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10人委員会と12表法

2022-02-01 13:34:58 | 世界史

==《リヴィウスのローマ史第巻》==

Titus Livius   History of Rome

    Benjamin Oliver Foster

【32章】

この年は戦争がなかった。

翌年の執政官は P・クリアティウスとセクストゥス・クインクティリウスだった。戦争がないだけでなく、護民官たちも静かにしていたので、この年も前年と同じく平穏だった。護民官が静かにしていたのは、理由があった。第一に彼らは、アテネに行った使節団の帰りを待っていたのである。彼らは使節団が持ち帰る外国の法律に期待していた。第二に二つの災難が同時にローマを襲ったからである。それは飢饉と疫病である。疫病により、人間と家畜が死んだ。農地は荒廃し、市内では次々と人が死に、人口が激減した。多くの有力な家族も喪に服していた。フラメン・キリナリスやセルヴィウス・コルネリウスが死んだ。占い師の C・ホラティウス・プルヴィッルスが死んだので、占い師団は C・ヴェトゥリウスを占い師にした。特にヴェトゥリウスを選んだのは、平民が彼を告発したからである。執政官クインクティリウスが死に、四人の護民官が死んだ。戦争はなかったが、多くの人が死んだので、この年は陰鬱だった。

年が変わり、執政官になったのは C・メネニウスと P・セスティウス・カピトリヌスだった。この年も外国との戦争はなかったが、国内で騒動が起きた。アテネに行っていた使節団がアテネの法律を筆写して帰ってきた。その結果、護民官は「すぐに法律の編纂にとりかかるべきだ」と主張した。そして10人の委員を選ぶことになった。法律編纂に携わる10人は「10人委員会」と呼ばれた。彼らは国家の体制を決定する全権委員であり、執政官など、他の公職は一年間停止された。しかし委員は誰かを裁判にかける権利はなかった。10人委員に平民からも参加させるかについて、長く議論されたが、最後に平民は条件を付けて貴族に譲歩した。平民の条件は、アヴェンテイーヌの丘に関するイキリオ法とその他の法律を廃止してはならない、ということである。

(日本語訳注)イキリオ法は、平民がアヴェンテイーヌの丘に家を建てることを許可した。護民官イキリオの要求が受け入れられ、紀元前456年に法律となった。この法律の成立は、平民の切実な要求が認められたことを意味する。リヴィウスは「護民官が長年要求してきた平民保護法は時代遅れになった」と書いている。しかし元老院が法律の制定を独占しており、平民は法律制定に関与できなかった。護民官が平民保護法の制定を求めて騒ぎ続けたのも、平民が法律制定に参加できないという根本問題を反映していた。ただし、驚くべきことに護民官は裁判権を有していた。この裁判権は平民が被害者となった場合に限定されていたが、護民官はこれを悪用して、貴族を有罪にした。(日本語訳注終了)。

【 33章】

ローマ建国から301年後に、二回目の体制変換がなされた。最初国家の最高権力が国王から執政官に移ったが、今回は執政官から10人委員会へ権力が移った。しかし今度の改革は短期間で終了したので、あまり重要ではなかった。10人委員会は短期間で失敗し、国家の権力は二人の執政官に戻った。10人の委員は以下のとおりである。

1 アッピウス・クラウディウス、2 T・ゲヌキウス、3 P・セスティウス、4 L・ヴェトゥリウス、5 C・ユリウス、 6 A・マンリウス、 7 P・スルピキウス、 8 P・クリアティウス、 9 T・ロミリウス、10  Sp ・ポストゥミウス。

クラウディウスとゲヌキウスは執政官に指名されていたが、執政官の制度が消滅したので、その代償として10人委員会の委員となった。セスティウスは昨年の執政官であり、同僚執政官が反対を押し切って、10人委員会の制度を元老院に提案したので、委員に選ばれた。以上の3人に続き、アテネに赴いた3人の使節が、骨の折れる遠地への旅の報償として委員に選ばれた。また彼らは外国の法律をよく知っていたので、ローマの新しい法律の編纂に寄与できると考えられた。残りの4人を選定しなければならなかったが、選挙結果に反対する者が暴力に訴えることを防ぐために、選挙人たちは高齢の4人を選んだ。10人委員会の議長は、平民の要望に応えてアッピウスに決まった。アッピウスは厳格な性格であり、平民にとって恐ろしい敵だったが、彼は突然性格を変えた。彼は平民の代弁者となり、物腰が柔らかくなり、人々の全面的な支持を集めた。

10人の委員は順番に一日だけ権力者となった。権力者には12人の護衛兵が従い、残りの委員にはそれぞれ一人の先導者がいた。10人の委員の間には例のない調和があった。10人の意見が一致していることは市民にとって危険かもしれないが、10人委員会は市民の権利を尊重したので心配はなかった。彼らが権力の行使において抑制的だった証拠として、例を挙げたい。貴族のセスティウスの家の庭で死体が発見された。死体は埋められており、掘り起こされて、民会に運ばれた。恐ろしい犯罪が起きたことが明らかだったので、10人委員の一人であるカイウス・ユリウスはセスティウスを告発した。彼は民会にやって来て、自分でセスティウスを訴追した。ユリウスは単独で裁く権利を有していたが、人民の権利を増進させるために、自分の権利を放棄した。

【34章】

まるで神の予言が成就したかのように、身分の高い者にとっても、低い者にとっても迅速で公正な行政が実施された。また10人委員会は新しい法律の制定に全力を注いだ。人々が待ち望んだ成文法はついに完成した。これまでの法律は人々の記憶にあるだけだった。法律は110枚の板(銅板)に刻まれた。市民に新しい法律の完成を知らせるために、特別の民会が招集された。これらの法律が国家と市民そして子孫に幸福と豊かさをもたらすように祈ってから、10人委員会は市民に対し、展示されている法律を自分で読むように言った。それから10人委員会はこれらの法律がどのように作成されたか、説明した。

「人間の知恵と先見の明が許す限り、市民全員に平等な法律、つまり最も裕福な者、最も貧しい者の双方にとって平等な法律を作成した。多くの人の理性と助言を重視した。彼らはそれぞれの事項を話し合いながら決定し、余分と思われる点や欠陥があると思われる点については公共の議論に委ねた。今回市民はこれらの法律を批准するだけであるが、将来は市民が法律を作成することになるだろう」。

それぞれの条項は市民の要望に合わせて修正され、10枚の板に刻まれた法律は百人隊が集まった会議(兵士会)により承認された。

(日本訳注)12表法は最初10枚分しかなく、翌年二枚追加された。リヴィウスは「12表法はアテネの法律を参考に制定された」としているが、これには異論がある。使節団はアテネには行かず、イタリア半島南部のギリシャ都市に行っただけだという。また12表法の内容は新しいものではなく、これまで人々の頭の中にあった過去の法律を文章化し、客観的なものにしたのだという。過去の法律を記憶しているのは貴族であり、平民は自分達に関心ある法律しか覚えていなかった。貴族は過去の法律の運用において圧倒的に有利だった。これまで制定された法律を文章化することにより、貴族が自分たちの都合で法律を取捨選択することを防いだ。平民の大部分は字が読めなかったとしても、数人が読めれば、これは機能した。以上の説とリヴィウスの記述はだいぶ違うが、どちらが真実かは、わからない。二つの説に共通する点は次の点である。護民官制度をめぐり、若い貴族と護民官の対立が先鋭化し、国家分裂の危機を招いていたので、この問題の解決を目的として12表法が制定されたことである。しかしながら、平民は法律を制定できないという根本問題は残った。(日本訳注終了)

今日では大量の法律が次から次と生まれ、乱雑に積み上げられ、山となっているが、個人も政府もこれらの法律を自分の主張の正当性の根拠としている。10枚の板に書かれた法律がいかに重要な意味を持っていたか、想像に難くない。

法律の批准後、もっと条文が必要だ、という意見が多かった。「二枚追加されるなら、ローマの法典は完全なものになるだろう」。

10人委員会の任期の終わりが近づくと、上記の考えから、人々は10人の委員を再任したいと願った。平民は執政官を嫌っており、独裁的な国王と同様だと思っていた。それに比べて、10人の委員は互いに自由に論争をしていた。それで平民はもはや護民官を必要としていなかった。

【35章】

10人委員会の選挙が三番目の市の日に決まると、現在の委員たちは再選を強く望んだ。また国家の最も有力な人物たちが謙虚な姿勢で選挙運動を始めた。彼らは平民と長年戦ってきた人々であり、昨年10人委員会の設立に断固反対していたのであるが、今は10人委員会を平民の手から奪うことにしたのである。絶大な権限を持つ10人委員会が卑しい者たちの手に渡るのは、彼らにとって恐怖だった。人々から尊敬されていたアッピウス・クラウディウスは、自分は再選されないかもしれないと思っていた。彼は初年の10人委員なのに、まるで新人の候補者であるかのように自信がなかった。彼は貴族に対しては影響力が残っていたので、身分の低い候補者や平凡な候補者を貴族階級に推薦した。彼はドゥエッリウスやスキリウスのような性格の元護民官たちに取り囲まれて、中央広場を歩き回り、彼らを通して平民に取り入った。その結果彼を心から尊敬していた友人たも彼を疑い、警戒するようになった。明らかに、彼は誠実さを失っていた。クラウディウスのように誇りのあ高い人間がこのように愛想がよいのは、隠れた目的があるに違いなかった。自分を卑しめてまで市井の人間と交際するのは、10人委員の地位を失いたくなかったので、何とかして再選されようとしているに違いなかった。友人たちはクラウディウスの行動ををあからさまに妨害せず、彼をからかうことによって、行き過ぎたやり方を抑制しようとした。クラウディウスは10人委員の中で最も若かったので、選挙の管理人に任命された。これによって、彼は立候補できなくなった。このような策略をするのは、これまで護民官だけであり、最悪の先例となった。しかしクラディウスは平気だった。「もし万事順調に進むなら、私は選挙を実施するだろう」と彼は言った。彼は目的を阻む障害を、目的を達成するためのチャンスに変えた。彼は派閥を形成し、クインクティス家の二人(カピトリヌスとキンキナトゥス)など、貴族階級の候補者を落選させた。彼の叔父 C・クラウディウスさえ、彼は落選させた。これらの落選者より身分が低く、政治経験の少ない者たちを、彼は当選させた。さらに、尊敬すべき人々があきれたことに、彼は自分を当選させた。選挙管理人が自分を当選させるなど、あってはならなかった。二年目の10人委員はアッピウス・クラウディウスと以下の9人に決まった。

1コルネリウス。マルギネンシス 2 Lミヌキウス 3 M・セルギウス 4ファビウス・ヴィブラヌス 5 Q・ポエティリウス 6アントニウス・メレンダ 7 K・ドゥイッリウス 8オッピウス・コルニケン 9マンリウス・ラブレイウス

【 36章】

アッピウス・クラウディウスにふさわしくない行動はこれが最後となった。その後彼は本来の性格に戻った。彼は同僚の委員を、就任前から彼の性格に合わせてつくりあげた。10人委員会は毎日秘密の会議をして、秘密の中で生まれた計画に従って、無制限の権力を行使するようになった。らは専制政治を隠そうとしなかった。人々は10人委員に自由に近づくことさえできず、面会を許された者に対し、委員は厳格で、とげとげしい態度で接した。このような状態が5月半ばまで続いた。5月15日は政府の高官が就任する日だった。その日に10人委員は市民に恐怖を与えた。前年の10人委員は一人だけがファスケス(木の枝の束と斧。権力の象徴)を持ち、12人の護衛兵を従えていた。10人委員の一人だけが、執政官に代わる権力者であり、10人の委員は当番制で、順番に一日だけ最高官となったからである。

ところが今年の10人委員は全員がファスケスを持ち、12人の護衛兵を従えていた。120人の護衛兵が中央広場に姿を現した。そして10人委員全員がファスケスを持っていた。これについて、10人委員は説明した。「我々は生殺与奪の権力を有しているので、斧を持っていて当然だ」。
10人の委員は国王になったように見え、平民だけでなく、元老院の有力者も多重の恐怖を感じた。10人委員は自分たちの意にそわない市民を処刑する口実を探しているように見えた。元老院での発言や市民の会話において、「市民の自由」に関する言葉が発せられるなら、すぐに鞭と斧が使用されるだろう。彼らは処罰を見せしめとして、人々を怖じ気させた。市民は救済を訴える権利を奪われ、権力が乱用された場合にも保護されなかった。10人委員は同僚の決定には反対しないと互いに約束し、人民に決定権があるとみなす事柄だけを民会に回した。しばらくの間、彼らは市民全員に恐怖を与えたが、その後徐々に恐怖政治の対象は平民だけになり、貴族は恐怖を感じる必要がなくなった。10人委員の無制限の残酷な圧政は質素な生活をする平民に向けられた。平民は正当な理由で裁かれるのではなく、10人委員の個人的な理由で罰せられた。権力を所有することが即ち正義となった。10人委員は自宅で決定したことを中央広場で発表した。判決に不服である平民が非番の委員に訴えると、非番の委員は何も言わずに去って行った。訴えた平民は最初の判決に満足すべきだったと後悔した。10人委員の陰謀についての噂が外国で流れたという。これを裏付ける、信頼できる文書は存在しないが。彼らは自分たちの任期と選挙を廃止し、無期限に権力の座に居座ることを秘密の会議で話し合い、互いに誓った。現在のローマで起きていること(カエサルの野望についての噂)は昔もあったのだ。

 

 

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