2012年末、アサド政権はシリアの大半の地域を失った。首都ダマスカスの一部も失い、首都に危機が迫った。この時イランとイラクのシーア派はダマスカスにあるシーア派の聖廟・サイーダ・ザイナブ廟を守る決断をした。これがヒズボラの顕著な活躍として結実し、予想外のアサド政権の立ち直りをもたらした。
2013年5月にアサド政府軍がクサイルの反政府軍を壊滅させた時、レバノンのヒズボラの活躍が注目された。これに比べ、政府軍側で戦うイラク人は目立たなかった。彼らが脚光を浴びるのは2015年以後である。それ以前の報道は非常に少ない。しかしシーア派イラク人は2011年からシリアで戦っていた。アル・モニタ―が2013年10月29日の記事で、2011年ー2013年のイラク人志願兵の活動を報告している。
=====《 シーア派イラク人、シリアで参戦》======
Iraqi Shiites join Syria warr: Omar al-Jaffal
アサイブ・アル・ハクの指導者ムハンマド・タバタバがシリアに到着した様子を写したビデオがある。
多くのシーア派イラク人がシリアで戦っている。彼らはイランで訓練を受け、武器を渡され、レバノンに向かう。そこからヒズボラに案内されてシリアに入り、ダマスカスに到着する。
2011年にシリア内戦が始まって間もない頃、反体制派はシーア派イラク人の存在を指摘した。イラク・シーア派のサドル師がイラク人民兵をシリアに送り込んでいることを強く非難したのである。
この批判を、イラク政府は即座に否定した。「そのような事実はない。サドル師はシリアの問題に関与していない。イラクはシリアの混乱に一切関わりがない」。
2年後の2013年、シリアのいくつかの地域が本格的な内戦状態になると、イラクのマリキ首相はイラク人がアサド側で戦っていることを認めた。しかしそれは政府の政策ではないとゼバリ外相は弁明した。
バグダードの中央にある「自由広場」にはシリアで戦死したイラク人を讃えるポスターが掲げられている。彼らはダマスカスのザイナブ廟を守るために戦ったと書かれている。これらのポスターは一年以上前から広場の風景となっている。戦死者が出ると、ポスターの顔と名前が新しくなる。
サイーダ・ザイナブは預言者ムハンマドの孫娘である。彼女の父は第4代カリフ・アリーであり、母はムハンマドの娘ファティマである。シーア派はムハンマドの血統を重視する。
共和国橋から広場を通りグリーンゾーンへ向かう官僚はいつもポスターを目にする。政治家たちはポスターを見慣れてしまい、今では気にも留めない。イラク政府は自国の若者が志願兵としてシリアに行くことを止めようとしない。欧米諸国はイラク政府に自制を促しているが、効き目がない。
ポスターを掲げているのは、アサイブ・アル・ハクである。このグループは2004年サドル師のマフディー軍から分離した。アサイブ・アル・ハクの現在の指導者は若い宗教家カイス・ハザリである。
イラク政府中枢の情報によれば、マリキ首相はアサイブ・アル・ハクを擁護してる。サドル派は、マリキ首相の首相3選を妨げる対抗勢力となっている。首相はサドル派を切り崩す目的で、これに対抗する勢力を育てようとしている。
アサイブ・アル・ハクだけでなくイラクの2大シーア派武装集団、バドル軍とマフディー軍もシリアに派兵している。
2011年にマフディー軍の存在ががシリアで問題になった時、イラク政府は否定した。しかしマフディー軍は2011年以来シリアで戦っているのが事実のようだ。
イラク・シーア派最大の民兵組織バドル軍もシリアに派兵している。2013年7月、バドル軍はシリアでの聖戦を宣言した。3か月前バドル軍はシリア参戦を予告するポスターを掲げていた。「我々は自由シリア軍に死を宣告する。我々に逆らっても死ぬだけだ」。
サルヒ師に従う人たちも同様に兵を送っている。
合計で14団体のイラク・シーア派がシリアで戦っている。
これら14団体の中で最も戦闘的な2つのグループが、シリアで共闘する目的で連合した。アサイブ・アル・ハクとカティブ・ヒズボラが合体し、新たにアブ・ファドル・アッバス旅団を組織した。この旅団はシリアで活動するイラク人民兵の中で最大勢力となった。旅団にはイラク人の他にレバノン人とシリア人も参加した。
カティブ・ヒズボラは戦闘能力が高く、イランで訓練を受けたイラク人民兵の中で優等生的な存在である。米軍に対する襲撃で実践経験を積み、有能な戦闘集団となった。2013年の初頭からシリアでの戦死者が報告されている。
アブ・ファドル・アッバス旅団はダマスカスのサイーダ・ザイナブの霊廟を防衛している。
アブ・ファドル・アッバス旅団はザイナブ・モスクを守る目的で存在しており、アレッポに出向くことを要請された時、旅団は分裂した。もともと2団体が合併したものであり、元に戻った。アレッポで戦うことに正当性がないと考えたカティブ・ヒズボラはダマスカスに留まり、アクラム・カービが率いるアサイブ・アル・ハクだけが、アレッポに向かった。カービのグループはアレッポ国際空港の奪回に成功し、そのままそこを本拠としている。カービ率いるアサイブ・アル・ハクはハイダル・カラル旅団と名乗っている。
シーア派民兵はシリアで戦う前に、イランへ行き軍事訓練を受ける。訓練を終了すると武器を渡され、ヒズボラの案内でレバノンからシリアに入る。
イラクからイランへ、そしてイランからレバノンまでの行程は容易である。しかしレバノン国境からダマスカスまでの行程は反政府軍に襲われる危険があり、難関である。
以上はマフディー軍の元幹部が「アル・ーモニター」の記者に匿名を条件に語った内容である。
イラク人志願兵がシリアに入る方法は今や公然の秘密である。シーア過激派はフェイスブックでそれを公表している。聖戦士になるための資格について、またシリアでの滞在期間についても書いている。
バドル軍の非戦闘員メンバーがバドル軍という名でフェイスブックに書いている。(バドル軍の指導者ハディ・アメリは内閣の一員でもあり、運輸相である。)
バドル軍のページには、シリアで死んだイラク人たちの写真と名前があり、故郷イラクでの葬列の写真が添えられている。シリアでスナイパーに撃たれて死亡した若者の遺体(複数)が、毎週バグダードに運ばれてくる。
しかし通夜の写真を撮ることはできない。死者の家族と武装集団の指導者が撮影を禁じているからである。
今年(2013年)5月ムハンマドの弟子であったビン・ウダイの墓が破壊された時、シリアの聖廟を守ろうという呼びかけがネット上でなされた。シーア派の若者がこれに敏感に反応し、シリアの聖廟をワッハービ派(=スンニ過激派)から守ろうという気運が高まった。呼びかけの中心となったウエッブサイトは「ザイナブ廟守る戦い」と「アブ・ファドル・アッバス旅団」である。“Campaign for the Defense of the Sayyeda Zeinab Shrine” “Abu al-Fadl al-Abbas Brigades.”
イラク政府と治安機関はこれらのサイトを取り締まる考えがないようだ。
情報文化委員会は電子メディアを弾圧する行為を避けているという。同委員会はサイトの運営者に警告せず、単に見解を述べただけである。「ジハードへの呼びかけをすることは国家の安全をを脅かし、ひいては言論の自由を失うことになる」。これは命令でもなく、脅しでもなく、あくまで意見であった。
イラク政府はシリアでの聖戦を厳しく取り締まろうとしていない。国防・治安委員会もシリアで戦うイラク人の問題を議題にしたことがない。しかしすべての委員が黙認しているわけではない。これに断固反対している委員もいる。
国防・治安委員会のジャバニ委員はアル・モニターの記者に語った。「シリアに行くより、イラクの聖廟を守ることの方が大事だ。シリアに行く連中は隣国のことに口を出す寄生虫だ。彼らはイラク人としての誇りを持たない」。
============(アル・モニターの記事終了)