追放された国王タルクィヌスはローマ国内の支持者に働きかけ、共和制の転覆を試みたが、失敗に終わった。それでもタルクィヌスは復権をあきらめなかった。
==《リヴィウスのローマ史第2巻》==
Titus Livius History of Rome
translated by Canon Roberts
【6章】
陰謀に加担した若者たちが処刑され、陰謀を報告した奴隷が報償を得たことが、詳しく元国王タルクィヌスに報告された。期待していた計画が失敗したので、タルクィヌスは怒り狂った。特に彼は秘密の計画がつぶされた経緯に腹が立った。タルクィヌスは引き下がるつもりはなく、正面から戦争をすることにした。彼はエトルリアの町々に行き、援助を求めた。なかでもウェイイとタルクィニアの市民に、彼は懇願した。
「皆さんと同じ血が流れている人間が滅ぶのを黙って見ているのですか。かつては強力な君主だった人間が、今は子供たちと共に宿無しになり、困窮している。かつて外国から招かれた人達がローマの支配者となった。一方戦争に勝利し、ローマの支配を拡大した私は家族の恥ずべき所業のせいで、ローマから追放された。現在のローマには統治者にふさわしい人間は一人もいない。彼らは国王の権限を自分たちで分け合っている。また彼らは私の財産を奪い、平民に与えた。これは全員を犯罪の仲間とするためである。私は自分の国と王権を取り戻し、恩知らずな臣下を罰したい」
ヴェイイはタルクィヌスを援助し、戦争の手段を提供した。ヴェイイはローマにいたので、この際復讐しようと考えた。過去の戦争で、ヴェイイの軍隊は完璧に 打ち負かされ、領土を奪われた。タルクィヌスの訴えを聞いたヴェイイの指導者は国民の支持を背景に、過去の屈辱的な条約の清算と損害賠償をローマに迫った。ヴェイイはローマの元国王の指導があれば、共和制のローマに勝てると思った。タルクィニアの市民も、タルクィヌスの名声と彼がかつてローマの指揮官だったことを理由に戦争を支持した。またタルクィヌスの両親はタルクィニア人だったので、タルクィニアの人々は同国人がローマの国王であることを誇りに思っていた。
タルクィヌスを再び国王にするため、またローマを懲らしめるため、エトルリアの2つの都市の軍隊がローマに向かった。軍隊がローマの領土に入った時、ローマのコンスル(2人)を先頭に、ローマ軍が進んできた。ブルートゥスが偵察任務の騎兵を率いて先に進み、その後をヴァレリウスが密集陣形の歩兵を率いていた。エトルリア軍も騎兵を先頭に進んできた。エトルリア軍の指揮官はタルクィヌスの息子のアッルンだった。タルクィヌスは歩兵を率いていた。両軍の距離はまだ離れていたが、アッルンはブルートゥスを見分けた。ブルートゥスの護衛兵(リクタ―)の特徴から、護衛兵を従えているのがブルートゥスだと判断したのである。両軍が接近すると、アッルンはそれが確かにブルートゥスだとわかった。アッルンは怒りがこみあげてきて、叫んだ。
「あの男が我々をローマから追い出したのだ。見ろ、あの男は王家の記章をかざして、威張って進んで来る。おお、神々よ、王家を守る神々よ、私を応援してください」。
こう言ってから、アッルンは馬に拍車をあて、一直線にブルートゥスに向かって行った。ブルートゥスはアッルンに気づいた。この時代の指揮官にとって、一騎打ちをすることは名誉であった。それで、ブルートゥスは喜んで挑戦を受けた。両者は怒り狂って相手に襲い掛かかった。どちらも相手に一撃を加えるこだけを考え、防御は考えなかった。二人の槍が同時に相手の盾を貫き、二人とも馬から落ちた。二人は槍が刺さったまま死んだ。
すぐに騎兵たちの戦闘が始まった。そして間もなく、両軍の歩兵が参戦した。激しい戦闘はたびたび流れが変わった。両軍の戦力事態はほぼ互角だった。どちらも右翼が勝利し、左翼が崩れた。ヴェイイの兵はローマ軍に破れるのに慣れていたので、ばらばらになって逃げた。タルクィヌス家の部隊は最後まで踏みとどまり、ローマ軍を後退させたが、ヴェイイ軍が敗北したので、全体の状況は変わらなかった。
