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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

エトルリアの都市クルシウムとの戦争

2020-10-29 16:32:44 | 世界史

 

ローマは城壁によって守られていた。その上、西側をテベレ川が流れていて、対岸から来る敵はまず川を渡らなければならなかった。テベレ川にかかる橋が一つだけあり、これは防衛上の弱点だった。敵がこの橋を確保するなら、第一の防衛線が突破されたことにる。したがって橋をめぐる攻防は、激しい戦闘になるはずだった。ところが、クルシウム(エトルリアの都市、ペルージャの西)の軍隊が突然対岸に表れたので、ローマ軍は橋を守るための有効な対策を講じる余裕がなかった。ローマは橋のローマ側に守備隊を置いただけだった。大部隊であっても小さな橋を渡渡る場合、数列で順番に進むので、少人数の部隊となってしまう。特に先頭の兵士は弓矢の的ととなるので、非常に危険である。前列を順番に失いながら対岸に到達しても、そこで大勢の敵が敵が襲い掛かってくる。橋を渡る場合、かなりの損害を出すことになる。ところがローマの守備隊はこうした有利な状況にあって戦おうとせず、対岸の敵を目にすると、逃げ出そうとした。この時一人のローマ兵が仲間の兵に言った。

「俺が敵を食い止めている間に、橋を壊せ」。彼は一人で橋を渡って行った。二人の兵が彼に続いた。3人が戦っている間に橋が落ちた。以上が前章のあらすじである。

 

 

==《リヴィウスのローマ史第2巻》==

  Titus Livius   History of Rome

            translated by Canon Roberts

 

       【11章】

 

クルシウムは最初の戦闘でローマに敗北した。クルシウムの国王ポルセナは作戦を変え、ローマを包囲することにした。ヤニクルムの丘に分隊を配置してから、この丘とテベレ川の間の平地に陣を敷いた。それから彼は至る所から小舟を集めさせた。これはローマにトウモロコシを運ぶ手段を奪うためであり、をまたクルシウムの兵をあちこちに運び、略奪するためだった。ローマの周辺はクルシウム兵が出没する危険な場所となり、ローマの農民は穀物を全部刈り取り市内に運び、牛たちを市内に入れた。市内にいた牛たちは城門の外に出されなかった。クルシウム兵がやりたい放題をやっていても、ローマ兵が彼らを攻撃しなかったのは、恐怖のためではなく、作戦だった。執政官のヴァレリウスはクルシウムの兵が広い範囲に分散するのを待ち、攻撃のチャンスをうかがっていた。

 

敵の分散を確実にするため、執政官はローマの東側のエスキリン門から牛たちを外に出した。クルシウム軍の陣地からその場所へ行くには、ローマの城壁をぐるりと回り、反対側に行かなければならなかった。ここに敵の略奪兵を引き付ける作戦だった。牛がいるということを敵に知らせるため、クルシウム軍の奴隷兵にこのことを教えた。クルシウム軍は食糧が不足しており、奴隷兵は逃亡を考えていた。ローマの農民が穀物と牛を市内に入れてしまったので、郊外には食べるものがなく、クルシウムの兵、特に奴隷兵は飢えていた。「牛がいる」という奴隷の話を聞くと、多くのクルシウム兵が小舟で対岸に渡り、エスキリン門のほうへ向かった。

 

 

ローマの執政官ヴァレリウスは彼らを攻撃するため、ヘルミニウスに少人数の兵士を与え、戦闘予定地の近くに潜伏させた。街道を南下してきた敵がエスキリン門の近くまで来た時、ローマ軍は彼らを攻撃する予定だった。ヘルミニウスの部隊は街道から2マイル(3km)離れた場所に隠れた。

ラルティウスが率いる軽武装の歩兵隊はコリナ門(ローマの北端)の内側に集結し、敵が通り過ぎるのを待った。彼らの役目は逃げて来た敗残兵にとどめを刺すことだった。もう一人の執政官ルクレチウスは数隊を率いてネヴィア門(コリナ門とエスキリンの中間)から出撃した。 執政官ヴァレリウスは本隊を率いて、カエリアの丘(エスキリン門の南)のふもとから出撃した。二人の執政官の部隊が敵を攻撃した。敵はヴァレリウスの部隊に気づき、戦闘になった。街道から離れた場所に潜伏していたヘルミニウスの部隊は戦闘が始まったことを知ると、姿を現し、背後から敵を襲った。ローマ市民は、ネヴィア門とカエリアの丘に集まり、大声で応援した。クルシウム軍の略奪兵は四方から追い詰められ、劣勢となり逃げ道がなく、粉砕された。以前は分散していたクルシウムの略奪兵はエスキリン門でまとめて打ち負かされた。

       【12章】

クルシウム軍はかなりの兵を失ったが、彼らはローマの包囲を続けた。ローマの市内はトウモロコシが不足し、値段が急騰し、貧民は買えなかった。クルシウムの王ポルセナは包囲を続ければローマを占領できると考えた。ローマはこれまで敵に包囲されたことがなかった。貴族の若者ムキウスは現在の状態を不名誉だと考えた。

「国王の時代にローマはエトルリア人に勝利したのに、自由な制度の現在、ローマはエトルリア人に包囲され、追い詰められている。こんなことは屈辱だ。勇気ある行動によって、名誉を回復しなければならない。なんとかチャンスを見つけて、敵の陣地へ切り込もう」。

彼は自分の責任で決行しようと思ったが考え直した。執政官の許可なしに実行するなら、味方の守備兵が彼を逃亡兵と思って、逮捕し、彼は連れ戻されるかもしれなかった。ローマは敗北しそうだったので、一人で敵のほうに行けば、逃亡兵とみなされるだろう。ムキウスは勝手に行動するのをやめ、元老院に許可を求めた。

「長老の皆様! 私はテベレ川を泳いで渡り、敵の陣地に行くつもりです。略奪が目的ではなく、我々の土地を略奪したことへの復讐でもありません。私は天の助けを信じ、大胆な行為をしたいのです」。元老院が許可したので、ムキウスは出発した。対岸に渡ると、彼は短剣を服に隠し、敵の陣地に忍び込んだ。クルシウム軍の本営の近くに多くの敵兵が集まっていたので、そこにもぐりこんだ。ちょうどこの日は兵士に給料を払う日だった。国王と同じ服装をした大臣が王の隣に座り、兵たちに給料を払っていた。兵たちが休みなく、つぎつぎと来るので、大臣は忙しかった。ムキウスはどちらが王かわからなかった。周りの兵に質問すれば、国王の顔も知らないとは怪しい奴だと怪しまれるので、運を天に任せて、剣を突き刺した。彼が殺したのは大臣だった。ムキウスは血の付いた短剣を持ったまま、呆然(呆然)とている敵兵の間をすり抜け、逃げようとした。しかし叫び声を聞いた兵たちが一斉に集まってきた。彼は国王の護衛兵につかまり、王の前に連れて行かれた。ムキウスはたった一人で無力であり、死を目前にしていたが、敵を威圧した。

「私はローマ市民のムキウスだ。私は敵を殺しに来た。私は敵を殺したので、復讐されて当然だ。勇敢に行動し、苦しみを受けいれるのが、ローマ人の性格だ。敵に敢然と立ち向かうのは、私だけではない。私と同じ運命に向かって、多くのローマ人が後に続くだろう。もしあなたが戦争を続けるなら、あなたは一瞬の休みなく、命を狙われるだろう。武装したローマ兵があなたのテントの前に来るだろう。ローマの若者はあなたに戦争を挑むのだ。それは密集陣形の部隊による戦闘ではない。戦闘など起きない。あなた一人とローマの若者一人一人が戦うのだ」。

