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紀元前4世紀のギリシャ②

2025-02-18 14:21:21 | 古代

フォキスは臨時会議を開き、対応を検討した。パルナッソス山のふもとの町レドンの市民フィロメルスはデルフィの占領を提案した。また彼は「隣保同盟の議長はフォキスである。従って我々は隣保同盟の決議を無効にできる」と言った。隣保同盟の議長はフォキスである、というのはフィロメルスの思い付きではなく、フォキスは昔からそのように主張していた。フォキスの議会はフィロメルスの提案に賛成し、彼を司令官に任命し、軍事に関する全権を与えた。フィロメルスはスパルタへ行き、アルキダモス3世と相談した。フォキスの計画が成功すれば、スパルタの罰金を無効にできるので、アルキダモスはフィロメルスに支援を約束し、兵士を集める費用として15タラント提供した。

フィロメルスはこのお金で傭兵軍を編成し、軽装備の歩兵として国内の若者1、000人を集めた。紀元前356年の7月ごろ、罰金の支払い期限が迫っていたが、フィロメルスはデルフィに向かった。デルフィの町とアポロン神殿の占領は容易だった。フォキスに対するテーベの陰謀に、デルフィの貴族も関わっていたので、フィロメルスはトラキダイ家の人々を捕らえ、殺害した。彼はトラキダイ家の財産を奪い、戦争資金とした。フィロメルスは当初デルフィの市民を奴隷にするつもりだったが、トラキダイ家の人々を殺した後、考えが変わったようで、「他の市民は安全である」と布告した。

デルフィが占領されたという知らせが伝わると、フォキスの西隣りの小国ロクリスが軍隊を派遣した。フォキス軍とロクリス軍はアポロン神殿の境内のはずれで衝突した。ロクリス軍は多くの兵を失い、敗北した。捕虜は境内の高い崖から突き落とされた。アポロン神殿を汚した者はこの崖から突き落とされるのが、慣例だった。捕虜の残酷な殺害によって、フィロメルスは聖地に対するフォキスの特別な権限を主張したのだった。捕虜の虐殺により、フォキス軍の残虐性が印象づけられた。

ロクリスに勝利すると、フィロメルスは聖地に対するフォキスの地位を高めるため、フォキスの聖地侵害にに対する判決が書かれた石板を破壊した。また彼はデルフィを統治していた政府を解体し、代わりに、フォキスに友好的な市民で構成さる政府を樹立した。新政府のメンバーはアテネに亡命していた人たちであり、彼らは祖国に帰ったばかりだった。デルフィは3方面を自然の要害で守られていたが、西側は平地に面していたので、フィロメルスは大きな石灰岩で城壁を築いた。デルフィの新体制が整うと、彼は神殿の巫女たちに予言を求めた。巫女が語ったった内容はフィロメルスのこれまでの行動を容認するものであり、彼は慣習に従い、予言の内容を境内に掲示した。次にフィロメルスはギリシャの諸都市に使節を派遣し、聖地に対するフォキスの権限を主張し、神殿の財宝には手を付けないと約束した。フィロメルスは諸都市が彼の行動を容認するとは思っていなかったが、彼らがテーベを支持しないことを期待していた。フォキスとスパルタに対する巨額の罰金は評判が悪く、撤回されていた。スパルタは罰金が消えたことを喜び、聖地におけるフィロメルスの行動(政府の解体と要人殺害)を容認した。アテネはテーべを敵視していたので、フォキスを支援すると表明した。

一方で、聖地に侵入したフォキスに対し単独で行動を起こしたロクリスが、隣保同盟に訴えた。「隣保同盟が行動を起こし、聖地を奪い返してほしい」。

テーベはロクリスの訴えを聞き入れ、同盟諸国に聖戦を呼びかけた。スパルタとアテネを除き、多くの同盟国が呼びかけに応じた。隣保同盟に参加していない国も、宗教的な観点から、聖戦を支持すると表明した。隣保同盟はフォキスに対する聖戦を宣言した。年の暮れがっ迫っていたので、戦争開始は翌年とされた。ただちに戦争を始めなかったのは、フォキスに反省する時間を与えるためでもあった。

フィロメルスは考え直すつもりはなく、軍隊の規模を大きくする必要を感じた。彼は市民をさらに徴兵すのではなく、傭兵を増やすことにした。これを実現する唯一の方法は、アポロン神殿に蓄積された奉納金や財宝を奪うことだった。戦争の期間を通じ、フォキスは1万タラント使った。開戦までにフィロメルスは10、000人の傭兵を集めることができた。傭兵たちは聖地を守る同盟の敵に雇われるのは気が進まず、フィロメルスは割高の契約金を払わなければならなかった。

翌年の春、ボイオティア軍はフォキスを攻撃する準備ができた。これを知ったフィロメルスは、南西の隣国ロクリスに軍を進めた。隣保同盟の全軍はフォキス軍の兵数を上回っていたので、個別に撃破する必要があった。ロクリスに勝利すると、フィロメルスはテルモピュラエに向かった。北から來るテッサリア軍の侵入をここの隘路で止め、ボイオティア軍と合流させないためだった。テッサリア軍とボイオティア軍は隣保同盟の主力だった。フォキス軍がテルモピュラエの近くまで来た時、マリアコス湾岸に住むロクリスの騎兵が攻撃してきた。(ロクリスはテルモピュラエの東、マリアコス湾南岸からコリント湾に到る領土を持っていたが、後にフォキスが割り込んできて、北と南に分断された。)
フォキス軍はロクリスの騎兵を打ち負かしたが、この間にテッサリア軍がテルモピュラエを通過してしまった。フォキス軍はテッサリア軍を迎え撃ち、勝利した。次にフィロメルスは戦場の近くのロクリス町を包囲したが、占領できなかったので、周辺の土地を略奪していると、ボイオティア軍が現れた。フィロメルスはボイオティア軍と戦わず、退却した。間もなく、ロクリスとテッサリアの部隊がボイオティア軍に合流し、フォキス軍にとって厄介なことになった。兵の数はそれほど違わなかったが、ボイオティア軍を中心とする連合軍は手強かったので、フィロメルスとフォキス軍は山道を通って逃げた。ボイオティア軍の司令官パンメネスは追撃を決定し、ボイオティア軍はフォキスの領土を進んだ。フォキス軍が行き違いにボイオティアに侵入するのを防ぐため、パンメネスはフォキスとボイオティアを結ぶ道を選んだ。しばらく行くと、ロクリスとテッサリアの部隊が合流してきた。合流直後、ネオンでフォキス軍に戦闘を仕掛けた。連合軍はフォキス軍に勝利し、パルナッソス山の尾根に向かって逃げる兵士を追いかけ、多くのフォキス兵を殺害した。フィロメルスは負傷し、捕虜になるのを嫌い、崖から身を投げて死んだ。副司令官オノマルコスが生き残りの兵を率いてデルフィに帰った。勝利したパンメネスとボイオティア軍は、テーベに帰った。
ボイオティア軍はフォキスの牙城デルフィを攻略せず、谷間の居住地を略奪しなかった。隣保同盟はネオンでの勝利に満足し、戦争が終結したと考え、フォキスが和平を求めてくるのを待った。この頃ペルシャのダーダネルス海峡の地域の太守がテーベに傭兵を求めてきた。太守はペルシャの王に反乱を企てていた。テーベは太守の要求に応じ、5,000の重装歩兵を貸し出した。テーベは資金が底をついていたので、太守が提示した金額は魅力的だった。フォキスが再び戦うことを決意したことを、テーベは知らなかった。テーベの5、000の兵が不在となったなったのは、テーベと隣保同盟にとって大きな過失だった。
ネオンから退却したオノマルコスは、降服を考えておらず、国民に戦争の継続を説いた。フォキスの今後について話し合う国家会議が開かれ、アテネとスパルタの代表も招かれた。降服するなら、フォキスは新たな罰金を課されることが話題になった。フォキスはデルフィの政権を転覆し、デルフィをフォキスの要塞に変え、財宝を横領したからである。降服による和平を求める市民がいたが、多くの市民がオノマルコスの演説に賛成した。市民は傭兵軍を恐れており、オノマルコスに反対できなかったこともある。傭兵軍は雇い主であるオノマルコスに忠誠を誓っていたので、市民の本心がどうであれ、オノマルコスの決定に従うしかなった。結果は市民が被ることになるのだが、どうにもならなかった。
オノマルコスは指導者としての地位が確立すると、国内のライバルを逮捕・処刑し、彼らの財産を没収し、戦争資金にしたが、これだけでは足りなかった。彼はデルフィの神殿の財宝を奪い、傭兵を集め、2万の歩兵と5千の騎兵から成る軍隊を編成した。これは前任者フィロメルスが創設した軍隊の2倍の規模であり、神殿の財宝は2倍奪われた。アポロの神殿の青銅や鉄の奉納品は溶融され、武器になり、金や銀の宝物は金貨や銀貨になった。
紀元前354年、オノマルコスはテルモピュラエの近隣の地域の支配を試みた。彼はテルモピュラエの東のロクリスと西のドリスを攻撃し、二つの国の地域を獲得した。主敵ボイオティアとは小競り合いだだけで終わったが、テッサリアとは、本格的な戦争になった。


    〈テッサリア戦;紀元前354年〉
テッサリアの諸都市・地方は隣保同盟の熱心な支持であり、昔からフォキスを嫌っていた。しかしテッサリアの有力な都市の一つであるフェラエは例外であり、デルフィの問題に無関心であり、テッサリアの異端児だった。フェラエがフォキスと同盟したたため、内戦となり、テッサリアの多数派の中核都市ラリッサはマケドニアのピリッポス2世に援軍を求めた。
オノマルコスはフェラエの援にこたえ軍要請に応じ、弟パイロスに7.000の兵を与え、テッサリアに派遣した。しかし、フォキス軍がフェラエに向かっていると、マケドニア軍が待ち構えていた。戦闘になり、フォキス軍は撃退されてしまった。た。
この間オノマルコスは他の場所で、ある町を包囲していたが、包囲を中断し、テッサリアに向かった。テッサリアを屈服させることができれば、ボイオティアを孤立させることができるので、オノマルコスにとってこの戦いは重要だった。他の周辺国ロクリスとドリスは既にフォキスに従属していた。オノマルコスの兵力は歩兵2万、騎兵500であり、歩兵は多数の投石器を所有していた。2回の戦闘で、マケドニア軍は多数の死傷者を出し、敗北した。丘の上のフォキス軍に対し、マケドニア軍は丘を登って行ったが、フォキス軍の投石により、多くの兵が倒れ、敗北した。マケドニア軍は戦場を去り、マケドニアに帰った。
  


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