【7章】
戦争に負けたことを知るとタルクィニアの市民は恐怖に陥った。また周辺のエトルリア人は夜にヴェイイとタルクィニアの敗残兵が近づいてきたので、襲われるのではないかと恐れた。ヴェイイとタルクィニアの兵は勝利をあきらめ、戦場を捨て、故郷に帰ろうとしていた。
この戦争には逸話がある。戦闘が一瞬やんだ時、アルシア(Arsia)の森で大きな音がした。それはシルヴァヌスの声だったと言われている。声は次のように語った。
「エトルリア人の死者はローマ人より一人だけ多い。ローマが勝利するだろう」。
伝説の真偽はともかく、ローマは勝利した。エトルリア人は敗北を認めた。なぜなら、夜が明けた時、戦場には一人のエトルリア人もいなかったからである。コンスルのヴァレリウスは戦利品を集めさせてから、勝利者としてローマに帰った。彼は戦死した同僚コンスルの葬式を当時として最大の盛大さでおこなった。人々は国家に貢献したブルートゥスの死を悲しみ、女性たちは一年間喪服を着た。なぜならブルートゥスは女性の貞節を汚した男を許さなかったからである。
単独のコンスルとなったヴァレリウスは初めのうち人々の間で人気があったが、大衆の気分は変わりやすく、やがて彼の評判が落ちただけでなく、人々は彼を不信の目で見るようになった。彼は国王になる野心を抱いていると疑われた。ヴァレリウスは欠員となったコンスルの選挙をしなかっただけでなく、ヴェリア(カピトリーヌの丘の別名)の頂上に家を建てた。地上から高く、攻めにくい場所に難攻不落の要塞の建設が進んでいた。
(訳注)ヴェリア(Velia)はここではカピトリーヌの丘のことであるが、サレルノ地方にあったギリシャ都市と同名。(訳注終了)
このような噂が広まっていることにコンスルは心を痛め、人々を集め会議を開いた。彼は会議場に入ると、ファスケス(斧と棒の束。斬首と棒でたたく刑の象徴)を寝かせた。人々は安心した。コンスルの行為は人民に対し権力を行使しないという意味であり、人民の権威と権力はコンスルより上位にあることを認めたのだった。議場が静まると、コンスルは話始めた。
「ブルートゥスが死んだのは幸運だった。彼は解放者として最高の栄誉の中で、祖国を守る戦いにおいて人生を終えた。彼の栄光は疑いや嫉妬によって曇らされることがない。一方で、生き延びてしまった私は、現在疑いと非難にさらされている。ローマの解放者だった私は、タルクィヌスの陰謀に参加したアクゥイリア家やヴィテリア家の人物たちと同類とみなされている」。
ここで彼は声を荒げた。「功績のある人間は必ず疑がわれるようだ。国王に決然と敵対した私が、あらぬ疑いを恐れるだろうか。私がカピトリーヌの丘の要塞に住んでいるという理由で、ローマ市民は私を恐れるのか。私と諸君はそんなに細い糸で結ばれていたのか。諸君の私に対する信頼はそれほどもろい土台の上に成立していたのか。私が誰であるかより、どこに住んでいるかが重要なのか。プブリウス・ヴァレリウスの家は諸君の自由にとって少しも危険でない。ヴェリアににある私の家は安全だ。私は平地に転居するつもりはないし、カピトリーヌの丘のふもとにさえ移らないが、ローマの市民は私より上位にあることは確かだ。プブリウス・ヴァレリウス以上に自由を愛する者は誰でも、ヴェリアに住めばよい」。
すべての建設資材がカピトリーヌの丘ふもとに運ばれ、そこにコンスルの家が建てられた。現在この場所に、ヴィカ・ポタ(勝利と力の神)の神殿が立っている。
【8章】
新しく制定された法律により、コンスルへの疑いが消えただけでなく、人々は彼を愛するようになった。そしてプブリウス・ヴァレリウスはプブリコラという愛称で呼ばれるようになった。一連の新しい法律の中で最も人気があったのは、国王になろうとした人物の財産を没収できることだった。高官がそのような人物を人民に訴え、財産を神々に奉納できるようになった。ヴァレリウスはこれらの法律を単独のコンスルであった時期に成立させたので、人々は彼に感謝した。それから彼はもう一人のコンスルの選挙をした。ルクレチウスが選ばれたが、彼は老人であったので職務を実行する体力がなかった。数日後に彼は死んだ。次にホラティウス・プルヴィウスがコンスルに選ばれた。昔の著者の数人がホラティウスがコンスルになったことについて書いていない。たぶんホラティウスは書くに値することを何もしなかったのだろう。ただ一つの事績が伝えられている。
カピトリーヌの丘に、まだユピテルの神殿はなかった。2人のコンスルのどちらが、ユピテルの神殿を建てるかについて、二人はくじを引いた。ホラティウスが当たり、彼が神殿を建設した。
プブリコラはヴェイイとの戦争に出発した。ローマでは、有名な神殿の建設者としてホラティウスが選ばれたことに、プブリコラの友人たちがあからさまに不満を示した。彼らはあらゆる手段を用いて神殿の建設を妨害しようとした。すべての試みが失敗したが、彼らはあきらめなかった。コンスル、ホラティウスは、神殿の入り口の柱に手を当て、ユピテル神に神殿を引き渡す儀式をしていた。この時プブリコラの友人たちたちはホラチウスに、彼の息子が死んだと伝えた。神への献呈する者の家族に死人が出た場合、献呈できなかった。ホラチウスがこの報告をを嘘だとして怒ったのか、自制心を発揮して冷静に行動したのかにかについて、はっきりした伝承がない。ともかく彼は神殿の入り口の柱に手を当てたまま、息子の死体を焼くように命令してから、献呈の儀式にもどり、祈りを終えた。こうして彼はユピテルに神殿を献上した。
以上が、国王を追放した最初の年の出来事である。初年のコンスル、ヴァレリウスが翌年再びコンスルに選ばれた。もう一人のコンスルはルクレチウスが新たに選ばれた。
【9章】
ローマから追放されたタルクィヌス家の人々は、エトルリアも都市クルシウム(ClusiumまたはClevsin、ペルージャの西)の王ポルセンナのもとに身を寄せた。タルクィヌス家の人々は半ば脅しながら、ポルセナに受け入れてもらったのである。
タルクィヌス家の人々はポルセナに言った。
エトルリア人である我々が一文無しで放浪する。我々を見捨てないでほしい。国王を追放したローマ人たちを処罰すべきだ」。
当時国王追放は新しい流行になっていた。これについて、タルクィヌスは述べた。
「自由は行き過ぎた。人民が過度に自由を求める時、国王が負けずに権威を守らないなら、国家は破滅してしまう。他のいかなるものより卓越したものは、何一つ残らないだろう。もうすぐすべての王権は消えるだろう。王権は神々と地上の人間の間で最も美しいものなのに」。
彼の話を聞いて、ポルセナは思った。「エトルリア人がローマの国王として君臨するのは、自分の国にとって名誉なことだ」。
ポルセナは軍を率いてローマに向かった。
ローマの元老院はこれまでになく驚いた。なぜなら、クルシウムは強国だったからである。また国王のポルセナは評判が良かった。元老院は敵を恐れただけでなく、自国の国民をも恐れた。平民は恐怖に負けて、タルクィヌスを市内に入れるかもしれなかった。たとえ平和が隷属を意味しても、平民は平和を望むかもしれなかった。こうして元老院は平民に多くの譲歩をした。元老院の最大の関心はトウモロコシを備蓄することだった。備蓄用の物資を集めるため、委員がヴルシ(エトルリアの都市、VulsiまたはVulciまたはVelchi)とクマエ(イタリア南部のギリシャ都市、Cumae)に派遣された。
(訳注:ヴルシは上記の地図参照。クマエは次の地図)
また塩を確保するため、国家の専売とした。これまで個人が塩を販売していたが、有力者には高く売りつけていた。平民は国家のための無償労働と戦争税を免除された。これらの税は負担に耐えられる裕福な人々に転嫁された。貧しい者は子供たちを育てるだけで十分国家に貢献しているとみなされた。間もなく始まった包囲と飢えの苦しみの中で、戦いの直前に元老院が示した寛大さは市民の間の調和を完全に保った。元国王タルクィヌスは支配層によって憎まれただけでなく、貧しい者も彼を嫌うようになった。これ以後ローマでは扇動者が成功することはなかった。一方で、元老院は平民に恩恵を与える法律を制定したので、人々から信頼された。
