【40章】
護民官の決然とした発言に、貴族はぼう然とし、怒りのため言葉を失った。10人委員の孫のアッピウス・クラウデイウスはセクスティウスとリキニウスを抑え込む見込みもなく、怒りと憎しみに駆られ、次のように述べたと言われている。「市民のみなさん、かつて私の家族は革命好きな護民官にさんざん非難されたものです。現在の護民官が話すことは私にとって新しいものではなく、少しも驚きません。そもそも国家にとって、貴族の名誉と権威以上に重要なものはない、と私は考えています。我々貴族はいつも平民から敵と見られています。お互いの利益が対立しているからです。高利貸しの利子が暴利を得ていること、また一部の貴族が国有地を大々的に占有しているという批判を、私は受け入れます。我々貴族が元老院に迎えられて以来、指導的な貴族の権威が増強され、権威が傷つけられないよう努めてきたのは事実です。皆さんは私の家族もそのような家族であると見ているかもしれません。平民の要求というよりは、護民官の要求である、執政官の一人を平民とする法案について、私の考えを述べるなら、私自身も私の家族も、公職に就いていた時、意識的に平民の不利益になることをやったことはありません。国家のためにやったことがすべて平民にとって有害だとと考えるのは、現実を無視した妄想です。ローマのために為されたことが他国の市民にとって有害な場合は珍しくないが、ローマの市民全員にとって有益だったことははありません。貴族の最高官の行為や言葉が平民の要望に反する場合があるかもしれませんが、平民の利益を害する目的で為されたり、言われたりしたことは一度もありません。仮に私がクラウディウス家の人間ではなく、貴族でさえなく、普通の市民だったとしても、自分が自由市民の息子であり、自由な国家に生きていると自覚しているなら、現在の状況に黙っていられません。 L・セクスティウスと C・リキニウスは終生の護民官となり、9年間市民に自由な投票をさせないできた挙句、信じられないほど厚かましく振る舞うようになりました。セクスティウスとリキニウスは市民から自由な投票と法律制定の権利を奪っているのです」。
クラウデイウスは話を続けた。
「二人は次のように言います。『我々を10回めの護民官に任命したいなら、条件がある。条件とは、法案を一括して採決することだ」。
セクスティウスとリキニウスは市民の要望を鼻から軽蔑し、高額の割増金を払わなければ、彼らの要望の実現に骨を折るつもりがない、というのです。セクスティウス様とリキニウス様に護民官になってただくための割増金とは、複数の法案を一括して採決することです。複数の法案の中には市民にとって不要で、市民は賛成するつもりがない法案があるのに、それが実現できないなら、市民に必要な法案を実現するつもりがないというのです」。
ここでクラウデイウスはセクスティウスに問いかけた。「タルクイニウス王さながらの護民官にお願いするが、私がこれから言うことをよく聞いてほしい。私が集会の参加者の一人として、こう叫んだとします。『これらの法案の中から我々に有益なものを選ばせてください。有益でない法案を拒否させていただきます』。するとあなたはこう答えます。
『いや、駄目だ。それはできない。それを認めれば、諸君は高利貸しを禁止する法案と国有地を分配する法案だけに賛成し、 L・セクスティウスと C・リキニウスが執政官になるという偉大な事業を拒否するだろう。諸君はこの偉大な計画を敬遠し、嫌っているからだ。3つの法案をまとめて受け入れないなら、私はどの法案も提出しない』。君たちがやろうとしていることは、飢えで苦しむ人に毒の入った食べ物を与えるようなものだ。身体に必要な栄養が欲しいなら、一緒に毒を飲め、というわけだ。もしローマが自由な国であるなら、何百人もの市民が叫ぶだろう。『くたばれ護民官!護民官のための法案など無用だ!』。
そうだ、貴族だって護民官ほどひどいことを言わない。平民のための改革を妨害したい貴族だって、これほどひどいことは言わない。みんなに嫌われているこの私、クラウディウスだってこんなことは言わない」。
クラウディウスは再び市民に向って言った。「市民のみなさん、いつまで護民官の横暴を許すつもりですか。暴君のような二人に執着せずに、別の方法で自分たちが望む法律を実現すべきです。長年聞き慣れた護民官の言葉に盲従するのをやめ、我々貴族の言うことに耳を傾けてみてはどうですか。セクスティウスの言動は自由な国家の市民にふさわしくありません。皆さんがセクスティウスの野望のための法案を拒絶するので、彼は本当に怒っているのです。彼にとって大切な法案の目的は何でしょう。それは、執政官を自由に選べなくすることです。彼の法案が実現すれば、執政官の一人は必ず平民から選ばなければならなり、執政官が二人とも貴族のほうが良い場合、困るのです。かつてエトルリアの王ポルセンナがヤニクルムの丘に陣を敷いた時、ローマは大変な脅威を感じましたが、再びエトルリアが兵を動かしたら、どうなるでしょう。最近ではガリア人の大軍が押し寄せてきて、カピトルの丘と砦を除き、ローマの大部分が占領されました。再び同じような脅威がローマに迫った時、執政官の一人は F・フリウス・カミルスがなるとして、もう一人の執政官になるのが L・セクスティウスではまずいではありませんか。セクスティウスが確実に執政官になるような制度は実に危険です。またカミルスのように偉大な人物でさえ執政官に選ばれないかもしれません。名誉を平等に分け合うと、このような問題が発生するのです。執政官が二人とも平民がなることはあっても、二人の貴族が執政官になれないのなら、国家が揺らぎます。貴族が執政官になれないないなら、恐ろしい結果になるでしょう。身分の平等は国家を破壊します。ひょっとすると、セクスティウスはこれまで経験していない国家の重責に就任することで満足せず、執政官が二人とも平民になることを求めているかもしれません。彼はこう言っています。『執政官の選挙を自由投票ににするなら、市民は平民を選ばないだろう』。彼が言いたいことは『自由な投票では、市民は執政官にふさわしくない人物に投票しない。だから私は市民の遺志に反する選挙を強制する必要がある』。このように特殊な選挙で執政官に選ばれた平民は、市民に感謝する必要がなく、法律に感謝するだろう」。
【41章】
クラウディウスは話を続けた。
「セクスティウスとリキニウスは名誉を求めているというより、強要しているのである。彼らは最大の恩恵を受けても、少しも感謝しないだろう。ささやかな恩恵であっても、人は普通感謝するものである。彼らは自分たちの資質によって名誉ある地位を得ようとせず、偶然によって得ようとしている。自尊心が強すぎて、自分の能力と要求を検査されたり、調べたりするのを嫌う人は多い。そういう人は競争者たちの中で自分だけが名誉ある地位にふさわしいと考える。そして選ばれて当然と考えるのである。その結果、彼は評価を人々に委ねようとせず、自由な選挙を強制的で奴隷的な選挙に変えてしまうのである。リキニウスとセクスティウスは何年も連続して護民官に選ばれ、まるでカピトルの丘の国王のようになってしまった。強制的な手段のおかげで二人は好条件を与えられ、執政官になるのが容易になるだろう。った。しかし我々貴族にとっては条件が悪くなり、我々と我々の子孫にとって、執政官への道が狭くなるだろう。皆さんが貴族の誰かを執政官に選びたいと思っても、それは許されない。みなさんは、望むと望まないとに関係なく、セクスティウスやリキニウスのような人を選ばなければならない。平民も威厳を持てるようになりたい、とセクスティウスは繰り返し語った。しかし彼は地上の人間にしか関心がなく、神々には興味がない。彼は宗教的な勤めや前兆をなおざりにしている。神々に関することを軽蔑し、冒涜している。神々がローマの建設を望み、前兆が現れたので、我々の祖先はこの場所に町を建設したのだ。だから、戦時においては戦場で、平和な時には首都において、重要な決定は前兆に従わなければならない。建国以来、神々の意向を伺ってきたのは誰か。それは貴族である。平民には前兆は現れないので、神官に任命された平民はいない。神々の意向を知ることができるのは貴族だけである。人々が貴族を最高官に選ぶ時も、前兆に従わななければならない。またを最高官が死亡したり、突然辞任した場合、我々貴族は市民に相談することなく暫定最高官を選んでいるが、良い前兆が現れなければ、選びなおさなければならない。役職についていない貴族に対しても、神々は前兆を与えるが、平民は最高官になったとしも、前兆を得られない。もしセクスティウスとリキニウスの改革が実現し、平民が執政官に就任したら、神々はローマに前兆と庇護を与えないだろう。最近宗教心のない輩を見かけるようになった。神々を畏怖している貴族を見て、平気であざける人がいる。『神聖な若鶏が餌を食べないことが、それほど重大事か。鶏小屋から出てこないことが大問題か。鳴き声がいつもと違うことが、そんなに不吉か』。
確かにそれらは些細のことかもしれない。しかし我々の祖先はそうした小さな変化に注意を払うことにより偉大な国家を作り上げてきたのだ。ところが最近、神々と良好な関係を保つ必要がないかのように、宗教的な儀式をおろそかにしている。大神官、前兆を判断する神官、そして神々に捧げ物をする神官に誰がなってもよいだろうか。主神ユピテルに仕える神官の帽子を誰がかぶってもよいだろうか。神聖な盾や神殿を守り、神事を執り行う聖務を不信心な者に任せてよいだろうか。宗教に関する法律は制定されなうなるだろう。神官や最高官は前兆がないまま任命されるだろう。元老院は百人隊の集会や部族集会の開催を承認する権限を失い、セクスティウスとリキニウスは新しいロムルスやタティウスとしてローマの支配者になるだろう。
(日本訳注;タティウスはロムルスの共同王。ローマとサビーニ人の戦争の最中に、ローマ人の妻となっていたサビーニの女性たちが割って入り、戦争は中止された。サビーニの指導者ティトゥス・タティウスがロムルスと共同の王となった。)
セクスティウスとリキニウスは貴族のお金と土地を市民に配ることで、人々から絶大な信頼を獲得した。しかし二人は貴族にとっては略奪者なのだ。国有地の占有者を追い出せば、広大な土地が荒廃することを、二人は予見できない。また貸金業を廃止するなら信用取引が消滅し、都市の経済が成り立たないことを二人は考えない。多くの理由でセクスティウスとリキニウスの法案は拒否されなければならない。神々が皆さんを正しい決断に導くよう祈ります」。
【38章】
この年が終わっても、ローマ軍はヴェリトラエから帰還しなかった。それで二つの改革は翌年の執政副司令官の時代に持ち越された。翌年の執政官に選ばれたのは以下の6人である。T・クインクティウス、Ser・コルネリウス、Ser・スルピキウス、Sp・セルヴィリウス、L・パピリウス、L・ヴェトゥリウス。
平民は迷わず、リキニウスとセクスティウスを再び護民官に選んだ。平民は二人の改革を熱心に支持していた。年の初めに、平民と貴族の戦いは最終局面を迎えた。部族会議が招集されると、リキニウスとセクスティウスは同僚の拒否権行使は無効であると主張した。事態が危険な法方向に向かっていると感じた貴族は最後の砦、つまり最高の権力を行使できる人物に頼ることにした。彼らは独裁官の任命を決定し、M・フリウス・カミルスを独裁官に任命した。カミルスは L・アエミリウスを騎兵長官に任命した。貴族の恐るべき対抗手段に対し、リキニウスとセクスティスは勇気と決意という武器で平民の権利を守ろうとした。二人は部族集会を招集し、投票を求めた。独裁官は怒り心頭になり、精鋭の貴族に守られながら集会にやって来ると、リキニウスとセクスティウスを威嚇する態度で席に着いた。改革案を提案する者と拒否権でそれをつぶそうとする者の間の激しいつばぜり合いが始まった。法的には独裁官の立場が強かったが、法案は平民に圧倒的に支持されており、セクステイウスとリキニウスはカミルスより人気があった。実際最初の部族は既に「賛成」と表明していた。これを批判してカミルスは述べた。
「市民の皆さん。護民官は権限外のことをしており、正当な権威を否定しようとしています。彼らを支持してはなりません。護民官の拒否権は平民の会議で承認された、正当な権利です。それなのに、この権利は現在、暴力的に無効にされようとしています。もっとも拒否権自体が冷静な話し合いによって承認されたのではありませんが。独裁官として私は、国家のためだけでなく、平民である皆さんのためにも護民官の拒否権を擁護するつもりです。現在皆さんが破壊しようとしている拒否権を、独裁官の私が守り抜きます。もし C・リキニウスと L・セクステイウスが同僚の反対を受け入れるなら、貴族である私は平民の会議に干渉しない。もし同僚の護民官の反対を無視して、二人がまるで戦争の勝者であるかのように、改革を国家に強制するなら、私は護民官の権限の悪用を許さない」。
セクステイウスとリキニウスは独裁官の主張を軽蔑し、揺るがぬ決意で改革を推し進めることにした。するとカミルスは怒り、異常な権幕で護衛兵に平民を追い払えと命令した。「もし彼らが集会を続けようとするなら、彼らを兵士とみなし、首都から連れ出せ」。
平民はおびえたが、彼らの指導者は独裁官の威嚇にしり込みするどころか、怒り狂った。独裁官と護民官の戦いはどこまで行くかわからなかったが、突然独裁官が辞任した。独裁官の任命に不正があったと主張する歴史家もいれば、護民官が独裁官を処罰する提案をし、平民がそれを承認したからだと考える歴史家もいる。「もしカミルスが独裁官として威嚇を続けるなら、彼に50万アスの罰金を課す」と平民が決議したので、カミルスは処罰を避けるために辞任したというのである。しかし平民が独裁官を処罰した前例はなく、この説明は受け入れ難い。私は前兆が間違っていたのだと思う。またカミルスの性格を考えると、罰金を課すという脅迫に屈するはずがない。カミルスの辞任後すぐにマンリウスが独裁官に任命されており、元老院は間違った前兆を信じてカミルスを独裁官にしてしまったのだろう。カミルスが敗北してしまったら、いかなる貴族が独裁官になっても、勝てる見込みはない。カミルスは翌年再び独裁官に任命されており、前年護民官に打ち負かされていたら、再び独裁官に就任するのを恥じただろう。彼に罰金を課す決議がなされたとしても、そもそも独裁官の権限を制限しようとする行為は無効である。独裁官は全権を有しており、すべての市民は彼の命令に従わなければならない。誰も彼の決定に反対できない。従ってカミルスは平民の決議を無効にできただろう。独裁官は何物にも制約されないからである。護民官がカミルスに巨額の罰金を課そうとしたのは、3つの改革案を独裁官につぶされたくなかったからである。しかし護民官が独裁官と争おうとしても無駄であり、独裁官は護民官の法案を無効にできる。護民官はこれまで執政副司令官と争ってきたが、独裁官の前では無力である。
-----(日本訳解説)ーーーーーー
護民官が執政副司令官の選挙を止め、5年間執政副司令官が不在だった。共和制が始まって以来このようなことは起きたことがない。執政副司令官が不在の期間は1年だけだったという説もあるが、護民官が執政副司令官の選挙を止めたという古い記録がある。なお「歴代執政官のリスト」は5年という説を採用している。元老院が黙ってこれを受け入れたのは、驚きである。セクステイウスとリキニウスに指導された平民運動が異常な高まりを見せ、元老院はその圧力に押され、引いてしまったのだろう。しかし、その後セクステイウスがさらなる挑戦をしたため、元老院は我慢の限界に達し、反撃に転じた。M・フリウス・カミルスを独裁官に任命したのである。カミルスは並外れた精神力を持つ人物であり、最強の軍事指揮官である。彼の名声はギリシャにも伝わっていた。カミルスの登場により、平民と貴族の戦いは最大の山場を迎える。元老院が我慢の限界に達した原因は、セクステイウスが、同僚の護民官の拒否権を乗り越えようとしたからである。いかなる障害も乗り越えて進むセクステイウスが本領を発揮した。拒否権が無効にされれば、貴族は護民官の過激な法案を封じる手段を失ってしまう。拒否権を乗り越えようとしただけでなく、セクステイウスは執政官の一人を平民から選ぶことを再び主張し(37章の終わり)、「聖なる書物」を管理する神官の数を2人から10人に増やすことを新たに提案した。10人となった定数の5人を平民とすることを求めたのである。これらの要求は貴族にとって最後の一線を越えるものだった。執政官の地位の重要性は言うまでもないが、「聖なる書物」を管理する神官の地位も非常に高いのである。無宗教の現代人には理解しがたいが、一般に神官の地位は高く、貴族でなければ神官になれず、神官の職は貴族の牙城になっていた。特に、「聖なる書物」を管理する神官になれるのは、執政官経験者だけである。
恐れを知らない挑戦者であるセクスティウスによって、平民の戦いはこれまでにない高みに達した。これに対し、最終解決者として独裁官カミルスが登場し、貴族と平民の最後の決戦が始まる。リヴィウスが説明しているように、独裁官は元老院にとって切り札であり、本来いかなる者も独裁官の命令に従わなければならない。外国の軍隊ならいざ知らず、護民官が独裁官と争うことなどありえない。最初からセクステイウスに勝ち目はない。ところがである。貴族と平民の究極の戦いは中途半端に終わる。カミルスが突然独裁官を辞任してしまう。平民はあくまでローマ市民であり、外敵ではく、同胞であり、彼らと全面戦争をするわけにはいかない。平民との争いは微妙で、政治的に解決すべきである。元老院が国内の問題ででカミルスを起用したのは失敗だった。元老院はこれに気づいた。カミルスと護民官の争いが平民を巻き込んだ全面衝突に発展する前に、早々とカミルスを引っ込めた。平民との全面面戦争になれば、カミルスが勝ったとしても、貴族と平民の間にしこりが残り、両者の溝が深まる。カミルスは老人であるが、軍隊の指揮官として彼は健在であり、国内問題で彼に汚点がつくのは避けたい。翌年の戦争で彼は力を発揮する。国内問題でカミルスを起用した過ちを、リヴィウスは「前兆が誤っていた」と説明している。カミルスと護民官の戦いが恐ろしい結末になる前に、元老院は「前兆の誤り」という理由で独裁官を変えた。土壇場で元老院は作戦を変え、対決路線を捨て、柔軟な路線を採用したのである。この時代の元老院は250年後、グラックス兄弟の時代の元老院と違って、思慮深く、柔軟だった。-----ーーー(解説終了)
【39章】
カミルスが辞任し、マンリウスが独裁官に就任するまでの間、平民会を牛耳る護民官はまるで暫定最高官のようにふるまった。しかし平民と護民官の考えにずれがあることが判明した。平民は二つ法案を強く要望したが、残りの一つについては、護民官は熱心に要求したが、平民の関心は低かった。その結果、高額の利子を禁止する法案と国家の土地をすべての市民に平等に分配する法案は平民会で承認されるのは確実であるが、執政官の一人を平民から選ぶ法案は平民会で否決されるように思われた。
新しく独裁官となった P・マンリウスは平民に融和的であり、平民の C・リキニウスを騎兵長官に任命した。 C・リキニウスは、紀元前400年平民として最初に執政副司令官に就任した C・リキニウス・カルブスの孫だった。
(日本訳注:騎兵長官になったリキニウスは護民官として活躍しているリキニウスと別人。どちらも C・リキニウスであるが、騎兵長官になったのは C・リキニウス・カルブスで、護民官のほうは C・リキニウス・ストロである。なお C はガイウスである。C はクと発音されるので変であるが、クとグは似ているので頭文字として採用されたのだろう。)
平民が騎兵長官に任命されたことに、貴族は反発した。しかし、独裁官といえども、平民全体が敵となっては、権力の行使が難しくなる。独裁官は述べた。「騎兵長官は執政副司令官のような高い役職ではない」。
護民官の選挙が公示されると、セクスティウスとリキニウスは再選を希望しないと表明した。しかしこれは二人がかけひきをしたのである。平民は自分たちの目的が達成されないと困るので、ぜひ二人に護民官になってほしかった。セクスティウスとリキニウスは言った。
「9年間我々は貴族と戦闘状態だった。我々の命が危険にさらされたにもかかわらず、民衆は何の成果も得られなかった。同じ護民官が長年同じ要求をしてきたので、我々二人は擦り切れ、要求は色あせた。我々が提出した法案は最初同僚の拒否権で妨害され、次に多くの平民がヴェリトラエの戦場に行ってしまい、採決が延期された。最後に、独裁官が登場し、我々に襲い掛かった。幸い現在は裏切者の護民官はいないし、戦争も終わり、カミルスは辞任してしまったので、これまでの障害はすべて消えた。現在の独裁官は平民が執政官になることに前向きで、平民を騎兵長官荷任命した。ところが、信じられないことに、平民が自分たちの真の利益に盲目であり、我々に反対している。平民が正しい選択をすれば、高利貸しから解放され、国有地を不法に占拠している貴族を追い払うことができるだろう。もし以上のことが実現したとしても、平民のために素晴らしい提案をした者二人が最高の栄誉を獲得するのを妨げられ、希望を失うなら、平民の諸君は恩知らずではないだろうか。高利貸しによる重荷を振り払い、国有地の分配を要求しながら、諸君の要求を実現するために働いた護民官が老後に栄誉と名声を期待できなかったたら、ローマ市民に自尊心がないと言われてもしかたがない。諸君は自分たちが真に求めるは何か、決めなければならない。それから選挙で自分たちの意志を表明しなければならない。もし複数の法案を一括して採決するつもりなら、我々は再び護民官になってもよい。もし諸君が自分たちが望む法案さえ実現すればよいと考えているなら、我々は再び護民官になって貴族に憎まれるのは嫌だ。我々が護民官にならなければ、諸君の要望は実現しないだろう」。
【36章】(前の章は376年、この章は370年)
幸いなことに、外国との戦争は一度しかなかった。平和な時代に自由になりすぎたヴェリトラエの植民者が、ローマ軍の不在をいいことに、様々な機会にローマ領に侵入した。その後彼らはトゥスクルムを攻撃し始めた。トゥスクルムはローマの古い同盟国であり、現在はローマの市民権を得ており、当然彼らはローマに助けを求めた。トゥスクルムの窮状は元老院だけでなく平民の同情を誘い、トゥスクルムを助けないのはローマの恥だと人々は考えた。護民官はついに折れ、執政副司令官の選挙を承認した。暫定最高官が任命され、占拠を管理することになった。そして以下の6人が執政副司令官に選ばれた。l・フリウス、A・マンリウス、Ser・スルピキウス、Ser・コルネリウス、P・ヴァレリウス、C・ヴァレリウス。
