たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

6巻4-6章

2024-04-30 10:04:16 | 世界史

【4章】
カミルスは同時に3つの戦争に勝利し、ローマ軍は勝利の帰還をした。カミルスの二輪馬車の前を歩く捕虜の中で、断然多かったのはエトルリア兵だった。彼らを市場で売り、巨額の金が手に入ったので、神殿の建設費用を寄付した女性たちに還付し、残りは3個の黄金の深皿を作る費用に当てられた。3つの深皿にはカミルスの名前が刻印されたと信じられている。しかしその後、カピトルの丘が火事になる前、ユノーの神殿の下方のユピテルのお堂に安置された。
3つの戦争中に、ヴェイイ、カペナ、フィデナエの住民にローマ市民権が与えられ、土地が支給された。自宅を再建するのをあきらめ、ヴェイイに移り、空き家を占拠した住民に対し、元老院はローマに戻るよう命令した。彼らは抗議し、命令に従わなかった。元老院は帰還の期限を定め、その日までに戻らない者は犯罪者であると宣言した。ヴェイイに移った人々は犯罪者になるのを恐れ、ローマに戻ることにした。彼らは団結して行動していたので、帰るという意見が多数になると、全員帰った。ローマの人口は元に戻り始め、政府の資金援助もあり、至る所に家が建った。公共事業監督官は個人の家の建設を国家の事業のように見なした。市民は住む場所が必要だったので、急いで家を完成させた。一年もたたずに、ローマは再建された。年末になり、翌年の執政副司令官が選ばれた。彼らの名前は T・キンキナトゥス・キンキナトゥス、Q・セルヴィリウス・フィデナス(5回目の就任)、ユリウス・ユルス、L・アキリウス・コルヴス、L・ルクレティウス・トゥリキピティヌス、Ser・スルピキキウス・ルフスだった。
アエクイ族に対して軍隊が派遣された。アエクイ族はすでに降伏しており、戦闘のためではなく、徹底的に略奪・破壊して将来戦う力を奪うためだった。別の軍隊がタルクイニアの支配地に派遣された。(タルクイニアはティレニア海沿岸のエトルリア都市で、現在はラツィオ州の北端に位置し、トスカナ州に近
い)。
ローマ軍はコルトゥオサという町とコンテネブラという町を攻撃し、占領した。コルトゥオサは戦闘なしに片づけたが、コンテネブラは数日間包囲に耐えた。コンテネブラの兵士は昼も夜も休みなく戦い続け、疲れ果ててしまった。ローマ軍は6個の部隊に分割され、交代で戦い、一つの部隊は6時間戦い、その後休憩に入った。コンテネブラは兵士の数が少なく、同じメンバーで、元気なローマ兵を相手にしなければならなかった。ついに彼らは降伏し、門を開き、ローマ軍が中に入れた。執政副司令官たりは戦利品の売上金をすべて国家に納めると決めていたが、発表するのが遅かった。執政副司令官たちがためらっているうちに、兵士たちは戦利品を自分の物にしてしまった。無理に取り上げようとすれば、へいしたちに憎まれるのが明らかだった。
ローマ成長していた。市民の家が増えただけでなく、この年カピトルの丘のふもとに、四角の石で土台が造られ、全体的に壮大なローマの街並みの中でも、特に目立った。
【5章】
市民が自宅の再建に取り組んでいた時、護民官が市民集会を開き、農地分配を提案して、市民を引きつけようとした。護民官はポンプティン地方の獲得について語った。(ポンプティン地方はティレニア海沿岸部で、ヴォルスキの領土に近い)。
「カミルスがヴォルスキを徹底的に打ちのめしたので、ポンプティン地方がローマの領土になるのは確実だ。貴族がこの土地を狙っており、平民にとって危険な敵はヴォルスキではなく、貴族だ。ヴォルスキは優勢で武器がある時に侵入するだけだが、貴族は国家の土地を手に入れてしまう。貴族の手に渡る前に、土地を市民に分配しなければ、平民には何も残らないだろう」。
しかし平民は護民官の言葉に無関心だった。彼らは自宅の建設に忙しかったのである。市民集会にはわずかの市民しか集まらなかった。平民は自宅の建設に財産を使い果たし、別の土地を開発する資金がなかった。
