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シリア・アラブ王国(1919年7月ー1920年7月)②

2018-10-28 17:30:21 | シリア内戦

第一次大戦中の1915年エジプトの英軍はパレスチナとシリアの攻略を計画していたが、戦いを有利に進めるため、アラブ軍をゲリラ部隊として利用することにした。アラブ軍の貢献に対する代償として英国はメッカのハーシム家にアラブの独立を約束した。同時期英国はトルコの分割について、フランスと話し合っていた。分割案によればフランスがシリアとレバノンを獲得することになっていた。

 

国はフランスとアラブの両者にシリアを与える約束をした。フランスもアラブもシリアの半分を得て満足するつもりはなく、結局両者の戦争によって決着がついた。フランスが勝利し、シリアは敗北した。シリアの独立は1年で終了した。

メッカのハーシム家のフサイン・アリーは全アラブの独立を要求していたが、アラブ軍の進撃路はメッカからダマスカスに至るものであり、現実問題として、独立アラブの領域はメッカを中心とする地方(ヒジャース)とシリアに限られた。

英国はフランスにシリアを与える約束しており、これとシリアの独立は矛盾する。そのためシリアは独立を達成したが、独立は1年で消滅した。大国フランスの意志が貫徹し、シリアはフランス領となった。

前回はアラブの反乱から独立までの流れを書いた。それに続くアラブの独立とその消滅については、ウィキぺディディア(英語版)の「シリア・アラブ王国」を訳す。

======《The Arab Kingdom of Syria》=======

                              wikipedia

           〈アラブ軍がダマスカスに入場〉

1918年9月19日エジプトの英軍とシリアを防衛していたトルコ軍の間で戦闘が始まった。これはシリアをめぐって双方が激突した決戦である。戦闘は一週間で終わり、26日トルコ軍は敗退した。勝利した英軍は1918年9月30日ダマスカスに入場した。続いて10月3日アラブ軍がダマスカスに入った。ダマスカスに入場したアラブ軍はただちに(10月5日)、臨時政府を立ち上げた。アラブ軍を率いたファイサル・アリーが臨時政府の代表になった。ファイサルは「宗教による差別のない、正義と平等に基づく国家の樹立」を宣言した。英国のエジプト派遣軍の司令官アレンビー将軍はファイサルの臨時政府を承認した。しかしフランスは反発していた。英国の後見によりシリアに新政府が誕生したことに、フランスの首相クレマンソーは怒った。ファイサルの政府はあくまで臨時に過ぎないとして、英国はフランスをなだめた。しかしフランスと英国の関係は緊張した。

ファイサルはダマスカス入場後アレンビー将軍から英国とフランスの間の秘密協定について知らされた。英国の裏切りはファイサルにとって衝撃だった。しかしながら彼の臨時政府が成立しており、フランスの反対を押し切れるだろうとファイサルは考えた。英国はフランスとの約束を無視するだろう、と彼は甘く見ていた。新政府樹立はアラブの反乱に参加した将兵にとって苦労の末に得た成果だった。シリア人はアラブの独立が達成されたので、ファイサルの臨時政府を熱烈に支持していた。

         〈パリの講和会議でフランスとアラブが対立〉

1919年のパリの講和会議ではオスマン帝国の分割が議題となり、戦勝国の間での取り分が話し合われた。フランスと英国の議論は白熱した。(1919年)5月の話し合いで、サイクス・ピコ協定が一部変更された。フランスはイラク北部のモスルを英国に譲る代償として、シリアをフランス領とすることを再確認した。同じころシリアをめぐるアラブとフランスの対立がのっぴきならないのを見た米国が両者の調停に乗り出し、住民の意向を調査することを提案した。調査の結果は1922年まで発表されなかった。調査結果によれば、大多数がシリアの独立を支持し、フランスの支配を拒否していた。

 