【10章】
ポルセナが率いるクルシウム軍が近づいて来ると、郊外に住む人々は、ローマの市内に逃げ込んだ。城壁が不完全な場所に、守備隊が配置された。それ以外の場所は城壁とテベレ川で守られていた。敵はスブリキウス橋を渡って来ることができたが、一人のローマ兵、ホラチウス・コクレスがこれを阻んだ。
(訳注)スプリキウス橋はテベレ川に架けられた最初の橋で、木製。アヴェンティーヌの森のふもとから対岸に渡る橋。(訳注終了)
この重要な場面で、たった一人で防壁の役割を果たす人物がいたことは、ローマにとって幸運だった。ホラチウスが橋を防衛していた時、敵が対岸のヤニクルムの丘を急襲し、占領するのを見た。敵は丘を駆け下り、テベレ川を渡ろうとしていた。ローマ軍は恐怖に襲われ、守備位置を離れ、軍服を脱ぎ、逃げだした。彼らはもはや軍隊ではなく、逃げ惑う群衆だった。ホラチウスは兵士一人一人に呼びかけ、臆病な行為を責めた。
「恥を知れ! たち止まれ。敵が橋を渡ってしまったら、逃げても無駄だ。さらに多くの敵が橋を渡ってローマに入り、パラティーノの丘やカピトリーヌの丘に殺到するするだろう。そうなれば。ローマ市内に安全な場所などない」。
それから彼は大声で命令した。
「橋を壊せ。橋を燃やすか、剣で切り倒せ。他の方法でもよいから、橋を壊せ。俺は敵をひき止めて、時間をかせぐ」。
言い終わると、ホラチウスは橋のたもとまで進んだ。橋を渡ってローマへ避難する人々の中で、逆に橋を渡って来る兵士の姿は敵兵の目を引いた。ホラチウスはたった一人で敵に向かっていった。クルシウムの兵士たちはホラチウスの並外れた勇気に驚いた。ローマ兵の中で、二人の兵士 がホラチウスを見殺しにできず、後を追った。この二人のローマ兵、ラルチウスとヘルミニウスは身分が高く、勇気がある家系の青年だった。3人のローマ兵は敵兵の最初の猛烈な攻撃を受け止め、敵の前進を止めた。この時、橋は大部分破壊されていた。ローマ兵は残りの部分の橋柱を切り倒そうとしとしていた。彼らは敵の前進を阻んでいる3人に、逃げるように言った、ホラチウスは「君たちこそ逃げろ」と言った。そしてホラチウスは威嚇するような目で敵を見渡し、エトルリアの貴族の戦士を探した。それらしき人物たちを見つけると、彼は決闘をを呼びかけ、ついでに彼らを非難した。 |
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「諸君は暴君に仕える奴隷だ。自分の自由を求めずに、他国の自由を攻撃している」。
エトルリアの貴族たちは動揺し、お互いの顔を見あった。しかし彼らはすぐに思いなおし、攻撃を決断した。エトルリアの兵士たちは一斉に声を上げ「、あらゆる方向からホラチウスに向けて槍を投げた。ホラチウスは盾を前に突き出し、それらの槍を防ぎ、不動の決意で、橋の前に踏みとどまった。敵は邪魔なホラチウスを倒そうと走りだしたが、その時橋が全壊した。ローマ兵たちは目的を達成し、歓声を上げた。エトルルリア兵は驚いて、攻撃をやめた。ホラチウスは言った。
「聖なる祖先ティベリヌス(川の名前の由来となった人物)よ。幸運をもたらすあなたの川に飛び込みます」。
そして彼は武具を脱がずにテベレ川に飛び込んだ。矢や槍が降り注いだが、彼は無事に対岸まで泳ぎ、友人たちにに迎えられた。この英雄的行為は有名だが、事実かどうかは、わからない。しかし彼は何らかの貢献をしたようだ。ローマ国民は勇気ある行為に感謝を示し、ホラチウス・コクレスの像をコミチウム(屋根のない集会場)に立てた。またホラティウスは土地を与えられた。それは1日で鋤をかけられる広さだった。国家からの賞与だけでなく、市民が彼に感謝の気持ちを示し、貧しい家計の中から、できる限りの贈り物をした。