ローマは宗教的な勤めを最重要とする国家だったので、最近の災難は有力者たちに宗教的な恐怖心を与えた。彼らは将来について明るい予兆が現れるのを願い、暫定最高官を任命した。立て続けに三人が暫定最高官に就任した。M・マンリリウス・カピトリヌス、Ser・スルピキウス・カメリヌス、ヴァレリウス・ポティトゥスが順番に暫定最高官になり、最後のヴァレリウスが執政副司令官の選挙を実施した。選ばれたのは、L・パピリウス、C・コルネリウス、C・セルギウス、L・アエミリウス(2回目の就任)、L・メネニウス、L・ヴァレリウス・プブリコラ(3回目の就任)である。彼らはすぐに就任した。ガリア戦争の時に建設を約束したマルスの神殿が T・クインクティウスによって建てられた。クインクティウスはシビルの預言書の保管者だった市民県を与えられた人々は新しく4つの部族を構成した。ステラティン、トロメンティン、サバティン、アルニアンが加わった結果、部族の総数は25になった。
【6章】
護民官シキニウスがポンプティン地方の土地の分配について再び話をした。昨年と異なり、多くの市民が集会に集まり、土地を切望した。元老院ではラテン人及びヘルニキ族との戦争について話されたが、それより重要な戦争が迫っていたので、後回しにされた。エトルリア人が戦争を企てたのである。元老院は再びカミルスに頼った。カミルスは執政副司令官に任命され、5人の執政副司令官が彼に従うことになった。5人の名前は Ser・コルネリウス・マルンギネンシス、セルヴィリウス・フィデナス(6回目の就任)、L・クインクティウス・キンキナトゥス、L・ホラティウス・プブリウス、P・ヴァレリウスである。年の初めに、ポンプティン地方から避難民がやってきて、「アンティアテスが戦争を始めた。ラテン人の諸都市が彼らに援軍を送った」と語った。市民はこの事件に関心を奪われ、もう一つの敵、エトルリアを忘れた。
(日本訳注:アンティアテスはアンティウムにあるローマの植民地だったが、ヴォルスキに奪われてしまった。アンティウムはラテン人の古い都市で、アルバ湖の南方、ティレニア海の沿岸にあり、アンティウムの東はポンプティン地方)。
ラテン諸都市は弁明した。「政府は援軍を送っていない。市民が志願兵としてどこかへ行くのを禁じていないだけだ。現在戦争を軽く考えるラテン都市はない」。
元老院はこのような危機にカミルスがいることを天に感謝した。元老院は彼を独裁官に任命すべきだったと後悔した。戦争が迫っている時、一人の人が全権を握るべきだ、とカミルスの同僚たちも考えていた。同僚の執政副指令官たちはカミルスを上官と考えていた。カミルスの地位を高めても、自分たちの地位を貶めることにはならない、と彼らは信じていた。元老院は執政副指令官たちの態度を心から歓迎した。謙虚なカミルスは予期していなかった展開に戸惑いながら、同僚たちに感謝し、次のように述べた。「ローマの人々によって実質的に4度目の独裁官に任命され、責任の重さを痛感します。元老院が私に重い任務を与える決定をしたことは、光栄です。また同僚諸氏が私に示した敬意により、大きな責任を感じます。もし私がこれまで以上に積極的にかつ用心深く行動し、自分自身を越えるように努めます。同僚諸氏が驚くべき寛大さで私を高く評価してくれたことを裏切らないようにしたい」。
アンティアテスとの戦争については、ローマが敗北する危険は少ないとしても、厳しい事態になっていた。カミルスは同僚たちに助言した。「何があっても、恐れてはいけない。小さなことも見逃してはなららない。周囲の国々がローマを憎み敵意を抱いており、ローマは四方から包囲されている。これらの敵に対処するには複数の将軍と軍隊が必要である。それで、ヴァレリウス、君は作戦と指揮にあたり私を補佐し、私と一緒に複数の軍団を率いてアンティアテスと戦ってほしい。セルヴィリウス、君は第2軍を指揮して、ローマの市外に陣地を築き、敵のいかなる動きにも即応してもらいたい。最近我々の同盟国を襲ったエトリアの再来、および不穏な動きを始めたラテン人とヘルニキ族の攻撃に備えてもらいたい。君の祖父に匹敵する形で戦争を指導してもらいたい。もっとも君自身何度も最高官に就任しているのだから、助言は不要かもしれない。クインクティウス、君は老人や病気を理由に兵役を免除されているものを招集して、第3軍を編成してくれ。首都ローマを防衛してほしい。ホラティウス、君は武器と防具、トウモロコシなど戦争に必要なすべての物を用意してくれ。コルネリウス、君は我々を代表して行政委員会の議長に就任してほしい。宗教、市民集会、法律、など、市政に関するすべてを監督してほしい」。
