たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

イスラム国に対する空爆開始 8月8日 2014年

2015-07-23 22:37:10 | イラク

6月11日、ISISがモスルを占領し、大量の武器を持ち去った。その中には戦車40台も含まれる。にもかかわらず、オバマ大統領はすぐに軍事行動を起こそうとしなかった。ぐずぐずしている国防総省は批判の的となった。しかし2か月後、オバマはISISに対する空爆を決定した。8月8日、アメリカ軍はISISに対する空爆を開始した。空爆を決断した理由は2つあった。

 

国連はヤズィディー教徒・キリスト教徒・アッシリア人の保護と援助を呼び掛けていた。

           故郷を追われたヤズィディー

             

      チグリス川上流のシリア・イラク国境 Fishkhabour (写真)BBC 

 

しかし米国にとって、はるかに深刻な別の問題があった。クルド地域に危険が迫っていたことである。

 クルドの中心都市アルビルに危険が迫っていた。 8月7日、アルビルの近くで、ISISとクルド軍が初めて戦闘し、短時間でクルド軍が敗退した。

アルビルは2003年~2007年、イラク各地で爆弾テロが吹き荒れていた間、別世界のように平穏だった。米国とトルコの投資が流入し、経済が発展した。バグダードほど暑くなく、冬には雪が降り、アルビルはもともと観光地だった。現在はベイルートやアブダビのように繁栄した魅力ある都市に成長している。アルビルには米国の石油会社の事務所があり、多くの米国人が居住している。ここにある米国領事館はバグダードの大使館に劣らず重要である。 石油産業界や軍産複合体は、オバマ政権に「ISISを空爆しろ」と圧力をかけた。

              

              

クルド地域の重要性について、ガーディアン紙が書いている。2014年8月7日。

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ISISはクルド地域の周辺の町々を攻略し、アービルの近くまで進出した。クルド軍(ペシュメルガ)はやっとのことで防戦していた。

                ペシュメルガ兵士

                 

                      ( 写真 ) Waar Media Shingal and Zummer      

「ISISがクルド地域に侵入するなら、米国の戦略を根本からくつがえしてしまう」と米空軍の退役将軍が言った。退役将軍デイブ・デプトラは空軍の情報部長であり、1991年の湾岸戦争の時の空爆を計画した。

イラク軍と米軍の合同作戦本部はバグダードとアルビルにある。米国の大統領にとって、米国の軍・民の職員を守ることは最重要の課題である。

「バグダードのマリキ政権を支えるために軍事援助すべきか否かについては、迷うところだ。しかしクルド軍を航空支援すべきことは、考えるまでもない」とデブトラ将軍は言った。

(原文)Isis incursion into Iraqi Kurdistan pushing Obama to consider air strikes

貼り付け元  <http://www.theguardian.com/world/2014/aug/07/obama-options-iraq-isis-incursion-yazidi>

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米軍にとってクルド人は信頼できる同盟者であるが、マリキ政権は信用できない。クルドとの同盟は、米国のイラク戦略の中核である。トルコのインジルリクにあるNATOの空軍基地を拠点に、クルド人を援助するつもりである。

インジルリクはシリアの海岸部に近く、イラクのアルビルまではやや遠い。インジルリク空軍基地はアダナの郊外にある。地図の西端にアダナがある。地図の南端にアレッポがある。

            トルコとシリアの国境地帯(西部)

 

インジルリク空軍基地はシリア北西部に近く、シリア北部への出撃に適しており、米軍がシリア北部の制空権を獲得するのは容易である。

2015年3月15日のタス通信が「インジルリク空軍基地にドローンが配備される予定だ」と伝えた。

                  大型ドローン           

               

                          (写真) Alan Ladecki

アダナには自由シリア軍の本部があり、シリアとの国境付近のレイハンルには自由シリア軍の軍事基地がある。地図の南端にアレッポとレイハンルが東西に並んでいる。レイハンルはトルコ領である。

レイハンルの西にアンタキヤがある。アンタキヤは旧アンティオキアであリ、古代シリアの中心都市であった。ヘレニズム・ローマ時代の遺跡が多く残っている。シリアの古都が、現在はトルコ領になっている。トルコの国境線は海岸部を取り込むように曲がっている。レイハンルとアンタキヤはトルコに取り込まれたのである。レイハンルはアレッポに近く、アレッポの自由シリア軍にとって絶好の補給基地・避難所になった。

アンタキアの南にシリアの海港ラタキアがある。

            シリア領ラタキアとトルコ領アンタキヤ

           

アレッポの北方のキリスにも、自由シリア軍の軍事基地があるようだ。後藤健二さんが「トルコからシリアに入るのは難しくなっており、キリスからなんとか入った」と報告していた。

 

                米空軍が空爆を開始

            

8月8日、アメリカ軍はISISに対する空爆を開始した。クルド地域を守ることが主な目的であったが、もう一つ緊急事態が発生した。ISISがモスル・ダムを占領したことである。8月の空爆は、モスル・ダムのISISに対する空爆回数が最も多い。

        

         

                                           (地図)BBC

モスル・ダムの重要性と破壊的な被害をもたらす危険について、BBCが書いている。8月18日。

         ====================

             [モスル・ダムの重要性]  

モスル・ダムはイラク人にとって最も重要な水源である。30年前サダム・フセインがこのダムを建設した時、それは彼の指導力と国力を示す象徴となった。

       

 ダムはモスルからチグリス川の上流50kmにあり、イラク北部の広大な地域に水と電力を供給している。1010メガワットの電力を生み出し、120億立方メートルの水を蓄えている。ダムの水はニネベ州の農地にとって不可欠の農業用水である。

                 ニネベ州        

         

                    [ダムの重大な欠陥]

ダムは完成直後から水漏れが発生した。定期的にコンクリートを注入し、補修しなければならない。米国はイラクのチームと協力して、点検と補修にあたってきた。3千万ドルの出費となった。

2007年、駐留米軍のペトレアス司令官とクロッカー米大使が、ダムの構造的な弱さについて、マリキ首相に注意した。ダムが不安定な地面の上に建っていたからである。

「ダムの破局的な決壊が生じる危険がある。チグリス川の大氾濫となり、バグダードに至るまでの流域が水に沈むだろう。ダムの水が多い時に決壊すれば、モスルには20mの高さの水が押し寄せるだろう。」と2人は手紙に書いた。

                         ISISがモスル・ダムを占領 

                    

8月7日、ISISがモスル・ダムを制圧した。ダムの上に黒旗が翻った。この重要なダムがISISの手中にあることは危険であり、クルド人の部隊が出動した。オバマ大統領は米空軍がクルド軍を支援することについて、議会の同意を求めた。「非常に多くの市民が危険にさらされており、バグダードの米大使館にも被害が及ぶ。モスル・ダムの潜在的な脅威を考えるなら、米空軍の展開は必要である」と議会に宛てて書いた。

ISISは水源を戦争の手段として使用する考えであり、以前にも水源を確保しようとした。米政府が恐れるのは、過去に事例があるからだ。

 

2014年2月、ISISはアンバール州のファルージャ・ダムを占拠した。小さなダムとはいえ、ISISが水門を操作し、洪水となった。、多くの住民が避難した。ファルージャ・ダム(Fallujyah dam)は地図の南端に示されている。

            チグリス川の2つのダムとユーフラテス川の2つのダム    

        

2番目に大きいハーディサ・ダムは、イラク軍が守り抜いている。全長8kmのハーディサ・ダムはファルージャ・ダムの上流にあり、その発電所はイラクの電力の30%を供給している。2003年のイラク戦争の時は、このダムを確保することが特殊部隊にとって最優先の任務だった。

 

             [過去の事例]

「モスル・ダムをISISが支配することの危険は、農地を水没させ、飲料水の供給が失われることだ。今年(2014年)の春、ファルージャで実際に起きたことだ」とケイス・ジョンソンがフォーリン・ポリシイに書いている。

5月、ファルージャからアブ・グレイブにかけて住民4万人(推定)が難民となった。

 

8月初め、ISISは再びを操作し、10の水門のうち8の水門を閉じた。流れがせき止められたので、水があふれ、ユーフラテス川の上流では水があふれ、下流では水位が下がった。治安部隊の関係者の話では、多くの家族が避難し、軍隊は任務地に行けないという。

ISISは、その後5つの水門を開いた。自分たちの拠点であるファルージャが洪水になるのはまずいと考えたのである。

 

モスル・ダムを占領したISISは、ダムの職員にダムの管理を続けろと命令した。ISISは電力と水の供給源を人質にとり、アバディ首相を脅迫し、大きな譲歩を迫るつもりだ。途方もない脅迫の材料を手に入れたISISは、ダムと周辺の地域を死守するつもりだ。

(原文)Mosul Dam: Why the battle for water matters in Iraq  By Alex Milner BBC News

貼り付け元  <http://www.bbc.com/news/world-middle-east-28772478>

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ISISによるモスル・ダム占領は10日間で終わった。8月17日クルド軍とイラク軍がモスル・ダムを奪回した。

             モスル・ダムを奪回したクルド軍とイラク軍

              

                                        (写真)BBC

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2人のバーキルと政治的イスラム

2015-07-13 22:36:10 | イラク

サドル家とハキーム家はナジャフのシーア派の名門である。サドル家のバーキルとハキーム家のバーキルは1960年代の政治的イスラム運動の中心的な人物として、互いに協力し合った。政治的イスラムが世界的な注目を集めるのは、1979年のイラン革命以後であり、1960年代は無名だった。

2人のバーキルはイラク最初のイスラム政党ダアワ党の拡大に貢献した。

サドル家のバーキルは、政治的イスラムの思想家である。彼の著作はイスラム原理主義運動の理論書となっており、バーキルは教祖的存在である。

1980年のバーキル・サドルの死後、もう一人のバーキル、ハキーム家のバーキルはイランに亡命し、テヘランでイスラム革命最高評議会を創設した。現在ダアワ党と並ぶ、シーア派の大政党になっている。さらにハキームは党の軍事部門としてバドル旅団を組織した。バドル旅団はバドル軍に成長し、現在イラク内務省軍と並ぶ軍事集団になっている。

まずサドル家の3人について書く。

 

          <ムクタダ・サドル>

バーキル・サドルは1980年に死んだので、あまり知られていない。よく知られているのはムクタダ・サドルである。2003年のイラク戦争後、米軍を攻撃し、有名になった。イラク・アルカイダのザルカウィとマフディ軍を指揮したムクタダ・サドルの活躍は、フセインの逮捕以上に話題となった。 

彼とイラク・アルカイダのザルカウィは戦後の混乱を深めた。2人は悪の権化のように米軍から憎まれた。

マフディ軍は「イラクの主権を守る」という立場から、米軍を攻撃した。「占領軍である米軍は主権をイラクに返し、できるだけ早く撤退すべきである」というのが、シーア派すべての一致した考えである。ムクタダ・サドルが例外的なのは、武力攻撃によって意思表示したことである。

マフディ軍はバース党残党の暴力からシーア派住民を守った。警察は消滅していた。占領当局があわてて警察官を復帰させたが、それらの警官は、しばしば殺害された。

シーア派住民の多数から尊敬されるシスターニ師と比較すると、ムクタダ・サドル師は小さな存在だったが、民衆に密着した活動によって、徐々に支持者を増やしていった。

             

                                        (写真)  iraqi news

2015年になってサドル師は、シーア派民兵に対し、スンニ派住民を殺害することを禁じている。彼はシーアとスンニの分裂が深まるのを、食い止めようとしている。

2015年4月6日、サドル師はイエメンの内戦がイラクに波及する危険を感じ、サウジアラビアとイランが和解することを求めた。「権力者どうしの争いによって、民衆が犠牲になってはならない」。

 

           <サーディク・サドル>

ムクタダが属するサドル家は、シーア派法学の名門である。父のサーディク・サドルはシスターニと並ぶ大アヤトラであり、1990年代後半、ナジャフのシーア派最高学府の頂点に立っていた。

           シーア派の聖地ナジャフ        

        

                                  (地図)wikipedia

サーディクは1999年、モスクから家に帰る途中、銃撃され、暗殺された。彼はフセイン政権に不服従の姿勢を示していたので、政権による暗殺と考えられた。

これに怒ったシーア派住民がナジャフとバグダッドで大暴動を起こした。政府は最精鋭の共和国特別防衛隊を送ってこれを鎮圧した。住民27人が死亡した。軍を指揮したのは、フセインの二男クサイである。

 

              <天才思想家バーキル・サドル>

サーディクが暗殺される20年以上前に、サドル家の法学者が処刑されている。サーディクのいとこにあたるムハンマド・バーキル・サドルである。バーキルはイスラム世界有数の思想家であり、1950年代にイラク最初のイスラム政党の創設に関わった。ダアワ党の創設がいかに画期的な出来事であったか、山尾大が述べている。

   ==========

2003年のイラク戦争後、シーア派のイスラム政党が躍進した。それら諸政党の起源は1950年代に出現した一つの政党にたどることができる。それがダアワ党である。ダアワとは「呼びかけ」を意味する。

豊富なイスラム法の知識を有するバーキルは、ダアワ党の精神的指導者になった。バーキルの独創的なイスラム国家論はイスラム思想史に新たな時代を開き、彼の著「イスラム国家の力の源泉」は、以後の政治的イスラムの教科書となった。ホメイニ師の「法学者の統治」もバーキルの国家論から発展した。当時ホメイニ師はナジャフに亡命しており、ナジャフの法学者バーキルの影響下で自分の理論を発展させた。

(引用)山尾大 現代シーア派のイスラム国家論

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イスラム・ダアワ党は、現在に至るまでイラク最大のイスラム組織である。サダム政権崩壊後の4人の首相のうち、3人がダアワ党から出ている。

 

            ナジャフのイマーム・アリ神殿内部    豪華な墓

      

                             (写真)wikipedia              

                <バーキル・ハキーム>

2003年、ハキームの死の直後、ガーディアン紙が彼の死について書いている。

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ハキームは一貫してサダム・フセインに反対する立場をとった。

2003年8月29日、ハキームは自動車爆弾によって死亡した。イラクの統一の必要を訴える説教を終えてイマーム・アリ・モスクを出た時、自動車爆弾が破裂した。大きな爆発で75人が巻き添えになった。

 

ハキームは最大の反政府勢力である革命最高会議の指導者であった。ハキーム家はイラクのシーア派の間で最も高名で、尊敬されれる家系であり、シーア派に対する影響力は絶大である。イラク国民の60%がシーア派である。

 

20003年5月12日ハキームは亡命地テヘランからイラクに戻った。1980年にイランに亡命したので、23年間の亡命生活だった。亡命から帰国した革命の指導者という点で、イラン革命の指導者であるホメイニ師と共通している。ホメイニ師はイラクのナジャフで12年間亡命生活を送り、1979年パリ経由でイランに帰った。

帰国したハキームは、14年前のホメイニ師がそうであったように、ナジャフの民衆から熱烈な歓迎を受けた。 新政権の中心的人物となることを期待されたのである。

 

           [亡命以前]

ハキームは1939年、ナジャフに生まれた。父は高位の法学者だった。ハキームはシーア派イマームとして伝統的な教育を受けた。

1960年代、ハキームはダアワ党に参加し、バーキル・サドルと共に政治的イスラム運動の中心的存在になった。1980年のバーキル・サドルの死まで、2人は緊密に協力しあった。

ハキームは過激な原理主義者ではなかったが、シーア派の立場を熱心に擁護したので、バース党政権からは危険人物とみなされた。

1970年代、バース党政権はシーア派法学者の政治グループの弾圧を開始した。1972年、ハキームは思想的理由で逮捕され、拷問を受けた。彼の5人の兄弟と10数名の親戚がフセイン政権によって殺害された。

1977年、ナジャフの反乱の責任を問われ、ハキームは再び逮捕され、終身刑の判決を受けた。2年後の1979年7月、ハキームは減刑され、釈放された。減刑の理由は、彼が民衆の間で非常に人気があったからである。

1980年、ダアワ党の思想家バーキル・サドルが政権によって殺害された。ハキームは前科があるので、自分も危ないと判断し、イランに亡命した。

イランでは前年革命が起き、シーア派のホメイニ師が最高権力者となっていた。ハキームがイランに亡命した1980年、イラン・イラク戦争が既に始まっていた。ハキームは敵国に亡命したのである。残酷な戦争は1988年まで続き、8年戦争と呼ばれる。

            [テヘラン時代]

亡命前ハキームが所属していたダアワ党は、テロ集団となっており、政府の人間に対して襲撃をくりかえしていた。指導層は、保守的な法学者たちである。

亡命地のテヘランで、ハキームはイラン・イスラム共和国によって安全を保障され、イラクのバース党政権に対し、公然の敵となった。

ハキームはダアワ党を含むシーア派をまとめて、イスラム革命最高評議会を創設した。党の名前が示すように、フセイン政権を倒し、イスラム法学者による統治を実現することを目的としている。

イランとの戦争が始まると、フセイン政権はシーア派に対する不信感を強めた。シーア派政党は敵国イランと通じている、と疑ったのである。シーア派の政治団体に対する弾圧はさらに厳しくなった。

逮捕を逃れて、多くのシーア派がイランに亡命した。ハキームは彼らを組織化した。

 

ハキームがイラクのバース党政権打倒を目的とする政党を組織したことを、フセインが黙って見過ごすはずがなかった。1983年、フセイン政権は亡命せずイラクに残っていたハキーム一族125人を逮捕し、この中の18人を処刑した。

このことはフセイン政権に対するハキームの敵対心をさらに強めた。革命最高評議会はイランの援助を得て、武装集団を組織した。これがバドル旅団である。武装グループは、イラク国内の地下組織と密かに連絡を取り、イラクの施設を定期的に襲撃した。イラクにとって、これは、戦争相手国イランのゲリラ部隊に襲撃されるに等しかった。バドル軍はイラン軍の別動隊となり、イラク軍と戦った。

 

1991年、湾岸戦争の直後、ハキームはブッシュ米大統領の裏切りに怒った。父ブッシュは、フセイン政権に対するシーア派の反乱を支援するそぶりを見せながら、いざという時に知らんふりをした。反乱したシーア派は、共和国防衛隊のなすがままになり、戦闘というより、一方的な虐殺になった。犠牲者は数万人と言われている。

 

1990年代の後半、ダアワ党は革命最高評議会から距離を置くようになった。革命最高評議会はイランの影響を受けすぎており、イランの原理主義的な指導者ハメネイ師の支配下にあると考えたからである。

            [帰国後の4か月]

5月12日にナジャフに帰ってから、たった4か月後の8月29日、ハキームは殺害された。今になってみれば、ハキームの生命が脅かされていたことは明白だ。というのは、ハキームを支持する群衆の中に、ムクタダ・サドル師の支持者が紛れ込んでいたからである。29歳のムクタダ・サドル師は、バグダードの貧しい地区の過激派に支持されている。彼らサドル派の考えによれば、「外国帰りの亡命者がシーア派を代表する資格はない」。

ハキームのような亡命帰りの指導者たちは若い世代をひきつけ、古くからの国内派にとって脅威となっている。少し前、ハキームの叔父に対する暗殺が未遂に終わったが、実行犯はサドル派の人間と噂されている。

シーア派内部に亀裂が生まれている。4か月前に、別の法学者が殺害されていた。ハキームと同じく、ホーイ師も亡命帰りの法学者である。サダム政権崩壊直後の2003年4月12日、ナジャフのモスクで、ホーイ師はライバルの党派によって、めった切りにされて死亡した。モスクで法学者を殺害することなど、過去には想像もできないことだった。

 

ハキームは米国がイラクを支配することに反対した。6月彼は不吉な発言をした。  

「米国は、解放者としてイラクに来たと自らの正当性を主張する。しかし今や、彼らは占領軍である。イラク国民の忍耐が限界に達したら、地方的な反乱が起きるだろう」。

しかし威嚇的ともとれる発言とは裏腹に、ハキームは米軍に対して武器を取らないよう、支持者を戒めた。ハキームは巧妙な現実主義の政治家だった。弟のアブドゥルアジーズ・ハキームを統治評議会に参加させた。米軍が選任した統治評議会は国民を代表していないと批判された。しかし終戦直後は占領軍に全権があるのが当然である。米国はとりあえず、臨時のイラク側代表を選定した。

ハキームのイスラム革命最高評議会が統治評議会に参加することは、驚くべきことである。統治評議会のメンバーとなったアブドゥルアジーズは、バドル旅団の最高責任者である。バドル旅団の本部はイランにある。

イラク戦争中、ラムズフェルド国防長官はバドル旅団に対し、イラクに侵入しないよう警告した。バドル旅団がイラクに入ることは、イラン軍がイラクに入ることに他ならない。

ハキームとは対照的に、ムクタダ・サドルは言行一致であり、占領軍による統治を否定し、米国の操り人形にすぎない「統治評議会」を拒否した。

           バーキル・ハキーム

          

                      (写真)global security org

ハキームはまれにみる人間的な魅力の持ち主である。由緒あるサイード家の黒ターバンで頭を包みながら、しばしば、いたずらっぽい子供のような笑顔を見せる。つらい経験をした人間の笑顔とは思えない。彼の兄弟は殺害され、彼自身は拷問を受け、牢獄に入れられた。ハキームが属するサイード家はムハンマドの子孫であり、格式が高い。

(原文)Lawrence Joffe:Ayatollah Mohammad Baqir al-Hakim

貼り付け元  <http://www.theguardian.com/news/2003/aug/30/guardianobituaries.iraq>

 [亡命以前]と [テヘラン時代]はウイキペディア英語版によって補足した。

貼り付け元  <https://en.wikipedia.org/wiki/Mohammad_Baqir_al-Hakim>

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