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  たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

古代マケドニア王国 8

2025-07-29 05:47:37 | 古代

以上がマケドニア人が到来した時の状況である。マケドニアの原初の領土について、ヘロドトスは次のように書いている。
「アルゴス(ペロポネソス半島の北東部の都市)の3人の若者がイリュリアに逃げ、その後、イリュリアの東方の都市レバイアに移り、レバイアの王に仕えた。ししばらくして王は3人に王国を去ることを求めた。三人はベルビオ山のふもとのミダスの庭園に行き、そこに住んだ。長い年月の後、彼らは町を拡大した。末の弟ペルディカスが初代国王になった」。
三兄弟を追い出した王の住むレバイアという都市はイリュリアの東方ということしかわからないが、三兄弟が住んだ「ベルミオ山のふもとのミダスの庭園」は低地マケドニアニアの東半分のどこかである。ミダス王はアナトリアに移住し、フリュギア人の王となった(紀元前740年頃)。マケドニア人が到来したのは、ミダス王が去った後である。ハルキディキ半島の付け根に住んでいたミグドニア族はミダス王と同じ部族である、とヘロドトスは述べている。
ツキジデスは「マケドニア人の先祖はテルマ湾の海岸に上陸した」と書いている。「浜辺に住んでいた人々の家は円形に並んでいた。マケドニア人は彼らを駆逐した。マケドニア人の原初の領土は西の高地マケドニアではなく、中央の低地マケドニアである」。
家を円形に並べたのは、敵がやって来た時、家を防壁として利用するためだろう。4軒の家を並べても、四角形にしかならず、円形に並べるには、最低でも6軒は必要である。せっかく家を円形に配置していたのに、先住民は追い出されてしまった。低地マケドニアに上陸したのは、3人の兄弟だけだったのだろうか。
マケドニア人の原初の領土について、ヘロドトスとツキジデスが具体的にに述べているにも関わらず、初代から第4代の王の時代に繰り返しイリュリアとの戦争が起きており、マケドニアの原初の領土が西の高地にあったと考えられる。最初に紹介した「原初の領土は中央の低地」と言う話と矛盾する。この点について説明したい。
イリュリア人のタウランティ族の王について、次のように書かれている。
タウランティ族が最初にマケドニアに侵入したのは紀元前691年だった。その後平和な関係になったが、タウランティ族は再びマケドニアに侵入するようになった。タウランティの王ガラウラスがマケドニアに侵入したのはのは紀元前678年と640年の間である。マケドニアの王アルガイオスとマケドニア軍は多くのイリュリア兵を倒し、イリュリア兵は逃げ去った。
イリュリアとの戦いに勝利したアルガイオスは、マケドニアの第2代国王である。彼について、次のように書かれている。
「アルガイオスは男たちを女装させ、花輪などで飾り、女のように見せかけて、イリュリアのタウランティ族に勝利した。タウランティ族の王はガラウラスだった」。
第2代国王アルガイオスが勝利したのは、紀元前678年と640年の間である。イリュリアによるマケドニアへの攻撃が始まったのはこれより13年前または51年前であるが、イリュリアとの最初の衝突についてマケドニア側には記録がなく、この時のマケドニアの王はが第二代のアルガイオスか、初代のペペルディカスか、わからない。おそらく、初代のペルディカスの時代にイリュリアとの戦争が始まっており、マケドニアの原初の領土は西部の高地にあったと考えるのが自然である。しかし、「原初の領土は中央の低地にあった」と考えることも可能である。中央低地には、西端に住むボッティアイア族以外にまとまった集団は住んでいなかったので、低地の制覇はそれほど時間がかからなかったと思う。この頃のマケドニア人について、重要なことが伝えられている。マケドニア人はボッティアイア族との戦闘を後回しにして、南部の高地に進出したのである。彼らは南部の高地を獲得してから北西に向かって進み、イリュリア人と衝突したのである。
マケドニア人の南部高地への進出は次のように伝えられている。マケドニア人は南方のピエリア山に向かって進んだ。ピエリア山は標高が低く、この山の北部はテルマ湾に迫っており、この山の南部は海から離れていて、海との間は平野となっている。ピエリア山の西と北を取り囲むようにアリアクモン川が流れており、ピエリア山の南にはギリシャの最高峰オリンポス山がそびえている。 ピエリア山の南部は居住に適しているだけでなく、地形が自然の要害となっており、安全である。ここにピエリア族が住んでいた。ピエリア族との戦闘は困難だったと思うが、マケドニア人は彼らを追い出すことに成功した。ピエリア族はトラキアの沿岸部に逃げた。残念ながら、ピエリア族との戦闘が何年に起きたか、伝えられてない。この時期マケドニア人の数が増えていたはずずであるが、どのようにして、ある程度の集団に成長したのか、わからない。また3兄弟の時代から末弟のペルディカスが初代の王になった経緯も伝えられていない。ピエリア山を獲得した後、マケドニア人はアリアクモン川を超えて西部高地に進出し、イリュリア人と衝突した。ボッティアイア族はピエリア族より大きな集団なので、彼らとの戦いを後回しにして、無人の山岳地帯に進んだら、イリュリア人に襲われたのである。その後マケドニア人にとってイリュリアとの戦争が課題担ったが、イリュリア人との戦争がない時期もあり、そのような時に、マケドニア人はボッティアイア族と戦い、勝利したのである。ボッティアイア族はハルキディキ半島の南部〈テルマ湾沿岸)に逃げた。ハルキディキ半島から3本の細長い半島が突き出ており、南側のパレネ半島の付け根にある港ボッティアイアは、ボッティアイア族の港だったが、アテネの植民地となった。ボッティアイア族を追い出した時、マケドニアの王は誰だったのか、伝えられていない。マケドニアの歴史では、第3代の王以後もイリュリアとの戦争が語られるが、ボッティアイア族の戦争については何も語られていない。第3代ピリッポスとそれ以後の王たちについて、次のように書かれている。(英語ウイキペディア)
ピリッポス1世はイリュリアの侵入を数回撃退したが、最後に戦死した。彼は勇敢で賢い王だった。幼い息子アエロポスが次の王になった。
第4代アエロポス1世の時代に、トラキア人やイリュリア人が攻めてきて、マケドニアは敗北した。マケドニアの人々は絶望し、戦争の際王が戦場にいれば、兵士たちは勇気を持って戦うだろう、と考えた。これが実行され、幼い王が戦場に現れると、マケドニア軍は粘り強く戦い、トラキア兵もイリュリア兵も逃げ出した。アエロポスは暇な時に、机を作ったり、卓上ランプを制作した、とプルタークは書いている。
第5代アルケタスについては、次のように書かれている。
アルケタスはアエロポス1世の息子である。彼はもの静かで、落ち着いた性格の王であり、平和な手段によって領土を維持した。アルケタスは領土拡張のための戦争をしなかった。
第6代アミュンタス1世については、やや詳しく書かれている。
アミュンタス1世は紀元前512年から498年まで統治した。彼以前の王たちについては、出来事がほとんど知られておらず、アミュンタス1世は確実な知識を得ることができる最初の王である。アミュンタス1世は第5代アルケタスの息子である。
紀元前513年、最初のペルシャ戦争が起きて、翌年ダリウス1世はアナトリアに帰り、彼に代わって、ダリウスの従兄弟のメガバズスが戦争を続けた。メガバズスはトラキアを西に進み、ストゥルマ川の流域に侵入した。ストゥルマ川は、現在のブルガリアの首都ソフィアから南に向かって流れ、ハルキディキ半島の付け根〈トラキア側)で海に出る川である。ペルシャ軍はパイオネス人を服従させ、彼らをアナトリアに移住させた。パイオネス人はストゥルマ川以外西の広い地域を支配しており、権力の空白が生まれた。このチャンスをとらえ、アミュンタス1世はアクシオス川を超えて、ミグドニアの西端のテルマ湾沿岸部を獲得した。
以上が、マケドニアの原初の領土と、最初の6人の王について知られていることである。
最後に、マケドニア人が自分たちはアルゴスの市民の子孫と主張していることについて、付け加える。
ペロポネソス半島の北東にあるアルゴスはサロニカ湾に面している。昔、アルゴスにはミュケーネの軍事拠点があった。ミュケーネの王アガメムノンの息子オレステスは母を殺し、イリュリアの東方に逃げた。彼の子孫がそこに住み、町となり、アルゴス・オレスティコ(オレステスのアルゴス)と呼ばれた。この町はリュンケスティス族の領土の少し北にある。マケドニア人は、アルゴス・オレスティコの由来をヒントに、自分たちの先祖はアルゴス人だと主張したのかもしれない。。アルゴス・オレスティコが拡大してマケドニアになった、とマケドニア人は述べていない。

ペルディカス2世について書いた後、脱線し、マケドニアの最初の6人の王について書いたが、 本線に戻り、ペルディカス2世以後の王たちについて書きたい。


       【アルケラオス1世:在位 前413-399年】
ペルディカス2世の死後、ペルディカスの長男アルケラオスが彼の後を継いだ。アルケラオスは有能な支配者として知られ、軍事と通商において大胆な改革を実行した。彼の時代にマケドニアは強い国になった。
アルケラオスの就任直後、ある事件が起きて、彼は敵国アテネとの関係を改善した。半世紀の間、アテネはマケドニアにとって脅威だったが、アルケラオスはアテネと友好的な関係を築いた。前413年の終わりごろ、シチリア島のシラキュースの戦いで、アテネは敗北し、ほとんどの船が破壊された。シチリアは海洋帝国アテネの墓場となった。アテネはこれ以後も戦い続けたが、流れを変えることはできず、10年後の紀元前404年、ペロポネソス戦争は終了した。シチリア戦争で敗北後、アテネは艦隊を再建するため大量の木材が必要となり、アルケラオスはアテネに木材を売った。アテネはアルケラオスと彼の息子たちを「アテネの代弁者」と呼んだ。

アルケラオスは純度の高い硬貨を大量に発行し、経済発展の基礎を築いた。また要塞を築き、直線の道路を敷いた。直線の道路は軍隊の移動を早め、人や物品の移動にも役立った。
アルケラオスは軍事と経済の基礎を築いただけでなく、文化の発展にも貢献した。彼は中央ギリシャの芸術を幅広く取り入れた。詩人や悲劇作家をマケドニアに招いた。彼が招いた悲劇作家の中に、アガトンやエウリピデスがいた。エウリピデスはマケドニアに滞在中に「アルケラオス」や「バッカイ」を書いた。

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古代マケドニア王国 7

2025-07-24 00:50:19 | 古代

シュボタとポティダイアの戦いの2年後(紀元前431年)、アテネはトラキアのオドリジャン王国と同盟した。この同盟を推進したのは、トラキアの沿岸にあるギリシャ都市アブデラである。アブデラはトラキアの王とアテネの両者と良好な関係にあった。トラキアのオドリジャン王国とアテネの同盟が成立すると、アブデラはアテネにハルキディキ半島の征服を持ち掛けた。さらにアブデラはペルディカス2世に陸兵を出してほしいと頼んだ。アテネはハルキディキ半島沿岸の複数の都市(反抗的なアテネの植民地)を従順にする代わりに、テルマをペルディカス2世に返還するるということだった。加えてアテネはピリッポスへの支援をやめることを約束した。ペルディカス2世にとって良い条件だったので、彼は兵を出すことに同意した。彼の弟ピリッポスはアテネに見捨てられ、トラキアに逃げた。
このように、マケドニアはアテネとトラキアのオドリジャン王国に協力したのだが、2年後(紀元前329年)、オドリジャン王国の大軍がマケドニアに侵入してきた。トラキア軍の先頭には、ピリッポスの息子アミュンタスがいた。ペルディカス2世は動揺した。トラキア軍は北方の山(現在のブルガリア南部の山岳地帯)からヴァランドヴォ(テサロニキの北方、現在の北マケドニア共和国の南東端の町〉に入り、南下して低地マケドニアに進み、マケドニアのほぼすべての都市がトラキアの支配下に入った。例外はマケドニア西部の都市エウロプス(ボッティアイア地方の町)だけだった。
ペルディカス2世は西部の山地に避難した。侵略が突然起きたため、またペルディカスの兵の一部1、000人がアカルナニア(コリント湾西部の北岸)に行っていたため、ペルディカスは何の対応もできなかった。アカルナニアはアテネ都道め同盟していたので、スパルタは彼らを攻撃した。ペルディカスはスパルタに援軍を送ったのである。エペイロス地方(ギリシャ北西部)の部族モロッシアが騎兵を送ってくれたが、効果がなく、トラキア兵は各地を略奪した。しかしトラキア軍の占領は短期間で終わった。彼らは冬に侵攻しので、間もなく略奪できる食料が尽きてしまった。アテネはトラキア軍に食料を送ると約束したが、実行しなかった。アテネはオドリジャン王国と同盟していにもかかわらず、マケドニアがトラキア人によって支配されるのを望まなかった。オドリジャン王国の国王の甥スーテスが国王に助言した。「食料が尽きてしまったので、遠征を切り上げ、帰国するしかありません」。
ペルディカス2世はひそかにオ自分の妹とオドリジャンの国王の甥との結婚を取り決め、国王の甥スーテスは花嫁の持参金をもらうことになった。スーテスは王国軍の将軍であり、後にオドリジャン王国の国王となった。ツキジデスによれば、オドリジャン軍の遠征の期間は、ハルキディキ半島での滞在も含めて、30日だった。
この事件の後、ペルディカス2世はスパルタと同盟した。スパルタがアンフィロポリスをアテネから奪った時、ペルディカス2世はスパルタ軍に援軍を送った。アンフィロポリスはハルキディキ半島の東側の付け根にある。ハルキディキ半島を伊豆半島に例えると、テルマ(現在のテサロニキ)は沼津であり、アンフィロポリスは小田原である。
アンフィロポリスは船を造るための木材の積み出し港であり、アテネはトラキアの木材を積み出していた。重要な植民地を失い、アテネにとって大きな打撃だった。今後はマケドニアの木材に頼るほかなく、マケドニアはアテネに対して有利な交渉材料を持つことになった。
紀元前423年、スパルタはマケドニアに対する返礼として、ペルディカス2世が国境地域を固めるのを助けた。マケドニアの西方のリュンケスティス族はイリュリアとマケドニアの間に住んでいる小部族の一つであるが、好戦的な部族だった。
アレクサドロス1世以前のマケドニアは、小部族リュンケスティスではなく、イリュリアの侵攻に悩まされてきた。イリュリア人はたびたびマケドニアの西部に侵入し、時には中央部の低地にまでやって来た。イリュリア人の侵攻は紀元前600年代に始まっており、マケドニアの歴代の国王にとって大きな問題となっていた。ペルディカス2世の父の時代に、イリュリア人のマケドニア西部への侵攻がなくなった。イリュリアの拡領土張時代が終わったのか、マケドニアの抵抗が大きかったので、侵攻をやめたのか、わからない。その後イリュリア人に代わってリュンケスティス族がマケドニアに侵入するようになった。リュンケスティス族はイリュリアとマケドニアの間に住んでおり、緩衝地帯にもなりうるが、イリュリアの先兵となる危険もあった。リュンケスティス族を無力化し、マケドニアにとって安全な地帯とすることがマケドニア王の課題になっていた。
紀元前423年、マケドニアのリュンケスティス族討伐の計画を知ると、イリュリアは援軍を出すと言ってきた。リュンケスティス族はイリュリアにとっても厄介な存在だったので、単にリュンケスティス族を懲らしめようとしたのか、リュンケスティス族がマケドニアに飲み込まれるのを恐れ、 勝利をマケドニアに独り占めさせないためか、わからない。リュンケスティス族の討伐にスパルタ軍も参加することを知ると、イリュリアはマケドニアと戦うことにした。リュンケスティス族よりマケドニアのほうが危険な存在だとイリュリアは理解したようだ。イリュリア軍はリュンケスティスの同盟者となった。
マケドニア軍とスパルタ軍がリュンケスティスの領土を進むと、敵の陣地が見えてきた。マケドニア・スパルタ軍は。谷間をはさみ、向こうの丘の敵に向き合って布陣した。リュンケスティスの騎兵が丘をかけ下りてきた。騎兵に続いて重装歩兵が駆け下りてきたので、スパルタとマケドニアの歩兵も丘を下った。戦闘になり、スパルタ・マケドニア軍が勝利したが、多くの兵が死傷した。彼らは丘の上に戻った。ペルディカス2世とスパルタの将軍ブラシダスは2ー3日イリュリアの傭兵の到着を待った。イリュリィアは援軍を送ると約束していたからである。ペルディカスは丘を降りて、リュンケスティスの村(複数)を攻撃しようとしたが、ブラシダスは反対した。ブラシダスは戦いをやめて帰りたかった。アテネ艦隊がハルキディキ半島にやってきて、スパルタの植民地メンダイを攻撃するかもしれなかった。ハルキディキ半島から三本の細長い半島が突き出しており、一番南側のパレネ半島の中ほどにメンダイがある。パレネ半島の付け根に、ポティダイアがある。ポティダイアはアテネの植民地であり、10年前、コリントはポティダイアを奪おうとしたが失敗した)。
アテネとスパルタは戦争中だった。(ペロポネソソス戦争;紀元前431-404年)。
スパルタの将軍ブラシダスが戦闘の終了を考えていた時、イリュリアがペルディカスとの約束を破り、リュンケスティスと同盟した、という知らせがもたらされた。イリュリアが敵となったことを知り、ペルディカス2世とブラシダスは撤退を考えた。ところが、いつ撤退すべきかについて、ペルディカスとブラシダスの意見が分かれた。その日の夜の話し合いで、ペルディカスは「イリュリア軍は人数が多いので、我々は即時撤退するつもだ」と述べた。夜が明けると、マケドドニア兵は消えており、丘の上にいるのはスパルタ兵だけだった。間もなく、イリュリア軍とリュンケスティスの部隊が丘のふもとに近づいてきた。スパルタの重装歩兵は軽装歩兵を囲みながら、陣形を崩さず、後退し始めた。敵が攻撃した場合反撃できるように、ペルシダスと300人の若い兵が後衛を務めた。スパルタ兵はこれまで、野蛮な部族と戦ったことががなかった。見るからに恐ろしい姿をしたイリュリア兵は剣を振りかざさしながら、不気味な声で叫んでいた。さすがのスパルタ兵も肝を冷やた。ペルシダスは「これまで通り戦えばよい」と言って兵士たちを落ち着かせた。実際に戦闘が始まると、イリュリア兵は集団による戦い方を知らず、一人対一人の戦いしか知らなかった。彼らはまとまって行動することを知らないので、状況が悪くなると、自分の判断で勝手に逃げるのだった。
スパルタ軍が後退したのを見て、イリュリアとリュンケスティスの兵士たちは「敵は弱い」と考えて、襲い掛かったが、跳ね返された。何度繰り返しても同じだった。イリュリアとリュンケスティスが攻撃をやめたので、スパルタ軍は何事もなく、撤退できた。スパルタ軍が平地に降りると、彼らを追いかけてきたのは一部の兵だけで、敵の大部分はマケドニアの部隊を追いかけた。彼らはマケドニア兵に追いつき、次々に殺した。その後イリュリアとリュンケスティスの兵士たちはマケドニアとリュンケスティスの土地を結ぶ山道を先回りし、スパルタ軍の逃げ道をふさいだ。スパルタ軍が山間部の道が細い場所に差し掛かった時、敵が現れた。ブラシダスは300人の若い兵士に向かって「丘の上に逃げろ」と言った。丘の上の戦闘で、スパルタ軍は敵兵に勝利した。間もなくスパルタ軍の本隊が追い付いてきた。しかしこの戦闘で倒した相手は敵の一部に過ぎず、今後再び戦闘が起きる可能性があった。そのためスパルタ軍は山の尾根伝いに歩き、マケドニアの西端の町アルニサに帰った。スパルタの兵士たちは、独断で撤退したマケドニア軍に対して怒っていたので、マケドニア人の牛車に出会うと、牛を殺して、荷物を奪った。スパルタ軍の略奪行為を知り、ペルディカス2世はブラシダスを敵とみなすようになった。この事件の後、ペルディカス2世はアテネと同盟した。しかし6年後の紀元前417年、彼はアテネとの同盟を解消し、再びスパルタ都同盟した。ペルディカス2世は紀元前413年に死んだ。長男のアルケラオスが後を継いだ。

ペルディカス2世の時代に起きたことを知ると、マケドニアの領土が3つに分かれていたことがわかる。中央低地、西部の高地、東のハルキディキ半島の付け根である。これらの領土が、どのような順序でマケドニアの領土となったのだろう。
    〈マケドニア王国の成立〉
古代の地図によると、低地マケドニアには少人数の部族しか住んでいなかった。この地域は3つの川の下流にあり、これらの川はテルマ湾に流れ注いでいた。この地方は湿地で、居住に適していなかった。低地マケドニアの東のはずれはハルキディキ半島付け根であり、半島の付け根にはミグドニア族が住んでいた。ミグドニア族はトラキア人という説もあるが、トロイ戦争前、フリュギア(アナトリア西部)にミグドンという王がいたので、フリュギア人かもしれない。マケドニア人はまだ到来していない。一方、低地マケドニアの西端は高地マケドニアのふもとであるが、ここに住んでいたのはボッティアイア族である。ボッティイア族はクレタ島から来たと言われている。ハルキディキ半島と低地マケドニアの北方、バルカン山中には、パイオネス人住んでいた。パイオネスとは、未開の地の人という意味である。未開の土地を切り開く人を意味するパイオニア(英語)の語源はギリシャ語のパイオネスに由来する。パイオネス人は内陸に住む人々だったが、彼らの一部が南下し、ハルキディキ半島の付け根に進出した。ここにも湿地があったが、両側台地だったので、湿地は気にならなかった。一方はバルカン山脈のふもとの丘であり、反対側のハルキディキ半島は台地だった。また海に近く、居住に適していた。この地方はミグドニア族の土地だったが、パイオネス人は先住民の土地に割り込み、後に支配者となった。

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古代マケドニア王国 6

2025-06-28 22:29:35 | 古代

ペルシャの側で戦ったテーベは戦後ギリシャの敵と見なされ、ボイオティアの代表権を奪われた。またスパルタはテーベを隣保同盟から追放することを提案したが、実現しなかった。アテネはテーベが置かれた状況を理解していた。テルモピュラエの戦いで、テーベの兵士たちはギリシャ軍の一員として、よく戦ったのである。最後には全滅を覚悟のうえで、スパルタ軍とともに戦った。テルモピュラエが突破された以上、テーベがテサピエやプラタイアとともに戦っても、勝てる見込みはなく、テーベの支配者が降伏を選択したのは妥当な判断だった。
以上で、ペルシャ戦争におけるマケドニアの役割についての説明を終わりである。ペルシャが敗退したので、マケドニアは独立を回復した。ペルシャへの従属と言っても、戦時にペルシャのために行動することを求められるだけで、平時はほとんど干渉されなかった。
アレクサンドロス1世について伝えらられていることは少なく、以下の通りである。
彼はアミュンタス1世の後を継いで王となった。在位は紀元前497年から454年までの43年間である。アレクサンドロス1世はギリシャを崇拝しており、自分の先祖はギリシャ人であると主張した。マケドニアの最初の領土はハルキディキ半島の付け根にあり、アルゴスの市民がイリュリアを経由し、ハルキディキ半島の付け根に来たと言われている 。(アルゴスはペロポネソス半島の東北部にある都市)。
オリンピックの審判団はアレクサンドロスの主張を認め、マケドニアの選手が初めてオリンピックに参加した(紀元前504年)。審判団はギリシャ人でなければ参加を認めず、チェックは厳しかった。アレクサンドロス1世はアテネの宮廷を見習って宮廷を整備し、ピンダーやバッキリデスなどの詩人の保護者となった。この頃からアレクサンドロス1世は「ギリシャを崇拝する人」と呼ばれるようになった。アレクサンドロス1世の死後のことになるが、アテネが最初に外国の領事を受け入れたのは、マケドニアの領事である(紀元前409年)。


   【ペルディカス2世 在位:紀元前454ー413年】
              perrdiccus ii/wikipedia
アレクサンドロス1世が急に死んだので、後継者問題が起きた。彼の長男ペルディカスが後を継いだが、二人の弟ピリッポスとアルケタスが地方を切り取って、支配した。ペルディカス2世はアルケタスの領土を奪い返したが、ピリッポスの領土を取り返すことができなかった。ピリッポスの領土はアクシオス流域から、ハルキディキ半島の付け根にまで至っており、低地マケドニアの中央部と東部を占めていた。(アクシオス川は低地マケドニア中央部を北から南に向かって流れ、テルマ湾に注ぐ川)。
当時マケドニア南部の奥地の辺境にあるエリミオティス地方はマケドニアの領土ではなく、エリミオティス部族の王(デルダス1世)が支配していた。紀元前433年、ピリッポスはデルダス1およびアテネと同盟し、相互防衛を約束した。辺境の地方とは言え、敵が増えたことで、ペルディカスにとってアクシオス流域地方の奪回はさらに困難になったが、彼はアテネに対抗するため、アテネの植民地に反乱を起こした。ピリッポスの領土内にある港町テルマ(テサロニキの昔の名前)はアテネの植民地だったが、アテネに対して反乱した。同様にアテネの別の植民地が反乱した。ハルキディキ半島の港町ポティダイアもアテネに対して反乱した。テルマはハルキディキ半島の付け根にあり、半島の沿岸に沿って進むとポティダイアがある。(ハルキディキ半島を伊豆半島に例えると、テルマは沼津で、ポティダイアは西伊豆の堂ヶ島である。)
アテネはただちに1,000人の歩兵(長い槍を武器とし、盾を持つ兵士)と30隻の船を派遣し、テルマを占領した。続いてアテネの部隊はマケドニアの都市ピュドナを包囲した。間もなく、アテネの援軍、2,000の歩兵と40隻の船が到着した。(ピュドナはマケドニア南部の沿岸にある港町)。
この時、アテネ軍に悪い知らせが届いた。コリントが1,600の重装備の歩兵と400の軽装備の歩兵をポティダイアに送ったのである。この危機に対応するため、アテネ軍はペルディカス2世と平和条約を結び、急いでピュドナを去り、ポティダイアに向かった。ところが、ペルディカス2世はアテネとの和平を破棄し、コリントと一緒にアテネと戦った。しかしポティダイアの戦いで、コリントとペルディカス2世は敗北し、アテネが勝利した。この戦争が引き金となって、アテネとコリントは全面戦争に突入した。ポティダイア戦の少し前、アテネとコリントはコルキュラ島(現在のコルフ島)をめぐって戦っており、ポティダイアとコルキュラ島における両国の争いがペロポネソス戦争の導火線になった。コルキュラ島はエピロスの沿岸に浮かぶ島である。現在コルフ島はアルバニアとギリシャの国境の対岸にある。
  (1915年セルビア軍はドイツ・オーストリア軍に敗れ、イギリスの船でコルフ島に脱出した。セルビアは内陸国だが、モンテネグロ地方の南西部はアドリア海に面していた。ユーゴスラビアが解体し、モンテネグロが独立したので、セルビアは海への出口を失った。モンテネグロはアルバニアの北にある。バルカン半島の西側の海岸線は南からギリシャ、アルバニア、モンテネグロ、クロアチアである。アルバニアとギリシャの国境の近くにコルフ島があり、コルフ島以南の海はイオニア海で、コルフ島以北はアドリア海である)。
コルキュラ島(コルフ島)とコリントの争いの原因は以下のようなものである。コルキュラ島は古い時代にコリントの植民地となったが、その後ギリシャで3番目の海軍国に成長し、コリントの支配から離脱することを望み、アテネと同盟した。コリントとアテネはライバル関係にあり、コリントはスパルタと同盟した。コルキュラの求めに応じ、アテネは10隻の船を派遣した。しかしアテネはコルキュラに注文をつけた。「コリントの歩兵が島に上陸しない限り、我々は戦争に参加しない」。
アテネはコリントとの戦争に対して慎重だった。コリントはアテネに次ぐ海軍国であり、しかもスパルタと同盟していたからである。スパルタはギリシャで最強の陸軍国であり、コリントとスパルタの同盟は強力だった。コルキュラがコリントから独立したいことが、戦争の根本的な要因だったが、直接の原因はイリュリアの沿岸の都市エピダモスの内紛である。エピダモスはコルキュラ島の北方の港湾都市である。後にローマはこの港町をギリシャへの入り口として利用する。現在の地図では、コルキュラ島はアルバニアの南端の対岸にあり、エピダモスはアルバニア北部の沿岸にある。
紀元前627年、エピダモスはコリントの植民地となったが、コルキュラ人も植民に参加した。エピダモスの支配階級は海外貿易を独占しただけでなく、イリュリアの内地との交易をも独占しており、平民は不満だった。紀元前433年平民の不満が爆発し、貴族はイリュリアの内陸に逃れてから、コルキュラに助けを求めた。一方平民はコリントに助けを求めた。こうしてコルキュラとコリントの戦争が始まった。
コリント艦隊はコリント湾を出て、北に向かった。これにメガラの艦隊が加わった。メガラはコリント地峡の東側にあり、サロニカ湾に面しており、ペロポネソス半島を回らなければ、コリント湾の出口には来れない。イオニア海のどこかににメガラの基地があったのかもしれない。メガラの艦隊に加え、もう一つの艦隊がコリント艦隊に加わった。コリント湾の出口に浮かぶ島アンブラキアの艦隊である。コルキュラとアンブラキアはイオニア海の隣同士で仲が悪かった。コリント、メガラ、アンブラキアの連合艦隊150隻はコルキュラ島の手前で、コルキュラとアテネの艦隊130隻に出会った。コルキュラの海軍はコルキュラ島の南の小島シュボタ島を基地にしていたからである。シュボタ島の付近で会戦になり、この戦いはシュボタの海戦と呼ばれることになる。両軍の船には重装歩兵と弓兵、さらには槍兵が乗っていて、船の先端の衝角を敵の船にぶつけて破壊する戦い方だけでなく、陸兵が相手の船に乗り込んで戦った。コリントの艦隊は兵士をコルキュラ島に上陸さるつもりがないようなので、アテネの10隻は戦いに参加せず、コルキュラが単独で戦かった。コルキュラの艦隊の右翼がコリントの艦隊の左翼を撃破した。コリントの左翼は沿岸の基地まで逃げて行ったが、コルキュラ艦隊の右翼は彼らを追撃し、基地を焼き払った。反対に、コルキュラ艦隊の左翼はコリント艦隊の右翼に負けてしまった。敵の基地を焼き払ったコルキュラの右翼が戻ってきて戦いに参加したが、コリント艦隊の右翼二撃破された。コリントの右翼は強かった。これまで静観していたアテネの10隻が同盟国コルキュラを助けるため、戦闘を開始した。アテネ海軍の介入にもかかわらず、コリントの右翼が勝利した。コリントの右翼は破損した敵の船の間を通り、乗組員や陸戦隊を殺害した。捕虜となった者の数より、殺された者のほうが多かった。コルキュラの右翼の船には、捕虜になったコリントの同盟国メガラやアンブラキアの兵士や船員も乗っていたが、コリントの兵士たちは判別できずに彼らを殺してしまった。破壊されなかったコルキュラとアテネの船はコルキュラ島に逃げ帰った。コリント艦隊が追って来たので、コルキュラとアテネの兵と船員は島の奥地に逃げた。翌日20隻のアテネ艦隊が応援にやってきて、コリント艦隊に対し、「上陸したら、攻撃する」と通告した。コリント艦隊は勝利の戦いを中断し、去っていった。コリント艦隊はアテネとの戦争を望んでいなかったからである。しかしながら、勝利したはずの戦争を引き分けみたいにされて、コリントはアテネを恨んだ。そして同じ年、ポティダイアの戦闘でコリントはアテネに再び煮え湯を飲まされた。コリントとアテネの関係は発火寸前となった。コリントはスパルタと同盟しており、アテネとの戦争は時間の問題となった。

 

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古代マケドニア王国 5

2025-06-28 02:30:09 | 古代

マルドニウスと彼の部隊はアテネの市街地を徹底的に破壊していたが、スパルタ軍が北上していて、やがてギリシャ軍に合流するろうと知らされた。ギリシャ軍はポイオティア西部に来ると思われたので、マルドニウスはそちらに向かった。ペルシャ軍アッティカ北部の山越えの道を通り、タナグラで一泊した後、アソポス川に沿って南西に進み、テーベの少し南を過ぎると、プラタイアに至り、町の近くに基地と防壁を築いた。そこはキタイロン山脈の北側で、アソポス川の上流の北側 だった。マルドニウスがプラタイアを陣地に選んだのは、アソポス川が飲み水として利用でき、食料の備蓄が十分あるテーベから近かったからである。テーベはペルシャと戦わずに属国になっていた。アソポス川の対岸(南側)は山地であるが、ペルシャの歩兵は軽武装で、山岳戦に慣れていた。一方重装備のギリシャの歩兵は平地の戦場に適していた。
ペルシャ軍は歩兵7万、騎兵1万人と伝えられている。ギリシャ軍はその半分で、3万8千だった。ペルシャ軍は有利だったものの、8万人の食糧を確保するのは大変だった。85km北東のテーベに食糧があったが、最低でも日々1700頭の馬が彼らに食料を届けなければならなかった。ペルシャの船がダーダネルス海峡からマリアコス湾の西端の都市ラミアまで食料を運んでいた可能性があるが、ラミアからプラタイアまで運ぶには日々2600頭の馬が必要だった。マケドニアが食料を供給していたとも言われているが、マケドニアは、はラミアより遠く、限られた量しか運べなかった。ペルシャ軍は長期間戦うことはできなかった。
マケドニアのアレクサンドロス1世はマルドニウスの部下であったが、ペルシャ軍の陣地の場所と作戦をギリシャ軍に伝えた。スパルタの将軍パウサニアスが率いるギリシャ軍がプラタイアに到着し、キタイロン山からペルシャ軍を見下ろした。川の向こうにのペルシャ軍の戦列(4kmの長さ)が見えた。パウサニアスは攻撃しようとはせず、兵士たちは戦列を崩さずに座って休んだ。ペルシャの騎兵がやって来て、攻撃したかと思うと、すぐに去っていった。これを繰り返しているうちに、ペルシャの騎兵はギリシャ軍の戦列の端が孤立しているのを発見した。ギリシャ軍の戦列の西端は崖になっており、そこで戦列はいったん終わっていた。崖は1km先で徐々に平地になり、そこにメガラの部隊が400mの戦列を組んでいた。戦列の終わりの部分(250m)の兵士たちは完全な平地に立っており、騎兵にとって攻撃しやすかった。ペルシャの騎兵隊は繰り返し、彼らを攻撃した。メガラ部隊の指揮官は援軍を求めた。「援軍が来ないなら、我々は撤退する」。
300人のアテネの歩兵と弓兵が平地のメガラ兵と交代した。アテネの弓兵はペルシャの騎兵隊長の馬に矢を命中させ、騎兵隊長マシティウスは馬から投げ出され、ギリシャの戦列の前にころがり落ちた。アテネの兵士たちは槍を突き刺したが、マシティウスは金属片を張り合わせたよろいを着ていたので、死ななかった。アテネ兵の一人が彼の目に槍を突き刺し、マシティウスは死んだ。ペルシャの騎兵たちはマシティウスの遺体を回収しようとしたが、ちょうどこの時、アテネの部隊に追加の援軍が到着し、ペルシャの騎兵たちは隊長の遺体を回収できずに、退却した。彼らは隊長の死を嘆き、髪を切り、馬のたてがみを切った。
ギリシャ軍は敵の指揮官を打ち取り、士気が上がった。彼らは丘を下り、前進し、アソポス川の近くまで来て、追うのをやめた。アソポス川は水量があり、遮蔽物ととして役立った。その後ペルシャ軍は西に移動した。アソポス川の上流のほうに移動したのである。どちらの軍も攻撃を開始せず、7日たった。マルドニウスは、ギリシャ軍が平地に降りてくるのを待った。ギリシャ軍は勝利する自信がなかった。8日目、テーベの市民がギリシャ軍にやってきて、「ペルシャ軍の偵察兵が川を越えた」と伝えた。
その日の夜、ペルシャの騎兵隊がギリシャの補給部隊を攻撃し、食料を奪った。その後の2日間、ペルシャの騎兵はこれを続けた。次に彼らはギリシャ軍を攻撃し、水が湧き出ている場所を奪った。ギリシャ軍は食料と水を絶たれた。水については、アソポス川の水を飲めばよかったが、対岸のペルシャの弓兵に狙われるので、上流または下流へ行かなければならず、陣形が崩れてしまうのだった。ペルシャの騎兵に奪われた泉はギリシャ軍の背後にあった。
12日目、ギリシャ軍は食料と水の不足が顕著になり、山の方に後退することにしたした。南東で、つまり最初にギリシャ軍が到着したあたりで、補給部隊が滞留していた。彼らはペルシャの騎兵を恐れて、先に進めなかった。最初に到着した場所は、近くに、北に向かって流れる小川があった。しかし南東にではなく南に向かった部隊のほうが多かった。南西に進むとプラタイアの町があり、食料と水を得ることができた。ギリシャ軍の3分の2は南西に向かい、スパルタとテゲア(スパルタの北、アルカディア地方の都市)の部隊だけが南東に向かった。移動中に攻撃されるとまずいので、彼らは夜に移動することにした。
一方ペルシャ軍も食料がなくなりかけ、テーベに戻ろうとしていた。テーベには食料の備蓄があり、騎兵の馬や運搬用の家畜のえさもあった。ペルシャ軍の将軍アルタバゾス(ダリウス1世の従弟)はテーベへの退却を主張したが、マルドニウスは退却を拒否した。ペルシャ軍のほうが数が多いので、マルドニウスは決着をつけたかった。また今戦わなければ、ギリシャ軍に援軍が合流し、不利になるだけだった。
夜になり、ギリシャ軍は移動を開始した。最初に出発した部隊は南西に進んだが、夜道に迷い、目的地に行けなかった。スパルタとテゲアの部隊は南東に向かった。補給部隊は南東からプラタイアに向かう峠道を来ているので、彼らを護衛するのが目的だった。しかしスパルタの部隊の一部は、夜が明けても泉の下方に残留していた。スパルタ軍の指揮官アモンファレタスは退却を拒否したのである。
アテネとプラタイアの部隊は南西に向かって出発したが、最初に出発した部隊に道をふさがれ、先に進めなかった。アテネの指揮官はどうしたらよいか、総司令官パウサニアスに伝令を送った。パウサニアスは「プラタイアの町の周辺ではなく、南東に向かい、峠道まで行き、できればスパルタ軍に合流せよ」と命令した。パウサニアスの返事は明け方前に届いたが、アテネとプラタイアの部隊は道に迷わないように、夜が明けてから移動を再開した。アテネとプラタイアの部隊は、なぜかわからないが、南東に向かわず、プラタイアの町の西側に到達した。最初に出発した部隊はプラタイアの町の南側に到着した。ギリシャの部隊が移動を開始しすると、ペルシャの騎兵は彼らを追跡した。ペルシャの騎兵はギリシャ軍が2方向に分かれたのを知っており、南東へ向かったスパルタとテゲアの部隊を最初に攻撃した。騎兵の攻撃により、戦闘が始まったわけではなく、ペルシャの騎兵はすぐに去っていった。
ペルシャ軍が到着するまでに、まだ時間があり、ギリシャ軍はそれぞれの目的地に到着した。最初撤退を拒否したアモンファレタスとスパルタ兵の一部もスパルタ軍に合流してきた。ギリシャ軍の移動は8月27日前後と言われている。ペルシャの騎兵がギリシャ軍の移動を知った時点で、マルドニウスにこれを報告していた。ペルシャ軍が移動を開始するのはこれ以後であり、ペルシャの騎兵がギリシャ軍を追いかけたのは偵察が主な目的であり、ギリシャ軍を攻撃したのは威嚇しただけだった。
しばらくして、ペルシャ軍の左翼がパウサニアスの部隊(スパルタとテゲアの部隊)を攻撃し、戦闘が始まった。スパルタとテゲアの部隊は東におり、孤立していた。ペルシャ軍の左翼を率いているのはマルドニウスであり、最強の部隊だった。ペルシャの騎兵及び歩兵が一斉に矢を放ち、矢がギリシャ軍に降りかかった。パウサニアスはアテネの部隊に弓兵を送ってほしいと頼んだ。アテネの部隊に優秀な弓兵がいたので、弓矢には弓矢で対抗しようとしたのである。しかしギリシャの部隊も攻撃を受けており、救援に行けなかった。ギリシャとプラタイアの部隊を攻撃したのは、テーベなどのギリシャ人部隊だった。降伏したボイオティアの部隊がペルシャ側で戦っていたのであり、ギリシャ軍にとって大きな痛手だった。
パウサニアスは吉兆が現れるのを待ち、部隊を進めなかった。降ってきた矢にあたり、ギリシャ兵が次々に倒れた。テゲアの部隊は矢を避けるために、ペルシャ軍に向かって行った。ペルシャ軍の前列は鉄片をつなぎ合わせた胸当てを鎧とし、楯と弓を持っていた。後列の兵は槍と弓を持ち、楯を持たなかった。彼らの戦列は9列あった。ギリシャ軍にようやく吉兆が現れ、パウサニアスはスパルタ兵に前進を命令した。スパルタとテゲアの兵は敵の最前列に向かって、槍を突き刺した。敵の楯を貫こうとした兵もいた。ペルシャ兵は弓を捨て、ギリシャ兵の槍をつかんで折ろうとしたが、槍は折れなかった。ギリシャの部隊は密集陣形で押していった。ペルシャ兵はこのような攻撃に慣れていなかったので、胆力を失い、後退した。ペルシャ軍の後列の兵が側面からやって来て、ギリシャの密集陣形を崩そうとしたが、失敗した。ペルシャ兵は次々に倒された。ギリシャ軍にも犠牲が出たが、彼らは陣形を崩さず、ひたすら押していった。ペルシャ軍の陣形は崩れ、スパルタ軍は突き進み、敵将の前に出た。マルドニウスの親衛隊との交戦となり、両方の兵が倒れた。間もなく、スパルタ兵の一人が石をマルドニウスに投げつけ、マルドニウスは死んだ。大将を失ったペルシャ軍は彼らの陣地に逃げ帰った。スパルタ兵が彼らを追いかけると、ペルシャの騎兵が攻撃してきた。味方の歩兵に逃げる時間を与えるためだった。
一方西の戦場では、テーベの部隊はしばらくアテネの部隊と戦い続けていたが、やがて彼らも彼らも退却した。皮肉なことに、テーベの部隊は良く戦い、ギリシャ軍の損失が大きかった。特にメガラの部隊の死傷者が多かった。
ペルシャの騎兵に邪魔されたものの、スパルタ軍は敵の陣地についた。アテネ軍が壁を乗り越える梯子を持っていたので、スパルタ軍は彼らを待った。アテネ軍が到着し、テゲアの兵が最初に陣地に乗り込んだ。ペルシャ兵は戦う用意をしていなかったので、次々になぎ倒された。ヘロドトスによれば、生き残ったペルシャ兵は3,000人だけだった。しかしこれは捕虜の人数であり、生き残ったペルシャ兵の数はわからない。

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古代マケドニア王国 4

2025-05-19 04:16:25 | 古代

  〈サラミスの海戦〉
テルモピュラエの戦いが終わり、ギリシャ艦隊はマリアコス湾防衛の任務が 終了し 、彼らはアルテミシウム海峡を去り、サラミスに向った。アテネを脱出する最後のグループを運ぶためだった。航行中にテミストクレスはペルシャ艦隊の中のイオニア地方の部隊に向けて、手紙を書き、飲み水が得られる場所、つまり泉が湧き出ている場所をいくつか教え、寝返りを促した。イオニア地方の住民はギリシャ人なので、寝返ってくれる可能性があった。
ペルシャの地上軍はボイオティアを征服し、アテネに向っていた。アテネの市民はほとんど脱出していたが、最後のグループが残っていた。一方一方ペロポネソス半島の諸都市はコリント地峡でのペロポネソス防衛戦を準備していた。コリント地峡を通る唯一の道路を破壊し、壁を建設した。しかしペルシャの艦隊が地上兵をを運び、防衛線の背後に降ろすなら、地峡での防衛作戦は無意味になるのだった。アテネ市民の救出が完了し、作戦会議が開かれると、コリントの提督はコリント地峡の海上封鎖を主張した。一方、ギリシャ艦隊の指導者テミストクレスはペルシャ艦隊を消滅させることを考えており、次のように述べた。「アルテミシウムの海戦で、接近戦が我々に有利だとわかった。海峡で戦えば、我々は勝てる。ペルシャの艦隊の大部分が消滅すれば、コリント地峡の防衛は容易だ」。
アルテミシウムでは両軍が同数の船を失っているが、ギリシャ艦隊は互角に戦ったとも言えた。またアテネは127隻の半数を失っているが、アルテミシウム戦に参加せず、アッティカ沿岸を警備していた船も多かったので、決戦となるサラミス戦には、アテネの全ての船が参加し、180隻となった。アテネ以外のギリシャの船もアルテミシウム戦の時より多く、全体で370隻となった。アルテミシウムの時は270隻だった。テミストクレスが強気だったのは、彼の性格にもよるが、異常のような背景があった。
会議の出席者はテミストクレスを支持し、ギリシャ艦隊はサラミス島の東岸に停泊した。付け加えると、ギリシャ艦隊の司令官はスパルタ人であるが、テミストクレスは作戦会議をした。
アッティカは南に突き出る半島となっており、半島の東側の大部分はエウボイア海峡に面しており、南部だけエーゲ海に面している。半島の西側はサロニカ湾に面している。サロニカ湾はアッティカとペロポネソス半島の間の海である。アッティカの西側はサロニカ湾に面しているが、半島の付け根にサラミス島があり、島の北と東は海峡になっている。サラミス島の東の対岸にアテネがある。アテネは海峡に近いが海に面してはいない。
数日後、ペルシャ艦隊がサラミス島の近くに現れた。彼らは翌日のの夜明けに攻撃することにした。夜が明けると、ペルシャ艦隊が海峡に入って来た。ギリシャ艦隊は戦う態勢で待ち構えていた。ギリシャの乗り組員は勇敢な祖先を見習い、同胞とギリシャの未来のために戦うつもりだった。アルテミシウム戦の時、ギリシャの艦隊は一列に半円上状に並んだが、サラミスは狭い海峡だったので、ギリシャの船は2列に並んだ。ペルシャ艦隊は海峡に入ったが、狭い海域でぎゅうぎゅう詰めになり、自由な動きが制限された。ギリシャの艦隊は敵を見て急に後退した。彼らは朝風の吹くのを待って、戦闘開始を遅らせようとしたのだった。ところが、一隻だけは後退せず、ペルシャの船に向って行き、衝角をぶつけた。これを見て、他の船も朝風を待たずに攻撃を開始した。ペルシャの最前列の船は後退し、2列目と3列目の船の進行の邪魔になった。ペルシャの船は動きが遅くなった。戦闘開始から間もなく、ペルシャ艦隊の提督アリアビグネス(クセルクセスの弟)が戦死した。彼の船に織り移ったアテネの重装歩兵によって殺されたと言われている。アテネの船には歩兵が乗っており、その一人がアリアビグネスに槍を突き刺し、海に突き落とした。アナトリア西岸の都市ハリカルナッソスの女王が彼の死体を見た。女王はカリア地方の艦隊の指揮官であり、彼女の船はアテネの船に追いかけられていた。彼女は味方の船に昇格をぶつけた。これを見たアテネの船の艦長は彼女の船を味方だと判断し、追跡をやめた。司令官である大王の弟を失ったペルシャ軍は混乱した。フェニキア艦隊は海岸まで押し押し流され、多くの船が座礁した。ギリシャの戦列の中央部分がペルシャの戦列を突破して進み、ペルシャ艦隊は左右に2分された。
ぺルシャ艦隊は劣勢となったが、ハリカルナッソスの女性艦長は果敢にギリシャの船を攻撃した。彼女はアテネの船から逃げ切ると、戦いを再開したのである。彼女を高く評価した大王クセルクセスの言葉が残っている。「私の艦長たちは女みたいだが、女の艦長は男みたいだ」。
ペルシャ艦隊は南に向かって逃げたが、アエギナの艦隊が彼らを攻撃した。(アエギナ島はサラミス島の南に浮かぶ島)。
戦意を失ったペルシャ艦隊はアッティカのファレルムの港に避難した。ファレルムにはペルシャの地上軍の一部が残留していた。
ペルシャ艦隊は200ー300隻の船を失った。彼らは以前2回の嵐で600隻失っており、アルテミシウムで70-100隻失っている。1200隻でギリシャに向かったのに、現在は300隻以下になった。残った船の中には帰国を考える艦長もいて、海戦は終了した。
最後にペルシャ艦隊とギリシャの艦隊について補足する。ギリシャに向かったペルシャ艦隊は数が多いだけでなく、乗り組員は熟練しており、彼らの船はスピ-ドをがあった。彼らは船の先端の衝角を敵の船の横腹にぶつけ、沈めたり、オール(櫂:かい)を支える部分を破壊し、航行不能にすることができた。広い海域であれば、彼らは有利だったが、サラミス海峡は狭く、自由に動けなかった。ギリシャ艦隊の中心となるアテネはペルシャとの戦争に備え、急いで戦闘艦隊を建設したのだった。彼らの船は大きく、頑丈だったが、スピードが遅かった。乗組員は経験が浅く、操船術ではペルシャの船員に遠く及ばなかったが、ギリシャの船には武装した地上兵が乗っており、敵の船に近づと彼らは敵の船に乗り移り、海賊のように、敵の船と漕ぎ手を手に入れた。ギリシャの船も衝角攻撃ができたが、スピードが出ないので、敵に逃げられてしまうのだった。主な動力は漕ぎ手によるが、帆がついており、順風であれば、スピードが加わり、衝角攻撃ができた。両軍の船の特徴はこのように伝えられているが、実際の海戦でどのように戦われたのか、わずかしかわからない。

     【最後の地上戦】
  〈プラタイアの戦い〉  
      Battle of Plataea/wikipedia

最後の陸戦を書く前に、これまでの経緯をまとめておく。

テルモピュラエで勝利したペルシャ軍は、続いてボイオティアに向かった。テーベは戦わずして降伏し、テーベの西の都市テスピアとテーベの南東の都市プラタイアが交戦したが、敗れた。次にペルシャ軍はアテネに向かった。アテネの市民はすでに脱出していて、少数のアテネ兵がアクロポリスの丘に立てこもり、抗戦したが敗れた。アクロポリスの丘に立つ神殿は破壊された。アテネの建築を代表するパルテノン神殿とアテナの神殿が破壊され、丘のふもとの町は焼かれた。
まだ征服されていないペロポネソスの諸都市は防衛戦の準備を始めた。ギリシャの中央部からペロポネソス半島に至る唯一の道であるコリント地峡を遮断すれば、半島は守られるのであり、道路を破壊し、壁を建設し、ギリシャ軍が集結した。しかしクセルクセスにはペロポネソス半島を征服する意図がなく、ペルシャ軍はボイオティアとテッサリアで冬を過ごした。ペルシャ軍がコリント地峡に来ないとわかったので、ペロポネソス防衛のために集結したギリシャの部隊は解散した。
間もなくサラミス海峡の海戦が始まり、ギリシャ艦隊が勝利した。
ギリシャ艦隊がダーダネルス海峡を渡る橋を破壊したら、ペルシャの地上軍はトラキアで犬死することになる。ダーダネルス海峡に橋はなく、ダーダネルス海峡には橋がなく、船を並べた臨時の橋であり、簡単に破壊できた。そうなる前にクセルクセスは海峡を渡ることにした。彼は多くの兵とともに、トラキアに向かった。クセルクセスが信頼する将軍マルドニウスは志願してギリシャに残り、以後彼がペルシャ軍の司令官になった。クセルクセスが去った時、マルドニウスと残留部隊はテッサリアにいた。マルドニウスはペロポネソスを征服しても意味がないと考えていた。彼が重視したのは、ギリシャ本土の支配であり、そのためにはギリシャの艦隊を無力化する必要があった。アテネの艦隊を離脱させれば、ギリシャ艦隊は骨抜きになるので、マルドニウスは好条件を提示して、アテネを懐柔することにした。「ペルシャとの和平を受け入れ、アテネの艦隊を同盟軍から離脱させるなら、アテネは大幅な自治を認められ、肥沃な土地を与えられるだろう」。
アテネに降伏を勧める仲介者として、マルドニウスはマケドニアのアレクサンドロス1世を派遣した。アテネはスパルタの代表を同席させ、アレクサンドロス1世の話を聞いた。アテネはペルシャとの和平を拒否した。マルドニウスは再びアテネに軍を進めた。一部の市民はアテネに戻っていたが、彼らは再び脱出した。ペルシャ軍は再びアテネを破壊した。ペルセポリスの神殿はすでに破壊されており、今回はふもとの町が徹底的に破壊され、アテネの市内は更地となった。マルドニウスはサラミス島に避難したアテネ人に再び降伏を求めた。アテネはスパルタに急使を送り、「スパルタが一緒に戦ってくれないなら、我々は降伏する」と伝えた。これは6月である。スパルタは祝祭をやっていて、10日たってもも返事をしなかった。アテネが返事を催促すると、スパルタの統治者5人委員は「我々の軍隊はすでに出発した」と答えた。スパルタとアテネを中心に、ペルシャ軍と戦うことが決まった。その後多くの国が参加し、総勢38,000となった。スパルタ、アテネ、コリント、メガラが中心となった。テッサリア、ボイオティア、マケドニアはペルシャ側で戦った。ペロポネソス半島の北部はギリシャ軍の拠点となり、ギリシャ軍はここから出発して、コリント地峡からボイオティア南西部に向かった。

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古代マケドニア王国 3

2025-05-12 13:13:21 | 古代

戦闘開始の初日、2回の戦闘でペルシャ軍は多くの兵を失った。クセルクセスは「敵の兵士も負傷し、戦闘不能になったに違いない」と考えた。ギリシャ軍は兵の数が少ないので、次の一押しで勝利できるだろうと考え、翌日クセルクセスは前日と同じように部隊を繰り出した。しかし前日同様、ペルシャ軍は兵を失うだけで、隘路を突破できなかった。クセルクセスは落胆し、攻撃をあきらめ、部隊を後方の陣地に引きあげた。その日の午後、クセルクセスが打開策を考えていると、トラキア人が耳寄りな情報をもたらした。山側の道を通れば、テルモピュラエの隘路の背後に出ることができる、ということだった。トラキア人は案内人を提供してくれた。このトラキア人の名前はギリシャ人の間で「悪夢」および「裏切り者」の同意語となった。
その日の夕方、クセルクセスは「不滅の部隊」を山越えの道に派遣した。20,000の部隊がアノペと呼ばれる尾根を進んだ。しばらくして山道は2つに分かれ、一方はフォキスに向かい、他方はマリアコス湾に向かっていた。マケドニア軍はマリアコス湾に向かう道を選んだ。
戦闘3日目、テルモピュラエの南側の山中で防衛していたフォキスの部隊は樫の木の葉音を聞き、ペルシャ軍が来るのに気づいた。彼らは驚いて立ち上がった。ペルシャ軍の司令官ヒダルネスも敵の存在に気づき、身構えた。最初ヒダルネスは敵をスパルタ兵と考えて、警戒したが、案内人からフォキス兵だと教えられて安心した。フォキスの部隊は急いで近くの丘に移動した。ペルシャ軍は一斉に矢を放っただけで、それ以上攻撃しなかった。彼らは少数の敵を無視して山道を先に進んだ。ペルシャ軍にとってテルモピュラエの背後に到着することが重要であり、無駄に時間を失いたくなかった。フォキス兵の役目はペルシャ軍の侵攻を止めることだったが、何もせずに敵を通してしまった。
急使がテルモピュラエのギリシャ軍のところにやってきて、ペルシャ軍が山道を進んでおり、フォキスの部隊は進軍を止められなかった、と伝えた。翌日の夜明けに、レオニダスは作戦会議を開いた。アイオリス地方(アナトリアのエーゲ海沿岸部)出身のペルシャ人が「今回のペルシャ軍は10年前とは違い、大軍だ」と警告したこともあり、いくつかの都市が撤退を主張したが、レオニダスは戦争継続を訴えた。間もなく、ギリシャ軍の背後にペルシャ軍が現れた。レオニダスが「撤退したい者は撤退してよい」と述べたので、多くのギリシャ兵が撤退した。残ったギリシャ兵は2,000人だけだった。残留兵の中心はスパルタ人であり、他の残留兵はボイオティアのテスピアの兵士700人、テーベの兵士400人、人数不明のスパルタの隷属部族の兵士たちだった。彼らは敗北を覚悟しながら背後の敵に向かって行った。ボイオティアのテスピアとテーベの兵士たちは祖国を守るために死をいとわなかったのであり、スパルタ人はギリシャのために戦った。「スパルタ兵は撤退しない」という伝説はこの時生まれた。レオニダスたちが最後まで戦い、敵軍を引き付けたので、他のギリシャ兵が逃げることができた。その結果一定数のギリシャ兵が温存され、彼らは次の戦いの勝利に貢献した。

勝利したペルシャ軍はボイオティアに進み、ほとんどの都市を攻略し、ボイオティアは降伏した。次にペルシャ軍はアテネに向かった。アテネの市民は艦船によって救出され、サラミス島に避難したが、パルテノン神殿は破壊された。

    【海上の戦い】
  〈アルテミシウムの海戦〉
       Battle of Artemisium/wikipedia                                                                                                                ペルシャ艦隊は陸上部隊と並行して南下していたが、テッサリア南部の沖で嵐に会った。嵐は2日間続き、彼らは1200隻の艦船の三分の一を失った。
モピュラエの戦いが始まる前日、残りの艦隊がエウボイア島の北端のアルテミシウム岬に達した。


敵が2回の嵐にあっている間、ギリシャの艦隊はエウボイア島の西側のエウボイア湾で待機していいたが、嵐が去ると、テルモピュラエへの入り口であるアルテミシウム海峡を封鎖するため、北上した。彼らの目的はペルシャ艦隊がテルモピュラエに近づけないことだった。アルテミシウム海峡の南はエウボイア海峡であるが、南に行かず、西に進むとマリアコス湾に入り、湾の奥にテルモピュラエがある。アルテミシウム海峡の防衛については、反対意見もあった。ペルシャの大艦隊と戦っても負けるだけだ、と考える艦長も多かったが、エウボイア島の代表はこの作戦を強く支持した。ギリシャ艦隊が戦わなければ、エウボイア島はぺルシャ人によって占領されるからだった。この作戦を考えたペリクレスは作戦の必要性を再度説明し、ギリシャ艦隊はアルテミシウム海峡の防衛を継続することになった。ペリクレスは説得しただけでなく、賄賂を渡したとも言われている。
翌日テルモピュラエでは、ペルシャの長槍部隊が攻撃を開始した。彼らは5日前に到着していたが、ギリシャ軍が戦わずして撤退するのを三日間待った。いた。最後の二日間は嵐になり、攻撃できなかったのである。
ペルシャの長槍部隊が攻撃を開始した日、ペルシャ艦隊はアルテミシウム岬の北東の島に到着し、島の沿岸に停泊した。この時15隻のペルシャの艦艇が別行動をし、アルテミシウス海峡に入って来た。ギリシャの艦隊はこれらの船を捕獲した。

しばらくして、ペルシャ艦隊のギリシャ人の乗組員が泳いで脱走してきて、ペルシャ艦隊の作戦について情報をもたらした。
「ペルシャの大部分の船が修理中であり、活動できる200隻の艦艇はエウボイア島の外側(東側)にいて、エウボイア海峡から出て來るギリシャの船を見張っている。ペルシャ側はまだ戦うつもりがない。彼らは『ギリシャ艦隊は戦わずに逃げるだろう』と考えている。逃げてきたところを補足するつもりだ」。
ペルシャ海軍の200隻が本隊から分離しているなら、ギリシャ艦隊にとってチャンスだった。ギリシャ艦隊は敵の200隻を攻撃をすることにしたが、ペルシャ艦隊全部と戦うのを恐れていた。それで彼らは夕方まで待った。ペルシャ軍の200隻はエウボイア海峡の東側を見張っているということであるが、エウボイア島は南北に長く、彼らがどこにいるか、わからない。南の出口の西側の陸地はアッティカであり、ギリシャ艦隊の一部がアッティカの沿岸を見張って航行している。彼らが偶然に200隻のペルシャ艦艇を発見すれば、挟み撃ちを実現できるが、出会う確率は低い。アッティカ防衛のギリシャ艦隊はアッティカの長い海岸線を航行しているからである。ギリシャ艦隊は夕暮れ前に、アルテミシウム海峡(北の出口)からわずかに出て、自分たちがアルテミシウム海峡から逃げ出すつもりがないことを示すことにした。これは、分離行動をしている200隻に、自分たちの位置を知らせるためだった。ついでにギリシャの指揮官たちはペルシャの乗組員の操船術の練度と戦術を確かめるつもりだった。彼らはペルシャの200隻と戦おうとしていただけで、まだペルシャ艦隊全部と戦うつもりはなかった。ギリシャ艦隊は数が少なかった。ギリシャ臘艦隊の総数は270隻であるが、一部はアッティカの沿岸を監視していた。もしペルシャ艦隊の主力が出てきたとしても、間もなく夜になり、戦闘にはならないだろう。ギリシャ側の思惑は外れ、全面戦争となった。
 ギリシャ艦隊が海峡から出てくるのを発見すると、ペルシャ艦隊は、夕方にもかかわらず、攻撃することにした。「ペルシャ艦隊の多くは整備中」という情報は正しく、北東の島に残っていた船も多かった。ペルシャ艦隊のフェニキアとエジプトの部隊の乗組員は船の操縦に熟練していた。彼らは勝利を確信して、ギリシャ艦隊に向かって高速で進んだ。ギリシャの艦船は扇のような陣形を組んだ。船尾を扇のかなめの方に向け、船首を外に向けた。この時代の戦艦の船首の底部は突き棒になっており、これを敵の船の横腹にぶつけて穴をあけるのである。ギリシャの船が巧妙な防衛態勢を取っているので、ペルシャ艦隊は戸惑った。するとギリシャの艦隊は防衛体制から攻撃に転じた。不意を突かれたペルシャ艦隊は30隻の船を捕獲されたり、沈められたりした。間もなく夜になり、戦闘が終わった。夜の間に嵐となり、エウボイア島の東側にいたペルシャの200隻が岩場に流され、難破した。小さな勝利に続き、狙っていた200隻が自滅したので、ギリシャ海軍にとって幸運が続いた。
翌日、ペルシャの艦隊は姿を見せなかった。航行可能な200隻の難波はペルシャ海軍にとって痛手であり、彼らは船の整備をしなければならなかった。一方で、ギリシャ艦隊にアテネの53隻が加わった。また彼らは敵の200隻の難破を知った。夕方の少し前、ギリシャ艦隊はアルテミシウム海峡を出た。見張りをしていたキリキアの小艦隊に出会い、これらのを破壊して帰った。
3日目、ペルシャの全艦艇が航行可能となり、停泊地から出発した。ギリシャの艦隊はアルテミシウム海峡の入り口で彼らの侵入を防ぐことにした。激しい戦闘が一日続き、ギリシャ艦隊は必死で防衛線を守ろうとした。ペルシャ艦隊は敵を両側から包み込んで、袋たたきにしようとした。夜になり、戦闘が終った。両軍はほぼ同数の船を失ったが、船の総数が少ないギリシャ軍にとって、大きな損失だった。アテネの船の半分が失われた。アテネ艦隊は同盟軍の中で最強であり、同盟軍にとって大きな損失だった。ペルシャ側で最も活躍したのはエジプト艦隊である。エジプトの船には重装歩兵が乗り込んでいて、彼らがアテネの船に飛び移って船員を服従させ、船を捕獲した。アテネの船5隻が奪われた。アルテミシウム海峡に帰ったギリシャ艦隊では、これ以上戦えない、という意見が出て、アルテミシウムから撤退すべきか、について話し合われた。間もなく、テルモピュラエの敗北が伝えられ、地上軍の援護が不要になり、ギリシャ艦隊はアルテミシウムから去った。

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古代マケドニア王国 2

2025-04-30 03:29:50 | 古代

    【アレクサンドロス1世】

ピリッポス2世の父アムュンタス3世はアレクサンドロス1世)のひ孫である。

紀元前512年頃マケドニアはペルシャの宗主権を受け入れ、ペルシャの属国となった。アレクサンドロス1世の父の時代にペルシャ戦争が起きた。ペルシャの王ダリウスはアテネとエレトリア(エウボイア島西岸の都市)の征服を計画した。その第1段階としてペルシャ軍は紀元前492年トラキアを再征服し、マケドニアを完全な属国とした。しかしその後、アトス山の沖でペルシャ軍の船が嵐で難破し、作戦は中断した。(カルキディキ半島から三つの細長い半島が海に向かって突き出ており、一番北側の半島に、アトス山がある。)

翌年ダリウスはギリシャの諸都市に使節を派遣し、戦争が嫌なら服従せよと迫った。ほとんどの都市は服従を受け入れたが、アテネとスパルタは拒絶した。ダリウスはアテネとスパルタに対する戦争を決定した。紀元前490年、ペルシャ軍はキリキア(アナトリア南東部)を出発し、キクラデス諸島(アテネの南東の海域にある諸島)の島々を征服してから、エウボイア島に向かった。彼らはエレトリアの沿岸に上陸し、エレトリアを包囲した。6日間の包囲戦で、両陣営が多くの兵を失った。7日目に、エレトリアは門を開いて降伏した。続いてペルシャ軍はエウボイア海峡を南に進み、アッティカのマラトンに上陸した。アテネ軍は直ちにマラトンに向かい、マラトン平野の二つの出口を封鎖した。(マラトンはアテネの北東40km)。ペルシャ軍は突破を試みたが、5日たってもギリシャ軍を崩せなかった。ペルシャ軍は船に引き返し、海路でアテネに向かうことにした。最初に船に乗り込んだのは騎兵だった。騎兵はペルシャ軍の中で最強の部隊だった。続いて歩兵が船に乗りこもうとした時、これまで防衛に徹していたアテネ軍が攻撃に転じ、平野に押し出した。10,000のアテネ軍はペルシャの歩兵部隊の左翼と右翼を切り崩してから、中央の部隊を攻撃した。ペルシャ軍は総崩れとなり、港に向かって逃げた。戦場には6,400のペルシャ兵の死体があった、とヘロドトスは書いている。アテネ軍の戦死者は192人だった。ペルシャ軍がアテネに上陸するのを防ぐために、アテネ軍は急いでアテネに戻った。彼らは間に合った。ペルシャ軍の司令官アルタフェルネスは勝利の機会を失ったと考えて、引き上げた。

アレクサンドロス1世の時代に二度目のペルシャ戦争が起きた(紀元前480ー479年)。

ダリウスのギリシャ遠征が失敗に終わった直後から、息子のクセルクセスは再遠征を考えていたが、エジプトの反乱などがあり、実行が10年後になってしまった。アナトリア沿岸部には繫栄するギリシャ都市が数多くあり、エーゲ海の島々とともに、ギリシャの一部だった。ギリシャ人は独立心が強く、ペルシャの支配下にあるアナトリアは安定しなかった。ギリシャ本土を征服すれば、アナトリアの支配が完成するはずだった。

第2次ペルシャ戦争において、アレクサンドロス1世はペルシャ側の人間でありながら、戦争が始まる前から、ギリシャの諸都市に助言をした。ギリシャの諸都市はテッサリアの北東部のテンペの谷でペルシャ軍を迎え撃とうとしていた。テンペは小高い山に囲まれた盆地であり、狭い戦場だった。山の頂上に立てば、敵軍が盆地に入って来るのが見えた。テンペを戦場にすべきだと提案したのはテッサリアである。1万のギリシャ軍がテンペに終結したが、アレクサンドロス1世はギリシャ同盟軍の指揮官たちに警告した。「ペルシャ軍がテンペを通るとは限らない。別の谷間の道を選ぶかもしれない。クセルクセスのペルシャ軍は前回と違い、大軍である」。

アレクサンドロスの助言の結果、ギリシャ軍はテンペから引き返し、最初の戦場をテルモピュラエに変えた。

    《テルモピュラエの戦い》     

     battle  of  thermopylae/wikipedia

テルモピュラエの戦いに備え、フォキスはあらかじめ防衛を強化する土木工事をした。フォキスはの領土はテルモピュラエの南西にあった。ギリシャ軍の総司令官であるスパルタ王レオニダスは、テルモピュラエを経由しない山越えの道にフォキス兵1000名を配置した。紀元前480年8月半ば、ペルシャ軍がマリアコス湾の近くに現れた。ギリシャ軍の作戦会議で、ぺロポネソスの都市の指揮官は、ただちに退却してコリント地峡で戦うことを提案した。ぺロポネソス半島はコリント湾によって本土と隔てられており、島のようになっているが、コリント地峡で本土とつながっているため、半島である。それでコリント地峡はぺロポネソス半島への入り口となっていて、半島の防衛拠点にふさわしい。コリント湾の東端にあるコリントの船がエーゲ海へ行くためには、ぺロポネソス半島をぐるりと回らなければならない。コリントの指導者は船を地上に引き上げ、サロニコス湾まで運ぶことを試みたが、結局断念している。コリント地峡はこのような発想が生まれるほど狭く、防衛に適している。しかし、フォキスとロクリスにとってテルモピュラエを放棄することなど論外だった。(ロクリスはテルモピュラエの東の国)。

レオニダスはテルモピュラエの防衛を主張し、フォキスとロクリスを安心させ、スパルタとその影響圏から追加の兵を呼び寄せた。

クセルクセスはレオニダスに使者を送り、交渉による解決を試みた。「ギリシャ諸国の自由を認め、ペルシャの友好国として待遇する。ギリシャより豊かな土地への移住を許可する」。

レオニダスがクセルクセスの提案を拒否すると、使節はクセルクセスのメモを差し出した。メモには「武器を引き渡せ」と書かれていた。レオニダスは「我々の武器が欲しいなら、戦って勝てばよい」と答えた。 

レオニダスが考え直すことを期待し、クセルクセスは4日間戦闘を始めなかった。

ヘロドトスはペルシャ遠征軍の総数を300万と書いているが、半分は戦闘員ではなく、食料運搬や土木作業などの補助要員である。兵士の食料と水の問題を調べている学者は「ペルシャの戦闘員の数はせいぜい12万」と書いている。現在の学者の間では10万と30万の間で意見が分かれている。

一方、ギリシャ軍の数は1、1200という説(ヘロドトス)と7400という説(ディオドロス)があるが、いずれにしても随分少ない。ギリシャ軍の人数は少なかったが、テルモピュラエは道幅が狭く、大勢の兵士が展開できないので、ギリシャ側は充分対応できた。ギリシャ兵は武器と防具が重装備であるのに対し、ペルシャ兵は軽装備であり、接近戦ではギリシャ軍が有利である。またテルモピュラエの戦場は非常に狭く、ペルシャの騎兵は側面から攻撃することができない。昔はテルモピュラエの最も狭い地点の道幅は10メートルあったが、フォキスの人々が温泉の水を引き、道路の半分以上が水面下になり、最も高い部分だけが通路として残り、馬車1台がやっと通れるほどの道幅になっていたからである。また前の世紀にテッサリア軍の侵入を防ぐため、フォキスの人々は道の3か所に門を作り、その一の主門の両側は城壁になっていた。こうした防備に加え、ギリシャ艦隊がテルモピュラエの北側の湾を防衛していたので、ギリシャ軍は有利だった。ペルシャ軍は未知の土地で孤立していた。ペルシャの大軍は日々大量の食料と水を必要としており、日が経つにつれ深刻な問題になるはずだった。ペルシャに従属しているマケドニアは戦場から遠く、どれほどの量を負担できるか、わからなかった。近隣の住民から挑発することもできたが、これも長くは続かない。住民は食料を持って逃げてしまうだろう。

しかしギリシャ軍にも問題があった。沿岸を通ってテルモピュラエに至る道のほかに、山間部を通ってテルモピュラエの最も狭い地点の背後に出る道があり、ペルシャ軍の一部がこの山道を来たら、ギリシャ軍の有利さは消えてしまう。ペルシャの歩兵は山岳戦に慣れており、容易に山道を通ることができた。レオニダスはこの道の存在を土地の人々から教えられ、フォキスの部隊を配置したが、1000人だけで、少なすぎた。

テルモピュラエに到着してから5日目に、クセルクセスは5000の弓兵に矢を放て、と命令し、戦闘が始まった。弓兵はギリシャの部隊から90メートル離れた場所から一斉に矢を放った。ギリシャ兵は青銅のヘルメットをかぶり、薄い金属を張り付けた木製の盾を持っていて、矢は跳ね返され、効果がなかった。続いてメディア人とキッサ人の部隊10.000人が前進した。

(メディアはペルシャ北部。キッサはペルシャ南西部、上古の国家エラムがあった地方)

ギリシャの部隊は道が最も狭い場所の、城壁で守られた門を守備していた。彼らは大きな盾を持っており、一歩も退かない覚悟だった。彼らは大きな盾を隙間なく横に並べ、わずかな隙間から槍を突き出していた。一方ペルシャ兵の盾は小さく、頑丈でなく、槍は短かったので、ギリシャの戦列を崩すのは難しかった。ギリシャ軍は、一つの都市の部隊で門を守り、疲れる前に別の都市の部隊と交代した。それぞれの都市の部隊が順番に任務に就いたので、守備隊はいつも精強だった。戦闘が始まると、多くのメディア兵が戦死した。クセルクセスは心配になり、何度か椅子から立ち上がり、戦況を観察した。ペルシャ軍の最初の攻撃は全滅に近い結果となり、ギリシャ側はスパルタ兵が2ー3名死んだだけだった。惨憺たる結果を踏まえ、クセルクセスは第二回攻撃には、精鋭部隊(10,000人)を送り出した。彼らは「不滅の部隊」と呼ばれていたが、初回と同じ結果に終わった。

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古代マケドニア王国 1

2025-04-11 00:50:25 | 古代

     【第3回神聖戦争とピリッポス2世】

第3回神聖戦争はフォキスとテーベの戦いだった。ギリシャ人の聖地デルフィはフォキスの領土内にあるにもかかわらず、デルフィから遠い国と同じ権利しか、フォキスにはなかった。デルフィと特別な位置関係にあるフォキスに対し、何の考慮もされなかった。デルフィが侵略された場合、隣保同盟は会議を開き、投票により対応を決定するが、実際には覇権国が多数派を形成し、処罰した。その結果、フォキスがデルフィの支配者を入れ替え、防衛拠点を築くと、覇権国テーベの意向により、隣保同盟はフォキスに対し戦争を宣言した。たしかにデルフィの独立を侵害したのは犯罪であるが、フォキスはデルフィの財宝に手を付けたわけではないので、多くの国は戦争までは考えていなかった。フォキスが反省すれば済むことだった。フォキスは軍事力がなく、神殿の財宝を元手に傭兵軍を創設した。神殿の財宝は莫大であり、フォキスはたちまちテーベと並ぶ強国になった。しかし、フォキスは財宝を使い尽くし、戦力を失い、第三次神聖戦争は終わった。フォキスの覇権は闇夜に一瞬輝く稲妻のよに、短期間で終わった。

早い段階で神聖戦争に介入したマケドニアはギリシャの新しい覇権国となり、マケドニアの優位は長く続いた。それだけでなく、ピリッポス2世の息子アレクサンドロス3世の大征服により、彼の後継者たちはシリア・エジプト・アナトリアの支配者となり、彼らの王朝は以後200年続き、中東に一時代を築いた。

マケドニアが大国になる基礎を築いたのは、ピリッポス2世である。第一歩はテッサリアを獲得したことである。ピリッポスはテッサリアの多数派の求めに応じ、テッサリアの内戦にかかわった。多数派の敵はフェラエだった。フェラエははッサリアで孤立していたが、フォキスと同盟関係にあった。フォキスは第3次神聖戦争の初期に大規模な軍隊を所有しており、あなどれない相手だった。フォキスとの最初の戦いでマケドニアは敗れたが、翌年ピリッポス2世は軍を再編し、再びフォキスに戦いを挑んだ。前年の敗北に学び、作戦を工夫し、今度はフォキスに勝利した。フォキスはギリシャ人の聖地デルフィの神殿の財宝を奪い、多くのギリシャの国々から敵とみなされていた。フォキスに勝利することにより、マケドニアはギリシャの内戦の調停者となった。しかしフォキスは再びマケドニアに挑もうとし、アテネは援軍を送ろうとしていたが、ピリッポス2世は先手を打ってテルモピュラエを占領してしまった。アテネは自国が危険になり、マケドニアとの戦いをあきらめた。フォキスは戦争の資金が尽きていることが判明し、第3次神聖戦争は終了した。

マケドニアがギリシャの辺境の小国であったこともあるが、ピリッポス2世は慎重であり、ギリシャの支配者になろうとはせず、調停者という立場にとどまった。彼が取り組んだことは、テッサリア統一へ向けての施策だった。彼はテッサリアの支配者として足固めをしたのである。統一は地方の自由と自治を制限することであり、反乱を招く危険があった。テッサリアは統一されておらず、各都市、各地方は独立していた。ピリッポス2世はギリシャ全体の支配という危うい目標ではなく、マケドニアの隣の地方であるテッサリアの確実な支配に専念したのである。

ピリッポス2世のこのような姿勢にもかかわらず、テーベはマケドニアを新しい脅威ととみなした。第3次神聖戦争でフォキスの同盟国アテネもマケドニアに敗れが、黙って引き下がるつもりはなかった。アテネにとってマケドニアは長年の敵であり、しかもアテネは負け続けていた。フォキスに代わる同盟国が現れるなら、アテネはマケドニアと再び戦うつもりだった。アテネはギリシャで随一の艦隊を有し、海上においては相変わらず覇権国であり、陸の覇権国テーベとは対立してきたが、過去の因縁を忘れてテーベと同盟し、マケドニアと戦うことにした。第三次神聖戦争終了の9年後(紀元前337年)、テーベ・アテネ連合とマケドニアの戦いが始まった。この戦争の2年目、カイロネイアでマケドニアが決定的な勝利を収め、戦争は終了した。覇権国テーベとアテネに勝利し、マケドニアの新しい覇権が確立した。

ピリッポス2世は深謀遠慮であり、統治能力が高く、戦闘においても作戦に優れていた。カイロネイアでの勝利後のピリッポス2世の事績に興味があるが、翌年(紀元前336年)彼は暗殺された。彼には7人の妻がいて、後妻のオリンピアが自分の息子(アレクサンドロス3世)を王位につけるために夫を暗殺したと言われているが、カイロネイアの戦いでアレクサンロスは副将に選ばれ父の信頼にこたえている。父ピリッポス2世の巧妙な作戦と息子アレクサンドロスの破壊力により、マケドニアは勝利した。アレクサンロスは父に疎まれているどころか信頼されていた。しかしピリッポス2世とアレクサンドロスは性格が違い、カイロネイア戦後、二人の関係が悪化したのかもしれない。誰がピリッポス2世を暗殺したのかは謎である。

    〈マケドニアの王位をめぐる争い〉

ピリッポス2世の父アミュンタス3世は17年間統治し、紀元前370年に死んだ。ピリッポス2世は3番目の息子であり、長子のアレクサンドロスが後を継いだが、アレクサンドロスはまだ20歳の若者にすぎなかったので、王位を争う者が現われた。王位を狙うパウサニウスはトラキアの王に支援されながら、マケドニアのいくつかの都市を陥落させ、首都ペラに迫った。ちょうどこの時、アテネの艦隊がマケドニアの沿岸におり、アレクサンドロスはアテネ軍に助けられ、パウサニウスを破った。

アレクサンドロス2世は治世2年目、テッサリアの都市ラリッサの有力な一族の求めに応じて、テッサリアの内紛に干渉した。内紛の解決後もアレクサンドロス2世はラリッサから軍を引き上げなかった。テーベは「マケドニアはテッサリアの支配に着手した」と判断し、軍隊を派遣した。テーベ軍はマケドニア軍をラリッサから追い出した。それだけでなく、テーベの将軍はアレクサンドロス2世の妹の夫、アロロスのプトレミーに近づき、テーベの代理人となるよう働きかけた。野心的なプトレミーは提案を受け入れた。テーベの将軍ペロピダスはマケドニアの政権内に腹心の人物を獲得すると、アレクサンドロス2世に対し、アテネとの同盟を解消し、テーベを同盟国とするよう要求した。同時にテーベの将軍ペロピダスが人質を要求したので、アレクサンドロス2世は末の弟ピリッポス(後のピリッポス2世)を差し出した。

しかしテーベの将軍ペロピダスはこれで満足せず、アレクサンドロス2世の妹の夫プトレミーに働きかけ、アレクサンドロスに代わって王となるよう、そそのかした。野心的なプトレミーはアレクサンドロス2世を暗殺し、アレクサンドロスの弟、まだ少年のペルディカス3世の摂政として実権を握った。4年後の紀元前365年、ペルディカス3世はプトレミーを殺し、親政を開始した。彼は5年後に死んだ。6歳の息子がアミュンタス4世として即位した。ピリッポスが摂政となった。ピリッポスは亡きペルディカス3世の弟である。同じ年、ピリッポスは自ら国王になった。ピリッポスは6歳の甥を脅威とはみなさず、アミュンタスが成人すると、ピリッポス2世は娘を妻として与えた。

ピリッポス2世の即位直後の紀元前359年、アテネに支援されたアルガエウスが対立王として現れた。アルガエウスはアテネから得た資金を元手に傭兵軍を編成した。アルガエウスは首都ペラに近い港湾都市メトニを占領したが、ピリッポス2世によって鎮圧された。

ピリッポス2世はアミュンタス3世の3番目の息子であるが、母親の違う弟が3人いた。アルガエウスの反乱後、一番上の異母弟アルケラオスを危険と考えて殺害した。15年後、ピリッポス2世は継母の次男と三男を殺した。三人の息子を殺された継母はピリッポス2世をよほど憎んだだろう。しかし彼女はピリッポス2世を暗殺した真犯人ではない。ピリッポス2世が暗殺されたのは、継母の長男の死から30年近くたっており、次男と三男の死から15年たっている。継母は既に死んでおり、彼女はピリッポス2世の暗殺犯ではない。また彼女の実家がピリッポス2世を暗殺する動機も低い。継母の実家と実母の実家は同じである。

ピリッポス2世の実母も継母も、マケドニアの西方に住むリュンケスティスという部族の王の娘である。この部族の先祖はイリュリア人か、ギリシャ人またはマケドニア人か、わかっていない。リュンケスティス族はイリュリア人と友好的であり、イリュリア人と同盟してマケドニアと敵対していた。ピリッポス2世の父アミュンタス3世はリュンケスティ族を融和するために、王の娘二人と前後2回に分けて結婚した。

 

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紀元前4世紀のギリシャ ⑤

2025-03-29 13:16:23 | 古代

   《アテネとマケドニアの和平》

フォキスが戦いを放棄すると、アテネはすぐ政策を変えた。もしテルモピュラエを守れないなら、アテネの安全は保障されなかった。2月末、アテネはマケドニアに使節団を派遣し、ピリッポス2世と和平について話し合った。使節団にはフィロクラテス、デモステネス、アイスキネスが含まれていた。彼らはピリッポス2世と2回会談し、双方が和平の条件を提示した。使節団はアテネに帰り、マケドニアの条件を議会に伝えた。条約締結について全権を委任されたマケドニアの使節団が来ていた。4月23日、アテネはマケドニアの使節団に対し、和平の条項を守ることを誓った。

条約締結後、アテネの使節団は直接ピリッポス2世の口から平和の約束を聞くため、再びマケドニアに向かった。ピリッポス2世はトラキアの王ケルセブレンテスと戦争中だったので、使節団はゆっくりと首都ペラに向かって旅をした。ペラに着くと、神聖戦争のすべての関係国の使節が来ていたので、デモステネスやアイスキネスたちは非常に驚いた。関係国の使節たちは戦争の終結について話し合うために来ていたのだった。

トラキアから帰ると、ピリッポス2世は各国の使節団と会見した。テーベとテッサリアはピリッポス2世にギリシャの指導者になってほしいと述べ、フォキスの処罰を頼んだ。これに対し、アテネとスパルタの代表団に支持されていたフォキスは、我々を攻撃しないでほしい、とピリッポス2世に頼んだ。相反する要望に対し、ピリッポス2世は返答を引き延ばした。戦争終結の方法について、彼は自分の考えを知られないよう努めた。敵対してきた二つの陣営は戦争の中止を求める点では一致しており、それぞれが望む形での決着に希望を持った。アテネとマケドニアの和平についての決定はあと一歩だったが、ピリッポス2世は返事を引き延ばした。

外交交渉の一方で、ピリッポス2世は戦争の準備をしていたが、「戦争はテッサリアの小都市ハルスに対するものだ」と言った。ハルス(パガサイ湾の北岸)はピリッポス2世の支配に反抗していた。ピリッポス2世はアテネの使節を宙ぶらりんの状態にしたままハルスに出発してしまったので、アテネの使節は彼と一緒にハルスに向かった。途中フェラエまで行った時、ピリッポス2世はアテネネに和平を確約したので、使節はアテネに帰った(7月9日)。

アテネに平和を約束したにもかかわらず、ピリッポス2世はアテネに裏切りの一撃を加えた。

彼はハルスを攻撃すると同時に、別の部隊をテルモピュラエに派遣していた。ピリッポス2世がアテネの使節に平和を誓った時、マケドニア軍はテルモピュラエの近くまで来ていた。使節がアテネに帰った時、マケドニア軍はテルモピュラエを占領していた。ピリッポス2世が返事を遅らせたのは、下心があったからであり、ハルスとの戦争は見せかけであり、彼の真の目的はテルモピュラエの占領だった。アテネは大きな危険が迫っているとは夢にも思わず、テルモピュラエの防衛を考えなかった。アテネはピリッポス2世に完全に欺かれた。

ピリッポス2世はギリシャの中央部を確保する用意ができており、アテネが戦争に訴えてフォキスを支援するなら、アテネの本土が占領される危険が高かった。7月9日前後、フォキスの使節がが軍事援助を求めてアテネに來るまで、アテネはテルモピュラエが占領されたことを知らなかった。アテネの議会はマケドニアとの平和条約を破棄し、ただちにテルモピュラエを占領し、フォキスを助けるべきだと提案した。ピリッポス2世とマケドニア軍はフェラエにいる、とアテネの議員たちは報告されており、マケドニアがすでにテルモピュラエを占領したことを知らなかった。7月12日、ピリッポス2世がアテネへの陸の入り口(テルモピュラエ)に来ているという知らせがアテネに届いた。アテネの人々はようやく絶望的な状況に気づいた。彼らはフォキスを援助することはできないと知り、マケドニアとの平和条約の維持を決議した。

(マケドニアとの平和条約は提唱者のアテネ人の名前にちなんでフィロクラテスの和平と呼ばれている。)

テルモピュラエを占領したピリッポス2世は神聖戦争終わらせることができた。彼はテッサリアの支配者であり、戦争の主要国テーべ、アテネ、フォキスに軍隊を差し向けることできたので、彼の決定に異議を唱える国はなかった。ピリッポス2世はフォキスの指導者パライコスと和平について話し合い、パライコスはフォキスの支配権をピリッポスに引き渡し、傭兵を連れてフォキスを去った(7月19日)。紀元前346年パライコスはピリッポスのテルモピュラエの占領を承認し、その見返りに、アポロ神殿の財宝を奪った罪を許されたと言われている。ピリッポス2世がテルモピュラエの占領を宣言したのは、パライコスの同意があり、敵対者がいなくなったからである。ボイティアはフォキスによって3つの都市を奪われていたが、ピリッポス2世はこれらの都市をボイティアに返還した。ピリッポス2世は「フォキスの運命を決めるのは私ではないく、隣保同盟の会議である」と宣言した。この宣言はアテネにショックを与えた。フォキスが隣保同盟の言いなりになることなど、アテネは理解できなかった。フォキスの同盟国であるアテネはフォキスと同様、神殿を汚した犯罪者だった。しかしピリッポス2世は舞台裏で、フォキスに対する処罰について決定していた。そして彼は「隣保同盟の決定に干渉するのは今回だけである」と述べて、隣保同盟の自主性を保証した。

神聖戦争を終結させた功績により、マケドニアは隣保同盟の一員となり、会議における投票権2票を与えられた。フォキスは投票権を奪われた。隣保同盟に受け入れられたことはピリッポス2世にとって重要な意味があった。マケドニアは野蛮な国ではなくなったからである。

ピリッポス2世はフォキスに対する処罰を部分的に緩和したものの、全体として厳しい処罰だった。現実問題としてピリッポスはどうすることもできなかった。テッサリアはフォキスと敵対しており、ピリッポスはテッサリアの諸都市・諸地方の支持が必要だった。またピリッポスは宗教心に基づいて行動し、勝利したことで信頼されており、彼は高い評価を失いたくなかった。

ーーーー(Third Sacred War/wikipedia より)

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紀元前4世紀のギリシャ ④

2025-03-12 17:24:34 | 古代

テッサリアの再編が完了すると、ピリッポス2世はテッサリアの南の国境を越え、テルモピュラエの隘路に向かって軍を進めた。テルモピュラエはギリシャの中心部への入り口でだった。ピリッポス2世はフォキスに対する勝利を完全なものにするため、フォキスの本土に侵攻するつもりだった。ピリッポス2世の動きに、アテネは脅威を感じた。テルモピュラエを超えたピリッポス2世はアテネに向かうかもしれなかった。それでアテネは軍隊を派遣し、テルモピュラエの隘路を占領した。アテネ軍以外の国の部隊も加わったとも言われている。アテネの弁論家デモステネスは「アテネ軍がテルモピュラエを防衛した」と誇らしげに語っている。ナウシクレスが率いるアテネ軍は5,000の歩兵と300の騎兵からなり、これにフォキス軍の残存部隊およびフェラエの傭兵部隊が加わった。しかし歴史家ディオドロスはテルモピュラエの戦闘については何も語っておらず、ナウシクレスが率いるアテネ軍は翌年フォキスの防衛を助けたと書いている。デモステネスが事実を語っているとするなら、テルモピュラエを防衛したアテネ軍を率いたのはナウシクレスではなく、フォキスやフェラエの部隊は参加していなかったのかもしれない。テルモピュラエ戦がじっさいあったのか、謎であるが、ピリッポス2世はテルモピュラエでアテネ軍に勝利できただろうが、テッサリアでの成功を大切にし、未知数の冒険を避けた可能性が高い。

 

 《後半の6年 紀元前352ー346年》

オノマルコスが処刑された後、弟のパイロスがフォキスの指導者となり、国民を再結集した。フィロメルスが戦死したネオン戦の後、オノマルコスはフォキス軍を2倍の規模にまで再建したが、フォキス軍はクロッカス平原で敗北し、多くの兵を失った。パイロスは兵士を補充するのに苦労し、2倍の金額を提示して傭兵を集めなければならなかった。2度の敗北にもかかわらず、国民の多くが戦争を支持した。冬の間パイロスは外交に専念し、多くの友好国の支持を集めるのに成功した。次の戦争は多くの同盟国と合同で戦うことができるようになった。フォキスは多くの兵士を失ったにもかかわらず、短期間で補充できた。ギリシャのほとんどの国が大敗北から立ち直れない中で、フォキスの復活は奇跡であった。この魔法を可能にしたのはアポロの神殿の財宝である。同時に、神殿の財宝は神聖戦争を長引かせる原因になった。

  紀元前351年から348年までの3年間については省略

  《第3回フォキス戦 紀元前347年》

クロッカス平原で勝利したピリッポス2世は以後の神聖戦争には関係しなかった。3年間戦っても、神聖戦争は決着がつかず、その後も決着がつく兆しはなかった。フォキスはボイオティアの複数の都市を占領していたが、アポロ神殿の財宝が枯渇しかけていた。一方テーベはフォキスに対し有効な攻撃をする能力がなかった。フォキスの将軍パイロスは紀元前347年に罷免され、3人の新しい将軍がフォキス軍を指揮していた。3人の将軍はボイオティアを攻撃し、成功した。

テーベはピリッポス2世に援軍を求めたが、ピリッポスはわずかな部隊しか送らなかった。ピリッポスはテーベとの同盟を維持したかったので形式的に援軍を派遣したが、戦争を終わらすには十分ではなかった。ピリッポスは単独で戦争を終わらせようと考えていた。

    《神聖戦争の終結》

アテネとマケドニアは紀元前356年以来戦っていた。ピリッポス2世がアテネの植民地ピドナとポティデアをアテネから奪ったことが、敵対関係の始まりだった。テッサリアの内戦において、ピリッポス2世は多数派を支援したのに対し、アテネはフェラエを支援した。アテネは反マケドニアの立場から、フェラエを支援したのである。

フェラエは以前からフォキスと同盟しており、アテネは反テーベの立場からフォキスを支援していた。こうしてテッサリアの多数派とマケドニアの同盟に対し、フェラエ・フォキス・アテネの同盟が対立することになった。ハルキディキ半島の諸都市は反アテネであり、アテネの植民地となっていた都市を奪い返したピリッポス2世に感謝し、半島の諸都市はマケドニアと同盟したが、マケドニアが覇権国になりつつあるのを見て、彼らは脅威を感じ、アテネに同盟を申し込んだ(紀元前352年)。これはマケドニアに対する裏切りであり、349年、ピリッポス2世はハルキディキ半島の諸都市を攻撃し、翌年諸都市を完全に破壊し、連盟の中心的な都市オリントスの住居や公共の施設は何一つ残らなかった。ハルキディキ戦争の後半(紀元前348年)、アテネの著名な政治家フィロクラテスはマケドニアに和平を提案したが、神聖戦争から派生したギリシャとマケドニアの戦争は翌年(紀元前347年)も続いた。

紀元前346年の2月初め、ピリッポス2世はテッサリア軍と共に南へ進撃すると宣言したが、戦争の理由と攻撃対象を明確にしなかった。フォキスはテルモピュラエを防衛する準備を始め、スパルタとアテネに応援を求めた(2月14日頃)。スパルタはアルキダムス2世にが率いる1,000の重装歩兵を派遣した。アテネは40歳以下の男子市民を徴兵し、フォキスを支援する決定をした。しかし2月末、フォキスで政変が起こり、パライコスが将軍として復帰し、彼は戦争の計画を撤回した。アテネとスパルタはテルモピュラエの通路を防衛してはならない、とフォキスから告げられた。パライコスが権力に復帰した理由は伝えられていない。また彼がフォキスの方針を逆転させた理由もわからないが、アイスキネス(アテネの政治家)は次のように述べている。「傭兵たちは俸給を減らされたので、以前の司令官の復帰を望んだ。しかしフォキスには傭兵に払う資金がなく、戦争できないとわかり、パライコスはピリッポス2世と和平について話し合うことにした」。

   

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