たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

シリア・アラブ王国(1919年7月ー1920年7月)②

2018-10-28 17:30:21 | シリア内戦

第一次大戦中の1915年エジプトの英軍はパレスチナとシリアの攻略を計画していたが、戦いを有利に進めるため、アラブ軍をゲリラ部隊として利用することにした。アラブ軍の貢献に対する代償として英国はメッカのハーシム家にアラブの独立を約束した。同時期英国はトルコの分割について、フランスと話し合っていた。分割案によればフランスがシリアとレバノンを獲得することになっていた。

 

国はフランスとアラブの両者にシリアを与える約束をした。フランスもアラブもシリアの半分を得て満足するつもりはなく、結局両者の戦争によって決着がついた。フランスが勝利し、シリアは敗北した。シリアの独立は1年で終了した。

メッカのハーシム家のフサイン・アリーは全アラブの独立を要求していたが、アラブ軍の進撃路はメッカからダマスカスに至るものであり、現実問題として、独立アラブの領域はメッカを中心とする地方(ヒジャース)とシリアに限られた。

英国はフランスにシリアを与える約束しており、これとシリアの独立は矛盾する。そのためシリアは独立を達成したが、独立は1年で消滅した。大国フランスの意志が貫徹し、シリアはフランス領となった。

前回はアラブの反乱から独立までの流れを書いた。それに続くアラブの独立とその消滅については、ウィキぺディディア(英語版)の「シリア・アラブ王国」を訳す。

======《The Arab Kingdom of Syria》=======

                              wikipedia

           〈アラブ軍がダマスカスに入場〉

1918年9月19日エジプトの英軍とシリアを防衛していたトルコ軍の間で戦闘が始まった。これはシリアをめぐって双方が激突した決戦である。戦闘は一週間で終わり、26日トルコ軍は敗退した。勝利した英軍は1918年9月30日ダマスカスに入場した。続いて10月3日アラブ軍がダマスカスに入った。ダマスカスに入場したアラブ軍はただちに(10月5日)、臨時政府を立ち上げた。アラブ軍を率いたファイサル・アリーが臨時政府の代表になった。ファイサルは「宗教による差別のない、正義と平等に基づく国家の樹立」を宣言した。英国のエジプト派遣軍の司令官アレンビー将軍はファイサルの臨時政府を承認した。しかしフランスは反発していた。英国の後見によりシリアに新政府が誕生したことに、フランスの首相クレマンソーは怒った。ファイサルの政府はあくまで臨時に過ぎないとして、英国はフランスをなだめた。しかしフランスと英国の関係は緊張した。

ファイサルはダマスカス入場後アレンビー将軍から英国とフランスの間の秘密協定について知らされた。英国の裏切りはファイサルにとって衝撃だった。しかしながら彼の臨時政府が成立しており、フランスの反対を押し切れるだろうとファイサルは考えた。英国はフランスとの約束を無視するだろう、と彼は甘く見ていた。新政府樹立はアラブの反乱に参加した将兵にとって苦労の末に得た成果だった。シリア人はアラブの独立が達成されたので、ファイサルの臨時政府を熱烈に支持していた。

         〈パリの講和会議でフランスとアラブが対立〉

1919年のパリの講和会議ではオスマン帝国の分割が議題となり、戦勝国の間での取り分が話し合われた。フランスと英国の議論は白熱した。(1919年)5月の話し合いで、サイクス・ピコ協定が一部変更された。フランスはイラク北部のモスルを英国に譲る代償として、シリアをフランス領とすることを再確認した。同じころシリアをめぐるアラブとフランスの対立がのっぴきならないのを見た米国が両者の調停に乗り出し、住民の意向を調査することを提案した。調査の結果は1922年まで発表されなかった。調査結果によれば、大多数がシリアの独立を支持し、フランスの支配を拒否していた。

 

          〈シリア・アラブ王国の成立〉

パリ講和会議の様子を見て、シリア国民は独立を固める必要を感じ、国民議会の開催を準備した。アラブ青年協会などの民族主義的なグループはシリアの完全な独立を主張した。米国が主導する調停委員会はシリアの独立を支持した。選挙がおこなわれ、シリア各地の代表がダマスカスに集まった。レバノンとパレスチナの代表も参加した。フランスが国民議会の開催を妨害しようとしたため、ダマスカスに来れなかった代表もいた。

