シリア内戦の発端となる最初のデモはダマスカスでもアレッポでもなく、3月18日南部の小都市ダラアで起きた。18以後以後のダラアのダラアは革命最初の日々としてよく知られている。それ以前についてはほとんど知られていなかったが、4月16日のアルジャジーラが、ダラア住民の回想が引用した。その中で3月11日のデモが語られている。
「逮捕された子供たちの親たちが、モスクから知事邸まで行進し、子供たちの釈放を求めた。彼らが簡単に引き下がらないので、政治警察が配下の部隊を呼んだ。大勢の治安部隊が現れて、彼らに発砲し、負傷者が出た。知事邸まで行進したのは200人だったが、発砲の話を聞いて多くの住民が集まり、数百人のデモが行われた」。
3月11日のデモは自然発生的で、ごく少数のデモだった。
本格的なデモの最初となる3月18日のデモも、自然発生的なものだったと、私は思い込んでいた。
ダラアにはいくつかの大家族があり、逮捕された少年たちはそうした家族に属しており、これらの大家族を怒らせるような出来事は、すぐに多くの住民に伝わる。したがって3月18日のデモは自然発生的なもだったろう、と私は思っていた。3月11日のデモについてほとんど知られておらず、一般的には3月18日にダラアのデモが始まったとされる。同時にこの日はシリア革命が始まった日である。
3月18日のデモは自然発生的なものではなく、計画していたグループがいたことが、2年後に判明した。そのグループに所属していた人物の手記が2013年3月BBCに掲載された。その手記によれば、彼のグループは前日ダラア以外のどこかに集まり、翌日(18日)のデモについて話し合った。その場所がどこかは書かれていない。「翌日ダラアに向かった」と書かれている。この人物はダラアで商社を経営していたが、デモの計画に集まった場所がダラアではなかったことから、このグループはダラア住民だけで構成されていたものではないと推測される。ダラアのデモにとどまらず、シリア革命を計画するグループだったようだ。チュニジアやエジプトの革命を見て、シリアでも革命を起こそうとと考える者たちが、唯一見込みがありそうなダラアで反乱を始めたようである。
この人物の名前はバシャール・ヘラキといい、彼の経歴は興味深い。商社を経営するようになったのは1999年で、それ以前彼は陸軍大尉だった。最初のデモに参加後、2011年以内に彼はシリアを去った。手記を発表した2013年3月、彼はシリア国民会議の重要メンバーになっていた。彼の兄弟ニザール・ヘラキ(Nizar al-Heraki)はカタール駐在の反対派大使である。
ヘラキ兄弟はどちらも反対派の大物である。
=====《最初のデモを組織した人物の回想》=====
Deraa protests: Organiser recalls start of Syrian uprising
By Bashar al-Heraki
BBC 2013年3月15日
2011年3月17日私はデモを準備しているグループのひとりだった。翌日我々はダラアのオマリ・モスクに行った。シリアの革命はここから始まった。我々の抗議は政府をいらだたせることを知っていたが、彼らが最初の日から発砲し、市民を殺すとは予想していなかった。
我々がモスクを出てくると、人々が「神!シリア!自由!」と叫んだ。言葉の3つ目はバシャール・アサド(大統領)であるべきなのに、自由と入れ替えたので、政権は反乱と受け止めた。そして多くのデモ参加者を殺傷した。
私は写真を撮っていた。バシャール・アサドの部隊が最初から武力行使をしたことに、我々は驚いた。警告ぬきで、いきなり発砲した。デモにたいしては最初は催涙弾や放水をするものだが、彼らはこれらを省略した。
デモをするには勇気が必要だった。我々は内心で恐れていた。しかし我々は恐怖を乗り越え、「自由」を宣言しなければならなかった。アラブの春(民主化運動)がチュニジアとエジプトで勝利し、リビアでも始まっていた。
抗議するする市民は団結していた。ますます多くの若者が我々の主張に賛同した。ダラアの他の地区でもデモが始まった。しかし治安部隊が発砲したので、人々は逃げ去った。
我々は負傷者の手当てをし、死者の遺体を病院に運んだ。
市民に犠牲者が出たので、体制は終わりが近い、と我々は思った。もう後戻りできない。治安部隊に殺された人たちは、彼らの信念のために死んだ殉教者である。ますます多くの市民が我々を支持するようになった。各種民間団体の指導者や知識人も我々に賛同した。
我々は翌日再びデモをすることを発表した。またストライキを組織した。私は「治安部隊は殺人者だ」とビラに書いた。
デモの時我々は治安部隊に大声で叫んだ「お前たちの任務は兄弟たちを守ることだろう。我々は全員シリア国民だ、敵ではない」。彼らは言い返した。「これは国家の安全の問題だ。我々は国家を守るために全力を尽くす」。彼らは聞く耳を持たなかった。
逮捕されている子供たちの親たちは、心配で気が狂いそうだった。ある母親は息子の友達が逮捕されたのを知ると、恐怖のあまり、息子を連れて逃げた。彼らは町から町へと逃げ回ったが、政治警察はどこまでも追いかけた。
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