たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

ローマ建国史 5巻1-3章

2023-06-30 09:55:24 | 世界史

【5巻1章】

ローマはヴェイイと戦争を開始した。幸いなことに、ヴォルスキやアエクイはおとなしくしていた。 しかしローマとヴェイイは互いに憎みあい、どちらも士気が高かったので、敗者は完全に破壊される運命にあった。ローマは執政副司令官の数を8人に増やした。創設以来3人または4人だったのが、6人になり、今度は8人になった。8人の名前はマニウス・アエミリウス・マメルクス(2回目の就任)、L・ヴァレリウス・ポティトゥス(3回目の就任)、アッピウス・クラウディウス・クラッスス、M・クインクティリウス・ヴァルス、L・ユリウス・ユルス、M・ポストゥミウス、M・フリウス・カミルス、M・ポストゥミウス・アルビスである。ヴェイイは最高官の選出について、ローマと考え方が異なっていた。ヴェイイは毎年選挙するのにうんざりして、国王を選んでいた。しかし国王はヴェイイの地方民の間で評判が悪かった。彼らは王政を嫌っていたし、現在の国王も嫌いだった。国王は裕福さであることを自慢し、尊大な性格だったので、鼻持ちならない人物とみなされていた。例えば彼は祝祭としての競技会を突然中止した。祝祭は神事であるので、これを中断するのは不敬だった。彼は以前神官に立候補したが、落選した。12の地方が別の候補者に登票した。自分を落選させたことへの復讐ととして、競技会の途中で、演技者を退場せた。退場した演技者の多くは彼の奴隷だった。エトルリア

人は宗教心の深さにおいて他の国民を超えていた。彼らは宗教について知識があり、エトルリアの宗教的な儀式は専門的だった。エトルリアの諸都市は「王政のヴェイイに対して援軍を送らない」と決定した。ヴェイイにはこの情報を得ていた人がいたが、国王への恐怖心から、諸都市の決定を国民に知らせなかった。例外的に誰かがこれについて話すと、国王は作り話をする連中と批判すだけでなく、反乱の指導者とみなした。ヴェイイは諸都市の援軍を得られないという情報が流れていたものの、エトルリアの各都市はまだこの問題を検討中だった。それでローマは慎重に行動した。ヴェイイからの出撃に備える一方で、エトルリアからの援軍を遮断する部隊を用意した。

【2章】

ローマの将軍たちはヴェイイを包囲し、無理な攻撃を避けた。彼らは冬に備えて、小屋を建てた。包囲の際に、小屋を建てるのは初めてだった。護民官は長い間反乱の口実を見つけられずにいたが、ヴェイイとの戦争は彼らにチャンスを与えた。護民官は市民集会を開き、人々の感情をかきたてた。「兵士に給料を払った理由が明らかになった。貴族の素晴らしい贈り物には毒が含まれていると、我々護民官は気づいていた。贈り物は無償ではなく、市民の自由と交換だ。多くの有能な平民が一年中戦場に送られている。季節にかかわりなく、冬でさえ、彼らは祖国ローマにとどまることができない。自宅に帰ることも、土地を世話することもできない。自分たちが年中戦地に送られるのは何のためか、兵士たちは理由を知りたがっている。いずれ彼らは明確な理由を知るだろう。大勢の平民が兵士になっている理由は、貴族が平民の総力を首都から遠ざけたいからだ。もしこれらの平民が首都にいるなら、平民のための改革を議論することが可能になる。今度の戦争で、ローマ兵はヴェイイの兵士たちより、困難と苦しみを体験するだろう。ヴェイイ兵は壮大な城壁と有利な地形に守られ、寒い冬を自分の家の屋根の下で過ごすが、ローマ兵は皮のテントの中で寒さに耐え、戸外の雪と霜の中で任務につかなければならない。ローマ兵は冬も武器を手放すことができない。冬は海でも陸でも戦争をしないのが普通だ。一年中兵役に従事するのは奴隷と同じだ。国王の時代でさえ、そのようなことはなかった。護民官が創設される前の時代、執政官は絶対的な権力を持っていたが、彼らも年中戦争をしなかった。厳格な独裁官や、恥知らずの10人委員もそんなことはしなかった。現在の執政副司令官は例外だ。これほど専制的な支配者は初めてだ。ローマの平民にとって最悪の支配者だ。執政副司令官は名前は執政官であるが、執政官のまがい物に過ぎない。それなのに、彼らは国王のように残酷だ。もし彼らが独裁官や執政官になったら、どんなことになるだろう。しかしこんなことになったのも、平民に責任がある。8人の執政副司令官は全員貴族だ。平民が彼らを選んだ。これまで、我々護民官の努力により、貴族は3人しか選ばれなかった。残りは平民だった。どころが今は8人の貴族が権力を握っている。8人の中に平民が一人でもいれば貴族の同僚たちに警告できるだろう。もし貴族の同僚たちが彼の警告を無視したら、彼には別の手段がある。兵士の多くは平民であり彼らは自由民だ、奴隷ではない。彼らをローマに連れ戻すのだ。ともかく冬には彼らを家に帰すのだ。またそれ以外の季節には一時休暇を取り、両親、妻、子供たちに会えるようにする。そして最高官を選ぶ際、自由な市民の権利をきちんと行使しなければならない」。

【3章】

護民官がこのような演説を繰り返していた時、強力な敵対者が現れた。アッピウス・クラウディウスは若いときから平民階級と戦ってきた。すでに述べたように、数年前彼は護民官の一部を抱き込み、拒否権を行使させれば、護民官の力を奪うことができる、と元老院に進言した。アッピウス・クラウディウスはもともと行動力があり、融通が利いたが、最近は弁論も巧みになった。今こそ彼の弁論術を発揮する時だった。「市民の皆さん、よく考えてください。護民官はいつも反乱をそそのかすが、それは本当に市民のためなのだろうか。それとも単に護民官の利益のためだろうか。今年になって答えがはっきりしました。長い間騙されていたことに気づき、私は満足しいます。ローマが最も繁栄している時に護民官の嘘が暴かれることは市民にっとっても国家にとっても幸運です。護民官は様々な時期に様々な損害を国家に与えてきたが、元老院が兵士に給料を与え、平民に好意を示した時、護民官は自信を失い、途方に暮れてしまった。この時ほど護民官が窮地に立ったことはない。あの時護民官が最も恐れていたのは何だろう。それは二つの身分の和解だ。身分間の和解が実現すれば、護民官は無用となる。護民官は和解の実現を元老院の策略とみなし、現在彼らは再び不和をもたらそうとしている。彼らはやぶ医者と同じで、人々の健康より自分の利益が大事であり、ありもしない病気を見つけようとする。護民官は社会問題を大げさに騒ぎ立てて。改善が必要だと訴える」。

ここまで話すと、アッピウス・クラウディウスは護民官に向かって言った。「諸君は平民を守ろうとしているのか、それとも平民を攻撃しようとしているのか。兵士に損害を与えるつもりか、それともっ兵士の利益を代弁するつもりか。諸君の目的はの何だ。元老院が平民の利益を考慮するか、それとも平民に損害を与えるか、はそれほど問題ではなく、とにかく元老院に反対することが諸君の目的ではないか。奴隷の主人は、よそ者が勝手に奴隷と親しくすることを禁じるが、それと同じように、諸君は平民を独占したいのではないか。元老院は平民に優しくしても、厳しくしてもいけない、とにかく関係するな、というわけだ。貴族は平民の問題に口を出すなな、ということだ。貴族が思いやりと寛大な心で平民に訴えるこおにより、平民が貴族に従順で忠実になることを、諸君は最も恐れているのだ。諸君が愛国心を持っていたら、少なくとも人間性を持っていたら、平民は諸君にもっと忠実になるだろう。もし諸君が貴族の親切な心または平民の感謝する心と善意を持っていたら、平民はもっと諸君に好意を持つだろう。身分間の調和が続けば、我々の帝国が近隣諸国の中でもっとも偉大な国になることを、誰も否定しないだろう」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4巻61章

2023-06-21 09:13:10 | 世界史

【61章】
新しい執政副司令官は 6人だった。T・クインクティウス・カピトリヌス、Q・クインクティウス・キンキナトゥス、C・ユリウス・ユルスは二回目の就任だった。アウリウス・マンリウスと L・フリウス・メドゥリヌスは三回目の就任だった。マニウス・アエミリウス・マメルクスは初めての就任だった。彼らはローマ軍を率いてヴェイイに向かった。ローマ軍が包囲を開始すると、エトルリア連合の会議が主神ヴォルトゥムナの聖地で開かれたが、エトルリア諸都市がヴェイイを救うか否か,決定されなかった。
(日本訳注;ウンブリア南部のオルヴィエートに多くの神殿があり、オルヴィエトはエトルリア人の聖地だった。)
翌年ローマ軍は再びヴェイイを包囲したが、前年と違い、包囲が不完全だった。護民官の一部が戦争に反対したことと、ヴォルスキ戦に兵士が引き抜かれたことが原因で、ヴェイイを包囲するローマ兵の数が少なかった。この年の執政副司令官は C・ヴァレリウス・ポティトゥス(3回目の就任)、マニウス・セルギウス・フィデナス、P・コルネリウス・ムグネンシス、クナエウス・コルネリウス・コッスス、カエソ・ファビウス・アンブストゥス、スプリウス・ナウティウス・ルティルス(2回目の就任)だった。フェレンティヌム(アルバ湖の南東、遠い)とエケトラエ(場所不明)の間の地域で、ローマ軍とヴォルスキ軍が戦い、激戦となった。ローマ軍が勝利した。その後ローマ軍はヴォルスキの町、アルテナ(フェレンティヌムの西)を包囲した。

アルテナの兵士が出撃してきたが、撃退された。ローマ軍は彼らを追って門から入り、町を占領した。町のはずれに砦があり、アルテナ兵が防衛していた。この砦は接近が困難な地形の場所にあった。砦の下方で多くのアルテナ兵が殺され、残りが捕虜となった。ローマ軍は砦を攻撃したが、防備が強固で踏み込めなかった。町が占領される前、国家の倉庫からトウモロコシを砦に運び込んでいたので、アルテナ兵は降伏するつもりがなかった。ローマ軍は撤退せざるを得ない状況だったが、奴隷の裏切りにより、砦の侵入可能な墓所がわかった。ローマ兵はその奴隷の後に続き傾斜地を上り、砦を占領した。ローマ兵は守備兵を殺すと、砦に逃げ込んでいた住民はパニックになり、すぐに降服した。ローマ軍はアルテナの町と砦を破壊してから、ヴォルスキの土地を去った。ローマ軍はヴェイイと戦う必要があった。アルテナを裏切った奴隷は奴隷身分から解放され、二軒分の土地を与えられた。彼はセルヴィウス・ロマノスと呼ばれた。アルテナはヴォルスキではなくヴェイイに所属するという人がいるが、誤りである。エトルリア地方に同じ名前のの都市があった。ヴェイイとカエレの間に同名の都市が存在したのでる。(カエレはティレニア海沿岸の都市、ローマの北西50km)
しかしエトルリアのアルテナはローマが王政だった頃に破壊された。その後アルテナはカエレが支配した。ヴォルスキ軍に勝利した後、ローマが攻撃し、破壊したアルテナはヴォルスキの町である。〔4巻終了)

 

  ーーーーーーー(日本訳注)ーーーーーーー

   〈リヴィウスが参考にした年代記と歴史書〉

大神官が記録した年代記は紀元前400年以前のものは消失した。紀元前387年、ガリア人がローマを包囲・略奪した際に、消失したとも言われる。従って紀元前400年以前のローマ史は事実かどうか疑わしい、伝説に過ぎないことになる。それでも、リヴィウスのローマ史を読むと、何らかの事実が語られているような気がする。大神官の年代記は掲示板に書かれて公表されており、物好きな貴族がそれを書き写していた可能性を否定できない。それ以外にも、コピーの存在は否定できず、紀元前400年以前について、何かの記録が存在したのかもしれない。
紀元前400以前のローマについて書いたのは、リビウスが最初ではない。紀元前270年に生まれたクイントゥス・ファビウス・ピクトルがローマ建国から彼の時代までの歴史を書いている。大神官の年代記が存在しない紀元前400年以前のローマについて、ファビウス・ピクトルは父親の世代まで語り継がれた伝説を書き留めたのだろうか。共和制の最初の100年(紀元前5世紀)について彼が何を典拠にしたのか、わからないが、ローマの建国については、南イタリアのギリシャ人の説を参考をにした可能性がある。最初にローマの起源について書いたのはギリシャ人である。シラキューズのアンテイオクスが紀元前420年頃にローマの起原について書いた。アンテイオクスの主な著作はシチリアの歴史であり、ギリシャ人のシチリア植民から紀元前424年までを書いた。彼のシチリア史は信頼性が高いと言われており、彼のローマ史についても期待できそうだ。トロイの王子アエネイスがラティウムスに来たという話や、ラテン地方の都市アルバの歴史を最初に書いたのは、彼かもしれない。ローマ建国以前のラティウムについて最初に語ったのはローマ人ではなく、ギリシャ人かもしれない。しかし、残念ながら、アンテイオクスが書いたとされるローマの起源は範囲が広く、具体的に彼がどの部分を書いたのかはわからない。彼のローマ史は失われているからである。
もう一人のギリシャ人がローマの起原について書いている。ペパレトゥスのディオクレスである。ペパレトゥスはコペロス島にある町である。コペロス島はギリシャ本土沿岸の小島であり、エウボイア島の北にある。ディオクレスは紀元前4世紀末に生まれ、前3世紀初頭に死んだ。彼はローマ人最初の歴史家クイントゥス・ファビウス・ピクトルより50歳年上である。ディオクレスはラテン地域の都市アルバの王朝末期について書いた。例えば前国王の双子の息子ロムルスとレムスがアルバの王を倒した事件などである。ローマ人最初の歴史家ファビウス・ピクトルはディオクレスの著述を自分の歴史に取り入れたと言われている。それにしても二人のギリシャ人歴史家が、ローマの起源に興味を持ったのはなぜだろう。ディオクレスの時代には、ローマはエトルリア諸都市に代わる新しい勢力となっていたので、ローマに興味を持つのは自然だが、その起源にまで興味を持つのはなぜだろう。まして紀元前400年代末に、シラキューズのアンテイオクスがローマの起源に興味を持つのは不思議
クイントゥス・ファビウス・ピクトルに影響を与えた先人については以上である。次に、ファビウス・ピクトルに続く、もう一人のローマ人歴史家について説明したい。ルキウス・キンキウス・アリメントゥスの生年はわからない、紀元前200年ごろに活動したことしかわからない。彼はローマ人最初の歴史家ファビウス・ピクトルより年下と思われるが、ピクトルがローマ史を執筆したのは晩年であり、執筆活動の点では、数年の違いしかない。
キンキウス・アリメントゥスは大神官の年代記やその他の国内の記録をもとに、各年の出来事を書いた。これは年代記と同じ形式であり、彼のローマ史は年代記とも呼ばれている。この点は彼の先輩のファビウス・ピクトルも同じであり、ピクトルのローマ史も年代記と呼ばれている。キンキウス・アリメントゥスの叙述は客観的であるとして、ポリュヴィオス(紀元前200年生まれ)やハリカルナッソスのデイオニシウス(紀元前60年生まれ)は彼を称賛した。紀元後4世紀のローマ人歴史家フェストゥスは、しばしばアリメントゥスの年代記を引用している。近代においても、ナポレオンと同世代のイタリアの歴史家ニエブールがアリメントゥスを高く評価した。「アリメントゥスは批判的に古代の事実を調査した。彼はローマの遺跡を調査し、ローマの歴史に新しい光を当てた。アリメントゥスは他のローマ人歴史家と違い、初期のローマが他のラテン諸都市に対しそれほど優越していなかったと書いている」。
キンキウス・アリメントゥスのローマ史は大部分失われたが、ローマ建国の年を検証した箇所が残存している。通説の紀元前763年に対して、彼は紀元前729年または728年と主張した。これについて近代イタリアの歴史家ニエブールが解説している。「昔のローマの歴史家たちが所有していた記録は、ローマ建国の年をタルクイヌス家の最初の王の即位の132年前としていた。昔のローマの一年はキンキウス・アリメントゥスの時代の一年より短かった。従って132年前は98年前に過ぎなかった、とアリメントゥスは考えたのである。しかしタルクイヌス家の最初の王が既に暦を改めており、冬の間の日数を増やし、一年の長さはアリメントゥスの時代と同じになっていた」。
アリメントスの作品は大部分失われた。ファビウス・ピクトルと二人のギリシャ人のローマ史も失われている。しかしこれら4人の作品はリヴィウスの時代には存在した。リヴィウスはこれらの作品を参考にした。

ーーーーーーーーーーーーーーー (日本訳注終了)             

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする