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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

ティクリート戦=最後の6日間

2015-06-29 22:46:27 | イラク

                ティクリートの大統領宮殿

          

                                    (写真)CNN

イラクはイランに乗っ取られたと考えて、サウジアラビアはうろたえている。1991年の湾岸戦争の直前、クェートを占領したイラク軍が、隣接するサウジアラビアの油田地帯に侵攻するのではないか、と恐れられた。実際に、イラクの戦車群がサウジとの国境付近に集結した。米軍の戦車に対する防衛体制だと、後でわかった。

現在サウジアラビアはイランを恐れている。

イギリスの女性外交官エマ・スカイも、イラク政府はイランの支配下にある、と憂慮している。彼女は、2003年のイラク戦争後、バグダードで占領行政に携わった。占領軍の司令官だったオディエルノ将軍の補佐官を務めた。開戦前、エマ・スカイは戦争に反対していた。イラク攻撃は、正当性がない侵略戦争だと批判した。しかし、彼女は2011年の米軍の撤退に、反対した。その理由は、「米軍の役割が変わった。内戦が開始されてしまったので、止め役としての米軍が消えてしまえば、取り返しがつかない事態になる」と予感したからだ。2008年にフセイン残党のテロが鎮静化したのは、一時的なものだ、と彼女は見ていた。彼女の予感は的中した。2014年以後、イラクは再び内戦に突入した。

 

イラク政府に対するイランの影響力が圧倒的になるのは、2014年のISISの大攻勢がきっかけである。ISISはシーア派の地域を制覇する勢いだった。そうなれば、由緒あるシーア派のモスクが破壊されるかもしれない。シーア派の信徒の多数が虐殺されるかもしれない。こうした恐怖を前に、冷静なシスターニ師といえども動揺した。この危機を救ったのがイランである。

この時以前は、イラクのシーア派はイランから自立していた。イランの援助を受けながらも独立性を保っていた。

 

イラン脅威論を念頭に置きながら、ティクリート戦の最終段階を振り返ってみたい。

               チグリス川の対岸が戦場

         

                              (写真) i2.cdn.turner.com

             <米国に空爆を要請>

アバディ首相は、シーア各派に相談せずに、米国に空爆を依頼した。空爆の依頼は軍事的必要性によるものではなく、親米派の巻き返しの策謀のように見えた。バドル軍の指導者ハディ・アメリは、空爆要請に反対していた。バドル軍は最大のシーア派民兵軍である。「米国を信頼するのは、蜃気楼を現実と思い込むようなものだ」。

しかし発表された犠牲者の数だけでも1000名を超えており、犠牲を少なくして勝利するという判断は、妥当だった。

 

3月15日、サイディ将軍が、米国に空爆と情報収集を要請するよう、イラク国防相に求めた。アブドゥルワッハーブ・サイディ将軍はティクリート戦の司令官である。

3月22日、アバディ首相はオバマ大統領に航空支援と情報収集を要請した。

イラクの要求に対し、米国防総省は条件を出した。その条件について、米中央軍のオーステイン司令官が、上院軍事員会で証言している。

 

         (オーステイン司令官の証言)  3月26日             

 「シーア派民兵軍はティクリートを奪回することに失敗した。その結果、イラク政府は、米国に空爆を要請してきた。米国は、シーア派民兵が撤退するという条件で、空爆を引受けた。私は、情報収集のための飛行を開始する前に、シーア派民兵を撤退させるように要求した。我々は、イランが指導するシーア派民兵と共同作戦をするつもりはない。

戦闘終了後、シーア派民兵をテイクリート市内に入れない、という条件も、イラク政府は了承した」。

  ===========

オーステインは明言していないが、米国はイランのスレイマーニ将軍の退去を求めた。

 

        <空爆開始>

空爆は3月25日の深夜に始まった。8時間30分続き、翌26日の明け方に終了した。出撃回数は17回である。朝になると、米軍にかわってイラク空軍が爆撃を続けた。

この後30日までに、米空軍と連合軍はさらに28回の空爆を行った。

空爆は多数のシェルターを破壊した、とマガーグ米大統領副特使が語った。

大統領宮殿は徹底的に破壊された。2003年のイラク戦争の時をしのぐ破壊だった。サラフディン県の庁舎ビルの壁は跡形もなく吹き飛ばされ、骨組みしか残っていなかった。2階建ての民家は、土台しか残っていない。民家を吹き飛ばすことは容易でも、数が多い。どの家に潜んでいるかわからない。都市ゲリラ戦を困難なものにする。

この間、幹部を含むISISが多数殺害された。

                        大統領宮殿

      

                                  (写真)iraqinews

(写真の説明) 遠距離なので破壊の跡がよく見えない。構造の大部分は残っているが、CNNの動画では、構造が破壊された部分が写っていた。ティクリートの大統領宮殿は宮殿群であり、冒頭の写真のように、方角によって異なって見える。

          <シーア派軍は撤退要求を無視>

シーア派軍は米国の要求にもかかわらず、撤退しなかった。オベイディ国防相は米国の要求を完全に無視した。「シーア派民兵を撤退させるつもりはない。これまでどおり戦いを続ける」と語った。

 

           <米空軍の参戦は不要>

しかしシーア派民兵3グループが撤退した。米国の条件を受け入れたのではなく、米国の参戦に反対し、抗議行動として、戦線から離脱した。「米軍の空爆は不要だ。自分達だけでやれる。米軍の参戦は勝利を横取りするものだ」と米国を批判した。2グループは、最近までイランの将校が指導していた。

撤退したアサイブ・ハクの広報官は「米国は信用できない。以前、米国は我々の部隊を爆撃し、ISISには補給物資を投下した」と言った。バドル軍の指揮官も米国の立場を批判した。「我々も撤退するかもしれない」。

 

            <28日、バドル軍が撤退>

シーア派の大部分は、26日と27日は戦ったが、28日、ほとんどのシーア派民兵が戦線を離脱した。シーア派が宿泊していた大学の敷地は、静けさにおおわれた。特殊部隊と肩を並べ最前線で戦っていたキターブ・アリ・イマーム軍の兵舎も、空っぽだった。イマーム軍を指揮しているズバイディ少佐は「上からの命令だ」とワシントンポストのモーリス特派員に語った。

イランのスレイマーニ将軍もイランに帰った。

 

ほとんどの民兵が去ってしまうと、イラク軍の司令官たちは落ち込んだ。前日、たまたま南部からシーア派の宗教指導者が訪問してきたので、司令官のひとりが「民兵たちに、とどまるよう説得してくれ」と頼んだが、無駄だった。

                     戦線に復帰するよう交渉

             

                                        (写真)AP 

ティクリート作戦の司令官であり、特殊部隊を率いているアブドルワッハーブ・サイディ中将は語った。「今、彼らが最も必要な時だ。兵力が足りない。彼らはこれまで多くの勝利をもたらしてきた」。

 

     <連邦警察と特殊部隊による勝利>

3月30日、アバディ首相はテクリートのISISは壊滅した、と報告した。

戦車・重砲・連射砲を持つ、シーア派軍の中心部隊は、最終局面で姿を消していた。

最後の3日間は連邦警察と特殊部隊が中心になって戦った。特殊部隊は黄金師団と呼ばれ、ティクリート戦の当初から最前線で戦った。最後の3日間、イラク軍は適切な作戦計画と戦術に従い、規律ある戦いをした。イラク軍の戦闘力が向上したことを示した。

 

最後の3日間戦ったシーア派軍は次のとおりである。2名以上の民兵軍の司令官と1名の連邦警察高官がアルジャジーラに語った。

①カタイブ・ヒズボラ

②ヌジャバー(アサイブ・ハクから分裂した軍)

③ジュンド・イマーム

④バッタール旅団

⑤アクバール旅団

スンニ派の志願兵旅団も参加した。

 

           <イラク空軍の出撃> 

米軍の空爆が始まったのは25日の夜である。

その日、米空軍に先立って、イラク空軍のスホーイ25型が、バグダードのラシード基地を飛び立った。ラシード基地には中古のスホーイ25型が5機、配備されている。国防相は自信を持って見送った。しかしその中の一機が誤爆した。 

            

                                                                          (写真)Reuters

イラク空軍の空爆は不正確で、目標に命中しないことが多い。25日には味方の陣地を誤爆し、イラク兵が逃げ回ることになった。15人が負傷し、4人は重傷だった。

誤爆してしまったからといって、イラク空軍は役立たずではない。ISISが陣地としている建物を破壊し、米空軍の出撃と交代する形で出撃するので、ISISは休むことができない。

 精密な爆撃をする米軍も、誤爆をしている。シーア派民兵9人が死亡した。シーア派は、これは誤爆ではなく故意だと考えている。

 

       <個々のシーア軍は他からの命令を受けず>

ティクリート戦の最終段階は、バドル軍をはじめシーア軍主力無しで勝利した。にもかかわらず、米国防省のスタッフは、シーア派の「ごろつき」が果たした役割の大きさを認めている。「彼らがいなければ、ティクリートの勝利はなかった。

シーア軍について、国防総省の複数のタッフが鋭い分析をしている。デイリー・ビーストから抜粋する。

 ============

シーア派民兵が、地上戦の主力として勝利に貢献した事実は重く、今後の作戦について、彼らに主導権がある。しかし彼らは一枚岩でなく、いくつものグループに分れており、それぞれの方針を持っている。シーア派民兵の各グループは独立した存在であり、イラク政府・米国・イランのいづれからも距離を置いている。3国の政府との対立が予想され、グループ同士が互いに争う可能性も高い。

彼らはイラク政府にとって信頼できる相手でない。目前に迫っているモスル戦に彼らは参加しない。

ティクリートはシーア派にとって戦闘領域の北限だった。

Fault Lines 貼り付け元  <http://www.thedailybeast.com/articles/2015/04/04/shiite-militias-are-the-real-winners-of-the-battle-of-tikrit.html>

  ==========

 

ティクリート自体はスンニ派の土地であり、自分達の土地ではないので、戦う理由はない。少し南方にはシーア派地域があり、それは守らなければならない。

ティクリート作戦開始にあたって、バドル軍の司令官が、ことさら「スパイカー基地の新兵虐殺の復讐」を誓ったのも、ティクリート戦の理由が、志願兵にとって分りにくかったからかもしれない。

バグダード以南の若者は、北方のスンニ派の都市モスルを攻撃する理由が分らない。

今回のティクリート戦には、シスターニ師の呼びかけに応じて参加した者が少なくない。彼らはかならずしも戦争の意味を理解していなかった。志願兵は「スンニ派を絶滅して領土を拡大」しようと考えていたわけではない。

各グループ相互の違いに加えて、各グループ内に中核部分と一般志願兵の相違がある。一般志願兵はティクリート戦で戦死者が多かったことに、心を痛めており、戦争理由に納得できない場合、今後は参加しないかもしれない。

         

                                   (写真)Daily Beast

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4千年の栄光と千年の衰退を経た国

2015-06-19 17:53:13 | イラク

             

    <1000年間の衰退期>

750年に成立したアッバス朝は、第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎えた。在位期間は786年~806年である。バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。しかし繁栄の期間は短く、800年代になると各地に地方政権が成立し、バグダードは中央政府としての機能を失った。アッバス朝のカリフは名目的存在にすぎなくなった。それに伴い、首都バグダードは徐々に衰退した。以後千年間、バグダードは再び首都となることがなく、繁栄を取り戻すことはなかった。アッバス朝の衰退後、現在イラクと呼ばれる地域は荒廃し、文明とほど遠い地方になった。

 

1970年代のバグダードは千年の眠りから覚めたようだった。やっとイラクは豊かな国になった。1000年間の貧しさに別れを告げ、文明国として復活へと向かった。メソポタミアは紀元前3000年から、紀元後900年まで、文明の中心だった。この間実に4千年である。フセインが自らをネブカドネザル2世に比したのも、見当違いではない。

イラク各地の遺跡や出土品に匹敵するものは、世界のどこを掘っても出てこない。紀元前2千年より前の高度な文明は、エジプトとメソポタミアでしか発見されていない。

 

    <イラク考古学>

聖書関連の考古学は19世紀に始まっており、聖書に登場するバビロニアの遺跡を求めて、イラクに向かうことがブームになった。西洋人は聖書を通して、古代都市バビロンの名を子供の頃から知っていた。考古学のブームに一般の人も乗った。彼らは学問的関心からではなく、宝探しが目的だった。しかしそのため、地元の人が、古いものがお金になることを知り、発見を促進した。

 

   <イスラエル王国の分裂>

ソロモンの死後、10部族がイスラエル王国(北王国)として独立し、南のユダ王国(南王国)から分離した。

 

        紀元前830年のシリア

      

 (地図の説明)

①地図の中央を、北から南にヨルダン川が流れ、死海に流れ注いでいる。死海は地図の下方の薄青色の部分である。死海の南端にエドム王国がある。黄色で示されている。首都は有名なペトラである。

②死海の西側が南王国ユダである。明るい黄緑色で示されている。

③死海の東側がモアブ王国である。本文には関係ないが、古代イスラル史にしばしば登場する。

④ヨルダン川の西側が北王国イスラエルである。濃い緑色で示されている。

⑤ヨルダン川の東側に2つの国家がある。北がアラム王国である。首都はダマスカス。濃い緑色で示されており、北王国と区別がつかない。南がアンモン王国である。

⑤紀元前830年には、アッシリアはまだシリアに進出していない。地図の上端に青色で、わずかに示されている。アラム王国の北側。

 

紀元前721年、アッシリアの攻撃により首都サマリアが陥落し、北王国は滅亡した。

南部のユダ王国はアッシリアの貢献国として存続した。

 

     <ユダ王国の滅亡>

南のユダ王国は、新バビロニアのネブカドネザル2世から2度の攻撃を受け、2度敗北した。一度目は紀元前597年で、エルサレムは降伏し、朝貢の義務を受け入れた。しかし紀元前586年に反乱をおこし、再び敗北し、最終的に滅んだ。

 

          [ 紀元前597年、1回目の敗北 ]

ユダ王国は、エジプトとシリアの境界に位置し、辺境の地であり、これまでかろうじて独立を維持してきた。またエルサレムは山上にあり、防備を施しているので、難攻不落である。かつて大国アッシリアの攻撃を退け、条件交渉に持ち込んだ。アッシリアに貢納することになったが、首都を守り抜いた事実は残った。

 

しかし新バビロニアの軍事力は格段に進歩していた。

ネブカドネザル2世の作戦計画は周到であり、投石器で石を放ち、数千人の弓兵が一斉に矢を放つた。45の攻城塔を城壁に立てかけ、金属の防具を身に着けたバビロニア兵が城内になだれこんだ。

王は戦死し、王子エホヤキンと約1万人のイスラエル人が捕虜となり、バビロニアに連れ去られた。これが第一回の捕囚と呼ばれる。

 

     [ 二回目の敗北=滅亡  ]

10年後、従順を見込まれて王位につけられていたゼデキア王が、反乱する。ネブカドネザルはエルサレムの城壁をとり崩し、ソロモンの神殿を破壊した。前586年、ユダ王国は滅亡した。捕虜となった市民は再び、バビロンに連れて行かれた。

 

     <バビロンの捕囚>

バビロンに連れてこられたイスラエル人は「故郷を追われ、異国の地でわが神を讃える歌を歌っても、むなしいだけだ」と嘆いた。

「バビロンの捕虜」は悲劇として語られるが、それはエルサレムが滅んだこと、故郷を追われたことについてであり、バビロンでの生活はしごく普通であった。ネブカドネザルにとって市民を土地から切り離すことで、目的は達成された。

 

    バビロンのイシュタル門 

     

                                         (写真 )   wikipedeia  

バビロンに来たイスラエル人たちは、古代都市の壮大な建造物に圧倒された。当時バビロンは繁栄しており、古い伝統を有する大都市だった。

イスラエル人たちは、建物の壁に彫られた生き物の像から強い印象を受けた。建造物の最大のものだったバベルの塔を、聖書に書き残した。この話は、近代の聖書の読者の間でも有名であり、バベルの塔の遺跡を現地で探すことが考古学の課題となった。しかし、現在に至るも発見されていない。バベルの塔は、ユダヤ人が現地で見たものではなく、伝説に聞いたものかもしれない。

民族の神を信仰し、自分達は特別の民族だとユダヤ人たちは信じていたが、バビロニアの文明の偉大さを認めざるを得なかった。そしてこのことは、旧約聖書の編さんに影響を与えた。バビロニアの文学や歴史が旧約聖書に取り入れられた。「アダムとイブ」「ノアの方舟」はこの時期に書かれた。したがって創世記は、バビロンに伝わる話として、旧約聖書の最後の方に置かれるべきである。エルサレム滅亡とバビロン捕囚の次が「創世記」となる。しかし、聖書の編さん者は、歴史よりも民族の神話を優先した。本来聖書の冒頭である「出エジプト記」の前に、「創世記」を持っていった。

 

   <紀元前1000年より前のことは、わからなかった。>

アッシリア・バビロニアはイスラエルにとって脅威だったので、旧約聖書にしばしば登場する。聖書の読者である西洋人の間では関心が高かった。考古学は聖書に関するものが中心だった。

 

1901年にハムラビ法典が発見され、1940年にシュメール語が解読され、アッシリア以前の歴史があるらしいとわかったが、紀元前1000年以前の歴史については、ほとんど知られていなかった。紀元前2500~紀元前1000年について、歴史の全貌が明らかになるのはずっと後である。粘土板がぞくぞくと発見され、シュメールについて理解されるようになり、シュメールに対する関心が深まった。聖書考古学とは別に、シュメール考古学が誕生した。メソポタミアには紀元前2500年以来、書かれた歴史があり、その長い歴史の最後にネブカドネザル2世が登場した。在位期間は紀元前605年 ~紀元前562年である。

 

アッシリア・新バビロニアは文明国であり、大国だった。その時代、イスラエルは数ある小国のひとつにすぎなかった。しかしイスラエルは民族の歴史が書かれた文書を保存し続けた。

 

     <アッシュールバニパルの図書館>

アッシリアの偉大な征服王アッシュールバニパルは教養があり、文書の収集に情熱を持っていた。シリア・メソポタミア全域の文書史料を収集し、膨大な図書館をつくった。この図書館は、オリエント世界の知識の集大成だった。有名なアレクサンドリア図書館の先例となった。

アッシュールバニパルの在位期間は紀元前668年 - 紀元前627年頃である。

 

         ライオン狩り(前645 ~ 前635年)

     

 

しかし、アッシュールバニパルの図書館は首都ニネヴェが滅んだ後、地に埋もれてしまった。

近代の西洋人にとって、アッシリアについての独自資料は存在しなかった。聖書によってわずかに知るのみとなった。バビロニアについても同様で、聖書とギリシャ人が伝えること以外知らなかった。現地の豊富な記録は地下に眠っていた。

1849年にアッシュールバニパルの図書館の一部が発見され、以後発掘が進み、かなりの部分が発見された。古代オリエントの研究はこの図書館の史料の解読に大きく依存しており、古代史を語る上で欠く事のできないものとなっている。

 

       

     <命取りとなったイランとの戦争>

フセインが「バビロニア王国再興」を夢見た期間は短かった。たった10年で、彼の夢はしぼんでしまった。

1980~88年のイランとの戦争によって25万人以上のイラク兵が戦死した。戦費によて国家財政は破綻し、クェートその他の湾岸諸国からの借金はふくらんだ。この借金問題が、1990年のクェート侵攻の原因になった。

フセインは軍人としての経験がなく、戦争指導に関する意見の違いから、軍将校との間の溝が深まった。サダム・フセインは軍将校によるクーデターを恐れるようになった。この頃から、サダムの恐怖政治と残酷な処刑が始まった。

 

イランとの戦争が1988年にやっと終わると、1991年に湾岸戦争になった。湾岸戦争の原因は、イランとの戦争によって膨大となった戦費がフセインを押しつぶしたからである。

第一次大戦後のフランスもドイツのルール地方を占領した。ルール地方は石炭と鉄鋼の産地であり、ドイツ最大の工業地帯である。このことでフランスはあまり非難されないが、ルール地方占領は、見境のない破廉恥行為と言ってよい。戦争は国の経済を破壊する。フセインがクェートを占領したことは、フランスがルールを占領したのと同じ動機による。

 

1991年の湾岸戦争後、8年間イラクは経済制裁を受け、石油が売れず、国民は貧窮した。

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失敗国家イラク

2015-06-13 00:40:30 | イラク

           <イラク戦争の再開 >

昨年以来、オバマ政権にとって、イスラム国を消滅させることが緊急課題となっており、オバマ大統領は2月初旬、地上軍の派遣の承認を議会の求めた。これまでの空爆に加え地上軍を派遣することは、戦争開始に等しい。地上軍はいったん出動させると、簡単には戻せない。オバマが独断で出兵せず議会に同意を求めたのは、納得できる。アメリカ国民の多数が反対し、議会でも反対と賛成が拮抗(きっこう)している。

 

211日、オバマは下院に宛てて書簡を出し、自分の意図を説明した。彼の考えていることがよくわかる。

   

======<オバマの議会への書簡>===========

イスラム国はイラクとシリアを不安定にしており、この地域の米国人と米国の施設に脅威を与えている。

私が要求した武力行使権限には、大規模な地上軍による長期間作戦は含まれていない。私は、アフガニスタンとイラクで行ったような戦争をやるつもりはない。そのような戦闘は、米軍ではなく、地元の軍隊が行なうべきである。

私が求めているのは、特定の場合に限っての地上戦である。例えば、有志連合と米国の人員を救出しなければならない場合である。迅速なに対応が対応が求められる。また、ISISの中核である指導部を壊滅させることが、最も効果的である。この重要な軍事作戦は、特殊部隊が行わなければならない。

 

私は原則として、地上軍による軍事作戦を意図しておらず、想定していない。予定しているのは、情報を収集し、地元の軍隊に提供することである。また作戦計画について彼らに助言し、その他側面から援助するつもりである。

 

議会に提出した原案には書かれていないが、私は議会と国民と協力しながら、2001年の武力行使権限授与法を改め、最終的には廃止する決意でいる。

=======================

 

オバマ大統領は、少人数の特殊部隊にとどめたいと願っているようだが、既に3千人の米兵がいるのに足りないというのだから、わずかなな増兵で足りるだろうか。事実上今回の決定は地上軍を出すという決定であり、明確な方針転換である。ブッシュが始めた戦争はいったん終結し、イラク政府は米軍の撤退を求めた。オバマ大統領は、戦争再開を決定し、議会に同意を求めた、ということである。

ISISの大進撃以後、3100名の米兵が軍事顧問としてイラクに派遣された。これだけでは足りず、師団規模の兵数にする計画である。オバマは小規模の作戦というが、現地の米軍が考えていることは、とりあえず一万人に増やし、必要に応じてさらに増強することである。

作戦計画の助言だけなら、すでにイラクにいる3100名で足りる。米軍は最前線で戦っている。だから、人数が足りないのである。彼らが危険に陥っても、イラク兵は頼りにならない。米兵ならば危険を冒しても助けに来る。しかし3100人の米軍事顧問は各地に散らばっている。イラク全土を3100人では、カバーできない。彼ら軍事顧問が援軍を望んでいる。書簡で述べられている「人員を救出」とは、第一に彼ら軍事顧問の救出のことだ。そのための増派であり、戦争のエスカレーションである。

米地上軍がイラクとシリアに派遣されることになる。オバマは、シリアに対しては長い間、空爆さえためらっていた。しかし今年9月、シリアに対する空爆を開始した。今回はイラクとシリアに対して地上軍の派遣を決心した。情勢が大きく変化している。イラクもシリアも分裂が固定化し、誰にも収拾できない。オバマは小規模な地上軍を投入することで、何とか切り抜けようとしている。

    <モスル作戦どころではなくなった米国>

イラクではISISからモスルを奪回することが重要課題となっている。イラクで炎熱の夏に作戦をすることは困難であり、春の間に勝利しなければならず、時間が迫っている。

ところが、前哨戦ともいえるティクリート戦で、政府軍は人数が少なく、主力は、シーア派民兵軍であることがわかった。シーア派民兵軍を指揮しているのは、スレイマニ将軍以下のイラン人将校である。正規軍にもイランに忠実な人間が配置されており、スレイマニ将軍の影響下にある。

 

     <イランの支配下にある内務省軍>

2010年5月、内務省の作戦室長はバドル旅団の司令官モハメド・シャラシュだった。バドル旅団はシーア派民兵の中心的な部隊である。内務省と内務省軍・緊急展開部隊はバドル旅団の人間で固められている。

 

     イラン国外軍の総帥、スレイマニ将軍

      

                                                 (写真) newkhaliji.com        

軍を掌握できないアバディ首相に実権はなく、イラクの真の権力者はスレイマニ将軍だ、と言われる。

ISISと戦うことも必要だが、イランの影響力を排除することが先決にも思え、米国にとってイラクは手に余る難題になった。

ISISとスンニの同盟、イランとシーアの同盟、それにクルドの3者が、支配地獲得戦争をやっている。イラクという国は消滅に向かっている。

 

     <失敗国家となったイラク>

イラクでは、勢力分布に従い、新たな国境線が生まれようとしている。

    

                                                         (地図)abagond

     

事の始まりは、2003年のイラク戦争で米国がフセイン政権を倒したことにある。イラクはモザイク国家であり、いったん国家の枠組みを破壊すると、とりかえしがつかない。2003年米軍が侵攻してきた時、国民の心は政権から離れており、部隊の士気は低かった。徹底抗戦した部隊は少なく、米軍の勝利は早かった。

 

しかし、「フセイン政権を倒すことができても、そのあとが難しい」という分析は正しかった。イラクは、クルド・スンニ・シーアの3民族からなる。さらにいくつかの小さな少数民族がいる。これまで政権を担当してきたスンニ派が、無力な少数民族に転落してしまった。彼らは、今まで最も恩恵を受けてきたので、その落差は大きい。しかも彼らは絶滅の危機に追い込まれてる。

今年3月、政府軍がティクリートのISISを攻撃した時,スンニ派の家々が破壊された。戦闘によるものでやむを得ないとはいえ、住民は家を失う。しかし破壊はそれにとどまらなかった。戦闘終了後に、スンニ派の住居の4分の1が破壊された。シーア派の復讐の念が、スンニ派を民族浄化の対象にしつつある。こうなると、追い詰められたスンニ派は最後の一人まで戦うしか道はない。ルワンダの虐殺と同じ構図である。多数派のフツ族が新たに権力の座につき、それまで支配民族だったツチ族が虐殺された 

     <平和で安定していた1970年代>

現在は、血で血を洗う内戦へ突入しているイラクだが、1970年代のイラクは、今では考えられないほど、安定していた。中東では、傑出した理想社会だった。イランとの戦争がなければ、良い時代が続いていたかもしれない。

 

      <バクル大統領>

1968年、バース党は無血革命に成功し、軍人でありバース党員であるアブー・バクルが大統領に就任した。バクル新大統領の時代に、イラクの経済は急速に成長した。革命前は歳出の約90%を軍事費に投入していたが、バース党政権は農業と産業の育成を優先した。1972年に石油を国有化し、政府の歳入が急増した。バース党は社会主義政権であり、増収の多くを、国民の生活向上に向けた。湾岸の産油国は豊かであるが、恩恵を受けているのは、王家の一族のみである。これらの国々と異なり、イラクでは、層の厚い中産階級が出現した。

 

   <国民が尊敬した副大統領サダム・フセイン>

     

バクル大統領のもとで、サダム・フセインは副大統領だった。彼はバース党の最大の実力者となり、民政部門では、実質的に大統領だった。この時期、フセインは「副大統領殿」と呼ばれて、国民から敬愛された。後にスターリン・ポルポトと並ぶ残酷な圧制者となり、国民の80%から憎悪されるようなったが、別人のようである。

フセイン政権崩壊後、イラクでは反乱容疑で逮捕された者の拷問ビデオが出回った。このような拷問にあったり、処刑された者の人数は数えきれない。

 

     <フセインの恐怖政治>

国連人権委員会が、イラクの人権状況について、1996年に次のように報告している。

「家族の誰かの裏切り行為を知ったら、バース党の地元事務所に通報しなければならない。そうしなければ、家族は家を追い出され、政府の食糧配給を無効にされる」。

裏切り行為とは、反政府地下組織に加盟することにかぎらない。大統領や政府を批判するだけで、反逆罪である。大統領が夫を密告した妻を称賛したとか、学校の教師が生徒に家庭での親たちの会話を質問するとか、密告制度があらゆるところに張り巡らされている」。

イラク国民にとって、政治を語ることはタブーとなった。

2003年バグダッドが米軍によって占領され、フセイン政権が倒れた時、国民は心から喜んだ。

 

イラクが国民にとっての牢獄になったのは、イランとの戦争後である。1970年代、フセインは国民から尊敬され、バビロニア帝国の再興を夢見ていた。

 

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