ギリシャ文字は紀元前9世紀に考案されたが、以後300年間、使用頻度は低かった。原初的な共同体も紀元前9世紀に成立していたが、防衛に適した小高い丘(アクロポリス)を中心とする都市国家が成立するのは紀元前8世紀である。ギリシャ人は海洋民族であり、都市国家成立とほぼ同時に海外に進出し、紀元前8世紀末にはエーゲ海周辺に貿易網を作り上げた。
ネットのサイト「Ancient History encyclopedia」はギリシャ陣の植民活動を的確に表現している。
========《ギリシャの植民地》=======
Greek Colonization
by Mark Cartwright
ギリシャ人は船乗りであり、熱心に未知の土地へ向かって航海した。紀元前8世紀ギリシャの都市国家は、土地と自源を求めて、海を渡った。彼らは地中海のいたるところに、植民市を建設した。最初は未知の土地の人々を相手に交易し、次に彼らを征服した。こうして生まれた植民市は多かれ少なかれ、母市との関係を維持したが、母市に従属したわけでなく、独立した都市となった。これらの新しい都市は、ギリシャ的な性格をそのまま保つ場合もあれば、近隣の土着の文化に影響されることもあった。
地中海の各地にギリシャ植民市が建設されたことにより、ギリシャ本土との間で、物・人・文化・思想の交流が生まれ、ギリシャ的な生活様式が遠くフランス、イタリア、アドリア海、北アフリカ、黒海に広まった。ギリシャ植民市の合計は約500市であり、そこに住む人口は約6万人であった。紀元前500年には、植民市はギリシャ世界の4割を占めた。
==========(Greek Colonization引用修了)
紀元前500年ギリシャ全体の人口の人口は12万に過ぎなかった。しかも本土とそれに隣接するエウボイア島の人口は8万人に過ぎず、残りの6万人は地中海と黒海の各地に散らばっていた。紀元前500年頃は、現在に比べはるかに人間の数が少なかったといえ、当時中東でもっとも繁栄していたバビロンの人口はもっと多かった。紀元前612ー320年、首都バビロンの人口は20万人だった。これは首都だけの人口であり、これにその支配領域、チグリス・ユーフラテスの上流から下流流域までの人口が加わった。
ギリシャ人の植民地の中でも、最も人口が多かったのはアナトリア西部のイオニア地方と南イタリアである。両地方はエジプト、シリア、フェニキアなどの文明に本土より早く接し、先進的であり、ギリシャ文明の発展に貢献した。イオニアと南イタリアは文芸の2大中心地となった。例えば、ソクラテス以前の哲学の2大学派はイオニア派とイタリア派だった。ターレスはイオニア派であり、ピタゴラスはイタリア派だった。
《南イタリアの植民地》
南イタリアに最初に渡ったのはエウボイア島の市民である。ギリシャ本土の東に隣接するエウボイア島は、東方の先進明への窓となっていた。
8世紀後半、イタリア南部にいくつかのギリシャ植民市が成立しており、南イタリアの植都市の経済と文化はギリシャ本土と歩みを同じくして発展した.南イタリアの植民地は東の先進地帯との新たな交易拠点となり、繁栄した。また南イタリアは土地が肥沃で本土より住むに適していたこともあり、南イタリアの植民地は「大ギリシャ(メガレー・へラース;Μεγάλη Ἑλλάς)」と呼ばれた。ローマ人たちはこの呼び名を受け継ぎ、この地方をマグナ・グラエキア(Magna Grecia)と呼んだ。「マグナ・グラエキア」は最初南イタリアを意味したが、後にシチリアを含むようになった。
上に引用した「ギリシャ人の植民地(Greek Colonization)」の中から、「マグナ・グラエキア」についての部分を訳す。
======《Greek Colonization》=======
by Mark Cartwright
南イタリアとシチリアの土地の肥沃であり、天然資源に恵まれ、良い港を持っていた。ギリシャの植民者はこれを知り、植民を開始した。彼らは原住民を征服し、そこをギリシャ人の土地にしただけでなく、「大ギリシャ(メガレー・ヘラース:Megalē Hellas)と呼ぶようになった。やがてメガレー・ヘラースはすべての植民地の中で、最もギリシャ的な地域となった。都市の景観はドーリア式の神殿が建つ、典型的なギリシャ都市のものであり、そこでギリシャ文化が花開いた。
南イタリアとシチリアのギリシャ都市は東地中海と西地中海の中央に位置しており、海上交易に適していた。南イタリアとシチリアは、当時繁栄していた3つの文明(ギリシャ、フェニキア、エトルリア)との交易により繁栄した。古代の作家はこの地のギリシャ都市の莫大な富とぜいたくで浪費的な生活に言及している。紀元前5世紀前半の哲学者エンペドクレスは、シチリアのアクラガス(Akragas)の市民の浪費ぶりと壮麗な神殿について書いている。
「アクラガスの人々は死を目前にした人が、この世の名残に楽しむかのようであり、永遠に生きるかのように立派な神殿を建てる」。
南イタリアとシチリアのギリシャ都市は新しい都市を建設し、彼らの領域は拡大した。
マグナ・グラエキアは植民地であったが、デルフィとオリュンポスの神殿に奉納し、オリンピアの競技に参加しており、本土の都市国家と同列だった。オリンピアの競技ではマグナ・グラエキアの多くの選手が優勝している。
マグナ・グラエキアは東地中海と西地中海の中央に位置に位置し、交易に有利であったが、それゆえライバルであるフェニキアとの抗争が避けられなかった。ギリシャ諸都市は、外敵に対し協力して戦ったが、各都市はそれぞれ独立しており、互いに競争相手であり、外国に対する戦いでの団結は常に保障されていたわけではない。
==========(Greek Colonization引用修了)
シチリア島南西部の都市アクラガス(Akragas)には7つの神殿があり、アクラガスはマグナ・グラエキアを代表する都市となっている。
======《Valle dei Templi》=======
wikipedia
アクラガスの遺跡はママグナ・グラエキアの傑出した芸術と建築の例となっている。ここには7つの神殿がある。
①コンコルディア神殿
このドーリア式の神殿は紀元前440-430年に建設され、シチリア島で最大の神殿であり、ギリシャ世界の中で現存する、最も保存の良い神殿となっている。
②ユーノー神殿
コンコルディア神殿同じくドーリア式神殿であり、紀元前450年頃建設された。紀元前406年カルタゴ軍によって町が包囲された時、焼かれたが、ローマ人に寄って修復された。神殿はギリシャの女神ヘラにささげられた。ローマ人はヘラをユーノーと呼んだ。
③ヘラクレス神殿
これもドーリア式神殿であり、アクラガスの7つの神殿の中でもっと古く、紀元前6世紀末に建てられた。
神殿の中にヘラクレスの像が収められている。ヘラクレスはアクラガスのギリシャ人が最も尊崇した神である。神殿の名はこの像とキケロの記述からの推定であるが、異論はない。ヘラクレス神殿は地震で破壊され、数本の柱しか残っていない。
④オリンピア・ゼウス神殿
紀元前480年アクラガスがカルタゴに勝利し、その記念に建てられた。全壊した。
⑤カストールとポリュデウケースの神殿
カストールとポリュデウケースはギリシャとローマ共通の神。柱4本しか残っていない。
(以下省略)
==========( wikipedia引用修了)