クルシウムの王は怒り狂ったが、同時に暗殺を予告されて不安になり、ムキウスがほのめかした不気味な暗殺計画を詳しく知りたくなった。

「陰謀について全部白状しろ。それが嫌なら、お前は火あぶりの刑だ」。

王の脅迫に対し、ムキウスは叫んだ。

「そんな脅しは無意味だ。栄光を求めるローマの若者が自分の肉体をいかに軽く見ているか、教えてやる」。

そう言いながら、彼は祭壇の火の中に右手を入れた。彼はまるで感覚がないかのように、自分の片手を焼き続けた。クルシウムの王は異常な行動を見て、肝をつぶし、ムキウスを祭壇から遠ざけるよう命令した。それから王は言った。

「お前は釈放だ。お前の最大の敵は私ではなく、お前自身だ。お前の勇気ある行動が祖国のためなら、私は祝福しよう。私は戦争における権利を放棄し、お前に危害を加えず、釈放しよう」。

ムキウスはクルシウムの王の寛大な処置に感謝して、和解した。

「あなたは人間の勇気をお認めになったので、脅迫によって手に入れることのできない物を、優しさによって得るでしょう。ロ―マの最も勇敢な若者100人があなたの命を狙うつもりでした。たまたま私が一番手になりました。目的を果たすまで、残りの者が順番に実行するはずでした」。

             【13章】

ムキウスはローマに帰った。以後彼は「右手無し」と呼ばれた。間もなく、クルシウムの王ポルセナの使者がローマに来た。ポルセナの大臣がポルセナと同じ服を着ていなかったら、ポルセナは死んでいた。同じような暗殺の試みが絶えず繰り返されると考えると、ポルセナは精神が狂いそうだった。それで彼はローマに和平を求めた。ポルセナがローマと戦争を始めたのは、タルクィヌス家の人々の要求に押しきられたからであり、内心ではタルクィヌスの復位は難しいと考えていた。ポルセナはこの要求を取り下げた。クルシウム軍のヤニクルムの丘からの撤退の条件として、彼はタルクィヌスの土地の返還と捕虜の解放を求めた。ローマはこれらの要求を予期していたので、了承した。ローマの郊外に住む農民がクルシウム軍によって連れ去られていたが、ローマは彼らの釈放を要求しなかった。クルシウム軍はヤニクルムの丘から撤退し、ローマ領を出た。

元老院はムキウスに感謝し、テベレ川の対岸に土地を与えた。この土地はムキウスの野原と呼ばれた。

ムキウスの勇気に習い、女性も勇敢に行動した。クルシウム軍はまだローマの近くにいた。クルシウム軍の捕虜となっていたローマ人の中に、コエリアという若い女がいた。彼女は妹たちと共に、守衛の隙をついて逃げ出し、テベレ川に飛びこんだ。槍が雨のように降ったが、彼女たちは無事対岸に渡り、家族のもとに帰った。この事件を知ったクルシウムの王は激怒し、コエリアの返還をローマに求めた。妹たちについては、王はどうでもよかった。時間がたつと、クルシウムの王はコエリアの勇気を称賛するようになり、「「彼女はホラチウス・コクレス(ローマの橋を守った人物。10章参照)やムキウス以上だ」と言った。王は「ローマが彼女引き渡さないなら、ローマと再び戦争だ」と宣言したものの、彼女をローマに返すつもりだった。両国は互いに信義を示した。ローマは平和条約を守り、コエリアをクルシウム軍に引き渡した。コエリアが連れてこられると、クルシウムの王は彼女に言った。

「私は人間の勇気を尊ぶ人間だ。君にプレゼントをあげよう。ローマ人捕虜の半数を釈放しよう。誰を釈放するか、あなたが選びなさい」。

捕虜が全員連れて来られると、コエリアは幼い男の子たちを選んだ。この選択は女性の愛情を示すものであった。子供は危険な運命を待っているので、釈放が優先されるべきだった。彼女の選択は捕虜たちからも支持された。

こうしてクルシウムとの戦争は終わった。前例のない勇気を示した女性に対し、ローマ国民は前例のない栄誉を与えた。ローマの中心部からカピトリーヌの丘に至る「聖なる道」の最も高い場所に、コエリアの騎馬像がたてられた。馬に乗った女性の像は彼女の勇敢さを表していた。

 

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