執政副司令官たちは選挙の時は気づかなかったが、徴兵を始めると、平民が反抗的なのに気づいた。苦労の末、執政副司令官はなんとか軍隊を編成できた。ローマ軍はトゥスクルムに向かい、城壁の前の敵を引きはがすと、敵は城内に逃げ込んだ。その後ローマ軍は植民者の本拠地であるヴェリトラエを攻撃することにしたが、ヴェリトラエの攻略はさらに大変だった。ヴェリトラエを包囲したが、ローマ軍の司令官はこの町を攻め落とすことができなかった。そこで司令官を一新することになり、新しく6人の執政副司令官が選ばれた。Q・セルヴィリウス、C・ヴェトゥリウス、A・コルネリウス、M・コルネリウス、Q・クインクティウス、M・ファビウス。
司令官が代わっても、ヴェリトラエの状況は少しもよくならなかった。一方国内が危機的な状態になった。リキニウスとセクスティウスは8回連続して護民官に選ばれた。リキニウス・ソルトの義父であるファビウス・アンブストゥスが二人を支持していた。ファビウス・アンブストゥスは前面に出て、自分が始めた一連の処置の正当性を主張することにした。最初は、護民官団の中の8人が彼の提案に反対していたが、現在反対する者が5人に減った。反対を続ける5人は自分の階級を裏切った人間がそうであるように、追い詰められてどぎまぎし、貴族にひそかに教え込まれた理屈を並べて自分の立場を弁護するのだった。5人は次のように主張した。「多くの平民がヴェリトラエの戦場に行っているので、兵士たちが戻るまで、市民集会を延期すべきだ。平民の利益に関係する事柄は全員出席のもとで採決すべきだ」。
長年平民を扱ってきて、平民の扱いに熟練しているセクスティウスとリキニウスは味方の同僚たちと共に、執政副司令官であるファビウス・アンブストゥスの協力を得て、貴族の指導者たちを呼び出し、彼らの庶民に対するやり方について、一つ一つ質問した。「あなた方は、平民には2ユゲラの土地しか与えないないくせに、自分たちは500ユゲラ以上の土地を要求している。図々しいとは思わないのか。実際、一人の貴族が平民300人分の土地を所有できる。それに対して、平民の土地は雨をしのぐ屋根の広さほどしかない。墓の場所を確保するのも難しい。借金で平民が押しつぶされるのは、あなた方の喜びなのか。彼らが奴隷っとなって足かせをはめられ、罰を受けるのが、楽しいのか。平民が元金の2倍を完済して自由になるのは、面白くないのか。大勢の平民が債権者の所有物となり、広場から連れ出されるのが、面白いか。貴族の家が囚人であふれるのが、愉快か。どこの貴族の家にも私的な牢屋があるのがよいのか」。
【37章】
貴族の非道なやり方について、彼らは人々の面前で告発した。この問題は聴衆にとって切実な問題だったので、告発者の想像以上に聴衆は貴族に対して怒った。セクスティウスとリキニウスは告発を続けた。
「結局、貴族による国有地の接収と高利貸しによる平民の殺害には限度がない。これをやめさせ,平民の自由を守るには平民出身の執政官を選ぶしかない。貴族の使い走りをする護民官がいて、拒否権を行使するので、護民官の制度が破壊されてしまった。護民官は今や軽蔑の対象となった。行政権が貴族の手にある限り、公平で正しい統治は期待できない。なぜなら護民官は拒否権を行使することによって自らを否定してしまったからだ。行政権が平民に開放されない限り、平民にはは発言権がない。執政官の選挙に参加できるだけでは無力だ。少なくとも執政官の一人が平民から選ばれるようにしない限り、平民の執政官は誕生しない。そもそも執政官が最高官だったのに、最高官を執政副司令官に変えたのは何のためだろう。貴族は忘れているようだが、それは平民も最高官になれるようにするためだった。それなのに、44年間一人の平民も執政副司令官に選ばれなかった。貴族はどのように考えたのだろう。最高官の地位に慣れた貴族8人が執政副司令官に就任すれば、2人の平民をを執政副司令官にしてもよいと考えたようだ。しかし10人の最高官は多すぎるとわかり、貴族だけの6人にしたのだろう。こうして長い間平民を執政副司令官に就任させなかったので、今後は平民が執政官なるのを認めようと考えるようになったのだろうか。貴族がどう考えたかはともかく、平民は貴族の恩恵によっては得られない地位を法律によって手に入れなければならない。議論の余地なく、執政官の一人は平民がなるように決めなければならない。執政官の一人を平民と限定せず、自由競争にするなら、必ず強い階級の者が執政官に選ばれてしまうだろう。昔は貴族が平民の挑戦を受けて苛立ったものだが、今では最高官にふさわしい平民は絶滅したので、貴族はいらだつことがなくなった。P・リキニウス・カルブスが平民として初めて執政副司令官になって以後、貴族の政府は魂を失ったようようになり、貴族が執政官を独占していた時代の活力がなくなったのだろうか。いやそんなことはない。最高官の職を終えてから弾劾された貴族が数人いる。執政副司令官になった平民が少ないとしても、弾劾された平民は一人もいない。執政副司令官の地位と同じようにクァエストルも数年前から平民が選ばれるようになった。
(日本訳注:⓵ 「 P・リキニウス・カルブスが平民として初めて執政副司令官になったのは、紀元前400年。② クァエストルは執政官の下僚で、財務と裁判とを担当した。)
執政副司令官やクァエストルになった平民に対して、市民が不満を述べたことは一度もない。平民に残された最後の課題は平民の執政官を誕生させることである。これは平民の自由を保障する最も確かな手段である。もし平民がこれを実現したら、君主制がローマから完全に消えたとわかるだろう。その時こそ平民の自由が揺ぎ無く確立されるのである。これまで貴族が独占してきた優越性、すなわち政治力、権威、軍事的栄光、貴族的な性格が、平民のものになるのである。平民は偉大さを享受し、その偉大さをを子孫に残すのである」。
自分たちの演説が承認されたのを見て、セクスティウスとリキニウスは新しい提案をした。これまで二人の神官が「聖なる書物」を管理してきたが、これに代わり、10人で構成される神官団の創設を提案をしたのである。10人の神官団の半分を貴族から選び、残りの半分を平民から選ぶのである。執政官の一人を平民から選ぶこと、そして「聖なる書物」を管理する神官を10人に増やし、5人を平民から選ぶことを決めるは、ヴェリトラエを包囲しているローマ軍が帰還してからになった。
【34章】
ローマ軍が複数の戦争に勝利すると、ラティウム地方とその周辺に平和が訪れたが、国内の争いが悪化した。貴族の暴力が激化し、平民の苦しみが増した。平民が借金を返済しようにも、支払いを待ってくれなかった。どうすることもできないでいると、判決が下されてしまい、彼らの素晴らしい名前と身体の自由を引き渡さなければならなかった。借金を払えない者はこのように処罰されるのだった。平民の中の特に貧しい者だけでなく、指導的な人物さえもこのように恐ろしい運命に落ちるのだった。その結果、活力があり、野心的な平民はいなくなり、貴族と肩を並べて執政副司令官になろうとする平民がいなくなり、護民官になろうとする者さえいなかった。つい最近初めて平民出身の執政副司令官が誕生したというのに(379年 、6巻30章)、今や遠い昔のことのように思えた。ここ数年貴族の威信が失われ、平民の進出を許していたが、貴族は絶えず自分たちの威信を取り戻そうとしていて、ついに成功したようである。しかし限度を超えた貴族の横暴を抑止する役割を果たす事件が起きた。事件自体は些細な出来事だったが、しばしばそうであるように、重大な結果を招いた。貴族の一人、M・ファビウス・アンブストゥスは貴族の間で絶大な影響力を有していた。また彼は平民を見下さなかったので、平民の間でも信望があった。彼には二人の娘がいたが、姉娘は Ser・スルピキウスと結婚し、妹は C・リキニウス・ストロと結婚していた。C・リキニウスは平民であるが、傑出した人物だった。M・ファビウスはこの婚姻を下位の者との結びつきと考えていなかったので、M・ファビウスは大衆の間で人気が高かった。ある日、姉妹はスルピキウス家(=姉の家)にいて、会話をしていたが、中央広場から帰ってきた執政官が通りかかり、彼の付き人がいつものように形式的に杖でドアをノックして、去って行った。姉の家に来ていた妹は慣れない習慣に驚いた。するとスルピキウス婦人である姉は妹の無知を笑った。「そんなことも知らないの」。
姉の笑いは侮辱として妹の胸に突き刺さった。妹は些細なことで興奮する性格だった。ちょうど大勢の召使が女主人の命令を伺いに来ていた時だったので、彼女は姉より下位に見られるのは我慢がならなかった。この出来事をきっかけに、妹は自分の結婚は失敗だったと考えるようになった。「姉は幸運な決結婚をしたのに」。
妹がこの悔しい事件から立ち直れないでいる時、彼女の父 M・ファビウスが訪ねてきた。「元気でいるかね」と父は娘に言った。
娘は姉によそよそしく、自分の夫を尊敬していない様子だった。娘はその理由を隠そうとしたが、父は優しく、しかしはっきりと、娘の様子がおかしいと告げた。娘はついに悲しみの原因を告白した。「私は自分より低い身分の男性と結婚してしまった。名誉と無縁で政治的な影響力もない人と結婚したの」。
ファビウス・アンブストゥスは娘を慰め、「元気を出しなさい」と言った。「そのうちお前が嫁いだリキニウス家は姉の嫁ぎ先に劣らず名誉ある、立派な家だとわかるよ」。
この日以来、父ファビウス・アンブストゥスは娘の婿と共同で計画を立て、L・セクスティウスに相談した。セクスティウスは積極的な若者で、貴族でないにもかかわらず、際限のない野心を持っていた。
【35章】
恐ろしい借金の重圧に後押しされて、変革の気運が訪れた。平民は自分たちの階級の人間を国家の最高の地位に押し上げない限り、借金の重圧から逃れることは不可能だった。この目標に到達するためには、最大限の努力をしなければならないことを、平民は理解していた。実際平民はこれまでの努力のおかげで足掛かりを得ており、あと一押しで最高の地位を獲得し、貴族と同等の権威を持つようになれるだろう。勇気という点で、彼らは既に貴族と同等なのである。とりあえず、C・リキニウスと L・セクスティウスは護民官になることにした。護民官という立場で二人はもっと高い地位を得るための地ならしができるだろう。護民官に就任すると、二人の行動のすべてはは貴族の力と影響力との戦いに向けられ、二人は平民の利益を増進するよう最大限の努力をした。彼らはまず初めに借金という差し迫った問題に取り組み、利子として支払われた金額を元金から引いた。そして残りの借金は三分の一ずつ三年かけて払うことにした。護民官となった二人の次の仕事は、国有地の占有を500ユゲラに制限したことだった。さらに重大な三つ目の仕事は、執政副司令官の選挙をやめ、最高官を二人の執政官に戻し、貴族と平民から一人ずつ選ぶようにしたことである。以上の三つはどれも極めて重要な決定であり、激烈な闘争なしに実現することは困難だった。
この三つは土地、お金、名誉に関係しており、貴族の感情を刺激せず済むはずがなく、血を見る争いが起きるのは確実だった。実際貴族は護民官のあまりの大胆さに呆然とした。元老院と貴族の私邸で激しい口論が交わされたが、以前の闘争で採用した手段以外、良い考えが思いつかなかった。それは毒を毒で打ち消す方法、つまり二人以外の護民官に拒否権を行使させることだった。二人が出した三つの提案を否決するよう、貴族は残りの護民官たちに働きかけた。リキニウスとセクスティウスが部族会議を招集し、投票を求めようすると、貴族の手先となった護民官が貴族の警護団に取り巻かれながら現れ、法案の読み上げを中止し、平民が投票又は決議する際のその他の手続きを差し止めた。部族会議は数週間前から開かれていたが、まだ何も決まっていなかった。話し合われた議題はすべて死産となった。それでもセクストゥスはくじけなかった。彼は言った。
「よし、わかった。拒否権がこれほどの力を持つなら、今度は私がこの強力な武器を平民の保護のために使ってやろう。次の執政副司令官の選挙が良い機会だ。貴族の使い走りをする護民官が貴族の利益のために発した、あの言葉『私は禁止する』を、今度は私が連中にぶつけよう。貴族の諸君、恐ろしい一撃を覚悟してくれ」。
セクストゥスの言葉はから脅しではなかった。護民官とその補佐官の選挙が実施され、リキニウスとセクストゥスは再び護民官に選ばれた。すると二人は最高官の選挙をさせなかった。平民は繰り返し二人を護民官に選び、二人は繰り返し、執政副司令官の選挙を中止した。こうして、執政副司令官の不在な年が5年続いた。
ーーーーーー(日本訳訳解説)ーーーーーーーーーー
紀元前146年ローマはカルタゴを滅ぼし、地中海帝国への道を歩み始める。しかし国家の急激な拡大はローマの社会を激変させ、閥族貴族は広大な領地の経営により、ぼう大な富を蓄える。その一方で、自営農民の多くが没落し、消滅した。このような社会の激変を背景に、ローマは「動乱の一世紀」に突入する。紀元前133年、護民官となったティベリウス・グラックスは農民救済と大土地所有の制限に乗り出す。しかし、この時代の大貴族は紀元前4世紀前半の貴族より狂暴になっていた。彼らは護民官の一部を抱き込んで、拒否権を行使させ、グラックスの法案をつぶした。それでもグラックスが引き下がろうとしなかったので、閥族貴族は 彼を暗殺してしまう。ティベリウスの死後、弟のガイウスが兄の遺志を受け継ぎ、土地改革を実現しようとするが、彼の試みも伝家の宝刀「同僚護民官の拒否権」の行使によりつぶされる。そして結局、ガイウスも暗殺されてしまう。ローマが世界帝国へと乗り出した直後に起きたグラックス兄弟の事件は非常に印象的である。それはローマ社会の矛盾を鋭く反映した事件だからではないだろうか。改革者のグラックス兄弟と大貴族の間に歩み寄りはなく、残酷な形で決裂したことも、この事件が鮮烈な印象を与える原因となっているのだろう。グラックス兄弟を暗殺したことで、この問題は片付いたように見えたが、実はそうではなかった。この問題は根深く、グラックス兄弟の事件は動乱の世紀の始まりに過ぎなかった。動乱の世紀はカエサルの死を経て、オクタビアヌス政権の誕生で終わる。
同時に共和制 が終わり、元老院は最高権力者の地位を皇帝に譲ることになる。カエサルを殺し、厄介払いした元老院だが、結局絶対的な地位を失う。
グラックス兄弟を挫折させせたのは、同僚護民官による拒否権の行使である。最高官の執政官が二人いるのは、万一片方が暴走した場合、もう一人がブレーキをかけるためであり、ローマの民主制を保障する巧妙な仕組みである。同じように護民官も複数いて、全員に拒否権が与えられている。それは護民官の誰かが暴走するのを防ぐためである。民主主義のすべての仕組みは根本的な変革を困難にしている。貴族と平民の利害が対立している場合、貴族は護民官の一部を抱き込み、拒否権を行使させればよいのであって、平民は貴族の利益に反することは何もできない。護民官に与えられている拒否権が、いかに護民官を無力にするか、グラックスの250年前のローマ人は知っていたのである。紀元前376年の護民官 C・リキニウスと L・セクスティウスはグラックスと同じ挫折を経験していた。リヴィウスは護民官に認められている拒否権がいかに護民官を無力にするか、よく描いている。貴族に抱き込まれるのをよしとする平民が護民官に選ばれるのを許すなら、平民の地位の向上を目指す、いかなる努力も否定されてしまう。つまり護民官の制度が無意味になってしまう。護民官に認められている「拒否権」は護民官という制度の根幹に関わる問題であることを、リヴィウスは紀元前376年の記述の中で指摘している。リキニウスとセクスティウスの大胆な3つの改革が同僚の拒否権によってつぶされ、二人は挫折を味わったと思うが、セクスティウスは並外れた胆力があり、新たな挑戦に取り掛かる。しかしこの新たな挑戦は不可解である。すべての護民官が有する拒否権は同僚の行動を阻止する権限である。執政副司令官の選挙は国家の規定であり、誰かがこれを中止することはできない。最高官を執政副司令官ではなく、執政官又は独裁官に変更する権限もっているのは元老院である。執政副司令官、執政官、独裁官のいずれも選ばないというようなことは誰にもできないが、唯一それをできる者があるとすれば、元老院である。護民官の拒否権は同僚の決定を撤回する権限であり、元老院の決定を否定する権限ではない。しかし不思議なことに、二人の護民官が最高官の選挙を止めたという古い記録が存在したようである。歴代執政官のリストは古い記録とリヴィウスの記述に依拠して、紀元前375ー371年の5年間は最高官が不在としている。この5年間について、執政官のリストには執政官の名前も執政副司令官の名前も書かれていない。
かなり異常であるが、5年間最高官が不在だったことは事実であるようである。ただし、それは護民官が拒否権を行使したからではなく、平民が熱狂的にリキニウスとセクスティウスを支持していたので、貴族が平民の反乱を恐れて日和見したのだと思う。また影響力のある有力貴族ファビウス・アンブストゥスが二人の護民官を応援していたので、貴族たちは一歩引いたのだろう。ファビウス・アンブストゥスはリキニウスとセクスティウスを単に応援していただけでなく、そもそも彼が重要な改革を二人に働きかけたのであり、首謀者だった。
ーー---ーーーー(解説終了)
【31章】
新しい執政副司令官は、Sp・フリウス、Q・セルヴィリウス(2回目の就任)、L・メネニウス(3回目の就任)、P・クロエリウス、M・ホラテイウス、L・ゲガニウスだった。彼らの就任後間もなく、激しい騒動が発生した。原因は借金による苦しみだった。Sp・セルヴィリウス・プリスクスと Q・クロエリウス・シクルスが査察官に任命され、仕事に取り掛かったが、戦争が始まり、査察は中断した。ヴォルスキの複数の軍団が広範囲に略奪を開始した。パニックに陥った報告者の知らせに続き、郊外の地区から大勢の人が逃げて来た。これまで国内の衝突を解消するため始められた外国との戦争に対し、護民官が断固たる決意で徴兵を妨害した。その結果護民官は二つの条件を貴族に飲ませることに成功した。条件の一つは戦争が終わるまで、市民に戦争税を払わせることであり、もう一つは借金の返済を理由に裁判に訴えないことである。平民が借金の支払いから解放されて以後、徴兵に対する妨害は起きなかった。兵士が召集され、二つの軍団が編成された。どちらの軍団もヴォルスキの領土に向かった。Sp・フリウスと M・ホラテイウスは右方向に進み、アンティウムと沿岸地方に向かった。Q・セルヴィリウスと L・ゲガニウスは左方向へ進み、エケトラと山岳地方に向かった。しかしローマの二つン軍団は敵に出会わなかった。それで両方の軍団はヴォルスキ軍とは違ったやり方で、それぞれの地方を略奪し始めた。ヴォルスキ軍はローマの国内が分裂しているので勢いづいたものの、ローマ軍の精強さを恐れており、まるでならず者のように正規軍の出現を恐れながら、こそこそと辺境地帯だけを略奪した。これに対してローマ軍は復讐心から怒りにまかせて徹底的に略奪したので壊滅的な被害をもたらした。またローマ軍はヴォルスキ軍を挑発し、戦闘に引きずり込むために敵の領内に長く留まった。点在する家々のすべてに火をつけ、いくつもの村を焼き尽くした。村には一本の果実の木も残らず、この年は何も収穫できなかった。ローマの二つの軍団は町の郊外に住む農民と家畜を戦利品として首都に連れ去った。
(日本翻訳注:エケトラはヴォルスキの町であるが、早い時期に消滅し、場所は不明。リヴィウスの記述からアンティウムの北東であることがわかるが、アンティウムからどの程度離れているかはわからない。紀元前495年エケトラはローマに敗れ、領土の一部をローマに割譲した。紀元前464年エケトラはアエクイと同盟し、ローマに反乱したが、再び敗れた。)
【32章】
負債を抱えるローマ市民は返済を一時的に猶予されていたが、戦争が終わり平和になると、大勢の市民を借金の抵当として債権者に引き渡す判決がなされた。古い借金が減額される希望は消えた。これに加え、査察官が新しい城壁の建設を契約し、新税が必要となり、市民は新たな借金をしなければならなかった。貴族が優勢なため、護民官は徴兵を妨害できなかったので、取引の材料がなく、平民は税金を支払うしかなかった。貴族が影響力を行使し、平民が執政副司令官に選ばれないようにした。執政副司令官に選ばれたのは、L・アエミリウス、P・ヴァレリウス(4回目の就任)、C・ヴェトゥリウス、Ser・スルピキウス、L・クインクティウス・キンキナトゥス、C・クインクティウス・キンキナトゥスだった。ラテン人との戦争に向けて、3個軍団の編制が必要になったが、よいことに貴族の力が優勢だったので、徴兵を実行できた。兵役の義務がある市民は全員、司令官に忠誠を誓った。徴兵を妨害する者はいなかった。軍団の一つは首都の防衛にあたり、もう一つの軍団は突然敵が出現した場合、直ちに出動できるよう待機した。三つ目の軍団は最強であり、P・ヴァレリウスと L・アエミリウスに率いられて、サトゥリクムに向かった。敵が有利な地形を背景にして現れたので、ローマ軍はすぐに攻撃した。ローマ軍は決定的な勝利に至らなかったが、優勢だった。この時突然嵐となり、風が強く、雨が降り、戦闘は中止された。翌日敵はローマ軍に劣らず勇敢に、互角に戦った。特にラテン人の軍団は長年ローマ軍と一緒に戦ってきたので、ローマ軍の戦術を熟知しており、強かった。ローマの騎兵の攻撃により、敵の戦列が崩れ、立ち直る間もなく、ローマの歩兵が襲い掛かり、敵は押し込まれ、後退し始めた。こうなると、敵はローマ軍に抵抗できなかった。敵は逃亡し始めた。彼らは、陣地に向かわず、3km 離れたサトゥリクムまで逃げようとしたが、ローマの騎兵に追いつかれ、多くがなぎ倒されて、死んだ。ローマ軍は敵の陣地を占領し、略奪した。翌日の夜、敵はサトゥリクムを抜け出し、アンティウムへ逃亡した。ローマ軍は彼らの後を追った。敵は恐怖に追い立てられて逃げたので、ローマ軍との距離が開いた。彼らの逃げ足が速かったので、ローマ軍は彼らを襲うことができず、逃げる速度を遅らせることができなかった。彼らはローマ軍を振り切り、アンティウムに逃げ込んだ。ローマ軍は城壁攻撃のための機械が不足していたので、数日間アンティウムの周辺を略奪した。敵は敢えてローマ軍を攻撃しなかった。
【33章】
アンテイアテスとラテン人の間で口論が始まった。アンテイアテスは敗北に打ちひしがれ、多くの兵士を失い、和平を考えていた。一方ラテン人は長い平和の後で、戦意が高く、やる気満々で戦闘を続けるつもりにりだった。お互いに相手を説得した結果、それぞれ、最善と考える決定をすることになり、論争は終わった。ラテン人は戦争に行った。彼らは和平を不名誉と考えており、和平に関するすべてを投げ捨てた。一方アンテイアテスにはは有益な助言者たちがいたが、たまたま彼らが留守にしている時に、不利な助言を受け入れてしまい、都市と領土をローマに明け渡した。ラテン人は怒りで歯ぎしりしていたが、戦争でローマには勝てないと知った。それで彼らはヴォルスキ人を戦いに立ち上がってもらおうと、サトゥリクムに放火した。サトゥリクムは彼らが敗北したら最初に逃げ込もうとしていた場所だった。彼らはたいまつを世俗の家々だけでなく、聖なる家にも投げ込んだ。聖母の神殿に住んでいた人々を除き、都市の住人はみな逃げた。ラテン人が放火をやめたのは、宗教的なためらいや神々を恐れたからではなく、神殿から恐ろしい声が聞えたからであると伝えられている。その声は言った。「もし神殿の近くで火を放ったら、恐ろしい罰を受けるだろう」。
狂気のラテン人は次にトゥスクルムを攻撃した。トゥスクルムはラテン人の会議から逃亡しした上、ローマの唯一の同盟国となり、市民権まで得たからだった。攻撃が不意打ちだったので、ラテン兵は自由に門から入ることができた。町は砦を除き、最初の一撃で占領された。市民は妻と子供を連れて砦に避難した。トゥスクルムは伝令をローマの元老院に派遣して、窮状を知らせた。ローマの市民は直ちに援軍の派遣を求め、L・クインクティウス・キンキナトゥスとSer・スルピキウスが司令官になった。ローマ軍がトゥスクルムに到着すると、すべての門が閉まっていた。ラテン兵は勝利後すぐにローマ軍が迫ってきたので、城壁の防衛に専念すると同時に砦を攻撃した。ローマ軍の到着はラテン兵と砦の市民の両方に変化をもたらした。暗鬱な現状に絶望していたトゥスクルムの市民は一転して元気になり、砦の素早い占領に自信を得ていたラテン兵は、町を所有しているものの、身の安全に危険を感じ絶望的になった。トゥスクルムの市民が砦の中から掛け声を上げると、城外のローマ軍がそれに答えて、さらに大きな掛け声を上げた。ラテン兵は両側から圧迫された。高い場所からトゥスクルム人が攻撃してくるし、ローマ兵は城壁を登り始め、門に張り付いていた。ラテン兵はローマ軍に対抗できなかった。ローマ兵は梯子を使い、まず城壁を越えた。続いて門を打ち破った。前と後ろからの二重攻撃に出会い、ラテン兵は戦意を失った。その上彼らは逃げ場がなかった。二つの軍の間で、彼らは最後の一兵まで殺された。
【28章】
貴族と平民間の闘争が原因で、ローマ軍が編成されず、司令が決まらないという知らせがプラエネステに届いた。これを好機と見たプラエネステの将軍たちは直ちに軍隊を率いてローマに向った。プラエネステを出ると、放置された荒れ地が広がっていたが、彼らはそこを抜けて、ローマのコリナ門を目ざした。ローマの市民の間には恐怖が広がった。男たちは「武器を取れ」と叫びながら、城壁や市門に向かった。ローマ市民は反乱を中止し、敵に立ち向かった。T・クインクテイウス・キンキナトゥス が独裁官に任命された。独裁官は A・センプロニウスを騎兵長官に任命した。プラエネステの兵士たちはクインクテイウスが独裁官になったことを知ると、すぐに城壁から後退した。独裁官が徴兵を宣言すると、兵役に該当するローマ市民は迷わず集まった。ローマ軍の編制が進んでいる時、プラエネステ軍はアリア川の近くに陣地を定めた。ここを拠点として彼らは広範囲に略し、地域を荒廃させた。ローマにとって重要な輸入路であるアリア川の土手を占拠したことを、プラエネステの兵士たちは幸運と考えた。なぜならローマ市民がガリア人の襲来の時のようにパニックに陥るに違いないからである。ローマ人は敗北の日を「アリア川の日」と呼んで呪っており、最悪の戦場となったアリア川は彼らにとって恐ろしい場所に違いない。ローマ兵はアリア川と聞くだけで、ガリア人の幻影が目に浮かび、ガリア人のおぞましい叫び声が聞こえ、震えあがるだろう。こうしたあてもない想像にふけりながら、プラエネステ軍の兵士たちは彼らの幸運を場所に賭けた。一方でローマ軍はラテン人の兵士をよく知っており、彼らがどこにいようと恐れるに足りないと考えていた。ラテン人はレギッルス湖の戦いで敗れて以来、100年間ローマに臣従しきたのである。アリア川がローマの大敗北を想起させるとはいえ、ローマ兵はこの記憶を拭い去り、他の不吉な場所同様勝利の妨げにはならなかった。たとえガリア兵が再びアリア川に現れたとしても、かつて彼らから首都を奪回した時のように、再び戦うまでである。首都奪回の翌日、ローマ軍はガビーでガリア軍を壊滅させ、ガリア兵は一人も生き残ららず、自軍の全滅を祖国に知らせることもできなかった。
【29章】
プラエネステ軍はローマ兵が過去の敗北に引きずられていると期待し、他方ローマ軍は勝利だけを考え、両軍はアリア川の土手ので出合った。プラエネステ軍が戦陣を組んでで進んでくるのを見て、独裁官は騎兵長官 A・センプロニウスに言った。「敵はガリア兵と同じ場所にいるぞ。かつての戦いの再現を期待しているようだ。場所が縁起が良いことなど頼りにならないし、自分が弱ければ誰も助けてくれない、と彼らに教えてやろう。君と騎兵が頼っているは自分の武力と勇気だよな。諸君は全速力で敵の正面を突いてくれ。私と歩兵は崩れた敵に襲い掛かる。条約が守られているか見張っている神々よ!我々を応援してください。神々に違反した敵に罰を与えてください。連中は我々を裏切りました。彼らの訴えを無視してください」。
ローマの騎兵と歩兵の攻撃により、プラエネステ軍はあえなく崩れた。最初の一撃と叫び声で、彼らの戦列は乱れ、間もなくすべての隊列が崩れ、プラエネステ軍は大混乱となり、兵士は背中を見せて逃げだした。彼らは恐怖のあまりひたすら逃げ、陣地を通り過ぎ、プラエネステの町が見えるところまで来て、ようやく逃げるのをやめた。彼らは再結集し、適当な場所を見つけて陣地を構築し防御を固めた。市内に逃げこもうとしなかったのは、領内に火をつけられるのを恐れたからだった。領内には8つの町が存在した。これらの町が荒廃した後、結局プラエネステが包囲されるだろうと彼らは考えたのである。ローマ軍はアリア川で敵の陣地を略奪すると、プラエネステに向かった。ローマ軍が近づいてくると、プラエネステ軍はせっかく造った陣地を棄てて、市内に逃げ込んだ。プラエネステは周囲の8つの町を所有していた。ローマ軍はこれらの町を次々に攻撃し、ほとんど抵抗されずに攻略した。その後ローマ軍はっヴェリトラエへ向かい、勝利した。そして最後に戦争の発端であり、中心であるプラエネステに戻ってきた。プラエネステ軍は戦わず降伏した。ローマ軍はこの町を占領した。ローマ軍は戦争に勝利し、二つの陣地を奪取し、プラエネステの支配下にある8つの町を攻略し、主敵であるプラエネステの降伏を受け入れた。ティトゥス・クィンクティウスはローマに帰った。
(プラエネステはローマの東35kmでラテン地域のはずれにある。現在のパレストリーナである。ヴェリトラエはアルバ湖の南東にあり、プラエネステから離れている。ヴェリトラエはヴォルスキの都市だったが、ローマの第4代国王アンクス・マルキウスによって征服された。)
勝利の行進で、クィンクティウスはプラエネステから持ち帰ったユピテルの像をカピトルの丘まで運んだ。ユピテル像はユピテル神殿とミネルバ神殿の間の奥まった場所に安置された。像の台座に独裁官の勝利を記した金属板がはめ込まれた。金属板には「ユピテルとすべての神々が独裁官ティトゥス・クィンクティウスに勝利をもたらした」と書かれていた。独裁官就任から20日後にクィンクティウスは辞任した。
【30章】
翌年の執政副司令官の半分が平民から選ばれた。貴族から選ばれた3人は C・マンリウス、P・マンリウス,L・ユリウスである。平民の3人は C・セクスティリウス、M・アルビニウス、L・アンスティティウスである。二人のマンリウスは貴族なので平民の3人より優位にあり、貴族であるユリウスより人気があった。二人のマンリウスはくじ引きをせず、他の執政副司令官と話し合いをせず、元老院と相談しただけでヴォルスキ戦の指揮官となった。後で二人と元老院は勝手に決めたことを後悔することになった。指揮官となった二人は偵察兵を出さずに、略奪を開しした。略奪に行った兵士たちが包囲されたという誤報を信じて、二人はすぐに援軍を送った。虚偽の報告したのはローマ兵のふりをしたラテン人であり、ローマの敵だった。二人のマンリウスは報告者の素性を調べるのを怠った。二人が派遣した援軍は突然待ち伏せ攻撃を受けた。不利な地形にもかかわらず、ローマ軍は勇気だけで必死に持ちこたえた。同じ頃、平原の反対側でローマ軍の陣地が攻撃された。二人の将軍の無知と性急さが原因で、ローマ軍は二方面で全滅しそうになった。幸運により、また指揮官の命令がないまま兵士たちは勇気だけで切り抜けるしかなかった。ローマ軍の危機が首都に伝えられると、いったん独裁官を任命することになった。しかし続いて第二報が届き、ヴォルスキ軍の動きが止まったこと知らされた。ヴォルスキ軍は勝利を目前にしながら、決着をつけられずにいた。間もなく彼らを呼び戻す命令が来て、ヴォルスキ兵は去っていった。
ヴォルスキ戦が終了すると、平和が続いたが、年末にプラエエステが再び反乱した。プラエエステはラテン人を誘ってローマに敵対した。
同じ頃セティアの植民者たちが、自分たちの人数が少ないと不満を言ってきたので、ローマは新たな植民団を送った。
(セティアはローマの南東65km、サトゥリクムの東。サトゥリクムはポンプティン地方の北部にあるが、セティアは同地方からはずれ、北方にあるが、高台にあるので、ティレニア海が見える。セティアはヴォルスキの町だったが、紀元前382年ローマは植民地を設定した。セティアは現在のセッツェである。)
プラエエステとの戦争が起きたが、国内は安定していた。安定をもたらした要因は、執政副司令官のうち半分が平民だったことである。彼らは平民に影響力を有し、平民の間で権威があった。
【25章】
捕虜を調べた結果、何人かはトゥスクルム人であることが分かった。彼らは他の捕虜と区別され、執政副司令官の前に連れて行かれた。取り調べにおいて、トゥスクルム人は「国家の承認のもとで我々は戦争に参加した」と述べた。現在の戦場であるサトゥリクムと違い、トゥスクルムは比較的ローマに近かったので、カミルスはトゥスクルムと戦争になれば厄介だと思った。トゥスクルムがローマとの同盟に違反した事実を一刻も早く元老院に知らせるため、彼はトゥスクルム人捕虜をローマに連れていくことにした。同僚の L・フリウスは陣地に残り、引き続き戦争を指揮してくれるだろう。今回の戦争の結果、カミルスは自分の戦術に固執すべきでないと悟った。自分以外にも優秀な指揮官がいることを知ったのだった。一方で、 L・フリウスとローマ兵たちは、カミルスが重大な過ちを見過ごすはずがないと考えていた。国家に最悪の災難を引き起こしたかもしれない失敗を、カミルスは決して忘れないだろう、と彼らは考えた。ヴォルスキ戦でローマ軍が最初敗北し、後で勝ったことについて、軍の兵士も首都の市民も、敗北の責任は L・フリウスにあり、勝利に導いたのは M・フリウス・カミルスだと考えていた。
トゥスクルム人捕虜を尋問した元老院は、トゥスクルムとの戦争を決定し、カミルスを司令官に任命した。カミルスが副将軍をつけてほしいと言うと、許可され、好きな人物を選んでよいと言われた。誰もが驚いたことに、カミルスは L・フリウスを副将軍にした。この寛大な行為により、カミルスは L・フリウスの汚名を消し去った。人々はカミルスを称賛した。
しかしトゥスクルムとの戦争は起きなかった。トゥスクルムはローマ軍に勝てないと判断し、同盟に永遠に忠実であることを誓い、和平を願うことにした。ローマ軍がトゥスクルムの領域に入ると、道路の近くの住民は逃げずに、耕作を続けた。町の門は開いており、市民は軍服ではなく、平服を着ており、ローマの司令官を歓迎して集まってきた。市内と郊外の市民は軍用の備蓄を物惜しみせず、ローマ軍の陣地に運んできた。カミルスは城門の近くに陣地を定め、郊外は平和な様子だが、市内も平和であるか認かめることにした。彼が市内に入ると、家々のドアは開いており、売り台にはいろいろな品物が並んでいた。働き人は仕事に忙しく、学校では子供たちが元気な声で音読していた。通りは女性や子供でいっぱいで、それぞれの用事で歩き回っていた。彼らはカミルスとローマ兵を見ても、驚かず、怖がらなかった。カミルスは念のため、戦争の兆候がどこかにないか探したが、無駄だった。平和を取り繕うため持ち去られた物はなかったし、運び込まれた物もなかった。すべてが穏やかで、平和な様子であり、戦争の足音がこの町に迫ったとは思えなかった。
【26章】
トゥスクルムの平和に偽りはなさそうなので、カミルスは町の長老たちを呼んだ。カミルスは彼らに言った。「あなたたちはローマに対する戦争を考え、ローマの怒りに対し武力で対抗しようとした。ローマの元老院に出頭し、あなたたちが処罰に値するか、元老院の判断をあおぎなさい。あなたたちは現在反省しているので、許されるかもしれない。ローマの国家が決定する前に、私はあなたたちを許すことはできない。私にできるのは許しを求める機会を与えることだ。元老院が最善の決定をするだろう」。
トゥスクルムの長老たちがローマに到着し、元老院の入り口に立った。数週間前までローマの忠実な同盟者だった者たちがうなだれてるのを見て、元老たちは哀れに思い、彼らをもはや敵とみなさず、友人としてもてなした。トゥスクルムの独裁者が代表して語った。「あなたがたは我々に戦争を宣言し、軍隊を派遣しました。我々はローマの将軍と兵士の前に呼び出され、彼らの命令に従い、我々は平服でローマに参りました。我々が着ているのは貴族と平民共通の衣服です。あなたがたに援軍を求められ、武器を提供された時しか、我々は軍服を着ません。ローマの将軍と兵士は我々の説明をうのみにせず、自分の目で確かめた結果、我々に戦争の意図がないと確信しましました。我々を信用してくれたことに感謝します。ローマとトゥスクルムとの同盟に我々は忠実でした。同盟の継続をお願いします。我々はローマの敵ではありません。ローマは真の敵国と戦ってください。実際にローマと戦って痛い経験をすれば、ローマの実力を思い知るかもしれませんが、我々は戦わなくても、ローマの強さを理解しています。これがトゥスクルムの決意です。忠実なトゥスクルムに神々が幸運を与えますように。あなた方が戦争を始める原因となった問題、実際に起きたことに対して我々は反論できません。しかし、あの者たちの行為が事実であるとしても、我々は彼らを許すべきと考えています。現在彼らは深く反省している証拠が十分あります。我々がローマを裏切ったことは認めざるを得ません。今更謝られても無意味かもしれませんが」。
トゥスクルムは平和を獲得し、間もなく完全なローマ市民権を得た。
【27章】
問題が解決し、カミルスは辞職した。彼はヴォルスキ戦で優れた戦術と勇気を発揮し、トゥスクルムの問題を幸福な終結に導いた。どちらの場合にも副将軍 L・フリウスに特別な配慮を示し、またフリウスが失敗した際、忍耐強く対応した。翌年の執政副司令官は以下の6人だった。ルキウス・ヴァレリウス(5回目の就任)、プブリウス・ヴァレリウス(3回目の就任)、C・セルギウス(3回目の就任)、L・メネニウス(2回目の就任)、P・P・パピリウス、Ser・コルネリウス・マルギネンシス。
この年、査察官の任命が必要になった。C・スルピキウス・カメリニウスと Sp・ポストゥミウス・レギレンシスが査察官になった。二人は新しく資産を評価しはじめたが、ポストゥミウスが死んだために、仕事が中断された。査察官の場合、一人でだけ新しい人物に代えてよいものか、わからなかった。その結果スルピキウスは辞職し、新たに選びなおすことになったが、選挙に不正が起きた。三度選挙を繰り返すことには宗教的な恐怖があった。この年の査察に神々が反対しているように思われた。このような失態は我慢できない、と護民官は元老院を批判した。
「元老院は執政副司令官の助言に従い、途中までなされた査察の結果を公表を恐れた。査察表には市民の不動産が記載されており、どれだけ多くの市民の土地が借金の抵当に入っているかわかるのだった。市民の半分が残りの半分によって破滅させられている実態が明らかになるだろう。元老院は様々な口実をあげ、戦争を繰り返している。兵役は富裕市民だけでなく平民にも課せられる。平民は負債を背負いながら、日々連戦している。ローマ軍はアンティウムからサトゥリクムまで進軍し、続いてサトゥリクムからヴェリトラエ、さらにトゥスクルムへと転戦した。そして今度はラテン人やヘルニキ族そしてプラエネスウテが攻撃されようとしているというではないか。これはきっとでっち上げで、貴族の本当の目的はローマの平民に復讐することだ。平民は従軍させられ、疲れ果て、首都に帰って休息できない。彼らはのんびり余暇を楽しめないし、市民集会に参加できない。護民官が借金の利息の軽減を要求したり、その他平民の窮状を訴えるのを聞くことができない。彼らの祖先が勝ち取った自由を思い出す気力が平民にあるなら、ローマ市民が借金の抵当として奴隷として売られるのを許さなないだろう。債務の実態が調べられるべきだ。債務を減らす方法が決まらないかぎり、平民は徴兵を認めないだろう。債務者が自分の借金の残額を知り、自分が抵当として奴隷になるべきか、それは利子が原因ではないかを知らなければならない」。
護民官が債務者に救済の道を示したので、平民の抗議運動は活発になった。多くの市民が債務の抵当として債権者に引き渡さていた。これは市民にとって切実な問題だった。一方元老院はプラエネステとの戦争のために新しい軍団の編制を決定した。護民官はプラエネステとの戦争に反対し、徴兵を妨害した。平民全員が護民官を支持した。政府は債務者に対する抵当権の執行を認めたが、護民官はこれを無効であると主張した。徴兵対象者の名前が呼ばれたが、誰も返事しなかった。元老院にとって、債権者の利益より軍団の編制のほうが、はるかに重要だった。プラエネステ軍が既に進軍を開始し、ガビーの郊外に到着しているという知らせがあったのである。このような状況になっても、護民官は徴兵に反対した。彼らの決心は、ますます固く、市内の騒動が続くうちに、敵はローマの城壁まで来てしまった。
【22章】
翌年の執政副司令官 Sp・パピリウスと L・パピリウスは軍隊を率いてヴェリトラエに向かった。残りの執政副司令官 Ser・コルネリウス・マルギネンシス、Q・セルヴィリウス、C・スルピキウス、L・アエミリウスはローマに残り、首都の防衛にあたった。エトルリアの各地で戦争の動きあり、彼らに備えななければならなかったからである。ヴェリトラエに集まっていた兵の中で、反乱した植民者より、プラエネステからの応援兵が多かった。ローマ軍はただちに彼らを攻撃し、勝利した。戦場はヴェリトラエから近かったので、彼らは早い段階で唯一の避難所である城内に逃げ込んだ。ローマの二人の司令官はヴェリトラエを攻撃しなかった。成功しそうになかったし、ローマの植民地を破壊したくなかったのである。戦地からローマへ派遣された伝令は「我々はヴェリトラエ兵よりプラエネステ兵を多く殺害した」と語った。この報告を聞いて、元老院はプラエネステとの戦争を決定し、市民も同意した。翌年プラエネステ軍はヴォルスキ軍に合流し、サトゥリクムのローマ植民地を急襲し、植民者の執拗な抵抗にもかかわらず、植民地を占領した。勝者となった彼らは残虐にふるまった。この事件を知って、ローマの市民は歯ぎしりした。
(日本訳注:サトゥリクムはローマの南東60km、ポンプティン地方の内陸の町。ティレニア海沿岸の都市アンティウムの東。サトゥリクムはラテン人のアルバ王国によって建設されたが、紀元前488年ヴォルスキに征服された。紀元前386年ローマはサトゥリクムを奪取した。)
M・フリウス・カミルスが6回目の執政副司令官に選ばれた。残りの執政副司令官は A・ポストゥミウス・レギレンシス、L・ポストゥミウス・レギレンシス、L・フリウス、L・ルクレティウス、M・ファビウス・アンブストゥスだった。元老院の特別命令により、フリウス・カミルスがヴォルスキ戦を指揮することになった。彼の副将はくじ引きで L・フリウスに決まった。L・フリウスはカミルスの名声をさらに高めるのに政治面で貢献した。性急なマンリウスが起こした騒動により、国家の威信は地に落ちていたが、副将フリウスは国家の威信を取り戻した。カミルスは高齢だったので、執政副司令官に就任するのを辞退しが、市民は受け入れなかった。年齢にもかかわらず、カミルスの胸は力強く鼓動動しており、視覚や聴覚も衰えていなかった。彼は国内の政治を注視していたが、戦争が始まると彼の関心はそちらに移った。4つの軍団が編成された。一個軍団は4000人の兵士からなっていた。翌日ローマ軍はエスキリン門(東側の門)に集合し、サトゥリクムに向かって出発した。サトゥリクムを占領した敵は自分たちの人数が多かったので自信満々で、ローマ軍を待ち受けていた。ローマ軍が近づいてくると、彼らはすぐに迎え撃った。彼らはできるだけ早く決着をつけるつもりだった。そうすれば人数の少ないローマ軍は指揮官が作戦する間もなく敗れるだろう、と考えた。ローマ軍の強みはは優秀な指揮官だけだからである。
【23章】
一方で、ローマ軍とカミルスの副将も闘志に燃えていた。ローマ兵は正将カミルスの用心深さと権威を信じ、何も恐れず猛攻するつもりだった。カミルスの作戦は戦闘を長引かせ、その間に巧妙な戦術を使用し、ローマ兵の強さを勝利に結びつけることだった。ローマ軍は自信がないと見て、ヴォルスキ軍とプラエネステ軍は執拗にローマ軍を攻め立てた。彼らは自軍の陣地の前で戦いを開始したが、数の優勢を頼みに、平原の中央にまで進み出てローマ軍の塹壕にまで軍旗を進めた。敵がローマ軍をなめているので、ローマ兵は怒った。 副将の L・フリウスはもっと怒った。彼は若く気性が激しく、兵士の絶望に影響された。兵士たちの士気に陰りが見えた。彼はカミルスの唯一の弱点である年齢をあてこすりなながら、兵士を勇気づけた。「戦場の主役は若者である。体力が頂点の時、勇気は頂点に達し、体力が失われると、勇気も失われる。かつてカミルスは最も優秀な戦士だったが、現在は臆病だ。昔の彼は戦場や敵の城壁に近づくと、直ちに攻撃し、勝利したものだが、現在はぐずぐずしている。時間をかければ、我が軍の戦力が増し、敵の戦力が減少するというのか。いかなる好運、いかなる時期、いかなる場所で彼は作戦を実行するつもりなのか。あの老人の計画のせいで、多くの兵士が失われるだろう。彼は軍隊の名誉を共有するだけでなく、兵士の損失に責任がある。国家の軍隊の運命を衰弱した老人に委ねることで、何が得られるだろう」。
陣地の兵士たちはの副将 L・フリウスの考えを受け入れ、多くの部隊が戦闘開始を要求した。そこで副将はカミルスに言った。「兵士の猛烈な戦意を抑えられません。我々が出撃をためらったので、敵は我々を完全に見下し、勢いを増しました。あなたの作戦に、全員が反対しています。兵士全員の考えを受け入れてください。さもなければ我々は敗北します」。
カミルスは答えた。「今日まで私は唯一の指揮官として行動してきた。私の能力と幸運を疑う者はいなかったし、私も自分の能力が低下したとは考えていない。私と同等の権限と地位にあるあなたが、私より体力があり、活動的なことを、私は知っている。私は命令するのに慣れていて、命令されるのが嫌いだ。しかしあなたは私の同僚であり、私はあなたの権威を否定しないし、邪魔するつもりもない。あなたが最善と考えることやらせてみよう。天が応援してくれるだろう。私は老人なので、前線から下がらせてもらいたい。私は老人であるが、戦闘において任務を果たすことができるし、不足するものはないと自分では思っているが、あなたにやらせてみよう。私の作戦が最善だったということにならないよう神々に祈る」。
兵士たちはカミルスの有益な助言を受け入れなかった。また、不滅の神々は愛国的な彼の祈りを聞き入れなかった。副将 L・フリウスに率いられ、兵士たちが陣地から撃って出ると、どんどん前に進んだ。カミルスは強力な予備部隊を陣地の前に置き、小高い丘の上から心配そうに戦況を見つめた。
【24章】
両軍が衝突すると、敵軍は後退し始めた。敵はローマ軍を恐れたわけでなく、これは作戦だった。彼らの後方はヴォルスキの陣地に向かってゆるやかに上り坂となっていた。彼らはは人数に余裕があったので、陣地に数個大隊を残しておくことができた。(一個大隊=480人)
数個大隊は伏兵であり、戦闘が始まり、ローマ軍が彼らのほうに近づいてきたら、飛び出すつもりだった。ローマ軍は敵を追いかけ、隊列を乱しながら上り坂に近づいた。チャンスと見て、伏兵の数個大隊が攻撃を開始した。勝っていると思い込んでいたローマ軍は新しい敵の出現に驚き、また上り坂の戦いで不利となり、後退し始めた。伏兵の数個大隊は容赦なく攻め続けた。間もなく、戦術的な後退をした本隊も攻撃を開始した。ローマ軍は総崩れとななり、少し前まで意気盛んだったことを忘れ、ローマ軍の栄光ある伝統を忘れ、散り散りになって逃げ出した。多くの兵がローマ軍の陣地へ向かって逃げた。カミルスは周囲の兵士に助けられながら馬に乗ると、予備の部隊を連れ出し、逃げ戻ってきた兵たちをひき止めた。カミルスは彼らをしかりつけた。「あれだけ勇ましく始めた戦闘の結果がこのあり様だ。これは誰の責任か。いかなる神の責任か。ほかでもない、諸君の向こう見ずな考えが原因だ。そして諸君は今や臆病だ。この瞬間から私が諸君の指揮官だ。ローマ兵であることを思い出し、勝利するのだ。陣地の防壁を頼りにするな。勝利するまで、私は誰も陣地に入らせない」。
兵士たちは自責の念に駆られ、逃げるのをやめた。予備部隊の旗手が走り出し、隊列が敵に向かって前進するの見て、彼らは反省し、互いに励ましあった。指揮官のカミルスは老人にもかかわらず、危険な最前線に出た。これを見て、兵士たちは戦場に響き渡るような掛け声を上げた。カミルスは百戦百勝の戦歴を持つ名将であり、年をとっても精神は変わっていなかった。副将 L・フリウスは不要になった。カミルスの命令により、フリウスは騎兵を指揮することになった。歩兵が総崩れの状態では、騎兵の出番はなく、フリウスは騎兵たちを叱責しなかった。フリウスは歩兵の指揮に失敗したので、もはや権威がなかった。彼は弱々しい声で騎兵全員に「作戦の失敗を許してくれ」と言った。「カミルスの反対を押し切って、私は兵士たちの向こう見ずな考えに同調してしまい、カミルスの慎重な作戦を無視した。カミルスは最悪な戦況においても、兵士たちに勇気を与えることができる人間だ。もしこの戦争が失敗に終わったら、私は諸君たちと一緒に惨めな敗北にうちひしがれるだろう。その責任は私一人が負うことになる。歩兵が逃げ腰なので、騎兵が戦うしかない。馬を降り、歩兵として戦ってくれ」。
槍を持ち、際だって勇敢な騎兵が出撃すると、戦場ではローマの歩兵は全面的に後退しいた。騎兵の将校も配下の騎兵も競って決然と、勇敢に戦った。彼らのたゆまない勇気が結果となって表れた。少し前までローマ兵に恐怖を与えてていたヴォルスキ兵はうろたえ、逃げだした。戦闘中において、また逃げる段階で、多くのヴォルスキ兵が殺された。ローマの騎兵はヴォルスキの陣地を襲撃し、ここでもヴォルスキ兵が殺された。
【19章】
元老院は個人の家で集会が開かれていることを問題視した。M・マンリウスの家はカピトルの丘にあり、丘の安全が脅かされているからである。元老の多くがセルヴィリウス・アハラのような人物が必要だと感じた。かつてアハラは危険人物を投獄するのではなく、殺害することにより内乱を終わらせた。しかし元老院は極端な処置を避け、表面的には穏健だが実効性のある決定をした。マンリウスの危険な計画が社会に害を与えないよう、最高官に対策を考えさせたのである。元老員の決定に従い、執政副司令官と護民官が集まり、必要な対策について話し合った。護民官はマンリウスの独裁者者的な性格を恐れれていた。市民は自由を失い、護民官の地位も廃止されるからである。それで護民官は元老院の決定を前向きに受け入れた。協議の参加者は武力行使と流血以外の手段を思いつかなかったが、そのようなやり方は恐るべき内戦に発展しかねなかった。二人の護民官、M・メネニウスとQ・プブリウスが発言した。「国家と危険人物の争いを貴族と平民の内戦にしてはならない。我々が平民と戦う必要はない。平民がマンリウスと敵と見るようにすればよい。平民の期待を膨らませたことが裏目に出て、マンリウスは自滅するだろう。まず裁判の日を決めるのです。平民はマンリウスが国王になるのを望んでいます。裁かれるのがマンリウスだとわかれば、群集はマンリウスを支持するのをやめ、裁判で有罪にするでしょう。貴族の一人が国王になる野心を抱いたために裁かれるのを見て、群集は自分たちの自由が失われかけたことに気づくでしょう。誰かに期待することの危険を知るでしょう」。
【20章】
話し合いの参加者全員が賛成し、マンリウスの裁判の日が決まった。これを知って
平民は動揺した。マンリウスは貴族仲間からから見捨てられ、親戚からも見捨てられ、いつも一人で、喪服姿で歩いていた。奇妙なのはマンリウスの二人の兄弟、アウルス・マンリウスとティトゥス・マンリウスが喪服を着ていたことだった。誰かが重罪で裁かれる時、彼の兄弟が喪服を着ることはなかった。アッピウス・クラウディウスが投獄された時、彼の敵であったカイウス・クラウディウスとクラウディウス家の全員が喪服を着たことを人々は思い出した。そして彼らは考えた。「マンリウスを裁判にかけるのは、大衆にとっての英雄を破滅させる陰謀だ」。
マンリウスは貴族でありながら、平民の側に移った最初の人だった。裁判が始まったが、反逆罪の証拠は提示されなかったようである。自宅で集会を開いただけでなく、反乱を呼びかける発言、黄金についての虚言が証拠とされたという記録は存在しない。にもかかわらず彼が重罪を宣告されたことは確かである。人々が裁判の結果を恐れたのは、マンリウスの行動が重罪に値したからではなく、裁判が特別な場所でおこなわれたからである。英雄的で偉大な行動をした者であっても、国王の権力を得ようとすれば、すべての功績を否定される。また人々から呪われるということを、マンリウスの裁判は教えている。
裁判が始まると、マンリウスは400人の市民に無利子でお金を貸したと語った。「そのおかげで、彼らは債権者に引き渡されれずにすにすみ、奴隷として売られずにすんだ」。続いてマンリウスは軍事的功績を数え上げ、殺害した30人の敵兵の遺品を証拠として差し出した。また40人の司令官から与えられた褒賞品を提示した。その中には守護神を象徴する王冠2個と軍功のあった兵士に与えられる王冠8個があった。さらに彼は市民たちを敵兵からから救ったと語った。その中には騎兵長官、C・セルヴィリウスがいると語ったが、セルヴィリウスは証人として出廷しなかった。マンリウスは戦場における功績を中心に彼の遠大な目的にふさわしい演説をした。彼は時折胸をたたき、輝かしい表現で自分の功績を語った。戦場で受けた傷の跡が荘厳に見えた。彼は繰り返しカピトルの丘を見上げ、危機にある自分を助けてくれるよう、ユピテルと他の神々に願った。自分が最悪の状態にある時、かつて自分に勇気を与えた神々がローマ市民に勇気を与えるよう、彼は祈った。最後に彼は審判員全員に呼びかけた。「カピトルの丘をしっかり見て、不滅の神々を見ながら、判決してください」。
兵役経験者はマルティウスの練兵場に集まり、百人隊ごとに判決しようとしていた。マンリウスを擁護する市民はカ後ろを向いてカピトルの丘に向かって手を伸ばし、神々に祈った。マンリウスの英雄的行為を思い出させる丘が見えないようにしない限り、これらの人々の呪縛を解けない、と護民官は思った。兵役経験者の頭はマンリウスの英雄的な行為と善行でいっぱいで、マンリウスに有罪の投票をするはずがなかった。投票は翌日に持ち越された。兵士経験者はフルメンタン門(北端の門)の外のぺテリンの森に集められた。この場所から、カピトルの丘は見えなかった。
(日本訳注:これまで北端の門といえば、コリナ門であったが。コリナ門と対をなす形で、フルメンタン門があった。東にコリナ門、西にフルメンタン門である。フルメンタン門は現在のポポロ門である。)
カピトルの丘が見えない場所の集会でマンリウスの有罪が確定した。人々はマンリウスの訴えに心を閉ざし、恐ろしい刑を票決した。審判員である市民にとってぞっとする判決だった。信頼できる記録によれば、実は市民が票決したのではなく、反逆罪を裁くため二人の特別裁判官が任命され、彼らの決定に従い、護民官がマンリウスをタルペイアの崖から投げ落としたのである。マンリウスの比類ない栄光の場所であった崖が、彼の処刑の場所となった。彼の死後、二つの汚名が彼に与えられた。まず国家が彼を人非人として扱った。マンリウスの家はお金の神ユノーの神殿と硬貨の鋳造所の近くにあったので、今後貴族はカピトルの丘と砦に住んではならないことになった。次にマンリウスの親族が彼の名前を忌み嫌い、今後生まれる子供はマルクス・マンリウスという名前にしてはいけないと決めた。これがマンリウスの最後だった。自由な国に生まれなければ、彼は偉大な人物として人生を終えたかもしれない。暴君が誕生する危険がなくなると、人々は、マンリウスの良い点だけを思い出し、彼を失ったことを残念に思った。間もなく、疫病が流行し、多くの市民が死んだ。疫病の原因はわからなかったが、多くの人がマンリウスを処刑したからだと思った。カピトルの丘はマンリウスの血で呪われている、と彼らは考えた。「神々は目の前でマンリウスが処刑されるのを見て、不愉快に違いない。マンリウスは神々の神殿を救ったのだから」。
【21章】
疫病の後ローマは食料が不足した。二つの災難を経験した市民たちの間で、来年は複数の戦争が起きるという噂が広まった。年末に執政副司令官が選ばれた。L・ヴァレリウス(4回目の就任)、A・マンリウス、Ser・スルピキウス、L・ルクレティウス、L・アエミリウス、M・トレボニウスが選ばれた。マンリウス、スルピキウス、ルクレティウス、アエミリウスは3回目の就任だった。
ヴォルスキに加え、複数の敵が戦争を開始した。ヴォルスキはたえずローマ軍を訓練連する運命にあるみたいだった。キルケイとヴェリトラエの植民者は以前から反乱を企てていたし、ラテン人は信用できなかった。ラヌヴィウムはラテン都市の中で最もローマに忠実だったが、突然反乱した。(ラヌヴィウムはアルバ湖の真南、ヴェリトラエの西)。
戦争のきっかけはヴェリトラエの植民者が反乱後、長い間罰せられていないことだった。ヴェリトラエの植民者はヴォルスキ人だったので、本国のヴォルスキ人がローマを見下したに違いないと元老院は考えた。元老院はこれらの敵に対しただちに宣戦布告すると決定し、国民に同意を求めた。平民の同意を促すために、ポンプティン地方とネペテの土地の分配にあたる委員が任命された。ポンプティン地方の土地の割り当てに5人のの委員が、ネペテに植民地を設定するために3人の委員が決まった。この計画が市民に伝えられると、護民官は反対したが、全部の部族が戦争に賛成した。戦争の準備が一年近く続けられたが、疫病の被害が大きく、軍隊は出発できなかった。戦争の遅れを利用してヴェリトラエのヴォルスキ人植民者たちは元老院をなだめようと考えた。彼らの多くがローマに使節を送り、許しを求めることに賛成した。しかし、しばしば国家の利益は一部の人々の利益と結びついており、反乱の指導者たちはローマの許しと引き換えに自分たちがローマに引き渡されるを恐れて、植民者たちの平和の願いを押しつぶした。反乱の指導者たちはローマに使節を送らないよう長老たちを説得しただけでなく、ローマの領土に侵入し、略奪するよう、多くの平民にけしかけた。この敵対行為により和平の望みは消えた。またこの年、プラエネステが初めてはローマに反乱した。(プラエネステはローマの東35km、現在のパレストリーナ)
トゥスクルム、ガビニー、ラビクムはローマに応援を求めた。これらの町は以前にも侵略されていた。しかしローマの態度は冷たかった。ローマは援軍を送る余裕がなかったので、元老院は3つの町の訴えを信じようとしなかった。
(ガビニーはガビーのことで、ローマの東18km。トゥスクルムはアルバ湖の北。ラビクムはトゥスクルムの北北東)
【16章】
独裁官が言った。「無駄な言いのがれをやめよ。確かな証拠を出せ。それができないなら、虚偽の理由で元老院に罪を着せたことを認めよ。元老たちが盗みをしたと君が言いふらしたために、人々は彼らを憎むようになった。最も権威ある人々の名誉を失わせるのは重罪である」。
マンリウスは罪を認めなかった。「敵の質問に答える必要はない」。
独裁官はマンリウスを投獄せよと命令した。警吏が彼を逮捕すると、彼は叫んだ。「カピトルの丘に住む最高神ユピテル、女王神ユノーとミネルバ、あなた方を防衛する兵士が敵によって迫害されるのを許すのですか。ガリア人をあなた方の神殿から追い出した私の右手が縛られ、拘束されてもよいのですか」。
マンリウスが辱められるのを見るのを耐えられる者はいなかった。しかし国民は国家の最高権威に従わねばならず、越えてはならない一線を守る必要があり、護民官と平民は独裁官に怒りの視線を向けることはなく、抗議の声を発することはなかった。マンリウスが獄につながれると、多くの人が喪に服し、髪を切らなかったとつたえられている。獄の入り口の前に、群集が集まった。彼らは落胆し、悲しんでいた。
独裁官はヴォルスキ戦の勝利を祝ったが、彼の評判はかえって悪くなった。独裁官は戦場で敵に勝利したのでなく市民に勝利したのだ、と人々は不平を口にした。彼らは皮肉を言った。「勝利を祝う暴君の凱旋行進には足りないものがあった。独裁官の戦車の前を歩く捕虜たちの中に、マンリウスの姿がなかった」。
急速に反乱の機運が高まった。元老院が率先して混乱を抑えようとした。平民をなだめるために、元老院はサトゥリクムに200人の植民者を送ると決定した。
(日本訳注:サトゥリクムはローマの南東60km、ポンプティン地方の内陸の町。沿岸の都市アンティウムの東。サトゥリクムはラテン人のアルバ王国によって建設されたが、紀元前488年ヴォルスキに征服された。紀元前386年ローマはサトゥリクムを奪取した。前386年はこの章の前年)。
植民者は2、5ユゲラ(1ユゲラは約四分の1ヘクタール)の土地を受けとることができた。しかしこれは少数の限られた市民への恩恵であり、受け取れる土地も狭かった。そしてマンリウススを裏切ることを促す賄賂だった。元老院の計画は裏目に出て、人々の怒りに油をそいだ。マンリウスの支持者たちは薄汚れた衣服を着て、険しい表情になり、彼らの意図が明らかになった。独裁官が戦争に勝利し辞任し、恐ろしい存在が消えると、人々の精神は自由になり、言いたい放題になった。
【17章】
人々は自分たちの代弁者をけしかけ、断崖の先端まで行くが、危険を前にして代弁者を見捨てる。たとえば Sp・カッシウスは、平民に土地を与えようとした。また Sp・マエリウスは自分のお金で市民を飢餓から救った。しかし二人とも破滅した。同じように、M・マンリウスも高利貸しに責めたてられ苦しんでいる市民を救い、自由な明るい生活を取り戻してやったが、自分は敵の手に渡されてしまった。平民は自分たちの保護者を見殺しにするのである。家畜を肥やしたあとで、と殺するのと同じである。執政官階級の貴族は独裁官の命令や呼び出しを拒否できないのだろうか。マンリウスは嘘を言ったとしても、また突然質問されて返事に窮したとしても、彼を投獄するのはやりすぎである。奴隷が嘘をついたからといって、投獄されることはない。独裁官と元老院はローマの最悪の日を忘れたのだろうか。ガリア兵がタルペイアの崖を登った夜はローマにとって最後の夜となったかもしれない。もし一人のローマ兵が物音に気づかなければ。見張りが眠ってしまった時、マンリウスが敵の接近に気づき、カピトルの丘は守られた。マンリウスは最初一人で戦い、負傷したが戦い続けた。カピトルの丘は最高神ユピテルの居所であり、マンリウスはユピテルを蛮人から守ったと言える。市民はマンリウスに精一杯のお礼として、半ポンド(1ポンド=454グラム)のトウモロコシを差し出した。それにより、元老院は救世主への感謝は果たされたと考えた。元老院はマンリウスを神のような人物、ユピテルに匹敵する人物と称賛し、人々は彼をカピトリヌスと呼んだ。元老院と市民から尊敬されたマンリウスが警吏に引き立てられ暗い獄につながれてよいのだろうか。すべての市民を助けた人間を助けようとする市民はいないのだろうか。
牢獄の前に集まった群集は夜になっても去ろうとせず、「マンリウスが釈放されなければ、牢獄の壁を打ち破る」と大声で言った。群集が実力行使をする前に、元老院はマンリウスの釈放を決定した。これで反乱は終らず、指導者を奪い返した群集は反乱を開始した。このような時、ラテン人とヘルニキ族使節がローマにやって来た。キルケイとヴェリトラエの植民者の使節も一緒に来た。彼らは弁明した。「我々はヴォルスキと同盟していない。われわれの仲間を釈放してほしい。我々の法律で彼らを裁きたい」。
ローマはラテン人とヘルニキ族の要求を拒否し、キルケイとヴェリトラエの植民者の使節に対してはさらに厳しい措置が取られた。彼らは母国を攻撃するという不敬な企てをしたからである。元老院は捕虜の釈放を断っただけでなく、直ちにローマを立ち去れと命令した。「さもなければ大使としての権利を認めない」。
大使は一般の外国人と異なり、安全を保障されているが、元老院は大使の地位を認めないと脅したのである。
【18章】
この年の末、マンリウスが指導する反乱の最中に、最高官の選挙がおこなわれた。新しい執政副司令官は Ser・コルネリウス・マルギネンシス(2回目の就任)、P・ヴァレリウス・ポティトゥス(2回目の就任)、M・フリウス・カミルス(5回目の就任)、 Ser・スルピキウス・ルフス(2回目の就任)、C・パピリウス・クラッスス、T・クインクティウス・キンキナトゥス(2回目の就任)だった。
年初は戦争がなかったので、貴族も平民も喜んだ。平民は従軍せずに済み、借金の重荷から解放されることを願った。現在強力な指導者がいるので、彼らは期待していた。貴族は戦争に注意を奪われずに国内問題に専念できた。貴族と平民は互いに戦う準備ができていたので、闘争は間もなく始まった。マンリウスは自分の家に平民を集め、昼も夜も指導者格の平民たちと革命の計画について話し合った。マンリウスはこれまで以上に激しい口調で憎しみをこめながら話した。名誉を重んじるマンリウスは生まれて始めて屈辱的な扱いを経験し、彼の怒りは尋常ではかった。クインクティウス・キンキナトゥスが独裁官だった時、Sp・マエリウスを投獄しなかった。しかし昨年の独裁官コルネリウス・コッススはキンキナトゥスを手本としなかった。コルネリウス・コッススはマンリウスを投獄すると、平民の憎しみをかわすかのように辞任した。元老院も知らんふりをしていた。このように考えて、マンリウスはくやしさを募らせ、ますます大胆になった。彼は激烈な調子で演説し、平民の感情を煽った。平民も怒りに火が付ていたので、熱心に彼の話を聞いた。マンリウスは以下のように述べた。
「諸君はいつになったら自分たちの力に気づくのか。動物だって本能で多くのことを知っている。諸君は自分たちの人数と敵の人数を知っている。仮に人数が互角な場合でも、諸君のほうが自由を求めて必死に戦うだろう。連中は権力を守ろうとするだけで、受け身だ。それに加えて諸君のほうが人数で圧倒的に優勢だ。従僕として貴族に使えている市民も反乱し、貴族を敵とみなすだろう。諸君が戦いを開始するだけで、勝負は決まり、再び平和になるだろう。だから、諸君が戦う姿勢を見せるだけで、連連中はひき下がるだろう。諸君は団結して立ち上がるべきだ。さもなければ、弱い個人としてすべてを耐えるしかない。諸君はまだ迷っているのか。私は諸君の期待を裏切らない。神々が私の見方であることを、諸君は知っているはずだ。私は諸君の敵を倒す人間だ。敵はうまい具合に私を処分した。何人かの市民を破滅から救った私が投獄されるのを見て、諸君は私を助けてくれた。私の敵が私にもっとひどい仕打ちをしようとしたら、私はどうなるだろう。カッシウスやマエリウスと同じ運命になるだろう。そうなったら、私は恐怖の叫びをあげるしかない。その時神々が介入してくれるかもしれない。しかし神々自身はは地上に降りて来れない。地上で私を助けてくれるのは諸君だ。神々が諸君に勇気を与えるだろう。私が兵士として野蛮人から市民を守った時、また非情な高利貸しから諸君の仲間を守った時、神々が私を勇気づけた。偉大な国家ローマの市民の精神が小さいはずはない。貴族との戦いにおいて、諸君の護民官が提供してくれるわずかな助力に満足してはいけない。諸君は貴族の支配を制限するのに熱心だが、それ以外にも貴族と論争すべき議題があるのに、諸君は関心がない。このような態度は葉諸君の本来の本能ではない。習慣により奴隷のような精神になってしまった。たとえば、諸君は外国に対しては気概があり、ローマが他国を支配するのは当然で正しい、と諸君は考えている。彼らと戦と戦い、彼らを支配するのに慣れているからだ。ところが自由を求めて国内の敵と戦う場合には、挑戦するだけで、完全な自由をに獲得きないでいる。情けない状態に甘んじている。どれほど素晴らしい指導者を得ても、また諸君自身どれほど勇気があっても、これまで完全な自由を獲得できなかった。力を発揮できて、運がよかった時、個々の目的を達成してきたが、最大の目的を達成できていない。今こそ真に偉大な目的に挑戦すべきだ。諸君が自分の幸運を試すなら、また、実績のある私に挑戦させれば、貴族に対する支配を獲得できるだろう。これまでのように貴族に抵抗するだけでは、いつまでたっても真の目的に到達できない。独裁官と執政官になる資格を平等にしなければならない。平民も独裁官や執政官になるべきだ。そうなれば、平民も貴族のように胸を張り、誇り高い精神を持つだろう。直ちに行動を始めよう。中央広場に行って席を確保しよう。借金を払えない市民に対する判決を阻止するのだ。私は『市民の保護者』になるつもりだ。私は市民に忠実であり、保護した経験もあるので、資格があるだろう。もし諸君の指導者に別の称号を望むなら、それにすればよい。諸君の目的の実現に向けて、私はさらに精力的に働くだろう」。
彼が最後に言ったことは、国王になるための最初の一歩だったという説があるが、彼の周りの陰謀者たちの目的について明確なことはわかっていないし、国王になる計画がどの程度実行されたかもわかっていない。