1919年6月3日シリアで最初となる正式な国民議会が開催された。アラブ青年協会に所属するハシム・アタシが議長に選出された。6月25日調停委員会がダマスカスに到着すると、「独立か死か」と書かれたビラがまかれた。

7月2日国民議会はシリアの完全な独立を議決した。ファイサルを国王とする立憲王政の国家が成立した。議会はフランスの主張を拒否し、米国に支援を求めた。しかし英国または米国が助けててくれるだろうというファイサルの期待は裏切られた。英軍がシリアから撤退し、代わってフランス軍がシリアに進駐した。

       

1920年1月、ファイサルはフランスと交渉せざるを得なかった。交渉の結果、シリア王国の存立は認められたが、シリアはフランスの保護国となった。シリア政府はフランス人顧問と専門家を受け入れることになった。

ファイサルを支持するシリアの人々は完全独立を求めており、ファイサルの譲歩に反対した。彼らはフランスとの約束を撤回するよう、ファイサルに迫った。その結果ファイサルはフランスとの約束を撤回した。これと同時にフランス軍に対するテロが始まった。

1920年3月シリアの議会が開催され、議会は再び独立シリア王国の成立を宣言した。ハシム・アタシが首相となり、ユースフ・アズマが戦争大臣兼参謀長となった。

英国とフランスはシリア議会の一方的な行動を非難した。1920年4月連合国はサン・レモ会議を開き、英・仏による中東支配を決定した。ファイサルとシリア議会はこの決定を批判した。    

          〈シリアとフランスの戦争〉

数か月間シリアは混乱した。ファイサル政府がフランスとの約束を実行しなかったので、7月14日フランス軍司令官アンリ・グローは最後通牒を発した。フランスとの戦争が困難で犠牲の多いものなる、と考えたファイサルは最後通牒を受け入れた。しかし参謀長のユースフ・アズマは国王の命令を無視しフランス軍を迎え撃つため進軍した。フランス軍はベイルートからダマスカスに向かっていた。アズマが率いるシリア軍は各兵士がライフルを持つだけであり、近代戦を戦うことはできなかった。兵士の人数も少なかった。フランス軍は大砲を持っており、戦力の差は明らかだった。戦わずして降伏しようとした国王の判断は妥当だった。フランス軍とシリア軍はダマスカスの西方25kmの地点(Maysalun )で衝突し、シリア軍は簡単に敗れた。アズマ将軍は戦死した。

      

1920年7月24日仏軍はダマスカスを占領した。フランス領シリア・レバノンが成立した。国際連盟の委任統治という形をとっているので、いくらか地元民に配慮することになるが、あくまで主権はフランスにある。オスマン帝国解体後成立したシリア王国は約1年で消滅した。

シリア軍の降伏後ファイサル国王はシリアから追放されることになり、1920年8月英国へ亡命した。翌年8月彼は英領イラクの国王になった。

フランス軍によるダマスカスを占領の翌日(7月25日)、親フランス的なアラー・ダルビ( 'Alaa al-Din al-Darubi )の政府が成立した。約1か月後の9月1日グロー将軍はシリア・レバノンを7つの州に分割した。これは独立の動きを封じ、フランスによる支配を容易にするためだった。

独立シリア王国は激動の末1年で消滅したが、その後のアラブ毒利運動の精神的な支柱となった。植民地支配を打ち破ろうととするアラブ民衆の行動が罰せられて終わるということがこれ以後繰り返された。革命的な熱意も帝国主義の武力の前に無力であった。独立シリア王国はアラブ独立運動の象徴となり、西洋列強に対する不信の念が民衆の心に根付いた。西洋列強は嘘つきであり抑圧者であるという考えが定着した。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シリア・アラブ王国(1919年6月ー1920年7月)

2018-10-20 18:55:44 | シリア内戦

 

第一次大戦でトルコが敗れ、シリアはトルコから独立したが、独立は1年で幕を閉じた。フランスがシリアの支配者となったからである。シリア国民は独立を奪ったフランスを憎み、1年間の独立期をシリア国家の出発点と考えた。短い独立期のシリアは「シリア・アラブ王国」と呼ばれる。国王はメッカの太守の3男ファイサル・アリーであり、シリアにとってよそ者であるが、ファイサルは現地のシリア人に統治をまかせたので、シリア・アラブ王国はシリア国民にとって自分たちの国であった。

トルコ帝国の解体後、シリアがシリア国民のものとなったのはたった1年であり、その後シリアはフランスの支配下に入った。冷酷な帝国主義の原則が貫かれたのである。この点を抜きにフランス統治時代のシリアを理解することはできない。またシリア・アラブ王国時代とフランス統治時代は近代シリアの形成期であり、シリアという国の基本的な特徴が表れている。これらの特徴は第2次大戦後のシリアを理解する鍵となっている。

シリア・アラブ王国時代の国王ファイサル・アリーはアラビアのロレンスとともにアラブの反乱を指揮した人物である。シリアが一度は独立できた経緯、そしてそれが消滅した理由について書いてみたい。

 

       《アラブの反乱》

19世紀後半オスマントルコ帝国の弱体化が明らかになっていたが、大一次大戦の後半には、オスマントルコ帝国の解体は必須と思われた。英・仏はオスマン帝国の分割を考えていたが、帝国内のアラブ民族の間には独立の動きがなかった。トルコ帝国の軍隊に所属していたシリア人将校が反乱に踏み出すことはなかった。こうした中で唯一反乱を起こしたのはメッカのハーシム家である。メッカはイスラム教の聖地であるが、トルコ帝国の辺境部である。トルコ中心部に近いシリアやイラクでは反乱は起こらず、遠いアラビア半島で起きたのである。

 

 

ハーシム家のフサイン・イブン・アリーはオスマン帝国からヒジャーズ地方を支配するアミール(太守)に任じられていた。彼はオスマン帝国による弾圧や抑圧に対し不満を持っていた。フサインはオスマン政府が戦後に彼を廃位しようとしているという証拠をつかんだため、1915年頃からイギリスの外交官で駐エジプト高等弁務官のヘンリー・マクマホンとの書簡を交わしていた。この書簡は後にフサイン=マクマホン協定と呼ばれるが、この書簡でフセインは、三国協商の側について協力することにより、エジプトからペルシャまでの全域を包含するアラブ帝国を建国できると確信した。

1916年6月10日、フサイン・イブン・アリーはオスマン帝国からの独立を宣言し、ヒジャーズ王国が誕生した。しかしメディナには強力なトルコ軍がいて、フサインの部隊はこれと正面から戦うだけの力がなかった。フサインは5万人の軍勢を組織していたが、当時ライフルを持っていたのはそのうちの1万人にも満たなかった。アラブ軍はトルコ軍の本拠地があるメディナを攻撃する能力ははなく、比較的少数の守備隊しかいない紅海沿岸部の港町を攻略しながら北上した。

 

 

 

アラブ軍の軍事顧問となったのがアラビアのロレンスである。トーマス・エドワード・ロレンスは英国の諜報員としてメッカに派遣された。エジプトの英軍の目的はパレスチナからダマスカスまで侵攻することだったが、戦力が不十分だった。そのためアラブ軍を利用し、これにトルコ軍をかく乱させることにした。アラビア半島にトルコ軍をくぎ付けにし、その隙にエパレスチナを攻略するつもりだった。

英軍がアラブ軍の力を借りなければならなかった状況をよく示しているのは、イラクで英軍がトルコ軍に敗北していたことである。

1914年末、英軍はイラクに上陸したが、一年後トルコ軍に包囲され全滅の危機に陥った。これを救出するため、総勢2万の援軍を送ったが、犠牲者を増やすだけで失敗に終わった。ドイツとの戦いが終了し、対トルコ戦に本腰を入れれば別であるが、そうでなければトルコ軍はあなどれ内的だった。

アラブ軍を利用しようとする英国とアラブの独立を願うメッカのフサイン・アリーの間には溝があった。ロレンスは間に挟まれ、苦労することになる。ロレンスがメッカに派遣されたのは1916年10月である。

メッカの太守は遠大な野心を持ち、広大なアラブ地域の独立を目標としていたが、こうした考えがアラブ軍に浸透していないこともロレンスの指導を困難にした。兵士の多くがアラブ全体の独立という発想を理解していなかった。アラブ軍がトルコの鉄道の爆破に成功した時の話である。鉄道を停止させ貨車に積んであった馬などの積荷を獲得すると、兵士の一部は満足して故郷に帰ろうとした。彼らにとって作戦は終了したのである。

ウィキペディア(日本語)には「アラビアのロレンス」と「アラブの反乱」という項目があるので、詳しくはそちらをお読みいただきたい。

 

アラブ軍は幾度も挫折しかけながら、ロレンスも一度は任務を放棄しながら、英軍の作戦の地ならしを続け、北上した。アラブ軍がダマスカスに入場すると、ダマスカスの市民は熱烈に歓迎した。ダマスカスの市民もシリア各地の人々もみずから反乱に踏み出すことはなかったが、アラブ軍の到着を喜び、この日以来彼らの多くがアラブ民族主義者となった。

 

アラブ軍がダマスカスに入場したといっても、英軍がトルコ軍に勝利した後である。トルコ軍と英軍の決戦がパレスチナ北部でおこなわれ、英軍が勝利していた。英軍は1918年9月30日ダマスカスに入場した。続いて10月3日アラブ軍がダマスカスに入った。その後英軍はアレッポまで進撃した。パレスチナとシリアの攻略に成功したのは英軍である。アラブ軍は前哨戦で活躍し、英軍の勝利のための地ならしをした。

パレスチナ北部で敗れたトルコ軍は兵器が不足しており、兵士の士気が落ちていた。トルコ軍は4年間の戦いで疲弊していた。前哨戦でのアラブ軍の活躍を知り、トルコ軍内のアラブ人将兵はトルコのために戦うことに疑問を持ち始めた。実際に軍を離脱する者もいた。

パレスチナ北部の決戦はパレスチナとシリアにおけるトルコの支配を終わらせた点で重要である。

ウィキペディア(日本語)には「メギッドの戦い」という項目があり、戦況が詳しく書かれている。

 

       《英国の2枚舌》

アラブ軍は英軍の勝利に便乗してしてダマスカスに入場しただけだったが、英国はメッカの太守フサイン・アリーに独立を約束していたので、ダマスカスを首都とするシリア王国の誕生を認めた。これは前哨戦においてトルコ軍をかく乱したことへの代償だった。ただし約束にはあいまいな点があった。フサインはエジプトからペルシャまでの全域を包含するアラブ帝国を建設を求めていたが、英国はこれを受け入れるつもりはなく、独立アラブの領域はシリアとヒジャーズだけと考えていたようである。

駐エジプト高等弁務官のヘンリー・マクマホンからフサインへの手紙(1915年10月24日付)で、マクマホンはシリアを約束したがレバノンを除外している。エジプト・パレスチナ・イラクについては何も約束していない。

英国はフサインにアラブの独立を約束する一方で、フランスと秘密協定を結んでいる。内容はオスマン帝国の分割に関するものであり、フサインとの約束と矛盾するものだった。秘密協定によればシリアはフランスの影響圏になっている。英国がフサインとの約束を守ろうとするなら、フランスとの密約を破棄しなければならない。もし破棄する勇気がないなら、英国がフサインに与えることができるのは、ヨルダンとイラクである。

 

 

英・仏間の秘密協定はフサインの蜂起直前の1916年5月16日に結ばれた。協定の折衝にあたったのはイギリスの政治家マーク・サイクスとフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコである。秘密協定は2人の名をとって、サイクス・ピコ協定と呼ばれる。

 

フランスが直接統治したかったのはアナトリア東部とレバノンであり、シリアは影響圏でよかった。ところがサイクス・ピコ協定は修正されることになった。

トルコが降伏し、連合国がトルコを占領中だった19195月ギリシャ・トルコ戦争が勃発し、3年間の戦いの後トルコが勝利した。その結果サイクス・ピコ協定を反映していたセーブル条約が修正された。シリア・イラクについては変更がなかったが、アナトリア全域はトルコ領になった。フランスは最も獲得したかったアナトリア東部を失った。そのためフランスは影響圏でよいと考えていたシリアの直接統治を考えるようになった。

シリアにアラブ国家の建設を望むフサインとフランスの対立が鮮明になった。

 

     《シリア・アラブ王国の成立》

ロレンスとともにアラブ軍を率いていたのはメッカの太守の3男ファイサルである。アラブ軍のダマスカス入場後、新たにシリア政府が誕生し、ファイサルが臨時政府の首班になった。彼はメッカ出身であり、ダマスカス市民にとって外来者であるが、政府に多くのシリア人を登用したので、シリア人はファイサルを支持した。

1919年1月パリ講和会議にファイサルはアラブの代表として出席し、オスマン帝国領アラブ地域の民族自決の原則による独立と主権の承認を求めた。しかしシリアを支配するつもりでいるフランスがファイサルの要求に反対した。

アメリカ合衆国が調停に乗り出し、住民意向調査を行なう委員会が設置された。委員会の2名が1919年6月に現地に入って調査を開始した。

 

19194月ファイサルは帰国し、6月議会選挙が行なわれ、全シリア議会が開催された。この議会において、シリアの独立とファイサルを国王とすることが議決された。

 

1919年8月アメリカ合衆国代表2名による住民意向調査委員会の調査報告書が出され、次のように今後の措置が提案された。

①パレスチナ、レバノンを含むシリア地方は、ファイサルを国王として単一の立憲君主制国家とし、期間を設けて合衆国またはイギリスの委任統治とする。ただし、レバノンはキリスト教徒の自治を認める。

②イラク地方はアラブ王家から人民投票により適当な人物を国王に選んで単一の立憲君主制国家とし、シリア同様に委任統治とする。

 

この委員会報告に対し、フランスはイギリスの陰謀であると非難し、イギリス国内では対フランス関係が悪化するとの懸念と、シリア地方における英軍の駐留経費が問題となった。このため、1919年9月イギリスはシリア地方から撤退すると発表した。シリア西部はフランス軍、東部はアラブ軍と交替し、パレスチナ及びヨルダン川東岸だけ駐留を続けるとになった。

この決定によりフランスは9月にシリアへ派兵を開始した。同じ9月にファイサルはロンドンでこの通告を受け、抗議したもののこれが受け入れられなかったため、フランスと交渉を行なった。折衷案が成立した。ファイサルはレバノンを放棄し、シリアについてはフランスの保護国となることを認め、アラブ政府の承認をとりつけた。

1920年1月帰国したファイサルに対し、シリアの指導者はフランスがつけた条件を容認できないと非難し、即時完全独立を求め、ファイサルもこれに同調せざるを得なかった。同月、散発的な武装蜂起がシリア各地で起こり、フランス・シリア戦争が始まった。

 3月8日シリア議会が開会され、同議会はパレスチナ及びレバノンを含む全シリアはファイサルを国王とし、立憲君主制国家として独立することを再度宣言した。

パリ講和会議以後の部分はウィキペディア「フランス委任統治領シリア」から引用した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レバノン分裂の原因は宗派対立ではない

2018-10-13 17:46:05 | シリア内戦

 

 

ダマスカスからベイルートは比較的近い。ホムスへ行くより近い。シリアの幹線道路1号線はベイルートに向かっている。オスマン帝国時代ベイルートはダマスカス州に所属していた。このことを思い起こすなら、1975年ー1990年のレバノン内戦にシリアが干渉したことを、侵略と呼ぶのは適当ではない。海を越えた遠い異国を植民地にするのとは違う。米国による中東支配のほうが「外国の干渉」と呼ぶにふさわしい。実際アラブの世論は常にそのように主張してきた。

15年続いたレバノン内戦はシリアが仲裁者となることで終了した。内戦中に多くのキリスト教徒がレバノンを去り、国外に移住した。キリスト教徒はレバノンの支配階級ではあるが、人口に占める割合は多くない。キリスト教徒の国外脱出によりさらに人口が減り、彼らがレバノンを支配し続けることは難しくなった。オスマン帝国時代末期から続いたキリスト教徒によるレバノン支配は終わりをむかえた。

内戦によりキリスト教徒とイスラム教徒の勢力が逆転したが、内戦の国際的な構図は残り、内戦終結後イスラエルとシリアは抗争を続けた。

 

     《レバノンをめぐる国際的な緊張》

イスラエルにとってレバノンもシリアも隣国である。イスラるの北がレバノンであり、北東がシリアである。シリアレバノンが一体化し軍事力を持つ日が来るなら、イスラエルの生存が危うくなる。そしてそれが現実となりつつある。

2003年米国がイラクに侵攻し、サダム政権が倒れた。イラクにおけるスンニ派とシーア派の地位が逆転し、シーア派が優位に立つようになった。シーア派の指導者の多くは、サダム政権時代イランに亡命した経験を持つ。イラン政府の庇護のもと、イランに亡命し力をつけた政党が現在イラクの主要政党となっている。イランで成立した軍事組織は現在正規軍と互角の軍事力を有している。

イラクにおけるシーア派の地位は揺るぎないものとなっている。そして彼らの背後にはイランがいる。イランはシーア派の国であり、カルバラなどイラク南部のシーア派の生地は、イランのシーア派にとっても重要な聖地である。

イランは内戦に苦しむアサド政権を窮地から救い、シリア各地に軍事拠点を持っている。イランから地続きでイラクとシリアにイランの影響圏ができあがった。この影響圏はレバノンまで延びている。レバノンのヒズボラは全面的にイランに依存している。

2000年代イランの大統領だったアフマディニジャドが国連で演説した。「イスラエルという国は消滅するだろう」。直訳は「イスラエルを地図から消してやる」である。国連加盟国を消滅させるという発言は禁句であり、これを聞いた各国代表は席を立ち、退場した。

一般の人にとってアフマディニジャドの発言は、少し変人の大統領がまた過激なことを言っている、という程度だったが、当のイスラエルは内心穏やかではなかった。

そしてシリア内戦がアサド政権の勝利で終わりそうになる2018年には、イラン本国からイラク・シリア・レバノンへ続くイラン回廊が完成した。変人アフマディニジャドの言葉は、現実味を帯びてきた。イスラエルの恐怖は相当なものであり、20189月、ネタニヤフ首相は「先制攻撃の必要性」を説いている。

 

レバノンのキリスト教徒の優位が失われた最大の原因は人口に占める割合が低下したためである。しかしレバノンの経済的繁栄を支えてきたのは彼らである。イスラム教徒側は政治的に優勢になったとはいえ、キリスト教徒と妥協しなければレバノンの繁栄はない。またキリスト教徒はイスラエル・サウジアラビア・米国から支援されており、キリスト教徒が極端に圧迫されるなら、再起をかけてイスラム教徒による支配に挑戦するかもしれない。1990年の内戦終結からシリア内戦開始までの20間レバノンは微妙な均衡状態にあった。シリア内戦が始まると、均衡は破れつつある。

 

   《レバノンの歴史が教えること》

1943年レバノンはフランスから独立したが、その後の歴史はキリスト教徒とイスラム教徒の間に妥協が成立しては破たんするということを繰り返してきた。そして1975年遂に内戦に突入した。妥協が破綻する原因はほとんどの場合国内問題が原因ではなく、中東情勢に巻き込まれた結果国内が分裂したのである。イスラエルの隣国であり小国であるレバノンはイスラエル対アラブの紛争から距離を持つことはできなかった。

 

       《レバノンの大統領の条件》

レバノンのキリスト教徒の指導者の中には、レバノンはキリスト教国であり、キリスト教徒が国家を運営すべきであると考える者もいた。彼らは下層民であるイスラム教徒に対する譲歩を不要と考えた。紛争や内戦で活躍するのは彼らであるが、平時において彼らの代表が大統領になることはなかった。多数派であるイスラム教徒の支持を得なければレバノンは安定しない、と考えるキリスト教徒が代々大統領になった。大部分のキリスト教徒とイスラム教徒はレバノン国民という共通の意識を持っており、キリスト教徒の指導者であってもイスラム教徒の支持を得ることはできたのである。

「キリスト教徒とイスラム教徒の対立は避けることができる」と独立後のレバノンの歴史は教えている。宗教は異なってもレバノン国民という共通意識があり、指導者がこの意識に配慮した時期のレバノンは安定し繁栄した。レバノンは地中海に面し、海路でヨーロッパとつながっているので、経済発展のチャンスがある。レバノンの良き時代が突然破られるのはアラブとイスラエルの対立に巻き込まれたからである。小国は国際紛争に巻き込まれやすい。レバノンは中東の動乱に翻弄されたのである。

冒頭でシリアとレバノンの距離的近さについて述べた。ダマスカス市民にとって、北東部のハサカやデリゾールより、レバノンのほうが身近だった。植民地帝国フランスは

レバノンとシリアを分断した。この行為は後々まで非難されるだろう。しかし1920年レバノンはシリアから分離し、1943年独立国となり、人々のの間にレバノン国民という意識が定着していった。現在では、「レバノンはシリアの一部だ」と主張することは無理がある。1943年以後のレバノンの歴史について知ると、レバノンは独立国として歩むのがよいと思えてくる。

レバノンノンの宗派対立は根本的なものではなく、実はどこの国にもある階級対立である。国家権力は富裕階級と結びつくのが常であり、貧困層の問題を放置すれば、どこの国も国家分裂の危機になる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする