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南イタリアのギリシャ都市 3

2019-09-29 19:08:53 | イラク

ギリシャ文字は紀元前9世紀に考案されたが、以後300年間、使用頻度は低かった。原初的な共同体も紀元前9世紀に成立していたが、防衛に適した小高い丘(アクロポリス)を中心とする都市国家が成立するのは紀元前8世紀である。ギリシャ人は海洋民族であり、都市国家成立とほぼ同時に海外に進出し、紀元前8世紀末にはエーゲ海周辺に貿易網を作り上げた。

ネットのサイト「Ancient History encyclopedia」はギリシャ陣の植民活動を的確に表現している。

 ========《ギリシャの植民地》=======            

      Greek Colonization         

             by Mark Cartwright

ギリシャ人は船乗りであり、熱心に未知の土地へ向かって航海した。紀元前8世紀ギリシャの都市国家は、土地と自源を求めて、海を渡った。彼らは地中海のいたるところに、植民市を建設した。最初は未知の土地の人々を相手に交易し、次に彼らを征服した。こうして生まれた植民市は多かれ少なかれ、母市との関係を維持したが、母市に従属したわけでなく、独立した都市となった。これらの新しい都市は、ギリシャ的な性格をそのまま保つ場合もあれば、近隣の土着の文化に影響されることもあった。

地中海の各地にギリシャ植民市が建設されたことにより、ギリシャ本土との間で、物・人・文化・思想の交流が生まれ、ギリシャ的な生活様式が遠くフランス、イタリア、アドリア海、北アフリカ、黒海に広まった。ギリシャ植民市の合計は約500市であり、そこに住む人口は約6万人であった。紀元前500年には、植民市はギリシャ世界の4割を占めた。

==========(Greek Colonization引用修了)

紀元前500年ギリシャ全体の人口の人口は12万に過ぎなかった。しかも本土とそれに隣接するエウボイア島の人口は8万人に過ぎず、残りの6万人は地中海と黒海の各地に散らばっていた。紀元前500年頃は、現在に比べはるかに人間の数が少なかったといえ、当時中東でもっとも繁栄していたバビロンの人口はもっと多かった。紀元前612ー320年、首都バビロンの人口は20万人だった。これは首都だけの人口であり、これにその支配領域、チグリス・ユーフラテスの上流から下流流域までの人口が加わった。

 ギリシャ人の植民地の中でも、最も人口が多かったのはアナトリア西部のイオニア地方と南イタリアである。両地方はエジプト、シリア、フェニキアなどの文明に本土より早く接し、先進的であり、ギリシャ文明の発展に貢献した。イオニアと南イタリアは文芸の2大中心地となった。例えば、ソクラテス以前の哲学の2大学派はイオニア派とイタリア派だった。ターレスはイオニア派であり、ピタゴラスはイタリア派だった。

     《南イタリアの植民地》

南イタリアに最初に渡ったのはエウボイア島の市民である。ギリシャ本土の東に隣接するエウボイア島は、東方の先進明への窓となっていた。

8世紀後半、イタリア南部にいくつかのギリシャ植民市が成立しており、南イタリアの植都市の経済と文化はギリシャ本土と歩みを同じくして発展した.南イタリアの植民地は東の先進地帯との新たな交易拠点となり、繁栄した。また南イタリアは土地が肥沃で本土より住むに適していたこともあり、南イタリアの植民地は「大ギリシャ(メガレー・へラース;Μεγάλη Ἑλλάς)」と呼ばれた。ローマ人たちはこの呼び名を受け継ぎ、この地方をマグナ・グラエキア(Magna Grecia)と呼んだ。「マグナ・グラエキア」は最初南イタリアを意味したが、後にシチリアを含むようになった。

 上に引用した「ギリシャ人の植民地(Greek Colonization)」の中から、「マグナ・グラエキア」についての部分を訳す。

======《Greek Colonization》=======

           by Mark Cartwright

南イタリアとシチリアの土地の肥沃であり、天然資源に恵まれ、良い港を持っていた。ギリシャの植民者はこれを知り、植民を開始した。彼らは原住民を征服し、そこをギリシャ人の土地にしただけでなく、「大ギリシャ(メガレー・ヘラース:Megalē Hellas)と呼ぶようになった。やがてメガレー・ヘラースはすべての植民地の中で、最もギリシャ的な地域となった。都市の景観はドーリア式の神殿が建つ、典型的なギリシャ都市のものであり、そこでギリシャ文化が花開いた。

南イタリアとシチリアのギリシャ都市は東地中海と西地中海の中央に位置しており、海上交易に適していた。南イタリアとシチリアは、当時繁栄していた3つの文明(ギリシャ、フェニキア、エトルリア)との交易により繁栄した。古代の作家はこの地のギリシャ都市の莫大な富とぜいたくで浪費的な生活に言及している。紀元前5世紀前半の哲学者エンペドクレスは、シチリアのアクラガス(Akragas)の市民の浪費ぶりと壮麗な神殿について書いている。

「アクラガスの人々は死を目前にした人が、この世の名残に楽しむかのようであり、永遠に生きるかのように立派な神殿を建てる」。

南イタリアとシチリアのギリシャ都市は新しい都市を建設し、彼らの領域は拡大した。

マグナ・グラエキアは植民地であったが、デルフィとオリュンポスの神殿に奉納し、オリンピアの競技に参加しており、本土の都市国家と同列だった。オリンピアの競技ではマグナ・グラエキアの多くの選手が優勝している。

マグナ・グラエキアは東地中海と西地中海の中央に位置に位置し、交易に有利であったが、それゆえライバルであるフェニキアとの抗争が避けられなかった。ギリシャ諸都市は、外敵に対し協力して戦ったが、各都市はそれぞれ独立しており、互いに競争相手であり、外国に対する戦いでの団結は常に保障されていたわけではない。

 

 ==========(Greek Colonization引用修了)

 

シチリア島南西部の都市アクラガス(Akragas)には7つの神殿があり、アクラガスはマグナ・グラエキアを代表する都市となっている。

======《Valle dei Templi》=======

              wikipedia

アクラガスの遺跡はママグナ・グラエキアの傑出した芸術と建築の例となっている。ここには7つの神殿がある。

①コンコルディア神殿 

 

このドーリア式の神殿は紀元前440-430年に建設され、シチリア島で最大の神殿であり、ギリシャ世界の中で現存する、最も保存の良い神殿となっている。

②ユーノー神殿 


コンコルディア神殿同じくドーリア式神殿であり、紀元前450年頃建設された。紀元前406年カルタゴ軍によって町が包囲された時、焼かれたが、ローマ人に寄って修復された。神殿はギリシャの女神ヘラにささげられた。ローマ人はヘラをユーノーと呼んだ。

③ヘラクレス神殿

 

これもドーリア式神殿であり、アクラガスの7つの神殿の中でもっと古く、紀元前6世紀末に建てられた。

神殿の中にヘラクレスの像が収められている。ヘラクレスはアクラガスのギリシャ人が最も尊崇した神である。神殿の名はこの像とキケロの記述からの推定であるが、異論はない。ヘラクレス神殿は地震で破壊され、数本の柱しか残っていない。

④オリンピア・ゼウス神殿

紀元前480年アクラガスがカルタゴに勝利し、その記念に建てられた。全壊した。

⑤カストールとポリュデウケースの神殿

カストールとポリュデウケースはギリシャとローマ共通の神。柱4本しか残っていない。

(以下省略)

==========( wikipedia引用修了)

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南イタリアのギリシャ都市②

2019-09-11 22:51:42 | 世界史

ギリシャ人はエーゲ海、地中海、黒海に進出し、多くの植民市を建設した。その中で、アナトリア西部の沿岸部と南イタリアの沿岸部は植民市の数が多く、人口も多かった。ギリシャから最も近いエーゲ海の島々のほとんどは小島であり、耕地がなく、人間が住むのに適さなかった。そのため、ギリシャ人にとってアナトリア西部と南イタリアが最も重要な植民地となった。

ギリシャ人最初にイタリアに来た場所は、イスキア島だった。イタリア本土を避けたのは、イタリアは未知の土地であり、原住民との接触、紛争を避けてるためだった。

 

 

 

 

イスキア島に来たギリシャ人は、エウボイア島のエレトリアとカルキスの市民だった。まだギリシャ人の植民活動は始まったばかりであり、ギリシャ本土の母市が成立してから数十年しか経過していない。ギリシャの歴史は始まったばかりである。

 

   

 

 

イスキア島のギリシャ人居住地について、前回書いたが、今回はイスキア島を調査した研究者の報告を紹介する。発掘調査した本人の言葉は説得力があり、イスキア島を拠点としたギリシャ人の交易活動を実感できる。彼らは交易範囲が広く、ギリシャ本土・植民市、フェニキア・シリア・エジプトと交易しており、イスキア島で発見された陶器や生活用具は8世紀後半の地中海の文化状況を語っている。この時期は古代文明の転換期であり、新しい時代を担うギリシャは生まれたばかりであり、ギリシャが新しい文明の中心となるのは、200年後である。

 

 

=======《ピテクサイ(イスキア島)》====

      Pithekoussai   

          Pen Museum

      By Giorgio Buchner

イスキア島はナポリ湾の沖にある。ナポリからは18マイル離れている。古代ギリシャ人はこの島をピテクサイ(Pithekoussai)と呼び、ローマ人はアエナリア(Aenaria)と呼んだ。紀元前1世紀後半の地理学者ストラボンによれば、ピテクサイ(イスキア島)の居住地はエレトリアとカルキスの人々によって建設された。エレトリアとカルキスはエウボイア島の主要な都市である。「ピテクサイの居住地は繁栄したが、内紛と噴火のため、住民の大部分が島を去った」。

ピテクサイの居住地が建設された時期について、ストラボンは「レランティン戦争の前だろう」と書いている。レランティン戦争(Lelantine War)とは、エウボイア島のエレトリアとカルキスが互いに争った戦争である。この戦争は紀元前710 年に始まり、 650年に終わったので、ストラボンの推定によれば、ピテクサイ居住地は紀元前710 年以前に建設された。またストラボンは「イタリアとシチリアのギリシャ都市の中で、クマエ(Cumae)が最初に建設された」と書いている。

紀元前1世紀後半のローマの歴史家リヴィウスは次のように書いている。

「カルキス人はクマエを建設する前に、ピテクサイ島に植民地を設立した」。

ピテクサイがクマエより先だとするリヴィウスの言葉は注目すべきだったが、客観性を重視する近代歴史学の立場からすれば、一人の証言をうのみにすることはできず、複数の証言の一致か、物的証拠が必要である。

近代の考古学研究により、クマエの成立は紀元前750頃であることが分かったが、ピテクサイの成立時期については何もわからなかった。

19世期末、地元の学者がイスキア島の遺跡を調査し、古代の町と墓地があった場所を特定した。それはモンテ・ディ・ヴィコ(Monte di Vico)岬からサン・モンターノ渓谷に至る地域だった。サン・モンターノ渓谷の近くにラッコ・アメーノ(Lacco Ameno)村がある。

 

 

 

1952 年、私はサン・モンターノ渓谷においてネクロ・ポリス(共同墓地)科学的な発掘調査を開始した。1961年までに、私は約数千平方メートルの区域を掘り返し、 730の墓を発見した。その大部分は紀元前87世紀のものだった。この期間、墓の造りは変化しなかった。火葬場と墓所は隣接していた。火葬の仕方はいつも同じで、まきを積んで点火し、遺体を焼いた。遺体と一緒に壺(つぼ)と装身具も焼かれた。焼却後、焼かれたものは墓所へ運ばれ、地面に積み重ねて置かれた。遺骨と壺などの焼却物の山の上に、焼却されないワイン用の水差しが置かれた。遺骨と焼却物の山の周囲を石で囲み、上部も石で覆った。こうして墓は直径1.5m- 4.5 mの石の山になった。このような墓の造り方は東ギリシャに見られるものである。さらに興味深いのは、これらの石塚はホメロスが語る墓に似ていることである。特にイーリアスに登場する人物パトロクロスの墓にそっくりなのである。ただし、パトロクロスは英雄であるが、ピテクサイの石塚に葬られたのは普通の人々であった。

焼却された遺体と壺(つぼ)の上に置かれた、焼却されなかったワイン用水差しについて、ホメロスの詩がヒントを与えてくれる。火葬の残り火を消すために、ワインをかけたのである。

 

ピテクサイの共同墓地から、紀元前8世紀に造られた壺(つぼ)が多数発見され、ピテクサイ居住地が紀元前8世紀に成立したことは確実になった。これらの壺はギリシャで造られ、輸入されたものと、ピテクサイの居住者がそれらをまねて造ったものがあった。クマエで発見されたツボより古いものがあり、ギリシャ人が最初に来たのはクマエではなく、ピテクサイであることがわかった。ピテクサイ居住地の成立時期は紀元前750年より古いことは間違いない。

ピテクサイの初期の墓で発見された埋葬品の数は驚くほど多く、それらは多くの異なった地域、しかもかなり遠くの地域から輸入された。この点は一般的なギリシャの都市国家の墓と違っている。ピテクサイで発見された陶器の大部分は輸入されたが、ピテクサイで造られた陶器もある。それらは初期コリント様式の形と装飾を模倣したものである。ギリシャの原産地から輸入された初期コリント様式の陶器のほうが丁寧に形づくられ、きれいに装飾されている。コリント様式の陶器はギリシャ世界で人気があり、エーゲ海、地中海、黒海のギリシャ都市に輸出された。

コリント産の陶器のほかに、エウボイア島で造られた陶器も輸入された。またアテネ、ロドス島、キクラデス諸島、アルゴスなど、ギリシャ各地から、幾何学文様の陶器が輸入された。イタリア本土から輸入されたものもあった。例えばエトルリア産の、2重らせん模様が刻まれた小さなアンフォラや、アプリア産の、幾何学文様の壺(つぼ)である。

さらに驚くことに、近東やエジプトからの輸入品も少なくなかった。小さな香水瓶(びん)が、シリアから輸入された。瓶(びん)の上部の細い部分は女性の顔の形をしており、際立っ特徴を示している。この芸術的な小瓶(びん)は発見数が少なく、ピテクサイでの発見は貴重である。タルスス(アナトリア南東)と新ヒッタイトの町ジンジリ(Zinjirli)で発見されているが、かなり壊れた状態で発見され、復元困難である。ピテクサイで発見された小瓶(びん)は復元できた。

 

    

 

 

紀元前8世紀の墓から39個の印鑑が発見されている。これらの印鑑は珍重され、印鑑としてだけでなく、魔除けやお守りとして用いられた。これらはイスキア島で造られたものではなく、シリアやキリキアから輸入されたものである。シリアとキリキアはヒッタイトの影響圏にあり、こうした印鑑はヒッタイトで広く用いられ、ギリシャ各地に輸出された。イタリアの場合イスキア島で39個、エトルリアで4個、クマエで1個発見されている。

イスキア島のギリシャ人はコガネムシの形をした印鑑を、お守りとして身に着けた。この印鑑は60個発見されている。イスキア島以外にクマエでも発見されているが、イスキア島に比べ数が少ない。大部分がエジプトのデルタ地帯で製作されたもので、アモン神への祈願の言葉が刻まれている。これらのほとんどの製作時期がわからないが、運よく我々は制作時のファラオの名前が刻まれているコガネムシ印鑑を発見した。それは第24王朝のファラオBocchoris (Wahkare)であり、彼は紀元前720 年ー 715年にエジプトを統治した。このコガネムシ印鑑は2歳半の女の子の墓に収められていた。

(訳注)原文にはイスキア島で発見されたコガネムシ印鑑の写真が掲載されていないので、ウウィキペディアの

「Scarab (artifact)」に掲載されている、エジプトのコガネムシ印鑑の写真を転載する。

 

 

 

2歳半の女の子の墓を建てた人物は比較的豊かだったに違いなく、特徴のある数個の陶器も納められていた。地元で造られたワイン用水差しや、外国産の壺(つぼ)である。外国産の壺は複数あり、5つの異なる地域から輸入された。そのうちの4個は有名なコリント様式である。

これまでギリシャ陶器の年表は西地中海のギリシャ植民地での発見を基礎に作成されたが、イスキア島での発見は含まれていなかった。2歳半の女の子の墓における発見は、ギリシャ陶器の作成年代を、より正確に特定することに役立った。

ギリシャ本土からイスキア島は遠く、場所もわからないへき地であり、文明世界の最果ての前進基地だった。しかし紀元前8世紀にそこに住んでいた人々は本土に劣らず、文明化されていた。

最後に、イスキア島における重要な発見をつけ加えたい。この珍しい発見により、イスキア島の住人が美術と文学を理解していたことがわかった。

8世紀末イスキア島では後期幾何学文様の壺(つぼ)が造られていた。

 

 

発見された壺の表面には線や図形の代わりに大小の魚が描かれている。しかも魚と魚の間に、逆さまの船と複数の人間が描かれている。よく見ると、人間の一人は大きな魚に襲われている。幾何学文様という形式に制約されながら、船の難破という劇的な場面を表現している。このツボはギリシャ中心部の後期幾何学文様形式の最上位のツボと肩を並べる。

船の難破が描かれた壺より、さらに重要な発見があった。それはロドス島で造られたカップであり、・・・・・・・

(以下省略。前回後半の「ネストールのカップ」参照)

 

================(Giorgio Buchner終了)

 

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