全員が喜んでそれぞれの任務を果たすと誓った。軍事作戦の共同司令官となったヴァレリウスが言った。「私は M・フリウスを独裁官とみなし、私は彼の騎兵長官として活動したほうがよいと思います。唯一無二の司令官のもとで戦うことにより、勝利が約束されるのです」。
元老たちは非常に喜んだ。「戦争と平和、市政のすべてについて我々は大きな希望を持てる。現在の執政副司令官たちの間には驚くべき調和と信頼があり、独裁官を必要としないほどだ。彼らは互いに最適なやり方で命令し、又は従う用意があり、国家の栄光を優先し、自分の栄誉を後回しにしている」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6巻1-3章

2024-04-17 20:16:22 | 世界史

【6巻1章】
建国から占領までのローマの歴史については、最初国王が統治したが、後に王制が廃止され、執政官がローマを統治した。執政官の時代には一時的に独裁官に強い権限が委ねられることもあった。また数年間10人委員が執政官にとって代わった。その後執政副司令官が最高官になった。また5巻までは、外国との戦争や国内の激しい闘争が主な話題となった。しかしこれらの出来事には不明確な点も多い。遠い昔の出来事であり、長い年月の経過が私たちの理解を困難にしている。また過去の出来事について、唯一の信頼できる記録である年代記はもともと少ししか存在せず、しかもそれらはガリア人による大火で失われてしまった。事件についての神官の記述とその他の国家の記録、そして私人の記録が焼失したのである。ローマは根こそぎ切られた樹木と同じであり、再び無から再出発しなければならなかった。新しい苗木は美しく成長し、多くの実を結ぶだろう。ローマ市内の出来事と戦争について、時間軸に沿って正確に、あいまいさがない表現で記録され、公開されるだろう。破壊から立ち上がるのに貢献した人々が引き続き再出発の国家を指導した。再建を担った人々の中心となった M・フリウスは一年間指導者の地位に留まることを求められた。翌年、執政副司令官は最高官の選挙を主宰することを許されなかった。彼らが最高官だった時、ローマが占領されたのであり、引き続き選挙を主宰することは論外だった。暫定最高官が任命されることになった。市民は家の再建に取り組んでいた。これは骨の折れる仕事である上に、早く完成しなければならなかった。ちょうどこの時、Q・ファビウスが訴追された。彼はすでに執政副司令官を辞任していた。彼を訴えたのは護民官 Cn・マルクスだった。ガリア人がクルシウムに降伏を要求していた時。クルシウムを弁護するため、Q・ファビウスがガリア人のもとに派遣されたが、彼は国際法に違反して交渉相手に暴力をふるった。この事件について、護民官はファビウスを告訴したのである。厄介な裁判が始まろうとしていた時、Q・ファビウスが急死した。多くの人が、彼は自殺したと考えた。
P・コルネリウスが暫定最高官に就任したが、すぐに M・フリウス・カミルスに交代した。M・カミルスが執政副司令官の選挙を実施した。選ばれたのは以下の6人だった。L・ヴァレリウス・プブリコラ(二度目の就任)、L・ヴェルギニウス、P・コルネリウス、A・マンリウス、L・アエミリウス、L・ポストゥミウス。
就任後、彼らは真っ先に宗教について元老院に提案した。「占領時の混乱の中で多くの書類が散逸した。条約と法律の文書を見つけなければならない。法律については、12表法、さらには王制の時代の法律を探し出さなければならない」。
元老院はこれらの文書を探し出し、それらの一部を市民に公表するよう命令した。しかし宗教的な秘儀に関する文書は神官たちによって秘密にされた。神官たちは市民の宗教心を制約したかったのである。続いて執政副司令官たちは物忌みの日(宗教的な理由で日常的な活動を停止する日)について話し合った。7月18日は二つの災難が起きた。クリメラ川(テベレ川の支流で、ローマの北10kmで合流)の戦闘でファビウス家の人々が全員戦死した。その10年後、アリア川の戦闘でローマ軍が敗北し、ローマ占領の原因となった。二つ目の災難については、アリア川の日と呼ばれるようになり、この日には国家も個人も仕事を休むようになった。アリア川の戦闘について、次のように伝えられているという。
「戦闘の前日の16日(イデスと呼ばれる月の中日の翌日)、執政副指令官スルピキィウスは、勝利を祈願せず、神々に奉納しなかったので、ローマ軍は神々の援護が無いまま戦うことになった。このため毎月の16日は厄日とされ、宗教的な行事をしないよう命令されと言われている。また毎月の2日と7日も宗教的な厄日とされた。
(日本訳注)2日と7日が厄日とされた理由はわからない。ローマには長い月と短い月があり、長い月の7日は短い月では5日に、長い月の15日は短い月では13日になる。長い月は3月、5月、7月、10月で、残りは短い月。なお2日は数字でなく、初日の次の日と書かれており、短月でも変わらない。
英訳に納得がいかず、原文のラテン語をネットの翻訳サイトで調べたが文章翻訳はやはりよくわからなかった。ラテン文の単語を仏訳してくれるサイトがあり、それをにらめっこしながら、最後にローマの日付を確認したら、長月と短月で日付がずれることを発見した。なお私がこれまで翻訳してきた英訳はかなり原文に忠実で、今回はローマの日付け自体がわかりにくかったようだ。(日本訳注終了)
【2章】
ローマの嘆かわしい破壊の後、人々は復興のために最善の方法を選んでいたが、間もなく別の危機が彼らを襲った。宿敵ヴォルスキ族がローマを消滅させようと戦争を始めた。同時に貿易商人がエトルリアの不穏な動きを伝えた。エトルリア人の最高神ヴォルトゥムナ(女神で、黄泉の国に住む)の聖地ヴォルシニ(現在のオルヴィエトの近く)に、エトルリアのすべての州の指導者が集まり、戦争を前に結束を誓ったというのである。
(オルヴィエトはウンブリア州南西部にあり、ラツィオ州との境付近)。このような時に、ラテン人の諸都市とヘルニキ族がローマとの同盟を解消したので、ローマの市民は震えあがった。レギッルス湖での戦闘後、これらの同盟者はローマとの友好関係を100年間忠実に守ってきた。四方からローマに脅威が迫っていた。ローマは敵国から憎まれ、同盟国から軽蔑されていることが明らかになった。占領と破壊からローマが立ち直るのに貢献した人物に頼るしかないと元老院は考え、F・フリウス・カミルスを独裁官に任命した。カミルスはC・セルヴィリウス・アハラを騎兵長官に任命した。カミルスは裁判を停止し、すべての商売を休止させてから、兵役年齢の市民を徴兵した。兵役年齢より年上でも元気な市民は司令官への忠誠を誓い、別枠の百人隊を編成した。徴兵が終わり、装備が準備されると独裁官は3個師団を編成した。第一師団はエトルリア軍に対応することになり、ヴェイイの領土に向かった。指揮官は L・アエミリウス執政副司令官だった。第二師団はローマの防衛にあたり、城壁の外に陣地を築き、周囲に塹壕を掘った。マンリウス執政副司令官が第二師団を指揮した。独裁官は第三師団を率いてヴォルスキ軍に向かって進軍し、アド・メキウムという場所に至り、ヴォルスキの陣地を攻撃した。アド・メキウムはラヌビウム(アルバ湖の南)に近かった。ガリア人との戦闘でローマ兵が全滅したとヴォルスキ人は考え、ローマ軍を完全に見下していた。ところが、ローマ軍の司令官がカミルスであると聞いて、彼らは相当あわてた。ヴォルスキ兵は基地の周囲に土塁を築き、土塁の外側に木材を重ねて防壁とし、いかなる場所からもローマ兵が侵入できないようにした。カミルスはこれを見るとすぐに、木材に火を放てと命令した。この日は風が強く、ヴォルスキの陣地に向かって吹いていた。間もなく木材は燃え尽き、進入路ができた。火の勢いが陣地に向かい、熱気と煙と緑の枝のぱちぱち燃える音がヴォルスキ兵を襲った。ヴォルスキ兵が狼狽(ろうばい)している間に、ローマ兵は、燃えた木材の上を恐る恐る歩いていたが、木材の障壁を通り抜けると、次の土塁は難無く乗り越え、陣地に躍り込んだ。ヴォルスキ軍は粉砕され、兵たちはばらばらに逃げた。陣地の占領後、カミルスは戦利品のすべてを兵士たちに与えた。厳格なカミルスに寛大さを期待していなかった兵士たちは非常に喜んだ。逃げたヴォルスキ兵を追跡しながら、ローマ軍はヴォルスキの領土を端から端まで略奪した。70年間ローマに挑み続けたヴォルスキはついに降伏した。ヴォルスキを征服したローマ軍はアエクイの土地に向かって移動した。アエクイ族も戦争を計画しており、ボラエ(ローマの東35km、ラビクムに隣り町)に集結していた。ローマ軍はアエクイ軍を急襲し、彼の陣地を攻略し、ボラエを奪取した。
(日本訳注;ローマ軍の編成について師団という表現が用いられたのは初めてである。一般に軍団は複数の師団からなる。ガリア人によるローマ破壊後のローマは、徴兵できる市民の数が減っており、軍団を編成できなかったようである。)
【3章】
勝利をめざすローマ軍の原動力はカミルスだった。ローマ軍が勝利に向かっていた時、別の戦場では、恐ろべき危機が迫っていた。エトルリアのほぼすべての都市が武器を取り、ローマの同盟市ストゥリウムを包囲した。(日本訳注;ストゥリウムはエトルリア人の町で、ローマの北50km、ヴィテルボの南30km。現在ヴィテルボはラツィオ州ヴィテルボ県の県都。)
ストゥリウムの使節がローマの元老院にやって来て、窮状を訴え、助けを求めた。元老院は独裁官に至急ストゥリウムの救援に向かうよう求めた。しかし独裁官は先延ばしした。ストゥリウムの状況はこれ以上待てないほど悪化していた。ストゥリウムは小さな町で、戦闘員が少なく、彼らは眠る時間もなく防衛を続け、疲れ切っていた。そのうえ、包囲された町の過酷な宿命、食料の欠乏に襲われた。ストゥリウムは一定の条件と引き換えに降伏した。市民は武器を捨て着のみ着のままで家と暖炉を捨て、故郷を後にした。故郷を追われた人々の哀れな行列が続いた。この時ようやくカミルスのローマ軍が到着した。悲しみに打ちひしがれた人々はカミルスの足元に身を投げ出した。市民の苦境を代弁し、指導者がカミルスに助けを求めると、女性と子供たちが泣き出した。女性と子供たちは夫や父とともに亡命者となり、とぼとぼ歩いてきた。ローマぐんのの到着が遅れたことが、彼らの悲しみの原因だったので、カミルスは彼らに同情した。カミルスは彼らにこの場所に留まるように言ってから、ローマ兵に向かって、「武器以外の荷物をここに置け」と命令した。カミルスは少数の護衛兵をその場に残し、身軽になった兵士を率いてストゥリウムに向かった。カミルスの予想通り、ストゥリウムは無秩序だった。勝利したエトルリア兵は浮かれていた。勝利後の軍隊が規律を失うのは普通だった。門は開いたままで、衛兵はいない。兵士たちは家々から奪った物を抱えて、道路をぶらぶらしていた。その結果、勝利したエトルリア軍はその日のうちに敗者になっってしまった。彼らは再結集する時間もなく、武器を取る時間さえなかった。彼らは戦わずして、新しい敵によって殺された。逃げ惑うエトルリア兵は門を出て郊外に出ようとしたが、門は閉まっていた。ローマ兵が町に入った時点で、独裁官は門を閉めさせた。騒ぎを知って武器を取ったエトルリア兵もいたし、団結して戦おうと呼びかけた兵士も多かった。彼らは必死だったので、激しい戦闘が始まりそうだった。この時、ローマの広報兵が市内を駆け回り、大声で言った。「武器を捨てよ。武器を持たない者の安全を約束する」。
追い詰められ、抵抗を決心した者たちは希望を見いだし、市内の各地で兵士たちは武器を捨てた。幸運なことに、安全な結末となった。降伏した兵士は非常に多く、いくつかの場所でめんどうだった。日暮れ前に、ストゥリウムの人々は自分たちの町を取り戻した。負傷した市民はいなかったし、町も破壊されずにすんだ。生命を保証されたエトルリア兵が戦かわずして降伏したからである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする