たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

アサドのために戦うイラク人戦闘集団 2013年

2016-04-29 14:46:34 | シリア内戦

 

2012年末、アサド政権はシリアの大半の地域を失った。首都ダマスカスの一部も失い、首都に危機が迫った。この時イランとイラクのシーア派はダマスカスにあるシーア派の聖廟・サイーダ・ザイナブ廟を守る決断をした。これがヒズボラの顕著な活躍として結実し、予想外のアサド政権の立ち直りをもたらした。

20135月にアサド政府軍がクサイルの反政府軍を壊滅させた時、レバノンのヒズボラの活躍が注目された。これに比べ、政府軍側で戦うイラク人は目立たなかった。彼らが脚光を浴びるのは2015年以後である。それ以前の報道は非常に少ない。しかしシーア派イラク人は2011年からシリアで戦っていた。アル・モニタ―が20131029日の記事で、2011年ー2013年のイラク人志願兵の活動を報告している。

 

=====《 シーア派イラク人、シリアで参戦》======

   Iraqi Shiites join Syria warr: Omar al-Jaffal

 

アサイブ・アル・ハクの指導者ムハンマド・タバタバがシリアに到着した様子を写したビデオがある。

多くのシーア派イラク人がシリアで戦っている。彼らはイランで訓練を受け、武器を渡され、レバノンに向かう。そこからヒズボラに案内されてシリアに入り、ダマスカスに到着する。

2011年にシリア内戦が始まって間もない頃、反体制派はシーア派イラク人の存在を指摘した。イラク・シーア派のサドル師がイラク人民兵をシリアに送り込んでいることを強く非難したのである。

この批判を、イラク政府は即座に否定した。「そのような事実はない。サドル師はシリアの問題に関与していない。イラクはシリアの混乱に一切関わりがない」。

2年後の2013年、シリアのいくつかの地域が本格的な内戦状態になると、イラクのマリキ首相はイラク人がアサド側で戦っていることを認めた。しかしそれは政府の政策ではないとゼバリ外相は弁明した。

 

バグダードの中央にある「自由広場」にはシリアで戦死したイラク人を讃えるポスターが掲げられている。彼らはダマスカスのザイナブ廟を守るために戦ったと書かれている。これらのポスターは一年以上前から広場の風景となっている。戦死者が出ると、ポスターの顔と名前が新しくなる。

 

  

サイーダ・ザイナブは預言者ムハンマドの孫娘である。彼女の父は第4代カリフ・アリーであり、母はムハンマドの娘ファティマである。シーア派はムハンマドの血統を重視する。

 

共和国橋から広場を通りグリーンゾーンへ向かう官僚はいつもポスターを目にする。政治家たちはポスターを見慣れてしまい、今では気にも留めない。イラク政府は自国の若者が志願兵としてシリアに行くことを止めようとしない。欧米諸国はイラク政府に自制を促しているが、効き目がない。

 

ポスターを掲げているのは、アサイブ・アル・ハクである。このグループは2004年サドル師のマフディー軍から分離した。アサイブ・アル・ハクの現在の指導者は若い宗教家カイス・ハザリである。

イラク政府中枢の情報によれば、マリキ首相はアサイブ・アル・ハクを擁護してる。サドル派は、マリキ首相の首相3選を妨げる対抗勢力となっている。首相はサドル派を切り崩す目的で、これに対抗する勢力を育てようとしている。

 

アサイブ・アル・ハクだけでなくイラクの2大シーア派武装集団、バドル軍とマフディー軍もシリアに派兵している。

2011年にマフディー軍の存在ががシリアで問題になった時、イラク政府は否定した。しかしマフディー軍は2011年以来シリアで戦っているのが事実のようだ。

イラク・シーア派最大の民兵組織バドル軍もシリアに派兵している。20137月、バドル軍はシリアでの聖戦を宣言した。3か月前バドル軍はシリア参戦を予告するポスターを掲げていた。「我々は自由シリア軍に死を宣告する。我々に逆らっても死ぬだけだ」。

サルヒ師に従う人たちも同様に兵を送っている。

合計で14団体のイラク・シーア派がシリアで戦っている。

これら14団体の中で最も戦闘的な2つのグループが、シリアで共闘する目的で連合した。アサイブ・アル・ハクとカティブ・ヒズボラが合体し、新たにアブ・ファドル・アッバス旅団を組織した。この旅団はシリアで活動するイラク人民兵の中で最大勢力となった。旅団にはイラク人の他にレバノン人とシリア人も参加した。

カティブ・ヒズボラは戦闘能力が高く、イランで訓練を受けたイラク人民兵の中で優等生的な存在である。米軍に対する襲撃で実践経験を積み、有能な戦闘集団となった。2013年の初頭からシリアでの戦死者が報告されている。

 

アブ・ファドル・アッバス旅団はダマスカスのサイーダ・ザイナブの霊廟を防衛している。  

  

 

アブ・ファドル・アッバス旅団はザイナブ・モスクを守る目的で存在しており、アレッポに出向くことを要請された時、旅団は分裂した。もともと2団体が合併したものであり、元に戻った。アレッポで戦うことに正当性がないと考えたカティブ・ヒズボラはダマスカスに留まり、アクラム・カービが率いるアサイブ・アル・ハクだけが、アレッポに向かった。カービのグループはアレッポ国際空港の奪回に成功し、そのままそこを本拠としている。カービ率いるアサイブ・アル・ハクはハイダル・カラル旅団と名乗っている。

 

シーア派民兵はシリアで戦う前に、イランへ行き軍事訓練を受ける。訓練を終了すると武器を渡され、ヒズボラの案内でレバノンからシリアに入る。

イラクからイランへ、そしてイランからレバノンまでの行程は容易である。しかしレバノン国境からダマスカスまでの行程は反政府軍に襲われる危険があり、難関である。

以上はマフディー軍の元幹部が「アル・ーモニター」の記者に匿名を条件に語った内容である。

 

イラク人志願兵がシリアに入る方法は今や公然の秘密である。シーア過激派はフェイスブックでそれを公表している。聖戦士になるための資格について、またシリアでの滞在期間についても書いている。

バドル軍の非戦闘員メンバーがバドル軍という名でフェイスブックに書いている。(バドル軍の指導者ハディ・アメリは内閣の一員でもあり、運輸相である。)

バドル軍のページには、シリアで死んだイラク人たちの写真と名前があり、故郷イラクでの葬列の写真が添えられている。シリアでスナイパーに撃たれて死亡した若者の遺体(複数)が、毎週バグダードに運ばれてくる。

しかし通夜の写真を撮ることはできない。死者の家族と武装集団の指導者が撮影を禁じているからである。

今年(2013年)5月ムハンマドの弟子であったビン・ウダイの墓が破壊された時、シリアの聖廟を守ろうという呼びかけがネット上でなされた。シーア派の若者がこれに敏感に反応し、シリアの聖廟をワッハービ派(=スンニ過激派)から守ろうという気運が高まった。呼びかけの中心となったウエッブサイトは「ザイナブ廟守る戦い」と「アブ・ファドル・アッバス旅団」である。Campaign for the Defense of the Sayyeda Zeinab Shrine Abu al-Fadl al-Abbas Brigades.”

イラク政府と治安機関はこれらのサイトを取り締まる考えがないようだ。

情報文化委員会は電子メディアを弾圧する行為を避けているという。同委員会はサイトの運営者に警告せず、単に見解を述べただけである。「ジハードへの呼びかけをすることは国家の安全をを脅かし、ひいては言論の自由を失うことになる」。これは命令でもなく、脅しでもなく、あくまで意見であった。

 

イラク政府はシリアでの聖戦を厳しく取り締まろうとしていない。国防・治安委員会もシリアで戦うイラク人の問題を議題にしたことがない。しかしすべての委員が黙認しているわけではない。これに断固反対している委員もいる。

国防・治安委員会のジャバニ委員はアル・モニターの記者に語った。「シリアに行くより、イラクの聖廟を守ることの方が大事だ。シリアに行く連中は隣国のことに口を出す寄生虫だ。彼らはイラク人としての誇りを持たない」。

============(アル・モニターの記事終了)

 

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デリゾール戦線 オリックス・ブログ 12月5日

2016-04-21 22:51:58 | シリア内戦

    

デリゾール市の北半分をISISが支配し、南半分を政府軍が支配し、両者が市街戦を繰り広げている。10月と11月ザフレディン将軍率いる大第104旅団がサクル島のISISを攻撃し、島のISISは風前の灯となった。しかし、12月3日、ハサカ県(シリア)とアンバール県(イラク)のISISがデリゾールに到着し、大規模な反撃に出た。

12月3日、新着のISISは空港周辺に侵入し、6日空港へ突入した。

前回に続き、オリックス・ブログが語るデリゾール戦を紹介する。前回の記事の最終部分である。

一般に政府軍は爆撃・砲撃に頼り、歩兵による白兵戦を避ける傾向にある。第104旅団を率いるイッサム・ザフレディンはそうではない。正面からISISに立ち向かう。

=====デリゾールの前線=============

          Oryx Blog: Battlefront Syria: Deir ez-Zor

 ザフレディンの戦法は革新的だった。シリア軍の中では例外的に、都市ゲリラ戦の正しい戦い方をした。これまでシリア軍の戦車は歩兵との連携なしに、建物を砲撃しながら市街地を進んだ。しかしどの建物に敵が潜んでいるか、正確に知っているわけではない。思わぬところからRPG(ロケット推進弾)を撃たれ、戦車は炎上した。

ザフレディンの部隊は戦車の砲撃に続き歩兵が建物を一つ一つ掃討しながら進んだ。

         

戦車の上の政府軍兵士が左手に持っているのはドルーズの旗である。もう一つはシリア国旗。

デリゾール空港はシリア空軍第8飛行中隊の基地である。飛べなくなった10数機のMig-21が飛行場に並んでいる。2機のMig-21は格納庫内にあった時、誘導式対戦車ミサイルで破壊された。Mig-21を失った第8飛行中隊は、他の飛行隊からMig-21受け取った。

デリゾール市内と空港を守るため、対空ミサイル2K12が4基配備されていた。     

   

4基うちの1基は退却の際に自由シリア軍によって破壊された。もう1基がISISによって破壊された。2基残っているが、1基は故障している。

  

ダマスカスからパルミラを経てデリゾールに至る幹線道路は政府軍の支配下にある。これは、デリゾールにとって主要補給路であり、生命線となっている。第104旅団もこの道路を通ってデリゾールに来た。

この道路と空港と山地が政府軍を支えている。獲得した支配地も捨てることになっても、空港だけは守る。

支援の航空機を呼ぶことができ、山地から援護の砲撃がある限り、政府軍はデリゾールに踏みとどまることができる。

12月3日ー5日の攻撃がISISにっできる最大限であり、すでに攻撃能力が尽きてしまったのであれば問題ない。しかし政府軍の能力を試しただけかもしれない。将来の本格的な攻略のための準備として、下見と予行演習だったのかもしれない。

その場合今後さらに大規模な攻撃をかけてくるだろう。

そうではなく、ISISはサクル島の失地回復を主目的としており、空港攻撃は単なる陽動作戦にすぎなかったなら、それほど恐れることはない。

ISISの力量はまだ未知なので、空港攻撃の目的がどちらなのかわからない。

政府軍はISISの12月3日ー5日の大攻勢を退けたので、力を示したが、北西の端から南東の端に至る戦線に配置するだけの兵数がないので、防衛線の維持は困難だ。

===================(オリックス・ブログ終了)

これまで5回、2014年9月ー12月の政府軍とISISとの戦闘を書いてきたが、これで終了する。

 

         <2011年のデリゾール>

2011年のデリゾールについて、デリゾールの住民が実際に体験したことを語っているので、引用したい。「シリア日記:デリゾールからのメッセージ」の著者がシリアの友人から手紙を受け取った。

手紙によれば、自由シリア軍は自生したのではなく、他地域からやって来たのである。手紙は自由シリア軍がデリゾールに来る前のデリゾールについて書いている。手紙を書いた人は内戦のきっかけとなった反政府デモに参加した。

======《デリゾールからの手紙》=====ー=

                     2014年9月

     

私はシリアのデリゾール出身です。

年齢は38歳。

アサド政権に迫害され、仕事を失いました。私だけではなく、政府に反抗する人間は皆同じ目に遭っていました。

 

このため、反体制デモを行うことに決めました。私は革命開始当初からデモに参加し、デリゾールで最初に逮捕された人々の一人です。

革命初期に、反体制デモに参加した罪で4回逮捕されました。

その後、反体制派の衛星テレビ数局の特派員として働き、逮捕や拷問、殺害現場の写真の撮影を行っていたため、また逮捕されました。釈放されたとき、私は何箇所も骨折した状態でした。

そして驚いたことに、私が刑務所にいた間、彼らは私の事務所と実家に侵入し、電気製品や金品、公式書類等を全て略奪していたのです。

 

サウジアラビアのビザが下りたので、私は治療のため同国へ赴きました。やがて自由シリア軍がデリゾールに進軍しましたが、これを阻もうとする政府軍によって、住居が破壊されて住民が路頭に迷い、民家や公的施設が略奪されました。

そして、反体制派デモ参加者リストをもとに、私の住んでいた地区の若者を集めました。私の名前もその中にありました。

集められた若者たちは処刑され、その遺体は家族の面前で焼かれました。

この卑劣な虐殺の写真は、私の手元にあります。

この状況のため、私はシリア国外に在留し続けることを余儀なくされたのです。

シリアに残った兄弟や、自由シリア軍に参加した友人たちとは絶えず連絡を取り、写真や現地情報を入手しています。

アッラーのご加護を得て、傷は治りましたが、まだ時折頭が痛みます。

家族は安全のため、トルコに避難させました。

アサド政権は、デリゾールに様々な外国勢力を引き入れました。

レバノンのヒズボラ軍、イランのマフディ軍、イラクのエルサレム軍・・・全てシーア派の勢力です。

彼らは博物館や橋、イスラム教のモスクやキリスト教会など、考古学的価値のあるものを全て標的としました。

主要な建造物は一掃され、街は原型を留めていません。

そして、多国籍の構成員から成る正体不明の武装集団が到来しました。彼らは、「イラクとシャームのイスラム国」(ISIS)と名乗っています。

その規模は非常に大きく、破壊力のある新型武器を装備しています。

私たちは最初、自分たちを支援するために来てくれたのだと信じ込み、彼らを歓迎しました。

しかし残念ながら、彼らはアサド政府よりもさらひどかったのです。

それは犯罪者集団であり、財産と石油を奪い、

宗教の大義の下、イスラム教徒の評判を貶めました。

そして、イスラムの名のもとにキリスト教会を焼き払うなどして、宗派間の闘争を煽りました。

イスラム教は彼らの行為とは無関係です。

高学歴者や医師や技師等、状況を理解している知識人は、イスラム法に反した罪で公開処刑されました。

現在、デリゾールは「イスラム国」に支配された上、

毎日アサド軍の空爆を受けるという、二重苦を背負っています。

これが私の故郷、デリゾールの現実です。

私の手元には、モスクや教会等、同市で破壊された建造物の廃墟の写真があります。

    

私自身に関して言えば、現在どうすればいいのかわからない手詰まりの状態です。

帰国してジャーナリスト活動をしたいのは山々ですが、

アサド政権と「イスラム国」の両方から指名手配されているので、

それは不可能です。

パスポートの有効期限が切れてしまったけれど、更新することはできません。

サウジアラビアのシリア大使館は閉鎖中だし、シリアで更新することは問題外です。

 

アッラーよ、シリアの全ての宗教・宗派の人々をお助けください・・・。

話を聞いて下さった皆様に、心より感謝いたします。

=======================「デリゾールからの手紙」終了

手紙の中の次の箇所について、補足する。

「アサド政権は、デリゾールに様々な外国勢力を引き入れました。

レバノンのヒズボラ軍、イランのマフディ軍、イラクのエルサレム軍・・・全てシーア派の勢力です。」

これは重大な事実である。アサド政権は当面倒れないとしても、外国軍に大きく頼るようになり、自分の墓穴を掘っている。

アサド側で戦っているのは、マフディ軍ではなく、マフディ軍から独立したアサイブ・アル・ハクである。マフディ軍はイラクのシーア派民兵であり、イラク民族主義の傾向がある。分派のサイブ・アル・ハクはイランの影響が強く、イラク人でありながら、イランの傭兵のようになっている。

アサド側で戦っている、ヒズボラ、イラン革命防衛隊、イラン人・イラク人民兵はアサド軍の主力となりつつあり、シリア内戦の変質を物語っている。今後のシリア内戦を決定する要素となっている。

マフディ軍とその分派のアサイブ・アル・ハクについて説明したい。

        <ムクタダ・サドルとマフディ軍>

ムクタダ・サドル師はイラク・シーア派の法学者の名門の出でありながら、イラク戦争後駐留米軍に対するテロ活動で悪名をはせた。彼が組織するマフディ軍はスンニ派武装集団と戦い、シーア派とスンニ派の対立を深めた。戦後の混乱の元凶として悪評が高いが、他方でスンニ派のテロからシーア派住民を守り、高い支持を得ている。

宗教家としての彼は法学者を目指して修行中の身であり、イラク・シーア派を代表するシスターニ師に遠く及ばないが、政治指導者としては、シスターニ師と肩を並べつつある。

イラク戦争後活躍したマフディー軍は2008年に武装闘争を停止し、慈善団体に転化した。米軍がスンニ派を取り込んだ状況下で、イラク・アルカイダは力を失っていた。スンニ派のテロが減った時にマフディー軍だけがテロを行うことは、政治的にマイナスであり、何よりも米軍に抹殺される危険が高まったのである。

武力闘争をやめても、サドル派はイラク政府内の有力派閥である。

マフディー軍の一部は武器を置くことを拒否し、分派を形成した。この分派はイランに忠実で、シリア内戦が激化するとシリアに渡り、アサドの味方として戦った。この分派アサイブ・アル・ハクについて、「スパイク通信員の軍事評論」が説明している。「イラクのシーア派民兵が武力闘争を放棄へ」から抜粋する。記事は2012年1月に書かれた。

 =========《アサイブ・アル・ハク》=========

アル・ハク(高潔な者たちの絆の意)は、急進的シーア派聖職者、ムクタダ・アル・サドル師(Muqtada al-Sadr)から分派して、アメリカのイラク駐留と戦うために結成された武装グループです。過去2年でイラク駐留米軍で最大の死者が出た昨年(2011年)6月に米軍基地に決死の攻撃を実行した、イランに支援されたシーア派民兵グループの一つです。

アル・ハクは2008年にサドル師からの独立を発表し、サドル師からのグループ再統合の何度もの要請を拒否しました。マリキ首相のシーア派政府の主要な構成要素であるサドル支持者との関係は緊張したままです。サドル師は最近このグループを批判し、彼らは不誠実だと言いました。サドル師はイラク人の死は彼らの責任だと批判もしました。アル・ハクがより伝統的な政党へと自身を組織するなら、サドル師の政治的野心に打撃を与え、連立政権での立場を弱めるでしょう。 

         <エルサレム軍>

エルサレム軍はスレイマニ准将率いるイラン革命防衛隊のことである。エルサレムの一般的な意味は「聖なる家」である。

イラン・イラク戦争中、イランはフゼスタンをイラクに奪われた。フゼスタン奪回作戦に、イランは「エルサレム作戦」と命名した。エルサレム軍とは、「聖なる国家」を守る軍隊という意味である。

 

手紙には「イランのマフディ軍、イラクのエルサレム軍」とあるが、一般的には「イラクのマフディ軍、イランのエルサレム軍」である。

 

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デリゾールの名将イッサン・ザフレディンと第104旅団

2016-04-12 23:56:13 | シリア内戦

 

シリア内戦の開始後、デリゾールを支配していたのは、主に自由シリア軍である。

自由シリア軍と戦っていたのは、第137機甲旅団であるがが、2年間の戦いで兵士と戦車の多くを失っていた。それにもかかわらず、第137機甲旅団は市内のいくつかの地区と戦略的に重要な高地を守り抜いていた。

旅団兵の数が少なく、国民防衛軍(民兵)と予備兵が穴を埋めていた。空港と市内の半分を守るのが精いっぱいで、攻勢に出る余裕はなかった。

2014年以後の戦況地図では第137旅団の基地は無視されるが、下の地図には、その位置が示されている。

    

 2014年の初頭、ISISがデリゾールの自由シリア軍を追い出し始めた時、ISISに対抗するため104旅団がデリゾールに到着した。

104旅団も人数が少なく、攻撃と防衛の両方にまわすだけの人数がなかったので苦慮した。戦線を守備している政府軍が応援を必要としていたので、攻撃に専心できなかった。第104旅団は全員を攻撃にまわすことができず、旅団兵の一部を守備に充て、残りが攻撃に向かった。

市内の戦闘は激烈だった。建物一個の争奪戦となり、双方とも身動きできなくなることもあった。

         

 

 ISISは地下トンネルを張り巡らし、そこを移動した。

政府軍は近くの丘から市内のISISを砲撃し、味方を援護した。しかし砲撃によって、ほとんどの建物が破壊された。また敵・味方が接近していたので、味方が砲撃の犠牲になることもあった。

   

 

援軍として到着した第104旅団には2つの任務があった。

①空港を守り、市の中心部のISISを包囲する。

②その後、油田のISISを攻撃する。

最初の目的は到着後、短期間で達成された。ラッカのタブカ空港をISISに奪われたことは、政府軍にとって重大な損失だった。(参照:ISISと政府軍の攻防 ラッカ 2014年8月

 イッサム・ザフレディンが語った。「デリゾール空港はタブカ空港の2の舞にはしない。デリゾール空港はISISの墓場になるだろう」。

 

デリゾールは油田があることで有名である。市をめぐるこれまでの戦闘は、石油を支配する目的で戦われた。石油は戦略資源である。アサド政府軍は一年前これらの油田を奪われ、燃料が不足する事態になった。これらの油田は全政府軍に燃料を供給していたので、作戦に支障をきたした。すべての政府軍とは、国軍のシリア・アラブ軍、精鋭の共和国防衛軍、そして民兵の国民防衛軍と砂漠の鷹(スクール・サハラ)である。

 

これらの油田を防衛するため、ロシアの民間軍「スラヴォニック軍団」の部隊が派遣されたが、燃料不足でデリゾールまで行けなかった。

 

政府軍の戦車は目的地まで、輸送車(トレーラー)で運ばれるようになった。戦車がみずから走るより、燃料の消費が少ないからである。戦車の特性は「自ら高速で移動する大砲」なので、情けない話である。デリゾールの油田が奪回されない限り、この状態が続く。

 

 

デリゾールの政府軍が強力な理由はいくつかある。

 2014年の初め、イッサム・ザフレディン将軍が率いる第104旅団が到着した。

 ②政府軍は空軍基地を保持している。このおかげで市内に物資を供給できる。ここを基地とする爆撃機が政府軍を援護し、市内外のISISを空爆する。

 ③ダマスカスからパルミュラを経てデリゾールに至る幹線道路が政府軍の支配下にある。この道路によって援軍と補給物資がデリゾール市に運ばれる。

 ④市を取り巻く高地がシリア・アラブ軍(=国軍)の支配下にある。この高地にシリア・アラブ軍は多数のハウザー(りゅうだん砲)、野戦砲、多連装ロケット砲を配備した。

  

 

これらの重火器は市内のすべての地域を目標にできるので、空軍基地に近づく敵を砲撃できる。

  

104旅団は最初アレッポに送られた。政府軍がアレッポ市とその周辺の失地を回復しようと、一連の作戦を行った時、それに参加した。2014年になって、デリゾールのシリア・アラブ軍を強化する目的で、移動した。第104旅団の全部か、その一部だけか、わからない。デリゾールの共和国防衛軍の人数が少ないことを考えると、第104旅団の一部だけが来たようである。

 

  《デリゾールの名将イッサム・ザフレディン》  

104旅団を指揮しているのは、イッサム・ザフレディンである。彼はドルーズ派イスラム教徒で、全シリアで最も人気のある将軍である。このことに異を唱える人はいない。人気の秘密は単純で、彼は自ら最前線に出て指揮をとり、戦場にはいつも彼の姿があり、一般兵のように、戦闘に従事しているからだ。例えば彼は歩兵戦闘車(BMP-1)を操縦して前線に出る。

    

(注)歩兵戦闘車は兵員輸送のための装甲車であるが、装甲を強化し、戦車砲と対戦車ミサイルを備え、ほぼ戦車とかわらない能力をもつ。ソ連が開発したBMP-1は3名で操縦・砲撃をおこない、8名の兵士を輸送する。これが登場した時、NATOは脅威を感じた。

  

旅団長がドルーズ派(イスラム教)であることもあって、第104旅団の兵士はドルーズ派が多い。イッサン・ザフレディン将軍の親衛隊はほぼ全員ドルーズ派である。親衛隊が必要なのは、彼がシリア軍を象徴する存在であるため、敵にとって最大の標的となっているからである。彼の首には20万ドルの賞金がかけられている。

 

第104旅団の正式名称は共和国防衛軍第104空挺旅団だが、落下傘降下の訓練を受けた本来の旅団兵はわずかであり、多くは低空を飛ぶヘリコプターから飛び降りる訓練をした。落下傘部隊としての性格を失った代わりに、頼もしい機械化部隊に変身した。シリア軍はもともと空挺部隊による作戦を重視していなかったので、この変身は自然な流れだ。

デリゾールに最初からいた第137機甲旅団の装備はお粗末で、戦車はソ連製の古いT-55だった。第04旅団がやってきて、デリゾールに初めてT-72戦車が登場した。

現在のデリゾールの政府軍の装備も、これまでよりましという程度にすぎない。戦車は古いソ連製のT-72ウラルとT-72M1。それに2種類の歩兵戦闘車、BMP-1と少数のZSU-23である。戦車・歩兵戦闘車に加え、イラン製の2連発ロケット発射基が2基ある。

       <Falaq-2>

     

最近30連発のロケット砲がシリア内戦の動画によく登場する。一発だけの迫撃砲に比べ、けた違いに迫力がある。デリゾールのFalaq-2はそれと違い、砲身が太く、2連発だけであり、異様な感じがするが、発射音を聞くと、30連発ロケット砲とは違う迫力がある。宇宙ロケットのような重々しい音を立てながら悠然と飛び立ってゆく。Falaq-2の砲弾は遠くへ飛ぶために重量を増したのではなく、破壊力を持つため重量が増した。イラン・イラク戦争の末期、都市戦では建造物が防壁となり、建物を破壊する砲弾が求められた。この時の教訓をもとに、イランは1990年代、破壊力のあるロケット砲を開発した。それがFalaqである。北朝鮮と中国が開発に協力した。

 

ダマスカスで戦っていた時、第104旅団はシリア軍の最新の戦車T-72を持っていた。この戦車はTURMS-T を装備している。TURMS-T は標的の方位・距離を測定するコンピューターである。しかしこの新鋭戦車はすべて共和国防衛軍の他の部隊に移された。第104旅団はこうして最新型戦車を失ったが、埋め合わせに、貫通力に優れたSayyad-2スナイパー・ライフルとAK-74Mを大量に与えられた。

    < Sayyad-2スナイパー・ライフル>

     

AK-74Mはシリア軍が保有する最良のアサルト(攻撃)ライフルである。最初の写真の兵士が持っているのがそれである。 

 

      <AK-47からAK-74へ>      

AK-47は世界中で使用され、最も有名なライフルである。いかしAK-47の7.62m弾は威力があるが、連発時の反動が強いために着弾点が安定しにくく、また弾丸質量が大きいため弾道が安定せず山なりの軌跡になるという欠点を有していた。

この点を改善するため弾の口径を小さくし、しかも殺傷力が高い工夫をしたのが、AK-74である。AK-74はアフガンゲリラに恐れられた。74という数字はソ連がこれを開発した年、1974年に由来する。

 

最後に歩兵戦闘車について補足したい。

 

      

1967年にソ連がBMP-1を開発したことはアメリカ陸軍に大きなショックを与えた。BMP-1は、 73mm砲と対戦車ミサイルを搭載して重武装であり、また、歩兵を兵員室に収容して放射能などから守り、銃座から小銃を射撃して戦えるように設計されていた。

米軍も1965年に歩兵戦闘車を開発したが、C-141輸送機で輸送できないことが判明して、採用されなかった。

1981年になって、ようやくブラッドレー歩兵戦闘車が誕生した。ブラッドレーは第2次大戦でヨーロッパ戦線を指揮した米国の将軍である。

 

以上の全文はOryx Blogの内容に、兵器の説明を補足したものである。

(原文)Oryx Blog: Battlefront Syria: Deir ez-Zor

 

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ISIS、デリゾール空港を攻撃 2014年12月3日

2016-04-05 19:27:51 | シリア内戦

      

デリゾールはユーフラテス南岸に発展した小都市である。「ゾール」は川の茂みを意味する。

     

ユーフラテスを上流に上るとラッカに至り、下流に下ると、イラクのアンバール県に至る。デリゾールは交通の要衝であり、県内には大小の油田がある。

               

 

小さな都市の支配をめぐり、アサド政府軍とISISが熾烈な戦いを続けている。ISISは市の北部を占領していたが、ユーフラテスにかかる橋を破壊され、川を背に孤立している。文字通り背水の陣である。東西に延びている戦線の中で、シナーア工業地区が最も重要な戦場となった。政府軍の拠点である旧空港に隣接していたからである。

   

 

旧空港への脅威を取り除くため、政府軍はまず東端のサクル島のISISを始末することにした。それに成功すれば、シナーア工業地区のISISは左翼の味方を失い、処理しやすくなる。サクル島はデリゾール戦の主戦場となった。

 

104旅団によるISIS掃討作戦は順調に進み、ISISは島の東端に追い込まれた。10月末、サクル島作戦は最終段階に入った、と第104旅団は判断した。

 

 

 

しかしサクル島作戦はなかなか決着しなかった。ISISが粘り抜いたからである。第104旅団の判断が甘かったわけではなく、実際にISISは窮していた。

このような状況下で、ISISに援軍が到着した。到着した部隊は新たな戦線を開いた。彼らは、いきなりデリゾールの政府軍の心臓を突いた。

ISISはデリゾール県の95%を支配している。政府軍は県の中心都市を支配しているだけである。そして、その政府軍を支えているのは、市のはずれにある軍事空港である。ここから飛び立つ戦闘機と戦闘ヘリがISISを爆撃するだけでなく、政府軍への補給は空輸によって行われている。

ISISの反撃は敵の心臓部を突くことだった。

 

         <ISIS、軍事空港を攻撃>

===== Masdar News 12月3日・4日 ========

    

ISISは政府軍の基地がある軍事空港とその周辺の住宅地域に大規模な攻撃をかけた。

ハサカ県(シリア)とアンバール県(イラク)のISISが到着し、政府軍に対し攻撃を開始した。一方サクル島でも、これまで防戦一方だったISISは援軍を得て反撃に転じた。

123日、ISISは空港周辺にある政府軍の防衛拠点を攻撃し、政府軍は空港内に退却した。ISISはマリーヤ村を占領し、ジャフラに迫った。ジャフラを攻略すれば、ISISはサクル島の友軍と合体できる。

 

 

  

 

ISISはジャフラの学校を占拠したと発表したが、政府軍はこれを否定している。

この日シリア空軍は10ISISを空爆した。

翌日(4)の朝、第104旅団はISISの大部隊を鎮圧し、20名のISIS兵が死亡した。また3台のISISの車両を捕獲した。

政府軍の援軍として国民防衛軍(=民兵)がマリーヤ村に到着し、村を占拠しているISISと交戦中である。

 

    《サクル島でもISISが反撃》

サクル島では、ISISに補給物資が届けられた。仲間が船でユーフラテス川を渡り運んだのである。島の端に追いつめられ、ISISは補給物資を待ち望んでいた。補給を得たISISは中央公園に陣取る第104旅団を攻撃した。

ISISは島の東部の船着き場を確保した。同時に島の東端から東側の本土に渡るつり橋も確保した。

ISISの勢いに押され、104旅団は後退したが、その後空軍の支援を受けながら、第104旅団はいくつかの地域を奪回した。

今朝(4日)、サクル島での激しい戦闘の後、104旅団はISISのイラク軍戦車T-55を捕獲した。(次の写真)

  

 

  123日、ISIS3方から空港に迫った。南東のマリーヤと東のジヤフラについてはすでに述べた。ISIS3日夜になって、空港の北のラサファ地区の政府軍を攻撃した。ラサファは陸軍基地の北にある。(地図参照)

ラサファの北にシナーア工業地区がある。地図に「シナーア工業地区」の文字を書き入れようとすると、戦線と政府軍の旗を消すことになるので、やめた。シナーア工業地区は市の中心部の戦線の東端に位置し、10月の主戦場だった。

12月3日の夜、ラサファ地区の政府軍検問所でリビア人ISISが自爆攻撃をした。自爆攻撃は失敗に終わった。政府軍はかろうじてラサファ地区を維持しているが、ISISは防衛線を突破しようと、攻撃を続けている。

ラサファの戦闘で、9人のISISが死亡し、21人が負傷した。ISISの装甲車(BMB2台と対空砲を積んだ小型トラック3台が破壊された。(政府軍発表)

 原文)  Deir Ezzor: ISIS Launches an Offensive of the Military Airport By Leith Fadel - 04/12/2014

 ===================(Masdar News終了)

 以上は12月3日・4日の戦闘である。5日の戦闘について「シリア人権監視団」が報告している。

 ======Syrian Observatory for Human Rights========    

         《2014年12月5日》

 3日間続いている空港周辺の戦闘で、45名のISIS兵が死亡した。その約半数の25名がシリア人である。

 SISは空港内の政府軍を砲撃している。

 また空港の西側の山地で激しい戦闘がおこなわれている。この山地には政府軍のレーダーと砲台が置かれている。東のふもとに空港がある。

 

      

 ISISは政府軍の陣地数か所を占領し、戦車2台・装甲車・重機関銃・大砲を戦利品とした。政府軍兵士と民兵あわせて19名が死亡した。

 山のふもとを主要道路が走っている。ISISがこの山を奪取すれば、空港の政府軍は地上の補給路が危険にさらされる。

================(引用終了) 

       <ISIS、空港へ突入>

 12月6日午前1時、空港付近で大爆発音がした。ISISは自動車による自爆攻撃をしと主張しているが、政府軍の発表によれば、ロケット弾が空港の南側にある正門の防壁に命中した。爆発により、政府軍兵士19名が死亡した。そ爆発に続き、ISISは空港内の政府軍を砲撃した。その後空港の南西の境界で銃撃戦になったが、政府軍の砲撃と空爆により、ISISは撤退した。戦闘は1時間で終了した。

 ISISは空港内に侵入したと主張している。

 この日未明の空港攻撃は南側だけではなく、ISISは空港の北東部のミサイル大隊の基地をも攻撃し、占領した。これが事実としても、一時的なもので、空港周辺のISISは間もなく一掃された。(104旅団兵士の話)

 

     

 12月5日夜に、ISISが空港の西の高地を占領したのは事実である。ISISは11人の政府軍兵士を殺害し、高地の南側にある政府軍検問所2か所を占領した。9月6日の早朝、シリア空軍が高地のISISを徹底的に爆撃した。地上では第17予備師団の第137旅団が前進した。84人のISIS兵が死亡した。ほとんど空爆によるものである。

この時の空爆で、塩素ガス弾も使用されたらしい。予備師団は頼りにならないので、シリア空軍は毒ガスに頼ったようである。空港の西に位置する高地にはレーダーがあり、多数の重砲が置かれている。この高地は戦略拠点である。ここからISISを追い払ったのは成功だが、毒ガス使用は不名誉である。

    

 

 

 

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