開放という十字軍本来の目的に興味を示さなかった。戦闘力が高いボエモン軍を欠いたまま、レーモンとゴドフロアに率いられ、十字軍はエルサレムへ向けて南下した

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第一回十字軍 アンティオキア戦⓷

2019-02-08 20:16:50 | 世界史

 

2回、アンティオキア戦のあらましについて書いた。今回はアンティオキア包囲戦の最終局面について、別の角度から書く。

まず、十字軍を迎えた、当時のセルジューク朝の状況を簡単にまとめておく。次に、十字軍に対する抗戦の最初の英雄となったケルボがケルボガについて説明する。ケモスルの支配者ケルガはアンティオキアの守備軍(トルコ軍)への最後の援軍となった。

 

      《セルジューク朝の分裂》

セルジューク朝の第三代スルタン、マリクシャーの死後、後継争いが起きた。その結果、新スルタンはシリアの支配を失い、かろうじてバグダード以東を支配するだけとなった。年代記は第4

を「ペルシャのスルタン」と呼んでいる。セルジュークトルコの故郷はカスピ海の東方であり、最初イラン北部に進出した。第3代マリク・シャーーの時代にシリアにまで進出したが、第4代スルタンは故郷に最も近いペルシャとその周辺を支配するだけとなった。

 

   

   

 

マリク・シャーは38歳で死亡したため、彼の2人の息子は幼かった。12歳になる長男バルキヤールクと4歳の弟マフムードの間に後継争いが起きた。長男は先妻の子であり、二男は後妻の子である。兄弟が後継争いをしたと言っても、どちらも子供であり、それぞれの背後にいる勢力の争いだった。宰相は長男を支持し、4歳の幼児の実母が息子をスルタンにしようと画策したのである。後妻テルケン・ハトゥンはアッバス朝のカリフに願い出た。カリフは彼女の願いを聞き入れ、4歳のマフムードが第4代スルタンとなった。アッバス朝のカリフに実力はなかったが、権威だけは残っていたので、彼の決定はそれなりに効力があった。

4代カリフに就任したマフムードは2年後、天然痘(とう)で死亡した。そして長男バルキヤールクが第5代スルタンとして即位した。十字軍がアンティオキアに到着した時、バグダード以東を支配していたのがバルキヤールクである。十字軍は彼を「ペルシャのスルタン」と呼んだ。

 

          《ケルボガ》

アンティオキア戦において十字軍に最も脅威を与えたのはケルボガである。

ケルボガは奴隷だったが、傭兵として能力を発揮し、ペルシャのスルタンからからモスルの支配を任されるまでになった。ケルボガはアンティオキア戦においてトルコ側の最強の武将として注目されたが、それ以外に歴史に残る事績は一つしかない。ザンギー朝の創始者を養育したことである。ケルボガはザンギーの育ての親である。ザンギーはケルボガの後継者として、北シリアと北イラクにまたがる地方を支配するようなった。ケルボガ・ザンギーの反十字軍ジハードを受け継いだのがサラディンである。

ケルボガ学校ザンギーを育てることになった経緯は次のようなものである。

それは十字軍が到来する前、第3代スルタン、マリク・シャーが生きていたころの話である…マリク・シャーの弟がシリアで勢力を伸ばしており、しかもこの弟は兄であるスルタンから独立しようとしていた。先ほど私は次のように書いた。

「第3代スルタン、マリク・シャーの死後、セルジューク朝の大スルタンはシリアを失い、バグダード以東を統治する『ペルシャのスルタン』になってしまった」。(上の地図を参照)

実はシリア征服を着々と進めるマリク・シャーの弟トゥトゥシュは、マリク・シャーがまだ生きている時から、大スルタンである兄に離反していたのである。マリク・シャーが死ぬと、トゥトゥシュはスルタンの位を要求した。マリク・シャーの息子2人の後継争いについてはすでに書いたが、マリク・シャーの死後、後継争いをしたのは3人である。

シリアの大部分を手中に収めつつあったトゥトゥシュはアレッポの攻略に成功した。滅ぼされたアレッポの城主の息子は生き延びて、ケルボガにひきとられ、育てられた。この少年が若き日のザンギーである。成人したザンギーは南イラクのバスラの司令官となった。その後大セルジューク朝のスルタンを助けた功績により北イラクのモスルの太守に任命された。彼はモスルを拠点に北シリアに支配を広げた。当時十字軍がシリア西部の地中海沿岸に居座っており、ザンギーは十字軍に対するジハードの指導者となった。北シリアでは、現在も、ザンギーはアラブの英雄としてよく知られており、アレッポを拠点とするイスラム原理主義グループは「ザンギー運動」と名乗っている。

ザンギーのジハードを受け継いだのが、アラブ世界の英雄サラディンである。サラディンは十字軍に対する初期のジハードを継承し、最終的に十字軍に勝利した。英雄サラディーンの父は、ザンギー配下の武将だった。サラディーンの伝記は彼の父がザンギーの部下であったことから始まる。サラディーン自身はザンギーの息子に仕えた。サラディーンの父はザンギー朝の創始者に仕え、サラディーン自身はザンギー朝の2代目に仕えたのである。サラディンはザンギーに 取ってかわったが、ザンギーの反十字軍ジハードを受け継いだ。

以上、第一回十字軍の時のイスラム側の状況を書いた。アンティオキア戦におけるケルボガの話に戻ろう。

ケルボガがアンティオキア守備軍の救援に向かう前に、ダマスカスのドゥカークやアレッポのリドワーンが救援に向かったが、十字軍は戦闘能力が高く、両者は失敗に終わっている。ドゥカークは109712月に敗れ、リドワーン翌年2月に敗れている。

アンティオキア城主ヤギ=シヤーンへの3回目の救援軍となるケルボガが率いた軍は前2者に比べ大軍だった。しかしケルボガが到着した時、すでにアンティオキアは陥落していた。城内の守備兵の一人の裏切りにより、十字軍は簡単に城内に入ることができた。十字軍は難攻不落の城を手に入れ、アンテオィキアに向かっているケルボガの大軍に対し、十字軍は有利な立場に立った。しかしながら十字軍は食糧が不足していた。食糧が不足している状態で籠城を続けるなら自滅するしかない。逃げるなら、ケルボガが到着する前がよいと考え、多くの十字軍兵士が逃亡した。

アンテオィキアに到着したケルボガは攻城を試みたが、無理であると気づき、包囲作戦に切り替えた。ケルボガの軍は人数が多かったので、包囲に抜け穴がなく,有効であった。

ケルボガがアンティオキアに到着するころ、東ローマ皇帝アレクシオスの軍が十字軍の応援に向かっていたが、アンティオキアを包囲するケルボガの軍が非常に多いことを知ると、アレクシオスは犠牲の多い戦いを避けてコンスタンティノープルに帰ってしまった。

十字軍が籠城を続ければ、戦わずして飢え死にするだろう。時間がたつにつれ、十字軍兵士の人数は減っていく。城を出て血路を開くにも、敵は大軍である。この時の十字軍の心境は興味深い。

十字軍に参加した聖職者がアンティオキア戦について書き残しており、その英訳がネットにある。

 

======《アンティオキア戦》=======

The Battle for Antioch in the First Crusade (1097-98) according to Peter Tudebode

https://deremilitari.org/2013/11/the-battle-for-antioch-in-the-first-crusade-1097-98-according-to-peter-tudebode/>

    

 

ヤギ=シヤーンは十字軍による包囲が始まった頃から、大スルタンの軍司令官ケルボガにたびたび使者を送っていた。使者は次のように伝えた。「私は恐ろしいフランク軍に包囲されているので、助けに来てほしい。返礼としてアンティオキアをさしあげるか、それに相当する財貨を渡します」。

ケルボは了承し、北ペルシャから始まる長い旅を開始した。この時までに彼は各地の勢力を配下に置き、大部隊を率いる指揮官となっていた。ケルボガはカリフから十字軍を殺す許可を得た。

(注:カリフはイスラム世界の最高権威であり、アッバス朝のカリフはトルコ人に実権を奪われていたが、まだ存在していた。)                                           

十字軍に対するケルボガのジハードには、各地の地方政権が参加した。エルサレムの司令官やダマスカスの首長をはじめ、イスラム世界各地の部隊が結集した。彼らはトルコ人、アラブ人、クルド人、ペルシャ人、ギリシャ人、レバノンのキリスト教徒などであった。ルーム・セルジュークの部隊3000人も加わっていた。ルーム・セルジュークの部隊は鎧(よろい)と兜(かぶと)を身につけ、彼らの馬も武具をつけていたので、敵の槍(やり)や矢を恐れなかった。彼らは刀だけで戦った。

これらの大軍は侵略者のフランク軍をアンティオキアから追い出すために集まったのである。彼らがアンティオキアに近づくと、すでに戦死したアンティオキアの城主ヤギ・シヤーンの息子シャムス・アッダウラが出迎えた。彼はケルボガのもとへ走り寄り、涙ながらに訴えた。

「不敗の君主ケルボガ様!フランク軍がアンティオキアを占領し、私は山頂の要塞に追い詰められています。彼らに正義の鉄槌(鉄つい)をくだしてください。彼らの目的はシリアの征服です。それにとどまらず、彼らの支配はメソポタミアやペルシャに及ぶかもしれません。彼らは順調に目的を達成しています。彼らは私の父を殺し、次に私を殺すでしょう。彼らはあなたたちをも殺し、イスラム教徒の土地を征服するでしょう」。

ケルボガは次のように答えた。

「私は全力を尽くすつもりだ。ただしフランク人を追い払った後、アンティオキアは私が所有し、私の部下を城内に配置する」。

これに対し、アッダウラが言った。

「もしあなたがすべてのフランク人を殺し、彼らの首を持ってくるなら、私はアンティオキアをあなたに引き渡します。私はあなたに心服し、アンティオキア城を誠実に守るでしょう」。

ケルボガが次のように答えた。

「ぐずぐずと引きのばし、ずるいことを考えてはいけない。城塞を私に渡すとはっきり言いなさい」。

アッダウラはしぶしぶケルボガの要求を受け入れた。

 

十字軍がアンティオキアを攻略してから3日後、ケルボガの先発隊がアンティオキアに姿を現した。ケルボガの本隊はオロンテス川の橋の近くに布陣した。橋のたもとには見張りのための塔があり、少人数の十字軍が橋を防衛していたが、隊長を除く全員がケルボガ軍によって殺された。隊長は鎖につながれて生きており、ケルボガ軍の退却後発見された。

翌日ケルボガの本隊がティオキア城に近づいた。彼らは、オロンテス川と別の川の間に布陣し、2日間ここにとどまった。

 

    

 

(注)オロンテス川はハマ付近の水源から北へ向かって下り,アンティオキアの北側で反転し、今度は南西に向かって流れ、地中海に流れ注いでいる。反転が終了する地点でトルコから南下してきた川がオロンテス川に合流する。(注終了)

 

3日目になり、ケルボガは、戦闘の準備を開始した。大勢のトルコ軍がアンティオキアの城壁の前に集まった。これに対し、城内の十字軍も戦闘の準備をした。十字軍の士気は高く、城を出てトルコ軍を迎え撃ったが、トルコ軍に圧倒され、すぐに城内に戻った。城門が狭く、一度に多くの十字軍兵士が押し寄せたので、押しつぶされて死んだ兵士もいた。

この日十字軍は日暮れまで戦った。翌日も最初城を出て戦い次に、城内に戻り、朝から晩まで戦った。多くの十字軍兵士が死んだ。尊敬されていた騎士の一人も城外で負傷し、城内に運ばれたが、翌日死んだ。彼は城内で死に、ペテロ聖堂の西の門の前に葬られたのでまだよかった。城内の戦士や聖職者はトルコ軍によって首を切り落とされるのを、恐れていた。

エルサレムへの途上で死んだキリスト教徒のために祈ってほしい。

この日の夜、多くの騎士と兵士が秘かに城を出て、徒歩で地中海の港に向かった。彼らはトルコ軍との戦いは過酷で、望みがないと感じたのである。聖シメオン港に着くと、数隻の船が停泊していた。脱走してきた騎士と兵士は波止場にいる船員たちに言った。

「船が来ているとは思わなかった。君たちはどこから来たのか?我々の多くの仲間が死んでしまった。アンティオキアはトルコ軍によって完全に包囲されている。十字軍は全滅するだろう」。

これを聞くと、船員たちは驚き、恐ろしくなり、急いで船に戻り、船は去っていった。この時トルコ兵が現れ、十字軍騎士と兵士を殺してしまった。それからトルコ兵はまだ波止場にいた複数の船に乗り込み、松明の明かりで補給品を探しだし、それらを奪った。

アンティオキアの城内に残った十字軍はトルコ軍と比較すると、少数だった。また武器も劣っていた。それで十字軍は城壁の内側に新たに壁を張り巡らしたうえで、夜も昼もトルコ軍の侵入を見張った。彼らは空腹だったので、馬やロバを殺して食べた。十字軍兵士たちはトルコ軍に殺されることを恐れており、指導的な立場にある騎士たちでさえ脱走を考えていた。

 

  

 

ケルボガは山頂付近の小さな城塞を攻撃の拠点として利用してしていた。

(注)アンティオキアの町はシルピウス山の西側の斜面にあり、東側はシルピウス山の頂上となっている。この頂上付近に小さな砦がある。十字軍はここをまだ攻略していなかった。(注終了)

 

 

 

ある日、トルコ軍兵士が山頂の城塞からアンティオキア市内に侵入しようとした。これを追い払おうとした十字軍との間で小競り合いが起き、十字軍騎士2人が死亡した。残りの一人の騎士が最後まで踏ん張り、トルコ兵を追い払った。

ボエモンとタンクレードは山頂の砦を放置するのは危険だと考え、この砦を攻略しようとしたが、部下たちが応じなかった。部下たちは元城主ヤギ=シヤーンの館に閉じこもり、戦いに出ようとしなかった。ある者たちは腹が減っていたし、他のの者たちはトルコ軍が恐ろしかったのである。ボエモンはふがいない部下たちに腹をたて、ヤギ=シヤーンの館に火をつけた。風にあおられ、館が燃えあがると、部下たちは貴重品だけ持って外に逃げ出した。ある者たちは頂上のほうへ逃げ、他の者たちはゴドフロアが防衛している門のほうへ逃げた。こうして彼らは原隊へ帰った。

ヤギ=シヤーンの館が激しく燃えるのを見たボエモンは聖ペテロ教会とマリア教会に燃え移るのではないかと心配になった。2000の家と小さな教会が燃え尽きてしまったが、しばらくして風がやみ、火はおさまった。

日曜、頂上の砦から出撃するトルコ兵と十字軍の間で戦闘があった。城壁がなかったので、十字軍兵士は自力で戦うしかなかった。

ある時、金の鎧(よろい)をつけた司令官が頂上の砦の前にあらわれた。彼らの後をトルコ兵が馬を引いていたが、馬も同じように膝まで金の防具で覆われていた。十字軍の兵士は朝から晩までトルコ軍と対戦しなければなかったので、パンを食べる暇も水を飲む時間もなかった。十字軍は、自分たちと対照的に、のんびりした様子のトルコ軍司令官にショックを受けた。それで十字軍は壁を築き、さらに小さな城塞と攻撃用の機械を建設した。

 

 

ある日アンティオキアの南西に隕石が落ちた。天から落ちてきた火の玉がトルコ軍の近くに落ちたので、トルコ兵は驚いた。落ちた場所が城壁から近かったので、城内の十字軍も驚いた。トルコ兵は非常におびえて、あちこち逃げ回った。しかしこの事件はトルコ軍による包囲には何の影響もなかった。包囲は完全であり、夜の闇を利用しない限り、十字軍は城外に出ることはできなかった。こうして十字軍は、異教徒であり神の敵であるトルコ軍数十万人によって取り囲まれた。ケルボガの軍のほかに、エルサレム、ダマスカス、アレッポの軍も来ていた。

大軍による包囲が完璧だったので、城内の十字軍の中には飢え死にする者がいた。食物の値段が高騰し、食物を買えない者が死んだ。パンやワインの値段は信じられないほど高額だった。ワインはそもそも残っていなかった。めんどり一羽が金貨15枚で売られた。卵は金貨2枚、木の実一個は1ディナリだったが、小さな山羊一匹は金貨60枚だった。城内の人々はイチジクの葉、つたの葉、木の葉を煮て食べた。6年間乾かされた馬、ラクダ、水牛の革は普通手袋やバンドとして用いられる。しかし十字軍はそれらを2日間煮てから食べた。キリストへの信仰のために、彼らは不安と苦しみに耐えた。エルサレムの聖墳墓教会を解放するための行軍は言葉に尽くせない苦難の旅だった。

ケルボガがアンティオキアに到着する前の話になるが、ブロア伯シュテファンは病気と偽ってアレクサンドレッタに引き返してしまった。彼は大部隊を率いており、十字軍の主要な指導者だったにもかかわらず、逃げてしまた。ケルボガに包囲され、絶望的な状況にあった十字軍は、シュテファンが何かの方法で十字軍を助けてくれることを日々願っていた。シュテファンはアンティオキアが包囲されたと知ると、様子を見にアンティオキアに戻ってきた。シュテファンはこっそり近くの山に登り、トルコ軍の無数のテントを見ると、恐ろしくなり、軍隊を引き連れ急いで逃げてしまった。アレクサンドレッタに戻ると、彼は彼の軍が所有していた物資を船に積み込み、海路で北上した。

 

 

 

 

シュテファンはタルススの近くに上陸し、今度は陸路でコンスタンティノープルに向かった。コンヤの近くまで来ると、偶然東ローマ皇帝に出会った。皇帝は十字軍への救援のため、軍を率いてアンティオキアに向かっていた。シュテファンは皇帝に歩み寄り、周囲の者に聞こえないよう、小声で言った。

「すでにご存じかもしれませんが、報告します。十字軍はアンティオキアの攻略には成功しましたが、山頂の城塞はトルコ軍が占拠したままです。現在十字軍は大勢のトルコ軍によって包囲され、絶望的です。今頃は、全員トルコ軍によって殺されているでしょう。トルコ人たちは勢いがあり、アナトリアに進撃してくるかもしれません。同じ目に合わないよう、さっさと引き返すのが賢明です」。

不安になった皇帝は、相談役に意見を求めた。ボエモンの弟(ギ・ド・オートヴィル)は東ローマの外交官になっており、この時皇帝から相談された一人だった。皇帝の質問に、彼は次のように答えた。

「陛下、現在のような状況ではどうすることもできません。トルコ軍の包囲は完璧です。十字軍は殺されるか、捕虜になっているでしょう。不幸な伯爵の言うことを信じ、引き返したほうがよいと思います」。

皇帝に返答する時、ボエモンの弟は感情を抑えていたが、十字軍の絶望的な状況を知り、彼は悲しみに打ちひしがれていた。彼は泣きながら言った。

「このようなことが起きてよいだろうか?神はなぜキリスト教徒を見捨てたのだろう。キリストの墳墓を開放する事業を神が見捨てるなら、キリスト教徒は神を信じないだろう。今後誰も心の中で神に呼びかけないだろう」。

誰もボエモンの弟を慰めることはできなかった。彼は泣きながら続けた。

「南イタリアの英雄ボエモンが死ぬなんて! 武勇で知られ、人々から恐れられ、愛されたボエモン!私は二度と正直そうな彼の顔を見ることができない。尊敬する兄さん!」

皇帝アレクシオスは弱気なシュテファンの言うことを信じ、トルコ軍のアナトリア進撃に備え、対策を講じた。皇帝は街道とその周辺を焼き払うことを命じた。住民をブルガリアへ移住させ、食糧と財貨も移動させ、街道沿いには何も残らなかった。

アンティオキアから逃げてきた十字軍は落胆しながら、コンスタンチノープルに向かった。十字軍と一緒に旅をしていた巡礼者の多くは、栄養不足と病気で体力を失い、十字軍から遅れ、路上に倒れ、そのまま死んだ。

=======================(次回に続く)

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