          〈シリア・アラブ王国の成立〉

パリ講和会議の様子を見て、シリア国民は独立を固める必要を感じ、国民議会の開催を準備した。アラブ青年協会などの民族主義的なグループはシリアの完全な独立を主張した。米国が主導する調停委員会はシリアの独立を支持した。選挙がおこなわれ、シリア各地の代表がダマスカスに集まった。レバノンとパレスチナの代表も参加した。フランスが国民議会の開催を妨害しようとしたため、ダマスカスに来れなかった代表もいた。

1919年6月3日シリアで最初となる正式な国民議会が開催された。アラブ青年協会に所属するハシム・アタシが議長に選出された。6月25日調停委員会がダマスカスに到着すると、「独立か死か」と書かれたビラがまかれた。

7月2日国民議会はシリアの完全な独立を議決した。ファイサルを国王とする立憲王政の国家が成立した。議会はフランスの主張を拒否し、米国に支援を求めた。しかし英国または米国が助けててくれるだろうというファイサルの期待は裏切られた。英軍がシリアから撤退し、代わってフランス軍がシリアに進駐した。

       

1920年1月、ファイサルはフランスと交渉せざるを得なかった。交渉の結果、シリア王国の存立は認められたが、シリアはフランスの保護国となった。シリア政府はフランス人顧問と専門家を受け入れることになった。

ファイサルを支持するシリアの人々は完全独立を求めており、ファイサルの譲歩に反対した。彼らはフランスとの約束を撤回するよう、ファイサルに迫った。その結果ファイサルはフランスとの約束を撤回した。これと同時にフランス軍に対するテロが始まった。

1920年3月シリアの議会が開催され、議会は再び独立シリア王国の成立を宣言した。ハシム・アタシが首相となり、ユースフ・アズマが戦争大臣兼参謀長となった。

英国とフランスはシリア議会の一方的な行動を非難した。1920年4月連合国はサン・レモ会議を開き、英・仏による中東支配を決定した。ファイサルとシリア議会はこの決定を批判した。    

          〈シリアとフランスの戦争〉

数か月間シリアは混乱した。ファイサル政府がフランスとの約束を実行しなかったので、7月14日フランス軍司令官アンリ・グローは最後通牒を発した。フランスとの戦争が困難で犠牲の多いものなる、と考えたファイサルは最後通牒を受け入れた。しかし参謀長のユースフ・アズマは国王の命令を無視しフランス軍を迎え撃つため進軍した。フランス軍はベイルートからダマスカスに向かっていた。アズマが率いるシリア軍は各兵士がライフルを持つだけであり、近代戦を戦うことはできなかった。兵士の人数も少なかった。フランス軍は大砲を持っており、戦力の差は明らかだった。戦わずして降伏しようとした国王の判断は妥当だった。フランス軍とシリア軍はダマスカスの西方25kmの地点(Maysalun )で衝突し、シリア軍は簡単に敗れた。アズマ将軍は戦死した。

      

1920年7月24日仏軍はダマスカスを占領した。フランス領シリア・レバノンが成立した。国際連盟の委任統治という形をとっているので、いくらか地元民に配慮することになるが、あくまで主権はフランスにある。オスマン帝国解体後成立したシリア王国は約1年で消滅した。

シリア軍の降伏後ファイサル国王はシリアから追放されることになり、1920年8月英国へ亡命した。翌年8月彼は英領イラクの国王になった。

フランス軍によるダマスカスを占領の翌日(7月25日)、親フランス的なアラー・ダルビ( 'Alaa al-Din al-Darubi )の政府が成立した。約1か月後の9月1日グロー将軍はシリア・レバノンを7つの州に分割した。これは独立の動きを封じ、フランスによる支配を容易にするためだった。

独立シリア王国は激動の末1年で消滅したが、その後のアラブ毒利運動の精神的な支柱となった。植民地支配を打ち破ろうととするアラブ民衆の行動が罰せられて終わるということがこれ以後繰り返された。革命的な熱意も帝国主義の武力の前に無力であった。独立シリア王国はアラブ独立運動の象徴となり、西洋列強に対する不信の念が民衆の心に根付いた。西洋列強は嘘つきであり抑圧者であるという考えが定着した。

 


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